ファルシャーネーベル(act6)

(見張りはこれだけか。行けそう…)

 見張りに立っている教会関係者の数と、警官の位置を確認したミオは、姿を消したままするすると手近な木に登り、コート

の右袖に手を掛けた。

 そこに仕込まれた、リッターの装備開発局製の柔軟かつ強靭なワイヤーと、その射出巻き取り装置は、小型ながらもミオの

体重を充分支えられる。

 先端に滑り止めのラバーコーティングフックを取り付け、自分がぶら下がっても大丈夫そうだと、明るい内に目星をつけて

いた個所を再確認する。

 そして見張りの位置を鑑みて、明かりが消えている窓を選び、その脇を縦に走る雨どいへと、腕を真っ直ぐ向けて狙いを定

めた。

 プシッ…と発射されたワイヤーの先端は、狙い違わず雨どいを壁面に固定している金具にかかる。

 本来なら閑静な町の夜気に異音が混じるところだが、ミオはノンオブザーブで音を屈折させ、響かせずに処理している。そ

のおかげで、オン…っとくぐもった唸りのような金属音が微かに響いただけで済んだ。

 そしてミオは枝を蹴る。跳んで離れた空中で、手掛かりは袖から伸びたワイヤー一本。巻き取りを開始したこれにぶら下がっ

て、目指す壁面までは歪な振り子運動。

 登った木の高さと、教会の策の高さ、そしてワイヤーの巻き取り速度を加味して予測した軌道は、目測違わず柵の上ギリギ

リを足が通過する物。

 やがて、壁面に近付きつつ巻き上げられたミオは、トンッと、壁に足裏を当てた。巻き取りを止めたワイヤーを掴み、壁に

対して垂直に立つ形になっている。

(気配は…無い。大丈夫みたいだな…)

 灯りが消えている部屋の中には誰も居ない事を確認し、そっと窓を覗いたミオは、ワイヤーを伸ばした右腕に左手を近付け、

袖とワイヤーで体を支えつつ、左袖から器用にツールを取り出す。

 まるで十徳ナイフのような、ヘラのような細長く丸い薄刃に、尖ったピック、螺旋を描く針金などが仕込まれたそのツール

を右手で抜き、左手に持ち替え、改めて体勢を整え、壁面に屈む形で身を寄せたアメリカンショートヘアーは、しかし…、

(…!)

 開錠作業に取り掛かるその寸前に、ピクンと身を震わせて動きを止めた。

 覗き込んでいる、灯りが乏しい夜景を映す暗い窓。

 そこに、異変があった。

 ミオの姿は映っていない。これはこれで常識的に考えれば異様な事なのだが、ノンオブザーブによって周囲のごく狭い範囲

内で全方向の光線を屈折させ、あたかも自分を光が透過しているかの如く正確に迂回させているので、ミオにとっては当たり

前の事。

 異様なのは、そこに居ないはずの何かが映っている事だった。

 覗き込む者の姿を映せない窓ガラス。そこには、色白な人間の女性の顔が映り込んでいた。

 足場のない高所にも関わらず、ちょうどミオが姿を現していれば、映るだろう位置に…。

(レディスノウ…!)

 見開いた目で、女性の顔を食い入るように見つめるミオ。後ろには誰も居ない。そこに顔が映る事すらおかしいその状況で、

ミオは驚きが落ち着き始めると同時に危機感を覚えた。

 何故ならば、彼女が姿を現すのは…。

―察知されているわよ、ナハトイェーガー…―

 空気を震わせずミオに届いた声ならざる声は、予想通り警告だった。

(そんな!?ノンオブザーブは!?…いや、継続中!切れてない!何かの気配だって何処にも…!?)

 驚愕しながらも素早く首を巡らせるミオの前で、窓に映るレディスノウの像が薄くなる。

―逃げなさい。貴方の影を踏んだのは、黄昏よ…―

 ゾクリと、ミオはうなじの毛を逆立てた。その瞳に影を捉えて。

 背後が地面、正面が夜空、足元が壁面というその不安定な状態の中から、視線を据えたその先は…。

「…ハッ!何か居やがるな?」

 ミオは息をのむ。教会の屋根の上、自分から見て右上方の縁に足を揃えて立つ、気配を全く感じさせなかった狐の姿を確認

して。

(!!!)

