第二十六話 「異国の歌姫」(後編)

ホテルの中に騒ぎが広がり始めた頃、ユウトはシェリルを連れて屋上に身を潜め、呼吸を整えていた。

逃亡劇を繰り広げている間に一般人を巻き込むことは無かったが、それはユウトが逃げの一手に集中しているからである。

反撃、交戦しようと考えた場合、アックスヘッドの戦闘能力を鑑みれば、周囲への被害を覚悟しなければならなくなる。

「参ったなぁ…、あいつ無差別に攻撃するような事は無いみたいだけど、下手な所で戦えば周りも巻き込んじゃうし…、タケ

シなら上手く対処できるのになぁ…」

ユウトがため息をついたその時、ベルトに止めていた携帯が振動した。素早く携帯を取り上げたユウトの耳に、待ちかねた

相手の声が届く。

『ユウト、無事か?』

「タケシ!良かったぁ…。今どこに居るの?」

安堵の表情を浮かべて尋ねたユウトに、電波に乗った青年の声が応じる。

『ホテルの前だ。凄い騒ぎになっているが、何があった?』

「ああ、アックスヘッドが出てね…」

『…第一種の上位か…、敵も本気だな』

「しかも手が加えられてる。さっき軽く接触したけど、元々打撃に強い上に、どういう訳か甲殻がエネルギーを弾いてた。装

甲を打ち抜こうにも、たぶん熊撃衝もエネルギーを逃がされる。はっきり言って苦手なタイプ…」

『…俺よりもお前よりも、シェリルさんが最も相性がいいな』

タケシの言葉に、ユウトは目をパチクリさせた。

「え?それ、どういう事?」

『調べたかったのはその事だ。彼女は…』

タケシが最後まで言い終えぬ内に、激しい激突音が響き、屋上のドアが大きくたわんだ。弾かれたように振り返ったユウト

とシェリルの視線の先で、二度目の衝撃音とともに、ドアが弾け飛んだ。

「タケシ…、お客さんが来ちゃった。一度切るね」

『待てユウト。相手がインセクトフォームならば、歌が使える』

「歌?」

通話に一瞬気を取られた隙に、ユウトはアックスヘッドに間合いへと踏み込まれていた。素早く持ちあげた両腕で、左右か

ら挟み込むように振るわれた四本の腕を受け止める。その手から衝撃で携帯が弾かれ、シェリルの足下まで床を滑っていく。

「離れててシェリルさん!」

警告を発しつつ、ユウトは舌打ちした。

鋭い爪を防ぐために腕をコーティングしたエネルギー。そのエネルギーが、爪との接触部でパチパチと音を立て、光の粒子

となって昇華してゆく。

(これって…、中和されてる…?こんな能力…、いや、こんな性質を持った生物も、レリックも、聞いた事無い…。こいつ、

新しく開発された新種…!?)

