第二十五話 「異国の歌姫」(前編)
コーヒーにプロテインを溶かしながら、タケシは向かいに座ったユウトの様子を伺う。
朝食を取っているユウトは、どことなくソワソワしているように感じられた。
他人の感情の機微には極めて鈍感なタケシだが、それでも今日のユウトはどこか様子がおかしいと感じ取れた。
「ユウト、何かあったのか?」
コーヒーに角砂糖を十数個放り込み、延々とかき混ぜているユウトに、タケシは尋ねる。
「…え?何が?」
「普段と様子が違う」
「あ〜…、うん…。えぇと…」
ユウトは口ごもると、テーブルに置かれた朝刊へ、ちらりと視線を向けた。
タケシは手を伸ばし新聞を手に取る。一面には、世界的な人気を誇る米国の人気歌手が来日すると、大々的な記事が載って
いた。写真の中で、プラチナブロンドの髪を背まで伸ばした美人が、にこやかに手を振っている。
「世界的スター、シェリル・ウォーカー来日、国内でのコンサートは初…」
名前を見たタケシは、時折ユウトが口ずさむ曲を歌っている歌手である事に気付く。
「お前が入浴しながら歌っている曲の歌手か」
「え?聞こえてたの!?」
「かなりの大音量だからな」
ユウトは恥ずかしげに頬を掻き、タケシは記事を読み進む。
「今月には東護町のコンサートホールにも来るのか」
「うん…。その…、それでね、できればなんだけど…」
ユウトはもじもじしながらコーヒーを無意味にかき回す。
「コンサートは平日で、混雑もすると思うから…、その…」
ごもごもと口ごもるユウトに、タケシは頷いた。
「分かった。事務所は休業にしておこう」
「いいの!?」
顔を輝かせたユウトに、タケシは何でもないように付け加えた。
「開けていても、どうせ客は来ない」
「来ないのは良い事じゃないけどね…」
ユウトは眉を寄せ、困ったように言った。
「でね、シェリルさんはなんと8ヶ国語も話せるんだ!少しでもたくさんの人に自分の歌を聴いて欲しいって、作曲の合間を
縫って勉強したんだって!会話はできなくとも、自分の歌だったら40ヶ国語以上で歌えるんだよ?すごいよねぇ!」
夕食を終えたリビングで、ユウトはシェリル・ウォーカーの特集を組んだ雑誌を広げ、タケシを前に熱弁を振るっていた。
「シェリルさんの人気は、ただ歌がステキだって事だけじゃないんだよ。スタイルも良いし。美人だし。でも人気の秘訣は、
飾ったところのない気さくな人柄かな?」
ニコニコと笑顔で話すユウトに、黙って相づちを打っていたタケシは、ポツリと言った。
「チケット…、残念だったな」
ユウトの顔から一瞬で笑みが消える。そして今にも泣き出しそうな顔で俯いた。
徹夜で販売窓口に並んでいたにもかかわらず、東護町コンサートホールの公演チケットは、販売開始から一時間と経たずに
完売し、ユウトの直前までしか行き渡らなかったのだ。
「そう落ち込むな。次がある」
「いつ?」
あまりの落ち込みように慰めようとしたタケシも、そう問われると答えが出ない。
「ごめん…、そんなこと言ったって仕方ないよね…」
ユウトはため息をつくと、自分の頬を挟み込むように、両手でぴしゃっと叩いた。
「残念だけど仕方ない。きっぱり諦めよう!」
そう言って笑みを浮かべる。が、明らかに空元気だと判るその笑顔が逆に痛々しい。そしてユウトは気持ちを切り替えよう
とテレビを付けた。
直後、スピーカーから美しい歌声が流れ出た。テレビに大映しになったプラチナブロンドの美女が、なめらかで繊細な曲調
のバラードを歌い上げていた。
しばし画面を見つめた青年が視線を横に向けると、ユウトは机につっぷしていた。泣きそうな顔で画面を眺めながら、曲に
合わせ、小声で切なそうにバラードを口ずさんでいる。
何と声をかけるべきかタケシが迷っていると、チャイムが鳴り、来客を告げた。
「カズキさんか?」
夜に訪れる客など、二人の知り合いの警官ぐらいのものである。タケシは壁に備え付けられたインターフォンのスイッチを押す。
「はい、カルマトライブ調停事務所です」
『営業時間外に失礼いたします。急ですが、仕事のお願いをしたいのですが…』
