ファルシャーネーベル(act5)
それは、何百年も前のお話。
三百年か、四百年か、伝え聞いて来た住民達も、今となっては正確な時期はよく判らないお話。
だが、物語の背景から、それが騎士と剣と教会の時代だった事だけは窺えるが、具体的にいつ、そもそも本当に起きたのか
どうかも判らない、そんなお話…。
山に囲まれたその町は、領主の圧政に苦しむ、農耕の町だった。
そもそもが、採れ高を上げて皆の生活を豊かにしようと考えた二代前の領主が、痩せた土地にクワを入れて開墾させたとい
うのが町の興りだった。
だが、計画自体に無理があったのか、厳しい冬に、飢えと寒さで幾人も命を落とし、生まれた子は多くが一歳にならず逝っ
てしまう…、そんな町に、いつしかなってしまった。
今更だが、誰もが開墾計画自体が失敗だったと悟った、入植から69年目の冬…、事件は起こった。
領主の館から、蔵から、様々な物品が無くなり始めたのである。
同時に、町の住民達の元には、皮袋に入った貨幣が、深夜の内に誰とも判らない者から届けられるという事件が発生してい
た。
施しを喜ぶ住民。
盗人に怒る領主。
しばらく経って、領主の館から失われた数々の品が、離れた場所の市場で見つかった。
商人を捕らえ、仕入れ場所を問いただす領主。
自分は盗品だと知らなかったのだと訴える商人が、仕入れ元の商人の名を挙げ、その商人が捕らえられ、また別の仕入れ元
が挙がり…。
結局、辿って辿って行き付いた先で浮上したのは、白い髭をたっぷり蓄えた、身なりの良い老人が売りに来たという話。
身元不明のその老人が、品物を換金していた。
その事から領主は町の住民を疑った。老人が換金した貨幣が住民に分配されているのだと判断して、住民の中にこの老人が
居ると考えたのである。
だが、貧しい農民たちの中から、身なりの良い白髭の老人という乏しい特徴を元に犯人を特定する事はできなかった。
髭は付け髭なり何なりで誤魔化せる。その時にだけ変装して、良い服を着ているとなれば、特徴は「老人」という一点だけ
である。
さらには、元は領主の金であるとして、届けられた金は手を付けずにそのまま届け出るようにお触れが出たが、これに従う
住民はおらず、皆が施しを隠した。
判明した分だけは強制的に取り戻し、隠した者には罰を与えると宣告したが、それでも素直に従う住民は僅かで…。
そして、打つ手がことごとく空振り、容疑者を特定できないまま、月日ばかりが経った。
住民達は施しのおかげで、誰も命を落とさずに寒い冬を乗り越えた。
生まれた子も死なず、皆が元気に育った。
盗人に、町の民は感謝と親しみを抱いた。
英雄視されるようになった賊の盗みは、一年経っても繰り返され、一向に捕まる気配もない。
いくら警備を増やしても、侵入した形跡や時間すら特定できない有様だった。
そうして業を煮やした領主は、ある案を思い付き、実行に移した。
町からひとりずつ順番に老人を牢屋に入れ、二十日待ち、その間に盗みがあれば犯人ではないとして解放する…。
それで真犯人が特定できれば良し。
真犯人が疑惑の目を逃れるために盗みを休めば、捕えられている老人が犯人とされ、罪人として処刑されるが、そうやって
一度欺いても、同じ事が起こればまた同じ対処をするだけ。
勿論、そうして誤って処刑してしまった分は、盗人が濡れ衣を着せたせいだと責任転嫁する…。
何人誤って処刑しようと、犯行を繰り返す限りは真犯人に行きつく。そしていざ危うくなれば、真犯人は犯行を止めざるを
得ない。
そもそも領主は、このお触れを出した時点で確信していた。誰だって死にたくはない。だからひとり目の老人が牢屋に入っ
た時点で、真犯人は濡れ衣を着せる格好で盗みを止め、事件は終わるだろうと。
