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第四話 「小さな迷子」(前編)

その猫と出会ったのは、ほんの偶然だった。

一仕事終えたタケシは、カズキの監査を受け、近道の為に薄暗い路地裏を歩いていた。

時刻はすでに深夜。ユウトが待ちくたびれているだろうと、人気のない路地を急いでいた彼は、ゴミ捨て場の分別用のカゴ

の脇にうずくまる、真っ白い何かに気がついた。

タケシは足を止め、闇に輝く赤い瞳を見下ろす。

逃げるでもなく、その真っ白い猫はタケシの顔を見上げていた。飼い猫なのだろうか、赤い首輪をはめており、首元には小

さな鈴が付いている。

タケシは興味無さそうに猫から視線を外し、再び歩き出す。そのまましばらく歩いた後、背中に視線を感じて振り返ると、

少し後ろから白猫が付いて来ていた。

タケシは少しの間白猫を見つめ、それから視線を前に戻し、再び歩き出した。

青年が歩き出すと、白猫も一定の距離を保って、後を追う。

再び足を止め、タケシが振り向くと、白猫も立ち止まり、青年の顔を見上げた。

「エサなら持っていないぞ」

タケシは白猫に向かってそう言うと、また歩き出す。白猫はまたもタケシの後を追って歩き出す。タケシはまた立ち止まり、

猫を振り返る。しばし無言で、自分の顔を見上げる白猫を見つめた後、ボソリと呟いた。

「事務所に戻れば、何かエサが有るか…」



ユウトは目をまん丸にして、タケシの足元にチョコンと座っている白猫を見つめた。

「どうしたの?この子」

「路地裏からずっとついて来た」

タケシがそう応じると、ユウトは大きな体を屈め、白猫の顔を覗き込む。

「首輪をしてるね。飼い猫かな?」

ユウトが手を伸ばすと、白猫は逃げるでもなく、大人しく喉を撫でられる。ゴロゴロと喉を鳴らす猫の赤い首輪を見て、大

熊は小さく首を傾げた。

「あれ?この鈴、中身がおかしいね?何か詰まったみたいになってて、音が鳴らない」

ユウトは白猫をひょいっと抱き上げ、首輪を見つめる。名前や飼い主が判るようなものは、記されてはいなかった。

「空腹で付いて来たのかもしれない。何か無いか?」

「それなら、ミルクを暖めてあげようか」

タケシの言葉に、ユウトは猫を足元に降ろしながら答える。

その猫と出会ったのは、ほんの偶然だった。だから、この時は二人とも、この猫を巡る事件に巻き込まれる事など、予想も

していなかった。



朝食の仕度が終わると、ユウトは席に着いているタケシに話しかけた。

「この子、飼い猫みたいだし、元居た所に帰して来た方が良いよね?」

「そうだな、後で連れて行く」

結局、白猫は外へ出ようとする素振りも見せず、一晩事務所で過ごした。人に慣れており、さらによくしつけられているよ

うで、むやみに辺りの物をイタズラするような事も無かった。

「おいで、○○ちゃん(仮称)」

ユウトはソファーの上に行儀良く座っている白猫を呼ぶと、人肌に暖めたミルクを皿に注ぎ、やってきた白猫の前に置いた。

ピチャピチャとミルクを飲む白猫から離れ、ユウトが席に着いて朝食にしようとすると、丁度事務所の電話が鳴った。

今時珍しい黒電話の受話器をユウトが取り、営業スマイルとボイスで愛想良く応対する。

「お電話有難う御座います。カルマトライブ調停事務所です」

第一声の後、ユウトは目を丸くし、次いで本当の笑顔を浮かべた。

「びっくりしたぁ。ひさしぶりだね。どうしたのダウド?」

ユウトの言葉を耳にし、タケシはベーコンエッグから視線を上げた。

「え?うん。大丈夫だけど。…うん、…うん、なるほど。じゃあボクが迎えに行くよ。ん?良いって良いって。じゃあ、また

後でね」

ユウトは受話器を置くと、笑みを浮べてタケシに言った。

