第八話 「指環奇談」(前編)

事務所の前で、ユウトは丁寧に看板を洗っていた。

喫茶店や軽食店などで見かけるような、中に電球が入っており、スイッチを入れると発光するタイプのものである。キャス

ターの付いたその看板を丁寧に水拭きしていると、新聞配達の学生が自転車でやってきた。

「おはよう御座います!神代さんっ」

「おはよう!今日も早いねぇ」

笑顔で挨拶を交わし、新聞を受け取ったユウトは、一面の記事にざっと目を通す。

写真付きで大きく取り上げられているのは、世界的に有名な美術館の展示品が、期間限定で、この町で公開されるという記

事だった。

(明日から今月いっぱいの公開かあ、今度の休みにでも、タケシと行ってみようかな…)

ユウト自身、装飾品などにはあまり興味は無いが、長い年月が刻み付けられた骨董品などには割と興味をそそられる。つい

でなので、あまり世間に興味を示さない相棒に、少し変った刺激を与えてみたいと思っていた。

しばらくの間、公開される美術品の写真を見つめていたユウトは、ふと視線を感じて首を巡らせる。

隣のビルの前から、一人の少女がこちらを見つめていた。

つややかな黒髪を背中まで伸ばし、手提げ鞄を持ったその少女は、身につけている制服から、近くの高校に通っている学生

だろうと、ユウトは察する。

少女はユウトと目があうと、ビクリと身を竦ませた。

ユウトは人当たりが良い穏やかな性格だが、慣れない者はまずその見た目に萎縮する。ユウトは極めて大柄な、熊の獣人な

のである。見あげるような巨躯は軽く2mを超え、腕も脚も丸太のように太く、首も胴も腰もどっしりと太い。何より特徴的

なのは、顔から指先に至るまでを覆う、金色の体毛と、熊そのものの頭部だ。

「どうかしたの?こんな朝早くに」

ユウトはにこやかに微笑みながら、少女に声をかけた。

少女は一瞬たじろいだが、ユウトの脇にある看板にちらりと視線を向け、確認したように頷く。

「あ、あの…。カルマトライブ調停事務所の方でしょうか?」

ユウトが頷くと、少女は安堵したように顔を綻ばせた。



「お客さんが来た!」

と、タケシがかなり乱暴に揺り起こされたのは、午前6時の事であった。

手早く着替え、応接室に入ると、ソファーに腰掛けた少女がタケシに会釈した。緊張しているのか、やや表情が硬く、目の

前に置かれたコーヒーにも手を付けていない。

「あの、私、榊原明美と言います。私立東護高校の二年生です」

名乗った少女に、タケシとユウトがそれぞれ自己紹介をする。

「それで、保護者は?」

タケシの問いに、アケミと名乗った少女は俯いた。

「あの、母は私が小さい頃に離婚していて、父は二ヶ月前に事故で亡くなりました。ですが、父の遺してくれた遺産がありま

すので、お支払いの方は心配要りません。…それとも、やはり未成年では問題が…?」

「支払い能力が有るのならそれで構わない。依頼を聞こう」

事務的な口調で単刀直入に言ったタケシに、アケミは小さく頷くと、自分の左手を差し上げて見せた。その薬指には質素な

デザインの指輪が嵌められている。磁器と思われるリングには、直径5ミリ程の、深い紫色の宝石が嵌め込まれていた。

「二ヶ月前に亡くなった、父の形見です。父は海外の美術品が好きで、こういった品をコレクションしていたのですが…」



四十九日が過ぎた頃、アケミは思い出を偲ぶように、父が残したコレクションルームで美術品の埃を払っていた。父が生き

ていた頃は、暇さえあればマメに掃除されていたのだが、亡くなってからずっと、ほとんど掃除をしていなかった事を思い出

したのだ。生前の父親が掃除も自分ですると言い張っていたため、家政婦達もその部屋には入らない。

掃除がだいぶ進んだあたりで、アケミは小さな箱に入れられた、この指輪を見つけた。

壺や絵画には興味を覚えなかったが、アケミも年頃の少女である。質素な指輪に何となく惹かれ、気が付けば手にとって眺

めていた。

ひやりと冷たい指輪に、少しずつ自分の体温が伝わり、温もりを帯びてくると、アケミはその指輪を自分の指に嵌めてみた。



「…で、外れなくなった、と…」

ユウトは少女の手の指輪を見ながら言った。

「はい。外れないことに気が付いたのは、その日の夜、入浴前の事でした。もう一週間になります」