長く受け止めている事はできない。腕を勢い良く左右に開いて四本の腕を弾くと、ユウトはアックスヘッドの胸甲へと、力

場で覆った両の掌を叩き込む。

本来はコンクリート壁すら破砕する双掌、しかし手を覆う力場は胸甲に接触した時点で大半が昇華し、本来の威力を発揮し

ない。体勢を崩しはしたものの、アックスヘッドは足を踏ん張って持ちこたえると、大きく羽を広げた。

「まずいっ!伏せて!」

ユウトは屋上の手すりまで下がっていたシェリルに叫ぶと、顔の前で腕を交差させ、歯を食い縛った。

アックスヘッドの広げられた羽が、細かく振動していた。羽が振動する音が甲高いノイズとなり、シェリルはたまらず耳を

押さえ、目を瞑った。次の瞬間、アックスヘッドの足下から正面に向かって、床に亀裂が走った。

亀裂は進路上に居たユウトの足下を駆け抜ける。その際に金色の体毛が、強風を浴びたように揺さぶられ、夜気にパッと散った。

ノイズが収まり、シェリルは目を開ける。

交差していた腕を下げ、アックスヘッドと対峙しているユウトの顔で、赤い飛沫が散った。

鼻孔から血をしぶかせたユウトは、ぐらりと体を揺らし、床に膝を突く。歯を食いしばり、アックスヘッドを見上げるその

目からも、涙のように血が流れ出ていた。

ユウトは跪いたまま、口元を押さえて激しく咳き込む。口と手の間から鮮血が零れ落ち、床に血溜まりを作った。むせ返る

たびに裂けた皮膚から血液が染み出し、金色の体毛を内側から染めてゆく。

アックスヘッドの振動波による攻撃は、進路上に存在する対象を貫通し、内部に至るまでを破壊し尽くす。下手に避けてシェ

リルを巻き込む事を恐れたユウトは、まともに振動波を浴び、体中のいたるところで血管や神経を破壊されていた。鼓膜、内

耳、三半規管に至るまで徹底的に痛めつけられ、平衡感覚が狂ったユウトは、全身に痺れが残り、立つことすら難しい。

もはや脅威にならないと判断したのか、アックスヘッドはゆっくりとシェリルに向き直った。身を竦ませるシェリルの前に、

しかし満身創痍のユウトが立ちはだかる。

「時間を稼ぐから、ドアから中へ…!」

肩で息をしながらも、ユウトは一歩も退かぬ姿勢でアックスヘッドを睨む。

(ダメージが大きいな…。狂熊覚醒を使えば切り抜けられるだろうけど…)

心の中で呟くと、ユウトは小さく舌打ちした。

(…ダメだっ!ここで使ったらシェリルさんを巻き込んでしまう…!)

全身の神経を研ぎ澄ませ、頭をフル回転させて打開策を練るユウト。その時、逃げろと警告されたシェリルは自分の手の中

にある携帯に視線を落とした。先程足下に転がったので拾い上げた、ユウトの携帯である。その携帯から声が聞こえていた。

突然聞こえ始めた訳ではない。ずっと聞こえていたのだが、目の前で起こっている出来事に注意を奪われ、耳に入っていなか

ったのだ。携帯から漏れる声は、あの青年のものだった。シェリルは藁にもすがる想いで携帯を耳に当てた。

「不破さん!?助けてください!神代さんが…、神代さんが大怪我を…!」

シェリルは電話に向かい、慌てた口調で早口に言う。電話の向こうから、階段を駆け上っているのか、風の音と、反響する

足音が聞こえていた。

『シェリルさんか?』

電話の向こうで、タケシは一度黙り込み、僅かな沈黙の後に口を開いた。

『…今から言う話を、しっかり聞いてくれ』

一方、アックスヘッドと対峙したユウトは、背後で行われているやり取りに気付かぬまま、ゆっくりと間合いを詰めていた。

(一撃、残った力を振り絞っても一撃入れるのがせいぜい。たぶんそれ以上は動けない。どうにか一撃で現状を打開する。そ

の為に狙うのは…、複眼だ)

