Evolution of White disaster (act2)
オレンジ色の陽光が窓から射し込み、町並みも緋に染まった夕刻。
修練でかいた汗をシャワーで洗い落としたアルは、自室に戻ってカーゴパンツに袖無しシャツ一枚というラフな普段着に着
替えた。
平常から緊急呼び出しに備えて待機を心掛けてはいるものの、呼び出されるのは主に、人目に付かないように調停作戦を実
行できる夜間。今しばらくの間はそれなりにのんびり過ごす事ができる。
まだ湿っている頭をタオルでゴシゴシ擦りながら自室を出たアルは、耳をピクっと立て、廊下の途中で足を止めた。
浴室から漏れ、廊下へと微かに漂い出て来るのは、
「…好きなぁ誰ぇかを〜思い〜続ぅけるぅ〜…時代ぃ遅れのぉ〜男〜になりぃたい〜…」
自分と入れ替わりに風呂に入り、機嫌良く一曲唸っている赤銅色の巨熊の歌声。
歌詞は良く覚えていないものの、アルは笑みを浮かべながらユウヒの歌声に鼻歌を合わせ、リビングへ向かう。
数日前、アルが退院して来た日にも同じ曲を口ずさんでおり、その際に何となくゆったりとしたメロディと歌詞が気に入っ
たアルは、ユウヒに何と言う歌なのか尋ねていた。
歌を聴かれていた事が少々照れ臭かったのか、困ったように眉尻を下げたユウヒから曲名を聞いたアルは、そのタイトルが
なんともユウヒに似つかわしい気がして、思わず笑みを浮かべたものである。
寝食を共にするようになって数日経ち、アルにも赤銅色の巨熊の事が何となく判ってきていた。
ユウトと似ている。
正確にはユウトがユウヒに似たのであろうが、アルにはこの兄妹が似ていると感じられる。
温厚で思慮深い所や、ホネを惜しまぬ働き者で、風呂や食べる事が好きな所…、挙げて行けばきりがないが、快活なユウト
と厳格なユウヒは、根っこの所で非常に良く似ていた。
なお、白熊自身は幸いに感じている事だが、ユウヒはアルと入浴の時間をずらし、一緒に入る事はない。
いくら二人が大柄だと言っても、銭湯の物にも匹敵する広い浴場と湯船があるにもかかわらずである。
河祖下村では混浴すら普通と聞いていたので、誘われないのは少々意外ではあったものの、あまり裸を見られたくないアル
にしてみれば、これはありがたい事でもあったのだが…。
リビングに入ったアルは、ソファーの上でテレビを眺めていたマユミを抱き上げると、腰をおろして太い脚の上に乗せ、テ
レビを見遣る。
毎夕この時間帯の番組であるドラマの再放送が流れているが、アルは少しも興味がない。
が、他に見たい番組がある訳でもなく、白猫もじっと画面を見ているので、チャンネルはそのままにしておく。
(なんかこう…、時々妙に人間くさいんスよねぇマユちゃん。…ん?)
太いももの上に乗せた白猫の首の後ろを、人差し指と親指で優しく摘むようにして揉みながらそんな事を考えていたアルは、
「ん?」と声を漏らして少し腰を浮かせると、尻ポケットに入れていた真新しい携帯をいそいそと取り出す。
震動している携帯の小窓には、付き合い始めて半年ほどになる、愛しの恋人の名が表示されていた。
『もしもし、アル?』
「うっス!お疲れ様っスぅ!学校、もう終わったんスか?」
携帯越しに恋人の声を聞いたアルは、ニコニコと明るい声を発した。
『はい、もう出るところです。それで…、急なんですけれど、今から出かけられませんか?』
電話の向こうのガールフレンドは、昨年の夏休みにも何度か一緒に遊んだ学校の友人達が、アルを誘ってカラオケに行こう
と言い出した事を伝える。
「シンジとかタクとかっス?」
『ええ。どうでしょう?忙しいなら断りますけれど…』
「いや、行くっス!時間あるっスから」
緊急招集がかかれば行かなければならないが、それまでは大丈夫だろうと考え、アルは二つ返事でオーケーした。
しばしの通話を終えて携帯をしまうと、テレビを眺めているマユミを抱き上げてソファーの上に静かに下ろし、腰を上げる
白熊。
ユウヒに外出する事を伝えるべくリビングを出ようとしたアルは、ドアを開けたところでふと立ち止まると、首を巡らせて
マユミを振り返った。
「マユちゃんに伝言して行ければ良いんスけど…、いくら賢くてもさすがに無理っスよねぇ」
