第三十二話「終わる世界」

「お姉さん」

ユウトは数歩進んでから、ふと足を止め、振り返った。

不本意ながら男と間違われることすら多いユウトは、お姉さんなどと呼ばれた事は滅多に無かった為、哀しい事に自分に声

がかけられたのだと一瞬気付けなかったのである。

振り向いた視線の先では、小柄な男の子が金熊を見上げていた。

クリスマスの飾り付けが始まったショッピングモール、ユウトは相楽堂で仕事用の品を購入した帰り道だった。

「どうしたの?何かご用?」

ユウトは10歳ほどに見える少年の前で屈み込み、なるべく目線を揃えて話しかけた。

「お父さんとはぐれて、道に迷っちゃったんです」

グレーの髪に、利発そうなスカイブルーの瞳をした少年は、心細そうな表情で言った。

「そっか。それじゃあ一緒に交番に行こうか」

ユウトの言葉に、少年は首を横に振る。

「泊まっているホテルの名前は覚えています。そこまで行ければ…」

ユウトは少年を安心させるように、笑顔で頷きかけた。

「それじゃあ、お姉ちゃんと一緒にそのホテルへ行こうか?」

少年からホテルの名前を聞くと、歩いて数分の位置にあるホテルだと解った。それほど遠くはないが、事務所とは反対方向

なので、少し帰りが遅くなりそうだとユウトは考える。

(遅れるって連絡入れる程でもないか…)

