第九話 「指環奇談」(中編)

「それが、対になるブレスレットか」

アケミは磁器のような素材で作られた、黒い小さな宝石が埋まるブレスレットを見つめながら、タケシの言葉に頷く。

書斎なのだろう、立派な本棚がずらりと並ぶ部屋で、アケミはブレスレットを手にしていた。家政婦の手によって、この書

斎の風景画の裏に隠されていた物だ。

「引き上げよう。事務所の方が護りに適している。それらを手にしている以上、あの男達との衝突は避けられない」

タケシは淡々と言い、踵を返した。

アケミはその場に立ったまま、しばらく、不思議そうに指輪と腕輪を見つめていた。

「どうかしたの?アケミちゃん」

書斎の入り口から顔を覗かせたユウトに、アケミは我に返る。

「あ、い、いえ。何でもないんです」

アケミは何やら考え込むような顔で、ユウトの脇を抜けていった。大柄な獣人は、彼女の背を見送りながら首を傾げた。



事務所の応接室の中央、タケシとアケミが向かい合って挟んだテーブルに、小箱に収められたブレスレットが置かれている。

指輪と違い、腕輪には何も掘られていなかった。

割れたガラスにはダンボールが当てられ、応急処置が施されていた。

「これは、俺の推測でしか無いが…、恐らく指輪とこのブレスレットは元々ワンセットのレリックだ。そして、全部集めるこ

とで初めて本来の力を取り戻す」

「本来の…力…?」

アケミは小さく呟いた後、自分の左手、薬指に嵌った指輪を、そっと撫でた。

「俺が出会ったヒョウブと名乗る男は、重力を操作して見せた。二つの指輪を所持していたが、おそらくこのレリックは、複

数集まることで出力が増大していくのだろう。足し算で増えていくならともかく、掛け算的に増強されていくとしたら、厄介

なことになる」

アケミは不安そうにブレスレットと指輪を見つめ、部屋に沈黙が落ちた。

しばらくすると、ドアがノックされ、トレイを手にしたユウトが部屋に入ってきた。

「おやつ作ってきたから、一息入れよう」

可愛らしい、薄黄色のエプロンを着用したユウトは、二人の前に切り分けたケーキと紅茶を置き、タケシの隣に腰を降ろした。

見栄えの良い手作りロールケーキに、アケミは感心したように見入った。振舞われた夕食も絶品だったが、ユウトは見かけ

によらず、料理が得意である事を再認識する。

タケシは席を立ち、所長席の引き出しから小瓶を取ってくると、中に入っていた粉末を紅茶に大量に落とし、スプーンで溶

かしこんだ。

粉末ミルクだろうか?それにしても、紅茶に添えてミルクは出されているのに、何故わざわざそれを?机に置かれたビンを

訝しげに見つめるアケミに、ユウトが口を開いた。

「それ、バニラ風味のプロテインだから。入れちゃダメだよ?」

アケミは思わず顔を引き攣らせた。タケシは顔色一つ変えず、プロテインティー(バニラ風味)を啜りながら、目の前に置

かれたケーキを、皿ごとスッとユウトの前にずらす。

「不破さんは、甘いものが苦手なんですか?」

プロテインティー(バニラ風味)という未知の液体を啜るタケシに、アケミが尋ねる。

「苦手という訳では無いが、明美さんも無理をする必要は無い。食べられないようなら、ユウトが処分する」

…処分…?どこか奇妙な返答だった。が、特に気にもせず、アケミはおいしそうなロールケーキをフォークで一口大に切り

分け、口に運んだ。

 その直後、少女はその動きを完全に静止させた。

「ちょっと甘すぎたかな?」

ユウトは紅茶にハチミツをドバドバと加えながら首を傾げた。

(甘…い?というより。え?苦い?甘いを通り越して苦い!あ、痛い!舌の付け根が痛い!?あと耳の後ろが!何故!?)

