第四十二話 「受け入れて」

白くほのかな、象牙色の光が満ちるバベルの内部を、タケシとユウトは駆け登ってゆく。

巨大な塔の中は吹き抜けになっており、壁の内側を螺旋階段が巡っていた。

塔はあまりに高く、階段の行く先は遥か頭上で、象牙色の闇に溶けて消えている。

壁や足場は、触れると温もりを感じる陶器のような、それでいてどこか生物の骨を思わせるような、奇妙な質感の素材で作

られており、全体がうっすらと発光していた。

どういう造りになっているのか、どこを探しても素材の継ぎ目は見当たらない。

まるでこの巨大な塔自体が、それ以上に巨大な一個の白い塊をくり貫いて作られているかのようにも思えた。

吹き抜けの塔の広大な空間を、渦を巻いて囲む階段は果てなく続き、すでに何百メートル駆け登ったかも判らない。

ユウトの息が上がり、タケシの頬を汗が伝い落ちる。

それでも二人は足を緩めず、ひたすら上を目指して走り続けた。

「タケシ!天井だ!」

白一色のため、近付くまで気付かなかったが、頭上のそれほど遠くない高さに天井があった。

カーブを描く階段は、二人の行く手で白い天井にぽっかりと開いた穴に飲み込まれている。

「…ここは…?今までと違うね…」

穴を抜け、階段を登り切った二人の前に、壁や階段と同じ材質の、平らな床が広がった。

そこは何本もの柱が木立のように不規則に並ぶ、塔の直径そのままの広さを持った一つの部屋になっていた。

階段はその部屋で一度途切れていた。

部屋の一番奥からは、やはり壁の内側に沿った昇り階段が再び上に伸び、20メートルほど上の天井の穴へと飲み込まれている。

しかし、その階段までは果てしなく遠かった。

階段と二人の間に、一人の男が立っているために。

「外は、抜かれたか…」

ただ一人待ち受けていたフェンリルは、腕組みをしたまま二人を見つめる。

「ブルーティッシュ本隊が戦闘に加わった。そろそろ決着がつくだろう」

タケシは言いながら、腰に挿した北天不動に手をかける。

その手を、横から伸ばされたユウトの手が押し留めた。

「彼はボクの相手だ。タケシは先へ進んで」

タケシはユウトの顔を見上げ、それから銀狼へ視線を向けた。

「神代熊斗の言うとおりだ。このバベルこそが我らの決着の場…」

フェンリルは肩越しに背後へ親指を向け、階段を指し示した。

「行くがいい不破武士。シノブが、現在のベヒーモスが待っている」

タケシは一歩踏み出し、それからユウトを振り返った。

「ユウト…。お前なら、やつにも負けないと信じている」

「…タケシ…」

正直、必ず勝てるとは思っていない。勝率は五分以下というのがユウトの見積もりだった。

それでも、タケシはその瞳に確信を込め、戦友であり、相棒であり、そして恋人となったユウトを見つめた。

「俺はお前を信じている。だから、お前を信じている俺を、お前も信じてくれ」

自分の瞳を真っ直ぐに見つめてくるタケシに、

「…タケシはずるいよ…」

ユウトは溜らず、苦笑を漏らした。

「こういう時はいつだって、ボクが一番欲しい言葉を言ってくれるんだから…」

ユウトは拳を突き出し、タケシはその拳に、自分の拳をコツンと当てた。

「必ず追いつくから。立ち止まらないで」

「ああ…。先に行っている」

笑みを交わすと、タケシはそれっきり振り返らず、走り出した。

駆け抜ける青年と、歩き出した銀狼がチラリと視線を交わし、無言のまますれ違う。

タケシが階段を駆け上がり、上の階へと姿を消すと、ユウトは口を開いた。

「待たせたね。始めようか」

「ああ。始めて、そして終わらせるとしよう」

部屋の丁度中央が二人の中間に位置している。

白い柱が林立するこの部屋が、前夜のオフィス街と同じく、二人にとって見物人の居ないコロシアムとなる。

二人はゆっくりと歩を進める。歩みながらも、二人の体の中で押さえ込まれていた獣が、間もなく解き放たれようとしていた。

「見せてみろ!神将、神代家の力を!」

先にフェンリルが、身中の餓狼を解き放った。