二人は訝しげに顔を見合わせ、やがてタケシが尋ねた。

「ところで、指輪が外れなくなったという理由で、何故当事務所に依頼を?」

「一度、外してもらおうと病院に行きました。そこの先生がお二方を訪ねるように、と…」

アケミはある医師の名を口にし、タケシとユウトは顔見知りの老医師の顔を思い浮かべ、納得した。

青年はしばらく指輪を見つめた後、ユウトに視線を向ける。

「何か感じるか?」

「悪いモノっていう感じはしない。…ちょっとゴメンね」

ユウトは少女の手を取ると、指輪をつまみ、試しに少し力を込めてみる。

「きつくて外れないとかじゃないね。まるで、ボルトか何かで固定されてるみたいにビクともしない。たぶん、無理に外そう

としたら骨折程度じゃ済まないよ…。あれ…?」

ユウトは訝しげに指輪を見つめた。

「どうかしたか?」

「どこかで、これと似たようなのを見たような…。気のせいかな…?」

タケシはユウトの返事を聞くと、外れない理由については、とりあえず見当がついた事を、小声で相棒に伝えた。

「…レリックの特有現象、カースロックと推測する。所持した者から、強制的に外れなくなる現象だ。なんらかのキーワード

や、特定の手順で解除できるものだが、手がかりが無い事には…」

タケシは呟くと、少女の手に視線を向け、指輪を観察する。その瞳が、指輪の横に掘られた何かを捉えた。タケシはアケミ

の手を取り、掠れて薄くなった文字をじっと見つめた。

「N・Y・X…」

ユウトは横からそれを覗き込み、アケミも今初めて気が付いたのか、驚いたように文字を見ている。

「どういう意味かな?それとも、何かの略?」

「分からない。しかし、手がかりにはなりそうだ。調べてみよう」

「アケミちゃん、指輪の入っていた箱はある?」

「あ、はい、持って来ました」

「その箱にも手がかりがあるかもしれない。借りて構わないか?」

「はい、お手数をおかけしますが、よろしくお願いします」

今日は平日なので、学校の帰りにまた寄ってもらう事にすると、二人は一旦アケミを送り出した。



「NYX…、N・Y・X…、どういう意味かな…?」

ユウトは呟きながらメモにアルファベットを書きなぐる。

「何かの略だとすれば、ニューイヤー10年?いや、ニューヨークのクリスマス?…ダメだ、意味不明…」

タケシは所長席にかけ、古いハードカバーの本を黙ってパラパラと捲っていたが、やがてその手を止め、あるページに見入った。

「Nyx…。ニュクス、夜の女王…か」



アケミは帰宅途中に、再び事務所に顔を出した。

結局、箱には何も変ったところは無く、指輪の文字の意味については、いくつかの候補が見つかった事をタケシが説明して

いると、テレビを付けたユウトが声を上げた。

「わ!これ、東護美術館じゃない!?」

ニュースでは白い、前衛的な建築物が映し出され、「海外から持ち込まれた美術品盗難される!」のスーパーが流れていた。

『明日からの公開を予定されていた美術品の内、何点かが展示場から盗み出され…』

「あ…」

アナウンサーの言葉を聞いていたユウトは、何かに気付いたように振り返ると、朝刊を手に取った。

「タケシ、これ!」

新聞を机の上に広げ、ユウトが指し示したのは、世界的に有名な美術館の展示品が、期間限定で、この町で公開されるとい

う記事、その美術品を写した写真であった。

新聞の粗い写真の中に、アケミの指輪と良く似たものが映っている。

タケシは指輪の写真を見つめると、数秒間、息すらも止めて動かなくなる。指環の横に、彫られている文字の拡大写真が載

っていた。

Morrigan(モリガン)…」

口の中で呟き、唐突に立ち上がると、青年はユウトに向き直った。

「カズキさんに協力を依頼して、警察経由で盗まれた品物を確認してくれ。それとアケミさんは、俺が戻るまでの間ユウトの

傍を決して離れないように」

アケミは、訳が判らないまま頷いた。

「キミは何処に?」

「相楽堂へ行く。いつだったか、こういったレリックについての資料を、ヨウスケさんに見せてもらった覚えがある」

「こういったレリック…?」

タケシは確信を持ってはっきりと言った。

「つまり、複数のパーツに分割されているレリックだ」