アケミはしばし固まった後、なんとかその一口を飲み込むと、ギギギッと首を巡らせ、精一杯の笑顔を浮かべた。やや引き

攣っているのはダメージが抜けていないからか。

「ええと、済みません。虫歯が痛んで…」

「凶悪に甘いだろう。というよりもイタニガイ(造語)だろう。ユウトが作る菓子はみんなこういった感じだ」

(…料理は美味しかったのに…)

料理の腕、というより味覚の問題なのだろうか?ロールケーキを幸せそうにパクつくユウトを見ながら、少女は少し怯えた

ような顔をしていた。



休憩を終えると、アケミは思い出したように口を開いた。

「腕輪を取りに戻った時に気付いたのですが、この指輪、ブレスレットや指輪に反応するみたいなんです」

「反応?」

タケシは興味深そうに、指輪とブレスレットを交互に見やった。

「はい、先ほど家に戻ったときも、直接見たわけではありませんが、二つの指輪の存在を感じました」

「感じる、って?どういう事?」

ユウトの問いに、アケミは指輪をさすりながら答える。

「上手く説明できないんですが、家に近付いた時に、二つの反応が近付いているのを感じて、それから一つが遠ざかっていく

感覚がありました。その後、家の中に入ったときに、隠してあったブレスレットの位置が正確に判りました」

タケシと合流した直後、アケミはブレスレットの隠し場所が正確に分かった。

賢明な彼女は、ユウトから聞いたレリックの説明で、それが重要なものである事を理解していた。自宅に連絡した際も、電

話が盗聴されている可能性を考慮し、電話に出た家政婦に自分達の居場所を伝えないのはもちろん、ブレスレットを何処へ隠

すかも話させなかった。家に着いてから改めて連絡を取ろうと思っていたのだが、その必要も無く、亡き父の書斎の絵、その

額縁の裏に巧みに隠されたブレスレットを、彼女は感覚だけで探り当てていたのだ。

「なんと言えばいいのか…、指輪が、引き合うような感覚といえばいいのでしょうか?ごめんなさい、どう言えば上手く伝え

られるか…」

上手く言葉に出来ず、困ったように言いよどむ少女に、タケシが口を開いた。

「セットとなるレリック同士は、互いに引き合う性質がある。おそらく、この指輪とブレスレットの場合は、持ち主の感覚に

訴え、集めさせる仕組みになっているのだろう」

「なんだか…、呪いの指輪みたいですね…」

不安げに言ったアケミに、しかしタケシは首を横に振る。

「その指輪や腕輪自体には善悪は無い。ただ集まろうとしているだけだ。邪悪なものでは無い証拠に、ユウトは何も感じてい

ない。そうだな?」

「うん、悪意は感じない。それ自体は悪いモノじゃないと思う」

ユウトの、獣人ならではの鋭い感覚は、悪意や敵意、負の感情に敏感である。この指輪自体からは、悪い印象は感じられな

かった。

アケミはしばらく黙り込んだ後、意を決したように口を開いた。

「この指輪とブレスレット、その漆野という人に渡してしまいましょう」

ユウトは驚いたようにアケミをみつめ、タケシは眉根を寄せた。

「そうすればこれ以上、私も、お二人も危険な目には…」

「承諾できない」

きっぱりと否定したタケシに、アケミは言葉を詰まらせた。

「レリックである事が判明した以上、あの男に渡す訳にはいかない。それに、外し方も判らない以上、実質不可能だ」

「でも、その漆野っていう男は、知っているかもしれないよね?」

タケシとアケミは同時に、唐突に言ったユウトの顔を見つめた。