全身の痛みを無視し、ユウトはじりじりと間合いを狭めながら、静かに相手の隙を伺う。

アックスヘッドもまた、深手を負ったユウトを侮る事無く、慎重に間合いを詰める。

あと僅かに踏み出せば、互いの間合いに入る。両者の緊張が極限まで高まった瞬間。

伸びやかな、そして美しい歌声が、ビルの屋上に流れ出した。

夜の静謐な空気に溶け込みながら、その声は濃紺の夜空へと昇ってゆく。

唐突に聞こえ始めた歌声に、ユウトが、アックスヘッドが、動きを止めて声の出所へと視線を動かす。

シェリルが歌っていた。

プラチナブロンドの髪を風になぶらせたまま、何かを抱き止めようとするように両手を大きく広げ、内なる声に耳を傾ける

ように目を閉じ、歌っていた。

「シェリル…さん…」

自分の置かれている状況すらも忘れ、ユウトはその美しい姿に見入り、美しい声に聞き惚れた。不思議なことに、鼓膜にダ

メージを負い、耳鳴りが治まっていないにも関わらず、その歌声ははっきりと聞き取れた。

アックスヘッドも同じように動きを止め、歌に耳を傾けているように立ちつくしていた。やがて、その全身から緊張が抜け、

腕がゆらりと揺れて体の両脇に下がる。複眼から赤い光が消え、黒々とした色に変わる。

「これは…?」

戦意を喪失したアックスヘッドの様子に気づき、ユウトは困惑したように呟く。

「コマンドキャンセラーだ」

唐突に聞こえた声に、ユウトが視線を巡らせると、屋上の入り口に、白猫を従えた青年が立っていた。タケシは立ちつくす

アックスヘッドの脇を通り抜け、ユウトの傍に立った。マユミは面白い物でも見るように、アックスヘッドの顔を見上げていた。

「遅くなって済まない。大丈夫かユウト?こっぴどくやられたな…」

タケシは労るようにユウトに声をかける。

「これくらい、どうって事無いよ」

笑みを浮かべて応じながらも、タケシが来てくれた事で安心したのか、ユウトはその場に再び膝を着いた。

「狂熊覚醒を使わず、よく我慢した」

青年はユウトの顔に手を伸ばし、血を拭いながらその頬を優しく撫でた。

「それで、どうなってるの?これ…」

大人しくなったアックスヘッドを見遣り、ユウトは尋ねる。

「仕組みそのものについては推測に過ぎないが…、知ってのとおり、インセクトフォームはマスターからコマンドを受ける事

で、忠実にその指令を実行する。一度入力されたそのコマンドは、指令を達成するか、マスターからキャンセル命令を出され

る事で解除される。が、例外的にある一定のパターンの旋律を聴かせる事によって、コマンドがリセットされる事もある。そ

れを技術的に応用したのが、警視庁が研究中の対インセクトフォーム用指令消去装置だ」

「前に相楽堂で見せてもらったあれだね?」

タケシは頷くと、歌い続けるシェリルに視線を向けた。歌に集中しているのだろう。目を閉じ、一心に歌う彼女は、タケシ

が現れた事にも気付いていないようだった。

「彼女は未完成のあの装置と同じ事を、自分の声で行う事ができる」

「どういう事?それって、シェリルさんも能力者だったって事?」

ユウトの問いに、タケシは首を横に振った。

「恐らく違う。彼女が作曲した曲の多くに、いくつかの、同じようなメロディーが組み込まれている。その音階が彼女自身の

声で歌われる時、偶然にもコマンドキャンセラーと同じ効果を生み出す条件が揃ったらしい。その中で最も効果が高いと思え

たのがこの歌、フリーダムだ」

ユウトはシェリルに視線を向け、呟いた。

「フリーダム…。自由、か…」

「この国の多くの組織は、インセクトフォームを主力としている。オーナーとなっている組織の中には、彼女の歌の効果に気

付いた者が居たのだろう。彼女の公演を危険視するのも無理は無い」

「でも、どうして気付いたの?君はこれまでシェリルさんの曲どころか、音楽自体殆ど聴いてなかったのに…」

「お前が歌っているのを聴いていたからな。相楽堂で装置の音を聴いてから引っかかるものを感じ、CDを分析してやっと気付

