第五話 「小さな迷子」(後編)

ユウトはダウド、ネネ、アルを伴い、タクシーで近くに乗りつけた。

タケシ達が待つ現場まで行かなかったのは、厄介事が起きた時に、運転手を巻き込まないようにする配慮からである。

すし詰め状態の車内から飛び出すと、ユウトは三人を先導するように走り出した。

「こっちだよ!」

ユウトの後を追って走りながら、ダウドが低い声で呟く。

「人気が無いな…」

「おまけに、何だか嫌な臭いがするっス」

同じく走りながら、アルが目を細くして鼻を鳴らす。

ユウトとネネもまた、不穏な気配を嗅ぎ取っていた。

先頭を走っていたユウトは、細い路地の曲がり角から現れたモノを目にして足を止めた。そしてタクシーを帰らせた配慮が

正解だった事を知る。

「インセクトフォーム!マンティスタイプよ!」

ネネの警告と同時に、周囲の廃ビルや、空き家、廃屋、わき道、あげくマンホールの下から、次々とカマキリ達が現れた。

その数15体。

ダウドは面倒くさそうに顔を顰めると、アルを振り返る。

「アル、任せる」

「うっス!」

アルは短く答えながら、旅行鞄を足元に置き、上部を拳でドンと叩く。

叩かれて二つに割れた鞄には、三本の金属製の太い棒と扇形の分厚い金属の塊が入っており、それぞれが人間の親指ほどの

太いワイヤーで繋がっていた。アルは棒を掴み、箱から引き出す。ワイヤーで三節棍のように繋がっていた棒は、白熊がスイ

ッチを押すと、ワイヤーが収納されて一繋がりの長い棒になった。その先端には金属塊が、収縮したワイヤーで連結される。

一瞬で本来の姿を現したその武器は、全長2メートル半はあろうかという大戦斧だった。衆目に晒さずに持ち運べるよう、折

り畳んで鞄に収納していたのである。

「ボクもやるよ。この数じゃあキツいでしょ?」

申し出たユウトを、ネネが悪戯っぽく微笑みながら制した。

「まあ、見ていてちょうだい。うちのルーキーがどれくらいのものか」

アルは大戦斧を携え、まだ距離があるカマキリを見回すと、一番近いカマキリ目掛けて駆け出した。

その体格からすれば速い方ではあるが、ユウトのような機敏さは無い。大きく振りかぶった斧を見て、カマキリはすっと横

に動き、ユウトは「あちゃ…」と顔を顰める。反撃の隙を与えてしまうと思ったのだ。しかし、目標を見失った斧はそのまま

地面に激突し、轟音を上げてアスファルトを深々と抉り、破片を辺りにばら撒いた。爆弾でも炸裂したかのようなその衝撃と

アスファルトの破片は、かわしたはずのカマキリの体勢を大きく崩す。

そこへ、地面にめり込んだ状態から力任せに引っこ抜かれた斧が、唸りを上げて襲い掛かった。咄嗟に四本の腕で防御体勢

をとったカマキリだったが、斧は四本の腕もろともに、その胴体をやすやすと叩き斬った。

アルは勢いをかって残るカマキリに突進し、袈裟懸けに、横薙ぎに、唐竹割りに、縦横無尽に大戦斧を振り回しつつ、当た

るを幸い薙ぎ倒す。その様子を指して、ダウドは口の端を吊り上げながら、ユウトに言った。

「どうだ?なかなか豪快な戦い方だろう?」

「驚いた。あの歳で禁圧解除(きんあつかいじょ)ができるなんて…」

「あら、あなたも15の時には出来るようになってたじゃない?」

「ボクは兄さんにみっちり仕込まれたからね」

ネネの言葉に、ユウトは困ったように頬を掻く。ダウドは少し得意そうに言った。

「リミッターカットは俺が仕込んだ。モノになるまで一年掛かったが成果はあの通りだ」

人間を大きく上回る身体能力を持つ獣人だが、実はその身体能力すら本来の三分の一程度しか発揮されていない。それは獣

人の強靭な肉体を持ってしても、その最大出力に体が耐え切れず、一種のリミッターが働くためだ。しかし修練を積んだ獣人

は、このリミッターを意図的に解除する事ができるようになる。これがリミッターカット、この国では禁圧解除と呼ぶ技術で