人の良いユウトは気付かなかったし、考えもしなかった。

何故この少年が、人通りが多い中、わざわざ獣人である自分に声をかけたのかということまでは。



今日も事務所で来ない客を待ち、一人で留守番していたタケシは、鳴り始めた電話を即座に取った。

「はい、カルマトライブ調停事務所です」

しばしの沈黙。受話器の向こうからは、声が無かった。

「もしもし?」

いたずら電話かと訝った時、聞き覚えのある声が耳に届いた。

『タケシ、今は独りね?』

受話器から流れ出た声に、青年の顔が鋭さを帯びる。

「…不流忍…か…?」

『そうよ。前回はゆっくり話す暇が無かったけれど、今日は大事な話があるの』

無言のまま、相手の真意を探るタケシに、シノブは続ける。

『これからすぐに、今から言う場所に来て』

シノブは青年が口を挟む隙を与えず、手短に場所を告げた。

『そこで待っているわ』

「おい、行くとは言って…」

タケシの返事を待たず、電話は切れていた。

通話の切れた受話器を片手に、タケシはしばし動きを止めていた。

自分一人で行くのであれば、ユウトを巻き込む危険は無い。それに、他の誰かに聞かれずに、直接シノブから話を聞き出せ

るチャンスでもあった。

青年は受話器を置くと、しばし考え込む。そして、ユウトには少し用を足しに出かける旨メールを送る事にした。

数分後、休業中の札を吊るし、タケシは事務所を後にした。



「ん?」

少年を連れてホテルへ向かう途中だったユウトは、歩きながら携帯を取り出し、メールを確認した。

タケシからの外出を知らせるメールを読み、了解した旨を返信する。

少年は携帯をしまうユウトの顔を見上げながら、興味深そうに尋ねた。

「お姉ちゃんの恋人からですか?」

ユウトは苦笑しながら携帯をしまう。

「キミませてるねえ。いくつなの?」

「今年で108歳です」

「あはは。それじゃあボクよりずっと年上だったんだねえ」

まじめ腐った顔で少年が口にした返答に、ユウトは可笑しそうに笑い、少年も笑い返した。

しかし、道を確かめるために視線を前に集中していたユウトは気付かない。少年の目が、全く笑っていない事には。

「あ、ちょっと待ってて…」

ユウトは少年をその場に残すと、すぐ傍のソフトクリームのカーゴに駆けて行った。

「…誘い出しは、成功のようですね…」

ユウトが離れると、少年は小さく囁き、口元に薄い笑みを浮かべた。

「あとは説得できるかですが…、さて、上手くいきますかね…?」

どこか楽しんでいるような口調で呟くと、少年は口を閉ざした。ユウトが両手にソフトクリームを持って戻って来る。

「おまたせ」

ユウトは少年にソフトクリームを差し出す。かなり大きなソフトは、上にも傘のようなコーンが被せてあった。

「このボリュームで200円は、他じゃあなかなか無いからね」

礼を言ってソフトを受け取った少年は、しばらく不思議そうにソフトを眺めたあと、被せてあったコーンを取り、ソフトを

口元に引き寄せる。

「あ、ちょっと待って。ここのソフトは大きいから、普通に食べようとすると口の周りがベタベタになっちゃうからね。ほら、

こうしてみて」

ユウトは被せてあったコーンを匙のように使い、ソフトをすくって口元に運んでみせる。

「なるほど…」

少年は感心したような、納得したような声で呟き、ユウトを真似てソフトを口に入れる。

「…甘い…!」

少年は少し驚いたように呟き、ユウトが尋ねる。

「あ、バニラじゃないほうが良かったかな?」

「…いいえ。美味しいですよ」

少年は笑みを返すと、ソフトをやけに慎重な手つきで口元に運んでは、じっくり味わう。

「なるほど…、こういう味も悪くはない…」

少年はユウトに聞こえないほどの小声で呟いた。

変にぎこちなくソフトを食べる男の子を眺め、ユウトは微笑んだ。しかし、その瞳には寂しげな光が微かに揺れる。

(…あれから、もうじき二年…か…。元気なら、今頃アリスもこのくらいに…)



