第二十九話 「過去を知る者」(後編)

ビルの46階、上階からなだれ落ちた瓦礫の山で、炎が踊り狂っていた。

その中で人影が蠢いたかと思うと、色鮮やかに燃え盛る炎が二つに割れ、中から青年が歩み出る。

自らの周囲に空間の断層を生み出して炎と瓦礫をシャットアウトし、落下の勢いを殺したタケシは、業火の中に在っても無

傷で、衣類にも焦げ目一つついていない。

タケシは自分が落下してきた、炎が吹き上がって行く大穴を見上げる。

燃えさかる炎でシノブの姿は見えず、自分を呼ぶ声も聞こえない。

もう一度探し出し、あの女に会わなければならない…。

まるで触れる事を躊躇うかのように、青年の行く手から炎が退く。

タケシは刀を納めると、割れた炎の間を、瓦礫の上を飛ぶように駆け出した。



上の階に昇るほどに強まる熱と煙に耐え、ユウトは金色の体を所々黒く染めながら、タケシの姿を探し求めていた。

電波障害の為に携帯は使えず、危険を伝える手段がない。

 焦りを覚えつつ、ユウトは煙を吸い込まないようにしながら、崩壊の続くビルの中を駆け回る。

46階に辿り着いたユウトは、休憩スペースなのだろうか、広々とした二階分吹き抜けになっているホールで足を止めた。

反対側の通路から、剣を携えた人影が走り出て来るのを目にして。

「タケシ…」

安堵の声を漏らしたユウトの口は、しかし一瞬後にキッと結ばれた。

タケシではない。ダークレッドの衣服に身を包んだその人物は、若い女だった。

相手もユウトに気付くと、足を止め、身構える。

「何者だ!?」

女の放った鋭い誰何の声に、ユウトは声高に応じる。

「調停者だ!キミはビル襲撃犯の一人だね?」

女、シノブは大太刀を構えた。

「キミを捕縛する。抵抗しないなら危害は加えない」

「…また調停者か…、返り討ちにしてやる!」

シノブは射抜くような鋭い眼光でユウトを睨む。相対した獣人の巨躯を目にしてもなお、僅かにも怯んではいない。

自分と同じか、あるいは少し下の若い女を前に、微かな躊躇はあったものの、話し合いの余地は無いと悟り、ユウトもまた

身構える。

短い睨み合いと、出方の探り合いの後、二人は一気に間合いを詰め、刃と拳が交錯した。

太刀はユウトのジャケットの肩を掠めて切り裂き、豪腕はシノブの左袖を掠めて引き千切る。

 刀と拳がめまぐるしく交差し、お互いが相手の実力に驚嘆する。

(この子、強い…!ここを襲った連中、一体何者なんだ!?)

(この獣人、とんでもない使い手だ…!先程までの調停者とは段違いだわ!)