つまり、最初のひとりが見せしめとして処刑され、事態は沈静化する…、そんな流れになると思っていた。
だが、目論見は外れた。
ひとり目の老人が収監され、それまでと同様に品物が消え、疑いが晴れて解放される…。
次いで別の老人が収監され、それまでと同じく品物が消え、疑いが晴れて解放される…。
三人目の老人が収監され、また全く同じように品物が消え、疑いが晴れて解放される…。
盗みは止まらなかった。犯人は捕まらなかった。特定もできなかった。
そうして何度も盗みが繰り返され、何人も老人が捕らえられては解放され、領主は次第に焦りを募らせた。
そして、容疑者となる老人は最後のひとりとなった。
この老人が犯人だとして、領主は処刑を断行しようとしたが、これには住民達のみならず、従者や伴侶からも反対意見が挙
がった。
犯人は、そもそも町の者ではないのではないか?と…。
ここで老人を犯人と断定して即刻処刑し、もしも盗みが続いた場合は、知恵の回らない領主だと烙印を押されてしまう。た
だでさえ片っ端から捕らえて試すという横暴な手段で、反感を買っているというのに…。
そこで領主は、最後の老人にも同じように二十日間の拘留を言い渡した。
この時にはもう、犯人は町の老人ではないと誰もが考えていた。
だが、十日経っても、十五日経っても、領主の館に盗人は入らなかった。
何故ならば…。
「その最後の老人が、真犯人だったんだよ」
「へ!?」
シェパードの言葉に、ミオが目を丸くする。
「え?て、てっきり、それでも盗みは無くならなくて…っていう話になるのかと…」
きょとんとしたミオが、朱い石の話はどこに出ただろうか?そもそもこうして捕まって終わりでは、子供に話して聞かせて
も喜ばないのでは?と頭をグルグルさせていると…、
「まぁまぁ焦りなさんなお若いの。けひゅん!」
隣の牢から酔っ払いの壮年がそう言って、「そうだ。話はもう少し続くからな」とシェパードも笑う。
どうやらここで一度切って反応を窺うのがこの話の定番らしい。そう察してミオは耳を寝せ、「それで、どうなったんです
か?」と期待通りに先を促した。
「そう、そこからが不思議なんだ…」
これまでも子供に話して聞かせていたのだろうか、シェパードは慣れた語り口で、少し声を潜めて続きを教える。
拘留された最後の老人が、真犯人だった。
いずれ捕まると確信していながら、自分に順番が回るまでを神がくれた時間と考え、少しでも多く皆に富を分け与えようと、
盗みを続けたのである。
家族には迷惑をかけてしまう。この事だけが心残りだった。
牢の中、冷たい寝床で過ごす二十日目の夕方。領主が牢の前まで足を運び、老人に訊ねた。
本当にお前が盗人だったのか?と。
これに対して老人が、はい。私が盗人です。と答えたその時、慌ただしく、階段を降りてくる者があった。
血相を変えて駆け下りて来たのは警備主任を務める兵士。彼が言うには、またしても倉庫から調度品が消えているらしい。
一体どういうことなのか?訳が分からず混乱する老人の前から、兵士に案内されて領主が去る。
そうして倉庫を確認に行く途中で、領主と兵士達は、高い城壁の上から朗々と響く声を聞いた。
皆が視線を注ぐ中、壁の上に立っていたのは、白い髭を蓄えた老人。
立派な衣服と外套を纏ったその身なりは、まるで貴族のようでもあった。
老人は自分が館を騒がす盗人である事を声高に告げると、民をないがしろにする領主の行ないを批判し、改められなければ
これからも品は消えてゆくと警告した。
かくして老人は、本人も訳が判らず不思議がったまま解放され、その後も領主の館からは品物が無くなり続けた。
そうして、すっかり財宝が乏しくなった頃、領主はある事に気がつき、仰天した。