タケシは港湾地区の埋め立て地にある、廃工場の前で足を止めた。

半年前、アケミを救うためにユウトと共に赴き、ヒョウブと戦った場所でもある。

あの時と全く変わらず、ぽっかりと口を開けたままの入り口を潜ると、タケシは瞬時に刀を呼び出した。

「何の用だ?不流忍…」

タケシは前方に向かって、刃の切っ先を上げた。

その先、10メートル程向こうにある埃だらけの機械の前、破れた天井から注ぐ光の中に、シノブは立っていた。

「貴方を説得しようと思ったのよ…」

シノブは武器を持っておらず、構えてもいない。ただ、その顔には切羽詰ったような、余裕のない表情が張り付いていた。

「説得…、だと?」

「そうよ」

シノブは一歩前に進み、タケシをじっと見つめた。

「記憶を失った貴方は、調停者として生活していた。私の上役はその事を警戒しているの。調停者と接触する危険性をね」

タケシは黙ってシノブの様子を覗う。丸腰とはいえ、もちろん警戒は解いていない。彼女が自分と同じ能力を使うという事

をユウトから聞いている。青年にできる事は、彼女にも出来ると考えて良い。つまり、いつでも武器を召喚する事が可能なのだ。

「でも今は、貴方に監視がついていない事が確認できたわ。そうでしょう?ガルム」

「間違いない。発信器の類なども身に付けていないようだ」

答えた声は、タケシの背後からだった。

「…なるほど…、事務所を出た直後からずっと尾行して来たのはお前か」

青年の言葉に、入り口に姿を現した黒犬が頷いた。その手にはアーチェリーで使うような弓が握られている。

「今なら、連れて行っても問題は無いわね?ヨルムンガンド」

「当人次第だがな」

横手の暗がりの中から、甲冑に身を包んだ竜人が姿を現した。右手には手槍を携え、背には手槍をさらに二本、交差させて

背負っている。

「これは、私と貴方に与えられた最後のチャンスなのよ。じきに作戦が本格的に動き出すわ。そうしたら…」

「喋りすぎだぞ、ベヒーモス」

矢をつがえ、弓を引き絞りながらガルムが呟いた。やじりはまだ足元を向いているが、怪しい動きがあれば即座に矢を射放

つつもりである。

「我々の任務の内容を伝える事までは、まだ許されていない」

ヨルムンガンドはシノブに警告すると、タケシに視線を向けた。

「選択権はお前にある。我らと共に来るか、それとも調停者として今の状況に留まるか、二つに一つだ」

タケシは三人の様子を観察しながら、口を開いた。

「お前達と行けば、どうなる?」

「自分の過去を知ることができる。あるいは記憶を取り戻させる事もできるかも知れぬ」

タケシの問いに、ガルムが応じた。

「留まるとしたら?」

「見逃す訳にはいかない。お前の過去は、ラグナロクの最高機密と深く関わっている」

再び問うタケシに、今度はヨルムンガンドが応じる。

「…なるほど、良く解った…」

タケシはそう言うと、僅かな沈黙の後、三度問いかけた。

「最後にもう一つ聞いておきたい」

「…何?」

促すシノブに、青年は続けた。

「俺が既に記憶の一部を取り戻していると言ったら、どうする?」

タケシの言葉に、全員が反応した。これは考えていなかったのか、シノブは驚いたように目を見開き、ガルムも真偽を確か

めようとタケシの様子を覗う。ヨルムンガンドは槍を握る手に力を込め、シノブを援護するようにゆっくりと回り込む。

「一緒に行くかと聞かれれば、答えはノーだ。そして選択肢はもう一つ増える」

シノブの横に並んだヨルムンガンドは、目を細め、タケシに先を促した。

「三つ目の選択だ。お前達を捕縛し、力ずくで話を聞き出す。悪くないだろう?」

青年の言葉と同時に、ガルムは引き絞った弓をタケシに向け、ヨルムンガンドは腰を落として槍を構える。

「待って!落ち着いてタケシ、もう一度良く考えてみて!」

慌ててヨルムンガンドを制したシノブだが、竜人の手で横へと押し退けられた。

「ここまでだベヒーモス。同行を拒んだ場合は即座に始末する。そういう話だったはずだ」

