第三十話 「涅槃の平原」
ガラスの向こう、無菌室で眠り続けるユウトを、タケシ、カズキ、ユウヒの三人が見守っていた。
手術が終わって四時間が経ち、すでに正午近くになっている。
「少し休んだ方が良いぞ?」
気遣ってそう言ったカズキに、タケシは首を横に振る。
「お二人こそ、少し休んでください。カズキさんは残務整理が残っているでしょうし、ユウヒさんも移動で疲れているでしょ
う。…俺は、ユウトを見ています…」
二人に仮眠室へ行くように勧めると、一人残ったタケシは、そっと無菌室に入り込んだ。
眠り続けるユウトの傍らに立つと、タケシは彼女の左手を握る。
「…済まない…。…済まない、ユウト…」
泣き出しそうな顔で、タケシは呟いた。
視界一杯に、見渡す限りの灰色の草原が広がっていた。
空は灰色で、真っ白い太陽が寒々しい光を放っている。
地平線まで続く黒白の草原に、気付けばタケシは一人で佇んでいた。
灰色の草はタケシの胸程までの高さがあり、草原には草以外に何も無い。
青年は周囲を見回し、歩き出す。無目的に歩き始めた彼は、しばらくしてから、自分が何かを探している事に気付く。
(…ユウト…?)
姿を求め、視線を巡らせた青年は、少し離れた灰色の草の陰で揺れる金色に気付く。
歩み寄ろうとすると、金色は草の向こうへ、向こうへと逃れていった。
(待ってくれ!)
タケシは草をかき分けながら駆け出し、草の中の人影に手を伸ばす。
その右腕を掴んだ時、ユウトの右腕について何かあったような気がしたが、思い出せなかった。
(なぜ逃げる?)
タケシは腕を掴んだまま尋ねる。互いの間には草が茂っており、顔が見えない。
(行かないでくれ)
青年の言葉に、草の向こうで微かな笑い声が漏れた。
(「行かないでくれ」?…君が殺したのに?)
違和感を覚え、タケシは掴んだ腕に視線を向ける。
それは、色白で、細い、人間の女の腕だった。
強い風が、ザァッと草をかき乱した。そして草の向こう側がタケシの瞳に飛び込む。
金色の髪に蒼い瞳の女が、タケシをじっと見つめていた。
(ユウトじゃない…。誰だ?)
問いながらも、タケシは女の顔に見覚えがあった。
女の腕を離し、引っ込めようとしたタケシの腕を、今度は逆に女が掴んだ。
(連れないなぁ。キミが殺したのに、覚えてないの?)
女はタケシを見つめたままクスクスと笑った。
(ユウトは何処だ?)
問うタケシに、女は微笑む。
(今更探してどうするつもり?)
(探して…、俺は…、ユウトを…)
探してどうする?青年には答えが思い浮かばなかった。
目的など無い。ただ、ユウトが傍に居ないのが耐え難かった。
女は笑みを浮かべ、青年の瞳を覗き込む。
蒼い、晴れた秋の空のような瞳が、青年の顔を映し出す。
(キミは死を撒く者。探し出して殺すんでしょ?)
(違う!俺はユウトを傷つけはしない!)
(なら、何故あんな目に遭ったのかな?)
この言葉に、タケシは思い出した。
(お前は誰だ?)
(キミが殺した者だよ)
女は薄く笑う。
(大切な者だと、感謝していると言いながら、キミは失った過去を求め、誘惑に抗えず、結局ユウトを捨てた)
(違う!)
(ユウトはキミを信じていたのに、キミはあの時止めた。あの言葉が無ければ、ユウトもあんな目に遭わずに済んだのに。キ
ミには神代熊斗より、過去の記憶の方が大切だった)
(違う)
(可愛そうなユウト…。キミが何者であるか知らないまま、素性も関係なく信頼していたのに、大切にしていたのに…。結局
キミに裏切られた…)
(違う…)
否定しながらも、タケシの声は弱々しくなっていた。項垂れて黙り込んだ青年に、女は畳み掛けるように言う。
(キミが傍に居る限り、ユウトは不幸から逃れられない)
(………)
女は沈黙したタケシを蒼い瞳で見据えながら言った。
(それが嫌なら、揺るぎない強さを持つ事だね)
顔を上げたタケシは、女が何を言っているのか解らず、言葉が出なかった。
(揺るぎない魂を持つの…。過去を思い出そうと、自分が何者であろうと、決して揺らぐことのない確かな魂をね…)
女は真っ直ぐにタケシを見つめて続けた。
(ユウトは過去のキミの事を信じている訳じゃない。今のキミを信じている。そのことを、肝に銘じておくんだね)
女が腕を放すと、再び強い風が吹き過ぎた。一瞬目を閉じたタケシが目を開けると、すでに女の姿は無かった。
タケシがしばし呆然と佇んだ後、三度、強い風が吹き過ぎた。
タケシの背後から前へと吹き過ぎた風は、草の頭を寝かせ、青年の前には道のように視界が開けた。
青年の目が、驚愕に見開かれる。
視界が開けた先、左右に割れた草の海の中に、栗色の髪の、小さな女の子が立っていた。
懐かしさが、そして喪失感が、感情に乏しい青年の声を震わせた。
(…アリス…!)
