最終話 「哀を背に」
塔の最上階なのだろう。その部屋には上に続く階段は無く、壁はこれまでよりも急な曲面を描き、頂点でドーム状の屋根に
なっていた。
室内に入ったタケシとシノブは、そのがらんどうの部屋を見回す。
「ど、どういう事…?…何も無いなんて…?」
「いや、あれを見ろ…」
あっけに取られた顔をしたシノブに、青年は部屋の中央にあるものを指さして見せる。
それは、白い板のようなものだった。
空っぽの部屋の丁度中央に、床から直接生えたその板は、左右に短く腕が突き出している。
継ぎ目もなく、ノッペリとしたそれは、一見、幅の広い板で作った十字架のようにも見えた。
タケシは傍に歩み寄り、まじまじと板を見つめ、そっと手を伸ばす。
「っ!!!」
指先が軽く触れたその瞬間、雷に打たれたように、青年の体がビクリと仰け反り、シノブは驚きの声を上げた。
「ど、どうしたのタケシっ!?」
タケシは顔を真っ青にし、よろよろと後ずさる。
「まさか…、こんな…!?」
驚愕と、明らかな怯えが、額に手を当てたタケシの顔に浮かんでいた。
シノブは訝しげな表情を浮かべると、板に手を伸ばす。
「よせシノブ!」
タケシの制止は間に合わず、シノブの指先が板に触れる。
次の瞬間、シノブの頭にバベルからの情報が流れ込んだ。
膨大な情報を脳に流し込まれ、体を弓なりに逸らして苦痛の叫びを上げながら、シノブは理解した。
このバベルが、ラグナロクや各国政府が手中に収めようとしているこの塔が、一体どんな存在だったのかを。
「うそ…、うそでしょ…?こ、こんなものを…?ラグナロクはこんなものを使おうとしていた…!?」
シノブは頭を抱えてうずくまる。
タケシは悲痛な表情で板を見つめ、たった今知った、バベルの機能の一つを使用した。
青年が板に指を触れて念じると、全方位の部屋の壁が、周囲の景色を映し出す。
雲がたゆたう高空の世界から、タケシが念じたとおりに、周囲の壁に映し出された景色は地上へと下降していった。
塔を囲むブルーティッシュの姿が映し出され、反対側の壁には水平線が映される。
二人には、ある予感があった。
バベルと仮接続とでも呼ぶべき接触をおこなった際に、頭に流れ込んだ周囲、かなり広い範囲の情報が取得できた。
思いも寄らぬ場所に存在する、伏兵の情報をも。
タケシは水平線の向こうを見ようと念じる。
すると、映像はぐんぐん海の上を進み、やがて10隻の空母を映し出した。
映し出された空母を見つめ、シノブは青ざめる。
「あれは…、ラグナロクの増援…!?そんな話、聞いていないわ!」
ラグナロクは、その中枢は、最初から彼女達だけに全てを任せるつもりなど無かった。
先遣部隊が戦闘し、防衛戦力が消耗した頃合を見て、別に待機させた本隊を送り込む心積もりだったのだ。
それを理解したシノブは、
「…捨て駒だったと言うの…?私達も…、ロキすらも…?」
信じるべき拠り所を失い、魂が抜けたような表情で、洋上の艦隊の姿を、へたり込んだまま呆然と眺める。
「戦力差は圧倒的…、いかにブルーティッシュといえども、消耗した今は防ぎきれない…!」
タケシは呟くと、ぎりりと歯を食い縛り、硬く目を閉じる。
僅かな間を置き、再び目を開けた時、その黒瞳には、悲壮なまでに固い決意の光が宿っていた。
「…一度、部屋を出るぞ…」
シノブを促し、歩き出しながら、タケシは静かに拳を握り締めた。
(…ユウト…。俺は…、俺達は…、生まれてきてはいけない存在だった…)
二人は部屋を出ると、階段下のユウトとフェンリルの元へと歩み寄った。
タケシは無言のまま、ユウトの傍らに跪き、容態を看ているフェンリルの顔を真っ直ぐに見つめる。
銀狼はその瞳を真っ直ぐに見つめ返し、訝しげに眉根を寄せる。
しばし無言でフェンリルを見つめたタケシは、何かを確認したように小さく頷き、口を開いた。
「フェンリル。シノブの事を…、頼む」
「え?」
傍らに立っていたシノブは、兄が何を言っているのか理解できず、戸惑いながら視線を向ける。その首筋に、タケシは素早
く手刀を叩き込んだ。
「な…?タケ…シ…?」