アケミは、ふと、自分の手に視線を落とす。一瞬だったが、指輪が微かに震えたような気がした。



ユウトは受話器を置くと、ため息をついた。

「やっぱり、盗まれた中には、キミのと良く似たあの指輪も含まれていたらしいね…」

アケミは不安そうに顔を曇らせた。

「あの、この指輪って、そんなに貴重な物なんですか?」

「確かに歴史的な価値は有るみたい。でも、それ以上に問題なのは、その指輪が恐らくレリックだという事」

アケミは首を傾げた。

「さっき不破さんも言っていましたが、レリックって、何なんですか?」

ユウトは目を丸くし、指先で頬を掻いた。

「ああ、ごめん。説明するのを忘れてた…。レリックと接触した一般人には、説明しなきゃならない義務があるんだったっけ

…。ちょっと信じがたい話になるけれど、聞いてくれるかな?」

アケミが頷くと、ユウトは咳払いをしてから話し始めた。

「レリックっていうのは、いつ誰が作ったか分かっていない、今の科学ではとうてい作れないような、オーバーテクノロジー

の産物なんだ。極秘に研究はされているけれど、まだ一般には知らされていない。いや、これからも秘匿され続ける可能性の

方が高いかな」

この話に、アケミはどう反応して良いか判らず、「はあ」と頷く。

「例えば…、これ」

ユウトは上着の内ポケットから、直径1センチ程の透明な玉を取り出す。それは一見、何の変哲も無いガラス球に見えた。

ユウトはそれを二本の指でつまみ、アケミの目の前に持っていくと、唐突に指を離した。

受け止めようと、慌てて手を伸ばしたアケミは、驚愕の余り目を丸く見開いた。

透明な玉は、ユウトが指を離した位置で、空中に静止していた。しかも、無色透明で何も入っていない玉は、うっすらと光

を放っている。

「このライトクリスタルは、所持者の意思に従って、指定した座標に固定される。まあ、これは灯りにするくらいしか使い道

は無いから、こうして個人での所持が許可されたんだけど。ほとんどのレリックは作動原理が不明な上に、物によってはとん

でもなく危険な力を秘めている事も有る。だから政府に無断で占有する事も、故意に秘匿する事も重罪になるんだ。まあ、一

般に公表されていないから、レリックの回収もボクら調停者の極秘の仕事になるんだけどね」

「この指輪も…、そのレリックなんですか?」

「たぶんそうだね。あ、アケミちゃんの場合は知らずに持っていただけだから秘匿にならないし、外したくても外せないんだ

から、占有にもあたらないから、心配しないでいいからね」

不安げに尋ねたアケミは、ユウトに笑いかけられ、ほっと胸をなでおろした。大熊は宙に浮かんだ玉をつまみ、懐に戻すと、

ふと気になって少女に尋ねた。

「ところで、お父さんのコレクションの中に、他に指輪は無かったよね?」

「え?あ、はい。指輪はこれ一つでした。………あ!」

アケミは何かを思い出したように声を上げた。

「そういえば、同じような磁器のブレスレットが有りました!小さな宝石が嵌っていて」

「それは今も家に!?」

「は、はい」

勢い込んで尋ねるユウトに、アケミは驚いたような表情で頷く。ユウトは携帯を取り出し、タケシの携帯を呼び出すが、折

り悪く圏外になっていた。

「しかたない。アケミちゃん、今すぐ家に…」

ユウトは言葉を切り、丸い耳をピクリと動かした。

「…来ちゃったか…」

小さく呟くと、ユウトは窓際に移動し、傍にあったタケシの椅子をひっ掴む。

窓の外に、黒い影が映り込むのと、ユウトが椅子を振りかぶったのは同時だった。

窓を蹴り破った黒ずくめの人物に、スイングされた椅子が見事に命中した。椅子を抱え込むようにして、黒ずくめが再び窓

の外へと放り出されると、続いて事務所のドアに、何かが激しくぶつかった。

小さく悲鳴を上げたアケミに素早く駆け寄り、その体を抱き上げて脇に抱え込むと、ユウトはガラスの割れた窓から空中へ

と飛び出した。

二階の窓から飛び出したユウトは、地面に着地するなり黒ずくめに囲まれた。男達は、それぞれその手に黒く塗られたナイ

フや、特殊警防、スタンガンなどを握っている。衣類も黒で統一され、顔も目を残して黒い布で覆っていた。まるで忍者のよ

うないでたちである。

素早く数と位置関係を確認すると、ユウトは傍にあった看板を思い切り蹴飛ばした。