 アメリカンショートヘアーの目が見開かれた。

 フラッシュバックする、あの日の光景…。

 北原のベースで目にした、中枢と共に訪れた男…。

 振り返れば輝くあの日々に、終止符が打たれた瞬間…。

「エージェント…、ヘイムダルっ…!」

 ギリリッと、食い縛った歯の隙間から漏れる唸りは、呪詛であり、歓喜の声。

 爛々と輝くミオの目には、怒りと、憎しみと、歓びがあった。

 追い続けた敵のひとり。探し続けた仇のひとり。

 ドス黒い憎悪が、歓喜を伴い吹き上がる。それに伴いノンオブザーブの精密な制御が失われ、ミオの姿がぶれながら像を結

び、ヘイムダルは気配で存在だけ掴んでいた相手の顔を目にする。

 動作は、唐突だった。そして一瞬だった。

 警告の言葉も誰何の声も発さず、風切り音を伴い翻したミオの左手から、刃を伸ばしたツールが飛ぶ。

「ふん…」

 首を僅かに傾げたヘイムダルの頬を、外れたツールが巻いた風がくすぐる。

 かわさなければ右目に突き刺さる、正確な投擲だったが…。

「…ん?」

 本命は、別にあった。

 ミオの左袖から射出されたワイヤーが、今度はヘイムダルの逆サイドを突く。

 張り出た屋根の縁を掠める形で空へ伸びる、ワイヤー先端のフック。

 こちらはヘイムダルがかわさなくともギリギリ外れる軌道だったが、攻撃…と見せかけて、縁に引っ掛け足掛かりにするの

が狙いだった。

 瞬時に巻き取りに入る袖の装置だが、意図を察したヘイムダルは縁にかかったフックを認めるなり左腕を下向きに振るった。

 それとほぼ同時に、フックが引っかかった屋根の先端が、まるでバターのようにひとの拳骨サイズで切断され、宙に舞う。

 ヘイムダルの手が、腰に吊るしたジルコンブレードの柄を握り、一閃していた。

 狐の腰に装着された二本の鞘は、基部についた三軸可動調節具がフレキシブルに回転し、角度を変え、鯉口の方向を自在に

変える。これによって様々な体勢から幅広い軌道の抜剣を可能にしており、剣を抜く際にもいちいち構える必要が無い。

 このように、身に纏っているのは一見すればただの白兵戦用装備だが、それらは柔軟かつ野性的で変則的なヘイムダルの戦

闘スタイルに合わせ、調整が施されていた。

 支えを失い落下する。そこへ追撃を入れよう。そう考えていたヘイムダルだが…。

「へぇ…」

 目を細め、耳をピンと立てた。

 ワイヤーは確かに、かかった屋根の先端を失って引っ込んだが、もう一本のワイヤーがヘイムダルから少し離れた位置で、

屋根にフックをかけている。

 そこから、巻き上げた勢いそのままに、アメリカンショートヘアーが躍り上がった。

 ワイヤーを袖に巻き込みながら壁面を蹴り、かかったフックを支点に反転しながら屋根の上へ体を移動。よじ登る隙を側転

染みたアクロバティックな動きに変え、上下逆さまになりながら振るったミオの手から、細い金属の光が飛ぶ。

 夜気を裂くジルコンブレードの光が、飛来した金属光…投擲用の小ぶりなナイフを切断する。が、その時点で着地を終えた

ミオは、詰め寄りに入ったヘイムダルを迎え撃てる体勢を整え終えていた。

 屋根を蹴るアメリカンショートヘアー。その両手には、太腿のシースから抜き、逆手に握った二本のアーミーナイフ。

 夜風を纏いながら屋根を疾走する狐。その左手には、高い切断力と靭性を兼ね備えた諸刃直剣ジルコンブレード。

 教会の上で、二つの影と三条の光、そして鋭い金属音が交錯した。



「ひあっ、ひあああああっ!」

 濃い霧を乱し、後ろ向きに後ずさる、腰が抜けた犬の若者。

 しかし慌て具合とバタつく手足とは裏腹に、体が言う事を聞かない。逃げようにも立てない。気持ちに追いつかない動作で

ますますパニックになり、上ずった悲鳴が甲高く裏返る。

 その怯えに揺れ、恐怖の涙で潤んだ瞳が映すのは、膝まで覆う霧の中、幽鬼のように立ち上がった若い人間女性の姿。

 つい数十分前まで、恋人だったソレは、今や別の何かに変じていた。

 彼女の口元をべったりと汚す赤は、口紅すら判らなくなっている鮮血。

 瞳孔が開いて白く濁った瞳には、薄青いぼんやりとした光。

 その血はしかし、事故の物ではないし、自己の物でもない。

 それは、自分を開放しようとした警官の喉を食い千切った返り血であり、その下には恋人だった犬獣人の肩口を食い千切っ

た際の返り血も塗られている。

「何です?あれ…」

 若い警官が呆けたような顔で呟いた。

 事故で心肺停止状態にあった女性が起き上がり、蘇生しようとしていた同僚がどうにかなって、悲鳴が聞こえて…。

 その状況は、まだ現場経験に乏しい若い警官を混乱させるには、充分な異常性を伴っていた。

 シェパードも答えられない。何が起こっているのかなど把握できるはずもない。

 ショック蘇生の影響で脳がどうにかなった?それとも蘇生したものの、事故の衝撃で狂乱状態に陥っている?