脳を揺さぶられて意識を断たれ、がくんと崩れ落ちたシノブを抱き締めると、タケシは彼女の耳元に囁く。
「…達者でな…、シノブ…」
優しい声で、哀しげに囁いた青年は、立ち上がったフェンリルにシノブを委ねた。
シノブをしっかりと抱きながら問いかけるような眼差しを向ける銀狼に、タケシはかいつまんで現状を説明した。
「…そういう訳で時間が無い。俺はこれからバベルの力を使い、お前達を安全な位置まで脱出させる」
「脱出…?どうやって…」
「バベルの機能は、断片的にだが理解した。その機能の一つを使い、お前達を空間転移させる。…この塔の危険さはシノブが
良く知っている。目が覚めたら聞いておけ。それから、自分達がどうすべきか、何をすべきか考えろ」
「…何故…、俺まで逃がす…?俺がその情報を持って本隊と合流するとは考えんのか?」
胡乱げに問い返す銀狼に、青年は微かな笑みを見せた。
「お前がバベルの正体を知ってまで、そんな真似をするヤツとは思えない。シノブを大事にしてくれている事からも解る。…
バベルは…、誰にも渡してはいけないものだ。ラグナロクにも、そしてどこの国にも…。…この国の政府も例外ではない…」
タケシは銀狼にそう告げると、ユウトの傍らに屈み込み、北天不動を床に置いた。
「すぐに脱出させる。…少しの間だけ、二人にしてくれないか?」
フェンリルは頷くと、シノブを両腕で軽々と抱き上げ、階段を降りて姿を消した。
遠くから自分を呼ぶ声に、ユウトは薄く目を開ける。
目の前に、見慣れた青年の顔があった。
「おはよう。タケシ…。もしかして寝坊しちゃった…?」
意識が朦朧としているのか、ユウトはぼんやりとした顔に笑みを浮かべ、半眼でタケシの顔を見つめる。
タケシは、その笑みを目にして泣きそうになった。
固めたはずの決心が鈍りそうになった。
…離れたくない…。それよりも、死なせたくない…。心の底からそう思う。
世界の理不尽な顔を知り、それに慣れ、どんな理不尽もごく当り前に受け入れて生きてきたタケシは、生まれて初めて、理
不尽さを呪った。
こんな自分を愛してくれたユウトが、自分を愛したが故に、辛い目に遭わなければならない理不尽さ…。
大切なものを守る為に、自分が大切なものの傍に居られなくなる理不尽さ…。
青年の様子がおかしい事に気付き、目をしっかり開けると、ユウトは首を巡らせて周囲を見回し、自分達の置かれた状況を
思い出す。
慌てて起き上がろうとしたユウトは、全身を走った激痛に、弱々しい悲鳴を上げた。
「無理に動くな。…深手を負っているんだぞ…」
気遣うタケシの声は、哀しげに震えていた。
「どうしたのタケシ?なんで…、泣いてるの?」
ユウトに言われて初めて、青年は自分が泣いていたことに気付く。
決意が鈍りそうになる自分を叱咤し、タケシは口を開いた。
「ユウト…、このバベルは、俺が想像していたような、生易しい存在ではなかった…」
タケシは涙を拭いもせず、静かに、微かに震える声でユウトに告げた。
「この塔を使う者にその気があれば、世界を好きなように造り変えられる…。世界中の生物全てを死滅させる事も、一から再
生させることすらもできる…」
本音を言えば、青年にとって世界そのものなどはどうでも良かった。
どの国が滅ぼうと、どこで災害が起きようと、さして心は動かない。
だが、そんなどうでもよかったはずの世界の中から、青年は大切なモノを見つけてしまった。
大切な仲間達。友人達。そして、かけがえの無い恋人…。
そんな人々が暮らす世界を、失わせる訳には行かない。少なくとも、ラグナロクの意思でリセットされてはならない。
そう思える青年は、その成り立ちが人造の生命だったとしても、もはやかつての機械的な存在とは全く違う者になっていた。
それは、他者との接触がもたらした変化。タケシと接した人々の感情が、行いが、自分達を救う為の決断を、青年に下させた。
「ラグナロクは勿論、政府にも、何処の国にも、これを渡す訳にはいかない…。だから俺は…、誰の手も届かないところへ、
バベルを持ってゆく」
