第三十一話 「記憶の欠片」
事務所の休日。いつものようにドーナツを買い込んで訪れたアケミは、丁度出かける所だったタケシと、玄関先で顔を合わせた。
「菓子の差し入れか。毎回出費させて済まないな」
「あれ?お出かけでしたか…」
残念そうに言ったアケミに、タケシは親指で背後を指し示した。
「少々用事があってな。だが、ユウトは居るからゆっくりして行くといい」
「それでは、お言葉に甘えて…」
会釈して事務所の扉を潜ったアケミに、タケシは振り返りながら声をかける。
「あいつは屋上に居るはずだ。それと、「せめてアップルパイ一つは残しておいてくれると嬉しい」と伝言してもらえるか?」
「はい。判りました」
クスクスと笑いながら応じたアケミを残し、タケシは階段を降りていった。
「傷つきぃ〜ぃい〜ながらぁもぉ〜!あ〜とぉ振り向かぁ〜ずぅ〜!」
扉を開け、屋上に現れたアケミは、腹の底に響くような大音量で迎えられた。
事務所の屋上は庭園になっており、その一角はユウトの趣味と実益を兼ねた家庭菜園になっている。ホースで花壇に水を撒
きながら演歌を熱唱するユウトに手を振り、少女は来訪のあいさつをした。
「こんにちはユウトさん!」
「お?いらっしゃいアケミちゃん」
気付いたユウトが手を休め、笑顔で応じる。
一度はシノブに斬り落とされ、接合手術を受けた右腕だが、今はホースをしっかりと握っていた。まだ本調子とは行かない
ものの、熱心なリハビリの甲斐もあり、日常生活に支障が無い程度までには回復している。
「立派に育ちましたねぇ」
アケミは色付きの良いブロッコリーを眺め、感心して言った。
「収穫まではもう少しかかるけどね。ここまで育てば一安心。入院中に駄目になっちゃわないか心配だったんだ。…タケシに
頼んだら、プロテイン捲くっていう暴挙に出たし…」
相棒の常識欠落度合いを改めて思い出したのか、身震いしながら再び水を撒き始めた熊の足下に、アケミは見慣れない植物
を認めた。
直径20センチ、深さ30センチ程の丈夫そうな鉢が10個。それぞれからニンジンの葉のような形の、真っ赤なギザギザ
した葉っぱが伸びている。
水を撒き終えたユウトに、それが何なのか尋ねると、
「ああそれ?マンドラゴルァだよ」
「マンドラゴラ?」
アケミは何かで見たか読んだかした、オカルトチックな植物の事を思い出す。
「抜くと悲鳴を上げて、それを聞いた人は死んでしまうっていう…、あの?」
ユウト達に出会ってからというもの、それまでなら夢物語としか思えなかったような出来事と出くわす事が多々ある。今回
のこれも、もしかしたら本物なのだろうか?少女はそう考えて不安になり、鉢植えから少し離れる。
「んはは!違うよ。マンドラゴラじゃなくてマンドラゴルァ。呪いの悲鳴で相手をノックアウトする陰湿な植物じゃなくて、
抜いた相手をゴルァッ!ってどやしつける気合いの入った植物なの」
(…どんな植物ですか一体?)