若い女性の声がスピーカーから流れる。
「判りました。すぐに開けますので、少々お待ち下さい」
タケシはインターフォンのスイッチを切ると、ユウトに告げた。
「仕事の依頼だ。が…、俺一人で対応するか?」
青年は元気の無いユウトにそう言ったが、ユウトは気遣いが嬉しかったのか、微かに笑って応じた。
「いや、ボクも行くよ。仕事は仕事、割り切らないとね」
応接室に灯りをつけると、ユウトがドアを開けて客を迎えた。
淡い黄色のシャツに、ジーンズの上下。夜だというのにサングラスをかけ、帽子を目深に被った若い女の客は、大柄なユウ
トを目にして少し驚いたようだったが、口元に笑みを浮かべ、軽く会釈してドアを潜る。
タケシに勧められてソファーにかけると、女性は一礼して口を開いた。
「時間外に失礼致します。ですが、どうしてもお二人にお願いしたいお仕事でして…」
この言葉に、カップに紅茶を注いでいたユウトは、タケシと顔を見合わせた。ただ調停者だから、というのではなく、自分
達を選んでの依頼を思わせる口ぶりだったからだ。
「昨日まで首都の方に滞在しておりましたが、そこで調停者…ブルーティッシュの方々にお世話になりました。私がこちらへ
向かう事を知ったリーダーのダウド様が、お二人を紹介してくれまして…」
ダウドの名を聞いて納得すると、タケシは口を開く。
「それで、こちらでは我々に護衛を依頼しようと。そういう事ですね?」
頼みたい内容まで言い当てたタケシに、女性は驚いた様子で頷いた。
「そのとおりです。しかし、なぜ護衛などと…お願いしたい内容まで?」
「推察しただけです。首都に居た間も調停者と接触し、移動先であるこちらでも調停者に依頼をする…。おそらくは身辺警護
の依頼だろうと察しはつきました。調停者の性質上、ボディーガードの引き継ぎは、時折ある事なので」
フリーの者を除けば、調停者は基本的に地域密着型である。その方が地区の監査官に顔を覚えて貰いやすく、警視庁からの
依頼も受けやすい。そして何よりも大きな理由は、地の利が得られ、組織や危険生物を相手にするうえで大きなアドバンテー
ジとなる為だ。そのため、調停者がボディーガードを務める場合、依頼人が移動すれば、移動先の調停者に依頼の引き継ぎを
行う事も珍しくはないのだ。
タケシの異名、バジリスクは、何も一撃必殺の能力から付けられただけではない。相手の言動や現場の痕跡、僅かな情報か
ら「答え」を導き出す観察力が、死の眼力を持つ神話上のバジリスクに例えられ、二つ名に冠されているのだ。
「自分の知る限り、この国でトップスリーに入る調停者チームだと、ダウド様はおっしゃっていましたが、本当のようですね。
安心しました」
女性は微笑みながらそう言った。腕は良いが宣伝下手な二人の為に、ダウドが気を利かせて客を回してくれたのだろう。二
人はその心遣いに感謝すると共に、いつもの事だが連絡を入れてこない白虎のずぼらさに呆れる。
「それは買いかぶりです。規模で言うならば、二人だけのチームなど話にもなりません」
淡々と事実を述べるタケシの言葉を、女性は謙遜と受け取ったのか、笑みを浮かべた。
「では、改めて依頼内容を確認させて頂きます」
タケシの言葉に頷くと、女性は二人の顔を交互に見つめ、口を開いた。
「明日の夜、この町での公演が終わるまで、私の身辺警護をお願いしたいのです」
この言葉に、ユウトは「ん?」と首を捻る。女性は何かに気付いたようにサングラスを外し、帽子を取った。帽子の中に纏
められていた、長いプラチナブロンドの髪が背中に落ち、サングラスの下から蒼い瞳が現れる。
依頼人の顔を見たユウトが口をポカンと開け、タケシまでが目を丸くして瞬きを繰り返した。先ほど、雑誌やテレビで見た
ばかりの顔が、二人の前にあった。
「申し遅れました。私、明日の夜にこの町のホールでコンサートをさせて頂く予定の、シェリル・ウォーカーと申します」
名乗って会釈した後、世界的スター、シェリル・ウォーカーは、ピクリとも動かなくなった二人を、戸惑ったように見つめた。