(残念ながら…。ユウヒさん相手であれば言伝程度おやすいご用ですが、引き受けて私の正体がバレてしまっても問題ですか
らね)
そう心の内で呟くマユミの回答は、しかし笑いながら声をかけたアルには「なぁお」としか聞こえない。
ユウヒは携帯を持っていないため、いちいち直接声をかけるか、伝言メモを置いていく必要がある。
携帯を持ったらどうかと、数日前にアルも勧めてはみたものの、
「実は機械が苦手なものでな…。持ったとして、恐らくはすぐに壊してしまう…」
と、困り顔で頬を掻いていた。
入浴中のユウヒに脱衣場から声をかけたアルは、外出のために着替え、まだ約束の時間にはだいぶ早かったが、待ちきれな
い様子でいそいそと事務所を出て行った。
復旧工事が進むショッピングモールの前、バスのロータリーや駐車場と隣接する公園入り口で、アルは自販機に硬貨を投入
した。
私用の外出なので、羽織った上着はブルーティッシュのジャケットではなく、普通のジージャンである。
温かいミルクティーを購入し、上着のポケットに右手を突っ込んだアルは、傍の街灯に寄り掛かってプルタブを起こした。
何気なく視線を向ければ、ラグナロクの襲撃で多大な損害を被り、商店のみならずストリートの石畳や屋根の一部までが吹
き飛んだとされる、ショッピングモールの無惨な姿。
表向きは東護町を襲った所属不明の過激派によるテロ被害の一部という事になっているが、実はこのモールの損傷、七割方
はとある調停者の手による物である。
自分達のリーダーであるダウド・グラハルトこそが、愛剣ダインスレイヴを苛立ち紛れに一振りしてショッピングモールに
天災の跡の如き爪痕を残した張本人であると、同僚のアンドウから聞かされているアルは、
(…言えないっス…。ウチから復旧援助金が出てる理由…、リーダーがイラッと来てダインスレイヴの出力セーブミスってモ
ールぶっ壊したからだなんて…、皆には絶対言えないっス…)
モールを眺めながら眉根を寄せ、何とも情けない表情でため息をついた。
しばしモールを眺めていたアルは、コツリと、石畳を踏み締める微かな足音を耳にして首を巡らせた。
薄赤い瞳が向いた15メートル程先に、一人の大柄な男が立っていた。
茜から紫へと、その色彩を変えつつある空の下で、黒いコートを纏ったその男は、アルをじっと見つめていた。
裾がふくらはぎの下まで達するロングコートも漆黒ならば、脛の半ばまでを覆うがっちりとしたブーツも漆黒。双眸はサン
グラスで覆い隠されている。
コートは腹から腰にかけて三本のベルトで締められており、胴体にフィットしている。
かなりガッシリとした体付きである事が、コートを着込んだ上からでもはっきりと見て取れた。
身の丈2メートルにも迫ろうかというその男は、赤い被毛を微かな風になぶらせながら、身じろぎ一つせずに立ち尽くして
いた。
自分を見つめている深紅の虎に視線を向けたまま、アルは小さく首を傾げる。
(あれ?何スかね?どっかで会った事あるっス?こんな特徴的なひとなら忘れそうにないっスけど…)
赤い虎は自分をじっと見つめており。おまけに、何故か初めて会った気がしない。しばし悩んだ末、アルは口を開いた。
「あの…、どうかしたっスか?オレの顔に何かついてるっス?それとも、前にどっかで会ったっスかね…?」
赤虎はしばし黙り込んでいたが、首を小さく左右に振った。
「…いや、失礼…。古い知り合いに良く似ていたものでね」
赤虎はサングラスを外すと、金色の双眸にアルの顔を映し、微かな笑みを浮かべる。
厳めしい虎の顔でありながらも、その笑みは理知的で、穏やかで、何とも優しげであった。
自分が良く知る男と似た、その金色の瞳を見返しながら、アルはつられて笑みを返す。
「君は、この辺りに住んでいるのかね?」
「いや、首都住まいっス。こっちにはちょっとの間居るだけなんスよ」
アルはそう応じると、モールへと視線を戻す。
「…まぁ、色々訳ありで…」
「そうかね」
うっかり答えてしまったものの、「休み時期でもないのに、何故こんなにも離れた街に?学校は?」などと事情を聞かれた
ら何と説明しようかと考え込むアルの心配をよそに、赤虎はそれ以上深くは尋ねなかった。