いた。そしてダウドにも確認したところで確信を得られた。彼女のコンサートが行われた周辺で、呆然と佇むインセクトフォ

ームが何度か捕獲されたらしい。恐らく、襲撃しようとして、歌にやられたのだろうな」

マユミの事はユウトにも普通の白猫という事にしているので、彼女からヒントを与えられたなどと説明するわけにはさすが

にいかない。なので青年はその辺りの事を省略して説明した。

話を終え、全員が無言で耳を傾ける中、シェリルは静かに歌い終えた。

ゆっくりと目を開けたシェリルは、一瞬、自分が何処にいるのかを忘れていたかのように、何度か瞬きした。

「見事でした。さすがは米国が世界に誇る歌姫、シェリル・ウォーカーですね」

タケシが心からの賞賛を延べ、微笑した。

「あ、え?ええと…」

シェリルはじっと佇むアックスヘッドと、床に膝を着いて笑みを浮かべているユウトと、いつの間にか現れていたタケシと

白猫へと順に視線を向け、訳が分からないといった様子で目をしばたいた。

「このインセクトは貴女を襲撃する命令をリセットされました。もう危険はありません」

タケシの言葉に、シェリルは半信半疑でアックスヘッドを見つめる。

「凄いですよシェリルさん!貴女は自分の力で脅威を退けたんだ!」

感動したように声を上げたユウトは、体を走った激痛にうめき声を漏らした。

「だ、大丈夫ですか?」

シェリルはユウトに駆け寄り、その出血の量に気付き、小さく悲鳴を上げた。

「す、すぐお医者さんに!」

立ち上がろうとするユウトに、シェリルとタケシが肩を貸そうとしたその時、じっと佇んでいたアックスヘッドがゆっくり

と三人へ歩み寄った。

シェリルは警戒したように身を竦め、ユウトとタケシは訝しげにアックスヘッドを見つめる。シェリルの歌で指令をリセッ

トされたアックスヘッドは、基本的には自分の身に危険が及ばない限り、マスターの命令を待って待機を続けるはずなのだ。

アックスヘッドは一同の前で立ち止まると、シェリルの顔を見下ろす。まるで、彼女の言葉を待っているかのようなそぶり

に、タケシは軽く眉を上げた。

「シェリルさん。試しに、こいつに何か命令してみてください」

「え?」

「例えば、ユウトを医務室に運べ、とか」

シェリルはおそるおそるアックスヘッドの顔を見上げ、

「え、ええと…。ユウトさんを医務室に運ぶのを、手伝って貰えるかしら?」

シェリルの言葉に、アックスヘッドは複眼を短く明滅させ、頷いた。そしてユウトの前で屈み込むと、その腕を、ユウトの

腰と肩に回して立ち上がらせる。

「嘘…。これ、どうなってるの?」

ユウトは自分に肩を貸すアックスヘッドの顔を横目に、タケシに問う。青年は珍しく、驚きを隠せない様子で目を丸くしていた。

「推測を訂正する。コマンドキャンセラーどころではない。彼女の歌で、こいつのマスター情報まで書き換えが行われたようだ…」

「それって…、まさか…」

「今、このアックスヘッドのマスターは、シェリルさんという事になるな」

ユウトは少しの間、自分に肩を貸すアックスヘッドを見つめ、シェリルに訴えた。

「こいつに「怪我をさせてごめんなさい」って、謝るように言ってくれる?」

それを聴いたシェリルは、アックスヘッドの顔を疑わしげに見上げながら告げた。

「ユウトさんに、怪我をさせたお詫びをして」

アックスヘッドは、言葉に応じるように「ギイッ」と鳴いた。

「よし、許しましょ」

ユウトはそれを謝罪と受け止めたのか、そう言って頷く。

「では、ユウトを医務室まで運んで貰おう。俺は先に行き、ホテル側に事情を説明する」

タケシはそう告げると、一人でドアへと向かった。



屋上から降りてきた青年を、黒服の男が迎えた。

シェリルのマネージャーはタケシの姿を認めると、慌てたように駆け寄った。

「シェリルさんは無事ですか!?」

「はい。かすり傷一つ負ってはいません」

「そうですか、それは良かった…。いやぁ、あのカブト虫みたいなバケモノが現れた時には、どうなることかと思いましたが…、

あなた方が居て本当に助かりました」