ある。ユウトが見せる常識離れした怪力や弾丸のような速度も、この禁圧解除の効果によるところが大きい。

簡単に会得できる物ではなく、自分もまた習得の労苦を知っているだけに、このアルという少年の非凡な才能と積み重ねた

努力が、ユウトには実感できた。

「二手に別れて先を急ぎましょう。念のため、私が残ってアルを援護するわ」

そう言ったネネの両手には、ベストの内側から取り出された、ナックルガード付きのナイフが握られている。薄く、コンパ

クトなその刃物は、メリケンサックから刃が生えているようにも見えた。

「二人に任せて先へ行くぞ。タケシの方も面倒になってそうな予感がするしな」

ユウトはダウドの言葉に頷くと、ネネとアルに声をかけた。

「ネネさん!アル君!やり過ぎないようにね!」

「合点承知っス!」

「努力はしてみるわ」

戦場にありながらも笑いながら応じる二人を残し、ユウトとダウドは、カマキリの群の中央突破を図る。

走るユウトの脇を、それ以上の速度で駆け抜けたのは、白虎の獣人だった。その手の中には、長大な布の包みがある。ダウ

ドは行く手を遮るカマキリに迫りつつ、布を取り払い、その中身を白日に晒した。

現れたのは、分厚く、長く、幅の広い剣。柄から刃先まで、全体が漆黒に彩られたその剣は、全長は2メートルほど、幅は

30センチほど、厚さは最大で10センチもある。光を照り返さない漆黒の剣は、まるで濃い影が形を成したような印象を与えた。

鍔も装飾も無い無骨で巨大な剣を、ダウドはカマキリに迫りつつ、右下から左上へと跳ね上げる。

巨大な黒い剣が重さを感じさせずに宙を奔る。ユウトの目ですら影が奔ったようにしか見えない。目にも止まらぬ一閃によ

って路地を烈風が吹き荒れ、三体のカマキリが剣圧だけで吹き飛んだ。吹き飛ばされたカマキリは、荒れ狂う真空波によって

空中でズタズタにされ、地面や壁に叩きつけられる。

まるで無人の野を往くが如く、ダウドは文字通り道を切り開いて見せた。

ユウトは内心舌を巻いていた。この一年で随分修練も積み、腕も上がったと実感していた。それでもこの男との差は歴然と

していて、少しも縮まった感じがしなかった。

デスチェイン、ダウド・グラハルト。現調停者中最強の呼び声は、紛れもない事実だと実感するのみである。

「案内、頼むぜ」

ダウドの言葉に思考を中断し、ユウトは頷く。そしてさらに足を速めつつ、タケシ達の待つ現場へと急いだ。



鞘に収めた刀に杖代わりに、肩で息をしながら、タケシは周囲を見回した。

アパートを出た所で奇襲をかけてきたカマキリ達が、アスファルトの上に倒れている。その数は少なく見積もっても20は

下らない。

青年の足元では、白猫がどことなく心配そうに、その顔を見あげていた。

「なんとか…、片付いた…、かな…」

息も絶え絶えに、壁に寄りかかったカズキが呟く。制服は破れ、いたる所に傷を負っているが、深手は一箇所も無かった。

タケシは最初に投擲した一本の他に、すでに三本の刀を失い、左肩に負った傷のせいで、片腕しか使えない状況にあった。

さらには自分の防御とカズキの援護の為に空間歪曲を何度も使用したので、体力も精神力も著しく消耗している。

呼吸を整えていたタケシは、何かに気付いたように顔を上げた。直後、その視線の先で、角を曲がって現れたのは、

「タケシっ!!!」

ユウトは周囲の有様と、ボロボロになっているタケシを目にし、悲鳴に近い声を上げて駆け寄った。

タケシの前に駆けつけると、ユウトはその体に手を伸ばす。しかし、触れたら壊れるとでも思ったのか、手は青年に触れる

寸前で止まり、迷うように宙を彷徨った。

「大丈夫だ…。少し疲れた、だけ…」

タケシは消え入りそうなまでに弱々しい声で呟くと、安心したのか、力尽きたのか、ぐらりと体を傾かせた。あわてて手を

伸ばしたユウトの胸に倒れこむと、タケシは薄く開けた目で相棒の顔を見上げる。能力乱用の副作用により、本人の意思に反