「ダウドから。仕事でこっちに来てて、今駅に居るんだって!」

ユウトの言葉に、青年はこくりと頷く。その口元には微かな笑みが浮かんでいるようにも見えた。

「会うのは久しぶりだ。先日の会議には、ブルーティッシュからは代理でネネさんが出席していたからな」

「話したい事もあるし、事務所に来るって言ってたから、ちょっと迎えに行って来るね」

言うが早いか、ユウトは凄まじい勢いで朝食を口に詰め込み、牛乳で流し込むと、事務所を飛び出していった。

タケシは食パンを咥えたまま窓際に歩み寄り、通りを駆けて行くユウトの後姿を見送る。姿が見えなくなり、テーブルに戻

ろうとすると、今度はタケシの携帯が鳴った。着信の表示は種島和輝と出ていた。

『良かった、捉まったか。朝早くから悪いが、ちょっと現場に来てくれないか?面倒な事が起こってる』

急ぎなのだろう、早口で告げたカズキに、タケシは即座に応じた。

「了解しました。すぐに向かいます」

タケシはカズキから場所を聞いて電話を切ると、手早く仕度を済ませ、ユウトにメールを送る。

不在の表示板をドアにかけ、外に出て鍵をかけようとした時、いつの間にか白猫が足元に居ることに気が付いた。

「…まあ、どちらにせよ、昨日の場所に連れて行くつもりだったからな。一緒に行くか」

まるで言葉が判っているように、白猫はタケシを見あげ、返事をするように一声鳴いた。



東護駅の正面口前にやってくると、ユウトは見知った顔を見つけ、笑顔で手を振った。

「ダウドー!ネネさーん!」

ユウトの声に、電話ボックスの前に居た三人が振り向く。

「よう、元気そうだなユウト」

屈強な体付きの偉丈夫が、口元に笑みを浮かべて、駆け寄ってきたユウトを見つめた。

黒いシャツの上に濃紺のベストを羽織り、穿いたズボンも同じく濃紺。身長ほども長さがある大きな布の包みを傍に立てか

けていた。

その体は白い被毛で覆われ、くっきりと黒い縞模様が入っている。金色の瞳は眼光鋭く、筋骨隆々たる体付きで、身長は2

メートルほど。勇壮な雰囲気を纏う、白虎の獣人だった。

「ごめんなさいね。わざわざ迎えにまで来て貰って」

白虎の隣で、小柄な女性が困ったような笑みを浮かべて言う。艶のあるグレーの毛並みに、薄い灰色の瞳。美しい猫の獣人

だった。身に着けているのは、男と同じように、黒いシャツに濃紺のベストとズボンである。

白虎の獣人の名はダウド・グラハルト。構成員500人を越える最大、最強の調停者チーム、ブルーティッシュのリーダー。

デスチェインの異名で知られ、現調停者の中で最強の男と呼ばれている。ユウトが首都に居た頃の友人でもあり、タケシとは

一年ほど前にある事件で出会い、以来交友関係が続いていた。

小柄な猫の獣人の名は神崎猫音。ブルーティッシュのサブリーダーであり、ダウドの恋人でもある。美しい毛並みの美人で

あり、ダウドという恋人さえ居なければ、言い寄る男は後を絶たないだろう。

「ダウド、ネネさん。久しぶりだね」

ユウトは笑顔を浮かべて二人の顔を見ると、もう一人の男に視線を向ける。

「ダウド、彼は?」

「ああ、そういや会わせるのは初めてだったよな?」

問いかけたユウトに頷き、ダウドは男を紹介する。

「去年からウチで働いてる。アルビオン・オールグッドだ」

 ユウトに見つめられた男は、ドギマギしながらお辞儀した。

飛びぬけて大きな男だった。やはり黒いシャツに濃紺のベストとズボンを着用しており、足元には一辺1メートル程もある、

かなり大きな旅行鞄が置いてあった。

高さも幅もユウトに引けを取らないほどの立派な体格で、瞳は薄い赤、体は純白の体毛に覆われている。男は極めて大柄な

白熊の獣人であった。

「あ、あの。アルビオンっス!神代さんの事は、リーダー達から良く聞いてるっス!」

体の割には澄んだ声で、男はギクシャクとお辞儀した。