アケミが胡乱げに見つめていると、ユウトはその鉢植えの前で屈み込んだ。そして葉っぱを掴み、無造作にマンドラゴルァ
を引っこ抜く。
ニンジン。確かにニンジンのような色合いの太い根が土の中から現れた。しかし、その根には皺が深く刻まれ、それが眉間
に皺を寄せたおっさんの顔のようにも見える。
その顔が、不意にクワッと目を見開いた。
「んごるぁああああっ!!!」
中年のおっさんがドスの利いた声で怒鳴るような、そんな大声を発して恫喝したマンドラゴルァに、アケミはビクリと身を
竦ませた。
しかし、金熊は眉一つ動かさず、足下に置いた桶に水を満たすと、土から引っこ抜いたマンドラゴルァをその中に沈め、ジャ
ブジャブと洗い始めた。
「ごるぁあっ!ごるぁぶふっ!ごるっげほげほっ!ごるぁ!ちょ…がぼがぼがぼっ!」
最初は気合いの入っていたマンドラゴルァの声が、抗議するような響きを伴いながら、次第に弱ってゆく。
「味はニンジンに似てるけど、もっと甘みがあって、栄養価も高いんだよ」
「はあ…。え?こっ、これ食用なんですか!?」
「うん。好んで食べる人は、何故かあまり居ないんだけどね」
アケミの問いに頷くと、ユウトは完全に土が落とされ、弱々しく「ごるぁ…」と呟くマンドラゴルァを、彼女に差し出した。
「もう食べ頃だね。味見どうぞ」
怯えた表情で首を左右にブンブン振るアケミを見て、ユウトは、
「ああ、食べ方ね。普通はニンジンと同じように使うけど。生のまま丸齧りしても美味しいんだよ?こういう風に…」
「ごるぁ…、ごるぁ…、ご…ごるぁっ?ごるぁぁあっ!!?ごるっ!ごる…!ごっ…」
バリボリと音を立て、鋭い牙でマンドラゴルァを噛み砕く。アケミはマンドラゴルァの悲痛な断末魔が聞こえないよう、小
さく震えながら、耳を塞いでいた。
「うん。良い味に仕上がってる。一本どう?」
「い、いえっ、またの機会に!…あ、そ、そうだ!ドーナツ買って来ましたから。お茶にしませんか!?」
「え?また買ってきてくれたんだ?いつもいつも悪いねぇ」
アケミが勢い込んで言い、ドーナツの入った紙袋を掲げて見せると、ユウトは口の周りに飛び散ったマンドラゴルァの汁を
手の甲で拭いながら笑みを浮かべた。血のように赤い汁が獲物を狩った返り血のようにも見え、ぶっちゃけかなり怖い笑顔である。
連れ立って屋内へ戻ってゆく二人の背後で、中身の残された9つの鉢植えが、怯えたようにカタカタと震えていた。
その頃、日の光も届かぬ地下深くで、入り組んだ地下水路を一人の青年が歩んでいた。
流れる水路の脇には、人が二人並んで通れるほどの通路があり、それが闇の奥へと延々と続いている。
通路に灯りは無いが、タケシの周囲はうっすらと明るい。青年が足を進める少し前方に、光を放つ球体が浮かんでいた。青
年の歩むスピードに合わせて前を漂うそれは、ユウトが持つ物と同じ、照明用レリック、ライトクリスタルである。
レリックの放つ光に足場を照らされながら、青年はどんどん奥へ進んでゆく。
いくつもの枝分かれした道を過ぎ、しばらく歩いた後、やがてタケシは足を止めた。
その視線の先、通路の壁には、錆び付いてボロボロになった鉄製の扉がある。取っ手は落ちて無くなっており、それがはまっ
ていた穴が、ぽっかりと口を開けていた。
周囲に視線を走らせ、何者の気配も無いことを確認すると、青年はその穴に指を突っ込み、しばらくまさぐった。やがて、
カチリ、と小さな音がすると、タケシは穴に手をかけたまま横へと引く。
蝶番の付いた、引き開けるドアに見えた扉は、蝶番ごと音もなくスライドして壁の中に収まる。一見、錆びて開かなくなっ
たように見えたドアは、巧妙にカモフラージュされた引き戸であった。
再び周囲に視線を走らせてから、タケシは壁にポッカリと開いた四角い空間に身を滑り込ませ、内側から扉を閉じた。扉は
元通りに収まると、カチリ、と小さな音を立て、何事もなかったように、錆びて開かないドアの演技を再開した。
リビングのテーブルにアケミが買って来たドーナツやパン類を広げ、ユウトはミルクティーをカップに注ぎ、テーブルに置いた。
「あ、来たときに丁度タケシさんと会ったんですが、せめてアップルパイ一つは残しておいてくれると嬉しい。と言っていました」
