第二十八話 「過去を知る者」(前編)
気持ちが良い秋晴れの午後。
雲一つ無い、高い空はどこまでも青く、心地良い風が頬を撫でて行く。
ショッピングモールからの帰り道、ユウトは買い物袋を片手にのんびりと歩いていた。
機嫌よく、鼻歌でシェリルの新曲を唸りながら歩いていた金熊は、やがて目を細めて足を止める。
その視線の先には、地図を片手に街の案内板を見つめる獣人の姿があった。
筋肉質の体を漆黒のレザージャケットとズボンで覆ったその獣人は、フサフサとした美しい銀色の毛をした狼だった。
狼は飛びぬけて長身で、背丈はユウトとさほど変わらない。鋭い顔つきの中で輝く銀色の瞳が、物憂げに案内板を見つめていた。
「どこかをお探しですか?」
歩み寄ったユウトが声をかけると、狼は首を巡らせ、少し驚いたように軽く目を見開いた。
「この辺には結構詳しいんです。良ければ案内しますよ?」
気さくに言ったユウトに、銀狼はしばし考え込んだ後、口を開いた。
「急ぎではないのだが、村瀬ビルまでの道を教えて貰えると助かる」
「なら、ここから歩いて15分程度ですよ。こっちです」
ユウトは頷くと、銀狼に微笑みかけ、ついてくるように促した。
しばらく歩いた後、銀狼はユウトに話しかけた。
「お嬢さんは…」
お嬢さんと呼ばれたユウトは、苦笑いしながら口を開いた。
「ユウトです。神代熊斗」
ユウトが名乗ると、銀狼の瞳に一瞬、怪訝そうな光が灯った。が、前を行くユウトはそれに気付かない。
「失礼した。俺はフェンリルと呼ばれている。ユウトさんは、地元の住民なのか?」
「そうですよ。二年半くらい前に越してきて、それからずっとこの町に住んでます」
「そうか。なら…」
「あ!見えましたよ。あそこです」
何かを言いかけたフェンリルの言葉を遮り、ユウトが前方を指さした。
秋の日差しを照り返し、煌めくガラスに覆われた巨大なビルが、二人の行く手に聳え立っていた。
「地上50階のビル…、間違いないな」
フェンリルはまだ少し距離のあるビルを見上げ、小さく呟いた。
「ここで結構だ。案内助かった。恩に着る」
足を止めたフェンリルを、ユウトは訝しげに振り返る。
「用事の時間までまだ間があるのでな。位置が分かればもう大丈夫だ」
フェンリルがそう言うと、ユウトは頷き、それから時計を見て思い出す。
いつも通り客は来ていないと思うが、定休日でもないのに、いつまでもタケシ一人に留守番をさせておくのも気が咎めた。
「っと、ゴメンなさい。ボクそろそろ行かなきゃ」
軽く一礼し、立ち去ろうとしたユウトを、フェンリルは呼び止めた。
「この街は、これから騒がしくなるだろう。出来ればしばらく離れた方が良い」
「え?」
聞き返そうとしたユウトを残し、フェンリルは踵を返した。
「あ、待って!どういう意味ですか?」
角を曲がって姿を消したフェンリルを追い、ユウトは曲がり角へと駆け、そして立ち尽くした。
「…あれ…?」
銀狼の姿は、角を曲がった先の通りの何処にもなかった。
人通りの中で匂いはすぐに風に紛れて消え、ユウトの鋭い感覚を持ってしても、もはや気配すら感じられない。
ユウトはしばらくその場に立ち尽くし、フェンリルと名乗った銀狼の言葉を反芻した。
その夜。ユウトは地下のトレーニングルームで軽く体を動かしていた。
昼間に会った銀狼の言葉が頭から離れなかった。
相棒にも話してはいないが、どうにも胸騒ぎを覚えて仕方がない。体を動かせば気も紛れるかと思ったのだが、なかなか上
手く行かなかった。
「ユウト」