間合いを離そうとするシノブに対し、逆にユウトは素早く前進し、得意の間合いを維持する。

命中すればそのまま胴が無くなるような回し蹴りをかわし、シノブは大きく後方へ跳躍して間合いを取る。

着地際へ突進してくるユウトめがけ、シノブは左手を突き出した。

ゾクリと、背中を駆けるモノを感じ、大熊は咄嗟に横へ跳び、床に身を投げ出す。

一瞬前にユウトが居た場所で、景色が歪み、そして渦を巻くようにして蠢いた。

歪みは間を置かず、破砕音と共に消え、ユウトは素早く身を起こしながら自分の直感が正しかった事を悟る。

 それと同時に表情を隠せないほどに驚愕していた。

空間歪曲。ユウトが知る限り、この能力の使い手は、国内でタケシただ一人だけだった。

しかも、この女が引き起こした空間歪曲は、タケシが普段使うものよりもかなり範囲が広い。

 相手の頭部など、急所を的確に狙う彼のものと違い、大柄なユウトの体がスッポリと飲み込まれる程の範囲を歪曲させていた。

同程度の範囲を歪曲させる事は青年にもできない訳ではないが、消耗が大きく、1、2回使えば副作用が出る。

 にもかかわらず、目の前の女にはさして疲労の色が見えない。

 あるいはユウトに悟られないよう、疲労を押し隠しているのかもしれなかったが、どちらにせよ油断のならない相手だった。

しかし、ユウトはこの力をよく知っている。

 その強力さも、そして弱点も、タケシと長く背中を預け合ってきた間柄だからこそ熟知している。

ユウトは再びシノブめがけて突進した。

 まずは振り下ろしの一撃、これを身を捌いてかわしたシノブへ、体を反転させて裏拳、これを避けられれば、体の捻りを戻

す反動で回し蹴り、続けて回転の勢いを乗せたフックと、ユウトは続けざまに攻撃を仕掛ける。

近接肉弾戦。息をつく暇も、反撃の隙も与えず、一気に畳み込む。これがユウトの知る、この能力を封じる最良の策だった。

猛攻を凌ぎながら、シノブは舌打ちする。

 空間歪曲は発動までに一瞬の溜めが必要になる。こう立て続けに攻められては発動のタイミングが確保できない。

 さらにここまでの近接戦闘になると、うかつに使えば自分も巻き込まれる恐れがある。

 何故かは分からないが、この獣人は、自分達の能力がどんなものなのか熟知しているのが分かった。

間合いを離すことを諦め、シノブは近接戦闘でユウトに対抗する。しかし、ほどなくそれが誤った判断である事を思い知った。

シノブの刀は通常の刀よりもかなり長い。

 それは間合いを離すのを容易にするためであると同時に、彼女のリーチとパワー不足を補う為のものでもある。

 だが、今のようなゼロ距離での肉弾戦では、長い刀身は取り回しが不便で、ユウトの戦速について行けない。

加えて言うならば、シノブが得意とするのは、その身のこなしと脚力を活かした一撃離脱戦闘。

 ユウトは最初の数合打ち合っただけでそれすらも見抜いていた。

 幼い頃より神将家の一員として鍛えられ、若くして六年ものキャリアを持つ調停者は、戦闘経験でシノブを遥かに上回って

いた。

シノブは少しずつ追い込まれながら、目の前の獣人が非常に戦い慣れしている事と、類い希な戦闘センスを持っている事、

そして自分よりも強いという事を、認めざるをえなくなる。

やがてシノブは防戦一方になり、そして攻撃を捌ききれなくなった。

 力場を纏った豪拳を辛うじて受け流した瞬間、太刀はシノブの手を離れて宙を舞い、離れた床に突き立った。

ユウトは素早くシノブの腕を取り、背中側へと捻じり上げる。

「これ以上の抵抗は無駄だよ。大人しくして!」

 肩と肘を極められ、苦鳴を漏らして跪いたシノブに、大熊は再度降伏勧告をおこなった。

悔しげに顔を歪めるシノブと、油断無くそれを監視するユウトは、同時にそれに気付き、ユウトが入ってきた方のホールの

入り口に視線を向ける。

煙を掻き分けて駆け込んできた青年は、二人の姿を目にし、驚いたように目を見開く。

『タケシ!』

異口同音に叫び、二人の視線が交わる。

「この子…、タケシの知り合い?」

「タケシ、この調停者を知っているの?」

タケシの顔に困惑の色が浮かんだ。

状況からして、シノブは間違いなくここを襲った襲撃犯である。

 しかし、かつて自分と親しい間柄だったらしい。聞きたい事もある。だが…。

任務と私情の間で心が揺れ、苦悩するタケシの心情が伝わったように、ユウトの手が僅かに緩んだ。

…一瞬。シノブは、そのほんの一瞬の隙に、腕を強引に捻った。

相手が男だったなら、あるいはタケシの知り合いかも知れないと考えていなかったなら、ユウトがシノブを取り逃す事は無