し、身体が長時間の睡眠に入ろうとしていた。

焦点が合わなくなり始めたその瞳が、ユウトの肩越しに白虎の姿を映した。

「ダ…ウド…」

「まったく、毎回会う度に、血の海の中に立ってやがるな、お前は」

口元に太い笑みを浮かべたダウドに、タケシは微笑み返す。ユウトやカズキ以外には殆ど見せることの無い、感情の篭った

表情だった。

「お互い…様…だろう…」

タケシはユウトの胸に顔を押し付けるように項垂れ、囁くような声で何事かを呟いた。ユウトは少し驚いたような顔をした

後、コクリと頷く。それを確認すると、タケシは長く息を吐き、やがて規則正しい寝息を立て始めた。

「…少し外します。カズキさん、ダウド。タケシをお願い」

「俺は構わんが。お前がタケシの傍に居たほうが良いんじゃねえのか?」

ダウドの言葉に気遣いを感じたが、ユウトは小さく笑って首を横に振った。

「タケシに任されたから。ボクが行かなきゃ」

ユウトは上着を脱いで路地の隅、カズキの横に広げ、その上に眠ったタケシを横たえる。その寝顔を短い間見つめると、ユ

ウトはおもむろに立ち上がり、胸の前で両の拳をガツンと打ち合わせた。

ダウドがその横に歩み寄り、大剣を地面に突き立てる。

「引き受けた。行って来い」

白虎の力強い言葉に頷くと、ユウトは足下の白猫へと視線を移す。ダウドもまた白猫を見つめ、微妙な表情を浮かべる。そ

して、ユウトがアパートの入り口へと歩み始めると、白猫はその後ろに従った。



アパートの屋上へと登ったユウトは、そこに人が居る事に驚きはしなかった。

髭を蓄え、仕立ての良いスーツを着込んだ男は、グレーを基調にした迷彩服を着込んだ数人の男達に周囲を固められている。

さらに、ユウトは屋上のドアを開けた時点で、十体のカマキリに囲まれていた。

「まだ仲間が居たとはな。が、今度はわざわざ連れて来てくれたようだ」

スーツの男は白猫を見つめ、ニヤリと笑う。

「大人しく渡すのなら…」

「…話はもういい」

自分が優位な立場にあると確信し、得意げに話していた男は、言葉を遮られてむっとしたような表情を浮かべた。そして改

めてユウトの顔を見つめ、小さく息を呑んだ。

普段は穏やかな光を湛えている、蒼く澄んだ瞳には、今は野生の獣のようなギラついた光が宿っていた。

「大人しく武装解除するなら良し…」

金色の熊が放つ底冷えするような眼光に、男は無意識の内に僅かに後退した。

「もしも歯向かうなら…」

ユウトは一度言葉を切り、その場に居る全員の顔を見回した。

「…まとめて叩き潰す!」

吐き出された言葉と同時に、その場に居る全員は、一切の身動きができなくなった。ユウトの巨躯から発せられる圧力が、

まるで物理的な力を持っているかのように、男達の肌に纏わりつき、息苦しささえ覚えさせる。

それは怒気。ユウトが発散しているのは、極めて濃密な怒りの波動だった。

ユウトはカマキリの間をゆっくりと通り抜け、スーツの男へと真っ直ぐに足を進めた。敵が自分達のボスに近付いていると

いうのに、スーツの男の脇を固めている男達は全く動けず、カマキリにも指示が出せないでいた。

スーツの男もまた、蛇に睨まれたカエルのように、一歩も動くことが出来ない。

やがてユウトはスーツの男の正面に到達し、足を止めた。ユウトはゆっくりと口を開く。

「この辺りに放ったインセクト達を撤収させて。大人しく武装解除して投降するなら、手荒な真似はしないって約束する」

静かな、しかしチリチリした怒気が込められた言葉に、スーツの男はカクカクと頷いた。



待機命令によって、とりあえず無害になったインセクトを屋上に残し、ゾロゾロと階段を降りていく男達。一番後ろから付

いて来るユウトのせいで、逃げ出そうとする者は一人も居なかった。

ユウトはふと、白猫の姿が見えない事に気付き、後ろを振り返る。しかし後ろには白猫の姿はない。屋上に残ったのだろう

