第三十六話 「黄昏の訪れ」(前編)

エマージェンシーコールを受けたユウトとタケシは、車に乗り込み、港へ向かっていた。

ユウトはアクセルを一杯に踏み込み、ランドクルーザーは咆吼するようなエンジン音を轟かせながら、人気の無くなったオ

フィス街を疾走する。

助手席のタケシは携帯で細かい情報を集め、ユウトに説明した。

「東護港沖、港湾指定範囲内に国籍、所属不明の空母が無断侵入。13分前に20以上の攻撃ヘリによる爆撃と、無人揚陸艇

による危険生物の投入による攻撃を開始。現在は港のほぼ全域を占拠している」

「空母って…、港湾警備は何をしてたの!?」

苛立たしげに唸ったユウトに、タケシは携帯の画面に表示されている、調停者宛の暗号情報を読み上げて聞かせた。

「港湾警備隊東護支部は真っ先に砲撃を受け、現在は炎上中だ。あの規模の施設を一瞬で破壊、炎上させた事から、おそらく

超高性能なサーモバリック兵器の一種による攻撃と思われる」

「サーモ…、何それ?」

「瞬間的に気化して気体爆薬化する反応物質を利用した爆薬などの兵器群だ。固体から気体への爆発的な体積変化、自己分解

爆発、酸素と交じり合っての爆燃という三段階に及ぶ相乗爆発を利用し、高熱と高圧、衝撃による破壊を行う爆弾で、近年で

は携帯用ランチャーやグレネードの中にも同じ技術が使用されている物もある」

「…説明ありがとう。やけに詳しいね…」

「まあな。とにかく港湾警備の支部とは音信不通で、組織としては半壊している。…堂々と、真っ向からの奇襲とは、よほど

キモの座った相手のようだな」

ユウトは僅かに沈黙し、声をひそめて問いかけた。

「ラグナロク、だと思う?」

「他には考えられない」

タケシの言葉にユウトが頷く。

「連中の最終的な目的がバベルらしい事までは判ったけれど、バベルの位置も、出現させる手段も、ボクらは知らない」

「だが、ここまで派手に動き出した以上、今回の襲撃に連中が本腰を入れているのは間違いない」

「…負けられないね」

「ああ、負けないさ」

二人は決意を込めて頷きあった。

「ところで、アル君がもうこっちに着いてる頃だけど…」

連絡をとって拾っていこうか?そう問いかけようとしたユウトは、言葉を切り、急ハンドルを切った。

ヘッドライトの灯りの中、路上に人影が現れていた。

現れたのは突然だった。立っていたのならば夜目の利くユウトが前もって気付けたが、今回に限っては寸前まで気付けなかっ

た。なぜならば、影は真上から路上に降り立ったのだから。

ランドクルーザーは片側のタイヤを浮かせ、その横を通り過ぎる。

相手が何であるか悟ったタケシは、窓から身を乗り出し、すれ違いざまの一瞬で、その影に斬りつけた。

しかし、不安定な姿勢から放たれた金色の刃は空を切り、タケシは舌打ちする。

「タケシ!ヘルハウンドだ!」

青年の一刀をかわした影は、車と同じ速度で並走し始める。

漆黒の毛皮に覆われた、犬獣人のような生物。赤く爛々と光る瞳が、窓の外から二人を睨む。

第一種最上位にランクされる危険生物、ヘルハウンドは、炎のように赤い口内を見せて咆哮を放つ。

「こっちにも!」

運転席側の窓から外を見たユウトが叫ぶ。

疾走するランクルは、同じ速度で走るヘルハウンド達に包囲されていた。

彼ら自身の固有戦闘能力は、第一種危険生物内では下位クラスである。しかし、彼らの真の恐ろしさは、集団での狩りを得

意とする事にある。

チームワークを駆使した彼らの集団戦闘は、全危険生物中でもトップクラスの危険さで知られ、五頭を超えれば、その四倍