「指環を渡す交換条件としてなら、簡単に聞き出せると思う。向こうにしてみれば、わざわざ外したいって言う申し出は、願

っても無いんじゃないかな?指輪を外して渡す。これでアケミちゃんは安全になるし」

「レリックをみすみす渡すのか?」

タケシの問いに、ユウトは事もなく頷いた。

「うん。交換条件としては妥当でしょ?そして…」

ユウトは胸の前で両手を組み合わせ、ぽきぽきと鳴らした。

「渡した後、正々堂々取り返す。事務所の窓と、看板を壊された分のお礼は、キッチリしなきゃいけないしね」

看板を壊したのはお前だ。とは言わず、タケシは頷いた。

「戦闘では多少リスクを負う事になるが、依頼人の安全を確保するという点で言えば、悪くない作戦だ」



タケシとユウトは、ヒョウブと名乗ったあの男にどうやって連絡を取るか、しばらく意見を出し合ったが、翌朝、連絡を取

りたがっていた相手から事務所に直接電話があった。

『…判った。取引に応じよう。ただし、妙な小細工をされてはかなわんからな、場所と時間はこちらで指定する。もちろん、

変な真似をされないよう、今すぐに事務所から出て、一度監視しやすい場所へ移動してもらう。ただし車は使うな。構わないな?』

「承諾した」

タケシはその後二、三、ヒョウブと言葉を交わし、受話器を置いた。

「すぐに移動する。場所は中央公園。そこであちらから取引場所の指定が来るのを待つ」

タケシの言葉に頷き、ユウトは立ち上がった。

「あそこに来るクレープ屋さん、美味しいのが揃ってるんだよね。気が利いた場所を指定してくれるじゃない。ヒョウブって

人、案外良いヤツ?」

「恐らくクレープの事までは考慮せずに指定してきたはずだ。それと、加えて言うなら悪いヤツだ」

ユウトとタケシに緊張の色は全く見られない。その事が、これから襲撃者と対面しなければならないアケミを落ち着かせていた。

「私も、あそこのクレープ大好きですよ」

アケミがそう言ってにっこり笑うと、ユウトはもちろん、タケシまでが微かな笑みを浮かべた。



二時間ほど公園で過ごした後、タケシの携帯に連絡が入った。

指定された取引場所は、歩いて三十分ほどの距離にある、開発途中で作業が中止された埋立地だ。



比較的新しく埋め立てられた場所と、古くに埋め立てられた場所が渾然としている、そんな殺風景な埋立地。所々液状化し、

水溜りの出来ているそこに、そのコンクリート工場はあった。

古びた工場の脇に、2台のワゴン車が停まっている。どうやらヒョウブ達は約束どおりに来ているらしい。

錆び付いた鉄製のドアはすでに老朽化して外れ、まるで玄関マットのように内側へと横たわっている。ポッカリと開いた工

場の入り口を潜ると、中では至る所で屋根が破れ、そこから陽光が漏れ入っていた。アケミは一瞬自分の置かれた状況も忘れ、

見捨てられた機械群を照らすその光に、幻想的な美しさを感じた。

それから三人は地下へ続く階段を降り、ヒョウブとの取引に向かった。



「時間通り…。感心だな」

地下三階のその広い部屋は、ヒョウブ達が持ち込んだのだろう、ハロゲン灯のランタンが置かれ、隅々まで照らされていた。

部屋にはヒョウブの他、黒ずくめが8人。対してこちらはタケシ、ユウト、アケミの三人だった。

「そのお嬢さんが指輪の所持者か。あの屋敷はくまなく探したんだが…、一体どこに隠れていたんだ?」

「初めから屋敷になど居ない。判っているだろう」