かと思ったその時、下から聞こえた悲鳴に、ユウトはハッと振り返った。

列のほぼ中央に居たスーツの男が、宙に舞っていた。

何かに足を取られたのだろうか、老朽化が進み、脆くなった手すりを根本から引っこ抜くように突き破り、男は悲鳴を残し

て逆さまになる。男達を押しのけ、慌てて伸ばしたユウトの指先が、男のつま先を掠めて空を掴んだ。

アパートの階段は、真上から見れば中央が狭い吹き抜けになっている。その手すりと手すりの間の狭い吹き抜けを、スーツ

の男が落ちていく。

手すりに頭を強打し、身体を捻って足をぶつけ、跳ね返るようにして下の手すりに背中から突っ込み、激しい音と悲鳴を響

かせながら、男は何度もいたるところに激突して落ち続け、一階に設置された、鉄製の帽子掛けの上に落下した。

手足の全てがデタラメな方向に曲がり、百舌のはやにえのように胴の中心を鉄のポールで串刺しにされた男は、何度か痙攣

した後、動かなくなった。

呆然と、遥か下の無残な遺体を見つめた後、ユウトはため息をついて顔を上げ、そして気付いた。ほんの数段下で、白猫が

階下を覗き込んでいる事に。

白猫はユウトに見つめられていることに気付いたのか、顔を上げると、一声鳴いてからトコトコと階段を降りて行った。



「間違いねえな。黒伏浩三、追ってた残党の一人で、元幹部だ」

ダウドは床の上に横たえられた、無残な遺体を見て頷いた。

「組織の頭の甥だかに当たるはずだが…、あまり使える男じゃなかったようでな。組織が跡目争いでもめたのも、発端は候補

から漏れたこいつがゴネたかららしい。俺達にとっても組織にとっても、つくづく疫病神だったな」

カズキは頷き返しながら、ここまでに調べられた事を説明した。

「部下の連中から確認が取れました。このアパートに住んでいた元幹部を、連中が殺害したのも間違い無いようです」

ダウドは顎を撫でながら目を細める。

「殺害されたそのじいさんだが、黒武士の頭とどんな繋がりがあったのか、解るかい?」

「確定情報ではないのですが、頭の娘と、殺害された老人の息子が夫婦であったらしいですね。つまりその情報が確かなら、

義兄弟の間柄だったようです」

「なるほどな。そのじいさんもまた、頭の身内だったってわけか…」

納得して頷くダウドに、カズキは続ける。

「跡目を継ぐのに手柄が欲しかった黒伏は、紛失した組織の研究成果が、誰かに渡ったと考えたようで、頭が可愛がっていた

猫を預かった老人が怪しいと睨んだようです」

「そして、家捜ししても出てこなかった研究成果は…」

「猫の首輪にある。そう気付いた時には時遅く、猫はどこかへ逃げた後でした」

「で、カルマトライブに保護されていた、と…。はるばる探しに来ておいて、なんとも詰めの甘ぇ事だな」

鼻で笑ったダウドに、カズキは少し不思議そうに尋ねた。

「ところで、ブルーティッシュはいつから、あの首輪が研究成果だと気付いていたのですか?」

「ウチのように頭数ばかりいると、猫好きも結構多くてな。あの写真の首輪の鈴を見たら、実はありゃあ鈴じゃなく、猫が迷

子になった時なんかの連絡先を入れておく、鈴型のメッセージケースだと教えてくれたヤツが居た。…あれは知らねえヤツに

は見分けがつかんよな」

肩を竦めたダウドはくっくっと笑い、カズキは苦笑を浮かべた。

「それで、鈴型カプセルの中に入ってたチップで、間違いないのかい?」

「ええ、暗号化されていたので、手間取りましたが、間違いないようです。ただ…」

困った様子で言いよどんだカズキは、ダウドに先を促され、微妙な表情で言った。

「研究は未完成だったようなんですよ。というよりも、計画段階で凍結したようで…」

ダウドは軽く目を見開き、やがて愉快そうに、声を上げて笑った。

「ははは!こいつは良い。結局、組織の残党も俺達も、頓挫した研究成果を追って必死になってた訳か!」

「笑い事じゃ無いわよダウド」

いつのまにか二人の背後に歩み寄っていたネネが、形の良い眉を潜めた。