片腕一本で体を持ちあげ、逆立ちしたまま腕立てをしていたユウトは、突然開いたドアの向こうに立つ青年の姿を見て、逆
さまのまま動きを止めた。
「仕事の依頼、それも緊急だ」
逆立ちの状態から腕一本で跳ね、宙で前方へ一回転して着地し、ユウトは頷き返す。
「詳しい事情は現地で確認する。すぐに出るが、行けるか?」
「もちろん。場所は?」
「中央五丁目。村瀬ビルだ」
歩き出しかけて動きを止めたユウトに、タケシは訝しげに眉を潜めた。
「どうした?」
「ん、いや…、なんでもない。急ごうか」
偶然なのだろうか?ユウトは昼間に出会った狼の言葉を思い出していた。
二人が到着した時、ビルは所々から煙を上げていた。
中で爆発でも起こったのか、窓が何ヶ所も破れ、そこから狼煙のように、黒煙がもうもうと吹き出している。
消防車や救急車、警察の車両が現場を取り囲み、それをまた野次馬が遠巻きにしている。
「ちょっとゴメンなさい!通してください!」
タケシの前に立ち、人混みをかき分けて進むユウトに、野次馬達から非難がましい視線が向けられるが、見事な金色の巨躯
を目にすると、それは驚きか感嘆に取って代わる。
封鎖用のロープを潜って駆けつけると、現場で指示を出していたカズキが二人に気付いて声を上げた。
「おう!済まん!」
「状況はどうですか?」
タケシの問いに、カズキは首を左右に振る。
「最悪だ…!こいつは機密なんだが…」
カズキは自分達の傍に、他に誰も居ない事を確認すると、それでも声を潜めて話し出した。
「このビルでは警視庁主導のチームが、極秘でレリックの研究をしていたんだ。何処の組織の者かは分からんが、少人数で潜
入し、破壊活動を行っている」
「少人数?正確な人数は把握できてないんですか?」
訝しげな表情のユウトの問いに、警官は苦虫を噛み潰したような顔で頷いた。
「外部からハッキングされたのか、防犯システムが応答しないんだ。内部の映像も、異常の箇所も一切が不明だ。こうなると
最新鋭の防犯設備もまるで役に立たん!」
「内部に残っている者からの連絡も?」
青年の問いに、カズキは首を横に振った。
「無しだ。ここら一帯に電波異常が出てる。…間違いなく襲撃者達のジャマーだな」
「…計画的だな…。かなり周到に準備されている…」
ポツリと呟いた青年は、煙を吐き出し続けるビルを見上げた。
「しかも、計画していた上にこれだけ派手に動いているという事は…、襲撃者達は確かに少人数だろうな…。十人も居ないはずだ」
何故?と聞きかけたユウトは、「ああ」と納得したように頷き、同じようにビルを見上げる。
「多ければ脱出する際に目立つもんね。…となると手強い相手だなぁ。この規模のビルを数人で落として、さらにこれだけの
包囲を抜けられるだけの自信がある…。どれだけの手練れ揃いなんだか…」
「もう一つ悪い情報だ」
カズキの言葉に、ユウトとタケシは視線を戻して警官を見つめた。
「研究員達を救助するために警視庁の特殊部隊が一時間前に突入したが、突入から十数分と経たず一人残らず連絡が取れなく
なった。他の調停者達、合計で十四名も中に入ったが、そっちも同じだ」
先に突入した同業者十四名も音信不通…。タケシとユウトは視線を交わす。
「分かりました。では潜入し、研究員の安全と研究資料の確保、及び救助部隊への協力、そして敵の排除を行います。他には
何か?」
「いや、無い。だがくれぐれも無理はするなよ?厳重なセキュリティを簡単に突破し、特殊部隊や調停者を退け、しかも全く
尻尾を掴ませないような相手だ。くどいようだが、ただ者じゃない」