「…それにしても、酷い壊れ具合だ…」
モールに視線を向けて呟いた赤虎に、アルは「そ、そうっスね…」と、気まずそうに頷く。
(済んません…。アレやったのウチのリーダーっス…)
などと、心の中で手を合わせながら。
「…え、えっと…。この辺のひとなんスか?」
「いや、人捜しに来ただけなのだよ。昨年末から連絡が取れなくなっているのでね」
話題の変更を図ったアルに、赤虎はかぶりをふって応じる。
(あぁ…、あんな騒ぎがあったばっかっスからね…。一般人から犠牲者はほとんど出てないって話だったっスけど、住むトコ
無くして仮設住宅に移ってるひとも多いし…)
アルは哀しげに目を伏せ、僅かに俯いた。
警察、調停者側からは多数の犠牲者が出ている。この虎が探している人物もまた、その中の一人なのかもしれないと。
赤虎はしばしモールを眺めた後、アルに視線を戻す。
「首都住まいでは、獣人では何かと不便だろう?」
「ん?ん〜…、たぶんそうなんスよね…」
男が何を「不便」と言っているのかは、アルにはすぐに判った。
首都では獣人差別が根強い。いささか暮らし辛いであろうと、赤虎は尋ねているのである。
「でも、オレ物心ついた頃にはもう首都で暮らしてたんで、頭のどっかに「そういうのが当たり前」ってのがあったっス。そ
れに、最近じゃあんまり気にならなくなって来てるんスよね」
アルの返答に「ふむ…」と顎を引いて頷くと、赤い虎は自分の顔が映っている白熊の薄赤い瞳を、じっと覗き込んだ。
「訊くが…、君は今の世界に満足しているかね?」
唐突な話題の転換で言葉に詰まり、アルは戸惑いながら首を傾げる。
「えっと…、世界…っス…?」
「この世の中に、社会に、価値観にだ」
「…う〜ん…。良く…判んないっス…」
赤虎の言葉に、アルは少し考え込んだ後、首を左右に振った。
「価値観とか、社会とかっスか…。獣人差別とか、格差とか…、不満はまぁ、あるっスかね?でもオレ、頭悪いし、ガキだか
ら…、世の中の仕組みとか、判んなくて理解できない事ばっかっス…」
自らも被差別対象として首都の学校で過ごすアルは、身近な所について考えながら、言葉を選んで答える。
そんなアルのたどたどしい言葉に耳を傾けながら、赤虎は小さく頷いた。
「でも、変わるんじゃないかなぁって思うんスよ。…いや、きっと変わる。変えられるんス。自分で変えていけるもんだって、
何となくだけど思うんス」
自覚がないまま人間との間に線引きしてきた自分に、夏の一件で起こった変化。それについて考えながら、アルは苦笑いした。
変わる。きっかけさえあれば、誰でもきっと変われる。そう確信しながら。
赤虎はしばし黙した後、口の端を僅かに吊り上げて微笑した。
「…まだ若いというのに、立派な物だ」
「いやぁ、オレの周りの狭い範囲での話っスから…、世界とか言ったら訳分かんなくなるっス」
苦笑いを深くして頭を掻きながら応じるアルの前で、赤虎は笑みを消し、真面目な顔になる。
「…私はそろそろ行かねばならん。最後に一つだけ…」
表情を改めた赤虎の顔を見ながら、アルは小首を傾げた。
「君は、世界に変革をもたらしてみようとは思わんかね?」
「ふへ?」
目をまんまるにし、すっとんきょうな声を上げたアルに、赤虎はニッと笑みを投げかける。
「考えてみてくれたまえ。己の手で、力で、世界を変えようと思うか否か…」
踵を返し、アルに背を向けると、赤虎は肩越しに振り返った。
「今後、また何処かで会えたなら、その時に答えを聞く事にしよう。では、失礼…」
「あ、ちょ、ちょっと!」
アルは歩き去ろうとする赤虎の背に慌てて声をかけ、呼び止めた。本人もその理由は判らなかったが、何故か奇妙な親近感
を覚えて。
「あの…、オレ、アルって言うっス。貴方は?」
「…名乗る程の者ではないよ。…ただの、世界に抗い足掻く者の一人だ」
半面だけ振り返り、そう応じた赤虎は、肩越しに軽く手を上げると、それっきり振り返らずに歩き去った。
角を曲がって姿を消すまで、赤虎の背を見送っていたアルは、
(難しい話してたっスけど…、政治家とか、物書きとか、学校の先生とか、そういうひとなんスかね…?)
