第三十七話 「黄昏の訪れ」(後編)

単車を走らせ港へ急いでいたユウトは、その気配を察してバイクに急制動をかけた。

横滑りさせて停めたバイクに跨ったまま、ユウトはキッと前方を横切る歩道橋を睨む。

歩道橋の上、月を背負ったシルエットの中で刃を思わせる銀の双眸が、ゆっくりとバイクから降りるユウトを、静かにじっ

と見下ろしていた。

冷たい夜風に銀の被毛をなぶらせ、歩道橋の上に佇むは一頭の狼。警戒の色を濃く宿した瞳で男を見上げ、

「フェンリル…!」

ユウトはかつて一度拳を交え、全く歯が立たず、事実上の敗北を喫した相手の名を呟く。

銀狼は口の端に微かな笑みを浮かべ、瞳に喜色を湛えて口を開いた。

「決着がまだだったな…、神代熊斗」

見上げるユウトと見下ろすフェンリル。路上と歩道橋の上、金と銀の獣は視線を交差させる。

不測の事態が起こらない限り、一騎打ちは互いの実力がそのまま勝敗を決する。

邪魔もなく、障害物もない夜の路上は、見物客の居ないコロシアムであった。

 この場における戦いでは、運の要素は無いに等しい。

あれからかなりの修練を積んだ。それでもまだ、自分の実力がフェンリルに及ばない事を、ユウトは悟っていた。

(勝ち目があるとすれば、狂熊覚醒しての短期決戦しかない…!)

