第六話 「ミルキーウェイ」
「今日は7月7日かぁ」
机の上に新聞を広げたユウトは、各地で開催される予定の七夕祭りの記事を見ながら感慨深そうに呟く。
今日も客は来ず、臨時収入に頼るばかりの事務所は、いつものように気だるい午後を迎えていた。
タケシは目を通していた処理済みの事件の資料から顔を上げる。
「七夕か。何か特別な思い入れでもあるのか?」
「ん〜、ボク個人としては無いかな。でもね、七夕の伝説は結構気に入ってる。一年に一度たった一日だけ、星々の協力で天
の川を渡って、織姫と彦星が会える日。ロマンティックだと思わない?」
あいにく今日は曇天だったが、ユウトは織姫と彦星に思いを馳せるように天井を見上げ、うっとりと言う。タケシはそんな
ユウトを見ながら訝しげな表情を浮かべた。
「素朴な疑問なのだが、織姫と彦星が伝説通りに、互いに面会を切望しているのならば、何故、泳いで会いに行かないのだろう?」
「い、いやほら…、天の川って凄く太い川なんだよきっと。流れもきつかったりして…」
「そうか。泳ぎでの渡河は困難か」
納得したように頷くと、タケシは再び資料へ視線を戻す。
天上の物語に想いを馳せるムードは消え失せ、ユウトはどこか寂しげにフッと息を吐き出し、新聞を捲った。
結局、そのまま訪れる客も無く日は暮れ、ユウトは事務所の戸締まりに取りかかる。
「あ〜あ、晴れてたら天の川を見上げながら、屋上で食事も良かったのになあ」
ユウトの言葉に、タケシが資料をしまいながらあまり興味なさそうに頷く。
「それじゃあ、そろそろ夕飯の支度に…」
リビングへ向かおうとしたユウトは、携帯のバイブの音を聞きつけ、言葉を切って振り向いた。青年はズボンのポケットか
ら素早く携帯を取り出し、耳に当てる。
「はい、不破です」
『おう、種島だ。いきなりで悪いが今夜、今から大丈夫か?』
電話の相手は二人がよく知る警官。種島和輝だった。
「今日もいつものように、仕事は入っていませんが…」
言わなくて良いことまでさらりと言うタケシ。
『なら、済まんが手を貸して貰えるか?港の倉庫でレリックの取引が行われるってタレコミが有った。他の調停者にも声をか
けたが、急な話で人手が足りん』
タケシが目配せすると、ユウトは一つ頷き、準備をするべく部屋を出て行く。
「承諾しました。これから向かいます。合流場所は…」
タケシはカズキから伝えられた場所を暗記すると、通話を切り、手早く携帯から地図を呼び出して合流地点を確認した。
待つこと5分。支度を終えたユウトが部屋に戻ってきた。夜戦、それも奇襲作戦用に、顔も腕も外から見える見事な金色の
体毛は、全て黒く染めてあった。
黒熊となったユウトは、ジャケットもシャツも、ズボンに至るまで、普段とは違う濃紺の物を身に付けている。
対してタケシ自身には、着替える以外の出撃準備はほとんど無い。武器はいつでも呼び出せるので、小道具を入れたベルト
ポーチを身につけ、中身を確認しておく程度である。
「準備完了。いつでも行けるよ」
「ならばすぐに出るぞ。あまり時間も無い」
二人は頷きあうと、颯爽とした足取りで部屋を出て行く。
少し前までのだらけた様子は微塵も無く、二人とも調停者の顔になっていた。
待ち合わせ場所は、港に面した倉庫街の一角、普段は積み荷を一時的に収納しておく倉庫の一つだった。たまたまなのか、
それともカズキが手を回したのか、倉庫には荷が一つも無く、がらんとしていた。
扉を開けた二人に、他の調停者から一斉に視線が集まる。カズキと他の調停者達はすでに集まっており、どうやら二人が最
後らしい。作戦開始直前のピリピリとした空気が、倉庫内に満ちていた。皆の視線を受けながら、無造作な足取りで倉庫の中
へ入っていくタケシの後を、扉を閉めたユウトが、皆に会釈をしながら追いかけた。集まっている調停者は、二人を含めて1
0名。ユウトの他に一名、青い鱗のトカゲの獣人が混じっていた。
「メンバーは揃った。これより作戦の打ち合わせを行う」