そんな事を胸の内で呟きながら、あの虎に感じた親近感は何なのかと考えた。
アルと別れ、石畳を踏み締めて歩を進めて来た赤虎は、二分ほど歩いた後に足を止めた。
行く手の電話ボックスの脇に立つ、若い女性の姿を目にして。
「…ダメね。やはりベヒーモスも、フェンリルも、気配が無いわ…」
背まで流れる美しい黒髪を微風にくすぐらせ、若い女性は愁いを帯びた顔を僅かに伏せ、小さく呟いた。
「先に告げた通り、ラタトスクの報告ではバベルに侵入した後に脱した者は居ない。当然だろうな」
赤い虎はそう応じると、女性の美しい横顔をじっと見つめる。
「お前の諦めがつき次第帰還する。猶予は今日一日しかやれんが、満足するまで探せば良い」
突き放すようでもあり、同時に労っているようにも聞こえる赤虎の言葉に、女性は首を左右に振る。
「…いえ、もういいわ…。帰ってこられる状況ならば、連絡があるはずだもの…」
(…あるいは、帰って来る気があれば…)
心の内で付け加えると、レヴィアタンは自分に忠誠を誓っていた銀狼の顔を思い浮かべる。
ラグナロク内でも屈指の実力を誇る一騎当千の強者は、今は彼女の願いを聞き入れ、ある娘の守護を担っている。
彼が共にあるならば、彼女もまた無事で居る可能性が高いと、レヴィアタンは希望を抱く。
そして何より、彼女達と刃を交えた相手は、肉親のように共に育ったかつての仲間。むざむざ死なせるとは考えにくかった。
きっと生きている。それでも帰って来ない理由には心当たりがあった。
かつて自分が懸念していたとおり、彼女は真実を知ったのではないだろうか?レヴィアタンはそう考える。
自分の正体を、そしてバベルが何であるかという事を知り、ラグナロクから離れたのではないかと。
(…シロウ…。願わくば、貴方とシノブが無事でありますように…)
声と表情には出さず、心の内で祈った後、レヴィアタンはラグナロクのトップに視線を向けた。
「そろそろ戻りましょう。スルト」
顎を引いて頷く赤虎に向けられたレヴィアタンの瞳に、訝しむような光が灯る。
「…どうかした?」
「何がだ?」
問い返すスルトは、己の口元に浮かぶ微かな笑みに気付いていない。
「何かあったのかしら?貴方がそんな顔をするなど、珍しいわね…」
レヴィアタンの指摘で気付いたスルトは、顎に手を当て、それから小さくかぶりを振る。
「…つい先程、古き友に良く似た若者に会った。ノスタルジーに浸るなど、私らしくもないな…」
微苦笑を浮かべて呟いたスルトの顔に、レヴィアタンは無言のまま、思慮深げな視線を注いでいた。
「評判のシュークリームって話っスけど、どうっスか?」
シュークリームをまくまく食べながら、ユウヒは白熊の問いに無言で頷いた。
言葉は返って来なかったものの、巨熊のやや弛緩しているその表情から大いに気に入ったらしい事を察して、アルは笑みを
浮かべる。
カラオケ帰りのアルが土産に買って来たのは、夕食をともにした後、恋人に誘われて一緒に入ったケーキ屋で購入したシュ
ークリームである。
「アケミのお勧めだったんスけど、良かったっス!こういった洋菓子も嫌いじゃないんスね?」
二つめのシュークリームを頬張りながら、目を細めてうんうんと頷くユウヒの様子に、アルは思わず微苦笑した。
「そんな慌てて食わなくても、いっぱいあるっスから」
アケミから「ユウヒさん、甘い物がお好きなんですよ?」と聞かされ、それならばと八個入りの箱を二つ、計十六個買って
来ている。
シュークリームに夢中になっているユウヒの様子を眺めながら、どうやら明日のおやつにまでは回りそうにないと、アルは
まんざらでもない気分になった。
(こんな喜んでくれるとは思わなかったっスけど…、帰っちゃう前にいっこ喜ばせられて良かったっスぅ!世話になりっ放し
で、何もお返しできてなかったっスからねぇ…。「背中流しまっス!」って訳にも行かないっスから…)
アルは、できれば入浴を共にする事は避けたい。もちろん、コンプレックスとなっている「とある部位」を見られたくない
からである。
「ちょっと意外っス。洋菓子とかは好きじゃなさそうって思ってたんスけど…」
「和菓子ならば河祖下でも不自由せぬのだが、洋菓子類はなかなか、な…」
口の周りに少しカスタードと生クリームをつけながら、ユウヒは口の端を微かに上げる。
自分もシュークリームにかぶりつきながら、アルはふむふむと頷いた。
マユミはと言えば、床にあぐらをかくユウヒの脇で、小皿に置かれたシュークリームを、口周りを汚さぬよう慎重かつ丁寧
に食べている。
(やはり年頃の女性には、芋ヨウカンや餡蜜などより、洋菓子の方が好みであろうからな…)
チラリと視線を向け、まんざらでも無さそうな白猫の様子を見て取ると、ユウヒは相好を崩す。
シュークリームを齧りながら壁時計を見上げた白熊は、もうじき午後九時になる事を確認すると、夜に菓子を食べるなと常
に口煩く言っていた、保護者の顔を思い出す。
(…もうじき帰らなくちゃいけないっスね…。今頃はあっちも大変なはずっス…)
ユウヒが帰った後には、アルも東護を去る事になる。