「はい、気をつけます」
二人はカズキに一礼すると、不気味に煙を吐き出すビルを見上げた。
カズキからデータで受け取った見取り図を携帯の画面で確認し、タケシは非常階段の下で立ち止まった。
「時間が惜しい。手分けして当たるぞ」
「了解。ボクは各階をしらみつぶしに回って、救助を優先する」
「ならば俺は研究とその資料保管、機密事項に関わるフロアから回る。確認が済み次第、上から順に他の階の捜索に移るとし
よう。俺とお前が再会したフロアを、確認の最終フロアという事にする。携帯での連絡は不可能だ。生存者は見つけ次第順次、
最優先で外へ避難させ、それから捜索を再開。俺達についても、危険ならば無理せず一度外へ退避。良いな?」
方針を決めて頷き合うと、二人はそれぞれ階段とエレベーターに向かった。
幸いにも電源が生きていたエレベーターを使用し、タケシは最上階付近に位置する研究フロアへと昇って来た。
開いたドアから素早く飛び出し、傍の植木の影に転がり込み、周囲を確認する。
鼻を突く血臭と、物が焦げる臭い。煙が漂うエレベーター前のエントランスには、恐らく部外者を入れないチェックのため
に使われていたのだろうカウンターと、強化ガラス製のゲートが設けられていた。
カウンターの前には血溜まりに倒れ伏す4人の男の姿。防弾チョッキと黒い衣服から、警視庁の特殊部隊と推測できた。
青年は警戒を怠らず静かに歩み寄ると、全員が死亡している事を確認する。
全員が銃を握っていた。警視庁の特殊部隊…、レリックという機密に関わる任務に派遣されたという事は、特殊部隊内でも
さらに厳しい訓練を受けた熟練の戦士のはずである。にもかかわらず、全員が喉、胸などに一撃を受けて殺害されている。傷
を見るに、鋭い刃物のようなもので殺されたらしい事が分かった。
銃を持つ4人の熟練相手に、刃物を武器に戦闘し、殺害した。周囲の壁には弾丸が抉った弾痕が残っているが、その数は多
くない。全員が銃を握り、抵抗した痕跡が見られる事から、奇襲などに遭って反撃できなかった訳ではない事が分かる。
「敵は…、予想以上の手練れだな…」
青年は呟くと、腕を一振りして空間を歪ませ、その向こうから刀を取り出す。
太刀の銘は長曽根虎徹。タケシ自身気付いていなかったが、本能的に自分が最も信頼している刀を召還していた。そして無
意識のうちに、認識票が動いて邪魔にならないよう、襟元からシャツの下にたくし込む。
次いで青年は強化ガラスのゲートを調べた。廊下を天井から床まで塞ぎ、横のカードリーダーを操作する事で、横にスライ
ドして開く扉だったが、襲撃者はこれを強行突破したらしい。
ゲートには人一人が通り抜けられるほどの、長方形の穴が空いていた。ゲートの向こうの床に、長方形に切り取られた分厚
い強化ガラスが、まるでマットのように落ちている。
切り取られた厚さ10センチのガラス板と、ゲートの切断面を見比べる。厚さ10センチの強化ガラスを破壊するとなれば、
ロケット砲でも難しい。もしもタケシが突破するのであれば、ディストーションを使うか、ユウトに熊撃衝で破壊して貰うと
ころだ。
切断面を調べていたタケシは、その異常さに気付いた。切り口の滑らかさもさることながら、落ちているガラス板の大きさ
と、切断された面積が僅かに違う。2センチ程、落ちている板の各辺が短い。周囲を見回して間にはまる部位を探したが、見
つからなかった。
「まるで、削り取ったようにサイズが合わない…。どういう事だ?」
青年は煙で霞む通路の奥を見据え、小さく呟く。