少し太めの警官はそう切り出すと、目標となる倉庫の位置と間取りを説明し始めた。目標倉庫の造りは今居る倉庫と同じ、
ここに集められた理由はおそらくそのためなのだろう。
「取引を行う双方の組織から、それ相応の護衛と、見張りが配置されている事は想像に難くない。各自注意を怠らないでくれ」
そう前置きすると、カズキは手元の資料を確認しつつ、作戦の詳細を説明し始めた。
「作戦だが、あらかじめ仕掛けた盗聴器で、取引の開始が確認され次第、まず先行してもらった数名に、隠密に見張りを排除
してもらう。この際には中の奴らに気付かれないよう注意して欲しい。見張りを排除した者は念の為その場で待機し、敵増援
に対する見張りになってもらう。次いで、傍で待機していた残るメンバーが一斉に踏み込む。この際には相応の抵抗も予想さ
れる。くれぐれも用心して欲しい。突入後、居合わせた者はなるべく生きたまま捕らえて欲しいが、諸君らの安全の為ならば、
殺傷も止むを得ないと判断する。戦闘においては各自自分の身の安全を優先して任務に臨んで欲しい」
その後、いくつかの細かい指示を伝えると、カズキは一同を見回した。
「監査官からは以上だ。何か質問は?」
今更ながらにユウトは少し感心する。若いとは言えカズキはやはり監査官なのだ。詳細に渡る説明を堂々とこなすその姿を
目にして、見慣れた愛嬌のある丸顔に、ユウトは頼もしさすら感じていた。
カズキはそのまましばし待ったが、一同からは特に質問は上がらなかった。
「では、先行して見張りを排除するメンバーを三名ほど募りたい。希望者は?」
真っ先に手を挙げたのはユウトだった。それを見たカズキが微かに笑みをこぼした。
次いでトカゲの獣人が手を上げ、最後に長い包みを持った長身の男が手を上げる。
「以上三名で良いかな?」
一同を見回したが反対は無く、カズキは一つ頷く。
「通信機を渡しておく、排除完了、及び想定外の事態が発生した場合は、これで連絡を」
三人はカズキから襟元に付ける小型の通信機を手渡され、身に付ける。通信機のテストを行うと、カズキは早速三人に作戦
行動に移るよう指示を出した。
ドアを開けて倉庫を出ながら、ユウトはちらりとタケシを振り返る。無言で自分を見つめるタケシに、笑みを浮かべて頷き
返すと、ユウトは潮の香る夜気の中に足を踏み出した。
目標の倉庫からだいぶ離れた場所で、港に積まれた木箱の影に身を潜め、長身の男は包みからライフルを取り出した。ここ
までに数カ所移動しつつ、同じ作業を繰り返している。スコープで倉庫の周辺を確認すると、男は低く呟く。
「全ての見張りを確認、数は12だ」
「了解。どう攻める?」
ユウトの問いに、男は狙撃でバックアップに回ることを告げる。ユウトは頷き返し、倉庫に接近して一人ずつ排除して行く
事を告げると、
「ちょっと待て」
それまで無言だったトカゲの獣人が、唐突に口を開いた。
タケシとユウトが倉庫に入って以来、彼は時折鋭い視線を向けて来ていた。ユウトは倉庫を出てからも、ずっとピリピリと
した雰囲気を感じており、
(遅れて行った事を怒ってるのかな?作戦前に余計なトラブルは避けたいんだけど…)
などと考えていた。
「…神代熊斗…、だな?」
トカゲの獣人の問いを耳にし、長身の男が意外そうに眉を潜めてユウトを見つめた。素性を隠す必要も感じなかったので、
ユウトはこくりと首肯した。
トカゲの獣人は表情を険しくして、ゆっくりとユウトに歩み寄り、懐に手を入れる。素早く引き出されたその手が、ユウト
の眼前に突きつけられた。
「…手帳…?」
眼前に翳された黒革の立派な手帳を前に、ユウトは首を傾げた。
「…サ…サイン…。貰えないか?」
トカゲの獣人は堅い口調で言った。その瞳には期待と、緊張の色が見て取れた。
「一年前、首都圏のマーシャルローでの活躍を聞いて以来、ずっとファンだったんだ!今日隣町から来たのも、あんたに会え
るかもしれないと聞いたからで…」
ユウトは興奮したように言い寄る獣人を前に、困ったように頬を掻く。