帰らなければいけないのは重々承知しているが、名残惜しい気持ちはかなり強い。
タケシやダウドとはまた違う、寛容で頼り甲斐のあるユウヒ。
自分と似たカラーリングの、賢く可愛らしいマユミ。
やっと打ち解け、親しくなり始めた地元の調停者達。
余所者の自分と仲良くしてくれる友人達。
そして何より、最愛の恋人、アケミ…。
皆とこの東護で過ごす時間は、何と有意義で何と楽しかった事か、アルは思い出しながら少し寂しくなる。
先の事件でメンバーに少なくない犠牲者を出したブルーティッシュが大変な事は、あちらから何も言って来なくとも、アル
には良く判っている。
少しでも多くの人手が必要な今、本来ならすぐにも自分を呼び戻したいはずだと判っている。
居なくなってしまった仲間達の事を想い、大変な事になっている本部の事を考え、しばし耳を伏せて少し俯いていたアルは、
「あ」
小さく声を漏らし、急に表情を改めた。尻のポケットに入れていた携帯が、震動するのを感じて。
「アルっス!どうしたっスかナガセさん!?」
携帯を手にして調停者の顔つきになったアルの前で腰を浮かせると、ユウヒは明かりをつけに玄関に向かった。
十数秒の短い通話を終えたアルは、リビングを飛び出して与えられている部屋に駆け込むと、手早く仕事用の衣類に着替える。
濃紺のティーシャツに袖を通し、迷彩カーゴパンツを穿き、ブルーティッシュの制服でもある防弾防刃ジャケットを羽織る。
部屋から飛び出し階下に向かおうとしたアルは、廊下に立ったユウヒに阻まれる形で足を止めた。
「忘れ物は無いかな?」
そう言って差し出された、得物が収まった長い包みを受け取り、アルはコクリと頷いた。
昨夜は持って行かなかったものの、今夜はユウヒが取ってきてくれた事もあり、銃器も携行して行く事にする。
それは、取り回しを重視して銃身が切り詰められた、ダブルバレルのショットガン。
先の戦いを最後に、長い長い休暇を取る事になった、ブルーティッシュの参謀から譲り受けていた銃を、扱いやすいように
カスタムした一丁であった。
自分を厳しく指導したその参謀の遺品の一つ、黒いプラスチック製のホルスターに収納された銃器を、アルは腰の後ろに装
着する。
(ヤマガタさんが見てるんスから、今度こそ無様な失敗はできないっス…!)
フン!と荒々しい鼻息を漏らしたアルは、足早に玄関へ向かう。
その後ろについていったユウヒとマユミは、上がり口に腰掛けてブーツを履きにかかるアルの背を眺めた後、無言で顔を見
合わせた。
「アル君」
「うス?って、わひゃっ!?」
後ろで前屈みになったユウヒは、アルの両肩に手を置き、肩甲骨の間を太い指でぎゅぅっと押した。
堪らず声を上げて仰け反ったアルの肩を揉み解し、親指で肩甲骨の間の背骨をググッと、ゆっくり押し込みながら、ユウヒ
は口を開く。
「気合を入れるのは結構だが、肩に無用な力が入ったままでは本来の力は出せぬ。篝火は熱くも静かに燃やす物。滾る想いは
腹に収め、気を張り、しかし気負わずに往きなさい」
飲み込みの早さと、身に付けた技術を様々な状況で活かす応用力、そして努力を惜しまない性質こそがアルの持ち味。
ダウドはアルが幼い頃から、その事を見抜いてトレーニングを施して来た。
そのおかげで、アルは多種多様な武器を扱う技術と、様々な状況に対応する柔軟性を併せ持つに至った。
聞くまでもなく、今ではその事を悟っているユウヒは、力が篭って硬くなっているアルの肩をほぐしてやりながら、平常心
を保つようアドバイスする。
「様々な状況に柔軟に対応できる事こそが君の持ち味。ゆめゆめ忘れぬようにな」
肩を揉まれながら首を逸らし、真上から自分を覗き込むユウヒの顔を見たアルは、少し照れ臭そうにはにかんだ笑みを浮か
べた。
「う、うっス…!頑張ってみるっス!」
床にきちっとお座りし、二人の様子を眺めていたマユミは、立てた尻尾を優雅にくねらせながら、「にゃぅ〜」と、励まし
の声をかけた。
事務所前まで自家用車でアルを迎えに来たトウヤに、ユウヒは約束を守って貰っている事について礼を言いつつ、こっそり
と尋ねた。
「…時に、アル君はどうであろうか?」
片方の眉を上げて口元に笑みを浮かべたトウヤは、先にバンの後部座席に乗り込み装備のチェックを始めている白熊を、窓
越しに見遣る。
「さすが…、と言うべきでしょうね。あの若さでブルーティッシュの前衛を任せられるだけの事はある。末恐ろしい若者ですよ」
二人を乗せて走り出したバンを、片手を上げて見送ったユウヒは、顎に手を当てて小さく頷く。
「後は経験次第か…。もっとも、調停者である以上、自ずと積む事になろうが…」
呟いたユウヒは、口元に微かな笑みを浮かべ、目を細くした。
「…悪い虫が騒ぎよる…」
足下のマユミから問うような視線を向けられると、ユウヒは困っているようにも、楽しげにも見える、微妙な苦笑を浮かべた。
「武を競う理由も無しに、後々の彼と立ち合うてみたいと血が騒ぐ…。まっこと困ったものだ、神代の血の業の深さには…」
(アルの潜在能力はそれほどの物だとおっしゃるのですか?ユウヒさんが競いたいと思うほどに?)