歳は五歳程だろうか、熊の縫いぐるみを抱えた、まるで人形のように可愛らしい女の子は、タケシを見て無邪気な笑みを浮
かべると、くるりと背を向ける。
(待てアリス!何故お前がここに…!)
風が治まり、深い草の海に戻った平原の中に駆け込んでゆく女の子を追い、タケシは草を掻き分けながら駆けた。
女の子の姿は見えなくなったが、タケシは必死になって前へ進む。
駆け続け、方向も見失った頃、辿り着いた円形の広場の中央に、ユウトが居た。
タケシはハッと顔を上げ、周囲を見回した。
白い壁、バイタルサインを示すモニター類、そしてベッドの上で眠り続けるユウトの姿があった。
(俺は…、眠っていたのか…?)
不思議な夢を見たことを、タケシはぼーっと思い出す。
色のない平原で不思議な女と出会い、懐かしい幼女と再会し、それからユウトを見つけた。
こちらに気付かず、背を向けたまま立ちつくしていたユウトに駆け寄って腕を掴むと、ユウトは驚いた様子で振り返った。
そこから何か言葉を交わしたような気もするが、詳しくは思い出せなかった。
タケシはユウトの顔を見つめる。穏やかな寝息が聞こえ、安心した後、青年はその異常さに気付いた。
呼吸が、しっかりして落ち着いている。
モニターに目を向けると、不安定だったバイタルサインは、正常をやや下回る程度まで回復していた。
タケシは立ち上がると、ユウトの顔を覗き込む。その途端、ユウトの瞼がピクピクと動き、やがて薄く開かれた。
ぼんやりと天井を見上げ、それからタケシに気付いて視線を動かすと、ユウトは口を開こうとして、痛みに顔を顰めた。
呼吸が乱れ、喘ぐように息をつくユウトに、タケシは慌てて注意する。
「喋るな!傷に障るぞ!?」
タケシはユウトの蒼く澄んだ目を覗き込む。何かを問うような視線に、タケシは頷く。
「ここは病院だ。危ないところだったが。助かったらしい」
タケシはそう言うと、カズキとユウヒ、医者を呼んでくるため、踵を返そうとした。が、思い直してユウトに向き直る。
傷に触らないよう注意しながら、タケシはユウトの顔に両手を伸ばし、その頭を優しく抱き締めた。
「…良かった…。本当に、良かった…」
愛おしそうに、ユウトの頭に頬ずりしながら、タケシは呟いた。消毒や薬の臭いに混じり、馴染んだ匂いが鼻孔をくすぐる。
ユウトは初めてタケシが見せる行動に、一瞬戸惑ったような、驚いたような顔で目を丸くしたが、やがて、くすぐったそう
に目を細めた。
カズキと兄に言葉をかけられ、診察が終わると、ユウトは再び眠りに落ちた。
獣人でもほとんど前例のない、驚異的な回復力だと、医師達は驚いていた。
ひとまず安心したカズキは職務に戻り、タケシとユウヒが控え室に残る。
タケシは不思議な夢の事を、金髪の女の事は省略してユウヒに話した。
「不破殿は、「涅槃の平原」という物をご存じか?」
首を横に振った青年に、巨熊は「ふむ」と頷いて続ける。
「我々獣人には、古くからこういう言い伝えが有る…。我々は死後、色のない黒白の草が茂る平原を抜け、あの世に至るとい
う物だ」
黒白の平原と聞き、タケシは夢の中の光景を思い出す。
「我々の殆どは信仰を持たないが、この認識だけは海を隔てた向こう側でも変わらない。世界中の獣人がイメージしている、
いわゆる死後の世界観だ」
「三途の川、のような物ですか?」
「まさにそのとおり。平原の向こうから呼ぶ、親しい者の声を頼りに原を抜け、あの世の住人となる…。思うに、不破殿は向
こうへ逝こうとしたユウトを引き留めてくれたのだろうな…」
