ファルシャーネーベル(act7)
夕闇に沈み、ぐっと気温が下がった町の、少ない灯りがかえって寂しい夜景。
里帰りで懐かしむには好感が足りない、そんな馴染みの景色の中、ラドはケプッとおくびを漏らす。
喉から上がった、何が添加されているか判った物ではない安っぽいビール臭が、鼻孔を内側から突いて勝手に顔が顰められ
る。
一日一緒にブラブラしたラドとフランツは、夕食を摂り、一杯ひっかけ、体を温めて帰路の途中。
だが、引っ掛けたのはアルコールだけでなく…。
「わーっと!」
歩道と車道の段差に足を引っ掛けたラドが、大きく前のめりになった。
咄嗟に手を出して横から支えたフランツの腕が、タプンとした胸に埋まる。
「この霧しつこいよねー。歩いててもクラクラしちゃうしさー」
怒ったふりをして霧を蹴るように足を振り上げ、恥ずかし紛れに悪態をつくラド。
膝丈まである濃い霧のせいで足元が見えない。それどころか、夕食を終えて店を出る際には、開けたドアから霧が店内へモ
ワリと入って来る有様だった。
「有毒物質だったりしてー」
「ははは!言えてるなぁ!実際有害だよ、ここ数日事故とか増えてるんじゃないか?」
笑って応じたフランツが、「あ、ほら」と耳を動かし、サイレンの音を聞き取る。
「事故かなー?」
「だろうな。この霧じゃ路面の表示も見えやしないし、段差だってこの通りだ」
「警察?あ、救急車も出てるみたいだねー」
「暗くなってからもご苦労様だ、まったく…」
肩を竦めるフランツ。その腕はまだラドを支えていて…。
「…ねー、フランツー…?」
「うん?」
「今夜もー、行っていいー?」
ハグにも似た支えられ方をしてその気になってしまったのか、ラドの提案にフランツは苦笑いした。
「明日ぐらいにしておけって」
「ちぇーっ」
不満げなラドと苦笑いを浮かべたままのフランツは、コツコツと、霧の下の冷えた路面を踏み締めて…。
「?」
不意に足を止めたフランツは、長い耳を立てて微妙に動かし、角度を調整しながら上を向いた。
「どうしたのー?」
ラドが訊ね。同じく上を向いた。
丸い目に映るのは、少ない灯りのおかげで綺麗な星空。しんと冷えたその空気は、遠く瞬くか細い星明りも遮らない。
その星空を、黒い物が横切った。
「え?」
ラドの丸い目が大きくなり、漏らしたその声に、ドガッと煉瓦壁に何かが叩きつけられる音が重なった。
「下がれラドっ!」
フランツがビクッと反応して大きく後退しつつ、ラドの後ろ襟を掴んで下がらせる。
ヒキガエルがグエッと鳴いたその声に、壁の雨どいを剥がしながら落下してきた何かが立てる騒々しい音が重なった。
時刻は、そこから少し巻き戻る。
顔を上げ、町の方へ向けると、ギュンターは口をへの字にした。
響いてくるサイレンは、おさまるどころか…。
(やけに騒がしい…。何だ?このサイレンの数…)
垂らした釣り糸の先で浮きが揺れる。しかし青年はそちらに目を向けない。意識を他所に集中しているせいで。
(尾行は無かった。万が一気付けなかったとしても、今現在見張られている気配が無いのは確か…。あの話が判るシェパード、
どうやら本当にミオを信用したらしいな)
実はギュンター、移動しながら気配を掴むのは苦手で、尾行者を把握し損ねる事がある。
青年は性格的な問題で意識を四方に散らし続けるのが苦手で、真価は相対した相手への一極集中にある。それ故に面と向かっ
ての戦闘などは得意なのだが、自身も動きながらの尾行者の察知や複数名への同時警戒が不得意。決して感覚が鈍い訳ではな
いのだが、手練の尾行者などが相手となれば分が悪い。良くも悪くも得手不得手がはっきりした、典型的な若武者だった。
それでも、こうして自分がじっとしている状況ならば、息を潜めている何者かの有無をかなりの精度で当てられる。これは
ミオの能力練磨に付き合っている内に、ある程度苦手が克服されたおかげだった。
(よし、戻るか)
しばらく考えた後、ギュンターは腰を上げた。糸を引いていた魚は、もう逃げてしまっていた。
気が逸っての役割の放棄ではない。合理的に考えての判断である。
これだけ騒々しければ、一般人旅行客ならば不安になって戻るという心理状態は当たり前。万が一監視者が居たとしても言
い訳はできる。
(ミオは俺と違って慎重だからな、ヘマを踏むとは思えない。この有り難くないタイミングで無関係に事故が多発しているの
か?それとも…)
赤毛をガシガシ掻き乱し、ギュンターは顔を顰めた。
携帯端末で連絡を取ろうにも、ミオは潜入捜査中。電源を切っているとは思うが、もし切り忘れていたら呼び出し音や振動