「でも…!」

なおも食い下がるシノブに、出口を固め、タケシの背に狙いを定めていたガルムが、首を横に振った。

「駄目だ。こればかりはいかに貴女の頼みでも、聞き届けられない」

ヨルムンガンドはシノブから視線を離し、タケシを見据えた。

「覚悟は良いか?調停者」

シノブを背後に庇うように、竜人がじりっと間合いを詰める。

静から動への移行は、唐突で、素早いものだった。

青年は正面の竜人は無視し、振り向きざまに太刀を一閃する。刀が届く間合いではない。…が、ガルムは本能的な危機感を

覚え、反射的に身を伏せた。その背後で、入り口付近の壁がすっぱりと切れる。

「これは…、ベヒーモスと同じ、ホロウエッジか!?」

ガルムの驚愕の声に、ヨルムンガンドは牙をむき出しにして唸る。

「気を抜くなガルム!忘れたのか?この男は彼女と同類…、世界でたった4例の空間操作能力者だ!」

先日、記憶の断片が蘇ったと同時に、タケシはかつて己が使っていた能力の一部を思い出していた。

密かに試してみたところ、刀の軌跡の延長上の空間を広範囲に渡って断裂させるこの力は、指定した位置に歪曲を引き起こ

すディストーションと異なり、飛び道具のように刀身から発せられるタイプのものだった。つまり、刀身と対象の間に障害物

があっても、まとめて切り裂くことが可能なのである。
射程は最大で20メートルほど、ディストーションと違って手導操作

も溜めも必要無く、精神集中と刀を振る動作だけで放つ事が出来た。しかも防御不可能という最大の特性ももちろん備えてい

る。注意すべきは、混戦時には味方を巻き込みかねないという事だけだ。

「そうだった。ホロウエッジと呼んでいたな、この技の事は…」

タケシは呟くと、ヨルムンガンドに向き直る。

「大人しく捕縛されるなら、命まではとらない」

ヨルムンガンドも、そしてガルムも、手強い相手だと認識している。しかし、記憶を取り戻し始めたタケシには、二人を相

手にしても勝てるという確信があった。

地を蹴ったヨルムンガンドと自分の間に、タケシは空間の断裂で障壁を生み出した。手槍の切っ先が触れた瞬間、槍の穂先

は空間の歪みに囚われ、ごっそりと消失する。

ヨルムンガンドは舌打ちして急停止し、穂先を失った槍を手放す。そこへ、空間を引き裂く斬撃が放たれた。紙一重で避け

た竜人の肩で、甲冑の分厚い装甲が斬り裂かれ、消失した。

青年は追撃には移らず、振り向かぬままに背後へ刀を振るう。その切っ先が、音速で撃ち込まれた強化セラミックの矢を斬

り落とした。
舌打ちし、次の矢をつがえようとしたガルムは、慌てて横へと跳ぶ。その足先を翳め、反撃に放たれた空間の断

裂が床を斬り裂いた。

呆然とたたずむシノブの前で、タケシはガルム、ヨルムンガンドの二人を相手に、互角以上に戦っていた。

シノブが知っている、かつてのラグナロク最強の殲滅者、先代ベヒーモスの姿がそこにあった。いかなる敵も斬り伏せ、百

の兵にも屈さず、彼女の憧れで在り続けた不破武士。肩を並べて戦うことを夢見た不破武士は、しかし今は、彼女の敵として

仲間達に牙を剥く。

シノブは震える手をゆっくりと上げ、タケシに向けた。

ヨルムンガンドの槍を刀で受け止め、左腕を突き出してディストーションを仕掛ける。飛び退って避けた竜人にホロウエッ

ジを放って牽制しつつ、タケシはガルムの放った矢に対応し、振り向かぬまま背後に空間歪曲の障壁を広げる。

その障壁が、バチンという音と同時に消失した。

タケシは驚愕しつつも、即座に反応して身を伏せた。しかし、右肩に走った灼熱感に、思わず呻き声を上げる。

ガルムの放った矢が、青年の右肩を射抜いていた。矢尻は肩を背中側から突き抜け、前に顔を出している。

矢を抜いている余裕は無い。青年は左手に刀を持ち替え、肩の前に長く突き出た矢を切断すると、すかさず横っ飛びに身を

投げ出した。

隙を逃さず詰め寄ったヨルムンガンドの槍が、青年の左腿をかすめ、血をしぶかせる。