銀狼が歩道橋の手すりにふわりと飛び乗ると、戦いの始まりに備え、ユウトは静かに呼吸を整える。

周囲の空気がピリピリと張り詰め始めたその時、ユウトの耳がピクリと動いた。

轟く銃声の一瞬前に、金の巨躯が四つん這いに素早く伏せる。

 その上を数発の弾丸が通り過ぎ、アスファルトの地面や、周囲のビルの壁面、傍らのバイクの計器に穴を穿った。

すばやく身を起こし、追撃に備えて身構えつつ、ユウトは自分の迂闊さに憤りを覚える。

 フェンリルに意識を集中させていたせいで、別の敵の接近を許してしまっていたのだ。

ビルの間や路上の暗がりから、軍服に身を包んだ男達が姿を現す。

 その軍服は、二年前の首都でイヤと言うほど目にしたラグナロク正規部隊のものである事を、ユウトは苦い感情とともに思

い出していた。

その数20。相当な訓練を積んだ兵士達である事は、規律の取れたその動きから察せられる。

「どういうつもりですかな?中佐」

歩道橋の上の銀狼が、歩道橋の下に立った男に鋭い視線を向けた。

「やつは俺の獲物だ。手を出さないで頂きたい」

「何を言うか。我らが仇敵を仕留めるチャンス。功を焦ってし損じてはならんのだよ」

襟元に階級章をつけた男は、敵意すら滲ませた視線でフェンリルをねめ上げた。仲間ではあるが、どうやらフェンリルに好

意を感じてはいない事が察せられる。

「仇敵…、とおっしゃったか?」

銀狼の目に訝しげな光が宿る。それを見た中佐は、嘲笑を浮かべて言った。

「ほう、知らんのか?この獣人が何者なのか?」

相手が知らない事を自分が知っている事が嬉しいのか、中佐は得意げにユウトを指さした。

「そこの獣人こそ、二年前の首都決戦に際し、たった一人で我々の同胞三百以上を殺傷し、空母1隻を沈めた調停者、アーク

エネミーだ」

それを聞いたフェンリルの瞳に一瞬驚きの色が浮かんだが、ユウトを見つめると、納得したように頷いた。

「…なるほど、ただ者ではないと思っていたが…、どうりで…」

フェンリルは呟くと、何故か少し嬉しそうに笑みを浮かべ、歩道橋から飛び降りた。優雅とも言える身のこなしで路上に降

り立つと、銀狼は中佐に顔を向けた。

「ならば中佐。犬死にする前に退却を。そこな調停者は、あなた方が敵うような生ぬるい相手では無い」

正規部隊を相手にこの言いよう。フェンリルもまた彼らのことは好かないらしい。

銀狼の言葉に、プライドを傷つけられた中佐が声を上げる。

「…お前一人ならば勝ち目があるような言い方だな?」

「いかにも。以前一度拳を交え、実力はしっかりと確かめております」

中佐は歯ぎしりすると、片手を上げた。

「ならばそこで見ているが良い。お前が仕留め損ねたアークエネミーを、我らが始末する所をな!」

腕が振り下ろされると同時に、一斉に銃弾が放たれた。

(やれやれ…、功を焦っているのはどちらの方か…)

心の中でため息をつき、フェンリルは呟いた。

「一つ、忠告しておこう」

その呟きが発せられたまさにその時、数発の銃弾に貫かれたバイクが爆発し、周囲に炎を撒き散らす。

吹き上がった炎の輝きに、銀の被毛を緋に染めて、フェンリルは無感情に続けた。

「神卸しを行った者には、普通の人間が放つ銃弾など当たりはしない。もっとも、オーラコート能力者は、例え命中しても弾

丸など物の数でもないが…」

炎を裂いて、金色の大熊が飛び出した。全身を包む燐光が炎を遮り、被毛には焦げ目一つついていない。

ユウトは烈風と化して、兵士の一人に迫る。

(後にはフェンリルが控えてる。グズグズしてる暇は無い!)