 仮説はいくらでも思い付いたが、しかしそのどれもが違うと、シェパードの勘は告げていた。

 それを「刑事の勘」などと表現する者も居るだろうが、シェパード本人はそうは思っていない。言うなれば、身を置いてい

るその環境で磨かれる、経験と観察に裏打ちされた特定分野での予測のような物だと考えている。

 自分の勘とはつまり、警官という職に就き続けて得た、思考の過程が自分でも認識できないほど省略されて、危険や異常を

一足飛びに感じ取る予測であり、家具職人には家具職人の、宿屋の親父には宿屋の親父の、ジャンルこそ違ってもそれに類す

る感覚があるのだろうと結論付けている。

 だから頼るに足ると常々思っているその勘が、今は…。

「「ソレ」から離れろ!下がれ!」

 もはや感覚的に「ひと」扱いすらせず、銃を引き抜き腰を落として構えたシェパードの怒鳴り声と動きに、若い警官がビク

ンと身を強張らせ、別の同僚警官が危険を察して同じく銃を抜く。

「おい!そこから動くなお姉ちゃん!」

 勘全てには頼らない。思考する事を投げ出さない。理性的な部分をきちんと残しているシェパードは、ゆらゆらと揺れなが

ら立つ女性に警告を行なった。

 それが聞き入れられるかどうかは別の事だと、これもきちんと認識しながら、警官として取るべき対応を放棄しない。その

ように保たれたバランスは、しかし誰もが持ち合わせている訳ではなく…。

「う、動くなっ!」

 警告…の形を借りた悲鳴。パァンと、破裂音が夜闇に響く。

 発砲音に目を大きくしたシェパードの横で、腰が引けて後退しながら、若い警官の指は、トリガーを引いていた。力み過ぎ

て。誤って。

 しかしその銃弾は、たまたまだったが命中していた。

 ゆらゆらしながら佇む女性の、左胸に。

 じわりと赤く染まるシャツ。ショック蘇生のためにはだけられた胸で、露わになっていた乳房が血に染まった。

 それでも、女性は立っていた。

 着弾の衝撃でよろめき、上体を大きく後ろに反らしたそこから、後ろに大きく足を出して体を支えて。まるで、フィギュア

スケートの演技を披露するスケーターのようなのびやかな姿勢だが、美しさはなく怖さだけがある。

 銃撃を受けたというその点から見て、そんな恰好で踏み止まれるのは明らかに異常だった。

「ひ、ひいいいいっ!」

「キャアアアア!」

 訳が分からない状況よりも遥かに理解し易い、警官の発砲という行為。

 野次馬は悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げ散った。

 落ち着け、と声をかけようとして、シェパードはやめた。

 訳が分からない。だが、この場に留まるよりも、足元が霧で見えない夜道を全力疾走する方が、まだ安全だという気がした。

 何故なら彼は今、銃撃を受けて仰け反った女性の上体が、グリンっと腰を回転させて横から前へ回り、一旦前屈みになった

そこから跳ね上がる形で直立姿勢に戻った様子を、目の当たりにしているのだから。

「ひ、ひぃっ!化物っ!」

 恐怖に駆られて若い警官が立て続けに発砲する。

「おい!」

 もうやめろ。その反射的に口から出かかった言葉を引っ込め、シェパードは瞠目した。

 着弾するたび揺れる女性の体。だが、倒れはしない。それどころか衝撃に慣れ始めているかのように、二発、三発、四発と

続いた銃撃では、最初よりも揺れが小さい。

 その様に恐怖を感じ、別の警官も引き金を引いた。

 だが、結果は同じ。倒れないし、効いている様子が無い。

(何なんだ、コイツぁ…!)

 衝動的に銃を撃ちたくなる。そうして恐怖の元を断ちたくなる。シェパードはかろうじてその欲求に抗う。通用しない発砲

で弾を減らすのではなく、別の効果的な対応手段はないかと、緊張に占拠されつつある頭の隅で思考が回転する。

 その目が情報を求めて周囲を探ったのは、職業上の習性であり、彼自身の困った時の癖でもあったが…、

(!?)

 意図せぬ物を、その目は拾った。

 大半の野次馬が逃げ散り、転んだり腰が抜けた者だけが取り残され、霧が踏み散らされた暗い路。今となっては大した問題

と言えなくなった事故車両のその向こうに、佇む人影があった。

 ソンブレロのような、大きなつばの帽子。

 長い外套がすっぽり覆った体。

 口元や顎、喉の周囲は白い髭で隠れている。

 遠目で見て老人のようだと認識したその人影は、距離もあるし暗かったので、顔もはっきりとは見えなかったのだが、シェ

パードは一瞬、目が合ったような気がした。

 その姿は、まるで…。

(朱石…泥棒…!?)