「え、ええと…、ごめん、ペンとか持ってないんだ…」
「金色の獣人と聞いていたから気がつかなかった…。そうか、染めていたんですね」
長身の男はそう呟くと、懐からサインペンを取り出した。
「ペンなら私が…、あ、良ければ私にもサイン貰えますか?できれば三人分。実はうちのチームにもあなたのファンが…」
「おお!?でかした細長いの!」
俄然盛り上がる二人を前に、ユウトは観念したように苦笑を浮かべ、ペンを受け取った。
「こちらA2、異常なし」
倉庫の屋根の上で身を伏せ、通信機で定時報告を行った男は、欠伸を噛み殺して隣の男に話しかけた。
「毎度の事ながら見張りも嫌になるぜ。この時期はヤブ蚊が多いし、蒸し暑いし、潮臭くなるし、だいたい今まで一回だって
邪魔が入った事はねえってのに」
「全くだ。今日もこのまま取引が終わるまで屋根の上か。雨が降らないよう祈るだけだ」
そう応じて空を見上げたもう一人の男は、ふと何かを感じて後ろへと視線を巡らせる。後方の曇天の夜空に、ひときわ色濃
い、大きな雲が浮かんでいたように見えた。それが雲では無いと気づいたのは、雲から二本の腕が伸びた時だった。
不意に伸ばされた腕が、男が声を上げるよりも早く、その顔面を掴んだ。手のひらで塞がれた口から低いうめき声が漏れ、
もう一人の男も振り向く。その顔面が伸びてきた手で同じように掴まれた。うめき声を微かに漏らしながら、掴まれた顔を持
ちあげられ、宙づりにされた二人の男は、互いの頭を勢い良く打ち合わされ、昏倒した。
意識を失った二人を静かに屋根の上に下ろすと、ユウトは頭上へ片手を上げた。
離れた所から、ライフルのスコープ越しにその様子を見ていた長身の男は、銃の向きを変え、入り口に立った男達に照準を
向ける。
発射された二発の麻酔弾丸が、二人を即座に無力化した。
ユウトは屋根の上を、足音を立てないように慎重に歩いて反対側へ向かう。そこから下を覗き込むと、裏口の見張り二名を
縛り上げたトカゲ獣人が親指を立てて合図する。
頷き返すと、襟元の通信機に軽く触れ、ユウトは低く呟いた。
「こちら先行部隊、見張りの排除完了」
「本隊了解。…さすがに仕事が早いな」
裏手と表側の二箇所に人員を配置し、待機していたカズキは、通信を受けるとニヤリと笑みを浮かべた。それから周囲の調
停者達に対してさっと右手を上げる。
全員が突入に身構えると同時に、カズキの手が前方へと振り下ろされた。
突入の際、こじ開けられた扉から真っ先に飛び込み先頭に立ったのは、カズキと共に正面口方向で待機していたタケシだった。
「調停班だ!レリック取扱法違反の容疑で捕縛する。全員動くな!」
カズキが一応の警告を発したが、もちろん、大人しく警告に従うような相手ではない。驚きながらも、獲物を手に取り、抵
抗を試みようとしていた。
しかし、カズキの警告と同時に、タケシは抜き放った刀を引っさげて素早く駆け出していた。男達が驚いて視線を向けた時
には、すでにそのまっただ中へ躍り込んでいる。
駆け抜けつつ、咄嗟に銃を抜こうとした男の手首を深々と切り裂き、別の一人の腿を薙ぐ。銃を構えた男を、左手に握った
鞘で側頭部を強打して昏倒させ、さらにいま一人の肩口を切り裂き、別の男の腕を浅く斬って腱を絶つ。その電光石火の早業
に、敵だけでなく味方すらも息を呑んだ。
舞い踊る白刃と、飛び散る血風。吹き荒れる剣風が血霧を吹き散らす中、その中心で剣を振るう青年の姿は、演舞にも似た
美を確かに有していた。ユウトをして芸術といわしめるその剣は、一太刀毎に確実に敵を無力化しながらも、ただの一人にも
致命傷は与えていない。どれほどの研鑽を重ね、どれほどの修練を積めばこれほどの域に達すると言うのか。同時に突入した
他の調停者すらも、一時の間、任務も忘れてタケシに見入った。
しばらくして、やっと我に返った調停者達は、すでに浮き足立っている男達を捕縛すべく殺到した。