そう言うと、ユウヒは深々と頭を下げた。
「あいつに代わり、礼を言わせてもらう」
タケシは慌ててユウヒに顔を上げさせた。
そもそも、自分のせいでユウトが瀕死の傷を負ったという事は、未だに青年の心に根を張っている。
自分の迷いが生んだこの事件の事を、タケシはこの世に別れを告げるその瞬間まで、決して忘れはしなかった。
そしてこの時、もう二度と、ユウトの信頼を裏切らないと、心に誓った。
広い、まるで図書室を思わせる、書物に埋もれた部屋で、ダークレッドのジャケットを羽織った黒髪の女が、分厚い木の机
を拳でドンと叩いた。
「何故です?彼は間違いなく不破武士でした!何故迎えに行っていけないのですか!?」
「落ち着けシノブ」
傍らに立つ銀狼が、若く、気の強そうな女を諫めた。
「我々は任務継続中の身だ。余計な行動を起こし、警戒を促すのはまずい」
銀狼を睨み付けるシノブに、本棚の一つに寄りかかっていた男が口を開いた。
「フェンリルの言うとおりだ。今度の任務がいかに重要か、お前にも解っているだろう」
男は金属製のプロテクターで全身を覆っている。
鎧の下から見える肌はエメラルドグリーンの鱗で覆われており、その頭部は奇妙な獣の形をしていた。
は虫類のようではあるが、トカゲともワニとも違う。
獣のような突き出た鼻先、頭部から伸びる二本の角。神話に語られる竜の顔である。
黄色い瞳でじっと自分を見つめる竜人に、シノブは声を荒げた。
「そもそもヨルムンガンド!お前が爆弾のセットを間違えなければこんな事には…」
「その事だが…」
シノブの言葉を遮り、反対側の壁際に立っていた男が口を開いた。
艶のある漆黒の被毛に覆われた、スラリとした体つきの犬の獣人だった。
「爆弾のセットは私も手伝った。誓って言うが、設置手順にミスはなかった。二人で何度も確認した事だ」
「ガルムの言うとおりだ。入念に何度もチェックした。…ところがだ、決して少なくはない数の爆弾が、タイマーに関係なく
作動し、結果、次々と誘爆を起こした」
黒犬の言葉を引き取り、竜人が説明した。
「…では、爆弾自体に不具合があったのか…?」
「あり得ない話ではない。…が…」
考え込むように顎に手を当てて言ったシノブに応じながら、フェンリルは自分達の立場に思いを巡らす。
「が、何だ?フェンリル?」
シノブの問いに首を横に振って応じ、銀狼は黙り込んだ。
彼らはラグナロクの先遣部隊ではあるが、同時に他の部隊から手柄を狙われる立場にもある。
他の部隊は信用できない。フェンリルは昨夜の事を記憶に留めておくことにした。
「それよりも、問題はタケシの事です。今彼は記憶を失い、どういう訳か、調停者と行動を共にしています。その調停者には
とどめを刺し損ねましたが、病院へ運ばれ、動ける状態にはないようです。行動を起こすなら今です。どうか、私にタケシを
連れ戻す許可を下さい。ロキ!」
シノブの言葉が終わると、机の向こうで、こちらに背もたれを向け、誰も座っていない椅子から声が流れ出た。
「許可はできませんよベヒーモス。調停者と共に居る以上、接触は危険を伴います。この国のハンター達…、調停者を見くび
らない方が良い」
そう応じたのは、澄んだ、高い声だった。
「ですが、私とフェンリルはこれまでにも、調停者を何人も…」
「約二年前、この国の首都で行った作戦で、ラグナロクはあと少しという所までバベルに迫りました。海保も港湾警備も、警
察機構も軍も退けた我々の前に、最後まで立ち塞がったのが調停者達でした。そして…、結果はよく知っているでしょう?」