 場違いにも思考が昼間の出来事に飛び、そんな単語が頭をよぎった次の瞬間、耳をつんざくような悲鳴が響き渡った。

 ハッとして目を戻した時には、女性の姿は元の位置に無かった。

 その細い体躯は空中にあった。まるで、月のように弓なりに反って。

 助走もつけずにバネ仕掛けのように飛び上がった女性。その動きはひとのソレから大きく逸脱している。何せ地面から3メ

ートル以上の位置に、足があるのだから。

 その場で屈み、そして跳躍した女性の軌道は、放物線を描いて、最も近かった警官に向かっている。

 半狂乱になって引き絞られるトリガー。しかし狙いが定まらず、弾丸は当たらず、最後の二発を撃ち尽くし、スライドが後

退したまま止まる。

「ああああああああああああーっ!」

 弾が尽きた事にも気付かないまま、怯えて引き金を絞る警官の目が最後に映したのは、迫る女性の体の上で、仰け反らされ

ていた上体が戻って現れた、大きく顎を開けた顔。

 人間の限界を超えて開かれた顎。頬肉はブチブチと裂けて筋組織が覗き、そこから見える口内の赤と同じ一色…血が溢れて

いる。

 その凄まじい状態となったその口元とは裏腹に、目には、その周辺には、何もない。

 険しい表情になる事も、皺が寄る事も無い。ただ無表情のまま、綺麗だと言える顔の上半分をそのままに、口だけがただ、

悪い冗談のように大きく開かれていて、開き過ぎていて…。

 ゾブリ、と湿り気を伴う、硬い何かが軟らかい物に食い込む音。

 ドジャァッと音をたてて倒れ込み、霧の中に沈んで消える、ぶつかって重なった二つの体。

「おごっ!お、げぎゅっぐ!げう!」

 バタバタともがく警官の上で、女性はまるで獣がそうするように激しく頭を振り、食いついた喉元から肉をごっそり噛み千

切った。

 吹き上がる鮮血を追うように、霧の中から逃れようとするように、警官の手が伸びる。

「ユルゲン!くそっ!」

 シェパードは銃を構えたまま走った。同僚を救おうと。だが…。

「ひいいいいいっ!」

 銃声が、横で弾けた。

 若い警官は半狂乱で銃を撃つ。もう、先輩の事も見えてはいない。

「おい!おいやめろ!」

 腕を掠めるように跳んだ銃弾が、進路を阻む。同僚に当たる重大な危険性は勿論、これでは自分も危なくて近寄れない。

 仕方なく若い警官の腕を上から銃のグリップで殴り、拳銃を叩き落として突き飛ばしたシェパードは…、

「ユルゲン!?ユルゲーン!」

 霧の中に沈む同僚の手を目にし、叫びを上げる。

 自分がもたもたしていなければという悔恨は、ひとまず腹に呑み下し、その双眸はゆらりと立ち上がった女性を睨みつけた。