「了解。んじゃ最初に分けとこう」
ユウトは皿にアップルパイを一つ取り置き、ラップをかける。
紅茶の淹れ方もそうだが、こういった一つ一つの動作が実に手慣れた様子で、アケミはいちいち感心する。少し前までは少
し意外に感じていたが、ユウトが女性である事に気付いてからは、こういった家庭的な事への手際の良さに、意外さよりも、
憧れに似た感覚を抱くようになっていた。
「ユウトさんも、花嫁修業みたいな事をしたんですか?」
唐突な問いかけに、ユウトは一瞬きょとんとした後、声を上げて可笑しそうに笑った。
「んははっ!花嫁修行じゃないけど。ほら、ボクこんな見た目してるでしょ?小さい頃は格闘技の修練ばかりしてたし、男の
子と一緒になって取っ組み合って、野原を転げ回って遊んでたし、女の子らしい事は全然してなかったんだ。で、11歳の時
かな?少しでも女の子らしくしようって思って、その頃はご近所さんだったチナツ義姉さんに頼んで、料理や裁縫の勉強を始
めたんだ」
アケミは納得し、そして感心した。国内有数の大財閥の一人娘として育った彼女は、そういった事をした事がない。料理や
裁縫といえば、学校の家庭科の授業で習った程度で、中でも調理に関する授業内容は惨憺たるものだった。
「あの、ユウトさん。お願いがあるんですが…」
「うん?」
「お暇な時で結構ですから…、できれば、私にお料理を教えて頂けませんか?」
「構わないけど、どうして急に?」
「ええと…、それは…」
言いよどんだ少女を見つめ、ユウトは思い出す。
夏休み、アルとのデートの際に彼女が弁当を作って行った事を。白熊を二日間寝込ませるに至った、あの凶悪な弁当の破壊
力は、今もなお記憶に新しい。
「…ああ、うん。勉強しておけば役に立つかもね。ボクは良いよ。大概いつも暇だしね」
言い難そうに黙った少女に、ユウトは微妙な笑顔を浮かべつつ申し出を受け入れた。
青年は、湿った空気が立ち込める、狭い通路を進み続けていた。
壁も床も、天井も、全てコンクリートに覆われた通路は、高さ2メートル、幅1.5メートルほどしかない。やはり灯りは
無く、ライトクリスタルが放つ明かりだけが、見渡す限りで唯一の光源だった。
タケシの足音はコツリコツリと周囲の壁に反響し、前後の暗闇に吸い込まれてゆく。
やがて、しばらく進んだ後に、永久に続くかのような錯覚を覚えさせる代わり映えのしない通路に、唐突に変化が訪れた。
青年の前方に、弱々しい、細い光の筋が見えた。近づくにつれ天井から床までの細い光は、左の壁よりにある事が分かってくる。
やがて、ライトクリスタルの光が通路の突き当たりを照らした。
突き当たりに有ったのは鉄製のドア。細い光はドアの隙間から零れていた。
青年はドアの前に立つと、素早く5回ノックし、僅かに間を開けて3回、また間を開けて5回ノックする。それから少し間
を開け、小さく呟いた。
「ウミツバメの捜し物」
しばらく待つと、ドアの向こうから低く小さな声が応じた。
「ワタリガラスが見たと聞いた」
それを聞いたタケシが再び口を開く。
「沖の波間に魚影は見えたか」
「白い波間に魚影を見かけた」
「魚影の色を聞きにきた」
ドアスコープで青年の姿を確認したのだろう、ドアの中央から細い光が漏れた。そしてドアがガチャリと音を立てる。
鍵が外された事を確認すると、タケシはドアを押し開けた。通路に光が漏れ、コンクリートの壁を照らし出したが、青年が
入るとドアは素早く閉められ、通路は再び闇に閉ざされる。
ドアの中は、太く、短い通路になっていた。5メートル程先の突き当たりには防火扉のような、分厚く大きな鉄の扉がある。
天井の明滅する蛍光灯が、弱々しい光を投げかけるその通路で、タケシは向かい合った小柄な男に話しかけた。
「ドアの修繕を勧める。隙間から光が細く漏れていた」
「それはご丁寧にどうも」
小柄な男は、しかし実際には男かどうか、若いのか歳を取っているのかすらも分からない。というのも、目深にフードを被
り、ローブのようなゆったりとした衣類を身に付け、頭からつま先に至るまで、全く露出していないのだ。声も、何らかの変
声機を使用しているのか、合成音のような奇妙な声質だった。