そこへ、横合いから駆け込んだシノブの大太刀が振り下ろされた。

ギィンッという澄み渡った、高い金属音と同時に、片膝立ちのタケシの前に鋼の刃が落ちる。

青年の手に握られた、名刀と名高い虎徹が、半ばから折れていた。

折れた刀を振るい、空間の断裂を生み出してシノブを牽制し、タケシは床に落ちた刃先を拾って立ち上がる。

「思い出したのはホロウエッジの使い方だけ?それじゃあ私にも勝てないわよ」

手には折れた刀、右肩と左脚を負傷し、それでもなおも構えを解かないタケシに向かって、シノブは大太刀を構えながら言

い放つ。

「降伏して。貴方に勝ち目は無いわ」

タケシは自分を取り囲む三人をすばやく見回し、思案する。

「空間歪曲は、歪み同士が接触する事で対消滅を起こす…。…そうだったな、たった今思い出せた…」

青年は呟くと、折れた虎徹を空間の歪みに収納した。そして傷の痛みを無視し、精神を集中させる。

「だが、相殺するには、同規模の歪みをぶつけなければならない…」

三人は、ぶつぶつと呟くタケシに、じりっと詰め寄る。

「前回使ってから二年近く経つ上、ユウトにかたく止められていたが…、仕方ないな…」

タケシは刀を床に突き立てると、右肩の痛みを強靭な意志で無視し、両手を胸の前で構えた。

まるでボールでも抱えるように、胸の幅と同じだけの間隔を空けた両手の真ん中で、バチンという音と、黒い閃光が奔った。

三人はタケシの両手の間を、目を細めて見つめる。

いつのまにか、青年の手の中に何かがあった。いや、何かが無かったと言うべきか。

黒い球体にも見えるそれは、実際には黒いのではない。ただ限りなく暗いのだ。

その球には色は無い。色どころか何も無かった。暗い、洞穴のようなその球は、周囲の空気を吸い込みつつ、少しずつ大き

くなっていく。

「これは…、何?」

自分の知らない能力を目にし、シノブの声に警戒の響きが混じる。

見つめているとクラクラしてくるその球体を見据え、ヨルムンガンドはしばらくの間黙考していたが、やがて黒球の正体に

気付き、弾かれたように跳躍してシノブの体を抱えた。

「離脱するぞ、アレは危険だ!ガルム!撤退だ!」

黒犬は竜人の警告を耳にすると、迷う事無くそれに従い、背後のドアから外へと離脱する。数え切れない死地を潜り抜けて

養われた戦士の勘が、二人の耳元で、全力で警告を発していた。

「何なのヨルムンガンド?あれは…!?」

抱えられたまま問うシノブに、竜人は手槍で壁を粉砕し、脱出口を作りながら、呟くように答えた。

「何でもありえない。いや、「何もない」のだ。言うなればあれは、穴だ!」

ヨルムンガンドの言葉が終わると同時に、黒球は急激に膨張した。いや、実際には、光すら飲み込む暗い穴が、爆発的に拡

大したのだ。

黒球はタケシの体を飲み込み、床を、機材を、壁を飲み込み、やがて工場全てが、ドーム状に拡大した闇に飲み込まれる。

黒いドームは周囲のがらくたや土を吸い寄せた。近くの建物からは、その吸引力によって壁や屋根がはがされ、吸い込まれ

てゆく。

二年前、首都でのマーシャルローの折に使用され、ラグナロクの兵士三百名強を消し去った無差別殺戮能力。ユウトによっ

て「エンド・オブ・ザ・ワールド」と名付けられたその禁断の力は、周囲の大気を、土を、がらくたを、あらゆる物を飲み込

み続け、そして数秒後、爆ぜるような破裂音を残して、唐突に消滅した。



微かに地鳴りのような音を感じ、ユウトは耳をピクリと動かした。

そちらへ視線を移すと、その上空で、雲が渦を巻くように円形になっていた。

普通の風とは違う、微かに、空気がそちらへ移動していくような大気の流れを感じ、ユウトは目を見開いた。かつて、首都

の惨劇で目にした光景が脳裏を過ぎり、ざわりと総毛立つ。

地鳴りは長くは続かず、やがて治まった。だがユウトは、いてもたってもいられない胸騒ぎを感じていた。

「…解りました。残念ですが仕方ありませんね。こちらも切り上げます」

気付くと、いつのまにか少年が携帯を手にしており、通話を終えたところだった。