の人員を投入するのが調停者側の基本対策となる。

ヘルハウンドはビルの影や後方、進路上の歩道から次々と姿を現し、あっというまに10体になった。

ユウトは僅かな逡巡の後、心を決めて頷く。

「タケシ。運転代わって」

シートベルトを外しながら言ったユウトに、タケシはハッとして視線を向けた。

青年は、相棒が何をしようとしているのかを一瞬で悟っていた。

「ダメだ。やるなら俺が…」

「忘れたの?キミは妹に、不流忍に会わなきゃいけない。彼女を説得するのはキミの役目だ!」

きっぱりと言ったユウトに、タケシは一瞬口ごもる。

「一緒に行こう。お前を置いていくなど…」

「タケシ…」

ユウトは嬉しそうな、そして哀しそうな微笑を浮かべた。

「ボクは、キミの枷になる為に気持ちを打ち明けた訳じゃない…。ボクのせいでキミが縛られるのなら…、それはとても哀し

いよ…」

言葉に詰まったタケシに、ユウトはいつものように、口の端を吊り上げて、ニッと笑って見せた。

「大丈夫だから任せてよ。それとも、ボクのコードネーム、忘れちゃったの?」

タケシは辛い気持ちをぐっと堪えた。

「…解った…。この場は頼んだぞ。特定上位調停者、アークエネミー」

「了解!」

ハンドルを掴み、自分の足の隙間からアクセルに足を差し入れたタケシに、ユウトは手を額に持ち上げて敬礼する。

そして、運転席のドアを開け、疾走する車から飛び出した。

両足を力場でコーティングして路面に着地、両足を踏ん張って数十メートル滑り、アスファルトの上に抉り跡を残して制止

すると、ユウトは走り去る車に向かい、片手を上げる。

運転席から、青年の手が上がってそれに応じた。

「さてと…」

ユウトは自分を取り囲むヘルハウンド達を、油断なく見回した。

ヘルハウンド達は車を追わず、目の前の獲物に集中する事にしたらしい。優れた狩人である彼らは、車から飛び出したこの

相手が、容易ならざる獲物である事を見抜いていた。

「ぐずぐずしている時間は無いんだ…!悪いけど、手加減抜きで叩き伏せるよっ!」

ビルの谷間にユウトの咆哮がこだまし、開戦の狼煙となった。



大戦斧を振るい、リザードマンを叩き斬ると、アルは子供を抱えて震えている母親に視線を向けた。

港区に程近い位置にある公園。

子連れの母親が襲われかけていたところに出くわし、咄嗟に割って入ったアルは、二人が無傷である事を見て取り、ひとま

ず安心する。

「あ、ありがとうございます!ありがとうございます!」

何度も礼を言う母親に、アルは安心させるよう、優しく話しかけた。こういうときは、人間に怖がられやすい自分の姿がも

どかしく感じられる。

「こっちは危ないっス、中心部に向かって避難して。それと、絶対に地下や路地には入らない事。主要道路は警察が固め始め

てて安全っスから。判ったっスね?」

何度も頷く母親の胸元で、小さな男の子がたどたどしい声で言った。

「おにいたん、ありあとお」

「どういたしましてっス!」

駆けて行く二人を見送り、男の子が自分と同じ境遇にならずに済んだ事に、心の奥でほっとする。

しかし、安心したのも束の間、アルの丸い耳がピクリと動いた。

異常を察して振り向き、素早く動かした視線の先、アルから少し離れた植え込みの向こうで、若い男女が悲鳴を上げていた。

「まだ人が!?」

二人が赤い体の鬼のような生物に襲われているのを見止め、アルは両脚のリミッターを解除した。

白熊の巨躯が、禁圧解除で爆発的な推進力を得て、飛ぶように突進する。

(えぇい際どいっ…!間に合うっスか!?)