小柄な男は突き当たりの扉の脇で制御板を操作し、扉を開放した。
その奥から漏れ出す明るい光に、タケシは闇に慣れた目を細める。広く、明るい部屋が、扉の奥に広がっていた。
天井に空いた大穴の下でファンが回り、地下の淀んだ空気を吸い上げ続けて快適な空気に保っている。四方の壁は天井まで
が本棚で埋まり、部屋の中央に置かれた机にはベタベタと付箋の貼り付けられた10台のモニターが置かれ、それぞれが低く
唸りを上げるパソコンの本体に繋がっている。
「調べはついたか、ユミル?」
青年の問いに、ユミルと呼ばれた男は、机の前に置かれたアームチェアに腰掛けながら頷いた。
「もちろんだ。しかし、情報を与える前に追加料金を貰いたい」
男の言葉に、傍の椅子に腰掛けたタケシが眉を潜める。
支払いを渋っている訳ではない。それなりの額を前金で渡しているにも関わらず、求めていた情報が、追加料金が取られる
ほどの物だったという事に疑問を感じたのだ。
「…これでどうだ?」
タケシは懐から黒光りする三角錐形のものを取り出し、机の上に置いた。男はそれを手に取り、子細に眺める。
「クイーンビーの針か…。これは上物だな。十分だ」
男は引き出しを開け、針を無造作に放り込んだ。
危険生物の体の一部は、物によっては裏のルートでかなりの高値で取引される。そのルート自体が一般には、それこそ調停
者達の間でも知られていないものだ。普通はただ処分されるだけのものだが、タケシは不自然にならない程度にいくらかを持
ち帰り、こうした裏の人間との取引に活用していた。これはユウトにも、カズキにも秘密の、タケシ独自のつてであった。
「では情報を伝えよう。まず、お前はベヒーモスというものが、何か知っているか?」
「旧約聖書に記述がある、大地を支える巨大な獣。だったか?」
タケシの言葉に男が頷く。
「そのあまりの巨大さに、造りたもうた神が自らを賞賛する場面すらある。名が複数形になっているのは、その巨大さ故だと
される。まあ、大地を支える程の巨大さだからな」
「俺が知りたいのは思想流布用の書物に登場する怪物の話ではない。お前の情報は正確だが、話が長くなるのが珠に傷だな」
タケシの言葉に、分かっているとでも言いたげに、男は片手を上げた。
「まあそう焦るな。それで、ベヒーモスが支える大地、これは何だと思う?」
「この地面。そういう事ではないのか?」
「まあ、普通はそう解釈するな。だが、こうは考えられないか?その獣が支えているのは、世界そのもの…とは?」
その言葉を吟味するように青年が黙り込むと、男は少し間を開けてから続けた。
「ある組織が、世界の理に干渉するほどの力を持つ、特殊な能力者を抱えている。5年ほど前にそんな噂が立った」
タケシは顔を上げ、男を見つめた。
「目覚ましい戦果を上げながらも、その能力者は次第に組織から危険視されるようになる。強力過ぎるその力が、組織の思惑
通りに制御できなくなる事を恐れられてのことだったらしい」
男はタケシの反応を確認しながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「3年以上前の事だ。その能力者は組織を脱走しようと試み…、そして始末された」
青年はかつて刃を交えたヒョウブという男の言葉を思い出す。ベヒーモスは3年前に失われたと、彼は言った。
「その能力者に与えられたコードネームがベヒーモスだ。だが、どんな能力者だったのか、そこまでは調べが付かなかった。
ただ…」
男は一度言葉を切り、反応を探るようにタケシを見つめた。
「世界に干渉し、世界を終わらせかねない程に強大な力…。そんな能力を持っていたそうだな…」
タケシは眉一つ動かさずに頷いた。
「なるほど。それで、その組織の名は?」
男はくっくっ、と低く笑うと、さも可笑しそうに言った。
「ラグナロク。二年前のクリスマスに、首都圏でマーシャルローを発令させるに至ったあの組織だよ。ついでに言うと、ベヒ
ーモスの存在はラグナロク内でもそれなりの立場にある者しか知らされていないらしい。直接目にしているのは、さらにほん
の一握りだそうだ」
タケシの目つきが僅かに鋭くなり、瞳が剣呑な光を帯びる。