厳重に保管してあった宝剣に、異常が見つかったのである。
その剣は、領主の祖父にあたる、開墾計画を立てて町を造らせた先々代領主の遺品だった。
生前から大事にされていたその剣からは、一際目立つ、柄を飾っていた綺麗な朱い宝石だけが失われていた。
それから思い出す。
一度だけ名乗りを上げたあの盗人の声は、祖父の物に似ていた気がする、と…。
この件は祖父からの警告であったのだと考えた領主は、心を入れ替え、教会を建て、国外から布教に訪れていた高名な司祭
を招き、そこに剣を収めて民を軽んじない事を誓ったという。
それ以降、盗みはピタリと止まった。
そして、失われていた朱い宝石は、いつの間にか、教会に収められた宝剣の柄に戻っていたという…。
その事件以降この町は、戻った朱い宝石を前に司祭と領主が漏らした感歎の呟きから、こう呼ばれるようになった。
ノーブル・ロッソと…。
「へぇ…。町の名前の由来でもあるんですね」
話を聞き終えたミオがポンポンと軽く拍手すると、シェパードは「退屈な話だったろう?」と少し照れているような笑みを
見せた。
「そんな事ありませんよ。聞きごたえがありました!」
「慣れたもんじゃないのオマワリさんよぅ。ひゃっく!」
話を知っている隣の牢の壮年も、シェパードの語りに感心したようで、パンパン手を叩いていた。
(朱い宝石が正義の泥棒を掬った話…。それで「朱石泥棒」か。朱い石を盗んだんじゃなく、朱い石が変身した泥棒だから…)
ミオは密かに考える。
義賊の話という物は、多くの国で語り継がれている。
貧しい民衆が憧れ、そんな物語が好まれるから、輸入されて定着したりもする。
だが、期待と願望から脚色が多くなりがちなそれらの話には、実際に起こった出来事が含まれているケースが多い。
(この三年で、国内の文献纏め資料には一通り目を通したけど…、地方口伝の類は編纂から漏れてる事も多い。レリックに関
する伝承の可能性も…)
全てが全てそうとは限らない。だが、民間伝承や口伝に不思議な現象や品物が登場している場合、それが本当にレリックに
関する情報という場合もある。
そんな事情もあって、ミオもそうだがギュンター達リッターも、お伽噺や郷土の昔話に興味を惹かれる傾向がある。
「ところがだ」
シェパ-ドは肩を竦めて言う。
「その宝石が、最近になってまた消えた」
「へぇ!…はい?」
話に続きがあった、と耳を立てたミオは、しかしすぐさま目を丸くする。
「無くなった!?」
「いやぁ…、十年に一度、その宝剣が一般公開されるんだがな…。それが今年の秋…まぁ、ついこの間だったんだ。そこで初
めて無くなっている事が判ったんだが…、実際には、いつ無くなったのか判っていない」
ミオは心の中で少しばかり構えた。お話しの延長に、ちょっとしたサプライズとしてでっち上げたのかとも思ったが…、
「犯人捕まえようにも、朱石泥棒そのひとだったら、警察でもお手上げだろうしなあ。けひゅ!」
壮年が茶々を入れ、シェパードは苦虫を噛み潰したような顔になり、それを見てアメリカンショートヘアーは、話後の演出
ではなく、事実なのだと理解する。
「朱石泥棒を見たって話も聞くじゃあないか?ん?」
「白髭の老人を見たっていう噂だろう?それなら何度だってこの目で見ているさ、どこででも見るからな。白髭爺さん全部が
朱石泥棒なら、生まれてから今まで数え切れないほどの朱石泥棒を見て来た事になる」
「噂話と前後して出てきたあの霧だって、朱石泥棒と何か関係があるんじゃないかい?」
「霧は異常気象のような物だ。そもそも朱石泥棒の伝承に霧なんて出てこない。まるっきり関係ないだろう?」
「どうかねぇ?昔々のお話だ、穴や抜けがあっても不思議じゃあない…ひゃっく!ちょっとずつ量も増えてるし…」
(霧?)