タケシが応じると、ヒョウブは訝しげに眉根を寄せた。

「そいつは妙だな。あの屋敷で反応は感じていたんだが…」

「それは、この腕輪だろう」

タケシが目配せすると、アケミは抱き抱えていた小箱を開け、ブレスレットを見せた。その腕輪を見た途端、ヒョウブの顔

色が変った。

「…!女神のブレスレット…!やはりニュクスと共に在ったのか!」

タケシは腕輪をヒョウブの視界から隠すように立ちはだかり、口を開いた。

「事務所を襲撃した際に、明美さんが不在である事は判っていたはずだ。何故屋敷で彼女を探したなどと、嘘を言う?」

「事務所を?何の事だ?まあ、細かいことはどうでもいいか。早速商談に入ろう」

ヒョウブが指をパチンと鳴らすと、三人が降りてきた階段から、新たに三人の黒ずくめが降りてきた。

「結論から言おう。指輪を外したいなら、その指を切り落とすか、死ぬかすれば自然に外れる」

ひょうひょうと言ったヒョウブに、ユウトは喉の奥から唸り声を上げた。

「騙したの!?」

「心外だな?騙してなどいないさ。ちゃんと外し方は教えただろう?さあ、指輪と腕輪、渡してもらおうか」

勝ち誇ったような笑みを浮かべるヒョウブに、タケシは言い放った。

「交渉決裂だな」

「おいおい、取引をもちかけたのはそっちだろう?今更反故にするつもりか?」

「指輪はそうだが、腕輪については取引に加えた覚えは無い。明美さんの指と命に関しても同様だ。明美さんには一切傷を付

けず、指環だけを持ってゆくならば取引を続けるが」

「なるほど、これは困ったなあ。みすみす腕輪を見逃す訳にも行かんし…、やっぱり交渉決裂か」

ヒョウブはニヤリと笑うと、「やれ」と短く号令を下した。

三人めがけ、正面から背後から、一斉に黒ずくめが飛び掛かり、タケシが刀を召喚すべく腕を伸ばす。

その次の瞬間、凄まじい咆哮が地下室を揺さぶった。腹の底に響くその咆哮に、老朽化した壁がパラパラとはがれ落ち、肌

がびりびりと震える。

黒ずくめ達は凍りついたように動きを止め、ヒョウブも声の主を凝視し、動けずにいる。

金色の被毛を逆立て、ユウトは嚇怒に燃える蒼い双眸で、鋭くヒョウブを睨み付けた。

出会って以来、常に穏やかだった獣人が初めて見せる、激しい感情の発露に、アケミは呆然と立ちすくんでいた。

「もう堪忍袋の緒が切れた…!あんた、一体何のつもりだ?アケミちゃんが何をした?何でこんな目に遭わなきゃならない!?」

ユウトは言いながらゆっくりと歩を進める。体毛が怒りで逆立ち、一回り大きく見える体から、息苦しくなる程のプレッシャ

ーが滲み出ていた。その両の拳は、すでに淡く光を宿している。取り囲んでいた黒ずくめ達が、気圧されたように後ずさる。

「まだ指輪が欲しいって言うなら、両手全部の指を粉々に砕いて、二度と指輪なんかつけられなくしてやる!」

「やれるものなら、やってみろ木偶の棒!」

ユウトの迫力に圧倒されかかったヒョウブだったが、自分を奮い立たせると、指輪を嵌めた左腕を真っ直ぐに突き出した。

ユウトの周囲で大気が突如揺らめき、床に亀裂が走る。

「通常の二十倍の重力だ。空間ごと潰れてしまえ!」

勝ち誇ったようなヒョウブの声、しかし、その表情は一瞬後に凍りついた。

「ば、ばかな…!?」

二十倍の重力がかかるその空間の中で、ユウトは立っていた。足を床のコンクリートに沈み込ませながらも、しっかりと二

本の脚で立ち、ひたりとヒョウブを見据えている。