「危険度が高いと判断したから、トシキに任せて出てきたのよ?心配の必要が無くなった以上、すぐにでも本部へ戻りましょう」

「おいおい、数時間前に着いたばかりだぞ?少しくらい見物でも…」

慌てたように抗議するダウドに、ネネはキッパリと言った。

「ダメよ。残ったトシキが大変でしょう?すぐに急行のチケットを取るから、いつでも行けるようにしておいてね」

そう言い残し、さっさと踵を返したネネの背に、ダウドは何か言いたそうに口を開きかけたが、結局、無言のままため息を

つき、首を左右に振った。最強の調停者と呼ばれる男が見せたその様子に、カズキは思わず吹き出し、「失礼」と口元を押さえた。

「ところで…。一介の調停者に、監査官が敬語を使う必要はねえだろう?タメ口にしてくれねえかな…?なんとなく居心地が悪い」

「英雄、ダウド・グラハルトとタメ口で話せるほど、本官は上位階級にありませんので」

「堅いねえ。うちの担当といい勝負だ」

「…あいつらに対しても、もう少し堅い態度で接することができると良いんですけどね」

ダウドは苦笑いし、カズキは口の端を微かに吊り上げた。



「久しぶりに会ったのになあ。今度は来た時はゆっくりして行ってね。腕を振るってご馳走を用意するから」

駅のホーム、特急列車のドアの前で、ユウトはブルーティッシュの三人と代わる代わる握手を交わした。

名残惜しそうなユウトの言葉に、誰の口よりも早くアルの胃袋が「グウ…」と返事をした。バツが悪そうに頭を掻いたアル

に、三人は揃って笑い声を上げる。

タケシは、見送りには来られなかった。能力の反動で深い眠りに落ち、今は病院で栄養補給の点滴を受けている。

「のんびりと紹介する暇も無かったからな。こいつが夏休みにでも入ったら、今度はゆっくり連れて来て、タケシにも紹介しよう」

ダウドの言葉にネネが笑顔で頷き、アルもまた、はにかんだような笑みを浮かべて頷く。

発車を知らせるベルがホームに鳴り響き、ユウトは一歩下がって三人に手を上げた。

「それじゃあ、またね」

列車のドアが閉まり、ユウトはガラスを挟んだ三人に手を振る。

窓の向こうから手を振り返す三人が、徐々に遠ざかり、やがて見えなくなった。

ユウトは三人を乗せた列車が視界から消えるまで見送ると、名残惜しそうにホームを後にした。



病院に収容されていたタケシが目を覚ましたのは、丸一日経った夕刻の事だった。

事務所も臨時休業にし、付きっ切りで様子を見ていたユウトは、目覚めをひとしきり喜んだ後、能力の使い過ぎについての

軽い説教を軽く一時間ほどおこなった。

勢いに押され、反論も出来ず、タケシは何度も何度もただただ頭を下げた。



その猫と出会ったのは、ほんの偶然のはずだった。だが今となっては、タケシはあの出会いが偶然などでは無かった事を、

疑ってはいない。

事務所に戻ったタケシは、ユウトが寝たのを見計らい、カズキから送られた事件の資料に目を通した。時刻はすでに午前1

時を回っていた。ソファーにかけた青年が資料を捲る、パラリ、パラリという音だけが、静まりかえったリビングで、やけに

大きく聞こえた。

「それで、これからどうするつもりだ?」

最終ページを読み終えると、資料を机の上に置き、タケシは出し抜けに言った。

返事をする者は居ない。はずだった。

にゃー、と小さな声が聞こえ、どこに潜んでいたのか、青年の向かい側のソファーに白猫が飛び乗る。首輪にはすでに鈴型

のカプセルは無く、代わりにとユウトが付けた本物の鈴が、チリン、と涼やかな音をたてた。

「仮称○○ちゃん。…いや、黒伏真由美と呼んだ方が良いか?」

タケシの言葉に、白猫はまるで笑うかのように、口を小さく開けた。

「声帯が人間とは異なるから、会話できないか。頷くのと、首を横に振るので良い。少し話がしたい」

この言葉に、白猫はなんと、はっきりと頷いて見せた。