息が詰まるほどのプレッシャー。刺すように肌を刺激する闘志。ユウトはフェンリルの放つ殺気を真っ向から受け止めなが

ら、内なる狂熊を解放する。

「この件が片付いたら、タケシと一緒になるって決めたんだ!今度は絶対に負けない!」

同時に床を蹴り、二頭の獣が交錯した。



ユウトを残し、螺旋階段をしばらく駆け上がったタケシは、再び同じような構造の部屋に辿り着いた。

部屋は先ほどのものより少し狭い。バベルそのものと同じように、内部構造も上に向かうほど狭くなっていた。

「待っていたわ。タケシ」

柱に寄りかかって目を閉じていたシノブは、ゆっくりと目を開け、タケシを見据えた。

「…不思議ね…。あんなに一緒だったのに、今はお互いに知らない者達が大切になっている…」

タケシはシノブを見つめたまま小さく首を横に振り、静かに口を開く。

「不思議でもなんでもない。歩む道が違えば、共に歩む者もまた違ってくるものだ」

シノブは哀しそうな瞳でタケシを見つめた。

「タケシ…、私には、ラグナロクの中だけが世界だったわ…」

青年は黙ってシノブの言葉に耳を傾ける。

「タケシはきっと、外の世界で様々な者と出会い、様々な物を見たのね…。でも…」

シノブの顔が、不意に鋭さを帯びた。

「それは、私達とは関係の無いものじゃないの?私達にはどうでも良いものじゃないの?共に過ごした幼い頃からの時間が、

たった三年だけの思い出に負けるというの!?」

それは、共に過ごした記憶を持たないタケシに向けられた言葉ではなかった。

兄と慕い、恋心に近い憧れを抱き続けてきたラグナロクの戦士、ベヒーモスだった頃のタケシに対して溢れ出た言葉…。

「…時間ではないんだ。シノブ…」

タケシは哀しそうな顔で、しかし穏やかにそう言った。

「俺が裏切り者なのは解っている。今の俺を、そして外の世界をそう簡単に認められない事も良く解る。…お前は昔から真っ

直ぐで、負けず嫌いで、こうと決めたらテコでも動かない頑固者だったからな…」

シノブの顔色が変わった。大きく見開かれた黒い瞳が、自分と同じ色をした青年の瞳を見つめる。

燃え落ちる直前のビルで再会したときのように、シノブは驚きと、喜びの入り混じった感情にとらわれた。

「タケシ…、貴方、記憶が…?私の事まで…?」

「ああ、思い出した。埋立地で会った後の事だがな…」

「それじゃあ…」

シノブの顔が、混乱に歪んだ。

「俺は、過去を取り戻した上で、ユウトと共に生きる事を誓った。俺はもう、こっちの人間なんだよ…」

シノブの顔が、絶望に沈んだ。タケシは哀しげな顔のまま、言葉を続ける。

「それでも、俺はお前を傷つけたくはない。だから、そこを退いてくれ」

「ダメよ」

シノブは顔を上げ、キッとタケシを睨んだ。

「記憶が戻って、なおそちらに付くというのなら、私は貴方を見逃せない!」

「どうしても、か?」

「どうしても、よ!」

「俺達の能力で戦えば…」

「まず、無事では済まないでしょうね、お互いに」

「それでも…」

「くどいわよ!」

シノブは雑念を振り払おうとするかのように頭を振り、

「貴方に大切な者ができたように、私にも大切な仲間が居る!背く事はできない!」

そして、迷いを断ち切るように叫んだ。

「真のベヒーモスは私か、それとも貴方か、この場で決着をつけましょう!」

大太刀を構えたシノブに、タケシは鞘から北天不動を引き抜く。

「これしか、無いのか…!」

苦悩を滲ませた呟きを、よそよそしいまでに白い床に吐き捨て、タケシはシノブを見据えた。

かつて、ラグナロク最高のスイーパーだったタケシ。

同じ力を持ち、そのコードネームを受け継いだシノブ。

新旧、二人のベヒーモス同士の戦いの火蓋が、切って落とされた。



白い柱が粉々に砕け散る。

粉砕されて宙を漂う粉塵を裂き、二つの影が交錯する。

神卸しによって身体能力を強化し、互いの武器である肉体を限界まで酷使し、二頭の獣の攻防は徐々に激しさを増していった。

二人の力は拮抗していた。パワーとウェイトならばユウト、スピードと柔軟性ならばフェンリルが勝る。