「それに、警備員を殺害したなら、キーを手に入れる事もできたはず、なのにわざわざゲートを破っているという事は、襲撃
者にとってゲートを突破するのは、死体からキーを捜す以上に簡単で、手間がかからなかったという事か?」
熟考しておきたい所だったが、ゆっくりしている時間が惜しい。疑問をとりあえず棚上げしたタケシは、鞘から虎徹を抜き
放ち、慎重に通路を進んで行った。
禁圧解除で鋭敏化させた五感を総動員し、ユウトはビルの中を駆け回りながら生存者と襲撃者を捜し求めた。
その捜索が29階まで達した時、漂う煙の中から、鋭い嗅覚が血の臭いを嗅ぎ取った。
ユウトは素早く、音を立てないように通路を駆け、曲がり角を覗き込む。そこには、トカゲの獣人が座り込んでいた。
武器のトライデントを握りしめ、壁に寄りかかって座り込んでいるトカゲは、胸に深い傷を負っており、壁と床を鮮血で染
めていた。
駆け寄った大熊が屈み込んで確認したが、すでに息はない。
虚ろに宙を眺める目を閉じようと手を伸ばしかけたユウトは、彼が、以前任務で一緒になった事のある調停者だと気付いた。
サインをくれないか?と、照れながら言った声を思い出し、大熊は哀しげに目を伏せる。
トカゲ獣人の両瞼に指を当て、目を閉じさせると、ユウトは短く黙祷を捧げた。
悲しみを覚えながらも、ユウトの中の戦士の部分は、冷静に殺害者の分析を行っていた。
任務を一緒にこなし、この獣人の実力はある程度知っている。
決して弱い戦士ではなかった。にもかかわらず、周囲の壁には切れた跡や、トライデントが打ち込まれたらしい傷跡が見ら
れるものの、トライデントの穂先には相手の血はついていない。傷は胸の一ヵ所のみで、他に損傷は見られない。相手に傷を
負わせる事もできぬまま、一撃で仕留められたのだろう。
陥没したような胸の傷は深く、ジャケットを抉るように切り裂き、強靱な胸の筋肉と肋骨を粉砕し、肺を潰していた。格闘
技に精通したユウトには、それが一目で蹴りによる攻撃だと分かった。
防弾防刃のジャケットを容易く引き裂き、獣人の強靱な肉体をここまで破壊する。自分の拳と同等の破壊力を持つ蹴り…。
「…タケシ…!」
ユウトはいやな胸騒ぎを覚えながら、単身で上階へ向かった相棒の名を呟いた。
研究室だったのだろう。様々な機材とコンピューターが並ぶ部屋に入り込むと、タケシは呼吸を止めた。
…居る…。ごく僅かな気配を感じ、タケシはそう確信した。
大小様々な機材や柱が邪魔になり、視界は悪く、広い部屋の隅々までは見渡せない。しかし、何者かの微かな気配は、確実
に部屋の中にあった。
青年は後ろ手にドアにロックを施した。機材のたてる音だけが満ちた部屋で、その音はやけに大きく響く。
足音をまったく立てず、タケシは滑るような足捌きで部屋を回り込む。
視界を遮る太い柱を回り込もうとしたその瞬間、タケシは咄嗟に身を屈めた。その頭部を掠め、髪を一筋斬り散らし、何か
が通り過ぎた。
柱を抵抗無く通過し、伏せたタケシの頭の上を掠めたのは、刃の銀光。太い柱を豆腐のように易々と切り裂いた銀光の正体
を、タケシは視界の隅で捉えていた。
それは異様に長い刀、野太刀とされるサイズの長刀だった。
先程より低い軌道で、弧を描いて戻ってきた刃から、タケシは床を転がって逃れる。体勢を整えるのと、二ヵ所で切断され
た柱が崩れたのは同時だった。
中央をポッカリと失った柱の向こうに立つ人物を目にし、タケシは息を呑んだ。
若い女だった。歳はおそらくタケシよりも少し下、二十歳になってはいないだろう。