シノブは唇を噛み、悔しげに顔を歪ませた。
「知っています。千人足らずの調停者の連合部隊の手で、ラグナロクの精鋭、五千名が散りました…」
姿を見せぬまま、声は続ける。
「彼らの中には、デスチェイン、バジリスク、アークエネミー、セレスティアルゲイザーなど、一人で百人以上もの兵と渡り
合うような怪物が混じっています。我々は高い授業料を払い、身をもって調停者の力を知った訳です。だからこそ、今回は様
々な絡め手と、裏からの手回しを駆使して事に当たっています。わざわざ虎の尾を踏むような危険を冒すつもりは、上層部に
は無いのですよ。解りますね?」
「…はい…」
悔しげな表情を浮かべながらも、シノブは声の主に頷いた。
声の主は思案するように、低い声で呟く。
「かといって、ベヒーモスの可能性がある者を、放置しておくわけにも行かないですね…」
「では…!」
期待を込め、勢い込んで顔を上げたシノブに、声は微かな笑いを含みながら言った。
「まあ落ち着きなさい。私が少し様子を見てみますよ」
二週間近く、ユウトは殆ど眠ったまま過ごした。
食事も摂らず、点滴だけで栄養を補給して眠り続ける内に、ユウトの体は劇的な変化を遂げていた。
体中の贅肉が削げ落ち、次第に痩せ細りながらも、その傷は信じられない速度で癒えてゆく。
回復というよりも、修復されるように、傷は日に日に塞がって行き、接合された腕も、胸と背の傷も、たった二週間の内に
糸を残してすっかり痕跡を消していた。
入院から15日目、朝早くに目を覚ましたユウトは、入院してから初めて空腹を訴えた。
突然物を口にしてもあまり食べられないし、胃に負担がかかるとも言われたが、ユウトは粥をガツガツと掻き込み、どんぶ
りで5杯食べてもまだ物足りない様子でお代わりを催促した。
驚く医師達の中で、あの老医師だけはいつもと変わらない様子で言った。
「明日からは、好きなだけ食べさせてやりなさい」
老医師はユウトの具合を確認すると、看護士にそう指示を出した。
「大丈夫なのですか?」
心配して尋ねたタケシに、老医師は言葉少なに語った。
戦時中に神将の血筋に当たる獣人を治療したことがある事。
その時、瀕死の重傷を負ったその獣人が、ユウトと同じように幾日も眠り続け、目覚めた時には傷は殆ど癒えていた事。
「体中の使える栄養を、傷を癒す為に片っ端から使ったんじゃ。傷が殆ど塞がった今、必要なのは十分な休養と、十分な食事
ですよ」
理解したと頷くと、タケシは老医師に深々と頭を下げた。
青年が知る限り、かつてこれほど話したことの無かった老医師は、再び口を閉ざして歩み去った。
「…う〜!…もう限界!お腹いっぱい…」
粥と果物類を思う存分に食べ、満足げに息をついたユウトは、ベッドの上に寝ころび、腹をさすりながら目を細めた。
この三日の内に、ユウトは自由に歩き回れるまでに体力を取り戻し、痩せこけていた体にも生気が戻り、ふっくらと丸みを
取り戻してきている。
「リバウンドに気をつけるべきだぞ?俺達の体はホメオスタシスが働きやすいうえに、一度働き出すとしばらく静まらぬ」
リンゴをシャクシャクと、皮も剥かずに丸かじりしながら言うユウヒに、ユウトは顔を顰めて抗議する。
「あにちゃ!ほいづぁおらが貰った見舞い!」
(訳・兄さん、それはボクが貰ったお見舞い!)
「しぶんな。あどで西瓜こうで来たっから。そっちのが食いであって良がすぺ?」
(訳・渋るな。あとで西瓜を買って来てやるから。そっちの方が食いでがあって良いだろう?)