一気にケリをつける覚悟を決め、ユウトは一斉射撃を受けると同時に狂熊覚醒をおこなっていた。

最初の兵士は、ユウトの姿を金色の残像としかとらえられないまま、拳で顔面を砕かれた。吹き飛んだ兵士が地面に落ちる

前に、ユウトはさらに離れた兵士に肉薄している。兵士達が反応できたのは、その兵士の顎が蹴り砕かれた後だった。

激しい銃声が響き渡るが、一発として、音にも迫る速度で駆け巡るユウトを捉える事は無かった。

 兵士達は一人、また一人と屠られ、中佐の顔が恐怖に歪む。

「固まれ!ヤツの動きを止めろ!」

中佐の指示に従い、残った兵士達8名が一ヵ所に固まる。

 目で追うことすら難しいユウトに対して、一ヵ所に固まれば確実に犠牲が出る。しかし、誰かがやられたとしても周囲の者

が反応できる。兵士を戦力として使い捨てる、非情な策であった。

金色の影が、兵士達に一気に詰め寄った。

 兵士達が相打ち覚悟で銃を構えたその時、ユウトが、フェンリルが、兵士達が、それに気付いて視線を向けた。使い捨ての

ロケット砲を構えた、中佐の姿に。

中佐の放ったロケット弾は、接触寸前だったユウトと兵士達の、丁度中間で炸裂した。

吹き上がる爆炎。駆け抜ける爆風。

腕で目を庇ったフェンリルの足下に、一人の兵士が吹き飛ばされて来た。両足と左腕を失った兵士は、それでも右手に銃を

握りしめ、血まみれの顔に驚愕の表情を浮かべていた。

その瞳は、自分達に命令を下し、自分達を囮にして、自分達を敵もろとも吹き飛ばし、自分の手で上げた戦果に、満足げに

高笑いする指揮官の姿があった。

「中…佐…、どう…し…て…」

息も絶え絶えに呟いた兵士は、まだ若かった。幼さすら残す顔立ちは、血にまみれ、裏切りに慟哭し、死に恐怖していた。

「いや…だ…、こんな死に方…、世界が…変わる…のも…見れ…ないで…、仲間に…殺され…る…なんて…」

フェンリルは屈み込むと、兵士の額に手を置いた。

「案ずるな。お前が倒れても、戦いは続いてゆく。いつか、誰かの手によって世界が変わるまで、戦いは続いてゆく…。お前

は理想の為に命をかけた。立派な戦いだった。後は先へ進む者達にまかせ、一足早く休むといい…」

銀狼の優しく、穏やかな言葉に、兵士の顔は苦痛を忘れたように安らかになる。

そして、満足げな笑みを口元に浮かべたまま、若い兵士はその生涯を終えた。

フェンリルは兵士の手から銃を取り上げ、腕を胸の上に乗せてやり、短く黙祷を捧げた。

「どうだ!見たかフェンリル!」

「部下達は捨て駒…、という訳ですか」

「ふん!あのままではどのみちヤツに殺されていた。仲間の手で最期を遂げるほうが幸せだろうが!おかげでアークエネミー

を仕留めたのだ。感謝して欲しいぐらいだぞ!」

「仕留めた、とはおかしな事をおっしゃる」

フェンリルは淡々とした口調で応じ、立ち上がった。

「何を言う!良く見ろ、私の策でヤツは…」

中佐の笑い声は、しゃっくりをするような不自然な呼吸と共に止まった。

荒れ狂う炎の中から、金色の影がゆっくりと歩み出た。

燃え盛る炎は、まるで黄金色の巨躯に触れる事を恐れてでもいるように道を開ける。

炎を背負い、逆光でシルエットとなった大熊の顔で、蒼い瞳が不快そうに細められ、冷たい光を放つ。

「ば、ばかな…」

「もはや、勝ち目はありませんな」

突き放すように言ったフェンリルに、中佐はプライドを捨てて縋り付いた。

「お、おい!ヤツを殺せ!お前ならできるのだろう!?」

「さて、どうですかな」

感情の篭らない口調で言った銀狼に、中佐は泣きそうな顔で言い募った。

「た、頼む!助けてくれ!私はこんな所で死にたくない!」

「死にたくないのは部下達も同じだったでしょうな。が、いかせては差し上げましょう」

安堵の表情を浮かべた中佐の喉元に、鉄の塊が押しつけられた。

「な…」

何をする?と言い終える前に、フェンリルは先ほど死んだ若い兵士の銃で、中佐を撃った。弾丸は気管を潰し、声帯を抉り、

動脈を断ち切り、首の後ろへ突き抜けた。

首を両手で押さえ、ゴボゴボと喀血しながら崩れ落ちた中佐を、フェンリルは冷ややかな目で見下ろした。

「俺は御免被るが…。仲間の手で最期を遂げる方が幸せ、なのでしたな?中佐」

フェンリルは銃を少し離れた所に放り投げる。