固い決意を感じさせる、タケシのただならぬ様子に、ユウトは不安そうな声を上げた。
「タケシ…?何する気なの?」
「…バベルは、中からでなければ制御できない。そして、俺のような存在ならば、一人でも何とか制御できる…」
ユウトには、相棒の考えている事は解らなかった。解らなかったが、直感的に理解した。
タケシが、自分に別れを告げているのだという事が…。
「待って…!そ、そんなのっ…!」
言葉を遮り、タケシは覆い被さるようにしてユウトと唇を重ねた。
長い、長いキスをしながら、タケシはユウトの首に両腕を回し、抱き締める。
やがて、突然の事に乱れた呼吸すら止め、目を大きく見開いているユウトから唇を離した青年は、
「お前と過ごした二年半…、幸せだった…。俺のような存在を愛してくれて、ありがとう…。…お前が何度もそうしてくれた
ように、今度は、俺がお前を護る番だ…」
ユウトの耳元にそう囁くと、北天不動をその手に握らせ、素早く身を離した。
「生きろ、ユウト。そして幸せになれ…。それが、俺のたった一つの願いだ…」
立ち上がり、そして踵を返し、階段へと、その先の扉へと真っ直ぐな視線を向ける。
「ダウドに貰った、王(バジリスク)の名に恥じぬよう、最後は堂々と、胸を張って締めくくろう」
青年はそう呟くと、隠しおおせぬ哀を背に、しかし一片の迷いも無いしっかりとした足取りで歩き出す。
「待って…!待ってよ…!」
ユウトはタケシから託された北天不動を握り締めたまま、必死に身を起こし、苦痛を堪えて声を絞り出す。
「そんなの…、そんなの無いよ…!一緒に、帰るって…!必ず、二人で一緒に帰るって…言ったじゃない…!」
立ち上がることも出来ず、ユウトはボロボロと涙を零しながら、必死にもがき、床を這いずり、足早に階段を登ってゆく青
年の背に向かって手を伸ばす。
「タケシ…!待ってよぉ…!」
扉が音も無く開き、タケシはその中に足を踏み入れる。
「行かないでぇええええええええっ!!!」
閉まりつつある扉の中、哀しみを堪えるタケシの背に、ユウトが声の限りに絞り出した、悲痛な叫びがぶつかる。
細くなった扉の隙間の向こうで、タケシは振り向いた。
哀しく、寂しそうな顔で、それでも愛するユウトに微笑みかけながら、青年の口が動く。
―さよならだ…ユウト―
バベルの最上部、最奥でもある部屋で、タケシは中心にある板を見据えた。
それから周囲の壁に映し出されるラグナロク本隊の映像に視線を向ける。
「やらせはしないぞスルト。お前にバベルは渡さない。俺はこの町を…、皆を…、ユウトを護って見せる…」
そして青年は板に視線を戻し、真っ直ぐに歩み寄ると、その十字架を思わせるフォルムをじっと見つめた。
やがてタケシは板に背を向け、両手を広げる。
「アドミニストレーター権限、行使」
声に応じるように板が輝くと、タケシの体は吸い上げられるように浮き上がり、その背が板に着く。
「本接続、開始」
タケシが呟いた直後、白い板から音も無く、瞬時に、鋭い突起が伸びた。
左右に広げた両手の手首が、両肩が、伸ばした両足首が、両腿が、板から伸びた突起に次々と貫かれ、溢れ出た鮮血が白い
十字架を朱に染めた。
痛みを感じていないかのように、顔色一つ変えず、タケシはゆっくりと目を閉じて囁いた。
「接続完了を確認。全システムの隷属を要請する」
青年の頭の中で、機械的な女性の声が響く。
『管理資格を確認致しました。おかえりなさいませマスター。ご命令をどうぞ』
(塔内に存在する俺以外の三名を、安全と思われる場所へ転送する。その後、このバベルを「あちら」へ転送、封印する)
タケシが頭の中でそう告げると、女性の声が涼やかに応じる。
『了解致しました。これより当機はマスターを除く内部滞在者の外部転送に移ります。完了後、引き続き当機の次元境界への
転送準備に入ります。なお、次元境界への転送後、当次元への復帰に必要なエネルギーが残らないため、当機単独での復帰は
不可能となります。最終確認になりますが、実行してよろしいですか?』
青年は即答せず、ほんの僅かな時間、ユウトと初めて出会った時の事を思い出した。