この兄にしてこの妹あり。リバウンドに気をつけろと言った矢先にこれである。
しばし郷訛り100%で軽く口論した後、ユウヒは椅子から腰を浮かせた。
「さて、買い物がてら少し出てくる。不破殿、済まないが少しの間頼む」
ユウヒが部屋を出ると、タケシはリンゴの皮を器用にスルスルと剥きながらユウトに話しかけた。
「簡単な検査を済ませれば、三日後には退院できるそうだ」
「本当?助かった〜。体がなまって仕方なかったんだよね」
タケシは手を止め、ユウトの右腕を見つめる。
「しばらくは安静にしなければならないぞ。まだ右腕は…」
「分かってるよ。動くようにはなったけど、まだ感覚が鈍いしね。しばらくはリハビリに専念しなくちゃ」
感覚を確かめるように、右手を握ったり開いたりするユウトの顔を、タケシは見つめる。
じっと自分を見ている青年に気付き、ユウトは首を傾げた。
「どうしたの?タケシ」
青年は視線を自分の手元に落とし、しばし黙って何かを考える。葛藤するかのように、その瞳に苦悩の色が浮かんでいた。
やがて、タケシは意を決したように顔を上げ、口を開いた。
「ユウト。話さなければいけない事がある」
タケシはあの夜、村瀬ビル内で起こった事を、ユウトに話した。
シノブという女と出会った事。
見覚えのあるその女は、記憶を失う前の自分を知っていた事。
爆発が起こり、その女とはぐれ、ユウトとシノブを探してビルの中を探し回った事。
見つけた時には、ユウトがシノブを捕らえていた事。
自分の不用意な言葉が原因で、ユウトが重傷を負った事。
そして、フェンリルという銀狼が現れた事。
フェンリルがシノブを連れて退却し、その際に脱出の助言を貰った事。
フェンリルがラグナロクだと名乗った事を除き、タケシは全てを打ち明けた。
出血と傷のショックで、意識が混濁していたのだろう。
ユウトは胸を貫かれた後から記憶が曖昧になっており、フェンリルが現れた事は覚えていなかった。
自分を置いて逃げるようにと、タケシを気遣ったのは、無意識の内に口走った事だったらしい。
殆ど口を挟まずに聞いていたユウトに、話し終えたタケシは頭を下げた。
「済まない。俺が迷ったせいでこんな目に遭わせてしまった…。詫びようも無い…」
項垂れるタケシに、ユウトは微笑みかけた。
「良かった」
なんと責められても仕方がないと思っていた青年は、顔を上げてユウトを見る。
「やっぱり、あの人はタケシの昔の知り合いだったんだね?」
「…そうらしい」
ユウトはにっこりと笑う。心底安心した。そんな笑顔だった。
「キミの仲間だったかもしれない人を傷つけずに済んで、本当に良かった」
タケシは胸が締め付けられるような感覚に、知らずの内に拳を握りしめていた。
あんな目に遭いながらも、ユウトは一貫して自分の事を考えていてくれた。
それなのに自分は己の事を考え、迷い、結果としてユウトを傷つけた。
ユウトの優しさが、思いやりが、暖かさが、今は辛かった。
「でもそれなら、なおさら彼女を逃がしたのは痛いねぇ…」
ユウトは腕組みをし、視線を掛け布団の上に落として呟いた。
「捕まえられればタケシの昔の事を色々聞けただろうし、もしかしたら記憶を取り戻すきっかけになったかもしれないのに…」
「いや、もう良い…」
ユウトはそう応じた青年を見つめる。
「次にあったら手加減するな。俺に気を遣う必要も無い。いつもの相手と同じように対応しろ」
ユウトは驚いて青年の顔を凝視した。
「…本気なの?」
「ああ。俺の記憶の事などどうでもいい。今を失うくらいなら、過去など必要ない」
半分は本音で、半分は嘘だった。
ユウトを失うことは耐えられない。だが、自分の過去を知らなければ、いつかまたユウトを傷つけてしまうような気がした。
(どうにかして過去の自分を知る。だが、それはあくまでも自分自身の手でだ。ユウトまで巻き込む訳にはいかない…)
「良いな?次にあいつと出会ったとしても、一切の手心は不要だ」
「うん、判った…」
しぶしぶ頷きつつも、ユウトはその言葉に従うつもりは無かった。
タケシの仲間だったかもしれない人物、シノブ。
彼女から過去の話を聞き出せば、タケシの記憶を取り戻してやれるかもしれない。
ユウトはどうしても彼女を生きたまま捕らえなければならないと考えている。
しばし無言で考えを巡らせた二人は、ユウヒが帰って来た時には、すでにそれぞれ、今後の方針を決めていた。
「急で済まぬが、明日の朝、村へ帰る事にした」
帰って来るなり、ユウヒは唐突に二人に告げた。
「傷の具合もだいぶ良いようだ。もう心配はあるまい。不破殿、世話をかけて済まぬが、ユウトを頼む」
「了解しました。が、村で何か問題が?」
タケシの問いに、ユウヒは頬を掻きながら微妙な顔で答えた。
「いや、心配には及ばぬ。単に、当主が長く不在なのは好ましくないと、家内に釘を刺されてな…。自分が付き添いに行くか
ら、俺は戻って来るようにと言われた」
「え?それは嬉しいけど、遠いところをわざわざ義姉さんに来て貰わなくとも、もう大丈夫だよ?大事な時期なんだから、無
理しない方が良いって」
タケシはユウトの言葉に首を傾げると、ユウヒに視線を向けた。
巨熊は咳払いを一つすると、視線を逸らしながらボソリと呟いた。
「…出産予定が、来年の三月で…」
それを聞いたタケシの顔が綻んだ。
「まったく気付きませんでした…。おめでとうございます!父親になられるのですね?」
ユウヒは照れたように顔を背けたまま、頬を掻いている。兄妹揃ってこういう時に頬を掻く、同じ癖があるらしい。
「まだ体は大丈夫だろうけど、傍に居てあげた方が良いよ。ボクはもう平気だからさ」
ユウトはそう言って笑う。
生まれてくる甥っ子か姪っ子の事を考えると、嬉しいと同時に、少しばかり奇妙な気分になる。
自分もいつか、義姉のように素敵なお嫁さんになれるのだろうか?