「すぐには死なぬようにしてある。せいぜい苦しみ、捨て駒にした部下達に詫びながら逝くがいい。耐えられぬようなら、そ

れ、その銃で自害すれば楽に逝けるぞ」

大量に血を流し、身悶えする中佐から視線を外すと、フェンリルはユウトに向き直る。

「見苦しい所を見せたな」

銀狼は佇むユウトに語りかける。

「やはり神卸しまでも会得していたか。正直驚いたぞ。これで互角といった所か」

銀狼が構えようとした直前、突如、大熊が動いた。

「ごあぁぁぁぁぁああああああああっ!!!」

ユウトの口から、獣の雄叫びが洩れる。

不意をついた剛風の如き一撃を、両腕を交差して受け止める。抗い切れず、ガードごと吹き飛ばされる瞬間、フェンリルは

気付いた。ユウトの瞳がギラギラと凶暴な光を湛え、その体から凄絶なまでの殺意が発散されている事に。

「暴走…?お前の神卸しは未完成だったのか…!」

吹き飛ばされたフェンリルは宙で体勢を立て直し、着地を待たずに餓狼咆哮を発動する。

「なんという事だ…、理性が消える事を覚悟の上で決着に臨もうとしていたのか…!?」

その覚悟を決めた上で、ユウトは一言も発することなく、用事が済むまで待っていたのだろう。

 馬鹿馬鹿しいほどの律儀さ、呆れるほどの人の良さ、フェンリルは、先代ベヒーモスが何故この調停者に惹かれたのかが、

解ったような気がした。

フェンリルはユウトの猛攻を凌ぎながら、冷静に分析を開始する。

すでに理性を欠いた大熊の攻撃は、正確さを欠いた雑なものになっている。本来の技能を伴わない力押しでは、卓越した戦

闘技能を有するフェンリルを倒すことはできない。

「ぐるるるるるるっ!!!」

豪風を纏って薙ぎ払われた腕をかわし、フェンリルは呟く。

「また、邪魔が入ってしまったな。今回は全面的に俺に負い目がある…」

銀狼は前蹴りでユウトの顎を蹴り上げた。巨躯が僅かに浮き上がると、体を捻って、無防備な胴へとソバットを叩き込む。

「今回も、引き分けと言うことにしておこう」

呟いたフェンリルはすでに、吹き飛ぶユウトのその先へと瞬時に移動していた。銀狼は自分で蹴り飛ばしたユウトを待ち構

え、迎え撃つようにその背に回し蹴りを叩き込んだ。

背に強烈な一撃を受け、ユウトの体は弓なりになる。その喉から苦鳴を漏らし、大熊は崩れ落ちた。

強靱な脚力が生み出す強烈な蹴りと、肉眼では追い切れない機動力。それがフェンリル最大の武器だった。

「次こそ決着をつけよう。今回の所は、勝負はお預けだ」

フェンリルは意識を失ったユウトを見下ろし、そう告げた。目を閉じた金熊の顔からは、禍々しい険は跡形もなく消えていた。

意識を失ったユウトの体を担ぎ上げると、銀狼は顔を顰めて小声で呟く。

「…重いな…!」



三対三の戦いは、一対一の三組の戦いへと変化していた。

アケミがガルムを牽制し、アルがヨルムンガンドと交戦する。そして…、

ギィン、と澄んだ金属音を上げ、シノブの大太刀とタケシの刀が激突し、火花を散らした。

一定の間合いを保とうとしながら戦うシノブと、間合いを詰めて一気に押し込もうとするタケシ、奇妙な均衡を保ったまま、

両者は舞い踊るように剣を交える。

二人の間でホロウエッジが相殺して消え、ディストーションが食い合って消滅する。

シノブはかなりの使い手だ。だが、身体能力、戦闘技能、実戦経験、全てにおいてタケシはそれを上回る。さらに青年の新

たな刀、北天不動は、ほんの数合打ち合っただけで、シノブの大太刀をボロボロにしていた。

しかし、ヨルムンガンドとガルムは、加勢したくてもできない状況にある。

(参ったっスねぇ…。こいつ、オレよりちょっと強いかも…!)

戦斧を手元で回転させ、突き込まれた槍を弾いたアルは、内心で舌打ちする。

ヨルムンガンドの戦闘力は、アルの僅かに上をゆく。交戦して間もなく実感したアルは、タケシとシノブの戦いへ介入させ

ぬよう、倒す事より凌ぐ事を優先する戦いに切り替えた。

(絶対抜かせないっス!タケシさんの邪魔はさせないっス!ブルーティッシュ斬り込み隊の底力、見せてやるっスよ!)

アケミは矢をつがえたガルムを見据えながら、じっと動かない。

ガルムはアケミの能力の正体を看破できず、うかつに仕掛ける事ができないでいる。

(私には戦う力は無い…。でも、時間稼ぎくらいなら…!)