ユウトはゆっくりと右手を上げ、自分の頬をギリっとつねり、痛みに顔を顰めた。
「ほ…本物だ…!タケシ!本物のシェリルさんが目の前に居る!生シェリルさんだ!」
「な、生…?」
驚愕の声を上げるユウトに、シェリルは困惑気味に首を傾げた。
タケシが納得したように頷きながら呟く。
「今回は、ダウドが連絡を寄越さなかった訳が解った。お前を驚かせようと思ったのだろう」
訳が分からず、二人の顔を交互に見つめるシェリルに、ユウトはガチガチになりながら、ぎこちなくお辞儀した。
「あ、あの!ボク、シェリルしゃんのファンでふっ!学生だった頃から、いつもシェリルさんの歌を聴かひぇて貰ってまひたっ!」
「落ち着けユウト、噛んでるぞ」
「まあ!光栄です。この国のハンター…、あ、この国では調停者でしたね、調停者の方々の中にも、私のファンの方が居るなんて」
微笑んで言ったシェリルに、ユウトは感激したように、顎の所で両拳を震わせている。その隣で、至って冷静なタケシが仕
事の内容を確認し始めた。
「他でもない、ブルーティッシュのダウド・グラハルトからの紹介です。断る理由は有りませんが、引き受ける前に一つ確認
させて頂きます」
表情を引き締めて頷いたシェリルに、タケシは尋ねる。
「調停者に依頼をする以上、ただの護衛ではありませんね?相手は、どこの組織です?」
シェリルは首を横に振る。
「分かりません。しかし、この国の組織だと思われます。入国して以来、公演を取りやめるように電話や手紙などでメッセー
ジが送られ始め、それを無視していたら、カミソリや脅迫文の入った手紙が届くようになりました」
「うわ…、陰湿…」
「それだけならば良かったのですが、その後、不審な人物がホテルに侵入したり、コンサート会場で目撃されたりし始め、や
がて、爆弾や毒物の入った箱が、プレゼントに混じるようになりました。警察の方々が調査したところ、爆弾に使われていた
部品が一般には出回っていない、禁制の品らしく、調停者に話を通してくれました。それから…、ブルーティッシュの方々が
護衛について下さってからは、不審人物も見られなくなりましたが…」
話を聞いたタケシは、腕組みをし、しばらく何か考え込んだ後、シェリルに頷いた。
「分かりました。最善を尽くします」
「ありがとうございます…!」
シェリルは深々と頭を下げ、タケシは相棒に視線を向ける。
「ユウト、今夜から付きっきりで彼女のボディーガードだ。片時も離れるな」
「え?ボクが?」
意外そうに聞き返したユウトに、タケシが頷いた。
「お前は遠くからでも良く目立つ。護衛しているというアピールにはうってつけだ」
タケシはそう言うと、思い出したように付け加えた。
「それと、彼女が日本での公演で歌う曲のCDを借りたい。少し気になる事がある」
事務所の前では、黒服の男達がシェリルを待っていた。
彼女が黒い高級車に乗り込むと、ユウトはタケシを振り返る。
「気になる事って…、シェリルさんの歌で?」
「まだ確信は持てないが、調べがつき次第合流する。悪いがそれまで一人で頼む」
ユウトは「了解」と頷き返すと、車の後部座席、シェリルの隣に乗り込んだ。
走り去る車を見送ると、タケシは事務所内へ引き返し、公演されている曲目のメモを確認しながら、用意したCDを聴き始め
た。
高級ホテルまで同行したユウトには、シェリルの隣の部屋を用意された。
あきらかにボディーガードだと思っていた黒服の片方は、実はシェリルのマネージャーだった。いかつい外見に似合わず、
非常に礼儀正しい男は細やかな気配りを見せ、ユウトは豪勢なルームサービスの夕食に預かる事ができた。夕食はすでに済ま
せていたのだが、勿論その事は伏せておく。
食事を終えると、ユウトは自室を出て、シェリルの部屋の前、ドアの横の壁際に立ち、壁に背を預けて腕を組む。立派な体
格と熊の顔は、黙ってさえいれば威厳十分。ドアの横に控えるその姿は、仁王像もかくやという迫力があった。
部屋の中に憧れのシェリル・ウォーカーが居る。そう思うと自然に綻びそうになる口元を引き締め、ユウトは呟く。