「まず、あなたは壊滅した組織のボスだった黒伏総悦の孫、真由美で間違いないな?」

白猫、マユミは頷く。

「資料では一年ほど前に病死となっているが、実際には違った。治療不能の病で保たなくなった体から、あなたは今の姿に変

って生き永らえていた。黒伏総悦は、表向きは計画頓挫と見せかけ、生まれ変わりの技術を完成させていた訳か」

マユミは頷くと、前足で首輪を引っ掻いた。「外せ」と言われているのだと理解し、タケシは赤い首輪を外し、気がついた。

少し厚めの革で作られた首輪の裏には窪みが有り、そこに埋め込まれるように、携帯などで使用する小さなメモリーカードが

収まっていた。

タケシはマユミの首に首輪を戻してやり、自分の携帯にカードをセットすると、データを呼び出す。それは、急逝した黒伏

総悦の日記のようなものだった。

可愛い一人娘の遺した孫が病に倒れ、治療方法を探して奔走した事…。

治療は不可能であると知り、それでも諦めきれずに救う手段を求め続けた事…。

体を治す事が不可能ならば、人の記憶を、そのまま他の脳へと移す事を考えた事…。

技術の開発の為に多大な出費と、多くの科学者を動員した事…。

やっと技術が形になった時には、孫は立ち上がることもできなくなっていた事…。

技術的な問題で人への記憶移送は危険であり、時間的余裕も無く、やむなく応急処置として、無菌保育し脳に手を加えた子

猫へ記憶を移送した事…。

そして、この技術の危険性に気づきつつも、孫をなんとかして人の体に戻すため、研究を重ねた事…。

さらに、孫の安全を確保するため、自分の義兄弟に預けた事…。

その死をもって中断されるまでの黒伏総悦の日記には、犯罪組織のボスとしてではなく、孫娘の悲運を前に、なりふり構わ

ずあがき抜いた一人の老人の姿が窺えた。

タケシは食い入るように携帯を見つめ、一気に最後まで読み終えた。

「…すでに自己記憶として、脳内に電気的な記録を持った成人の脳に記憶を移せば、元々の記憶と相互干渉し、混合した人格

が形成される恐れがある。よって、記憶の移送は不可能…か。それで無菌状態で生み出した猫の子に、時間稼ぎの為に記憶を

移した…」

タケシは黒伏真由美の記憶と人格を持った白猫に視線を向ける。

「襲撃の首謀者、黒伏浩三。報告では転落して事故死したとなっているが…」

タケシは資料にちらりと目を向けて言った。

「どうやら、無事に仇討ちはできたようだな」

マユミはこくりと頷いた。殺害された老人は、マユミのもう一人の祖父である。奇しくも、タケシが口にした通り、マユミ

はタケシと接触し、仇討ちを為そうとしたのだった。

自分をじっと見つめるマユミに、タケシは肩を竦めた。

「報酬の事なら心配いらない。マユミさんは自分の手で仇を討った。俺達に報酬を支払う必要は無い。が…」

タケシは言葉を切り、この青年にしては珍しいことだが、少し困ったように眉を寄せた。

「ユウトも含め、皆には黙っておいた方が良いか。こんな真似が可能だと知れれば、周りにいる全ての生物の中身が疑わしく

なり、ほぼ確実にパニックになる。それは貴女にとっても好ましくないだろう」

マユミは同意するように一声鳴いた。

「人の知能を持った猫となると、危険生物の枠組みに入るような気がしないでもないが、今のところ分類上の明記はされてい

ない。調停者の仕事の外だな」

とぼけたように言ったタケシを、マユミは何かを問いたそうな顔でじっと見つめた。

「何故、あなたの中身に気づいたか、と?」

頷いたマユミに、タケシは資料の中のあるページを開いた。

「ただの猫にしてはおかしい、そういう感覚はあった。その感覚はこの写真と、組織上層部の血縁関係を見て確信に変わった」

タケシの開いたページには、白猫を胸元に抱き、赤いバンドをはめた左手でその頭をなで、満面の笑みを浮かべている幼い

女の子の写真。それは、まだ元気だった頃のマユミの写真だった。