ヨルムンガンドと渡り合うアルの奮戦と、タケシの実力、それらが懸念材料となり、ガルムはアケミもまた腕利きの調停者

ではないかという疑心暗鬼に囚われていた。

膠着状態が続く二組をよそに、やがて、徐々に追い込まれていたシノブの手から大太刀が弾かれ、路面に転がった。

「ここまでだ。投降しろ」

金色の切っ先を突きつけながら、タケシは内心、なんとか殺さずに済んだ事に安堵していた。

「決着は着いた。シノブを欠いては、お前達に勝ち目はない。抵抗をやめろ!」

アルと刃を交えていたヨルムンガンドと、未知の能力を持つアケミに牽制されていたガルムが、悔しげに顔を歪ませた。

タケシにその気はないが、彼らにとってはシノブが人質に取られているようなものだ。

武器を下ろした二人に、アルとアケミは戦いの終わりを悟り、安堵した。

「繰り返す。投降しろ。よそではどうなのか分からないが、この国の司法体勢はそれほど悪くはない。不当に罰せられる事は

ないはずだ」

「それはどうでしょうね?二年前の首都で、命を掛けて戦っていた調停者達に、この国の政府が何をしようとしたか、忘れた

のですか?」

タケシの言葉に応じたのは、その場にいる5人の誰でもなかった。

聞き覚えのある…、いや、聞き馴染んだ声…。青年の全身に緊張が漲る。背中を冷たい物が滑り落ち、鼓動が早くなる。

「奮戦する調停者達を我々の主力部隊もろとも、反応弾で消し飛ばそうとする…。なかなかどうして大した物です。我々にも

簡単には真似できない決断力ではありますね」

シノブの後方、車のライトの届かぬ暗がりから、小さな影がゆっくりと現れた。

「久しぶりですね。初代ベヒーモス、不破武士」

「その声を聞くのも四年振り…、という事になるのか。ロキ」

車のライトの中、まぶしそうに目を細め、右脇に石板のようなものを抱えた少年が笑みを浮かべた。

「ロキ…!」

シノブが驚きの声を上げ、ガルムとヨルムンガンドも驚愕の表情を浮かべ、少年を見つめていた。

「ああ、心配いりません。今日の所は私の仕事は終わりです」

以前ユウトが出会った迷子の少年は、三人にぱたぱたと手を振って見せると、タケシに視線を向け、それからアルの顔に視

線を移す。

 凍り付いたように動けずにいるアルの顔を、目を細めてしばし見つめたロキは、やがて再びタケシに視線を戻した。

「中枢は、貴方の始末を決定しました。もはや私の力でもどうしようもありません」

「お前の力でも…、だと?」

タケシは緊張を孕んだ声で聞き返す。

「ラグナロク内で何が起こっている?中枢最高顧問であるお前が、何故自ら最前線に出ている?…まさか…」

青年の顔色が僅かに変化した事を見て取り、ロキは薄く微笑んだ。

「もはや部外者となった貴方に教える必要はありません。が、まあ師弟のよしみです。少しくらいはいいでしょう」

少年は口元に笑みを浮かべたまま、全く笑っていない目で青年を見据えた。

「今の中枢は、実質スルト一人の意志で動いています。不二沙門にも、今や決定に干渉する力はありません」

タケシの目が細められ、顔つきが鋭くなる。

「この不自然に傾いたパワーバランスは、私にとっても好ましいものではありません。少し天秤を揺らしてやる必要がありま

す。…その為にも、この地のバベルは我々が頂きますよ」

アケミは寒気を覚えて自分の身体を両腕で抱え、そして初めて気付いた。自分の身体がずっと、ガタガタと震えていた事に。

 恐怖。それは自分を確実に仕留められる捕食者を前にした獲物が抱く、純粋な恐怖だった。

アルもまた、嫌な汗が止まらなかった。

 若いながらも戦士として積んだ経験が、戦場で磨き上げられた野性的な本能が、叫ぶように彼に訴えかける。

 子供の外見をした目の前のソレが、かつて出会ったどんなものよりも、危険な存在である事を。

タケシはシノブに突きつけていた刀を引き、ロキを見据える。

「…止めて見せる。例えお前が相手でも」

「今日の仕事は終わったのですがね…」

ロキは困ったような笑みを浮かべた。

「この町は広さの割に、本当に調停者が多い。まあ、そう仕向けられているのだから、当然なのですが…。質も悪くなかった

ので、結構疲れているのですよ」

「そう仕向けられている?一体…」

一瞬言葉の意味を考えたタケシは、目を見開いた。

「まさか…、お前の仕事というのは…」

理解の早い生徒を前にした教師のように、ロキは満足げに微笑んだ。

「ええ、この町の調停者は殆ど片付けました」

冗談でも、はったりでも無いことを、タケシは悟っていた。

町中の調停者を始末して歩く。この男ならそれが可能な事を、青年は十分過ぎるほどに知っていた。

「おかげで十分な意志の力が捧げられました。今宵散った調停者達…、これまでに散った様々な組織の者達…、そして危険生

物達…、彼らがこの地に捧げた意志の力で、バベルは長い眠りから目覚めます」

タケシの頭の中を、凄まじい量の情報が駆けめぐる。そして、そこから導き出されるものを、青年は驚愕とともに理解した。

「この町の事件発生件数が、首都でのマーシャルロー以降、やけに多かったのは…!」

「ラグナロクが手引きしたのですよ。この町へ進出したがる組織を影からバックアップして」

「この町に調停者が集まったのも…」

「半分は必然。もう半分は…」

(…警視庁の手引き…!?)