(化物…、ああ、確かにそうだ…!)

 何か所も被弾し、肉が裂けて、穴が空き、おびただしい量の血が出ている。銃弾が当たって飛んだのか、左手の指が二本欠

けている。それでも動き回る女性…。

 しかもただ動き回るだけではない。その動きはもはや人間女性の物とは思えず、まるで野獣のような運動性能を見せていた。

「ひっ!ひっ、ひっ!銃…!銃は…!」

 叩き落された銃を拾おうと、霧に遮られて見えない足元を見回し、霧の中に屈んで探ろうとした若い警官に、シェパードは

告げる。

「目を離すな!下を向いてる間にあの動きで飛びかかって来られたら、逃げられんぞ…!」

 見ていてもなお上手く避けられるかどうか怪しい機動性が、あちらにはある。あの跳躍を可能とする運動性能ならば、左右

に動くなどして迫られたなら対処できた物ではない。

 女性の目がシェパードに向く。

 濁った眼は、何度も見て来た死人のソレだが、少々違う。薄く、青い光が、瞳の内から漏れ出ているように見えた。

(こっちを狙っ…!)

 寒気を感じながら考えるのと、引き金を引いたのはほぼ同時。

 女性の体が極端に前傾したのもほぼ同時。

 突進してくる。そう感じての反射的な銃撃は、銃弾を女性の頭部に送り込んだ。

 本当は、胴体を狙った。面積が大きく当たり易い場所を撃ち、体勢を崩すなどして少しでも猶予を作るのが目的だった。そ

れがたまたま、異様に前傾した女性へのヘッドショットとなった。

 眉間の少し上から入った弾丸は、頭を貫通し、後頭部から血と脳を噴出させた。

 駆け出そうとした勢いそのままに、まるで飛び込むようにして霧の中に沈む女性。その体が激しくバタバタと動き、霧を跳

ね散らかし、やがて動きが緩慢になり…。

「止まった…のか?」

 銃を構えたまま、シェパードは唾を飲み込んだ。

 女性はもう、ただの死体になっていた。

「は、はふ…、はふあ…!」

 霧の中で尻餅をつき、涙を流しながら荒い息を吐く犬獣人の若者は、恋人だった女性が動かなくなる様を見届けた。

 哀しくもなければ、怒りもわいてこなかった。

 ただ、ただ…、怖いだけだった。

 動かなくなっても、まだ…。



 金属音が鳴り、火花が闇に刹那の彩りを加えては、夜気に溶け込んで消える。

 逆手に握った軍用ナイフの刃が、大きく欠けてなお大気を切り裂く。

 しかしこれは、鋭く素早い直剣に遮られ、相手の喉には届かなかった。

 剣を腕の外で切っ先を後ろに向ける形に回し、肩に剣の腹をつけて支えにしてミオのナイフを受け止めたヘイムダルは、牙

をチラリと覗かせて忌々しげな顔になる。

(軽い。しかもトロい。なってねー)

