第四十一話 「それぞれの戦い」

出現したバベルに程近い、戦場を見下ろすホテルの屋上で、トシキとガルム、アルとヨルムンガンドが、それぞれ火花を散

らしていた。

袈裟懸けに振るわれた大斧を、僅かに身を傾がせてやり過ごしたヨルムンガンドは、反撃とばかりに、立て続けに素早く槍

を突き込んだ。

重い甲冑を身に纏っているにも関わらず、竜人の動きは素早く、そして無駄が無い。

(やっぱりこいつ、実力はオレより数段上、かなり手強いっス…!なんとかしてペースを握らないと…)

首、次いで太もも目掛けて鋭く突き込まれた槍の穂先を、身を開き、ズボンだけかすめさせてかわしたアルは、振り切った

斧を床すれすれから打ち上げる。

仰け反るようにしてかわした竜人の頭上で、白熊の膂力と体重により、重い斧はぴたりと静止する。

「かかったっスね…!」

アルは不敵な笑みを浮かべ、全体重をかけて斧を振り下ろす。

半歩横へずれる形で避けた竜人の足元を、渾身の力を込めた白熊の大戦斧が打ち砕く。

飛び散った床の破片に目を細めるヨルムンガンド、その鋼鉄の胸甲の首元を、白い左手ががっしりと掴んだ。

「ぬっ!?」

「ちょっと、付き合って貰うっスよ!」

喉輪落としの体勢で、アルは竜人もろともに、階下へと崩れ落ちる床に飲み込まれ、消えた。



銃弾が、矢が、めまぐるしく飛び交う。アルとヨルムンガンドが階下に消えた後も、ガルムとトシキは弓と銃を用いて、ホ

テルの屋上に死の雨を降らせていた。

弓を狙撃用のものから、普段のアーチェリータイプの物に持ち替えたガルムは、トシキの放つ弾丸をやり過ごしながら口の

端を吊り上げる。

「人間にしては、なかなかやる…!」

「お褒めにあずかり、光栄だな」

二人はめまぐるしく位置を入れ替えつつ、矢と弾丸を交換する。

高速で飛び交う矢と銃弾が、互いの体をかすめ、血飛沫を撒き散らす。

両者共に心身を鍛えぬいた戦士同士ではあるが、しかし獣人であるガルムと、生粋の人間のトシキとでは体力に差があった。

その差は時と共に顕著になり、トシキの動きが鈍り始める。

やがて、矢の一本がトシキの足をかすめ、バランスを崩させた。

その隙を逃さず、ガルムは腰の後ろの矢筒から、指の間に四本の矢を挟んで掴み出し、自分の頭上へ放り投げた。

弓を横に寝せ、大きく引き絞られた弦の間に、放られた矢が落下する。弓の上に落ちる矢を、ガルムは立て続けに弦を引き、

弾くように放った。

横に身を投げ出したトシキの右肩を、脇腹を、右の太ももを矢が掠め、最後の一本が左の上腕を前から後ろに貫通する。

トシキの左手から落ちた銃が、カラカラと床を滑った。

床を転がって起き上がったトシキは、残る右手で銃を構え、油断なくガルムを睨む。

「その傷ではそうそう動けまい。ここまでだな」

「…いいや、ここからさ」

トシキは、かつて自分が所属していたチームを壊滅させた相手であり、当時のリーダー、生涯においてただ一人惚れた女、

フレイアを殺した相手でもあるラグナロクの一員を前に、衰えぬ闘志を瞳に灯した。



一方、階下へと落下したアルとヨルムンガンドは、二階分吹き抜けになっているホールを落下しながらも、槍と斧を激しく

交錯させ、着地までに数合打ち合った。

隙を作ったつもりだったが、瓦礫と共に落下しつつ仕掛けた不意打ちすら、ヨルムンガンドは凌いでのけた。

「まったく…、そんなに強いなら、その力をもっと正しい事に使えば良いんスよ…」

斧を構えつつ足元の瓦礫を蹴り払い、呆れ半分に呟くアルに、ヨルムンガンドは「ふむ」と頷く。

「少年。正しい事、とは何だ?」