かっただろう。

しかしユウトは、極めたままでは彼女の腕が折れてしまうと悟り、反射的に手を離してしまっていた。

 事実、放さなければ、シノブは腕を折ってでも振りほどくつもりだったのだ。

束縛から逃れたシノブは、床に突き刺さった刀に素早く駆け寄る。ユウトは失態を悔やみながらもその後を追った。

刀の柄を掴み、振り向こうとしたシノブめがけ、ユウトは拳を振りかぶる。

 間合いを離した時のシノブの危険性を、金熊は重々承知していた。

振り向きざまに太刀を振るおうとするシノブと、豪拳を放つ直前のユウト、ほんの一瞬だが、ユウトの方が速い。

一撃で戦闘不能にするつもりで、手加減のない拳を繰り出そうとしたその時、

「待てっ!」

タケシは叫んでいた。
 それはどちらに叫んだ言葉だったのか、あるいは双方に叫んだ言葉だったのか、青年自身も分からなかったが、結局、その

言葉で動きを止めたのは一方だけだった。

二人がすれ違い、間合いを置いて背中合わせになったその時、その間の床に、ドサリ、と何かが落ちた。

「があぁぁぁぁぁぁぁああああああっ!」

ユウトは右腕を抱え込み、膝を着いた。

 大きく開かれた口から絶叫が迸り、抱え込んだ右腕の辺りから、止めどなく血が噴き出す。

二人の間に落ちたそれを、タケシは呆然と立ちすくんだまま、信じられないモノを見る思いで見つめた。

金色の、太い腕。

肘の少し上で切断され、床の上に転がっているのは、ユウトの右腕だった。

タケシの制止の声に、ユウトは反射的に拳を止め、一瞬の動揺が力場を消失させた。

その結果、ユウトとは対照的に、一切の躊躇なく振り抜かれたシノブの太刀は、ユウトの右腕を肘の上で斬り飛ばしていた。

激痛に苦鳴を漏らし、喘ぎながら、ユウトはなおも立ち上がろうと片膝立ちになる。

 その胸から、銀色に輝く、鋭い切っ先が飛び出した。

隙を与えずに詰め寄ったシノブは、ユウトの背中から、肋骨の隙間を通すように、刃を寝せて太刀を突き込んでいた。

 刃は肺を貫き、ユウトの胸を貫通している。

金熊は呆けたような表情で、自分の胸から飛び出した切っ先を見つめると、激しく咳き込んだ。

 その口から鮮血が溢れ、咳き込むたびに傷と刃の間から血がしぶく。

シノブは何の表情も浮かべぬまま、刃を捻りながら引き抜いた。

 抉るように傷口が広げられ、大量に血液が吹き出す。

 全身を貫く激痛に、ユウトはビクリと、痙攣するように身を震わせ、ゴボッと赤い液体を吐き出す。

前のめりに倒れそうになる体を残った左腕で支え、激しく喀血しながら、傷から止めどなく流れ落ちる自分の血を、ユウト

は虚ろな瞳で眺める。

その背後で、シノブは止めとばかりに、大きく刀を振りかぶり、勢い良く振り下ろした。

しかし、その太刀がそれ以上ユウトを傷つける事はなかった。

金属音と火花と共に、シノブは驚愕に目を見開く。

シノブの刀は、突如駆け込んで来た青年の刀で受け止められていた。

驚愕に固まっていたシノブは、はっと我に返ると、慌てて刀を引く。

一瞬の間にユウトとシノブの間に割って入り、大太刀を受け止めたタケシは、シノブに背を向け、刀を放り出してユウトの

横に屈み込むと、胸の傷を塞ぐように手を当てた。

「…ユウト!あぁ…!…俺は…、俺は何て事を…!」

青年は取り乱した様子でユウトの傷を押さえ、上着の袖を引き裂き、失った右腕をきつく縛る。

初めて目にする相棒の取り乱した様子を、ユウトは焦点の合わない瞳でぼんやりと眺める。

「くそっ…!くそっ!血が止まらない!止まれ、止まれ!…何故止まらないっ!」

タケシは自身が苦痛を感じているように顔を歪ませ、溢れる血を堰き止めるように、ユウトの胸に手を当てて、傷を押さえる。

シノブはタケシの様子を、ショックを受けたように見つめた後、おずおずと口を開いた。

「タケシ、もう時間が無いわ。早く行きましょう?もうじきここも崩れるわ」

タケシは唇を噛み締め、無言のまま答えない。

「そんな調停者なんか、どうなったって良いじゃない?さあ、急いで脱出を…」

「…まれ…」

低く、小さな呟きに、シノブは言葉を切った。

「…え?」

「…黙れ…!」

少しでも楽になるように、ユウトの体を横向きに寝かせ、タケシは肩を震わせた。

「どうしたのタケシ?」

シノブは困惑し切ったように、こわごわと青年の様子を窺う。

タケシは我を忘れそうな激しい怒りの中で、冷静さを失うまいと、必死に歯を食い縛った。

怒り。こんなにも激しい怒りを感じたのは初めてだった。