鬼、第二種危険生物オーガは、若い男女に向かって、手にした棍棒を振りかぶる。

次の瞬間、オーガは振りかぶった棍棒の重みに負けたように、片膝を着いた。

アルも、オーガ本人も、もちろん若い男女も何が起こったか判らないまま、オーガの足は地面に沈み込む。

この現象を見たとたん、アルは歯軋りした。

「真っ直ぐ家に帰るように言ったのに…、何でついて来たんスかアケミぃーっ!?」

叫びながらも植え込みの葉枝を散らして駆け込み、フルスイングされた大斧が、凄まじい勢いでオーガの体を吹き飛ばし、

上下に分割した。

白熊が厳しい表情で振り向くと、公園の街灯の下に、黒髪の少女が佇んでいた。

慌てて目を逸らした少女から視線を外すと、アルは救出した男女に向き直り、避難を促す。

「中心部に向かって避難して欲しいっス。主要道路には警察が居て安全っスから…」

青い顔をした男女がこくこくと頷いて逃げ出すと、アルはため息をついて振り返る。

アケミは困ったような、怯えているような、いたずらを見つかった子供のような表情を浮かべていた。

「なんで…!」

「役に立ったでしょう?」

歩み寄り、口を開いたアルの言葉にかぶせ、アケミはニッコリと笑って言った。白熊は「むぐっ…」と呻き、一度口を閉じる。

「…今からでも遅くないっス!急いで安全な所に避難を…」

「ですから、安全な所に居るじゃないですか」

「何処がっスか!?」

しれっと言ったアケミに、アルは思わず声を上げる。

「ここ、ですよ。何処よりも、アルの傍に居る方が安全です」

全幅の信頼が込められた、不意打ち気味のアケミの言葉に、アルはポカンと口をあける。

「護ってくれると、約束しましたよね?」

「む…、むぐぅ…!」

こう言われては切り返せない。少女の顔に確信犯の笑みを見て、アルは顔を顰める。

「…絶対に傍から離れない事。オレの指示には従う事。約束できるっスか?」

「はい!」

諦め混じりに言ったアルに、アケミは微笑みながら頷いた。

(今回のエマージェンシーコール…、夏に居合わせた時のより規模がでかそうっス。おまけにどういう訳か、他の調停者の姿

が全然見えないし…。とりあえず、頑丈そうな建物を見つけて、アケミを避難させるっスかね…)