『そういえば、まだ名前も教えてなかったよね?』
『ああ、俺もまだ名乗っていなかったな。…俺の名はタケシ、不破武士だ』
『ボクは神代熊斗。ユウトって呼んで』
(あれから二年と七ヶ月以上か…。長くも短い、幸せな時間だった…。…ありがとう、ユウト…。そして済まない…。これが、
俺なりの調停だ…)
微かな笑みを浮かべ、タケシは最終確認への答えを、肉声で発した。
「了承した。実行を求める」
「見ろ!塔が!」
誰かの声に、ダウドが、ネネが、バベルを見上げた。
激しい稲妻をその身に受けて明滅するバベルを見上げ、勇敢なるブルーティッシュのメンバー達すらも、不安そうに身を竦
ませる。
「ユウト…!タケシ…!」
ネネもまた不安を隠せずに、塔を見上げながら呟いた。
塔を遠くに見渡せるビルの屋上。
タケシによって安全圏まで転移させられたフェンリルは、シノブをしっかりと抱いたまま、バベルの威容を見つめていた。
フェンリルは激しく明滅する塔を見据え、驚愕に目を見開く。
「まさか…!不破武士、お前はバベルを…!」
青年の意図を悟った銀狼は、塔を見つめたまま、深い畏敬を覚えて声を震わせた。
装甲車から降りたアケミが、胸の前で祈るように手を握り締め、明滅する塔を見上げる。
その上、車の屋根の上でマユミもまた、何を思うのか目を細め、じっとバベルの姿を見つめていた。
激しく明滅した塔は、その巨大な輪郭を徐々にぼんやりと薄れさせていった。
「バベルが…、消えていく…?」
ネネが呆然と、しかし安堵を滲ませた声で呟く。
「ああ。勝ったんだな…、あいつらが」
ダウドは、現れた時と同じように、空に溶け込む蜃気楼のように消えてゆく塔を見つめる。そして金色の目を細めると、首
を巡らせて水平線を睨み付けた。
「お前の思い通りには行かなかったな…、スルト…!」
海上の空母、そのひときわ大きな一隻のブリッジで、モニター内の塔が完全に消えるのを確認し、男は呟いた。
「ロキめ、失敗したか…」
筋骨隆々たる大柄な体躯に深紅の被毛。赤い刀身の巨剣を背にした虎の獣人が鼻を鳴らした。
「いかがなさいますか?スルト様」
その艦長の問いに、
「……………」
ラグナロクの総帥は、金色の瞳でしばしモニターを見つめ、
「全艦回頭…、撤収する」
そう低い声で命じて身を翻し、ブリッジを後にした。
通路に出た赤い虎は、自分を待っていたように壁に寄りかかっていた女性にちらりと視線を向けると、無言のままその前を
歩き過ぎた。
女性はその脇に並び、歩き出す。
美しい黒髪を背中まで伸ばした、整った顔立ちの女性は、視線を前に固定したまま口を開いた。
「どうあっても、バベルを手に入れるつもりなの?」
「無論だ。とんだ邪魔が入ったが、失敗したとは言え、此度は成果があったと言って良い…」
「成果?」
損失は甚大だが、得る物があったとは思えず、女性は訝しげに聞き返す。
「見張らせていたラタトスクからの報告だ。離反者がバベルへ侵入する様子を確認したとな。そして、塔が再封印された今も
出て来たとの報告は無い。つまり、塔もろともに次元境界へ転移した…。…反逆のベヒーモス、不破武士の消滅…。なかなか
の戦果と言える」
硬い表情で歩みを止めた女性を残し、通路を歩みながら、スルトは金色の双眸を細め、口の端を吊り上げた。
「さぁ…、次はどう防ぐ?ダウドよ…」
歩き去るスルトの背を見送りながら、黒髪の女性は口元を手で覆う。
「…そんな…タケシ…!」
震える声と共に、その切れ長の目から一筋の涙がこぼれ落ち、頬を伝った。
バベルが消え去った跡には、臨海公園の芝生広場が残されていた。
足跡が入り乱れ、踏み荒らされた広場にはしかし、巨大な塔が存在していた痕跡は、何一つ残ってはいなかった。
念のためにと、ブルーティッシュが隠れている敗残兵の捜索を始める中、
「タケシとユウトは?」
駆けつけたカズキの問いに、ダウドは首を横に振った。
「塔が消えるまで見張ったが、中から出てきた者は居なかった」
自分の無力さを噛み締め、沈痛な面持ちで項垂れた警官の肩を、ダウドがポンと叩いた。