「正しい事ってのは、良い事っス!」

即座に切り返したアルに、竜人はさらに問う。

「良い事とは、誰にとってだ?」

「皆にとってっス!当り前じゃないっスか!」

「皆とは、どんな連中だ?」

アルは訝しげに眉根を寄せる。

一瞬からかわれているのかとも思ったが、目前の相手は至って真面目な様子だった。

「皆っていうのは…、一般の人達とか…、仲間とか…、とにかく、何の罪もなく、普通に生きてる人や善人の事っス」

「罪とは、何を指す?普通とは?そして善人とはどのような者だ?」

「そ、それは…。ああもう!そんなのは頭の良い人に聞いて欲しいっス…!オレこういうの苦手なんスから…」

苛立たしげに呟くアルに、ヨルムンガンドは目を細めた。

「正しい事とは、良い事とは、仲間とは…、立場によって変わるものだと自分は思っている」

静かに言ったヨルムンガンドは、アルの赤い瞳をひたりと見据えた。

「仲間の為に力を振るう事が、自分にとっての正しい事だ。…少年よ、良きとされる事も、悪しきとされる事も、損得にも等

しい程に立場によって色を変える。そんな危うく曖昧な物に、我々は一人残らず、囚われながら生きているのだよ」

アルは竜人の瞳を真っ直ぐに見返した。

「オレ…、難しい事は解らないっス…。正直なところ、善悪の判断だって、本当に正しくできてるか自信は無いっス。でも…」

互いの瞳が宿す、一片の迷いも無い光を、二人ははっきりと認め合う。

「今のオレはただ、自分で正しいと思える事をするだけっス。今オレがやるべき事だけは、はっきり解ってるっスから」

「すべき事とは、何だ?」

アルはヨルムンガンドの瞳を真っ直ぐに見据え、胸を張って、はっきりと言った。

「守るべき物があるっス。護るべき人が居るっス。帰るって約束した相手が居るっス!だからオレは、体を張って皆を護るんス!」

ヨルムンガンドはしばし黙してアルを見つめた後、微かな笑みを浮かべた。

「自分も同じだ。護るべき者が居る。造られし命である自分を受け入れてくれた仲間の為にも、自分は息絶えるまで戦い続ける!」

白熊は訝しげに眉を顰め、呟いた。

「造られし…、命…?」

「構えろ!互いが護るべき者のため、決着をつけようぞ!」

竜人が猛々しく吼える。

アルは戸惑いを棚上げにし、小さく頷いて身構えた。



矢が手首を掠め、トシキの右手から銃が弾かれた。

カラカラと転がった銃に視線を向ける事無く、トシキは床に身を投げ出して転がる。彼が転がった後を追うように、次々と、

立て続けに飛来した矢が床に突き立った。

貯水タンクの上に立ち、間断なく矢を射掛けるガルムに、懐から抜き出したリボルバータイプのマグナムで応戦しながらト

シキは声を上げた。

「造られた命、そう言ったな?どういう意味だ?」

「そのままの意味だよ。私も、ヨルムンガンドも、プロジェクト・エインフェリアによって造り出された存在だ」

トシキは驚愕を覚えつつも、表面上は冷静に応戦しつつガルムに問う。

「人造生命体だとでもいうのか?無から産み出されたとでも?」

「少々違うな。我々は死した優秀な戦士の遺伝子を元に産み出された、いわば人造獣人だ」

トシキは大きく目を見開き、かつてダウドから聞いた話を思い出した。

『ラグナロクってのはな…、死人すら利用して兵隊を拵える…、そんなイカレた連中だ』

つい先ほどまで何かの比喩だと思っていたトシキは、驚きと共にその事実を受け入れる。

負傷し、動きに精彩を欠いたトシキは、徐々に追い詰められていた。

残った右手も手首を負傷し、弾切れも近い。