屋根の上のユウトは、足下から響いてくる、少し収まってきた怒号と争う音を耳にしながら、落ち着かなげにウロウロしていた。
大きな危険を伴う先行部隊に志願したものの、実際には想像していたより見張りが小規模だった。これならばタケシの傍に
居た方が良かったと心底思う。
勝手に持ち場を離れる訳にも行かず、ユウトは何気なく沖合へと視線を向けた。沖の方はさほど雲も厚くないのか、水平線
の輪郭がぼんやりと見えた。
「あれ…?」
ユウトは目を懲らし、沖をじっと見つめる。初めは見間違いかとも思ったが、沖の方に黒い影が見て取れる。船が一艘、灯
りもつけずに波間に漂っていた。
乱戦の中から引きずり出された首謀者の一方が、何人かの調停者によって、拘束され、カズキの前に引き出された。
「さて、品物は何処だ?」
カズキは男を見下ろし、静かに問う。タケシの働きを目の当たりにしたせいか、顔色を失った男は、あっけなく口を割った。
「こ、ここには無い!沖合に停泊させた船に積んである!」
間違いないかと念を押すカズキに、男は何度も首を縦に振った。
言葉の真偽を問いただしていたその時、カズキの背後、開いたままの倉庫の扉の外で、重々しいドシン、という音が響いた。
倉庫の高い屋根から飛び降りたユウトは、カズキの姿を認めると、小走りに駆け寄った。
「カズキさん、沖に船が泊まってる。灯りもつけてないし、何か怪しい」
小声で告げたユウトに頷くと、カズキは男を束縛している調停者に向き直った。
「証言の確認を取ってくる。済まないが現場指揮は頼んだ」
「了解しました。何人か同行した方が…」
頷き返した調停者は、周囲に視線を走らせ、手の空きそうな者の姿を探す。
「いや、いい。アークエネミーが同行してくれる。な?」
笑みを浮かべて言ったカズキに、ユウトが頷く。その調停者はやはり気付いていなかったようで、驚いたようにユウトの顔
を見つめた。
二人はそのまま入り口から駆け出し、近くに泊めてあったモーターボートに乗り込む。
「非常事態だ。船主さん、悪いけどちょっと拝借するよ…」
カズキが何やら弄ると、程なくエンジンが唸りを上げた。
「黒く染めてると、お前だと分からないもんなんだな?」
「人間には獣人の顔って、見分けにくいらしいですからねえ」
「ああ、何となく判るような気がする」
ボートは二人を乗せ、沖へと滑り出していった。
近づくエンジン音に気づいたのだろう、船はボートの接近を察して動き始めた。
「ユウト、止められるか?」
「任せて下さいっ!雷音破!」
ユウトはボートの上で立ち上がると、腕を大きく引き、踏み込んで拳を突き出した。拳から放たれた衝撃波を伴った閃光が、
海面を裂きながら駆け抜け、こちらに尻を見せていた船のスクリューを破壊する。
船尾の方で声が飛び交い始めると、カズキはエンジンを切り、惰性だけで器用にボートを操り、船の頭側に横付けした。
ユウトは巨躯に見合わぬ軽い身のこなしで、船の舳先へと体を引き上げ、次いで手を伸ばしてカズキの体を引き上げる。
「やっぱりお前に来て貰って良かったな。他のヤツだったら俺を引き上げるだけでも一苦労だったろう」
少し太めの警官がそう言うと、ユウトは苦笑いで応じた。そこへ、物音を聞きつけたのか、船の後方から駆けてくる足音が
聞こえた。
「レリックの確保が最優先だ。いいな?」
「了解っ!」
銃を構えながら言ったカズキに、ユウトは指をぱきぽきと鳴らしながら頷いた。
「沖合に船?レリックはそこに?」
鎮圧を終えたタケシは、頬に散った返り血を手の甲で拭いながら聞き返した。
「ああ。監査官殿は、アークエネミーを伴われて確認に向かった」
カズキに指揮を委ねられた調停者がそう答えると、タケシは顎に手を当て、しばし黙り込んだ後に呟いた。
「まずいな…」
「いやいや、あのアークエネミーが同行しているんだ。問題は無いさ」
軽く笑って応じる調停者に、タケシは真顔で答える。
「だからまずい。他の調停者ならばむしろ問題は無かったが…」
何を言っているのか、理解できない様子の調停者に、青年はポツリと言った。