精悍な顔立ちに、意志の強そうな鋭い目。光沢のある黒髪を後ろで束ね、背中に垂らしている。濃いダークレッドのジャケッ
トに、同じ色のズボン。両手には黒いグローブをはめており、大太刀を握っている。全長は優に150センチを超える、かな
りの長さの刀だった。
驚いた理由は襲撃者が若いからでも、女だったからでもない。
タケシは、相手の顔を知っていた。
思い出せないが、どこかで会っている。いや、会っているどころではない、見慣れていたはずの顔だった。頭がズキズキと
痛み、断片的な記憶がフラッシュバックする。
女もまた戸惑っていた。顔を合わせた瞬間には確かに浮かんでいた敵意は消え、代わりに戸惑いの色がその顔に浮かんでいる。
「し…、シノブ…?不流忍?」
タケシは掌で顔の反面を覆い、痛みのために掠れた声で呟いた。
その声を聞いたとたん、女の顔が驚きを浮かべる。
「まさか…。タケシ?タケシなの?」
女は驚愕の冷めやらぬ顔で、ゆっくりと柱の残骸を回り込む。手には太刀を握ったままだが、敵意はすでに消えているのが、
タケシには分かった。
女は無造作に間合いに入り込み、間近で青年の顔を見つめた。女が長身のタケシを見上げる形になる。
「死んだと、聞いていたのに…」
掠れ声で呟いた次の瞬間、女の切れ長の目から、不意に涙が零れた。
そして、女は太刀を放り出し、タケシに抱きつく。
突然のことに、どうして良いか分からないタケシの胸に、女は顔を埋めて泣いていた。
「生きていたなら何故連絡をくれなかった!?貴方が死んだと聞いて、私達はどれほど悲しんだことか…!」
タケシの頭の中で、記憶の破片が浮かんでは消える。近しい者達であったはずの、何人かの顔…。気の強そうな小さな男の
子。そして、哀しげに微笑む美しくも儚げな印象の女。その中には、目の前の女がまだ幼かった頃の顔もあった。
「…お前は…、誰なんだ…?」
タケシの呟きに、女は顔を上げた。
「…思い出せない…。顔も、名前も覚えているのに、お前が誰なのかが思い出せない…」
女の顔が強ばった。そして、痛ましそうに青年の顔を見つめる。
「タケシ、まさか、記憶が…?」
頷く青年に、女はタケシから離れ、呆然と立ちつくした。
「俺には、四年前以前の記憶が無い…。それまで自分が何をして、何処に居たのかも、思い出せないのだ…」
タケシは頭痛を堪え、そう告げる。
「そうだったのね…。でも大丈夫。私と一緒に帰りましょう!そうすればきっと記憶も戻るわ!」
女は笑みを浮かべて言った。
「シャモンもサキモリも、貴方が生きていたと知ったら、どんなに驚くかしら!?話したい事も山ほどあるわ。私、今は貴方
の後任を任されているのよ。そう、ベヒーモスになったの。でも、これからは二人になるわね。…いや三人かな?サキモリも
ずいぶん大きくなったわ。彼もすぐに一人前になる!」
彼女の言葉が青年の記憶を刺激し、様々な記憶が断片的に浮かび上がる。
コンクリートに囲まれた殺風景な部屋。熱帯魚の入った水槽。水底が見える窓。そして何隻もの空母…。
「ベヒーモス…」
タケシはかつてヒョウブから聞かされたその言葉を呟く。記憶を強く揺さぶる言葉を。
「ベヒーモスとは何だ?帰るとは、何処へ…」
青年の言葉が終わらぬ内に、床が大きく振動した。轟音と共にビル全体が大きく揺れる。
「仕掛けた爆弾が作動し始めた。時間が無いわ。ついてきて!」
刀を拾い上げ、ドアへと向かう女の後ろで、タケシは一瞬迷った。
この女、シノブについてゆくべきか?信用していいのか?