「あいつらは、そう簡単にくたばるようなタマじゃない…」
警官達を指揮し、自ら率先して生存者の捜索に当たったカズキは、植え込みを迂回し、太平洋を見渡せる広場に出た。
息を飲み、急に立ち止まったその背に、後ろをついてきた後輩が声をかける。
「どうしたんですか?先輩…」
脇から前を覗き込んだ若い警官は、広場の端、手すりの傍に横たわる、金色の熊の姿を目にして息を飲んだ。
「神代熊斗だ!」
後輩が声を上げ、全員が一斉に倒れているユウトに駆け寄る。
重傷を負い、意識のないユウトの傍に屈みこむと、カズキが声を張り上げる。
「救護班っ!重傷者一名!最優先で回せっ!」
叫んだ直後、カズキは周囲を見回す。
「他には誰も居ないのか…?周囲を探索しろ!もう一人居るはずだ!」
いつも一緒に居た青年の姿は見えない。いやな予感を覚えながら、カズキはユウトに視線を戻す。
涙で目の周りを濡らした大熊の手には、一振りの刀が、しっかりと握り締められていた。
見渡す限りに、灰色一色の草原が広がっている。
空もまた灰色で、真っ白い太陽が寒々しい光を地上に投げかけていた。
地平線まで続く黒白の草原に、ぽつんと、白い影が一つ佇んでいる。
純白の被毛が穏やかな風になぶられ、周囲の灰色の草と一緒に揺れる。
(…あれ…?)
見覚えのない景色に首を傾げると、アルは眉根を寄せて周囲を見回す。
(どこっスかね?ここ…?)
灰色の草はかなり背が高く、草原には草以外に何も無い。
(確かバベルの傍のホテルに行って、それから…、あれ?それから…どうしたんスかね?何か大事な事を忘れてるような…?)
しばらく周囲を眺めた後、アルは何かに導かれるようにして歩き出した。
あては無かったが、なんとなく、そちらに向かうべきなのだと思った。
背の高い草を掻き分け、灰色の草原の中を、ただひたすら向こうへ、向こうへと進んで行く。
いくらか歩いたその時、真っ直ぐに歩みを進めていたアルは、腕にそっと触れられ、足を止めた。
首を巡らせると、純白の被毛に覆われた逞しい腕を、そっと、優しく掴む、ほっそりした手があった。
驚いて視線を上げたアルの目の前には、穏やかに微笑む、薄赤い色の髪をした女性が立っていた。
(…か…)
アルの目が大きく見開かれ、ひどく懐かしい、その女性の顔を映し込む。
(…かあ…ちゃん…?)
アルと同じ、薄赤い瞳の女性は、労るような目で息子の顔を見つめ、微笑んでいた。
(アル…。大きくなったわね…)
懐かしい母の声に、アルの目に涙が溢れた。
(か…、母ちゃん…!母ちゃぁあん!!!)
アルは自分の半分ほどもない華奢な母に抱きつき、くず折れるようにその場に跪くと、その胸に顔を埋めて泣きじゃくった。
(会いたかった…!オレっ!オレずっと我慢してたけどっ!ほんとっ…は…!ほんとはずっと、母ちゃんが恋しかったっス!)
幼い頃に死別した、その当時のままの姿の母親にしがみつき、アルはボロボロと涙を零す。
(わたくしも会いたかったわ…。アル…、こんなに立派になって…)
女性はアルの頭を愛おしげに優しく撫で、目を潤ませた。
声を震わせて泣いているアルのその肩に、ポンと、大きな、白い手が乗せられた。
顔を上げ、振り向いたアルの目は、いつからそこに居たのか、逆光の中に佇む真っ白な影を映した。
純白の被毛に、アルよりもさらに大きい、堂々たる巨体。
アルが良く知る白虎と同じ、金色に輝く瞳が白熊の姿を映して穏やかに輝いていた。
(…あんたは…)
掠れた声を漏らしたアルは、その男が誰なのか、本能的に察していた。
(…生まれるまで待っててやれなかったっスけど…。やっと、顔が見れたっスよ)
優しい笑みを浮かべ、目を細めながら、白い巨熊は大きな手で、アルの頭をワシッと撫でた。
(まったく、声から見た目から喋り方まで、全部オレにそっくりっスね…)
(そうね…。わたくしに似たのは瞳だけ。本当にあなたに良く似たわ)
笑みを交わす二人の間で立ち上がり、アルは自分とそっくりな白熊の顔をおずおずと見つめた。
(あんたは…、もしかして、オレの…?)