「世界的財産にも匹敵する人を護衛してるんだから、気を引き締めないとね」
「あら、光栄ですけど、私にそこまでの価値はないわよ?」
ふと横を見ると、ドアを細く開け、シェリルが微笑みながら顔を覗かせていた。
「よければ、少しお話ししない?緊張しているのか、なかなか寝付けなくて…」
ユウトはしばし黙考した後、首を縦に振った。部屋の外よりは中の方がもちろん護衛しやすい。それに、シェリルと話をし
てみたいというのもあった。
室内に通されたユウトは、シェリルと向かい合って座りながら、淹れてもらった紅茶を口に含む。おそらく高級なものなの
だろう。良い香りがユウトの鼻孔を満たし、鋭い嗅覚をくすぐった。普段のように蜂蜜をドバドバ混ぜ込み、甘くしたいのは
やまやまだったが、今日は香りを楽しむことにする。
「そうだわ、フランスへ公演に行った時に買った、ファッション雑誌があるの」
「あ、見てみたいです!」
「ちょっと待っていてね。すぐ持ってくるわ」
(世界的アイドルでも、緊張とかするんだなぁ…)
ユウトはそんな事を考え、少しだけシェリルを身近に感じながら紅茶を啜った。
その頃、応接室のソファーにかけ、倍速再生でシェリルの曲を聴いていたタケシは、何か違和感のような物を感じていた。
しかし、その違和感の正体が分からない。記憶の片隅で何かが引っかかっているのだが…。
チリン、と、微かな音を耳にし、タケシはCDを止めて立ち上がる。事務所のドアの所で、カリカリッと、何かを引っ掻くよ
うな音が聞こえた。
ドアを開けると、美しい真っ白な猫が、チョコンと座っていた。
珍しい夜の来訪者の二人目は、複雑な事情により、人としての記憶と意識を白猫の身体に宿す女性、黒伏真由美だった。
「マユミさんか。あいにくユウトは留守だが、上がっていくか?」
白猫は、ニャーンと返事をすると、ドアの内側にスルリと入り込む。そしてソファーの上に飛び乗ると、机の上に積まれた
CDケースの山を見て、何か問いたそうにタケシの顔を見上げた。
「シェリル・ウォーカーという米国の歌手の護衛を引き受ける事になった。どこかの組織に狙われているらしいが、その理由
が見当もつかない。公演を妨害する事が目的である節が窺える事から、彼女の曲に何かがあるのかと思ったが、今のところ手
がかりは掴めない」
マユミは理解を示して頷くと、CDプレイヤーの再生ボタンを押した。CDは通常速で再生され、再び応接室をシェリルの美し
い歌声が満たす。
一人と一匹は、しばらく無言でシェリルの曲に耳を傾ける。
「どこかで、彼女の歌と似た印象の何かを聴いた覚えがあるのだが…」
マユミは耳をピクピクさせながら、ボタンを押して一曲戻し、再び同じ曲を繰り返した。
「この曲が何か?」
タケシの問いに反応せず、マユミはじっとその曲を聴いている。アーモンド型の目がスピーカーをじっと見つめ、集中して
いるのか、しなやかな尻尾が天井に向かってピンと伸びている。タケシもまた曲に耳を澄ませる。シェリルの曲全てに感じて
いた、漠然とした違和感が、一層強くなった。
曲が終わると、マユミはタケシの顔を見上げる。「気付いた?」とでも言いたそうなその視線に、タケシは首をかしげる。
「違和感は強くなった。だが…」
マユミはタケシの顔を見上げたまま、首輪に前脚を掛けて、カリカリと引っ掻いた。
「首輪を取れ、と?」
タケシの問いに、マユミはしかし首を横に振る。タケシは少し考え、これはマユミのヒントだと気付く。
「首輪を取る…、首輪を外す…、首輪を…?」
タケシははっとしてマユミの顔を見つめた。
「首輪を外す。拘束する物を外す?」
この言葉にマユミは頷く。
訝しげに眉を潜めたタケシは、首輪についた鈴を見つめる。思えば、この首輪に隠されていた秘密が元で、マユミと知り合っ
たのだった。そして彼女の祖父の組織の残党と戦いになり、カマキリの怪物と…。
そこまで思い出した時、タケシの頭の中で、断片だった情報が繋がった。
「まさか…?」
タケシは以前相楽堂で聴いた、ある音を思い出しながら、今聴いた曲を再生する。その顔に、やがて確信の色が浮かんだ。