だが、ユウトは決定的なところでフェンリルに追いついていない。

不完全な神卸しによる副作用、狂戦士化症状が現れるという、重大な一点において。

激闘の中、気を抜くと薄れそうになる理性を、ユウトは必死に繋ぎ留める。

我を失い、意識を狂熊に飲まれてしまったなら、フェンリルが相手では確実に敗れ去る。

闘争本能に飲み込まれそうになる意識を保ちながら、そちらに気を取られるあまり、ユウトの動きから急激に精彩が失われ

てゆく。

集中力が乱れ、フェイントへの対処を誤り、フェンリルの強烈な回し蹴りをまともに食らったユウトは、柱を何本もなぎ倒

しながら吹き飛んだ。

もうもうと立ち込める粉塵。その中へ飛び込んで追撃しようとしたフェンリルは、異常な殺気に気付いて動きを止めた。

折れて積み重なった柱が荒々しく跳ね除けられ、粉塵の中でゆっくりと、金色の巨躯が起き上がる。

「るおおおおおおぉぉぉぉぉぉおおおおおっ!!!」

ユウトの喉から、狂熊の咆哮が迸った。



空間歪曲をぶつけあって相殺し、刀を噛み合わせるタケシとシノブ。

周囲の柱は、乱れ飛んだ空間歪曲やホロウエッジによって切り裂かれ、抉られ、破壊されている。

剣技ではタケシのほうが上だが、シノブには相手の命を獲るという、迷いの無い明確な意思がある。その点においては、タ

ケシは彼女に及んでいない。

拮抗した勝負の中で、二人の動きを止めたのは、遠くからこだました獣の咆哮であった。

「何…?今の…」

禍々しい程の殺意が込められた獣の声に、タケシも、シノブでさえも動きを止めた。

タケシは痛みを感じたように顔を顰める。

獣の声の中に、ユウトの消え入りそうな悲鳴を聞いたような気がした。

青年は大きく息を吸い込むと、これまでに発した事が無いほどの大声で叫んだ。

「ユウト!お前の全部を愛してるぞ!!!」



「…良く堪えた。というべきだが…、狂戦士化しては、もはや勝負は見えたな…」

完全に理性を失い、獣そのものの眼光で自分を見据え、低い唸り声を洩らす大熊を前に、フェンリルは低く呟いた。

「決着の時だ。お前は俺がまみえた中で、五本の指に入る戦士だったぞ」

力場を両脚に集中し、攻撃の機を覗うフェンリルの耳が、突然ピクリと動いた。

銀狼の鋭い聴覚が、遠くから響くその声を捉える。

「不破武士か…?」

微かに響いたその叫びは、絶対の信頼を込め、愛する者に呼びかけたものだった。

銀狼は気付く。いつの間にか唸り声が止み、まとわりつくような殺意の波が消え去った事に。

ユウトの蒼い瞳は、澄んだ空色の輝きを取り戻し、驚いたような色を浮かべていた。

「参ったなぁ…。結局、助けてもらっちゃった…」

呟き、苦笑を浮かべるユウトに、フェンリルは違和感を覚える。

不安定だったユウトの神卸しが、今は完全に安定していた。

「…完全制御、だと?なぜ急に…」

ユウトは自分の手の平を見つめ、拳を握ったり、開いたりしながら頷いた。

「全部、愛してくれるんだってさ…。ボクが自分でも嫌ってた、心の中にある獰猛な部分まで、全部愛してくれるってさ…。

そこまで言ってくれるなら、ボクも自分の一部を嫌うわけにはいかないよ…」

ユウトは軽く目を閉じ、自嘲するように顔を歪めた。

「狂熊覚醒を使う時、自分の胸の中で蠢く凶暴なソレが、嫌いだった。怖かった。でも、それもタケシが愛してくれる一部な

んだって、自分の一部なんだって気付いたら、受け入れられた。不思議だけど、そうしたら「狂熊」は大人しくなった。そし

て、今はボクに力を貸してくれる」

フェンリルは驚愕の表情を浮かべた。

「完全制御を…、そのような形で…?己の獣性を押さえ込むのではなく、受け入れて飼いならしたというのか?」

銀狼は畏怖と尊敬の色を浮かべた瞳で、ユウトを見つめた。

「まったく…、神代の血には驚かされることばかりだ…」

小さく呟き、フェンリルは口元に笑みを浮かべた。

「タケシ、待っててね。必ず勝って追いつくから!」

ユウトは新たに込み上げる力を確かに感じ取り、拳を固める。