「…なるほどな。追加料金が必要だった訳が分かった」
タケシはそう呟くと、懐から蒼い鱗を取りだし、机の上に置いた。
「不流忍という若い女、それとフェンリルという銀の人狼について調べて欲しい。ラグナロクらしいが、詳しい事は分からない」
そう告げると、タケシは席を立ち、扉へと向かう。その背に男が声をかけた。
「もう一つ教えておこう」
「もう金目の物はないぞ?」
「構わないさ。これはサービスだ。ラグナロクにはベヒーモスと並び、もう一人、レヴィアタンと呼ばれる特殊な能力者が存
在するらしい」
タケシは足を止め、背を向けたまま尋ねた。
「どんなヤツだ?」
「そこまでは分からん。どうもラグナロク内部でも極秘事項らしいな。この情報を掴めたのは偶然に過ぎない」
「判った。なら…」
青年は振り向くと、懐に手を差し入れて何かを掴み、男に放った。
「その、レヴィアタンという能力者について、なるべく詳しく調べてくれ」
男が宙で受け止めたそれは、湾曲した、鋭い何かの爪だった。
「これはまた…、ハヌマーンの爪とはな…。金目の物はもう無いんじゃなかったのか?」
からかうように言った男に、タケシは肩を竦める。
「今日持ち合わせた分はそれが最後だ。では、頼む」
タケシは踵を返し、振り返る事無く部屋を出て行った。
「で、アル君とは順調に交際中?」
ユウトのストレートな問いに、紅茶を啜っていたアケミはむせ返った。
「ごめんごめん、大丈夫?」
涙目で口元を拭うアケミに、ユウトは苦笑いしながら謝った。
「順調というか…、アルも仕事と学校で忙しいですし、メールのやりとりをするだけです」
アケミは平静を装ってそう答えたが、無意識のうちにその手は落ち着き無くそわそわ動き、何故かチーズマフィンを細かく
千切って鳥のえさのようにしている。
ユウトはその答えを聞き、恥じらうアケミのその様子から、どうやら上手く行っているらしいと推測する。
俯き加減に目を伏せていたアケミは、ふと気になって顔を上げ、尋ねる。
「あの、今更なんですけれど。ユウトさんとタケシさんは、どういう関係なんですか?」
「ん?チームのリーダーとサブリーダーだけど?」
さらっと答えた後、ユウトはじっと見つめてくるアケミの視線を受け、苦笑した。
「んはは…。この答え方はフェアじゃないね…」
ユウトは紅茶を一口啜ると、いつもタケシが座る席に視線を向けた。
「友人以上、恋人未満。…いや、違うかな?…う〜ん…」
ユウトはしばらく眉根を寄せて考えた後、小さく頭を振った。
「正直言うと良く解んないな…。ボクはタケシの事が好きだけど、あっちはボクを恋愛対象どころか、女として見ているかど
うかすらも怪しい所があるしねぇ…」
好きだ。と、躊躇いなく言えるユウトに、アケミは羨望と、尊敬の念を同時に覚えた。
「まぁ、ボクの片想いかな。二年越しのね…」
ユウトは少し寂しそうに苦笑いし、紅茶を啜った。
地下水道の半ばまで引き返して来たタケシは、壁に手をついて体を支え、額を押さえた。
顔にはじっとりと汗が浮かび、苦痛に耐えるように歯を食いしばっている。
なんとかここまで戻ってきたが、激しい頭痛は耐え難く、全身が小刻みに震えていた。
男に与えられた情報が過去の記憶を刺激し、耐え難い激痛とともに脳の中でフラッシュバックを起こす。
「行かなければならないのよ。貴方は、このままここに居てはいけない」
背中まで美しい黒髪を伸ばした女が、そう言った。体にぴったりとフィットする、潜水服のようなスーツを纏っており、そ
の顔は磁器のように白く、美しい。歳はタケシより少し上だろうか、二十代半ばに見えた。
そこは殺風景な部屋だった。窓も無い正方形の部屋には、寝台が一つ置かれ、調度品といえば壁際の鉄製の台に置かれた、
熱帯魚の入った水槽だけだった。
「お前はどうするつもりだ?シャモン」
記憶の中で青年は言った。
そう、確かにこういった事が昔あったはずだった。いつだったのか、何処での事なのかまでは思い出せなかったが…。
女は哀しそうに首を左右に振る。
「私は行けないの。皆を置いては行けない。それに、スルトが危険視しているのは貴方だけ、皆と私は、今のところはここに
居ても大丈夫よ」