他の調停者の姿が全く見えない。

この時のアルは知る由も無かったが、その異常について最も早く認識したのは、この作戦に参加した調停者内で最年少の彼

だった。

そして、この数十分後にその理由を知った時には、事態は手の施しようが無いほど悪化していた。



危険生物をかわし、跳ね飛ばし、轢き殺しながら車を走らせ、一人で港を目指していたタケシは、歩道に佇む大柄な白熊と、

その後ろに庇われるようにしている少女の姿を捉えてブレーキを踏んだ。

二人もエンジン音に気付いていたのだろう。立ち止まったままライトに目を細め、車を見つめていた。

「アル!アケミ!」

『タケシさん!』

タケシが運転席の窓から顔を覗かせると、二人は警戒を解き、安堵の表情を浮かべる。

「…乗れ!」

本音を言えば、一人でシノブと接触したかったのだが、このまま放って行く事もできず、タケシは二人に叫んだ。



タケシは車の中で、二人におおまかな状況を説明した。

「所属不明の空母って…」

アルは嫌な予感を覚えて呟く。

丁度二年前の今日、首都が襲撃された際も空母によって港湾から制圧され、ブルーティッシュは先発部隊を包囲されて苦戦した。

当時は調停者資格を持っていなかったアルも、当時の生き残りである同僚の口から、その時の状況は詳しく聞かされている。

「まさか…、ラグナロクだ。とか、言わないっスよね…?」

少し引き攣った半笑いで言った白熊に、タケシは無言のまま、答えなかった。



剛腕が唸りを上げて大気を粉砕し、最後のヘルハウンドの鳩尾に飛び込み、これを殴り飛ばす。

ビルのショーウィンドウを突き破り、マネキンを破砕しながら壁に叩きつけられたヘルハウンドは、もはやピクリとも動かない。

倒れ伏した全てのヘルハウンド達が動かない事を確認すると、ユウトは傷を負った左手の甲をぺろりと嘗める。

深々と抉られた傷は、しかしすでに血を流すのを止めていた。

先日、死に瀕した眠りから目覚めて以来、体の調子がすこぶる良い。この数週間の訓練を通し、ユウトは自分の身体に起こっ

た変化に薄々勘づいていた。

筋力、反応速度、自然治癒の速度、各種感覚…。全てが以前よりも僅かに向上している。理屈までは判らないが、総合力の

底上げはこの状況では有り難かった。

ほんの僅かな能力の上昇も、禁圧解除を行えば確実な効果となって現れる。

「結構手間取っちゃったな…、急がないと」

ユウトは周囲を見回し、一台の大型バイクに目をとめる。

「ちょっとごめんなさいねぇ…」

ユウトはそのバイクが自分の体を運べるかどうかを確認すると、一つ頷いてからバイクを街灯に結びつけているチェーンを

引き千切り、ハンドル周りをガチャガチャと弄り出す。

三十秒と経たずに、手懐けられたバイクのエンジン音が、獣の雄叫びのようにビルの谷間にこだました。

「盗む訳じゃないよ?ちょっと借りるだけだからね?」

ユウトは誰かに向かって弁解しながら座席に跨ると、事実上盗んだバイクで走り出した。



タケシは鋭い目つきで前方を見据えながら、後部座席のアルに尋ねる。

「アル、車の運転はできるか?」

「出来ないっスよ!自動車の免許が持てる歳にもなってないし」

何を聞くのかと面食らった様子のアルに頷くと、タケシは路肩に車を寄せた。

「ここからは別行動だ」

「え?港はまだ先っスよ?」

周囲を見回したアルが言ったが、タケシは車のドアを開け、路面に降り立った。

「どんな形であれ、決着をつけなければならない相手が居る。先を急がせてくれたユウトの為にも、避ける訳にはいかない」

「誰なんですか?」

アケミの問いに、タケシは哀しそうに微笑んだ。

「俺の妹のようなものだ…」

タケシは刀を手に、車内の二人に告げる。

「戦闘が始まったら、迂回して港を目指せ。お前達には決して手出しさせない」

「そんな事…」

反論しかけたアルの言葉を遮り、タケシは静かに言った。

「それと、この場を離れたら、すぐにカズキさんと連絡を取れ。そして必ず伝えろ。ラグナロクが来た。と」

アルは息を呑み、アケミは会話の内容が解らずに、戸惑いながら二人を交互に見遣る。

青年は会話を打ち切ると、車の前方を見据えた。