両拳に強い光が宿り、眩く輝いた。熊撃衝のインパクトの瞬間にも匹敵するエネルギーが、拳に継続的に宿っている。

狂熊覚醒の完全制御により、ユウトは自分の体に秘められた力を、これまで以上に増幅して引き出すことが可能になっていた。

再び、二人は同時に床を蹴り、間合いを詰める。

眩い閃光を纏った拳と蹴りが交錯し、互いに攻め、守り、蹴り飛ばされ、殴り飛ばされ、かわし、いなす。

めまぐるしく攻守と位置を入れ替え、二頭の獣はさながら荒れ狂う嵐のように部屋中を破壊してゆく。

「蒼火天槌(そうかてんつい)!」

ユウトが突き出した両手から、エネルギーの奔流が放たれる。

「雪華屹立(せっかきつりつ)!」

フェンリルが床に手をつくと、光の柱が床から前方へと斜めに吹き上がる。

衝突したエネルギー同士が相殺し、衝撃波を伴って弾け飛ぶ。

舞い踊る光の粒子の中、一気に間合いを詰めたユウトの拳と、迎え撃って蹴り上げられたフェンリルの足が激突し、光の粉

を吹き散らす。

殴り、蹴飛ばし、投げ飛ばし、叩き付ける。その激しい攻防の中で、ユウトはこの戦いを楽しんでいる自分に気付く。

見れば、銀狼も口元に笑みを浮かべていた。

互いに傷つけ合いながらも相手と笑い合い、ユウトは奇妙な高揚感を覚える。

それはもはや殺し合いではなかった。

互いの力と技を全て出し切ってぶつけあう真っ向勝負…。二人は純粋に、心の底からこの勝負を楽しんでいた。

しかし、ユウトが狂熊覚醒の完全制御に成功したといっても、むろん無尽蔵に力を行使できるわけではない。

昨夜から一日も経っていない短い時間の中で、轟雷砲を一度、狂熊覚醒に至ってはこれが二度目の使用である。

ユウトの体力にはあまり余裕が無く、全力で動けるのは短時間、もしも凌がれれば、その後はフェンリルのペースで戦いを

運ばれる事になる。

ユウトは確実に一撃を当てるために一計を案じた。

間合いが離れたのを見計らい、腰を落とし、右腕を後ろに引き、左拳を床につける。

まるで相撲のしきりにも似たその構えを目にし、間合いを取った銀狼は目を細める。

「神代の奥義、百華繚乱(びゃっかりょうらん)か…。お前も使えるとはな…」

「へ?…良く知ってるね?でも、ボクは百華繚乱を会得してない。これから見せるのは、ボクが勝手にアレンジした技さ」

ユウトは呼吸を整え、引いた拳を緩め、脱力させる。

息が詰まるようなにらみ合いの末、銀狼が先に動いた。

弾丸をも越える音速での、氷の上を滑るような滑らかな踏み込みから、右足が振り上げられる。

「奥義、天狼墜刃(てんろうついじん)!」

音を遥か後方に置き去りにし、閃光を纏う鋭い蹴りを前に、ユウトは全く動かなかった。

前蹴りがユウトの顎を跳ね上げ、続いて跳ね上がった左足が追撃する。

蹴りの一発ごとに閃光が飛び散り、ユウトの身体を切り裂き、鮮血を宙に撒き散らした。

蹴り上げられ、真上を向いたユウトの顔面に、垂直に天を突いた位置から、左の踵が振り下ろされる。

炸裂した閃光と同時に、グシャ、といやな音が響いたが、ユウトは天井を仰いだまま、倒れなかった。

「むう…!?」

フェンリルはがくんと体勢を崩す。その瞳が、ユウトの顔面を捉えたはずの自分の左足を見つめ、そして認識の誤りに気付いた。

フェンリルの踵がユウトを捉えたのではなく、首を捻って横向きになったユウトの顎が、銀狼の踝をしっかりと捕らえていた。

「牙を…、エネルギーでコーティングしたのか!?」

ユウトは口から血を零しながらも、銀狼の言葉を肯定するように、ギシリと顎に力を加える。燐光を纏う牙がフェンリルの

左足を覆う力場を噛み破り、アキレス腱に喰らいついた。

「ぬぅっ!」

苦鳴を漏らしたフェンリルの右足に、続けてドガッと音を立て、ユウトの左拳が振り下ろされた。そこから氷が床に這い出

し、フェンリルの足を床に繋ぎ止める。

「ぐあぁっ!?」

アキレス腱を噛み潰し、フェンリルの足から口を離したユウトは、ごっそり食い千切った肉を吐き捨てる。