 不満。せっかくの戦闘なのに、剣撃の軽さが気に入らない。スピードはそこそこだが、それでもゾクゾクする快感を覚える

ようなレベルではない。

 翻る直剣。ナイフを押しのける格好で宙に銀光の輪を描いたジルコンブレードは、ヘイムダルが手首を返しただけで切っ先

が易々と音速を超える。

 得物とそれを握る右手を跳ね上げられ、その胴へ斬撃を叩き込まれそうになったミオは、しかしかろうじてステップで後退

し、コートの襟元を掠らせるに留めた。

 そこへ、滑るように踏み込んだヘイムダルの横薙ぎ一閃が、ミオの左手からナイフを弾き飛ばす。

(ふぅん。まずまずなんだが…、ダメだ。物足りねー)

 ヘイムダルは今、即死しない程度の致命傷を与えるつもりで剣を握っていた。ラグナロクの一般兵と比べれば上だが、一流

に入るか否か。超一流には及ぶべくもない。そんな相手と見繕っている。

 殺すだけなら容易いが、そうできない、そうしたくない理由があった。

 それは…。

「なー。お前、ラグナロクのクローン兵士だろ?」

 鋭く突きを繰り出しながら、ヘイムダルは問う。その口調はまるで世間話をするような軽さで、命のやり取りをしているこ

の状況にもそぐわなければ、息で乱れる事もない、場違いなほど「普通」な調子だった。だからこそ、「異様」とも言える。

 ミオは答えない。その代わりに突き込みから袈裟斬りに移行した斬撃を逆側に体を開く形で避け、右のナイフでヘイムダル

の肘下から腱を狙う。

 これを腕を引いて回避しつつ、ヘイムダルは問い続けた。

「他人の空似とかじゃねー。絶対にウチのクローン兵士だよな?何代か前の量産タイプだろ?」

 二千と五百以上は生産された同タイプクローンの「どれ」などという事は判らない。そもそも個体に当てられた番号を識別

する事に意味もないし、そんな事をするつもりもない。

 ヘイムダルが気になっているのは、ラグナロク製のクローンがどうしてこんな処に居て、しかも強烈な憎悪を自分に抱いて

いるのかという二点。

 それを聞き出すために、即死だけはさせないように気を遣っていた。

「シッ!」

 ミオの体が捻られる。まるでフックを決めるように、踏み込みながら右腕を振るったミオの手は、しかし握ったナイフを空

ぶらせた。

 ヘイムダルは得物を握る左手と、空っぽの右手を、それぞれ体の両脇にぶらりと垂らしたままスウェーする。その鼻から五

センチ手前を、ナイフの切っ先が通り抜ける。

 懐に飛び込み、ナイフの間合いで近接戦闘を行えたミオだが、しかし気付いていない。手加減されているが故に、間合いに

入れたのだという事には。

(殺す!殺す!殺す!皆の仇!皆の…、仇っ!)