「そうか…、そういう事だったんだな?マユミさん」
白猫はタケシの顔を見上げて、一声鳴いた。
「済まない。助かった」
タケシはマユミにそう告げ、携帯電話を取り出すと、先日までシェリルの護衛をしていたブルーティッシュの、ダウド・グ
ラハルトの電話番号を呼び出す。自分の得た「答え」があっているか確かめるためだ。
呼び出しながらCDを取り出し、そのレーベル面を見つめてタケシは呟く。
「なんとも、皮肉なタイトルだな」
CDに印字された曲名は、フリーダムとあった。
「あ、これちょっと可愛いかも」
「え〜?ちょっと派手じゃないかしら?」
ユウトとシェリルはファッション雑誌を見ながら、楽しい一時を過ごしていた。
すでにお互い、敬語は使っていない。すっかりうち解け、数年来の友人同士のような気楽な口調になっている。
ユウトは笑いながら時計に目を遣る。時刻は午前0時を少し回った所だった。
そろそろ休んだ方が良い。そう言おうとして口を開きかけたユウトは、窓へと素早く首を巡らせた。どうかしたのか?と問
いかけようとしたシェリルは、突然立ち上がったユウトに腕を掴まれる。
シェリルの体を引き寄せつつ、ユウトは机を蹴り上げた。丈夫な造りのどっしりした机が、上にのせられた紅茶のカップや
雑誌を振り落としながら窓へと飛んだ。同時に、強化ガラスを突き破って、異形の影が侵入する。
重い机が、異形の影に命中した。しかし、侵入者は衝突した机を物ともせずに腕の一振りで破砕し、ユウトとシェリルに向
かって歩を進める。
どっしりした身体は黒光りする外骨格に覆われ、頭部からは一本の角が伸びる。太い腕が四本、それぞれ指先は鋭いフック
のようなかぎ爪になっている。それは甲冑を着込んだ大柄な人間のようにも見えた。カブト虫をベースに作られた巨躯はユウ
トと同等のボリュームで、角や、背の外羽根の分だけさらに大きく見える。反り返りながら上へと伸びた角の先端は、大きく
膨れて刃物のように尖り、まるで大振りな斧のようになっている。
「アックスヘッド!?第一種最上位指定の危険生物が町中に!?」
侵入者の姿を確認したユウトの声に、緊張の響きが混じった。
ユウトは右腕でシェリルを捕まえたまま後ろへと跳躍する。その後を追い、インセクトフォーム、アックスヘッドが、巨躯
にもかかわらず素早い動きで間合いを詰める。
シェリルを庇い片腕を塞がれたまま、振るわれた右腕を左腕で捌き、後を追うように振るわれた二本目の右腕を首を振って
避け、ユウトは甲冑のようなアックスヘッドの胸甲に前蹴りを叩き込む。相手がたたらを踏んで壁際まで後退した隙に、金熊
は寝室のドアを開け、シェリルを引っ張り込んだ。
「い、今のは…!?」
「インセクトフォームだね。それも、生産に恐ろしく手間がかかる最上位タイプ。敵さん、今回はどうやら本気みたい」
答えながらも、ユウトはキングサイズのベッドを軽々と担ぎ上げ、ドアのつかえにする。さらにクローゼットをつっかえに
追加すると、ユウトは窓の傍に駆け寄り、外を確認した。
(正直、一対一でも手強い相手だ。シェリルさんを護って戦うのは厳しい…)
ユウトはシェリルの安全確保を最優先で行動方針を固めると、彼女に手招きした。同時に寝室のドアが激しい音をたて、ベッ
ドとクローゼットがガタガタと揺れる。シェリルがビクリと身を竦ませ、ドアを見遣った。
「脱出するよ。こっちに来て」
シェリルを手招きすると、ユウトは寝室の窓に手をかけ、強化ガラスを窓枠ごと引っぺがした。地上47階の冷たい夜気が
室内に舞い込み、カーテンを激しくはためかせる。
ユウトの傍に歩み寄ったシェリルは、小さく「ひっ」と声を漏らした。寝室の外にはベランダや足場もなく、ノッペリとし
たホテルの外壁が地上まで続いている。
「目を瞑って、しっかり掴まっててね」
ユウトはそう言うと、シェリルの腰に腕をまわし、しっかりと抱き締めた。
「え?一体…」
何をするつもりなのか?そう尋ねようとした時、寝室のドアが破られた。
現れた黒い巨体を目にしたシェリルが息を呑むのと、ユウトが動いたのは同時だった。