「ダウド殿と初めて会うた時の事を思い出す…。その立ち振る舞いを目にしただけで、今のように胸躍った物だ…」
猫の鳴き声にしか聞こえないマユミの問い掛けに、ユウヒは苦笑を浮かべたまま応じた。
「何も、彼に期待を寄せておるのはダウド殿やネネ嬢だけではない。彼の一年後、二年後が、今から実に楽しみでならぬよ」
踵を返し、事務所の階段を登ったユウヒは、玄関に入った所でマユミを振り返った。
「予定通り、明後日の昼には発つ事になる。急くようで済まぬが、そろそろ答えを聞かせて貰いたい」
マユミはユウヒの顔を見上げ、立てた尻尾をゆっくりと左右にくねらせた。
「河祖下へ来るつもりは無いかね?」
マユミは、前もってユウヒにそう問われていた。
「屋敷の者であれば心配要らぬ。マユミさんの秘密は口外せぬし、客分として扱い、不自由もかけぬ。どうだろう?」
マユミはしばし沈黙した後、首を左右に振った。
(お気遣い痛み入ります…。ですが、私はこの街に留まります。この街には祖父が眠っておりますので…)
心引かれる誘いではあったが、マユミはユウヒの誘いを丁重に断った。
祖父が眠るこの街を、この状況のまま放って行く事などできない。力及ばずとも見守って行きたい。そう思うが故の決断で
あった。
だが、心の奥に密やかに仕舞い込んだ想いもある。
(これ以上この方の傍に居たなら…、私は…)
報われる事など無いと判っている想い。
祖父が殺され、タケシが居なくなった後、本当のマユミを知るただ一人だけの理解者。
厳格ながらも優しく、強くも穏やかなユウヒに惹かれてゆく心を、マユミは努力して押さえ込んでいる。
「そうか…。ならば無理強いはすまい。が、困った事があればいつでも連絡を寄越して欲しい。俺などで良ければ力になろう」
(有り難う御座います…)
無理強いせず、自分の意志を尊重してくれたユウヒに頭を下げたマユミは、少し寂しげに目を伏せた。
トウヤに伴われ、深夜の路地裏を歩みながら、アルは小声で問い掛けた。
「…昨日の男、もう見つかったんスか?」
「ああ。不用心な事に、街中の防犯カメラに昨夜の格好のまま映り込んでいたそうだ。おかげで少し聞き込みしただけで潜伏
先の目星がつけられたという訳さ。…もっとも、映像を拾い出せた事自体、タネジマ監査官の情報処理能力のおかげだがね」
低く抑えた声で応じたトウヤは、眼を細めて行く手に見える袋小路を眺めた。
「あそこから降りる」
「うぇ!?」
トウヤが指さした先にはマンホールの蓋。アルは思わず声を上げた。
「どうかしたのかい?」
「いやぁ、そのぉ…。お、オレ…、通れるっスかね?詰まったりしたら困るなぁって…」
トウヤはピタリと足を止めると、傍らのアルを頭の天辺からつま先まで眺め、それからまじまじと胴回りを見つめる。
少しばかり恥ずかしげに身じろぎしたアルの前で、しばし考え込むように顎に手を当てていたトウヤは、
「…悪い…、配慮するべきだった…。別のルートで行こう…」
やがて諦めたようにかぶりを振り、そう提案した。
「済まなかった…。…まいったな、別働隊にも少し遅れると一言断っておこう…」
「…い、いや、オレの方こそ、デブってて済んませんっス…」
眉を八の字にして情けない表情になったアルは、大きな体を縮めて申し訳なさそうに謝った。
結局少し遠回りになったが、二人は最寄りの工業用排水路から、鉄柵の扉を無理矢理開けて地下道内に侵入した。
作業用の薄いオレンジの灯りを頼りに、奥へ奥へと進んで行きながら、
「ここ、どんなトコなんスか?普通の下水道とも違うっスよね?」
アルは周囲を見回しつつ、反響を気にして低く抑えた声でトウヤに尋ねる。
二人が歩む半円形のトンネルは、幅は10メートル、高さは5メートル程あり、中央部には深さ1メートル50センチ、幅
6メートル程の溝が通っている。
溝の底にはほんの十数センチばかり濁った水が溜まっており、ゆっくりと流れていた。
二人が歩んでいるのは、そんな溝の両側にある幅2メートル程の通路である。