やがて重力の檻が消えると、ユウトはドシンと一歩踏み出した。

「…この程度?この程度の力が欲しくて、アケミちゃんの命を奪うとか、指を切るとか考えたの!?」

吠えるユウトに、ヒョウブは気圧されたように後退した。

「何をしている!そのバケモノを殺せ!」

ヒョウブの号令に、ユウトを取り囲んでいた黒ずくめ達は我に返ると、一斉に飛びかかった。

一閃、金色の豪腕が一振りされると、ユウトに飛び掛った二人が、まとめて吹き飛んだ。

ヒョウブの頭上を越え、凄まじい勢いで壁に叩きつけられ、崩れ落ちた黒ずくめは、もはやピクリとも動かない。

その様子を見て立ちすくんだ一人に、ユウトの左拳が叩き込まれた。巨大なハンマーで殴り飛ばされるに等しいその一撃を

腹に受け、男は布で覆った口から大量に吐血しつつ、真横に吹き飛んで壁に激突した。残る五人と、退路を遮っていた三人は、

ユウトの戦いぶりを見て戦意を喪失していた。

「ユウト、そこまででいい」

怒りが覚めやらず、嚇怒に燃える瞳で周囲を睥睨していたユウトは、その一言で動きを止め、ゆっくりと振り返った。

「ヒョウブにはまだ聞きたいことがある。そのまま殴り殺されたのでは少々困る」

タケシが普段と変らぬ口調でそう言うと、ユウトはヒョウブを鋭く一瞥し、気を静めるように深く息を吐き出して踵を返した。

ユウトが傍に戻ると、タケシはその肩をポンと叩いた。

「あとは任せろ。お前は明美さんを連れ、外で待て」

「ボクも残るよ」

「これからやる事は、一般人の目には少々毒だ。判るな?それに、さっきの重力波で5トン以上の重圧を受けているだろう。

無理はするな」

「あれくらい何でも…、ちょっと待って。何で5トン以上なの?ボクの体重何キロだと思ってるの!?」

「250キロ無かったのか?」

「そこまでは無いから!失礼しちゃうなぁ!」

タケシと言い合うユウトの様子はいつも通りで、アケミは少しほっとした。

正直、怒っているユウトの姿は、手足がガタガタと震える程に怖かったが、自分の為に怒ってくれた事は、少し嬉しく、有

り難かった。

ユウトはアケミを促し、降りてきた階段に歩み寄る。手前に三人の黒ずくめが居たが、

「退いてくれる?」

と、ユウトが一睨みすると、身を竦ませて後ずさった。

階段を昇って、二人が姿を消した後、はっとしたヒョウブが声を上げた。

「な、何をしている!追え!絶対に逃がすな!」

残る黒ずくめ達はその声で我に返ると、タケシを遠巻きに迂回しながら階段へと殺到する。

タケシは黒ずくめには目もくれず、ヒョウブを見据えていた。

「くそっ!あの女を出し抜いてやったというのに、貴様らのような邪魔が入るとは…!」

ヒョウブは吐き捨てるように言うと、タケシは腕を伸ばし、空間の歪みに潜ませておいた刀を手に取り、静かに言った。

「決着を着ける。覚悟は良いな?」



追いすがる黒ずくめを蹴散らし、ユウトは上階を目指して疾走した。

時々振り返って確認すると、アケミは息を切らせながらも懸命に着いてくる。

「もう少しの辛抱だよ。タケシが必ず何とかしてくれるから!」

階段を駆け上がりながら、後ろを走る少女を励ましていたユウトは、行く手を遮る黒ずくめの姿を確認する。

「まだ上にも居たの!?」

速度を緩めぬまま、駆け抜けざまに黒ずくめ達を次々と殴り飛ばして排除しつつ、ユウトはふと違和感を覚えた。

(あれ?こいつら、さっきのとはちょっと違うような…)