丸太のような足で蹴り飛ばされた看板は一撃で破砕された。プラスチック板が粉々になり、内部の配線や金属部品、骨組み

が、まるで散弾のように男達に襲い掛かる。

ある者は運悪くキャスター付きの土台が顔面を直撃し、またある者は破片が体に突き刺さり悶絶する。ユウトはアケミを抱

えたまま、乱れた包囲を素早く突破し、追っ手を引き連れて夜の闇へと消えていった。



相良堂から戻ったタケシは、事務所の割れた窓を見上げて目を細めた。

店を出る時に電話をしたが、携帯も事務所の電話も繋がらず、急いで戻ってきたのだが、嫌な予感が的中したようだ。

近所の住民が心配そうに事務所をかこみ、人だかりができている。

「あ、不破君!」

顔見知りのおばさんはタケシに気付くと、小走りに駆け寄った。

「少し前にガラスが割れる音がして、窓から覗いてみたら、ユウトちゃんがへんな奴らに囲まれていたのよ」

襲撃を受けたのは間違いない、そう察すると、タケシはおばさんに尋ねた。

「ユウトはどこへ?それと、もう一人、少女は居なかっただろうか?」

珍しく慌てているのか、早口で問い詰めるタケシに、おばさんはコクコク頷く。

「え、ええ。制服を着た女の子を、こう…、脇に抱えてね。男達に追いかけられながらあっちへ…、あ、不破君!?」

おばさんが指さすが早いか、タケシはいきなり走り出した。

「とんだ失態だ…!」

珍しく、いらついた様子で呟くと、タケシは黒い突風を思わせる速度で、夜の闇と同化しながら駆けていった。



「どうやら、巻いたみたいだね…」

路地の暗がりに身を潜めたユウトは、追っ手の姿が無い事を確認して呟く。

皆は綺麗だと言ってくれるが、こういう時は自分の金色の被毛が恨めしい。闇にも鮮やかな金の身体は、夜の逃走劇には絶

対的に不利だった。

ちなみに、隠密行動が前提の作戦では、ユウトは体毛を黒く染めるようにしているのだが、さすがに今回はそこまでの余裕

が無かった。

「アケミちゃん、家には誰か居る?」

「は、はい。家政婦さん達が…」

「それじゃあ、電話して、家から離れるように言って。あいつらがどうやって、アケミちゃんが事務所に居ることに気付いた

のか判らないけれど、自宅も危ないと思う」

アケミは頷いて、携帯を取り出すと、すぐに自宅と連絡を取り始めた。

ユウトはその間にも、油断無く周囲を見回し、追っ手の気配を伺っている。

「電話、済みました。事情を伝える時間が惜しかったので、緊急とだけ」

「それでいいと思うよ」

「それと、ブレスレットは、一目では判らないように、隠してくれるよう頼みました」

「それは良いね。もし出遅れても何とかなるかも」

非常事態で、取り乱しても不思議ではない状況にもかかわらず、実に落ち着いた対処だった。頭の巡りが良いアケミに、ユ

ウトは好感を抱く。

「さて、急ごうか。相手の規模が判らないし、会わないなら会わないに越したことはないからね」

ユウトがそう言って、路地の外を伺ったその時、胸元で携帯が振動した。即座に携帯を掴んだユウトは、相手も確かめずに

声を上げた。

「タケシ!大変なんだよ!事務所が襲われて、明美ちゃんを連れて逃げ出したとこ…」

『…わかっ……ユウ……今………居る?…』

一気にまくし立てたユウトは、携帯の電波が不安定な事に気付き、ゆっくりと、大きな声で話した。

「これから、アケミちゃんの家に、向かう。もう一つ、同じような、腕輪が、有るの!」

『……了解………現地…合流……、家の場所………だ?』

アケミから詳しい番地を聞きだし、ユウトが伝えると、通話は途切れた。かけ直してみたが、再び圏外になっている。

「伝わったと思うけど…、とりあえず急ごう!」

「はい!」

ユウトはアケミの手を引き、追っ手に注意しながら、細い路地を走り出した。



立派な門構えの豪邸の前で、先にたどり着いたタケシが足を止めた。

家には、灯りはついているものの、やけに静かで、人が居ないかのようであった。

タケシは鉄格子の門扉を押し開き、広い敷地へ足を踏み入れた。

そのとたん、周囲の空気が変質し、肌を刺すような殺気が生まれた。

しかし怯む事無く、屋敷の玄関までの舗装された道を、タケシは無造作な足取りで歩き出した。