 冷静さを失ったミオの攻め手は、激しくも単調で振りが大きい。格下相手ならともかく、互角以上の相手には通じない代物

だった。

 初撃を追いかけるように、回る体の回転を乗せた左手が、バックナックルを繰り出した。

 その手に握っているのは、腰の後ろへ隠すように吊るしていた、黒いトンファー。

 しかしこれも空を切り、振り終えたそこで生じた脇腹の隙へ、スウェーしたヘイムダルのサイドキックが捻じ込まれる。

 冷静さを欠いたミオは、普段ならば忘れないはずのさらなる追撃が頭になかった。手にしたトンファーの機能を活かせば、

光弾を放って牽制する事もできたのだが…。

「ぐっ!」

 腰が入っていない、退きながらの蹴りとはいえ、第三世代…すなわち最新技術を用いられたエインフェリアたるヘイムダル

のそれは、その筋力だけで痛烈なものとなる。

 反射的に肘を下げてガードしたものの、それだけで体が軋み、吹き飛ばされるほどだった。

 屋根から跳ね飛ばされ、落下するミオ。

 激痛でいくらか頭が冷えたアメリカンショートヘアーは、済んでの所でワイヤーを伸ばし、街頭にひっかけ、地面への激突

を避ける。

 そのまま振り子の原理でスイングされ、宙に舞い上がったミオは…。

「!?」

「トロくせーな!」

 屋根の上から跳躍し、自分の軌道を読んで肉薄してきたヘイムダルと、至近距離で向き合った。

「っく!」

 引き寄せた腕が、ジルコンブレードの剣閃を受ける。金属音を上げて斬撃を食い止めたのは、握ったトンファー。

 ギュンターの物も借りて二振り用意したナイフは、軍の正式採用品で、決して強度が低い物ではないが、ジルコンブレードには敵わない。

 しかしこのトンファーは、レリックを模して現代技術で製造された疑似レリックウェポン。それもラグナロクのテクノロジ

ーが注ぎ込まれた特別製。ジルコンブレードでも簡単には破壊できない。

「ほ?」

 ヘイムダルの目と口が丸くなる。おいおい、ちょっと面白いんじゃねーの?と。

 次の瞬間、斬撃の勢いでさらに飛ばされたミオの左手が、真っ直ぐにヘイムダルへ向けられた。

 くるりと回ったトンファーが、その短い側の先端を狐の顔へ向けている。

 お互いに空中。離れゆく両者の距離は2メートルほど。

 真正面という点は問題だが、自在に動けないこの状況ならば易々と回避されはしない。

 トンファーの先端に、赤く光る粒子がちらつき、螺旋を描いて収束する。

 何らかの攻撃…、そう判断したヘイムダルは、

「!?」

 ミオの手にあるトンファーから光弾が放たれたその瞬間、その能力によって意思とは無関係に動いた右腕で、腰からもう一

本の得物を引き抜いていた。

 パキィンと、硬質な何かが砕けるような異音。

 思念波エネルギーを圧縮変換した光弾は、狙い通りにヘイムダルの頭部めがけて飛翔し、そして斬り砕かれた。

「レリックウェポン!?」

 異口同音に、両者が漏らす。

 思念波エネルギー変換の兵器応用。これは現行の「表」の科学では、理論さえ構築されていない。間違いなく秘匿技術に類

する物だった。

 そしてヘイムダルが抜いた二本目の剣は、その純エネルギー体である光弾を斬り、そして砕き散らして消滅させている。

(おいおい、使い捨てのクローンかと思ったら、レリックウェポンだと?こいつは…)

(今の消え方、斬撃そのものの破壊力で砕かれた訳じゃない。あの剣が持つ能力!?分解作用みたいな物!?)

「おもしれぇっ!」

 狐の口元に凶悪な笑みが浮かぶ。

 発射の反動で距離が開いたミオを追うヘイムダルは、獅子王を瞬時に鞘へ戻し、アメリカンショートヘアーがまたワイヤー

を伸ばして離脱をはかる様子を視認しつつ、教会の屋根から跳躍したその勢いを、難なく着地して殺す。

 街路のアスファルトがへこみ、割れても、ヘイムダルの強靭な肉体は損傷しない。その柔軟性と強固さで着地の衝撃を完全

に飲み込んでいる。

「逃がすか…よっ!」

 リミッターをカットしたヘイムダルの跳躍ならば、街路向こうの民家の屋根へ移ったミオへの接近も容易い。

 先の戦闘中とは段違いの動きに、ミオは戦慄した。

 リミッターをフルでカットしていた自分と戦っていた相手が、リミッターカットを全く行なっていなかった事に気付かされて。

(甘く見てた…!舐めてたって言ってもいい…!ここまでなのかエインフェリアって!)

 ハティと同類。そう考えれば想像に難くなかったはずだが、憎悪に囚われ力量差を見誤った。

 後悔も既に遅く、逃げ切れるとは思えない。頼みの綱のノンオブザーブもこの相手には位置を察知されたのだから。

(どうする?どうすればいい?こんな時、どうすれば…!)

 自分にハティのような力があれば。ハティのように機転が利けば。無い物ねだりで絶望が膨らみかけた、その瞬間…。

(…まだだ…。まだ死ねない…!)

 脳裏をよぎった白い巨漢の顔が、ミオの気持ちを奮い立たせた。