「魔王にも、苦手なものは有る」
「一人船倉に逃げ込んだぞ!」
カズキの声を受け、甲板の清掃を終えたユウトは、開け放たれたドアに駆け込んだ。
「こういう…、狭いところ…、苦手なんだよね…」
あちこちから伸びるパイプや梁を避けて階段を駆け下りながらユウトはボヤいた。追い詰められた乗組員が、レリックを起
動させる可能性がある。大急ぎで船底の倉庫に駆け込んだユウトは、厳重に固定されたそのレリックを目にして口をあんぐり
と開けた。
ガラス細工のように美しく、儚げなレリックが、倉庫の中央に鎮座していた。水晶の塊のように、いくつもの結晶が結合し
ているようなそれは、至る所にコードが取り付けられている。そのコードの伸びた先、計器類と様々な装置の所に、一人の船
員が居た。
船員はユウトに気づくと、ヒッ、と声を上げる。
「待って!これは動かしちゃ駄目!このレリックは爆…」
ユウトの言葉が終わらぬ内に、男の手元で「ぽにっ」と、やけに可愛い音がした。
男は押してしまってからユウトの言葉が脳に届いたのか、蒼白になった顔を上げた。
「もう遅いかもだけど…、そのレリック…、爆弾…」
「…お…、押しちまった…」
船員は真っ青な顔で震えだし、ガラス細工のようなレリックは徐々に輝き出す。
ユウトは装置の所へ駆け寄り、並んだ機材を見回して途方に暮れた。まだ解析途中だったのだろう。活動停止用のスイッチ
が見当たらない。
「急いで甲板に出てみんなに言って!死にたくなかったら船にしっかりしがみついてるようにって!」
ユウトはそう言って船員を階段へと押しやると、両の拳を握り固めた。
港湾警備隊と連絡を取っていたカズキは、慌てた様子で船室から飛び出してきた船員を取り押さえた。
「積み荷が!爆発!船にしがみつけってクマが!」
真っ青な顔で何度もそう繰り返す船員から話を聞きだし、カズキが事態を把握した直後、凄まじい振動が船を揺さぶった。
激しく揺れる船体の上で、身を低くして手すりに掴まったカズキは、ドアから飛び出してきたユウトの姿を見て声を上げた。
「おい!レリックはどうなった!?」
「海に沈めました!」
ユウトは甲板上に倒れている船員達を、なるべく船のへりから遠ざけつつ答えた。
「沈めたって…、どこから!?」
「船倉から直接!それと、ある不幸な事故で船底に穴が空いています!」
「お前が空けたんだろうが!?」
運び出して捨てるのは間に合わないと判断したユウトは、手近にあった予備のアンカーをレリックに巻き付け、熊撃衝で船
底に大穴を空け、レリックを海中へと投棄したのだ。
「すぐに爆発して、衝撃が来ますよ!」
ユウトの言葉が終わらぬ内に、船の真下で閃光が炸裂した。次いで海面が山のように隆起し、巨大な水柱が吹き上がる。
波に翻弄される木の葉のように、船は荒れ狂う波に弄ばれた。
沖合で閃光が奔ったのが見えたのは、無断借用すべく、タケシが係留されていた漁船に乗り込んだ時だった。強い光が収ま
ると、タケシは無言のまま視線を戻し、作業に取り掛かる。普段どおりの冷静な顔つきだったが、その頬を、一筋の汗が流れ
落ちて行った。
揺れが収まり、ずぶ濡れになったカズキが甲板上で身を起こした。激しい嵐に見舞われたような船の上で、救命艇が殆ど流
されてしまっている事に気付き、舌打ちする。
さらに悪いことに、止むを得なかったとは言え、ユウトの空けた船底の大穴から海水が侵入し、船は早くも傾きだしていた。
「ええい!船が沈む!ユウト、怪我人をボートに放り込め!」
カズキとユウトは船員達を、残っていた救命ボートに乗せ、次々と送り出す。
「いいか!?すぐに港湾警備隊が来るからな、逃げようだなんて思うなよ!?」
クギを刺しつつ最後のボートを送り出すと、異様に船尾が沈み込んだ船の上で、カズキは傍に脱ぎ捨てられていたライフジ
ャケットを拾い上げる。
「念のためだ。これらも拝借しとくか…。さて、俺達も早めにおさらばしようか。沈むのに巻き込まれたら一大事だからな」