激しく動き回りながらも、落ち着き、そして静かに状況を分析し、トシキはこの不利な状況から巻き返し、ガルムを倒す手

立てを考え出した。

「…少々、気は引けるがな…」

トシキは呟くと、左上腕に突き刺さったままの矢を咥え、しっかりと噛んで歯を食い縛り、激痛に耐えて引き抜いた。



「受け入れてくれた、って…、他の連中は受け入れてくれなかったって事っスか?自分達の組織で生まれた仲間なのに!?」

突き込まれた槍の穂先を、手首を捻って回転させた斧の柄で弾きつつ数歩下ったアルは、信じられないといった様子で聞き

返した。

「仲間という概念は、ラグナロク内においてごく狭い範囲内でのみ通じるものだ。自分とガルム、フェンリル、そしてベヒー

モスは確かに仲間であろう。…だが、ラグナロクという組織は、決して全ての構成員が同じ理念、同じ価値観で動いている訳

ではない。事実、今回の我々の任務遂行にあたり、最大の障害となっていたのは、味方であるはずの他の部隊からの妨害だった」

淡々と語るヨルムンガンドの呼吸は、さほど乱れてはいない。対して、昨夜からまともに休息もとっていないアルは、すで

に肩で息をしている有様だった。

「…そんなのおかしいっスよ…!少なくともウチの皆は、価値観の違いや考えの違いが少しぐらいあっても、目的を見据えた

ら一纏まりになるっス!」

黙って呼吸を整えればいいものを、それが出来ずにアルは声を上げる。

竜人は目を細め、アルを見つめた。

老獪さとは無縁な、未熟で、不器用で、感情的で、要領の悪いこの若い獣人は、彼にとっては初めて相対するタイプの相手

だった。

初めて味わう奇妙な気分だった。昨夜初めて顔を合わせ、まともに言葉を交わすのも今が初めての相手でありながら、ヨル

ムンガンドは、目の前の若き獣人に対し、自分の内心を素直に語っていた。

あるいは、アルがまだ若く、未成熟で、世の中の汚れも暗さも深くは知らず、純粋さを保っているからなのかもしれない。

あるいは、アルがあまりにも裏表無く、真っ直ぐだからこそ触発されるのかもしれない。

あるいは、アルが調停者でありながら、厳格なる法と秩序の番人というよりも、義憤と理想を掲げる一人の戦士に見えるか

らかもしれない。

ヨルムンガンドは軽く首を振り、微かな苦笑を浮かべる。

「ブルーティッシュ…。あの規模の組織で目立つ不和も無く活動できるのは、メンバーを選定するダウド・グラハルトの手腕

によるものなのだろうな…」

槍を構え直す竜人は、アルを見据えながら呟いた。

「さすが、と言うべきか…。ロキに、そしてスルトに危険視されているだけの事はある…。おそらくは、個の武力だけでなく、

その統率力もまた警戒すべきものなのだろう…」

いくらか呼吸を落ち着けたアルは、大きく足を開いて斧を構え直した。

「統率力っスか…。まぁ、やる事は結構チャランポランで、しょっちゅうネネさんに怒られてるっスけど…」

白熊は苦笑交じりに呟いた。

「頭に仰ぐなら、やっぱりウチのリーダーみたいな人が良いとは思うっスよ」



矢と弾丸が、宙で互いを掠め、交錯する。

弾丸は黒犬の頬を掠めて飛び去り、矢はトシキの右腕を貫通し、屋上入り口の壁に縫い止める。

トシキの手から落ちたマグナムが床に着くより早く、ガルムは勝機とばかりに素早く矢をつがえ、弓を引き絞った。

「チェックメイトだ!」

射放たれた矢は、トシキの右胸を貫いた。

ゴボッと血を吐き出し、がくりと項垂れたトシキの前に、ガルムは静かに歩み寄った。

「お前は良く戦った。これ以上苦しむ事はあるまい、今楽にしてやる」

弓に新たな矢をつがえようとしたガルムに向けて、トシキはゆっくりと左手を伸ばす。