金色の巨躯が、細身の女性を抱えて宙へと身を躍らせた。
アックスヘッドを見つめるシェリルの目の前で、窓枠がせり上がり、その巨躯を覆い隠す。音の消えた世界で、はためくカ
ーテンも、ユウトの金色の体毛が風にたなびくのも、全てがスローモーションで見えた。自分の頭が窓枠よりも完全に下にな
り、視界をホテルの壁面が覆った時、世界に音が戻った。
耳元で風がうなり、衣服が強風に煽られ、激しく暴れる。口元から漏れる悲鳴すら頭上に置き去られ、二人は落下していく。
悲鳴を上げるシェリルをしっかりと抱えたまま、ユウトは左腕を大きく後ろに引いた。その腕が淡い光を帯び、力場でコー
ティングされる。
金熊の手が、勢い良くビルの壁面に打ち込まれた。
ユウトの指が壁面に食い込み、落下速度が落ちる。エネルギーの力場と壁面の摩擦で火花を散らし、20メートルほどの長
さに渡り、壁に五本の溝を残して停止すると、ユウトは壁面に食い込ませた左手を支点に体を横にスイングさせ、その勢いで
手近な窓を蹴破り、室内に侵入した。
ベッドの上で、この部屋の客であろう老夫婦が身を起こし、目を丸くして突然の闖入者を眺めていた。
「お邪魔します」
ユウトはペコリとお辞儀すると、シェリルを下ろし、破った窓から上を見上げ、それからシェリルの手を取り、出口のドア
へと向かう。
「お邪魔しました」
ユウトは再びペコリとお辞儀し、つられてシェリルもお辞儀する。
ドアが静かに閉められると、老人が口を開いた。
「ばあさんや…」
「はい、なんでしょう?」
「最近のホテルは、室内をクマが通って行くんじゃのお…」
「ええ、ビックリしましたねえ…」
二人が出て行ったドアを見つめていた老夫婦の耳に、ブーン…、という羽音が届いた。破れた窓から聞こえてくる音はだん
だん大きくなり、やがて、窓の外に黒い大きな影が現れた。
影は窓枠を掴み、部屋に侵入する。老夫婦を一瞥し、口元の触覚をヒクヒクと動かすと、アックスヘッドは部屋を横切り、
ユウト達が出て行ったドアから部屋を出て行く。
アックスヘッドがきちんとドアを閉め、部屋を出て行くと、老人が再び口を開いた。
「ばあさんや…」
「はい、なんでしょう?」
「最近のホテルは、室内を鎧武者が通って行くんじゃのお…」
「ええ、仰天しましたねえ…」
老夫婦は珍客を送り出したドアを、それからしばらく見つめていた。
廊下を走りながら、ユウトは後ろを振り向いた。20メートル程の直線の向こうで、角を曲がったアックスヘッドが姿を現す。
「こんな所で暴れたら、他のお客さんの迷惑になる。逃げるしか無いか…」
ユウトは歯がみして呟き、そして「しまった」というように目を見開き、廊下の前後を見遣った。直線の廊下に人影は無く、
前方の階段まではかなりの距離がある。
不利を悟って振り向いたユウトの視線の先で、アックスヘッドが立ち止まった。
薄い膜のような、半透明の美しい羽を開くと、アックスヘッドは宙へと浮き上がる。一瞬ホバリングした後、その巨躯が弾
丸のような勢いで飛翔した。
ユウトは立ち止まって向きを変え、シェリルを壁際へと突き飛ばした。そして衝撃に備えるように腰を落とし、両腕に燐光
を灯す。
壁にもたれ掛かるようにして尻餅をついたシェリルの目の前で、黒い巨躯と、金色の巨躯が、真っ向から衝突した。
アックスヘッドの角を両手で掴み、踏ん張ったユウトの足が床の上を滑る。ビブラム張りの靴底が滑らかな石の床と擦れ、
けたたましい悲鳴と焦げ臭い煙を上げる。
10メートルほども押し下げられつつ、ユウトは角を捕らえたまま、突っかかるアックスヘッドの腹を下から蹴り上げた。
角を支点にしての巴投げで、アックスヘッドの巨躯が天井に激突しつつ、廊下の前方へと投げ出される。角が硬い床に深々と
突き刺さり、アックスヘッドは足止めを食らう。
「今だ!逃げるよ!」
ユウトは即座に立ち上がると、へたりこんでいたシェリルを助け起こし、今来たばかりの方向へと駆け戻り始めた。
「このままじゃジリ貧だ…。タケシ…早く来てよ…?」
蒼い瞳に微かな不安を湛え、ユウトは呟いた。