「記録によれば、以前この町に存在していた組織の一つが、遺棄された旧下水道を私的に改良して利用していた地下運搬道ら
しい。もっとも、八年以上も前に組織は解体されていたんだが…」
トウヤは一度言葉を切ると、苦々しげな顔で呟いた。
「…昨年末の侵攻の際、ラグナロクはこういった場所に休眠状態にした危険生物を潜ませておいて使用した…。年末年始にか
けてブルーティッシュの協力を得ながら掃討して回ったが、もう残っていないとは言い切れない…」
並んで歩を進めながら、アルは先の戦闘が残した傷痕の事を、今一度深く考えた。
先の大戦で被害を受けた首都が表向きは復興しながらも、その実裏では長々と混乱が続いたように、これから先、東護の傷
が癒えるのにはどれほどの時がかかるのだろうと…。
友人達が、そして恋人が住まう街である。アルは先の事を想って胸を痛めた。
「…ナガセだ。どうかしたかな?」
傍らで歩みを止めたトウヤが携帯を取り上げて口を開くと、アルは我に返って足を止める。
「…え?何だって?どうした?」
ナガセが訝しげに問い返すすぐ傍で、アルは耳をピクッと動かしながら眉根を寄せる。
携帯から漏れ出る切羽詰まった声が、白熊の耳にも届いていた。
「判った!こっちも急いで向かう!何とか踏ん張ってくれ!」
携帯をポケットに収めるよりも早く駆けだしたトウヤに従いながら、アルは表情を引き締めて口を開く。
「何か出たっス?」
「アントだ。それも十体ほど…!交戦を開始したらしいが、運悪く三名だけのチームが出くわした!他の組も急行しているが、
こちらも最短ルートで向かう!」
「らじゃーっス!」
二人はもはや隠密行動を止め、一刻も早く仲間の元へ参じるべく、全速力で地下を駆け始めた。
地下通路が十字に交わるそのポイントで、アリ型のインセクトフォームと交戦していた調停者達は、
「でりゃあーっ!」
気合いの声と共に鉄柵を壊して現れた白熊の姿を目にし、口をポカンと開けた。
混戦状態となったその十字路で、ギンッという音が響いたかと思えば、壁に設置された鉄格子の上端と下端を槍の二振りで
断ち切って蹴り壊し、最短ルートで駆け付けたアルが飛び出して来たのである。
飛び出したその勢いで手近なアリに突きかかったアルは、槍の穂先でその黒い胸甲を貫き、串刺しにする。
刺した槍を引き抜きもせず、両手でしっかりと柄を掴んだ白熊は、横合いから飛びかかろうとした二体目のアリめがけ、槍
で串刺しにしたアリを叩き付けた。
ぶつかった拍子に一体目が槍から抜け、二体目ともつれあって壁まで吹き飛ぶ。
「首ちょんぱぁっ!」
吹き飛ばしたアリには目もくれず、右手で柄尻を掴んだ槍を振り向き様に大きく横薙ぎにしたアルは、三体目のアリの頭部
を胴体から斬り飛ばす。
乱入してからものの数秒で三体を屠ったアルは、自身の一連の動きをしっかりと確認し、手応えを感じて力強く頷いた。
(リミッター切った瞬間からしっかり注意しとけば、ビックリしないっス。ユウヒさんに言われた通り、あとは慣れっスね)
当面は制御に問題が無いと判断し、ほっとするアル。
その後に続いて飛び出したトウヤは、目を向ける事もせずにライフルを壁に向け、アルに吹き飛ばされた二体目のアリを銃
撃する。
複眼の間を撃ち抜かれて絶命したアリに一度だけ目をやると、アルは五人の調停者と切り結んでいる残り八体の状況を把握
した。
トウヤが二体に襲われている中年の調停者の方へ視線を移すと、アルは他の調停者の援護に向かうべく首を巡らせた。
調停者達に向かっていた内の二体が自分に注意を向けた事を確認すると、アルは腰の後ろに左手を伸ばし、ショットガンを
引き抜く。
ギギィッと鳴いて素早く跳びかかって来た一体目に対し、アルは踏み込みながら銃を向けた。
アリをギリギリまで引き付けた後に、斜め上に向いたダブルバレルが火を噴いた。
二発同時に尻を打たれた12ゲージシェルが散弾を吐き出し、アリの頭部を粉々に破砕する。
頭部を失い、飛びかかる勢いそのままに宙をゆくアリの体の下を、股割りするように足を大きく開いて滑り、槍を天秤棒の