「神代熊斗です。初めまして」

ユウトが笑みを浮かべて手を差し出すと、男はその手をおずおずと握り返した。

「ナリはデカいが、アルはまだ16歳でな、現役の高校二年生だ」

ダウドの言葉に、ユウトは少し驚いたような顔をする。

「学校に行きながら調停者を?」

「仕事は夜間と休日限定にしているの。今は学業第一でやっているわ」

ネネの言葉に、ユウトは顔を顰め、頬をぽりぽりと掻いた。

「それ、すんごいハードじゃない?」

「ふふふ、大丈夫よ。無理させないように、きちんと体調管理しているわ」

「管理っつうか監視だろう?あの調子で24時間見張られてちゃ息が詰まるぜ。なあ?」

「いやその、オレは贅沢言える立場じゃないっスから…」

微笑みながら答えたネネに、横からダウドが呆れ顔でつっこみ、アルは困ったように二人の顔を交互に見つめた。

ユウトは三人のやり取りを見て可笑しそうに笑うと、気になっていた本題に入った。

「それで、今日はどうしたの?参謀のトシキさんこそ居ないけど、リーダーとサブが揃ってやって来るなんて…」

ダウドは表情を引き締め、ネネは困ったように眉根を寄せた。

「実は、ちょいと面倒な事件を引き受けてな。探し物をしている」

ダウドは懐から写真を取り出すと、それを見つめた。

「こっち側でかなりの勢力を誇ってた、ある組織の頭が先日死んだ。後継者が決まってねえ内に急死しちまってな、組織は跡

目争いでグダグダになった。こっちとしては烏合の衆になった奴らを叩き潰すのは楽だった。が、問題はその後だ…」

ダウドの言葉を、ネネが引き継いだ。

「その急死した組織のトップなんだけれど、生前に、組織の最重要機密になっていた研究成果を、信用の置ける誰かに託して

いたらしいのよ。ちなみに、その研究を行なっていたメンバーは、一人として生きては居ないわ。組織内の抗争と、…私達の

掃討戦でね…」

ネネはため息を洩らし、ダウドはその肩をポンと叩く。

「お前のせいじゃねえ。事情を把握したのは掃討完了後だった。俺が指揮を取ってたとしても、結果は同じだ」

ネネはダウドに微笑み、首を横に振りながら話を続けた。

「それで、その研究成果を託された人物だけど、どうやらこの東護町に居るらしいの」

ユウトは納得したように頷くと、二人に尋ねる。

「それで、研究って、何をしていたの?」

この問いに、ネネは困ったように眉を潜め、ダウドは馬鹿にしたように鼻を鳴らした。

「実に下らねえもんだ。ヒトを生まれ変わらせる研究だとよ。それで、その研究成果とやらだが、恐らくは小型の記録媒体か

何かになって、その誰かさんに渡されたらしい事までは突き止めた。で、その記録媒体なんだが…」

ダウドは先ほど取り出した写真を、ユウトに手渡した。ユウトは写真をじっと見つめる。心なしか、その頬が引き攣ってい

るように見えた。

「…?どうかしたの?ユウト」

ユウトの様子に気付いたネネが尋ねると、ユウトはポツリと呟いた。

「…○○ちゃん(仮称)だ…」

写真には、鈴付きの赤い首輪をした白猫が映っていた。ユウトの呟きに、三人は顔を見合わせる。

「…昨日、タケシにくっついて来て…、今事務所に居るんだけど…」

ユウトは連絡を取ろうと携帯を取り出し、メールが入っていた事に気付く。駅まで走って来る途中で入ったのだろう。マナ

ーモードにしていたため気付けなかったらしい。

メールを確認し、ユウトはタケシの携帯をコールした。



タケシはカズキに連れられ、裏通りに建つ古いアパートを訪れていた。

かなり老朽化したアパートの中で、二人が入った一室は、嵐でも通り過ぎたかのような有様になっていた。

「ガイシャはここで死んでいた」

カズキは窓際の床に、白いチョークで描かれたマーキングを指し示す。