タケシは心の中で呟き、青年が理解した事を認めたロキは満足げに頷く。

「そしてバベルは…、意志の力に反応して出現する…?」

「その通りです。それも、死に瀕した生物が放つ意志の力は特に良い。絶望や死への恐怖は、特別強いものですからね」

「調停者も、組織も、ラグナロクの目的のために、そうと知らずに踊らされていた…」

「いかにも。相変わらず理解が早いですね」

「ならば、二年前の首都は?」

「本来は、調停者と首都の住民達が贄となる予定でしたが…、皮肉な事に、バベル出現にはラグナロクの精鋭部隊が半分以上

貢献してしまいましたね。ブルーティッシュ、そして貴方と、あの相棒の働きによる所も大きいでしょう」

ロキは軽く肩を竦めてため息をつく。

「そして神将、神代勇羆…。まさか独力でバベルを破壊してのける生物が存在しようとは思ってもみませんでした…。見物で

はありましたが、所在の判明しているバベルを破壊されたのは、いささか惜しかったですね…」

タケシは目を細め、ロキの瞳を見据えながら呟いた。

「命を糧に、バベルは起動する…?」

「そう捉えても間違いではありませんね」

タケシはギリリと歯を食い縛る。これまで、自分達はこの町を護る為に戦ってきた。だが、結果的には知らずにラグナロク

の計画に荷担していた事になるのだ。

幾多の危険生物を屠り、何人もの調停者が殉職し、そうして蓄えられた意思の力が、裏で糸を引いていたラグナロクに利用

されようとしている…。

「…バベルは渡さない…。お前さえ倒せば、他はまだ何とかできる…!」

「やれやれ、笑ってサヨナラ、とは行きませんか…」

ロキが疲れたようなため息をつくと同時に、タケシは地を蹴った。

シノブを、ガルムを、ヨルムンガンドを完全に無視し、疾風となって少年に迫る。

ロキは落ち着き払った様子で左手を前に翳す。その途端、抱えていた板が輝いた。

急激に地面が凍てつき、そこから伸び上がるようにして、一瞬で氷の壁が出現し、少年と青年の間を遮った。

「術士!?じゃあ、あの板はでっかいグリモアっスか!?」

アルが驚愕を隠し切れずに声を上げる。

術士と呼ばれる特殊な能力者達、中世の頃には魔道士とも呼ばれていた彼らが用いるレリック、それがグリモア。

グリモアとは特殊な情報蓄積装置であり、内部には様々な現象を引き起こすプログラムが収められている。術士とはつまり、

グリモアとシンクロし、内部の情報を引き出し、そして行使する素養を持った者達である。

しかし、本来は手の平におさまる、せいぜいタバコの箱より少し大きい程度のサイズであるはずが、ロキの用いているグリ

モアは、アルが愛読する漫画週刊誌ほどもある。

通常の八倍近い体積を持つ異様なグリモア、それを使用できるロキの常軌を逸した処理能力に、アルは驚愕を通り越し、恐

怖すら感じていた。

出現した高さ3メートルにも及ぶ巨大な氷塊を、しかしタケシは刀の一振りから放ったホロウエッジで両断し、いささかも

速度をゆるめずにロキへ迫る。

美しく氷片が舞い散る中、タケシとロキの間で金属音が響いた。北天不動の黄金色の刃は、ロキが翳した手の先、何もない