しばし何事か考えていたミオは、ふたりのやり取りで引っ掛かりを覚えた。
そして話の中から情報を拾い集め、整理する。
(あの変な霧は、この町でおなじみの現象っていうわけじゃない…。しかも、割と最近になって見られ始めた?朱石泥棒の目
撃談…これはどの程度重視するべきか判らないけど…、霧の発生と前後して見られるようになったっていうのは…?)
伝承。朱石泥棒。霧。ミオは考える。そして警戒する。
(今の話が伝えようとしている教訓からすれば、石が消える時は…)
聞いたばかりの物語を反芻した少年のうなじで、薄く被毛が立った。
この町に伝わる、昔々の赤石泥棒の話…。
宝剣が収められていた教会で起こった、今朝の事件…。
(もしかして、ぼく達は…)
アメリカンショートヘアーは、知らず知らず視線を天井へ向けていた。
(今、進行している「何か」の中に居るんじゃ…?)
数時間後、ミオは解放された。
シェパードが通してくれた話が上に受け入れられたのと、ギュンターがようやく表向きの身分である軍属を名乗り、立場と
身元がはっきりしたおかげで。
「散々だ」
不機嫌さを丸出しにして吐き捨てたギュンターは、既に昼過ぎの角度に至っている太陽を睨み上げた。
「腹が立つ!そして腹が減る!とりあえず何か食っておこう」
苛立っているのか冷静なのか判らないギュンターの発言に、ミオは軽く微苦笑してから、
「…署から充分に離れたら、ちょっと話したい事が…」
と、表情は変えないまま声を潜める。
「ん?何だ?連中への文句か?」
「そうじゃなくて…」
アメリカンショートヘアーは、微苦笑の仮面を着けたまま、友人に告げた。
「もしかしたら、休暇返上かも」
「中は見られないか…」
黒兎が教会を見上げる。その傍らで、ヒキガエルは膨れた腹をさすってゲップをした。
ふたりが食後に足を延ばした教会は、まだテープが張り巡らされており、中には入れない。
「仕方ない。また今度にしよう」
諦めたフランツがラドを促し、引き上げにかかると、
「あ」
ラドは目抜き通りの向こうからやってくるふたり組を目に留め、小さく声を漏らす。
駅で見た、自分の家の宿に宿泊している客だった。
ラドは宿帳を覗いてふたりの名を知っているが、ミオとギュンターからすれば、一度顔を見ただけの相手。アメリカンショー
トヘアーと赤毛の青年はラド達にも特に注意を払わず、封鎖された教会を眺めながら何事か会話していた。
「今日中に申請出したら、対応が来るのはいつになるかな?」
「審査もあるから三日前後はかかるだろうな。暇な部署は何処にもない」
「通り易くするためにも、詳細な説明込みの内容で送らないとね」
「そうだな」
仕事の話か、それとも学び舎に提出するレポートか何かの話なのか、ラドはふたりが何を話しているのか判らないまますれ
違う。
(あ、良い匂いするー…。香水?石鹸?どっちだろー?)