「残念だが、俺も王手だった…」

カシャン、という小さな音。瞬き一つの間に、それは起こった。

先ほど上腕を矢で射抜かれ、負傷したはずの左手に、袖口から飛び出した小さな銃が握られていた。

立て続けに鳴り響く二発の銃声。

左胸、そして鳩尾に銃撃を受けたガルムの体は、きりきりと舞い、地面に横倒しになった。その脇に、手から離れた弓と矢

が転がる。

肩で息をするトシキの左手から、小型の二連装拳銃、デリンジャーが滑り落ち、床に落ちた。

「…左腕…、負傷しては…いなかったのか…?」

横倒しになったまま、驚愕の表情で問うガルムに、トシキは苦笑を返した。

「いいや、動かすだけで全身から油汗が出る…。なんとかハメる事ができたようだがな…。…ふん…、少々癪だが、…実質は

俺の負けだな…」

ガルムは口元を歪め、苦しげながらも愉快そうに、低く笑った。

「その言葉…、あの世への土産に…持って逝こう…」

笑みを浮かべたまま目を閉じたガルムは、満足げな表情のまま、事切れた。

トシキは自分を追い詰めた好敵手に短く黙祷を捧げると、壁に縫いとめられたまま、深く息を吐き出した。

そして痛む左手で懐をまさぐると、タバコを取り出す。

タバコを咥え、震える手でターボライターを持ち上げ、火を点けようとしたトシキは、真っ赤に染まっているタバコを見つ

め、困ったような苦笑いを浮かべた。

「ここまで血まみれだと、さすがに火も点かんか…」

火を点けるのを諦め、トシキは血に濡れたタバコを咥えたまま、空を見上げた。

「…今度は…、きちんと護ったぞ…。これで、勘弁してくれるか…?…フレイア…」

呟いたトシキの口元から、真っ赤に染まったタバコが、血溜りへと落ちた。

焦点が合わなくなり、輝きを失った瞳に、ゆっくりと瞼が下りる。

フレイアの副官として、ダウドの参謀として、ハンターとして、調停者として、長きに渡って活躍を続けてきた男は、護る

為の闘争に捧げたその生涯を終えた。

常に厳しさを湛えていたその顔に、満足げな笑みを浮かべて。



アルとヨルムンガンドの戦いは、他者の介入の余地が無いほど激しいものとなっていた。

戦斧が、槍が、凄まじい破壊力を伴い、高速でぶつかり合う。

一歩も譲らず打ち合う二人は、巻き込まれれば即座にばらばらになる、鋼の竜巻となっていた。

しかし、地力でヨルムンガンドに劣るアルは、瞬間的にのみ可能な禁圧解除を適時、適所で使用する事でなんとか食らいつ

いているに過ぎない。

ギリギリの均衡の上に成り立ち、消耗戦の様相を呈してきた戦いは、しかしヨルムンガンドの一手でバランスを崩した。

斧と槍が噛み合った瞬間、竜人は背にしていたもう二本の槍の片方を抜き放ち、至近距離で鋭く突き込んだ。

鋭い槍の穂先は咄嗟に身を捻ったアルのジャケットを切り裂き、左の脇腹を深々と抉り、純白の被毛を鮮血で染めた。

痛みに気を引かれた瞬間に、横薙ぎに払われた竜人の太い、尾が、アルの胴を打ち据える。

強烈な一撃に吹き飛ばされ、床にバウンドしたアルは、吹き飛びながらも体勢を整え、四つん這いで着地し、立ち上がる。

そこへ、投擲された槍が襲い掛かった。

身を捻り、頬を掠らせてなんとかかわしたアルは、痛みを堪えてヨルムンガンドめがけて突進する。

「戻れ!ブリューナク!」

竜人の叫びの直後、アルは背中と腹に衝撃を感じ、たたらを踏んだ。

見下ろしたその赤い瞳に映るのは、自分の腹から生えている槍の穂先。

「…げぼっ!」

血塊を吐き出し、背後から串刺しにされたアルがくず折れる。

「その槍はレリック、ブリューナクだ。使用登録者の意思に従い、自在に軌道を変える。騙し討ちのようで気が引けるが、こ