タケシは苦しげに喘ぐユウトの様子を見遣る。

呼吸をするたびに口から血が溢れ、喉がゴボゴボと音を立てていた。

 傷は絶望的に深く、止血もままならない。

肺を潰され、腕をもがれ、これだけ出血すれば、獣人の強い生命力をもってしてもそう長くは保たないだろう。

 怒りを堪え、タケシは必死に考えを巡らせる。

「その獣人がなんだというの?「外」の連中が何人死のうが、私達には関係無いでしょう?」

理解できないと言うように困惑の表情を浮かべるシノブに、タケシは震える声で言った。

「ユウトは、素性の知れない俺を受け入れてくれた。温かい飯を作ってくれた。人並みの生活を教えてくれた。穏やかな日常

を与えてくれた。俺にとって、ユウトは掛け替えのない、大切な…」

声が震え、言葉は最後まで続かなかった。シノブは理解に苦しむように眉を顰める。

「どういう事?私達より、そいつの方が大事だと言うの?」

問いに答えず、ユウトの手当てを続けるタケシに、シノブは苛立ったように声を荒げた。

「そいつが居るせいで一緒に帰れないというのなら、私が止めを刺すわ」

大太刀を握り直し、シノブが歩み寄ろうとしたその瞬間、タケシは刀を掴んで立ち上がり、切っ先をシノブの顔に向けた。

「これ以上、ユウトを傷つけるつもりならば…」

その体からはまとわりつくような殺気が、その瞳からは赫怒に燃える光が放たれていた。

 たじろいだ様子のシノブを睨み付け、タケシは叫ぶように言い放った。

「…お前を殺す!」

殴られたように身を震わせたシノブの目に、困惑と、悲しみの色が浮かぶ。

「タケシ…、どうして…?」

シノブから視線を外し、タケシは再びユウトの傍に屈み込んだ。

「ユウト、帰ろう…。大丈夫だ。こんな傷、何でもない…。すぐに良くなる」

優しく、哀しげな青年の声に、ユウトは何か言うように口を動かしたが、喉がゴボゴボと鳴り、息がヒューヒューと漏れる

ばかりで、声にならなかった。

「今は喋るな。傷に障る。あとでいくらでも話せるから、だから…」

タケシは言葉を切り、素早く首を巡らせた。

 すでに右手には刀が握られ、体に緊張が満ちる。

視線の先、シノブの後方、ホールの入り口に銀の狼が立っていた。

本能的に相手の実力を察し、タケシはちらりとユウトに視線を向ける。

「少し待っていろ。すぐに済ませる」

立ち上がったタケシから視線を外さぬまま、フェンリルはショックから立ち直っていない様子のシノブに歩み寄った。

肩にそっと置かれた手に、シノブははっとして振り返る。

「フェンリル!タケシを見つけた!知っているでしょう?不破武士!死んだと言われていた前任のベヒーモス!生きていたの

よ!」

銀狼はタケシを観察するように見据え、それから横たわるユウトを見つめる。

「名前は知っている。だが、その男は本当に不破武士か?」

「何を言っているの?私がタケシを誰かと間違える訳がないでしょう?」

「お前が先代ベヒーモスと親しい間柄だった事は、聞いて知っている。だが、死体の確認をおこなったのは、同じく彼と親し

かったレヴィアタンだ」

「それは…、きっと何かの間違いで…」

シノブの言葉が終わらぬ内に、これまでで最も激しい衝撃が、ビルを揺さぶった。

「時間がない。間もなく本命の爆弾が炸裂し、炎が吹き上がる。撤退するぞ」

フェンリルはシノブの腕を掴んだが、彼女はそれを振りほどこうとした。

「タケシを連れて行く!」

「駄目だ。本物の不破武士だという証拠も無しには、それはロキが認めまい。それにその男、調停者だ」

シノブはタケシが調停者かもしれないという事を、これまで全く考えていなかった。

「そ、そんなはずは…!?」

フェンリルは戸惑うシノブの腕を、強引に引き寄せた。

「急げ、撤退する」

「待って!タケシも、タケシも連れて行く!」

「聞き分けろ、連れて行く訳にはいかん」

「いやだ!タケシ!タケシ!」

足を踏ん張り、腕を振りほどこうともがくシノブに、フェンリルはため息を漏らすと、拳をみぞおちに叩き込んだ。

「フェ…ンリル…、貴方…!?」

信じられないといったように、目を大きく見開き、銀狼の顔を見つめた後、シノブは意識を失った。

 フェンリルは彼女の体を両腕で抱え、小声で呟く。

「悪く思うなシノブ。部隊とお前の身を守るのが、俺に課せられた任務だ」

銀狼は、油断無く神経を張り詰めるタケシに視線を戻した。

「この場でこれ以上争うつもりは無い。退かせて貰う」

タケシは構えを解かぬまま、フェンリルの目を真っ直ぐに見つめた。

「お前達は何者だ?何故俺の名を知っている?」