考えながらも、殴り蹴飛ばし叩き伏せ、その場を切り抜けたユウトは、一階にたどり着いた時に、遅ればせながら違和感の

正体に気付いた。

同じような黒ずくめだったが、上から現れた一団は、服装が若干異なっていたのだ。



嚆矢となったのは、ヒョウブの放った重力波だった。

タケシは素早く横へ飛び退き、破壊範囲から逃れると同時に、ヒョウブへと肉薄する。

迫る白刃を前に、ヒョウブは勝利を確信したかのような笑みを浮かべた。再び腕が突き出され、第二波がタケシに襲いかかる。

このままでは自分から重力波につっこむ形になる。しかしタケシは速度をゆるめず、応じるように左腕をつきだした。陽炎

のように揺らめく重力の歪みが、中央めがけて一気に収束し、一瞬後に消滅した。タケシは重力波のまっただ中に空間の歪み

を発生させ、重力波はその歪みに引き込まれる形で消滅したのである。

しかし、タケシの狙いは、単純な防御に留まるものでは無かった。一瞬で収束した重力エネルギーの残滓と、抉り取られた

空間が元に戻ろうとする復元力は、消滅点を中心として周囲の物を引き寄せた。タケシとヒョウブも例外ではない。二人は互

いの距離を一瞬で縮められていた。

「ばかな!?」

叫んだヒョウブの眼前で翻る白刃。肩口から斬り飛ばされた腕が、きりきりと宙を舞い、ドサリと床に落ちる。

すれ違いざまに左腕を斬り落としたタケシは、肩を押さえ、長い絶叫を上げるヒョウブに向き直る。そして、ソレに気づい

て動きを止めた。

鋭い双眸が、その場に居なかったはずの、自分達以外の人影を捉えていた。

「お久しぶりね、ヒョウブ」

「か…、烏丸…!」

突如現れた、夏だというのに黒いコートを羽織った女は、唇を三日月のようにして艶然と微笑んだ。

「長い因縁が、こういう形で決着するなんて、皮肉なものね」

女の足下には、切断されたヒョウブの左腕があった。女は腕を一瞥すると、スッと左手を差し伸べた。その指にはまってい

る指輪を目にして、タケシは全てを悟った。

先ほどヒョウブが言っていた言葉、「あの女を出し抜いてやったのに」アケミの事を言っているにしては不自然だと思った

が、あの言葉は、この女…、三人目の所持者を指していたのだ。

切断されたヒョウブの腕、その指にはまっていた指輪が、二つとも滑るように抜け、ふわりと浮き上がる。自分の目の前に

浮き上がった指輪を見つめ、女は艶やかに笑った。

「これで3つ…、残すはニュクスのリングと、腕輪のみ」

新たに現れた女を敵と判断し、稲妻のような速さでタケシが動いた。しかし、女は素早く指輪をはめると、三つの指輪を備

えた左手を前へと突き出した。

これまでと比較にならない程の広範囲で重力が荒れ狂い、タケシは咄嗟に両腕で頭部をガードしたが、そのまま吹き飛ばされる。

重力の余波で、天井からコンクリートが剥がれて降り注いだ。

天井と壁が部分的に崩落し、あたり一面に土砂やコンクリートが落下する。視界を覆う土砂と轟音の中で、タケシは女の高

笑いを聞いたような気がした。



しばらく経って崩落が収まると、瓦礫に埋もれた地下室で、青年はゆっくりと立ち上がった。周囲を見回すが、女は忽然と

姿を消している。

空間歪曲。タケシは自分の周囲を覆うように空間の断裂を生み出し、降り注ぐ土砂を全て遮断したのだった。普段よりも広

い範囲に、継続して空間の制御を行なうというのは、かなりの負担を伴う。さらに、制御をしくじれば自分が空間の断裂に巻

き込まれる可能性すらあるのだ。タケシは乱れた呼吸を整え、額を伝う汗を拭った。

「何故…、私を助けた…?」

足元から聞こえた弱々しい声に、タケシは視線を下へ向ける。

腕を失ったヒョウブが、タケシの足元で仰向けに倒れ、血の気の無い顔で青年を見上げていた。

「どのみち、私は助からないというのに…、無駄な事を…」

ヒョウブの顔に苦笑が浮かんだ。タケシはヒョウブを見下ろし、静かに言う。

「お前には、まだ聞きたい事がある」