「その首輪。写真の中であなたが付けていたこのバンドだ。そして、かりそめの肉体とはいえ、変わるならば、せめて好きだ

った猫の姿に、黒伏総悦はそう考えた。資料から、俺にはそう推測できた」

タケシがそう言うと、マユミは納得したように頷き、ソファーから降りた。

「どこか、行く当てはあるのか?」

タケシの言葉に、マユミは首を巡らせて振り返り、尻尾を左右に揺らし、口元を少し吊り上げた。その顔はまるで、心配す

るな、と微笑んでいるようにも見えた。

「嫌でなければ、たまに事務所に来ると良い。ユウトも貴女の事を気に入っているようだ、きっと喜ぶだろう」

マユミは「にゃーん」と機嫌良さそうに鳴き、するりとドアの隙間を抜け、出て行った。

タケシは携帯からカードを抜き出すと、親指で宙に弾いた。カードは空中で空間の揺らぎに飲み込まれ、姿を消す。

黒伏総悦が死に、研究者達も残っていない。人の姿になる手段が無くなり、マユミはあの姿のまま、ずっと猫として生きて

いくのだろうか。

タケシはカードが消えた宙を見つめながら、人の知能を持った白猫の事をぼんやりと考える。個人を個人たらしめているの

は、記憶や人格だけなのだろうか?それらを完全に引き継いだあの白猫は、黒伏真由美本人と言えるのだろうか?そして、記

憶や人格の移植が可能だと示された今、自と他の垣根は、一体何処に有ると言えるのだろうか?

日記には、記憶と人格を移送する機材は、有害光照射兵器に偽装してあると記されていた。資料を見る限り、それは組織壊

滅時に破壊されている。そして真実を示す日記も、誰も触れることの出来ない、タケシ個人の倉庫の中にある。

しかし、一人の老人の執念が辿り着いたこの技術に、また別の誰かが手を伸ばさないとは言い切れない。可能性は、示され

たのだから。



「え?○○ちゃん(仮称)が出て行った!?」

翌日、タケシが病みあがりであるため、念のために事務所は休業のままにしてあった。

昼になってやっと起き出してきたタケシの説明を聞き、ユウトは驚きの声を上げ、直後にしょぼんと項垂れた。

「心配いらない。彼女はしっかりしている。元気にやっていくさ」

ユウトはタケシの奇妙な物言いに、一瞬首を傾げ、それから小さく笑った。

「なんだ?」

「やっぱり猫でも女の子だったんだなあって。だから顔の良いのに付いて来たんだね」

顔の美醜というものが、今ひとつピンと来ないタケシは、訳が分からない、といったように首を傾げた。

「それはどうだか解らないが、彼女はこれからも、たまには立ち寄るはず…」

タケシの言葉を遮って、階下からタイミング良く「にゃーん」と声が聞こえた。

「あ!○○ちゃん(仮称)の声だ!」

さっそく顔を出しに来た白猫を迎えるべく、ユウトはドタドタと階下へ向かう。

「ああ、それからユウト」

首を巡らせて立ち止まったユウトに、タケシは微かな笑みを浮かべて言った。

「彼女の名はマユミだ。仮称○○ちゃんと呼ぶのはもう止めてやれ」

ユウトは目を丸くした後、疑わしげに目を細め、タケシを見つめた。

「マユミって誰の名前?昔付き合ってた人?それとも今も進行中の人?」

「…?何を言っている?」

タケシは何を言われているのか全く解らない様子で問い返す。

「あー…、うん。解らないならそれでいいや。マユミちゃん(名称決定)ね。了解っ!」

ユウトは少しほっとしたような表情を浮かべ、階下へ降りていった。

その背を見送ったタケシは、何かに気付いたように手をポンと叩いた。

「そうか、名の由来が無いと不自然なのか。事実を伝えずに、何と説明すれば良いか…」

しばし考えた後、タケシはテレビタレントに同名の人物が居た事を思い出し、そこから名を拝借したのだと説明する事にし

た。そのタレントは、沖縄出身の色黒の人物だったりするのだが、ユウトは特につっこまなかった。

そして、タレントの名を付けられたという事になった白猫は、週に一度くらいは事務所に顔を出していくようになった。