ヘッドライトの向こうに、一人の女性が進み出る。

ダークレッドのジャケットを着た、黒髪の女。シノブはタケシの姿を認め、哀しそうに顔を歪めた。

「本隊は、総攻撃に踏み切ったわ。貴方が本物か偽物か、審議している時間は無いと…」

シノブは目を伏せた。

「いえ…、きっと貴方が本物だと理解した上で、切り捨てる事にしたんでしょうね…」

記憶を失い、調停者として過ごしている以上、かつての構成員だとしても再び迎え入れることは無いという事だろう。

かつての居場所を完全に失ったタケシは、しかし自分でも驚くほどに冷静でいられた。

自分の居場所はユウトがくれた。

この命はユウトの為に使うと決めた。

その決心は、過去との決別を受け入れても、少しも揺らぐことは無かった。

青年は静かに口を開く。

「シノブ、俺と来い」

タケシの言葉に、シノブは戸惑いと驚愕の入り混じった表情を浮かべる。

「ラグナロクは俺達の居場所ではない。だからこそ、俺は脱走したのだ」

「…脱走…?」

戸惑い、固まったままのシノブに、タケシは続ける。

身の危険を察し、自分の意思でラグナロクを抜けた事。

それからの、追っ手からの逃亡生活。

そして、いかにして自分がこの町にたどり着き、調停者となったかを…。

「うそ…」

困惑し、表情を無くして呟くシノブに、タケシは続けた。

「今度は、俺がお前を自由にしてやる番だ」

車外に出たアルが、そしてアケミが、タケシの過去を知って衝撃を受けていた。二人は青年の告白を聞き、言葉もなく硬直する。

「シノブ…。ラグナロクを抜け、俺と来い。ユウト…、俺の相棒もそれを望んでいる」

「うそだ…」

シノブは肩を震わせ、呟いた。

「うそだ…、うそだ、うそだうそだ!うそだぁぁああっ!」

絶叫を上げ、シノブは大太刀を召還する。

「そんなのうそだ!だって、だってタケシは任務の途中で死んだ事になっていて…、シャモンだってそう言っていた!それに、

みんな、みんな私達を大切にしてくれて…、なのになんで!?」

「お前やサキモリが丁寧に扱われているのは、その能力ゆえだ。だが同時に、スルトはこの能力を脅威とも見なしている。力

をつければ、いずれはお前も危険視され、命を狙われる事になるかもしれない」

「そんなはずは無い!私達は、私達はたった四人の…」

「ああ、たった四人の、ラグナロクにとって貴重な道具だ」

タケシの言葉に、シノブは殴られたような衝撃を受けた。

「一緒に来い。悪いようにはしないと約束する」

タケシの言葉に、しかしシノブは弱々しく、しかしはっきりと首を横に振った。

「できない…。この任務に失敗したら…、チームのみんなが…」

「ベヒーモス、その事は気にするなと、何度も言っているはずだが?」

暗闇の中から、竜人が進み出て、シノブの横に並んだ。

「我らは皆、ロキによって廃棄処分を免れ、この部隊に配属された。彼とお前がいなければ、こうしてここで任務につく事も

なかっただろう」

黒犬の獣人が闇から現れ、竜人とは反対側に並ぶ。

「行くか残るかはお前の判断に任せる。元々我々は中枢を信用していない。不破武士の言う事も納得できる」

ヨルムンガンドの言葉に頷き、ガルムはタケシを見据えて口を開いた。

「だが、ロキには恩を返さねばならん。我らは最後まで任務を遂行する」

それぞれ弓を、手槍を構え、戦いの姿勢を見せる黒犬と竜人。

タケシは、二人の実力を先日手合わせした時に知っている。

容易な相手ではないが、力と記憶が戻り始めている今ならば、二人同時に相手をしても負けはしないと確信している。そし

てタケシと自分達の実力差については、黒犬と竜人も良く解っているはずだった。

青年はスラリと刀を抜き放ち、二人に問う。

「大人しくするなら、お前達の事も悪いようにしないと誓う。降伏する気はないか?」

ヨルムンガンドは槍を構えると、不敵な笑みを浮かべ、じりっと間合いを詰める。

「すでに勝ったつもりか?我らを見くびらぬ事だ」

その一触即発の状況で、最も早く動いたのはシノブだった。

顔を伏せ、無言で歩を進め、ガルムとヨルムンガンドの脇を抜けて二人の前に出る。