カズキはライフジャケットを手渡そうと、ユウトに歩み寄った。ユウトは身じろぎ一つせず、手すりを掴んだまま、まだ爆
発の余波で荒れている、暗い海面を見つめていた。
「ユウト、船を離れるぞ?」
ジャケットを差し出しながらカズキが声をかけると、ユウトは乾いた笑いをもらした。
「ははは…。さっきのボートが最後だなんて…、気付かなかった…」
「ああ…。悪いが、被疑者の確保を優先させて貰ったからな」
済まなそうに言ったカズキの方へは顔を向けず、ユウトは無言で笑みを浮かべたままだった。その様子を見て、カズキは嫌
な予感を覚える。
「ユウト…、お前まさか…」
恐る恐る尋ねるカズキの言葉に先んじて、ユウトは泣きそうな顔で呟いた。
「ボクの故郷の河祖下村近辺じゃ…、泳ぐ必要がある場所なんて無かったし…、小学校にもプール無かったから授業でもやら
なかったし…、留学先の北原で泳ぐなんて正気の沙汰じゃなかったし…」
後ろの方は小声になり、最後には口の中で呟くようにゴモゴモと口ごもる。そして沈黙。
たっぷり5秒の静寂の後、カズキは真ん丸くした目でユウトを見つめながら口を開いた。
「ウソだろ…、泳げないのか…?」
ユウトはビクリと身を震わせ、無言のまま返事をしない。
「お前クマだろ!?クマって泳ぎが達者じゃないのか!?」
「何事にも例外は在るんですっ!人には得手不得手がどうしても在るものなんですっ!」
「ええい、威張るな!」
「大丈夫!泳げなくたって困ることなんかあまり無いから!河を渡りたければ橋があるし、海を渡りたければ船がある!スバ
ラシキかな文明!」
「現に泳げなくて困ってるだろうが!?ここには橋も無ければ、もうボートも無い!」
「カズキさん先に行って下さい、ボクはここに残るから…。ほら、もしかしたら上手いこと舳先だけ沈まないかも…」
「沈んでからじゃ遅いんだよ!」
カズキはなだめ、励まし、または声を荒げ、何とか水に飛び込ませようと努力するが、ユウトは怯えた表情のまま動こうと
しない。その間にも浸水は進み、均衡を失いつつある船ががくんと傾いた。その拍子に二人は甲板を滑り、手すりの切れ目か
ら空中へと放り出される。二人は海面へと落下し、盛大な水柱を上げて着水した。
海面に顔を出したカズキは、慌てて周囲へと視線を走らせる。労せず、それはすぐに見付かった。カズキから少し離れた所
で、ユウトは必死に両手を振り回し、バシャバシャと水しぶきを上げている。
「げほっ!がぼぼぼっ!げふっ…がはっごぼっ!」
かろうじて顔を水面に出そうと必死にもがいているユウトに、カズキは声を上げた。
「ユウト!慌てて動かないでまず落ち着け!力むと逆効果だぞ!今そっちに行くから…」
とは言ったものの、海面は今もなお荒れており、カズキもユウトになかなか近づけない。
そんな中折り悪く、船は船尾を下にしてゆっくりと沈んで行った。再び海面が激しく踊り、二人は波に翻弄され、さらに距
離を離されてしまう、せめてライフジャケットだけでも着せておけば…。そう後悔した時、眩いライトがカズキを照らした。
「ユウト、カズキさん、無事ですか?」
不意に耳に届いた、聞き馴染みのある落ち着いた声に振り返ると、イカ釣り用なのだろうか。派手にライトアップされた漁
船が視界に飛び込んできた。その操縦席には舵を握り、髪を潮風になぶらせながら、ライトの後光を背負った美青年。その頭
上では何の冗談か、夜風を受けた大漁旗が誇らしげに翻っていた。
「ユウト!タケシが来てくれたぞ!」
振り向いたカズキの目に飛び込んで来たのは、何故か親指を立てているユウトの右手が、ゆっくりと水没していく有様だった。
「ユウトぉぉおおおおおっ!?」
慌てて水を掻き分け、泳ぎだしたカズキの横を、漁船がスーッと追い抜く。
タケシは船を止めて甲板に出ると、そこに広げられていた網を海中に投じた。しばし様子を伺った後、タケシはロープを巻
き取る装置を動かし、網を引き上げる。程無く、アームは網にかかった一頭の大熊を海中から引き上げた。