ように担ぐ姿勢で潜ったアルは、続く二体目の前で身を捻って背を向けた。
振り下ろされた爪を、担いだ槍で後ろ向きに受け止めると同時に、アルは身を捻った勢いそのままにショットガンを横手へ
投擲する。
銃身を切り詰められながらもなお十分な重量を誇るショットガンは、ビュンビュン回転しながら宙を飛び、尻餅をついた調
停者に覆い被さるようにして襲いかかっていたアリの後頭部を直撃し、体勢を崩させた。
仲間を援護する余裕すら見せつつ槍を跳ね上げ、受け止めていたアリの腕を弾くと、白熊は後ろ向きに床を蹴り、その広い
背中でアリに体当たりを食らわせた。
アルの重量を至近距離から爆ぜるような勢いで叩き付けられたアリは、堪える事も叶わずに吹き飛ばされる。
数多くの武器の使い方をダウドによって叩き込まれ、基礎を作ってきたアルは、ここ数日のユウヒからの手ほどきによって
身に付けた格闘技術を、早くも自分の戦闘スタイルに取り入れ始めている。
吹き飛んでゆくアリが宙で晒す、無防備な一瞬を突いて、白熊は振り返りながら留めとばかりに手槍を投擲した。
空を切り裂き飛翔したブリューナクが、吹き飛ばされたアリを宙で串刺しにし、コンクリートの壁に縫い止める。
素手になった白熊は、しかしそこで動きを止める事はなかった。
手槍を投擲した直後にベルトのバックルを掴んでバチンと外し、素早く引き抜いて宙に踊らせると、先にショットガンを投
げつけた、こちらに向き直っているアリめがけて再び投擲する。
飛びかかろうとしていたアリは咄嗟に腕を上げ、回転しながら飛んでくる革のベルトをガードした。が、その行動はアルが
狙った通りのものであった。
アルの太い腰回りに巻かれる、かなり余裕を持って選んである、頑丈で太く長いベルトは、上げた腕ごとアリの首に巻き付
き、二本の腕を封じる。
ただからまっただけのベルトは、残る二本の腕で余裕を持って外せる程度の緩い巻き付きではあったものの、それを外す一
瞬の動作は、この状況では致命的な停滞となった。
アリが巻き付いたベルトに手をかけた瞬間、真後ろからその頭頂部へ、分厚く重い鉈が振り下ろされた。
ガツッと音を立ててアリの外骨格を断ち割り、頭に食い込んだ鉈は、ブィィイイインと震動音を発していたが、引き抜かれ
ると同時に音を止める。
崩れ落ちたアリのすぐ後ろで、鈍色に輝く鉈を手に身構え、肩で息をしながら目を大きく見開いているのは、きつね色の被
毛に覆われた若い獣人。
(狐?狐…っスよね?たぶん…)
アルが自問するのも無理のない事で、その狐獣人の若者はこの種にしては珍しくコロコロと太っており、背が低いせいもあっ
て、かなりずんぐりと丸っこい印象を受けた。
(かなり若いっス。たぶん、オレと同じぐらいっスかね?)
アルはそんな事を考えながら周囲を見回し、全てのアリが無力化され、戦闘が終わった事を確認する。
アルが片付けた以外のアリ、その半数は、トウヤの正確な射撃でことごとく急所を撃ち抜かれ、絶命している。
(すげ…、無駄撃ちが一発も無いっス…。ヤマガタさんと良い勝負っスねぇ…)
しばし肩で息をしながら、仕留めたばかりのアリの死骸を見下ろして身構えていた狐は、もう動かないと悟ると、ほっと息
を吐き出してアルに視線を向けた。
「あ、あの…、有り難う…」
足下に落ちていたショットガンを拾い上げた狐は、「どういたしましてっス!」と笑顔で応じたアルから、そっと視線を外
した。
頼まれもしないのに加勢した事で機嫌を損ねてしまっただろうか?そんな事を考えているアルから視線を外したまま、狐は
屈み込んで、アリの死骸に巻き付いているベルトを震える手で外す。
「…あ、あの…。その…。ズボン…、下がってるよ…?」
俯いたままボソボソと言った狐の言葉で、
「ぎゃースっ!?」
ズボンが膝上までずり落ちていた事に気付いたアルは、悲鳴を上げながら慌てて股間を隠した。
白熊が穿いている赤地に白いハートが散りばめられた派手なトランクスを目にして、戦闘を終えたばかりの調停者達の口か
ら明るい笑い声が漏れた。