黒服の男は安心したのか、笑みを浮かべた。その顔を見つめ、タケシはマネージャーに問いかける。

「一つ、聞いておきたいのですが…」

「はい?」

「いくらでシェリルさんを売った?」

青年は無表情のまま続けたが、その口調は鋭いものに変化している。

「は?一体何の…?」

その喉元に、刀の切っ先が突きつけられた。青年が刀をいつのまに取り出したのか、どこに隠し持っていたのか、マネージ

ャーには全く判らず、顔を青くする。

「インセクトフォームが彼女の歌で無効化される危険性を鑑みれば、いかに主力とはいえ、単独で襲撃をかけさせる愚は冒さ

ない。インセクトを監視しつつ、彼女の行動をも傍で監視できる者が必要だ」

「何か、誤解していらっしゃるようで…」

反論しかけたマネージャーの言葉を遮り、タケシは続ける。

「さらに、護衛に当たったユウトは別として、アックスヘッドはシェリルさん以外を極力傷つけないように行動した」

「それは、騒ぎになるのを恐れたからでは…」

「アックスヘッドは、自分の姿が衆目に触れるのを避けるような行動は取っていなかったようだ。騒ぎを起こさないようにす

るならば、これは矛盾した行動だ」

淡々と述べる青年に、マネージャーは笑いながら応じた。

「…だとしても、何故私が疑われるのです?困りましたね…」

これには取り合わず、タケシは静かに言葉を続けた。

「アックスヘッドは騒ぎを起こさず行動するように指令を下されていたわけでは無い。対象以外を極力傷つけず行動するよう

に指令を下されていたのだ。無差別に攻撃した際には、マスターだけが無傷で残る…。そうなっては不自然だからな」

「ははは!何を証拠に…」

「先ほど、アックスヘッドの事をカブト虫のバケモノと言ったが…、よくあれのベースがカブト虫と判ったな?」

タケシは目を細め、鋭い眼光でマネージャーを睨んだ。

「あれを見た者には普通、まず甲冑を着込んだ巨漢に見えるものだが…」

無言のまま応じないマネージャーに、タケシは付け加える。

「ついでに言うと、この事はブルーティッシュからの引き継ぎ事項に含まれていた。怪しんだ彼らがしかけておいた盗聴器に、

気付いていなかったようだな?」

マネージャーは懐に手を突っ込みながら、後ろへと跳んだ。懐から抜かれたのは、黒光りする拳銃。

「ちっ!二人だけのチームなら、今度こそ上手く行くと思ったのによ!」

「やはりそうだったか」

タケシは頷き、刀を鞘に収めた。

「実は証拠は無かった。盗聴器も嘘だ。こうも簡単にひっかかるとは思わなかったが」

マネージャーは一瞬鼻白んだが、羞恥か、憤怒の為か、その顔を赤く染めた。

「今更命乞いしても遅いぜ?知られたからには生かしちゃおけねえ!」

青年は自分に向けられた銃口を、無感動に見つめたまま口を開いた。

「お前のその腕で、きちんと当てられるのか?」

「馬鹿にしやがって…!その澄ましたツラに風穴開けてやる!」

黒服が声を上げたその瞬間、その足下にゴトリ、と何かが落ちた。視線を落とした男は、一瞬それが何だか分からなかった。

銃が、床に転がっている。それに何かがくっついている。その上に、赤いものがビチャビチャと落ち掛かった。

視線を上げた男は、自分の手首を見てようやく理解した。そして、理解したからには、こうするのが義務だといわんばかり

に絶叫を上げた。

「これは…、一体?」

マネージャーの声が響く中、階段の上にユウトとシェリル、マユミとアックスヘッドが姿を現した。

手首から先を斬り落とされた腕を抱え込み、その場に蹲っているマネージャーを目にし、ユウトとシェリルは、困惑したよ

うな表情を浮かべる。

「彼が犯人でした」

青年は涼しい顔でシェリルに告げた。

「内通者として組織に情報を送り、襲撃を手引きしていたものと思われます」

これを聞いたシェリルは、顔を青くした。

「そ、そんな…。ジェイク、何故…!?」

信頼していたマネージャーの裏切りに、シェリルはさすがにショックを隠せない。その様子を見て、ユウトが気の毒そうに