「死因は後頭部を鈍器で殴られた事による脳挫傷。ついでに、手首と足首には縛られた跡があった。そっちの部屋にはロープ

がからまった椅子がある。縛られていた状態から何とか抜け出し、逃げようとした所を頭にガツン…。それが鑑識の見解だ」

カズキは、少し離れてマーキングを見つめていたタケシに向き直った。

「普通の物盗りの可能性もあったが、ガイシャの素性を調べていて、解った事がある」

タケシは視線を床から離し、カズキの顔を見つめて先を促す。

「ガイシャは、以前ある組織の幹部の地位についていた。足を洗ったのか、上と何かあったのか…、とにかく組織を離れたそ

の男は、しばらく各地を転々とした後、三年ほど前にこのアパートに越してきた」

「その間、所属していた組織との接触は?」

「無かったと考えて良いだろう。怪しげな連中が出入りしていたという証言も無いし、何より、近所の評判はかなり良い老人

だった」

「老人、ですか」

タケシは意外そうに眉を上げた。

「隣の部屋に写真があるぞ。見てきたらどうだ?」

タケシは頷き、隣の部屋へと移動する。

寝室らしいその部屋の中央には、老人が縛られていたのだろう、足元と背もたれにロープが絡んだ椅子があった。窓際には

ベッドがあり、その横に小さな箪笥が置いてある。箪笥の上に置かれた写真立てを見つけ、タケシは歩み寄った。

写真には、柔和そうな笑みを浮かべる白髪の老人が写っていた。タケシは食い入るように写真を見つめた後、隣の部屋に引

き返す。

「それで、老人を殺害したのは、かつて所属していた組織の人間でしょうか?」

カズキは肩を竦めた。

「そこなんだ。その…、そこの組織がまっとうな状態なら手の打ちようも有ったが、こうなったら調停者に頼るしかないと思

ってな…。事情が事情だけに、普通の警官を動員する訳にもいかんし…。応援も頼んじゃいるが、到着は夜になりそうだし…」

歯切れの悪い言葉に、タケシは眉を潜めた。

「そこは首都圏の組織なんだが、トップが急死して、跡目争いでゴタゴタになった。結局、表社会に影響が出るくらいの内部

抗争に発展し、ブルーティッシュに壊滅させられたんだが、その残党共が再起をかけて、元幹部であるガイシャに接触したらしい」

「なぜ今更その老人に?」

「さてな…。元は古株の幹部だ。何か機密でも握っていたのか、それとも実際には持っていなくとも、勘違いされたのか…。

とにかく交渉はこじれ、ホトケが一人残された」

「遺体の発見は、昨日の深夜以降ですね?」

「ああ。そうだな」

「昨日、俺と交番で会った後」

「その通りだが…?」

「遺体発見当時、この部屋に猫は?」

「いや、居なかった。写真でガイシャが抱いてた猫だな?それがどうかしたのか?」

「今、アパートの入り口付近に居ます」

カズキが窓際から下を見下ろすと、真っ白な猫がこちらを見あげているのが見えた。

「目撃者、ってか?確かに一部始終見ていたかもしれんが、情報は得られそうにないな」

苦笑いしたカズキにタケシは淡々と告げる。

「昨夜、ここからさほど遠くない場所で出会いました。何がしたいのか、そのまま事務所まで付いて来て、一晩過ごし、今朝

またここへついて来ました」

ここまで聞くと、さすがに警官は訝しげな顔をした。

「偶然…?いや、なんだかまるで、お前がこの事件に関わると分かったような行動だな」

タケシは窓から白猫を見下ろす。

「ずっとついて来ましたが、中に入ろうとはせず、アパートの前で動かなくなりました」

「嫌な思いをしただろうからな、怖くて入りたく無いんだろう。それでも、ああして飼い主の死を悼むように、じっとこの部

屋を見上げてる。感心するが、哀れだな…」

カズキはため息をついた。タケシは黙り込み、警官の言葉をじっと反芻していた。と、突然携帯が鳴り出し、タケシは素早

く電話に出る。