空間で、見えない壁にでも当たったように遮られていた。

ロキは口元に笑みを湛えたまま、左手を青年に向ける。

即座に刀を引き、横に跳んだタケシの脇で、青白い炎が炸裂した。砕け散り、路面に降り注いでいた氷の欠片が凄まじい高

温に当てられ、瞬時に溶け、気化する。

空間の断層で障壁を張り、炎と高温の蒸気を防いだタケシは、再度ロキに挑みかかった。

再び二人の間で甲高い激突音が響き渡る。タケシの鋭い連撃に合わせ、ロキは左手を素早く動かす。打ち込む太刀のことご

とくが、ロキの手が指し示した先の空間で受け止められる。

埒があかないと判断したタケシは、力を込めて太刀を振り下ろした。

金色の刃が空間の歪みに包まれたのを見て取ると、ロキは突如間合いを開ける。何の予備動作もなく、全く足を動かさず、

目に見えないワイヤーで引っ張られたように後ろへスライドしたロキの前で、太刀は空間ごと大気と路面を断ち割った。

「さすがにエンプティストライクは受け止められませんからね」

そう言って、ロキは薄く笑う。

速度も破壊力も桁違い。常軌を逸したレベルにある二人の戦いに、他の五人は介入する事もできず、ただただ傍観するしかない。

しかし、常識の範囲を大きく超えたその高みにおいて、二人の間にはかなりの実力差があった。

間合いを離して向き合うと、余裕すら感じられるロキに対し、タケシは全身に緊張を漲らせたまま尋ねる。

「バベルを得て、どうするつもりだ?」

「手中に収めれば、ラグナロク内での発言権も高まります」

「そもそもアレは何だ?普段は見えず、触れず、感じられない。あんな巨大なものが、何故突如出現する?」

タケシの疑問に、ロキは肩を竦めた。

「アレが何なのかは、正確には解りません。ですがバベルという名も、遙か古代から存在し続けるアレを指す呼び名の一つに

過ぎない事は解っています。世界樹とも呼ばれ、ユグドラシルとも呼ばれて来ました」

話しながらもじりじりと間合いを詰めるタケシに、ロキは構わず続ける。

「普段はその存在を確認できず、呼び出せば確かな存在として認識できる。この現象は貴方の能力と同じでしょう?剣程のサ

イズであれば一人の精神力で出し入れできても、あれだけの大きさの建造物となれば、そう簡単にはいきません」

タケシは自身の能力と同じ現象によってバベルが姿を消しているという事に、密かに驚愕しながらも納得した。

「なるほど…、普段は別の空間にあるのか。合点がいった…」

会話を打ち切り、一気に間合いを詰めるべく青年が身構えたその時、ロキの視線がタケシの後方へと動いた。

「おや、遅かったですねフェンリル」

新たに出現した気配を感じつつも、ロキから目を離す事ができず、タケシは舌打ちした。

「申し訳ない。予想外の事態が起こりまして」

フェンリルの声と同時に、シノブは安堵したように息を吐き、ガルムとヨルムンガンドが頷き会う。

振り返らぬままでも、アルとアケミが息を呑んだのが青年に伝わった。

「そ…、そんな…!」

「ユウトさん!?」

一瞬で頭からロキの事が消え、タケシは素早く振り向いた。