果実の芳香のような、さっぱりとした甘みと酸味が混じった香りが豆粒のような鼻をくすぐり、反射的に吸い込むラド。ど
ちらの匂いかは判らなかったが、何となく、猫の方のような気がした。
一方、ミオとギュンターは…。
「軍人かな?」
小声でミオが呟くと、ギュンターも同意して顎を引く。
「兎の方だな?訓練されている」
「何処の所属?」
「さあ…。少なくともリッター絡みじゃないが、もしかしたら訓練中の士官候補生なのかもしれないな」
「いざとなったら協力依頼できる?」
「難しいな。秘匿情報に関わる案件については、一般軍属においそれと伝えられない。特に下の方には…」
そこで会話を切ったギュンターは、足を止める。
立ち止まったミオは教会を見上げながら、素早く視線を巡らせて何かを探していた。
「行けそうか?」
「うん。五か所見つけた」
意図的に主語が抜かれたやり取りだが、ミオが見つけたのは侵入経路である。
今夜忍び込み、怪しい物があるかどうか確認する。
それが、胸騒ぎを覚えたミオの決断だった。
「それにしても…、可能性は高いのか?」
「高くはないよ。ただ、そうだったのかもしれないなって、思っただけ…」
ミオの返答に、ギュンターは唸る。
「ミオと同じ、フェアシュヴィンデン…か」
朱石泥棒の伝承について話して聞かせたミオは、ギュンターにある可能性について告げた。
その宝石は、レリックなのではないか?と。
故人の思念波を留め置き、ビデオメッセージのように後世へ届ける事の出来るレリックの話を聞いたことがある。それその
ものではないにせよ、元の所有者である領主の姿を取ったという点と、自発的に行動したように思える点が気になった。
それともう一つ、ミオには気になっている事がある。
それは、盗人の老人が自分と似たような…、つまりノンオブザーブのような能力を持っていたのではないか、と。
さほど長くない時間姿をくらますだけの能力ならば、侵入や奪取は簡単だが、捕えられたその状況では逃げられない。
「ボクと…、似た能力…」
ミオは教会を見上げながら、白髭の老人に思いを馳せていた。
そして日が暮れる頃まで時は進む。
警察署の前には、檻を出てよたよたと署を後にする壮年の姿があった。
コホコホと咳き込む彼を、鬱陶しそうに見送る出入り口の警官。
酔いが醒めてきた。寒気がする。体がだるい。喉が乾いて痒い。
「酒~…」
呻きながら歩き去る彼の異常に、しかし誰も気付かない。
その目が、明るさが落ちて行く夕闇の中で、薄青い燐光を放っていた事には…。
「さあ、黄昏時だ」
朱と紺の境にある、昼夜がせめぎ合う空の下、狐はすっくと立ち上がる。
高い屋根の上から見下ろす町を、ヘイムダルの瞳が映す。
その双眸は、不意に細められた。
「出始めたな?」
闇の外套を纏いつつある町の端々では、暗さが濃さを増した場所から、白いもやが滲み出始めていた。
(どうかしらぁ?ヘイムダル)
出し抜けに頭に響いた声で、狐は顔を顰めた。
(気温の変化じゃ有り得ねー、急激過ぎる変化だ。つまんねー事には変わりねーけどさ)
(あらあら、相変わらず不満そうねぇ?どんな感じなのかしら?)
あまりにもつまらなそうな返答で、逆に興味をそそられてしまう。そんなヘルの問いに、(一言で表すと)とヘイムダルは
応じた。
(しみったれた町だなぁヘル。楽しい事もなさそうだぞ?)
単純に退屈で覇気が無くて喧嘩もできなくてつまらない。そんな不満がありありと伝わる返事で、ヘルはくすくすと笑った。
(でも確かめたい事はあるのよねぇ。ここで何が起こっているのか…、いえ、ここで何をしよ…)
ヘイムダルは眉根を寄せた。
(おい)
伝わってくるヘルの「声」が、急激に遠のいて、聞こえなくなった。
(おい。ヘル?)
ヘイムダルは周囲を見回す。
(念話が途絶した?あっちで何かあったのか?…いや…)
狐は興味を覚えたように目を輝かせ、不敵な笑みを浮かべる。
(「何かあった」のは、こっちの方かもな…)
町に溢れ出した霧は、昨日よりも濃いように、密度を増しているように思えた。
(霧だ)
胸の内で呟いたミオは、日没後の街灯が抗いきれなかった闇の領域に身を潜め、目抜き通り入口を眺める。
偽装のため、ギュンターは夜釣りに行っている。
気配が察知できなかったのでおそらく無いだろうが、警官がこっそり監視している事を想定しての行動だった。もしもの時
には二手に分かれて釣りをしていると嘘をつく予定である。
いささか性急過ぎると感じてもいるが、勘が、動くべきだと告げていた。
不思議な朱い石の事も気になる。何らかのレリックである可能性もある。だが、それ以上に…。
(ノンオブザーブ…あるいはそれに近い能力の使い手だったとしたら…?)