玄関の前へたどり着いたタケシは、腕を一振りし、刀を呼び出した。その時には、左右の柱の陰に潜んでいた黒ずくめの男

達が、得物を手に飛び出していた。



玄関扉を押し開けると、正面に見えるカーペットの敷かれた階段に、一人の男が座っていた。

30代半ばに見える男は、タケシを見つめ、整った甘いマスクに笑みを浮かべると、パン、パン、パン、と手を叩いた。

「実にすばらしいな。武装した六名もの手練を、ここまで簡単に倒してのけるとは…。しかし、一人として殺していないとい

うのは、どういう事かな?」

「相棒に、無駄な殺生はするなと常々言われている。それと、今お前は手練と言ったが、殺さねばならない程の腕でも無かったぞ」

淡々としたタケシの言葉に、男は微かに目を細めた。口元は笑みの形のままだが、その瞳には明確な敵意が宿っている。

「カルマトライブ所属の調停者、不破武士だ。レリックの不法奪取未遂の疑いで、お前を捕縛する。抵抗しなければ危害は加

えない。投降しろ」

男は低い声で笑うと、左手を翳し、タケシに手の甲を向けた。その中指と人差し指に、見覚えの有る指輪が嵌っていた。

「名乗らないのも失礼だな。私は漆野兵武。この指輪の正当な持ち主になる者だ」

「…正当…?どういう意味だ?」

ヒョウブはタケシの問いには答えず、左手を振り上げた。

「知る必要は無い。君は…この場で消えておきたまえ!」

左手が振り下ろされた瞬間、いやな気配を感じたタケシは、横へと跳んだ。一瞬前までタケシが居た場所で、空間が揺らめ

いた。絨毯が敷かれた床の表面が、クレーターのように、丸く陥没する。

「勘が良いな調停者。一瞬でも遅れたら、空間ごと潰れていたものを」

「潰れる…?空間ごと…?」

タケシは訝しげに呟くと、開いた左手を男の横、手すりへと向ける。

不意に、手すりの周囲の景色が歪んだ。歪みの中央に吸い込まれるように、手すりが縮み、細く引き伸ばされた次の瞬間、

タケシの手が何かを握り潰すように閉じられると、風船が破裂するような音と共に大気が振動した。歪みが消えると、ごっそ

りと、バスケットボール大に手すりが欠けていた。

驚愕の表情を浮かべるヒョウブに、タケシは淡々とした口調で言った。

「空間ごとの破壊とは、こういう現象を指す。お前の力は、恐らく重力操作の類だろう」

青年は男の指に嵌った、指輪に視線を注ぐ。

「いや、その指輪の力、と言うべきか?」

 ヒョウブは硬い表情で青年を見据えた。唇がわななき、微かに声が震えている。

「空間自体への干渉…だと…?…貴様…、まさか、ベヒーモスなのか?」

聞きなれない言葉に、しかしタケシは反応した。頭の中がざわめき、こめかみがズキズキと痛む。

水槽、白い部屋、寝台、そこから見上げる白い天井。断片的な映像が頭の中を駆け巡り、タケシは頭を押さえる。

「ベヒーモス…?何だ…?聞き覚えは無い言葉なのに…」

タケシの様子がおかしい事に気付くと、ヒョウブは身を翻し、素早く階段を駆け上った。いつもなら逃亡を許しはしないタ

ケシだったが、激しい頭痛のせいで、立っているのもやっとの有様だった。

ヒョウブは玄関ホールを囲む二階の通路に差し掛かると、窓を破って宙へ身を躍らせる。

敵の逃走を確認したタケシは、荒い呼吸を繰り返しながら階段までたどり着くと、手すりにもたれかかった。真っ青な顔を、

夥しい汗が伝い落ちる。

失われた記憶に繋がる言葉、ベヒーモス。しかし、タケシの頭の中のどこかで、「思い出してはいけない」と、警告する声

があった。

「タケシ!」

聞きなれた声がホールに響き、タケシは振り返る。駆け寄ってくる、見慣れた相棒の姿と、それを追い掛けて来る依頼人の

少女の姿が、開けっ放しのドアの向こうに見えた。

頭痛はいつしか治まっていた。タケシは手すりから身を離すと、ヒョウブが出て行った二階の窓を見あげた。

「済まない、首謀者と思われる男を確認したが、取り逃がした。外の奴らを締め上げる必要があるな」

ユウトとアケミは首をかしげる。

「外には、誰も居ないけど?」

タケシはハッとしたように、改めて玄関の外へ視線を向ける。つい先ほど叩き伏せた黒ずくめの姿は、いつの間にか消えていた。

「どうにも、予想以上に手強い相手のようだな…」

青年は珍しく、疲れたようにため息を吐き出した。