戸惑いながら呟くアルの顔を見つめながら、白い巨熊は少し照れ臭そうに、優しく笑って頷く。
そして腕をすっと伸ばすと、白い被毛に覆われたその指で、アルが来た方向を指し示した。
アルは巨熊の指さした方向に視線を向け、そちらから聞こえる微かな声に気付き、耳をピクリと動かす。
(ほら、呼んでいるわよアル?)
(帰るって、あの娘と約束したんじゃねぇんスか?)
笑みを浮かべて言う二人の間で、アルは泣き出しそうに顔を歪めた。
黒白の草原の彼方から、微かに、遠く聞こえる、自分を呼ぶ声…。
(…アケミ…!)
胸が締め付けられるような、泣き叫ぶその呼び声を耳にし、アルは愛する少女の名を呟く。
(さぁ、とっとと帰るっス!あんまり恋人泣かしちゃダメっスよ?…オレみたいには)
(…うっス…)
声も、顔も、口調も、全てが良く似た二頭の白熊は、全く同じ動作で頬を掻き、鏡に映したようにそっくりな苦笑いを浮か
べた。
(あ、あの…)
アルは俯き、上目遣いに二人を見つめ、おずおずと言った。
(会えて…、嬉しかったっス…。…母ちゃん…、…父ちゃん…!)
そしてアルは、微笑を浮かべている二人に照れ臭そうに軽く手を上げ、草原を駆け戻って行った。
見送る両親を振り返る事無く、自分を呼ぶ、愛しい者の声に向かって。
(…息苦しい…)
口と鼻周りに異物感を感じ、うっすらと目を開ける。白い天井。カーテンの隙間から差し込む光。
(…朝…?)
霞が掛かったような頭で、見慣れぬ部屋だとぼんやり考える。
(なんか…、左手が温かいっス…)
視線を下に動かすと、鼻先にテープで止められた、透明な酸素マスクが目に入った。そして、どうやらベッドに寝かされて
いるようだと気付く。
(そうだ。オレ、ヨルムンガンドと戦って、その後意識が飛んで…。あれ?怪我、どうなったんスかね?)
ぼんやりとしながら右手を布団の中に突っ込み、腹をまさぐると、幾重にも巻かれた包帯が手に触れた。
包帯の上から軽く傷痕に手を振れ、アルは眠たげな顔のまま首を捻る。
(…ん?何とも無い…?でもってなんか…、腹が熱い…?)
麻酔が効いているのか、痛みは全く感じない。ただ、包帯の下から、アイロンを当てた布のような、異様な熱だけが伝わっ
てくる。
しかし、自分が負った傷が、縫合していた糸だけを残し、跡形も無く消えている事には、この時のアルはまだ気付いていな
かった。
徐々にはっきりしてきた頭で、自分が置かれた状況を把握し、そのまま視線を周囲に巡らせる。
(…あれ…?)
自分が横たえられたベッドの脇、左手側に、黒髪の少女が突っ伏していた。
少女がそのか細い両手の指で、自分の手を握っているのを目にし、左手に感じていた温もりの正体に気付く。
「…アケミ…?」
突っ伏していた少女が、ゆっくりと顔を上げた。
どれほどの間付き添っていたのか、少女の顔には疲労の色が濃い。
その憔悴しきって生気の無かった顔に、じわりと、驚きの色が滲む。
泣きはらした目を大きく見開き、自分を見つめる少女を、完全に意識が覚醒した白熊は、微かに首を傾げて見つめ返した。
「あ…、あ…!」
アケミは手を離し、口元を覆った。
「…アル…!」
七日間の昏睡状態を経て目覚めたアルは、アケミが何故泣いているのかも分からぬまま、力が入らない左腕を伸ばし、その
頬を軽く撫で、髪をすいた。
「泣いちゃ嫌っスよ…。その為に、ちゃんと帰って来たんスから…」
しゃくり上げるアケミに、アルは微笑みかける。
「ただいまっス。アケミ…!」
「そうですか…。いよいよ、戻られますか」
「ああ。アルも目を覚ましたし、傷も癒えた。あんまり長くも空けてられんからな。…トシキが居ない今…、いつまでもネネ
一人に本部を任せておくのも少々酷だしな…」
復旧作業の続くショッピングモールの入り口広場で、ベンチに腰掛けた白虎は、警官の問いにそう応じた。
「騒ぎ直後の混乱に乗じて、良からぬことを企む組織もある…。それらに睨みを利かせるためだったのでしょう?本日までの