痕跡が残っているはずもない。話が聞けるはずもない。そもそも、老人が真犯人だったと物語に含まれている時点で、存在
そのものが創作だった可能性も高い。
それでも気になった。自分と同じ能力の使い手だったかもしれない老人が…。
「ノンオブザーブ…」
呟いたミオの姿が、たちまち薄く透けてゆく。
足元には白い霧。その高さは膝のすぐ下辺り。
事故でもあったのか、何処かでサイレンが鳴っていた。
さらに、その数分後…。
「こりゃ酷いな…」
事故現場に到着したシェパードは、壁に突っ込んでボンネットをひしゃげさせたワーゲンを見つめ、嘆息した。
カーブを曲がりきれなかったのか、車は九十度角のL字路の突き当たりで、製粉所の分厚い壁に激突している。
野次馬が遠巻きに囲む事故現場には、駆けつけた警官四名と、怪我人の運転手、助手席に乗っていた同乗者。
運転手は犬系の獣人だが、助手席に乗っていたのは人間の女性。共に地元に住む二十代の若者だった。
ふたりとも既に運び出されて救急車の到着待ちだが、運転手は出血が酷く、意識が無い。頭を打っている可能性もあるので
不用意に動かせず、路肩の安全な位置に横たえられている。
助手席に乗っていた女性は口から血を流しており、こちらは心肺停止状態で、電気ショックによる蘇生術を受けている。
だが、そこにも霧は立ち込めており、煽いで散らさなければ霧に埋まって見えなくなってしまう有様だった。
「自損か」
「そのようで…」
若い警官がシェパードの問いに答える。
「怪我の具合は?」
「男は右の肩口に抉れたような傷…これが深いです。肉がゾックリ無くなってますよ。女の方は…気の毒ですけどもうすっか
り冷たく…」
「そうか」
眉間に皺を寄せ、次いでいたましそうに目を細くしたシェパードは、急に上がった声で首を巡らせた。
運転手だった犬族の男が意識を取り戻し、叫び声を上げている。
「離れろ!離れろーっ!触るな!彼女から離れろー!」
動く左腕を振り回し、叫ぶ若者。しかし事故のショックか、出血のせいか、足元がおぼつかず尻餅をついてしまう。
「…同乗者、恋人だったんですかね…。気の毒に…。獣人とひとのカップルなんて珍しいのに…っと!」
若い警官が沈痛に漏らし、そして口を滑らせたその横で、シェパードは眉根を寄せていた。
だが、若い警官の獣人とひととの垣根を感じさせる不用意な発言で眉根を寄せた訳ではない。
「大丈夫だ!彼女は大丈夫だから、落ち着いて!」
危害を加えている訳ではない。と強調する警官。叫ぶのをやめない若者。
シェパードは違和感を覚えていた。
「…女の子の方…、冷たくなっていた、と言ったか?」
「え?はい。そうですが…」
「事故は何分前に?」
「十五分ほど前ですかね?」
「十五分で、すっかり冷たく?」
「…あ!」
若い警官が声を上げた。
「まさか…、もう死んでいた…!?」
助手席の女性は事故前から既に心肺停止していた?男はそれを病院へ運ぼうとしていた?いや、まさか男が女を殺し、何処
かへ死体を隠そうとしている途中で事故を起こした?男はそれを悟られまいとして慌てている?