バランスを崩しながらも、足を凍らされて後退すらできないフェンリルに、金熊は口の端を吊り上げて見せた。

「小さい頃…、乳歯が抜け替わる時期に、歯茎を傷めないでお菓子を食べるために編み出した裏技だけど、意外な所で役に立っ

たよ。…食いしん坊万歳だ…!」

フェンリルの足に接した左手と、床に接した足の下から、床と銀狼の足に、パキパキと音をたてて氷が這い進む。

轟雷砲の発射準備を応用し、ユウトは床につけた左手を中心に、周辺の熱エネルギーを吸収していたのだ。

「さぁて…、つ〜かま〜えたっ!」

ユウトは大きく引いていた右の掌を、動きが封じられた銀狼の鳩尾に叩き込んだ。

ありったけの力と、周囲からかき集めたエネルギーが、咄嗟に展開したフェンリルのエナジーコートを破砕する。

エネルギーが相殺し合う眩い閃光の中に、ユウトは間を置かずに左腕を突っ込んだ。両の掌が重なり、衝撃と閃光が弾ける。

「連壊、熊撃衝(れんかいゆうげきしょう)!」

二つの力場を同時に解放、熊撃衝の連鎖爆破は、衝撃の相乗効果で爆発力を何倍にも高め合った。

ユウトの奥の手は、肉を切らせて骨を絶つという過程を経て、確実に銀狼に命中させられた。

二人の間で炸裂し、拡散した閃光と衝撃は、ユウトとフェンリルの体を部屋の両端へとはじき飛ばした。

数本の柱をへし折り、壁に叩き付けられた銀狼は、反対側の壁に、さながら地面に着地するように、四つん這いで受け身を

取った大熊の姿をみとめる。

ユウトは軽く壁を蹴って床に降り立つと、荒い息を吐きながら部屋を横切り、フェンリルに歩み寄った。

大きくへこんだ壁に背を預け、身を起こそうとしたフェンリルは、ゴボリと喀血し、再び跪く。

咄嗟に力場を発生させて胴を守ったのだが、あっさりと破られてしまい、肋骨が何本もへし折れ、何本かは肺に突き刺さっ

ている。

至近距離で炸裂した衝撃波は全身をガタガタにし、裂けた皮膚から滲んだ血が、銀の体毛を朱に染めていた。

目の前で足を止めたユウトの顔を見上げ、銀狼は喉を鳴らしながら言う。

「まるで自爆技だな…、お前もまともに…浴びただろうに…、平気なのか…?」

「平気じゃないよ。それと、自爆技じゃなく、持ち味を生かした技って言って欲しいな?頑丈さには自信があるんだ」

笑みすら浮かべて応じたものの、ユウトの両手は、至近距離でエネルギーを炸裂させたせいでズタズタだった。

手の甲や掌にいくつもの裂傷を負い、血がポタポタと白い床に落ちている。両手の骨にはひびも入っている。

銀狼は目を細めてふっと笑うと、静かに呟いた。

「見事…。俺の負けだな…」

ユウトは満面の笑みを浮かべると、フェンリルにくるりと背を向けた。

「待て、決着はついた。とどめを刺してゆけ」

ユウトは銀狼を振り返り、肩を竦める。

「決着がついたなら、そこまでする必要はないでしょ?それとも勝ち逃げするつもり?」

言われた言葉の意味が解らず、フェンリルは訝しげな表情を浮かべた。

「勝ったのはお前だろう…」

「その前にボクは二回負けてる。あんなふうに見逃して貰った分を引き分けにできるほど、ボクは人ができてないからね?つ

まりこれで一勝二敗。まだ負け越してるんだから!」

ユウトはウィンクすると、踵を返し、銀狼に背を向けて手を振った。

「楽しかったよ。またいつか手合わせしたいな。今度は生き死にも仕事も関係ない状況でね」

ガタガタの体にむち打って、足早に去っていくユウトの背を見つめ、フェンリルは微苦笑を浮かべ、ため息を漏らした。

「…兄妹揃って甘い事だ…。今回も、俺の完敗だな…」



肩で荒い息をつきながら、シノブはタケシを睨み付ける。

身体能力の差は、シノブが想像していた以上のものだった。

「これ以上続けても勝ち目はないぞ。諦めろ」

タケシは呼吸を少しも乱さぬまま、静かに告げた。

深手を負わさないよう手加減する事で手間取ったが、もはや勝負は着いていた。

すでにシノブの動きは鈍っており、太刀を避け損ね、身体のあちこちに浅い傷を負っている。

しかしシノブは敗北を認めない。衰えぬ闘志を瞳に宿し、青年を睨み付けている。