「ユウトか。ダウドには会えたのか?」

先ほど話題に上がったばかりのチームのリーダーの名前を耳にし、カズキは「おや?」と眉を上げる。

『うん。で、ちょっと大変な事になってて…。とりあえず、○○ちゃん(仮称)はまだ事務所に居る?』

「今は現場に出ているが、ついて来ている」

『なら、その子から絶対に離れないで!その子、ダウド達が追ってる事件に関わりがあるんだ。ボクも今からすぐにそっちへ

向かう。詳しい説明は会ってからするよ』

よほど焦っているのか、ユウトはタケシ達が居る現場の位置を聞き出すと、ダウド達と話させる事も無く電話を切った。

「ユウトか?なんだって?それにダウドって、あのダウド・グラハルトか?」

「思ったよりも、大事になっているようです。それも、ブルーティッシュのリーダーが、直々にやって来るほどの大事に…」

タケシは窓の外に視線を向け、白猫の姿を確認する。

「外で待機します。本当に、あの猫が重要参考人…いや、重要参考猫のようです」

カズキは目を丸くしてタケシを見つめた。白猫が事件に関わっているというのも驚きだったが、何よりも、この青年が冗談

を言ったのかと驚いたのだ。が、彼はどうやらいつも通りに本気のようである。

「事情がいまひとつ飲み込めないんだが…?」

「俺も詳しくは知りません。しかし、じきにユウトとダウドが来て、説明してくれます」

タケシはそう告げると、カズキを残して部屋を出る。一階まで降り、正面口を開けると、いつの間にか、白猫は出口のすぐ

外に移動して来ていた。

この猫と出会ったのは、ほんの偶然のはずだった。だがタケシは疑問を感じ始めていた。

「俺が調停者だと分かっていてついて来たのか?主人の仇を討ちたかったのか?」

タケシは白猫に問いかける。しかし答えが返るはずもなく、白猫はただただじっと、タケシの顔を見上げていた。

タケシは視線を上げ、アパートの外壁を見上げた。

最上階にある老人の部屋だけが、カーテンを開けている。路地裏から見あげる切り取られたように狭い空。その眩しさに目

を細めていたタケシの目が、不意に見開かれた。

屋上に人影があった。逆光で良く見えないが、老人の部屋の真上だった。この付近は退去勧告が出されているはずなのに。

「来い!俺から離れるなよ!」

タケシは白猫にそう言いつつ、駆け出した。言葉を理解したように、白猫もまた、青年の後を追って駆け出した。



アパートの階段を駆け上ったタケシは、勢い良く部屋のドアを蹴り開ける。

驚いたようにこちらを振り返ったカズキのすぐ後ろ、窓の外に、逆さ吊りの異形の顔が覗いた。薄い褐色の逆三角形の顔に、

顔の三分の一を占める、赤い大きな複眼。窓から中を覗き込んだのは、カマキリの頭部だった。

タケシの足下で、白猫が背中の毛を逆立て、シャーッと威嚇の声を上げた。

カマキリは腕と一体化した、鋭く、大きな鎌を振りかぶる。

「伏せて下さい!」

言いながら、タケシは腕を大きく振りかぶる。後ろに大きく引いたタケシの手の先で空間が揺らめき、抜き身の日本刀が姿

を現す。ボールを投げるように体を弓なりに反らし、タケシは逆手に握った刀を投擲した。

咄嗟に伏せたカズキの頭上を、投擲された刀が矢のように一直線に宙を裂く。

刀は窓ガラスを突き破り、外から部屋を覗き込む、二つの複眼の中央に突き刺さった。

カズキは低い姿勢のままで振り向き、息を呑んだ。

刀に頭部を貫かれたカマキリは、一度ガクンと落ちかけ、下に向かって振りかぶった腕をブラリと揺らした後、力を失った

ように落下していった。

僅かな間を置き、下の方からグシャリ、と音が聞こえる。

「今の…、マンティスか!?」

タケシは新たな刀を呼び出しつつ、窓際に歩み寄った。窓の外を慎重に確認し、地面へと視線を向ける。

「ああ…、俺の兼定…」