黒犬と竜人は、シノブを止める事も、視線を向ける事もなかった。

シノブは顔を上げ、真っ直ぐに青年を見据えた。

寂しさ、哀しさ、そして揺るぎない決意を浮かべた瞳でタケシをみつめ、シノブは微笑んだ。

「私は…、行けない…。仲間を置いて、私だけ行くわけには行かない…」

その声は穏やかだった。少しの震えもないその声を耳にし、タケシは微かに目を伏せ、静かに頷く。

ガルムとヨルムンガンドは驚きの表情を浮かべ、一瞬視線を絡ませた。

「ガルム!ヨルムンガンド!相手はかつてない強敵、先代ベヒーモスだ、気を抜くな!」

シノブは大太刀を担ぐように構え、二人を叱咤する。

タケシを敵と呼ぶ。それが、シノブの決意を示す、何よりも確かな意思表示だった。

自分がカズキやダウド、アルやアケミ、そしてユウトを決して裏切れないように、シノブにもまた、信頼を寄せる者達が居る…。

他者を愛する事を知った今のタケシには、その心情が痛いほど理解できた。

前回、エンド・オブ・ザ・ワールドを使用する際には、シノブ達を殺すことに躊躇いはなかった。

だが、シノブと過ごした日々の記憶が戻った今となっては、彼女を殺める事はできなくなっている。前回よりも厳しい戦い

になるだろう。

自分は弱くなったのかもしれない。

そう考え、タケシは微苦笑を浮かべた。

それならそれでいいとも思う。ユウトはいつでも理想と現実の間でもがき、苦悩を背負って戦っていた。

彼女と同じように感じることができるようになったのなら、それは自分がユウトと近しい感性を持つに至った証拠でもあるのだ。

そして青年は、感傷を心の奥に沈み込ませ、冷静に戦力を分析する。

自分と同じ能力を持ち、空間歪曲を無効化し得るシノブには、常に注意を払わなければならない。三人を見据え、慎重に間

合いを計る。

その横に、白い巨躯がのっそりと進み出た。

「…事情は、だいたい解ったっス」

アルは愛用の大戦斧を構え、三人から目を離さずに言う。

「ならば話が早い。アケミを連れて離脱し、カズキさんに連絡を入れろ」

「連絡ならもう入れたっスよ。タケシさんとオレがラグナロクと交戦中だって」

「戦うのは俺一人で良い。早く行け。俺は元…」

「あー、事情は判ったんスけど、なんかその辺りだけオレとアケミには良く聞こえなかったんスよねぇ。車の中に居たし…」

青年の言葉を遮り、アルはとぼけた様子で言った。

タケシは思わず隣のアルを見上げる。白熊は口の端を吊り上げ、少年らしい悪戯っぽい笑みを浮かべて応じた。

タケシがラグナロクだったということは聞かなかった事にする。それが、青年の過去を知り、アルとアケミが出した結論だった。

「済まない…。感謝する」

「しなくて良いっスよ?オレは何もしてないんスから」

あくまで知らぬ存ぜぬを貫き通すつもりなのだろう。アルの心遣いと信頼に、タケシは深く感謝した。

「ならば今度、特に理由無く飯を奢ってやる」

「それなら有り難くっ!」

笑みを交わし、二人は同時に前に出た。

タケシが真っ先に狙うのはシノブである。彼女を戦闘不能にすれば、能力を使用するのが楽になる。

ガルムは後方へ跳び、矢をつがえる。

ヨルムンガンドはタケシの進路を遮ろうとシノブの脇を抜けて前に出る。

身を低くして滑るように前進したタケシ目掛け、横薙ぎに払われた竜人の槍を、横合いから伸びた大戦斧の柄が防ぎ止めた。

タケシの脇を固めるように駆け込んだ白熊は、竜人と得物を絡ませ、間近で顔を突き合わせながら不敵な笑みを浮かべる。

「あんたの相手はオレっスよ!」

ガルムはシノブに迫るタケシめがけ、矢を放った。

風を切って飛翔した矢は、しかし急に失速して軌道を変え、タケシから大きく逸れて飛び去った。

伏兵に気付いたガルムは、鋭い視線を車の横に向けた。

「お手伝いくらいなら、私にもできますから!」

横方向に加重する重力操作で、タケシへの矢を逸らしたアケミは、ガルムの鋭い視線を真っ直ぐに見返した。

そして突き出した左手を黒犬に向けたまま、いつでも能力を発動できるように精神を集中する。

こうして、タケシ、アル、アケミ組対、シノブ、ヨルムンガンド、ガルム組の、三対三の乱戦が開始された。