女は憂いを湛えた黒い瞳に、涙を溜めていた。
「最も強い力に目覚めた貴方なら…、一人だけならきっと逃げ切れるわ」
「何故スルトは俺を始末する気になった?」
青年の問いに、女は視線を床に落とした。
「貴方が、強く成り過ぎたからよ…。「無敵」のスルトを殺す事ができる者など存在しない。いいえ、しなかったのよ、これ
までは…。でも、貴方ならもしかしたら、いつかスルトにも勝てるようになるかも知れない。だから…」
女は言葉を切り、僅かな間、沈黙が部屋に満ちる。
「タケシ…、貴方は自由になって。私たちの分まで外の世界を見て。そして、きっと幸せになって…」
青年は女の顔に手を伸ばし、その頬を伝う涙を拭った。
「いつか、俺はスルトよりも強くなれるか?」
「ええ、きっと…」
女の答えを聞いた青年は、踵を返し、背を向けて呟いた。
「判った…俺はゆく。そして力を付け、いつか皆を連れ出しに戻って来る」
そこから続いて思い出されたのは、戦いの記憶だった。
細い三日月の明かりの下、空母のような巨大な船の上で、青年は片刃の直剣を握り、追っ手と切り結んでいた。
取り囲まれた青年は、剣を大きく横に一振りする。剣先が大気を斬り裂くと、その軌道の延長上に居た追っ手を、空間ごと
上下に分断した。
剣の一振りごとに、その刃先から空間の断裂が生まれ、間合いの外に居るにもかかわらず、追っ手は次々と斬り伏せられていく。
血路を切り開きつつ、青年は甲板に停まっていたヘリに駆け寄り、その座席に飛び乗った。ドアから半身を乗り出して追っ
手を迎撃しつつヘリを浮上させると、青年は夜空へと飛び立った。
タケシは冷や汗にまみれた顔を上げ、荒い呼吸を繰り返す。
「あの女、シャモン…。それにスルト…、聞き覚えのある名だ…。なのに、誰なのかが思い出せない…」
タケシはふらつきながら立ち上がり、壁に寄りかかる。
「俺は…、俺は…」
タケシは震える体を押さえつけるように、自分の両肩を掴む。
「俺は…、やはりラグナロクなのか…?」
その瞳には怯えるような光が浮かび、顔は蒼白で血の気が無い。これまでに、青年が誰にも見せたことのない表情だった。
「…ユウト…」
まるで迷子のように、心細さが窺える声で、タケシは呟いた。
「遅かったね?夕食の支度はできてるよ」
出迎えたユウトの顔を見るなり、タケシは胸が一杯になり、言葉に詰まった。
罪悪感。そして恐怖。もしも、自分がラグナロクだったと知ったら、この気の良い熊は何と言うだろうか?
記憶が無かったとはいえ、これまで二年間以上もの間、騙し続けて来た事になる。ユウトにとってラグナロクは母の、そし
て何よりも大切にしていた幼女の仇だ。例え殺されても文句は言えない。
青年は怖かった。ただひたすらに怖かった。ラグナロクの者と、そうとは知らずに共に過ごしていたと知ったなら、ユウト
がどれほど傷つくか?そう考えたら怖くなった。
打ち明けようと決心して帰って来たにも関わらず、ユウトの顔をみた途端に決心は簡単に揺らいだ。
失いたくない。心の底からそう思う。
考えた事は無かった。いや、努めて考えないようにしてきたのかもしれない。青年にとって、今やユウトはただの仕事仲間
ではなく、かけがえのない存在になっていた。
「どうしたの?具合悪い?」
靴も脱がず、玄関口で立ちつくしているタケシに、ユウトは心配そうに尋ねる。
「いや、なんでもない…。少し疲れただけだ」
動揺を押し隠し、タケシはそう答えた。
「アケミちゃんが買ってきてくれたアップルパイ。取ってあるけど、どうする?」
「食事の後にしよう。だが、先にシャワーを浴びたい」
「判った。じゃあ料理を暖めておくね?」
タケシは頷き返し、浴室へ向かう。
何か感じたのだろうユウトが、自分を見つめている。振り返らずとも、その視線を背中に感じていた。
(…言えなかった…)
問題を先送りにし、束の間の安堵を覚えると同時に、そんな自分に憤りを感じた。
言わなければならない。それも、近い内に。ユウトが大切であれば、なおさら隠しておく訳にはいかない。例えその結果、
一緒に居られなくなるとしても…。
しかし、この時タケシも、もちろんユウトも、知るよしはなかった。
別れの時が、すぐそこまで迫っている事を。