そんな想像を働かせた若い警官だったが、
「妙だな。男の方…」
シェパードは眼光を鋭くする。
男の叫びが、慌て方が、怯えを孕んでいるように見えた。
職業柄、経験上、何かを隠そうとしている者特有の怯えや慌てには敏感なシェパードには、若者の錯乱が妙に見えている。
カツカツと道を踏み締め、霧を蹴散らし、足早に近付いたシェパードは、男の傍で屈んだ。
「おい兄ちゃん。落ち着いて話を聞かせてくれや」
怯えの表情を見せた若者に、シェパードは訊ねる。
「何を怖がってる?何が起きた?」
ハヒュハヒュと荒い息をつく犬族の若者は、見開いた目を女性の方へ向けて、
「普通じゃない!おかしいんだ!おかしくなっちまった!離れろ!触るなよ!彼女に近付くな!」
ギャンギャンと喚いてシェパードに顔を顰めさせた。だが…。
「ひっ!」
若者の叫びが、怒鳴り声が、か細い悲鳴に変わる。
蘇生に当たっていた警官が「おお!」と声を上げ、霧の中を見下ろす。
何度目かの電気ショックを受けた女性の、細く白い手が、白い海の中からその一部が隆起したように突き出していた。
何かを求めるように、指を軽く広げて上へ伸ばされた、仰向けの女性の手…。
その白い手を映す若い犬獣人の目が、恐怖で涙を過剰分泌し、小刻みに揺れた。
「気がついたか!?もしもし!聞こえますか!?」
警官が女性の脇で、霧の中に屈む。
現場の空気がホッと緩んだ、その瞬間に…。
「やめろぉおおおおおおっ!」
若い犬が叫ぶのと、「ゲグッ!」と呻き声が聞こえたのは、同時だった。
霧の中に動きがあった。
そう思った瞬間には、警官が倒れ込むように白の中に入り込んで見えなくなった。
まるで、白い水へ頭から飛び込むように…。
「おい、どうし…」
同僚の警官が声をかける。が、返事はなく、霧の中で制服の袖に包まれた腕が、次いで白い生腕が、風車の羽のように回り、
浮いて沈んだ。
そうして乱された白い霧の中、仰向けに転がった警官の上に、女性が覆いかぶさる格好になっている。
(え?あ、混乱してんのかな…)
もうひとりの警官が、蘇生した女性がパニックになって同僚に抱き付き、一緒にバランスを崩したと考え、歩み寄ったその
時だった。
赤が、咲いたのは。
白い霧の中からブシッと上がった、暗いせいで黒ずんで見えるそれが、歩み寄った警官の顔にかかる。
温かく、ぬるりとしたそれが頬を伝い、不快さに思わず顔を顰めながら拭った警官は、それを見遣り、目を見開いた。
「は?」
顔を撫でた手袋を染めているのは、鮮血。
仰向けに転がした警官に覆いかぶさっている女性は、相手の首元に顔を寄せている。
下になっている警官の手が、バタバタと動いて石畳を叩く。
だが、声は出せない。助けは求められない。
穴からゴポゴポと赤い泡が出るだけの、食い千切られた喉からは、声など出ようはずもない。
女性はその口を相手の喉に押し当て…、噛み千切っていた。
だが、その状況を把握する前に、歩み寄っていた警官は凍り付く。
ブヂブヂッと音がして、ゴリュリと音が鳴って、制服の袖に覆われた手袋をはめた手が、まるで先ほどの女性の動きを再現
するように夜空に向かって伸び、ガクガクと震え、霧の中に落ちた。
女性は霧の中で、四つん這いの姿勢で、少しだけ体を起こして、前傾したまま首をぐねりと捻って、振り向いた。
その、女性の異様な瞳を見て…。
「あ、え?…え?」
警官は、ぽかんとした。
女性の瞳は、虹彩まで白く濁って、薄青くぼんやりと発光していた。夜光塗料のような弱々しさで。
そしてその口元は、広く、真っ赤に濡れていた。顎まで滴り胸の谷間まで染める、返り血で。
「あ、あああ…!ひぃ…!あああっひ!あ、ああ、あ…!」
運転していた若い犬獣人が、ガクガクと震える口の隙間から嗚咽を漏らす。
「キャアアアアアアアアアアアッ!」
最初の悲鳴は、野次馬達の中から上がった。