アルとアケミの向こうに立つ銀狼。その肩には担がれたままぐったりと動かない金熊の姿があった。

胸がどくどくと脈打ち、視界が狭まる。刀を握る手にじわりと汗が滲み、ユウトを置いてきてしまった後悔が胸を締め付ける。

フェンリルはユウトを担いだまま、無造作に歩を進め、タケシに告げた。

「案ずるな。眠っているだけだ」

この言葉に、ロキは意外そうに眉を顰めた。

「決着をつけるのでは無かったのですか?」

「そのつもりでした。が、邪魔が入りまして、再度お預けです」

ロキの視線を受け、銀狼は付け加える。

「ご命令とあらば、止めを刺しますが?」

「いえ、それには及びませんよ。そのような決着の形は、貴方も気が乗らないのでしょう?」

この言葉は意外だったのか、シノブが、ガルムが、ヨルムンガンドが、一斉にロキを見つめ、それから顔を見合わせた。

「それに、彼女にはアイスクリームを奢って貰いましたからね。今回は見逃しましょう」

その場で起きている者の誰もが理解不能な言葉を呟き、ロキは肩を竦めた。

「さて、どうしますか?このまま続けますか?それとも休戦にしますか?」

ロキの言葉に、タケシは無言のまま刀を地面に突き立てた。

青年が示した休戦の意思表示に、ロキは満足そうに笑みを浮かべる。

「フェンリル、彼女を返してあげなさい」

「承知した」

銀狼は頷くと、堂々とした足取りで歩を進める。

アルはフェンリルに一番近かったアケミの傍に素早く駆け寄ると、少女を背後に庇った。

 が、フェンリルは二人にちらりと視線を向けただけでその前を悠々と通り過ぎ、タケシの目前で足を止める。

近距離で視線を交わした二人は、互いに戦意は無いことを確認した。

肩に担いだユウトを下ろしながら、銀狼が呟く。

「…重いぞ?」

「判っている」

そう応じると、タケシはしなだれかかるユウトを受け止め、胸の下に体を入れて下から支えた。

ずっしりとした重みを確かめ、呼吸と鼓動を感じ、タケシは安堵する。

抱き合うような姿勢で自分の肩にユウトの顎を乗せ、青年は愛おしげにその背を撫でた。

「神代熊斗が目覚めたら伝えて欲しい。「見苦しいところを見せた。勝負は次の機会に」と」

ユウトを地面に横たえながらタケシが頷くと、フェンリルは静かに二人を迂回して遠ざかり、シノブの脇に立つ。

二人の様子を目にしたシノブは、衝撃を受けたような表情で立ちつくしていた。

「それでは、私達は行きますよ。仕上げが残っていますからね」

ユウトを横たえ、タケシはロキに向き直る。

「どうあっても、バベルを出現させるつもりか?」

「どうあっても、貴方は止めるつもりですか?」

タケシが頷くと、ロキはまるで、聞き分けのない子供を前にしたような、微妙な笑みを浮かべた。

「不可能ですよ。我々の元に居た頃に遠く及ばない、今の貴方の力では」

「やってみるまで分からないさ」

ロキは薄い笑みを浮かべたまま、くるりと背を向けた。ガルムが、ヨルムンガンドがその後に従い、最後にシノブが、フェ

ンリルに促される形で踵を返した。

タケシは5人の姿が闇の中に消えるまで立ちつくし、やがて緊張を解くと、深いため息を吐き出した。