「説明している時間も、必要も無いが…、一応名乗っておこう。俺達はラグナロクだ」

タケシはよく知っているその組織の名に、激しく動揺した。

 その間にもフェンリルは後退し、間合いを離す。

「神代熊斗を助けたいのならば、グズグズするな。そのままでは一時間と保たずに死ぬぞ」

タケシははっとしてユウトの顔を見る。半分閉じられた瞼の下で、虚ろな瞳からは生気が薄れている。

踵を返しながらフェンリルは続けた。

「ビルの裏側は火の回りが早い。脱出するならば正面側を行け」

「待て。何故…」

言いかけたタケシの言葉を、フェンリルの含み笑いが遮った。

「何故、敵に塩を送るか…、か?簡単な理由だ。お前がベヒーモスである可能性が有り、神代熊斗と俺とは決着がついていな

い。ここで死なれては少々面白くないからな」

「…ならば、今回は見逃して貰うとしよう…」

青年が刀を納めると、フェンリルは小さく頷き、シノブを抱いたまま炎と煙の中へと姿を消した。

タケシはユウトの肩と胸に、手早く、しかし入念に発泡スプレーをかけて止血する。

 そして切断された右腕を拾い上げ、脱いだ上着で包み、自分の胴にしっかりと括り付けて固定した。

それからユウトの左腕を自分の肩にまわし、ゆっくりと引き起こす。

激しく動かせば出血が酷くなるため、慎重に起こすと、両腕を自分の肩にかけさせ、背負うようにして担ぐ。

 肩に、背骨に、足に、自分の数倍もの重量がかかり、骨と関節が軋んだが、タケシは歯を食い縛り、しっかりとユウトを支

える。かなりの体格差があるため、ユウトの両足を引きずるような形になった。

「…てって…」

歩き出したタケシの耳元で、ユウトが弱々しく呟いた。

 意識を失っているとばかり思っていたタケシは、驚いて足を止める。

「…置い、てっ…て…」

「馬鹿を言うな」

「…ボク…を…担いで…、逃げる…なんて…、無理だ…」

「もういい、喋るな」

タケシはゆっくりと、次第に濃くなってゆく煙の中を、ユウトを担いで歩き出した。

「正面側か…。救護班も近い、大人しくヤツの助言に従うか」

青年は呟きながら足を進め、ビルの前側、窓際へとたどり着いた。

「少し揺れる。悪いが我慢してくれ…」

言うが早いか、タケシは左手を壁に向け空間歪曲で風穴を開ける。

吹き込む風に負けずに足を踏み出すと、青年は宙へと身を躍らせた。

タケシはユウトを背負ったまま、高速で落下する。

 やがて地面が迫ると、タケシは頭上で空間に大穴を空けた。

 大穴は周囲の大気を吸い込み始め、二人は減速し、絶妙な加減によってほとんど衝撃を受けずに着地する。

ユウトの様子を確認し、ゆっくりと、慎重に歩き出したタケシに、周囲の警官や政府関係者が駆け寄る。

「おい、資料はどうだった!?」

「生存者は!?」

「研究室はどうなったんだ!?」

「他の調停者は何をやってるんだ!」

詰めかけ、口々に声を上げる群衆に、

「退けっ!」

タケシは大声で怒鳴った。

濃厚な殺意すら発散する青年の剣幕に、詰めかけた人々がたじろぎ、後ずさる。

「おい退け!道をあけろ!」

人混みの向こうから声が上がり、人垣をかき分けてカズキが二人の元に駆けつけた。

警官はユウトの様子を見て息を呑んだが、すぐさま振り向いて大声を上げた。

「救護班、重傷者一名!処置と搬送急げ!大至急だ!最優先で車回せ!関係ないヤツは下がって道あけろ!」

カズキは怒鳴るように指示を飛ばすと、二人の傍に駆け寄り、タケシと二人でユウトを両側から支える。

「大丈夫だ。すぐに救急車で搬送する。気をしっかり持てよ…」

励ましながら、カズキは改めて恐怖を感じていた。ユウトを瀕死の状態にまで追い込んだ、襲撃者の底知れない力に。

サイレンを鳴らしながら走り込んだ救急車にユウトを乗せると、一緒に乗り込んだタケシに、カズキが声をかけた。

「後のことは任せろ。お前はユウトの傍を離れるんじゃないぞ…!」

「…済みません…」

タケシは警官に頭を下げる。その二人の間でドアが閉められると、救急車はサイレンを鳴らして走り出した。



ユウトが運び込まれた手術室前の廊下で、タケシはベンチに腰掛け、手術中のランプをじっと見つめていた。

悔しさを堪えているようにも、泣き出しそうなのを耐えているようにも見える表情で、青年は拳を握りしめている。

自分が迷いなどしなければ、ユウトは一度取り押さえたシノブを離す事は無かった。

自分が制止しようとしなければ、ユウトはこんな目に遭わずに済んだ。

それぞれの時、自分はどんな顔をしていたのだろう?ユウトはそれをどう感じたのだろう?