れも真剣勝負だ」

ヨルムンガンドは三本目、最後の槍を手に取り、両手それぞれに槍を携える。

もはやまともに動けないアルを前にしても、一片の油断も無く、じりじりと間合いを詰めた。

「若いながらも良くやった。お前は一人前の戦士だ」

「まるで…、もう勝ったみたいな言い方っスね…?」

槍に串刺しにされたまま、アルは口元を拭い、立ち上がる。

驚嘆すべきタフさと精神力を見せる白熊に、竜人は感嘆の表情を浮かべた。

「その傷では、もはやまともに動けまい。無理せずとも、すぐ楽にしてやる」

「まともでも…、そうでなくても…、動ける以上は戦えるっスよ…」

アルはいささかも衰えぬ闘志を瞳に宿し、両足でしっかり床を踏み締め、両手でしっかりと斧を握る。

傷付きながらも、苦痛を堪えて堂々と構えるその姿を見据え、ヨルムンガンドは畏敬の念すら込め、深く息をついた。

「ジークフリートという男が居た」

唐突に言った竜人の目を、アルは苦しげな息を吐きながら訝しげに見つめる。

「面識は無いが、我らが総帥スルトの友であり、好敵手でもあった男らしい。その男も、純白の体躯をした熊の獣人だったそうだ」

激痛で飛びそうになる意識を繋ぎ止め、アルはじりじりと間合いを詰める。

「恐らくは少年、彼もまた、お前のように誇り高い、不屈の戦士だったのだろう」

「知らない人を例に出されても、誉められてるんだか良く解らないっスよ…」

アルは苦笑すると、大きく体をよじった。広がった傷から血が溢れ出るのにも構わず、ほとんどヨルムンガンドに背を向け

る形で、白熊は斧を肩に担ぐ。

「…最後の一発…、行くっスよ…」

防御も回避も念頭に無い、ただ一撃に全てを賭けるその構えに、ヨルムンガンドは静かに目を細めた。

「やぶれかぶれ…、か?」

「さぁて…、どうっスかね…?」

白熊の体が発散するプレッシャーに、竜人はアルの構えがハッタリでも、フェイントでもない事を感じ取った。

アルはもう、まともに動くことも叶わない。放っておいても出血で力尽きる。

それまで逃げ回るのも手だったが、それはこの誇り高き竜人からすれば、敗北にも等しい行為だった。

緊張を緩めぬまま身構えると、竜人は一切の手加減を抜きにアルへ突きかかった。

電光石火。しかし、アルは翳んだ目でなんとかその動きを捉え、喉を狙った右の穂先を、僅かに首を反らしてかわす。

首筋を浅く切られ、腹の傷口から血が噴き出すのも構わずに、アルは渾身の力を込めて体を捻った。

踏ん張った足から、腰から、胸から、肩から、深い捻転から生まれた捻りを戻す全ての力が、斧を握る両腕に集約される。

全身をバネにして繰り出す、防御も、攻撃後の隙も度外視した、文字通り捨て身の強烈な一撃。

大気を粉砕しながら宙を走った斧に、しかしヨルムンガンドは素早く反応していた。

左手で握った槍を床に突き立て、斧の柄に合わせる。完全に受け止められるタイミングであった。

が、柄が触れ合ったとたん、斧は連結部で折れ曲がる。

激突の直前、アルは柄を握った左手の傍にある、斧の柄を連結しているリリーススイッチを即座に解放していたのだ。

内部で斧を一本につなぎ止めているワイヤーがむき出しになり、衝突した槍の柄を支点に、斧頭は急激に軌道を変える。

本来なら弾かれるはずの斧は、全力で打ち込まれた勢いそのままに軌道だけを変え、ヨルムンガンドの首に斜め後ろから喰

らい付いた。

目だけを動かし、自分の鱗を割り、首の半ばまで食い込んだ斧を見遣ると、ヨルムンガンドはにやりと笑う。