「お父さんと連絡が付きました。もう大丈夫です。有り難うお姉さん」

「え?あ、うん。良かったね。…ごめん、ボク、ちょっと急用が出来ちゃった。もう行かなくちゃ」

ユウトはそう言うと、下手くそな作り笑いを浮かべ、男の子に手を振った。

「ロキです。私の名はロキ」

ユウトには、男の子の口調が急に大人びたものになっていた事にも、はぐれて探していた父親と携帯電話で連絡が取れたと

いう不自然さにも、気付く余裕は無かった。

「ボクはユウト。またね、ロキ君」

駆けだしたユウトがタクシーを捕まえるのを、ロキと名乗った男の子は、薄く笑みを浮かべて見送った。

タクシーが走り出し、見えなくなると、雑踏の中から歩み出た一人の獣人が、男の子の隣に並んだ。

「いかがでしたか?」

「面白い娘ですね。君が気にかけるのも頷けます。一見隙だらけにも見えて、そのくせつつけば凶暴な熊が目を覚ましそうに

も思えましたよ」

銀狼の問いに、薄い笑みを浮かべてそう答えると、男の子は踵を返した。

「不破武士の懐柔には失敗しました。戻りましょう」

「彼については、今後どうなさいますか?」

フェンリルの問いに、ロキは足を止め、僅かに目を細めた。

「作戦に変更はありません。障害となるならば、排除するまでです。…例えかつての教え子でも…」

「シノブが何と言いますかな?」

銀狼の言葉から、微かに迷いのような物を感じ取り、ロキは小さく笑った。

「説得には骨が折れそうです。頑固ですからね、あの娘は…」



埋め立て地には、すでにパトカーがちらほらと駆けつけていた。

付近一帯は建物が倒壊し、至る所で地面が割れ、水が湧き出している。

まるで、巨大な獣が暴れまわったかのような、そんな凄まじい状況を目の当たりにし、警官達も迂闊には現場に立ち入れな

いでいた。

「ボクは調停者です!通してください!」

立ち入るのは危険だと制した警官を押し退け、ユウトは一人埋立地に踏み込み、被害の中心地目指して駆ける。

やがて、クレーターのように地面が抉れ、そこに泥水が溜まった被害の中心点にたどり着くと、ユウトはそこに思ったとお

りのものを見つけて息を呑んだ。

濁った水で満たされたクレーターの中に、一人の青年がうつ伏せに浮かんでいた。

「…あ…、あぁ…!…タケシぃーっ!!!」

悲鳴に近い声を上げ、金熊はクレーターに駆け寄った。

一切の躊躇はなかった。青年を想う気持ちが水への恐怖に打ち勝ち、ユウトは泳げないのも構わず、水に飛び込む。

がぼがぼと、溺れているように激しくしぶきを上げつつ水をかき分け、ユウトはなんとかタケシの体を捕まえ、泥水を啜り

ながら必死に岸へと引き返す。

激しくむせながらタケシを岸へ押し上げると、ユウトはなんとか岸へとはい上がり、青年の口元に顔を寄せる。呼吸が感じ

られないことに気付き、

「タケシ!しっかりしてっ!」

ユウトは青年の胸に両手を当てると、規則正しくリズムを取って押し始める。力を込め過ぎないよう、焦る気持ちを堪えつ

つ胸部を圧迫し続けると、やがて、青年はごぼっと、濁った水を吐き出した。

呼吸が戻った事を確認して、ひとまず安堵すると、ユウトはタケシの体を抱き起こし、軽く揺すった。

青年は薄く目を開け、自分の顔を覗き込むユウトをぼんやりと見つめ返す。

「…ユウトか…。済まない、約束を破った…」

ユウトは首を横に振り、少しだけ安心した。前回あの力を使った時と比べれば、だいぶ状態は良い。二年前は直後に意識が

無くなり、半月もの間目覚めなかったのだ。

それでも、タケシの意識は闇に落ちる寸前だった。青年は閉じかける瞼を必死に開け、ユウトに言葉を伝えようとした。

「ユウト…、カズキさんに、報告を…。ラグナロクだ…。ビルで会ったあいつらは…、ラグナロクだ…」

この言葉に含まれた意味を、ユウトはすぐには理解できなかった。耳に届いても、頭がそれを受け付けなかった。

(記憶を失う前、タケシの仲間だったかもしれないひと?彼女が、ラグナロク…?)