「甘く見ないで。貴方にしか使えない力があるように、私にも私だけの力がある!」

そして口元に笑みを浮かべ、手を頭上に掲げた。

一瞬で、青年の周囲を囲むように、小さな空間の歪みがいくつも発生した。さらにそれらは、糸にも似た直線の断層を伸ば

しあい、立方体を形作る。

まるで糸が張り巡らされたように周囲を駆け巡る、細い網の目状の空間の断裂を見つめ、閉じ込められたタケシは目を細めた。

「空間の断裂で檻を作る…、こんな芸当もできるのか…」

「ええ。これが私のオリジナル…、スライダーケイジ。仕込みに時間がかかるという制約はあるけれど、発動すればこの通り、

脱出不可能な檻になる…。私が命じれば、その断裂の格子は一気に収束して、中の存在をバラバラにするわ」

シノブの意志に従い、タケシを幾重にも包囲した糸のような断裂が狭まる。

「もう逃れられないわよ。負けを認めなさい」

周囲を見回しながらも、青年の顔に焦りの色は無い。

ゆっくりと檻を見回すその様子は、むしろ興味深く観察しているようにすら見えた。

「なるほど、これは俺には真似できない…。だが、俺の能力とは相性が悪いな」

バチン!という音が響き、スライダーケイジは何ヶ所かで切断された。

細かい紐状に分断された空間の断裂は、一斉に反応を起こし、空気だけを飲み込んで消え去った。

「…な…!?」

「普通は脱出困難だろうが、俺達、空間操作能力者同士ならばこういった抜け方がある」

タケシが使用したのは、ディストーションだった。それも、指先ほどの大きさの細かい空間歪曲。

青年は何の予備動作も無く、それを数十発も同時に発生させ、周囲の断裂を細かく断ち切ったのだ。

奥の手をあっさりと破られ、一瞬呆然としたシノブに、タケシは素早く、静かに、すっと間合いを詰めていた。

次の瞬間、鳩尾に衝撃を受け、シノブは息を詰まらせ、刀を取り落とした。

「強くなったな。シノブ…。訓練がきついとベソをかいていた頃とは、別人のようだ」

耳元で囁いたタケシの言葉は、優しく、そしてどこか誇らしげだった。

刀の柄で鳩尾を痛打され、がくりと倒れかかるシノブを、タケシは優しく抱き止める。

「もう、子供扱いはできないな…」

「…タ、ケシ…」

薄れゆく意識の中、シノブは悟る。自分が何を求めていたのかを。

ベヒーモスとなったのも、タケシを取り戻したかったのも、それが叶わず仲間と共に戦うことを選んだのも、全ては兄のよ

うに慕い、そしていつしか恋心を抱く相手となっていたタケシに、自分を認めて欲しかったからだと。

「うれ…、し、い…」

その顔から年齢不相応に張り詰めていた表情が消え、穏やかに微笑んだまま、シノブは気を失った。

「本当に立派になったな、シノブ…。信念を曲げずに戦える…。もうお前は一人前だ…」

タケシはそう囁くと、シノブをそっと床に横たえた。

「タケシ!」

聞き慣れた声に、青年は顔を上げた。

「ユウト、無事か!?」

駆けてくるユウトの姿を目にし、青年の声に安堵の響きが滲む。

「まあ、なんとかね。…彼女は…?」

ユウトは横たわるシノブの傍らに屈み込み、心配そうにその顔を覗き込んだ。

「大丈夫。気を失っているだけだ」

ユウトはほっとしたように表情を和らげる。

その顔を横目にし、タケシは苦笑を浮かべながら思う。

自分を殺そうとした相手をも気遣うお人好し。ユウトの甘さは出会った頃から相変わらずである。

だが、初めは理解に苦しんだユウトの甘さも、今となっては愛おしく、そして誇らしく感じている。

「…あとは…」

タケシは気持ちを切り替え、上を見上げた。上方から感じられる、異様な、そして強烈なプレッシャー。

残るはロキ、ただ一人。

バベルとは何なのか。

ロキは何をしようとしているのか。

そして、バベルに近付くと感じる、この懐かしさは何なのか。

もうすぐ、青年の疑問の全てに、答えが出されるはずだった。

「往こう。ロキを止め、この戦いを終わらせる。そして…」

「うん。二人で一緒に帰るんだ!」

二人は頷き合うと、階段を登り始めた。