その一瞬の躊躇いの間に、足下が大きく揺れ、足場が崩れた。タケシとシノブの間で床が裂け、階下から炎が吹き上がる。
続いて起こった爆発で、タケシの足下の床が崩れ落ちた。
弾かれたように振り向いたシノブの視線の先で、青年の姿は亀裂の中へ、踊り狂う炎の中へと飲み込まれていった。
「タケシ!?タケシーっ!?」
女の叫び声を聞きながら、タケシは空間の断裂で炎を防ぎつつ、爆発でビルの中に空いた数階分の大穴を落ちていった。
42階に至る階段の踊り場で、ユウトは足を止めた。
ここまでに見つけた死者は30を越え、生存者はゼロだった。
その痕跡からユウトは悟っていた。襲撃者は驚くほど腕が立ち、そして非常に冷静で、徹底的に容赦がない事を。
その襲撃者は今、ユウトの視線の先、階段を登り切った所に立っていた。
胸の前で腕を組み、彫像のように微動だにせず、静かにユウトを見下ろすその男は、彼女が知っている顔だった。
「…フェンリルさん…」
ユウトの視線の先には、昼間出会った銀狼の姿があった。
事件現場がこのビルだと聞いたとき、もしやという予感はあった。ユウトは目の前の事実を静かに受け入れる。
銀狼はユウトの胸元で輝く認識票を見つめ、静かに口を開いた。
「立ち振る舞いから腕が立つ事は察していたが、お前のように若い娘が、まさか調停者だとは思わなかった。…それに、神代
とは…、奇しき縁だな…」
言葉の後半は口の中で呟かれ、ユウトの耳には届かなかった。銀狼は金熊をじっと見据えながら腕を解き、そして告げる。
「道を教えて貰った恩もある。退くのであれば…」
「退く気はないよ。そして貴方を逃がすつもりもない」
フェンリルの言葉を遮り、ユウトは言った。
この返答を予期していたのか、銀狼は頷くと、後ろへと数歩下がった。ユウトは階段を登り切り、フェンリルと正面から向
き合う。
ユウトがゆっくりと腰を落として構えると、フェンリルも半身になって構えた。
空気がピリピリする程の、短い、しかし緊迫した睨み合いの後、ユウトが先に床を蹴る。
一足飛びに間合いを詰めたユウトは、左の拳をフェンリルの側頭部めがけて叩き込む。スウェーでかわした銀狼の胴へ、続
けざまに繰り出された本命の右拳が飛び込んだ。出し惜しみ無し、高密度のエネルギーでコーティングされた豪腕が、眩い光
を放つ。
バシン、という激しい炸裂音と共に、ユウトは飛び退った。
フェンリルは拳を膝でブロックした片足立ちのまま、鋭い目で観察するようにユウトを見据えていた。その足は、膝から下
が燐光を纏っている。
「ボクと同じ能力か…」
本来ならば接触の瞬間に拡散し、衝撃を撒き散らすはずの熊撃衝の力場は、同質の力場によって相殺され、消滅していた。
しかし、ユウトの拳の光が消えてもなお、フェンリルの足は燐光を放ち続けている。
(練り込めるエネルギーの密度はボクより上か…。なら、単純に格闘戦で…)
ユウトは両の拳を固め、再びフェンリルに挑みかかる。
牽制に放った左拳は避けられ、右のフックがいなされる。体を反転させて放った回し蹴りにはフェンリルの蹴りが合わせら
れる。二つの蹴りが交錯し、ユウトの蹴りはフェンリルの左腕で軽く受け止められ、フェンリルの右足はユウトの背を強打し
ていた。
金色の巨躯が軽々と蹴り飛ばされた。ユウトは宙で体勢を整え、四つん這いで着地した。肺の中の空気を一気に絞り出され、