半月以上に渡る駐屯、感謝の言葉もありません」
「よせやい…!義理を果したまでだ」
姿勢をただし、深々と頭を下げたカズキに、ダウドは苦笑いを返す。
「アルを残して行く。休暇を伸ばすって、嬢ちゃんと約束したからな。何かあったら遠慮なく使ってくれ」
「それで呼び出したら本官が悪者になってしまいますよ…」
苦笑いを返したカズキは、クラクションの音を耳にして首を巡らせる。
ボディの脇に阿武隈工務店とペイントされた大型トラックが、補修材を積んでショッピングモールへ入って行く所だった。
「人の活力というのは、素晴らしいものです。仮設住宅の設置が終わったばかりだというのに、近隣の建築業者などが、ショッ
ピングモールまで無償で補修に乗り出してくれました。この町の中心だからと言って…」
「…さすがに…、モール補修の分は資金援助せんとなぁ…」
その中心部を、レリック、ダインスレイヴの一振りで半壊させた白虎は、そっぽを向いて頬を掻きながらボソッと呟いた。
港からショッピングモールまでの商業、工業区画は甚大な被害を受けたものの、ラグナロクの侵攻は調停者達の必死の応戦
で食い止められ、居住区までは被害が及ばなかった。
東護町の復興の早さは、人的被害が最小限に食い止められた事によるところが大きい。
その代償として、ロキのターゲットとなった者達と、ラグナロクの侵攻を食い止めるべく奮戦した調停者達は、大半が命を
落としてしまったが。
「…あの二人は…、まだ?」
白虎の問いに、カズキは黙って首を横に振った。
「そうか…。状況が変わったら教えてくれ」
「了解しました」
ダウドは一礼したカズキの前で、ベンチから腰を上げた。
「さてと…、そろそろ行くか…」
ダウドは上着から箱を取り出し、タバコを咥えると、戦友が遺したターボライターをしばらく見つめ、それから火をつけた。
そして白い煙をゆっくりと吐き出し、青く晴れ渡った寒春の空を見上げる。
「…色んなものが…、消えちまったな…」
金色の瞳は、抜けるように蒼い空を映して細められた。
白い天井が、ぼやけた視界に飛び込んできた。
ベッドに寝かされていた事に気付き、ユウトはぼんやりとした頭のまま、視線を巡らせる。
様々な機械と、そこから繋がれたコードや管、そして自分の腕に繋がれた点滴のチューブや、何らかの検知器、口元に固定
された酸素マスクが見て取れた。
何日も眠っていたかのように、霞がかかったような頭で、自分がどうなったのか考える。
そして全てを思い出し、ハッとして視線を横に向けた。
そこに、パイプ椅子に座る、黒髪の青年の姿があった。
「タケシ…!」
悪い夢でも見ていたのだろう。愛する者の姿を目にし、ユウトは安堵の息を吐き出した。
「ヤな夢見ちゃった…。ボクを置いて、キミがどこかに消えちゃうの…。こんな怖い夢を見たの、初めてだよ…」
青年は優しく微笑んだまま、ユウトを見つめていた。
「良く覚えてないんだけど…、ボク達、勝ったんだよね?」
青年が微笑みながら頷き、ユウトはニコリと笑う。
「それじゃあ、約束どおりボクを貰ってよね?でもって田舎に挨拶しに行って…、ん?」
ユウトは不意に黙り込み、眉根を寄せた。
「…そうしたら、ボクはいずれ不破熊斗になるのかぁ…。んははは!なんだかヘンな感じ!ちょっと照れ臭いなぁ…」
笑いかけたユウトに、青年は悲しげに微笑み、首を横に振った。
「…ん?…どうしたの?タケシ…?」
ユウトの問いに、青年は悲しげに微笑んだまま答えない。
そして彼女は気付いた。目の前の青年が、一度も口を開いていない事に。
「タケシ?ねえ、なんとか言ってよ?黙ってたら解らないよ?」
妙な不安を覚え、ユウトは半笑いを浮かべたまま、青年に話し掛ける。
「ねえ?タケシってば?どうしちゃったの?ねえ?」
青年はユウトに寂しげに微笑みかけると、ついに一言も声を発さぬまま、すうっと消えた。