顔を曇らせる。

マネージャーは痛みに耐え、シェリルの視線を避けるように顔を背けていた。タケシは男が妙な真似をしないように目を光

らせつつ、シェリルに告げる。

「捕縛して警察に引き渡します。今の内に言っておきたい事があれば、どうぞ」

シェリルは呆然としていたが、やがて、自分を心配そうに見つめるユウトの視線に気付く。自分を護って満身創痍になった

その姿を見て、シェリルは胸の奥から沸々と怒りが沸き上がるのを感じた。

「ジェイク・マクドガル」

シェリルは真っ直ぐにマネージャーを見据え、張りのある声で言った。

「貴方はクビです」

キッパリと宣言したシェリルに、元マネージャーはうめき声を洩らしながら項垂れた。



「シェリルさん、休んだ方がいいよ。ボクはもう大丈夫だから」

病院まで付き添ったシェリルに、全身に包帯を巻かれ、シロクマのようになったユウトが恐縮しているように言った。

全身数百箇所に及ぶ裂傷と、いたる所の毛細血管、神経にダメージを負ったユウトは、今回ばかりはさすがに堪えたらしく、

しぶしぶながらも入院治療を承諾し、薬の匂いを我慢して、ベッドの上で大人しくしている。

ベッドの傍らに腰掛けたタケシも、ユウトに同意するように頷く。その足下で白猫も頷いたが、丁度そこが死角になってい

るため、シェリルもユウトもそれには気付いていなかった。

シェリルはしばし迷った後、微笑を浮かべて頷いた。

「そうね。少し休んでおかないと、今夜のステージに響いちゃうものね」

ユウトはにっこりと笑う。自分は行けなかったが、シェリルを待つ他の人々の期待は裏切らずに済んだ。その事が単純に嬉

しく、誇らしかった。

「知り合いの監査官に依頼し、他の調停者に護衛を引き継いで貰う事にしました。貴女のファンが多いようで、かなりの数が

護衛についてくれるようです」

タケシの言葉に、シェリルは何かに気付いたように「あっ」と声を上げた。護衛が引き継がれるということは、つまり、彼

らとはここで別れることになる。

「公演後は移動準備で忙しくなるでしょう。我々も見送りは難しいので、ここでお別れになります」

「最後まで護衛したかったけれど…、この状態じゃあ仕方ないね…」

口々に言ったタケシとユウトに、シェリルは深々と頭を下げた。

「あ、そうだ…」

ユウトは思い出したように言うと、照れたような笑みを浮かべた。

「その…、最後に握手、してもらえますか?」



一週間後。帰国前夜のシェリルは、夜の歌番組にゲストとして生出演していた。

三日入院治療を受け、劇的に回復してすっかり元気になったユウトは、タケシと一緒にリビングのテレビでその姿を見てい

た。傍に置かれたクッションの上でも、白猫がテレビを眺めている。

「明日には、帰っちゃうんだね…」

「そうなるな」

司会者や他のゲストに質問責めにされ、困ったような笑みを浮かべるシェリルを見ながら、ユウトは直接言葉を交わす以前

よりも、ずっと彼女を身近に感じていた。

「あのアックスヘッド、警視庁管轄の研究チームに引き渡されたそうだ。研究者達の言う事を聞くようにと、シェリルさんの

命令を受けているらしい。荷運びなどの力仕事をこなしているらしく、実に重宝されているようだ」

「それはいいや!平和利用だねぇ」

「それと彼女自身も、仕事の合間を縫って、装置の開発に協力してくれる事を快諾してくれたらしい」

「あはは!それはすばらしいな!」

『それでは、いよいよ本日のビッグゲスト、シェリル・ウォーカーさんに歌っていただきましょう。準備の方、よろしくお願

いします』

テレビを見つめ、身を乗り出したユウトの胸元で、携帯が振動した。

「もう、誰!?今いいとこなのに…」

メールの着信を知らせる小窓に、覚えのないアドレスが表示されている。訝しげに眉を寄せながら内容を呼び出したユウト

は、思わず「あっ」と声を上げた。





きちんとサヨナラもできずにお別れする事になって、本当にご免なさい。

もう退院していると聞いたけれど、体の方は大丈夫でしょうか?