「ユウト…、済まない…、俺は…、俺は恐らく…、ラグナロクの…」

そこまで言うと、青年の体から力が抜けた。

能力使用の副作用により、深い眠りに落ちたタケシを抱きかかえたまま、ユウトは自分の体がカタカタと震え出すのを感じ

ていた。

「ぐ…、ううぅっ…!」

歯を食いしばり、勝手に喉から漏れる獣のような呻き声を押し殺すが、体の震えは止まらなかった。

どれほどそうしていただろうか、駆けつける警官の足音に我に返ると、ユウトは青年の顔を見つめ、それから膝の裏と背中

に手を入れて抱え上げ、ゆっくりと立ち上がった。



「ラグナロクだと!?」

カズキはユウトが口にした言葉に、激しく反応した。

「世界最大、最悪の組織…。首都のマーシャルローを引き起こした、あの…」

「そして、ボクの大切な人の命を奪った組織でもあります」

カズキは向かい合って座った金熊に視線を向ける。ユウトは何の表情も浮かべていなかったが、その声は抑えようもなく震

えていた。

二人が居るのは交番の地下、ふだんから監査に利用している取調室だった。部屋には向き合って座っている二人の他には誰

も居ない。

「間違いないのか?」

カズキの言葉に、ユウトは頷く。

「たぶん…。タケシが、確信を持ったようにそう言っていましたから…」

カズキは「ぬう」と呻いた。血色の良い丸顔が、今は青ざめて見える。

「あのビルで行われていた研究、何だったんですか?」

「それは…」

口ごもったカズキは、ユウトの真っ直ぐな視線を受けてたじろぐ。

「教えてください!どうしても、知っておかなくちゃいけないんです!」

必死な様子で懇願するユウトを前に、カズキはため息をついた。

「本当は、俺の立場じゃ知ってるはずのない事なんだが…、ある偶然で解った事だ。詳細は解らんが、それでも良いか?」

 頷いたユウトに、カズキは口を開いた。

「あのビルでは、バベルの研究をしていたらしい」

カズキの口から出た言葉に、金熊は全身の毛を逆立て、思わず立ち上がっていた。

「…バベル…!?なんでこの町であんな物の研究を…」

ユウトは言葉を途中で切った。いやな考えが、頭をよぎった。

「…まさか…、この町にもバベルが…!?」

「確認はできていないが…、その可能性が大きいな…」

ユウトは視線を落とし、考えを整理しながら呟き始める。

「あのビルではバベルの研究をしていた…?なら、襲撃したのがラグナロクなのは納得がいく…。そしてラグナロクはこの町

に何人か来ていた…。つまり…、彼らの狙いは…」

「首都で失敗したバベルの制圧を、今度はこの町でやるつもりかもしれん…」

ユウトは拳を握り、力任せに机を叩いた。机が真っ二つに折れ、木片が飛び散り、金熊は荒々しく息を吐いた。

「…二年…!二年経って、またアレを繰り返すつもりなの!?やっと皆の傷が癒えて、首都も復興して、やっと、やっと落ち

着いてきたと思ってたのに…!」

ユウトは肩を震わせた。ギリリと歯を食いしばる音が、カズキの耳に届く。

「…元になんか戻れないのは解ってる。皆、失ったものが多すぎるもん…。それでも…、それでも皆、前に進み始めたってい

うのに…!」

怒りが、悲しみが、悔しさが、喪失感が、様々な感情がないまぜになって湧き上がり、ユウトの瞳を潤ませた。

「あいつらが来なければ、調停者の仲間達も殉職しないで済んだ!あいつらが居なければ、母さんだって死なずに済んだ!ア

リスだってあんな事にはならなかったんだっ!!!」

カズキは言葉もなく、叫ぶユウトの様子を、ただただ哀しげに見つめていた。



タケシが病院の一室で目を覚ましたのは、三日後の夜中だった。

目を開けるとすぐ傍で、ユウトは薄明かりを頼りに何かの資料を読んでいた。

消灯後の病室で、ユウトが目を細めて読んでいるその資料が、二年前の事件のものだと気づき、タケシの意識は瞬時に覚醒

し、弾かれたように身を起こした。

驚いたように顔を上げたユウトの顔を見つめ、タケシは言葉が出なくなった。

「タケシ…」

金熊は目を伏せる。ずっと一緒に居たのに、今は何と声をかければよいのか解らない。

「気分は…、どう…?」

ユウトの言葉に、タケシは顔を曇らせる。ユウトの態度は、どこかよそよそしかった。

「ユウト、俺は…」

「ごめん、なんだか急に眠くなっちゃった。…少し、休むね…」

タケシの言葉を遮り、ユウトは早口に言った。そして青年の目から資料を隠すように抱え、足早にドアへと向かう。

立ち去ろうとするその背に向かって、タケシは引き留めるように手を伸ばしかけたが、その先で、ユウトは振り返る事なく、

ドアの向こうに姿を消した。

伸ばした手が、力なく布団の上に落ちた。

覚悟はしていたはずだった。

隠しておくことが許されないことも解っていた。

避けられるものではないと解っていたはずだった。

知らなかったとはいえ、これまで騙してきたという罪悪感があった。そして、身を引き裂かれるような喪失感があった。

一緒に居るべきでは無かった。

自分の存在は、ユウトを傷つける。ユウトが生死の境を彷徨ったあの時、本当は理解していた。なのに、離れることができ

なかった。

あの時、黙ってユウトの元を去っていれば、ここまで傷つける事は無かったのだろうか?自問するが、答えは出ない。

だが、言わなければならない。

三日間の深い眠りで夢の中を彷徨い、やっと思い出した。

河祖下村での墓参りで、自分の脳裏に浮かんだ女。

ユウトが生死の境を彷徨った時、夢の中で、青年に殺されたと訴えた女。

彼女が誰なのか、はっきりと思い出した。そして、何者なのかも解ってしまった。

伝えなければならない。傷つけると解っていても、自分が犯した重罪を、ユウトには伝えなければならない。

自分がかつて、ユウトから何を奪ってしまっていたのか。

「ううううう…」

気付くと、青年は背を丸め、低い呻き声を発していた。

耐え難い喪失感と罪悪感が、タケシの胸を締め付けた。

「ううううううううっ………!」

自分の体を抱き締めるように、両手で体を抱え込み、青年は押し殺した呻き声を上げ続けた。