「あ、あれ?タケシ?」
ユウトは身を起こし、目を擦って周りを見回す。
部屋の何処にも、たった今までここに居たはずの青年の姿も、気配も、残ってはいなかった。
視線を戻し、ユウトは息を飲む。
そして、自分の記憶が事実だった事を悟る。
優しい、そして残酷な幻影が消えたパイプ椅子の横には、一振りの刀が立てかけてあった。
「…タケ…シ…」
ユウトは手を伸ばし、北天不動を手に取る。
「…そんなの…。そんなの無いよ…!」
握り締めた刀の鞘に、ポタリと涙が落ちた。
「一緒に…、帰るって…、ボクを…貰ってくれるって…、約束…、したのにっ…!」
ユウトは、愛する者へと贈り、何故か自分の元へ来てしまった刀を、胸に抱え込んだ。
「う…、うぅ…、うぐっ…、ひっ…!ひっく…!ふぐぅっ…!」
タケシが残していった刀を抱き締め、
「…う、うぁっ、うああぁぁっ…!うわぁぁああああああああああああああっ!!!」
ユウトは独り、声を上げて泣いた。
それは、付き添っていた兄が席を外していた短い間の出来事だった。
「…これは…!?」
病室に戻ったユウヒは、まずもぬけの殻になったベッドを目にし、次いで開け放たれた窓で、夜風に踊っているカーテンを
見遣る。
患者と刀は病室から忽然と姿を消し、ベッドの枕元には、鎖が千切れた認識票だけが、ぽつんと置き去りにされていた。
「ユウト…!あの体で一体何処へ…!?」
ユウヒはナースコールで事情を説明すると、四階にも関わらず、躊躇う事無く窓から飛び出し、病院の庭へと降り立った。
巨熊は空を見上げるようにして夜気の中に鼻を突っ込み、鋭い五感を駆使して周囲を探る。
しかし、ユウトの全身が消毒されていたせいか、それとも病院に篭っていたせいでユウヒの鼻が薬品の匂いで鈍っているの
か、ユウトが何処へ向かったのか、まったく掴む事ができなかった。
東護の海を見下ろす小高い丘の上に、木々に囲まれた、小さな、静かな墓地がある。
日の出間近の冷たい空気と、うっすらと煙る霧の中、十字架を象った白い、小さな墓標の前に立ち尽くす影があった。
無言のまま墓標を見下ろしているのは、金色の被毛を纏った、大きな熊。
その右手には、黒塗りの鞘に収められた一振りの太刀が握り締められている。
目を閉じたユウトは、そっと自分の肩に手を置く。以前この場所で、愛する者にそうして貰った時の事を思い出しながら。
優しく、温かかったその感触を思い出し、漏れそうになった嗚咽を、唇を引き結んで押し殺す。
ユウトは目を開け、しばし墓標を見つめ、それから天を仰いだ。
そうしなければ、涙が零れ落ちそうだったから。
「…雨が、降って来ちゃったね…。あの時とおんなじだ…」
雲の殆ど無い、夜明け直前の薄い青色を湛えた空を見つめ、ユウトは呟いた。
涙で滲んだ空を見上げながら、そっと目尻を拭うと、ユウトは墓標を見下ろす。
「…生きるよ…、キミが言った通り…」
そう囁くように言うと、金熊は踵を返し、小さな墓標に背を向けた。
自分が生きる事。それが、愛した男の最後の願い。
「…もう少し…、歩いてみるね…」
泣き顔を見られまいと、背を向けた墓標にそう言い残し、ユウトは無理矢理に笑みを浮かべる。
どんなに頑張ろうと、痛々しい泣き笑いしか、今は作れなかった。
傷付いた体を引き摺り、己が為さねばならない事を蒼瞳で見据え、振り返る事無く、ユウトは前を向いて歩いてゆく。
今はただ、消える事なき哀を背に…。
その後、今回の事件のほぼ全容を知っていると思われる神代熊斗と不破武士、二名の上位調停者の捜索が、警察や調停者に
よっておこなわれる。
しかし、二人の消息はまったく掴めないまま、一ヶ月ほどで大規模な捜索は打ち切られ、名ばかりの継続捜索に切り替えられた。
そして今日も、世界はそ知らぬ顔で回り、人々の日常はやって来る。
その日常を支え、失われていったものには、大半の人々が気付かぬままに…。