タケシはアームを操作してユウトを甲板に降ろすと、網を退けて傍らに屈みこむ。
「ユウトは大丈夫か!?」
なんとか船によじ登ったカズキが、海水をボタボタ垂らしながら二人の下へやってきた。
「呼吸が停止しています。人工呼吸を行なう必要がありますね」
「え?じ、人工呼吸って…、お前が?ユウトに?」
カズキが驚いたような、何かを期待するような、微妙な表情で問い返すと、タケシはこくりと頷いた。そして…、タケシは
その場で立ち上がり、ユウトの鳩尾の辺りを遠慮なく、思い切り、力いっぱい踏み付けた。
「がふぅっ!?がはっ!げほっ!げほげほっ!」
この容赦の無い一撃で、ユウトは目を見開くと同時に口から水を吹き出し、鳩尾を両手で押さえて転げまわる。
これほど乱暴な蘇生法は見た事が無い。カズキは口をポカンと開け、苦しげにのた打ち回るユウトと、その様子を静かに見
守るタケシを眺めていた。
荒い息をつきながらも、身を起こし、なんとか落ち着き始めたユウトの傍に、タケシが静かに歩み寄った。
「無事か?」
無事か?じゃないだろう。とは思ったものの、カズキは突っ込むのを見合わせる。ユウトは手すりに背を預けて座り込み、
タケシの顔を見上げると、苦しげに喘ぎながら応じる。
「お腹が重い…、気持ち悪…、吐きそう…」
タケシはユウトに手を貸して立ち上がらせる。手すりにもたれかかって海面を覗き込むと、ユウトはゲボゲボと、大量に飲
んだ海水を吐き出し始めた。その背をさすってやりながら、タケシは船のエンジン音を耳にして首を巡らせる。
「お、港湾警備隊のお出ましか…」
カズキは警告灯を灯した船が近付くのを目にすると、タケシとユウトを振り返る。
「事後処理が有るから、俺はあっちに乗せて貰って先に戻る。お前達は少し休んどけ。なんなら監査は明日にしてくれても構
わん。人数が多いから時間もかかるだろうしな」
「では、お言葉に甘えて、明日改めて伺う事にします」
タケシは敬礼しながらそう答え、港湾警備隊の船に乗り移るカズキを見送った。その横で、ユウトもまたふらつきながら敬
礼する。
カズキが軽く手を上げて二人に応じると、港湾警備隊の船は船首を巡らせる。密輸船の船員達を乗せた救命ボートが、その
後ろに列を成して牽引されて行った。
ユウトは疲れたように深々とため息をつくと、甲板の上にごろりと寝転んだ。黒く染められていた体毛は、海水にもまれた
おかげで染料が完全に落ち、元の金色の輝きを取り戻していた。
ユウトはぼんやりと空を見上げ、そして唐突に口を開いた。
「あ…、晴れてる…」
いつのまにか雲はまばらになり、代わって星々の輝きが空を埋め尽くしていた。
タケシは一度空を見上げた後、漁船のライトを全て消した。
そして寝転んでいるユウトの隣へ行くと、その横で仰向けになる。
「天の川だ…。織姫と彦星、きっと会えたよね」
ユウトはそう呟いた後、小さく吹き出した。
「どうした?」
「キミが、織姫と彦星は、どうして天の川を泳いで渡ってでも会おうとしないのかって言ったのを思い出した」
ユウトは可笑しそうにそう言うと、苦笑混じりに言った。
「きっとどっちかが、あるいは両方がカナヅチなんだよ。ボクみたいに」
「なるほど、渡河して面会できない理由、納得できた」
真面目な顔でそう言ったタケシに、ユウトは「あはは」と声を上げて笑った。それから少し黙り込み、やがて照れたように
呟いた。
「でも、ボクの彦星は、船に乗って来てくれたね」
タケシは少しの間、考え込むように黙り、やがて「ああ」と声を上げた。
「俺が彦星で、お前が織姫か」
「あははは。調子に乗りすぎだね、ボクが織姫だなんて」
恥ずかしさを誤魔化すように笑ったユウトに、
「俺にとっての織姫は、やはりお前なんだろうな」
タケシはそう真顔で頷く。ユウトは驚いたように青年の横顔を見つめ、それから再び空を見上げ、照れたように鼻の頭を掻いた。
うっすらと白い天の川が、二人の上でいつまでも、優しい光を放っていた。