青年は悲しげに呟く。無惨に砕けたカマキリの死骸の傍に、鍔元から折れた刀が転がっていた。

「くそっ!組織の奴らか?白昼堂々市街地にインセクトフォームなんぞ放ちやがって!」

カズキは吐き捨てると、腰のホルスターから拳銃を引き抜いた。

「ええい!9ミリ弾しか持って来なかった!」

「通常のパラベラム弾では、インセクト相手にあまり効果は期待できません。敵は俺が引き受けますから、脱出しましょう」

タケシはそう請け負うと、ドアから顔を出し、廊下の様子を覗う。

「住人に退去して貰ってて良かったな。大騒ぎになる所だ」

「住人が居ないからこそ、強引な手段に出た可能性もあります」

「裏目に出たのかよ…」

廊下へと踏み出しながら応じたタケシに、顔を顰めて呟くと、カズキは拳銃を構えつつ青年の後を追う。その少し前を、警

戒しているようにゆっくりと白猫が歩いて行く。

二人と一匹が階段目前までやってきたその時、タケシは何かを聞きつけ、突如立ち止まった。

カズキが「どうした?」と問いかけようとした瞬間、警官の左右でドアを突き破り、鋭い鎌が飛び出す。カズキは反射的に

床へ身を投げ、一方のドアめがけて銃を連射する。

「くそっ!俺はデスクワークが本業なのに!」

タケシは咄嗟に振り返り、反対側のドアから突きだした鎌に、刀を振り下ろす。白刃が煌めき、鎌を半ばから断ち切った。

続いてドアを突き破り、両側からカマキリが飛び出した。フォルムは人間に近いが、四本の腕を持ち、その内二本には鎌が

備わり、残る二本には鋭いかぎ爪が備わっている。全身は薄い褐色の外骨格に覆われ、昆虫というよりは甲冑を着込んだ騎士

にも見えた。二体のカマキリは、赤い複眼でタケシとカズキをそれぞれ捉える。

痛みを感じていないのか、右腕の鎌を半ばから切断されたカマキリが、残った鎌をタケシへと振り上げる。

腰を低くし、すくい上げるように一閃した刀が、振り下ろされた鎌を斬り飛ばした。怯むことなく伸ばされた二本の腕を、

振り下ろし、薙ぎ払う一連の動作で切断すると、タケシはカマキリの首もとへ刀を突き刺す。肩から先が霞む程の素早い剣捌

きに、カマキリは為す術もなく命を絶たれた。

カズキは床に膝を着き、拳銃を連射する。弾丸は外骨格に弾かれ、カマキリは銃撃を物ともせずに歩を進める。銃が全ての

弾丸を吐き出し終えるのと、タケシがもう一方のカマキリの鎌を斬り飛ばしたのは同時であった。

舌打ちして銃に再装填を始めたカズキに、飛びかかるべくカマキリが身構える。次の瞬間、地を蹴ったのはカマキリでは無

かった。

恐れることなく素早くカマキリに飛びかかった白猫は、その赤い複眼へと爪を突き立てた。さすがにこれは堪えたのか、仰

け反ったカマキリは、顔にしがみつく白猫を振り落とそうと、首を捻ってもがく。鎌を逃れて離れた白猫に、再装填を終えた

カズキが叫んだ。

「良くやった!下がれニャンコ!」

白猫は素早く身を翻してカズキの元へと駆け戻り、警官は膝立ちのまま、カマキリの複眼へと狙いを定める。二回の銃声と

同時に、二発の弾丸が、二つの複眼を貫いた。

顔を掻きむしるようにして仰け反ったカマキリの頭部が、伸ばされた腕ごと球型の歪みに囚われる。視線を動かした警官は、

もう一方のカマキリを仕留めたタケシが左腕を伸ばしているのに気がついた。

カマキリの頭部を包み込んだ歪みは、タケシが何かを握りこむように掌を閉じると同時に、中心めがけて急速に収縮し、カ

マキリの頭部はそれに飲み込まれるように消滅した。青年の空間歪曲能力、ディストーションである。

カズキはほっとため息を吐くと、タケシの手を借りて立ち上がりながら、白猫に視線を向けた。

「助かったぜカワイコちゃん」

親指を立てた右手を突き出して笑いかけると、白猫は「どういたしまして」とでも言うように、ニャー、と一声鳴いた。