何度か咳き込む。
そこへ、フェンリルの射抜くような跳び蹴りが、恐るべき速さで襲いかかる。ユウトは咄嗟に顔の前で両腕を交差させ、力
場を生み出して蹴りを防ぐ。
間髪入れずフェンリルは宙で身を捻り、蹴り足を引きつつ、即頭部目掛けて左の回し蹴りを放つ。頭の横で立てた右腕で、
押し留めるように蹴りを防いだユウトの腕が不意に掴まれた。宙に在りながら銀狼は左手でユウトの右腕を掴み、その体勢を崩す。
させじと足を踏ん張った瞬間、ユウトの腹にフェンリルの右足が飛び込んだ。同時に腕が放され、ユウトの体は砲弾のよう
に吹き飛ぶ。フェンリルが音も無く床に降り立つのと、ユウトが壁に叩き付けられたのは同時だった。
壁に当たって跳ね返り、床にバウンドし、数回転がった後、ユウトはなんとか身を起こすが、腹を押さえて激しく咳き込む。
咄嗟に鳩尾の周囲に力場を展開し、威力を減殺したが、反応が一瞬でも遅れれば、肋骨を蹴り折られ、内臓をぐちゃぐちゃに
されていても不思議ではなかった。
空中において二回の蹴り、さらに腕を掴んで体勢を崩し、相手が踏ん張り、体が固定された所へ蹴りを叩き込む。銀狼はこ
れだけの事を、宙に居る一瞬の内にやってのけた。
口元を腕で拭い、衰えぬ闘志を瞳に宿し、フェンリルを睨みながらユウトは呟く。
「まさかこれは…、神卸し…?」
フェンリルは構え直しながら頷いた。
「いかにも、餓狼咆哮(がろうほうこう)と呼んでいるがな」
神卸し。オーバードライブ。呼び名は違えども、その意味する所は同じだった。
禁圧解除のさらに先、獣人の「獣」たる部分に眠る野生の本能を呼び覚まし、限界以上の力を引き出す、獣人の武芸家に伝
わる奥義。
しかし今もなおそれを使える者は、ユウトが直接知る限り、自分を含めずたった三人しか存在しない。
ユウト自身はまだ完全制御に至っておらず、使用に伴い理性が飛ぶ。本能に働きかける能力であるがゆえに、コントロール
が未熟なユウトは、押さえ難い攻撃衝動に駆られ、周囲の全てを敵と見なしてしまうという、狂戦士化の副作用に陥る。
だからこそユウトは、一族の中で狂熊覚醒と呼ばれる神卸しを、自ら禁じ手としていた。
「使わねば互角といった所だろうが、急がねばならぬのでな」
フェンリルの言葉に、ユウトは内心歯がみする。
互角ではない。恐らく素の状態でもフェンリルは自分よりも上だろう。ユウトはそう直感していた。
「仕方ない、か…」
葛藤の末、ユウトが狂熊覚醒の使用を覚悟したその時、二人の足下で轟音が響いた。
「ちっ!ヨルムンガンドめ、爆弾の作動が早過ぎるぞ…!」
フェンリルの表情が変わった。いらだたしげに舌打ちすると、銀狼は構えを解く。
「勝負は預けておく。仲間が仕掛けた爆弾によって、もうじきこのビルは崩壊する。さっさと逃げた方が良い」
「見逃してくれる、って訳?」
自分を睨み据えているユウトの言葉に、フェンリルは口の端を歪め、微笑した。
「引き分け、でどうだ?決着をつけたいのは山々だが、仲間を迎えに行かねばならん」
タケシの事が頭をよぎり、ユウトがどうすべきか逡巡した一瞬の間に、銀狼はくるりと背を向け、走り出す。
制止する間もなくフェンリルが煙の中へ姿を消すと、ユウトは喉の奥から呻き声を漏らした。
己の未熟さへの怒りと、見逃された屈辱から、金熊は壁に拳を叩き付けた。