そして、間近で向き合ったアルの顔へ視線を戻すと、微かに口元を動かした。しかし、その口からは言葉は出ず、代わりに

ゴボリと血が吐き出される。

そのまま、アルと肩をぶつけて前のめりになり、うつ伏せにどうと倒れると、ヨルムンガンドは目を閉じ、動かなくなった。

『見事』

竜人の口は最期にただ一言、そう呟いていた。

片膝をついた白熊の手から、斧がズシッと床に落ちる。

アルはヨルムンガンドの、安らかとも言える死に顔を見つめて呟いた。

「あんたと戦えた事…、誇りに思うっス…。そして…、運良く勝てた事…、幸運に思うっスよ…」

激痛に呻きながら立ち上がると、アルはふらふらと階段へ向かった。

「上…、静かになったっスね…。トシキさんの方も、終わったんスかね…」

体がぐらりとゆれ、アルは前のめりになりつつ踏み止まる。

咳き込んだ口から大量の鮮血が溢れ、腹に突き刺さったままの槍から滴り落ちた血が、足元に赤い水溜りを作る。

「…帰らなくちゃ…、いけないんス…。アケミが待ってる…」

うわ言のように呟きながら、朦朧とした頭に愛する少女の顔を思い浮かべ、白熊は再び歩き出した。

脳裏に浮かんだ少女は、何故か泣き顔だった。

「そんな顔…しないで…欲しいっス…。アケミの泣き顔…、堪えるんスよ…。ちゃんと帰るから…。…ははっ…。でも、こん

なボロボロになってるの見たら…、やっぱり泣かせちゃうっスかね…?」

かくんと膝が折れ、アルは自分が作った血溜りの中に跪いた。

「ちょ…っと…疲れた…っス…。…少しだけ、休んだら…、帰るっスからね…、…アケ…ミ…」

バシャリと音を立て、白熊の巨躯は血溜りの中に横倒しになり、そして、動かなくなった。



「ここまでだ!」

ダウドは敵の部隊長クラスの大半が倒れたことを見て取り、声を上げた。

「指揮系統は潰れた!これ以上の交戦は不可能だろう、降伏しろ!」

ざわめきが広がる戦場を見回し、白虎は咆吼を上げた。

「大人しく降るなら良し!だが、あくまで抵抗するつもりなら、このまま殲滅する!」

デスチェイン、ダウド・グラハルトから言い渡される降伏勧告。

敗戦色はすでに濃厚で、ラグナロクの兵達には、この勧告を跳ね除けるだけの気力は残っていなかった。

ラグナロクの兵達は、一人、また一人と武装を解除する。武器が地面に転がる音が、戦いの終わりを告げていた。

「終わったわね」

息を切らせて駆け寄ったネネに、ダウドは大剣を肩に担ぎ、首を横に振ると、バベルを見上げた。

神の住まう域へ迫ろうとするような、そんな威容を睨み上げ、ダウドは呟く。

「まだだ。あいつらの決着は、まだついていない…」

白虎の横顔を見つめ、ネネは不安そうに呟く。

「まだ…、何かが起こるというの?」

ダウドは満身創痍の仲間達の姿を眺めつつ、低い声で呟いた。

「あいつらが勝っても、負けても、バベルに変化があるだろう…。どちらが出るかは、まだ判らん…」

身を翻したダウドの視線の先で、装甲車両から飛び出そうとして、兵士に止められているアケミの姿があった。

「どうした?」

歩み寄ったダウドに尋ねられ、アケミは泣きそうな顔で訴えた。

「嫌な感じがするんです!アルは!?アルは何処に居ますか!?」

ダウドはハッとして周囲を見回す。トシキも、そしてアルの姿も、立っている敵味方の中には無い。

「アルは無事ですよね?ねぇ!?アルは…?アルは何処に居るんですか!?」

少女の悲痛な声が胸を締め付け、ダウドは苦悶の表情でギリリと歯を食い縛った。

この日、ブルーティッシュは400名の部隊で戦闘に望んだ。

その内、殉職した36名の名簿の中には、ユウトと親しかった者の名も、連ねられる事になった…。