あなた達と病院で別れてから、何か出来ることは無いかとずっと考えていたわ。

そして思いついたの。私は良いアイディアだと思うけど、どうかしらね?

あ、そうそう、何故あなたのアドレスを知っているのかというと、ビックリさせようと思って、ブルーティッシュのリーダー

さんに、こっそり教えて貰ったの。

時間を指定して送信したから、操作を間違えるか、何かハプニングが無ければ、今、丁度私はテレビで歌う直前のはずね。

本当は、会って直に伝えたかったけれど、明日の朝には私は飛行機の中ね…。

テレビ、見てくれているかしら?

これから私は、精一杯の感謝の気持ちを込めて歌います。

この曲も、気に入ってもらえたら嬉しいです。





『準備が出来たようですね。それでは、シェリル・ウォーカーさんで、フリーダム…』

『済みません、少し変更が有ります』

司会者の言葉が、突然遮られた。

テレビの中で、舞台の上に立ったシェリルが大映しになる。

『私は、今回この国の公演において、たくさんの人々にお世話になりました』

台本に無い事なのだろう、司会者や他のゲストも、突然スピーチを始めたシェリルを驚いたように見つめている。

『一人でも多くの方に私の歌を聞いて欲しくて、短い日程に、ギリギリのスケジュールを組みました。おかげで、私は10日

間も滞在しながら、この国の知識は来日する前と全然変っていません』

シェリルは苦笑しながらそう言うと、客席の人々を見回しているのか、視線をぐるりと巡らせた。

『それでも、私はこの国が大好きです。何故ならこの国で、とても素晴らしい人々に出会うことができたからです』

そう言って、シェリルはカメラへと視線を向けた。

『その中でも、たったの一晩おしゃべりできただけですが、大切なお友達ができました』

ブラウン管の中のシェリルの、真っ直ぐな視線を受けて、ユウトは少し驚き、そして大いに照れくさい気持ちになる。

『上手にお別れできなかったその友達と、お世話になった方々に、そしてまだお会いしていないこの国の人々に…』

シェリルは美しい微笑を浮べて続けた。

『生まれたばかりのこの曲を捧げます。タイトルは…、トライブ』



スピーカーから流れるその歌は、シェリルの新曲だった。

まだ慣れていないのだろう、バックのバンドも少しぎこちなく、突然の事らしくカメラや照明の動きもいまひとつ噛みあっ

ていなかった。しかし、全てが日本語の歌詞で歌われたその新曲は、それらを差し引いても、聴衆の耳を、心を、魂を鷲掴み

にしていた。

「歌姫とは…、穿った呼び名だな…」

ポツリと呟いたタケシに、ユウトはシェリルを見つめながら、誇らしげな表情で頷いた。

それっきり、二人と一匹は口を開かず、歌が終わるまでじっと聞き入っていた。



歌が終わると、シェリルは万雷の拍手に、深々とお辞儀をして応えた。

『い、いやあ!予定とは異なりましたが、素晴らしい歌でした!今の歌は、新曲で?』

『はい。お披露目するのは今日が初めてになります』

照れているような微笑を浮べたシェリルの答えに、テレビの中でどよめきが起こった。

『そ、それは…、世界で初めて、この国で公開した、と!?』

興奮気味の司会者の問いに、シェリルは頷いた。

『はい。作曲途中だったのですが、どうしても、この国に居られる内に完成させたくて。バックで演奏していただいた方々に

は、急な無理を言って、本当にごめんなさい』

先ほど演奏していたバンドのメンバーにカメラが寄り、彼らは口々に「とんでもない」「光栄でした」などと笑顔で返す。

そのままエンディングテーマが流れ出し、カメラはそれぞれゲストのアップを映し、番組は終了する。

余韻に浸るように、二人と一匹はしばらくテレビを眺めていたが、やがてタケシが口を開いた。

「何とも粋な…、何よりの報酬だったな」

感動のあまり涙目になっていたユウトは、無言のまま、笑みを浮かべて頷いた。