自分の過去を知る女、不流忍…。この二年間で初めて出会った、過去の自分と面識のある人物。

だがしかし、失った過去を知ることが出来ると期待したせいで、調停者としては判断を誤り、結果的にユウトが倒れた。

ユウトの手術を執刀しているのは、ずっと世話になってきたあの老医師だ。

 腕は信頼しているし、彼以上の名医など望めないと分かっている。

それでも、タケシは不安だった。

経験上よく解っている。あれほどの傷と出血では、普通は助からない。

 いかに頑丈なユウトとはいえ、今回ばかりは助かる確証は得られなかった。

もしもユウトが死ぬような事になったら、全て自分のせいだ…。

 ユウトが助かるなら、自分の命をくれてやっても構わない…。

青年は歯を食い縛り、手の平に爪が食い込むほどに拳を握り締めながら、後悔の念に囚われていた。



手術開始から三時間後、駆けつけたカズキは青年の隣に腰を下ろし、ユウトの状況を聞いていた

ビルの中で何があったのか、付き合いの長い警官は、今は尋ねないで居てくれた。

「…ユウトの実家には、連絡したのか?」

「ユウヒさんに連絡を取りました。もうじき来るはずです」

しばらくの間黙り込んだ後、カズキは沈黙に耐えかねたように口を開いた。

「元気出せ。あのユウトが、そう簡単にくたばる訳がないだろう?」

頷きながらも、タケシは目を伏せ、黙ったままだった。



手術開始から四時間が経った頃、タケシはベンチから立ち上がり、廊下の一方へ視線を向けた。

 気付いたカズキも顔を巡らせ、立ち上がる。

 向こうから歩いてくるのは、赤銅の被毛も鮮やかな、極めて大柄な獣人。

 神代家十八代目当主にして、ユウトの兄、神代勇羆であった。

ユウヒは大きな体を屈め、二人に一礼する。

「久しいな不破殿、種島殿…。それで、状況は?」

「手術開始から四時間が経ちましたが、まだ…」

「…そうか」

短く頷くと、ユウヒは手術室のドアに向き直った。

落ち着いた低い声音と態度からは、動揺している様子は見て取れなかったが、手術中のランプを見る際に、その瞳が哀しげ

に細められた事に、タケシは気付いていた。

「少し外します。飲み物でも買ってきましょう」

カズキは立ち上がると、二人に気を利かせ、席を外した。

廊下を歩いて行った警官の姿が見えなくなると、タケシはユウヒに深々と頭を下げた。

「…申し訳ない。傍にいながら、ユウトをこんな目に遭わせてしまった…」

「顔を上げられよ。不破殿のせいではない。力が及ばなかったにせよ、油断して遅れをとったにせよ、戦場では全て己自身に

責がある」

ユウヒは静かにそう言った。

「ユウトは、俺がかけた言葉に気を取られて…」

タケシは拳を握りしめる。爪が掌に食い込み、血が滲んだ。ユウヒは身を屈めてその手を取り、止めさせる。

「我ら神将の血族は、生まれ落ちたその時より、戦場で命を落とす覚悟はできている。例え死んだとしても、ユウトは不破殿

を恨んだりはせぬよ」

恨んでくれて良い。嫌われても構わない。生きてさえいてくれるなら…。

青年は生まれて初めて、神に祈った。



八時間に及ぶ手術の末、手術室のランプが消えると、三人は揃って立ち上がった。

扉を開けて出てきた老医師に、タケシがつかつかと歩み寄った。

「ユウトは?ユウトは大丈夫ですか!?」

寡黙な老医師は答えず、黙って首を後ろへ巡らせた。

続いて扉が開き、数人の看護士により、大型のストレッチャーに乗せられたユウトが運び出される。

顔に酸素マスクをはめられた痛々しい姿で、ユウトは人工呼吸器によって、弱々しく息をさせられていた。

「…最善は尽くしたが…」

老医師の声は硬く、そして掠れていた。