そしていつか、誰かの子供を産むのだろうか?
そう考えると、くすぐったいような、不安なような、いわく言い難い気持ちが胸を満たした。
「さてユウト。今日はずいぶん起きたままだった事だし、もう眠った方が良いだろう。不破殿もそろそろ休むと良い。疲れも
溜まっている事だろうし、俺も退院の準備が手伝えなくなってしまったからな」
二人は素直にユウヒの提案に頷いた。
考えなければいけないことはたくさんある。
傷を癒し、体力を蓄えながら、これから先に起こる事に、備えていかなければならない。
ユウトの退院当日には、カズキとアケミが手伝いに来てくれた。
タケシは携帯を失った後、昨日新たに購入するまで連絡がつかない状態になっていたし、そうとは知らなかったユウトは、
病院内につき、律儀に携帯の電源を切ったままにしていた。
もっとも、殆どの時間を眠って過ごしていたせいで、使う機会もなく、気付かなかったというのもあるが、それにしても…、
「酷いですよ二人とも!何度電話しても繋がらないし、事務所は一ヶ月近くも閉まったままだし、事務所の留守番電話にも何
度も伝言を預けたのに!」
「ごめんねぇ…。忘れてた訳じゃ無いんだよ?てっきり知ってるとばかり思ってたから…」
ユウトは大きな体を縮こめ、申し訳なさそうに謝る。その隣で、タケシも同じように肩を縮めていた。
「まあ、無事だったから良しとします…。今度からはきちんと連絡して下さいね?偶然、種島さんとお会いしてお話を聞くま
で、何が起こったのか全然知らなかったんですから」
アケミは能力者の登録をおこなった際にカズキと知り合っている。
カズキも二人のどちらかが少女に連絡していると思っていたうえ、事件の処理に忙しく、アケミと会う機会も無かった。
そのため、今日、病院の前で偶然顔を合わせるまで、少女はユウトが生死の境を彷徨うほどの重傷を負い、入院していた事
を全く知らなかったのだ。
カズキから事情を聞いたアケミは「ユウトが生死に関わるほどの重傷を負って…」のくだりでいきなり走り出すと、病院に
駆け込み、大あわてで受付に飛びつき、身振り手振りでユウトの事を尋ね、階段を駆け上り、その病室に飛び込んだ。
着替えやタオルなどの私物を片付けていたユウトとタケシは、駆け込んできた少女に、驚いて作業を止めた。
アケミはユウトが生きている事を確認すると、安心のあまり、足から力が抜けてへなへなとその場に崩れ落ち、二人に助け
起こされるはめになったのである…。
カズキとアケミの助けを借り、呼んだタクシーに荷物を積み込むと、二人は礼を言ってタクシーに乗り込んだ。
「手が必要な時は、遠慮無く言って下さいね?手伝いに行きますから」
「しばらく呼び出しは控えるから、ゆっくり養生しろよ」
見送る二人に手を振って、タケシとユウトは懐かしの事務所へと帰っていった。
事務所に戻った二人は、まずカレンダーを確認した。
「もう11月も後半だねぇ」
ユウトが入院したのは11月初めだった。ほぼ一ヶ月の病院暮らしを振り返り、感慨深そうに言ったユウトに、タケシが頷く。
「そろそろ気温も下がってきた。冷えると体に触る。お前の部屋には少し多めに毛布を運び込んでおこう」
「そうだね、ありがとう」
ユウトは半分上の空で応じた。
あと一ヶ月でクリスマス。首都でのマーシャルローからもうじき丸二年が経とうとしていた。
ラグナロク。大切な者の命を奪い、首都での惨劇を引き起こしたあの組織を、ユウトが忘れたことは片時も無い。
その事は、同じ戦いを潜り抜けたタケシにも良く解っていた。
そして、自分がラグナロクなのかもしれないという事も、良く解っていた…。