でアクシデントを招きかねない。
(剣も甲冑も手元に無い。厄介な事にならないよう、レディスノウに祈るとしよう)
黒が濃い寂れた宵闇を、風切り音が乱す。
先端を民家の屋根にかけ、巻き取られるワイヤーが、細身の体躯を引っ張り上げながら振り子のように移動させる。
しかし集中が乱れ、狙う余裕もないせいで、屋根の突端にフックをかけたワイヤーは、途中で脇腹を屋根の縁に擦り、音を
立てていた。
住民に存在を気取られる恐れがある上に、痕跡も比較的はっきりと残ってしまう移動…。忸怩たる想いに口元が引き結ばれ
るが、今はこれが精一杯だった。
なりふり構わず逃走するミオを追うのは、細く引き締まった体躯の狐。
ヘイムダルの身体性能はエインフェリアとしても破格。素体の性能に加えて最新技術がつぎ込まれている狐は、機械的補助
も無しにミオを追走し、易々と距離を詰める。
(速い…!身軽さには少し自信があったんだけど…)
焦りを覚えるミオ。
フックがかかった個所を支点にワイヤーで振られ、落下の力を遠心力に変え、振り子運動で屋根の上へ舞い上がり、着地す
る。そこから屋根の上を駆け、飛び降り、次の建物へ狙いを定めて同じように移動する。そんなミオの動きに、ヘイムダルは
自分の脚だけで追いついて来る。
時に空中で別の建物に狙いを変え、ワイヤー補助のメリットを活かしたフェイントをかけるミオだが、宙で軌道を変えるア
メリカンショートヘアーに対し、ヘイムダルはその都度地面へ降りる事になっても、そこから民家の二階まで届く跳躍を見せ、
壁を駆け昇るように元の高度まで戻り、追走を再開する。
消耗品に過ぎない量産型として生産された者と、ワンオフの高級品。成り立ちの違いから生じる肉体の機能差はそう簡単に
覆らない。そう実感しながら、ミオは…、
(考えろ!生き延びられるはず…!考えるんだ!)
諦めず、必死に頭を回転させていた。
倒す事は不可能。逃げ切るのも難しい。
それならば、取る手は決まっている。
不可能な方は切り捨てて、難しい方に全力で挑むだけ。
そう自分に言い聞かせる事で迷いを消し、逃げの一手に集中した。
ワイヤーを伸ばし、とにかく高低差を利用して移動するミオは、ヘイムダルを引き離せないが、やがてある事に気がついた。
いかにエインフェリアとはいえ、リミッターのカットは永久的な物ではない。披露に強く、長時間保つとはいえ、スタミナ
は無限ではないのだ。
しかし、ミオのワイヤー装備は高圧バッテリーが尽きるまでは、本人の体力と無関係に動く。自力と小道具、二つを絡めた
移動ならば、自身のスタミナ以上に動き回れる。
ひたすら逃げる根競べ。そう割り切ったミオの狙いは、間違っていなかった。
瞬間的なリミッターカットとワイヤーの補助で、いくつもの屋根を越え、路地に降り、飛び上がるミオを追うヘイムダルは、
少しずつ遅れてゆく。上下の移動を積極的に利用した、自分に有利な逃走術だった。
(くそっ!逃げに集中されると厄介だな。あの装備に加えて、グチャグチャな町並みはあっちの味方だ!)
舌打ちをしたヘイムダルは、リミッターカット許容時間の最後に、一気に間合いを詰めにかかった。
肉薄する狐。逃げるアメリカンショートヘアー。距離が詰まる両者が疾走するのは、製糸工場の長い屋根。
逃げ切れるか、否か。屋根の縁からの跳躍に全てをかけたミオは、しかし…。
(何か来る!…うっ!?)
踏み切る直前にバランスを崩していた。その脇で、ジルコンブレードが屋根に突き刺さる。
投擲されたジルコンブレードに勘で対応し、回避動作を行なったものの、ミオはその太腿を掠められ、浅い傷を負った。
よりによって、致命的なタイミングで…。
「あ!」
体勢を崩したまま、屋根の縁を越えて宙に踊るミオの細い体。
「え?」
下の方から声が聞こえたが、確かめている余裕はない。
駆ける勢いそのままに、落下しながら向かいの壁へとぶつかって行ったアメリカンショートヘアーは、雨どいに手をかける。
だが、その脆い金具は簡単に煉瓦壁から外れ、落下の勢いを殺しながらも、ミオは霧がたまった地面へと落ちてゆき…。
「下がれラドっ!」
「グェッ!?」
けたたましい音を立てて霧の中に落下したミオは、そんなふたり分の声を聞いた。
受け身を取り、四つん這いで地に降りた少年の脇で、壁から外れた雨どいがけたたましい音を立てる。
「がふっ!げほがほっ!うぇっ!」
落下の衝撃は和らげたものの、全力疾走の反動で肺が勝手に収縮し、冷たい石畳に四つん這いのミオが、咳き込み、えずく。
濃い霧が鼻と口から肺に流れ込み、それがまた咳を誘った。
だが、悠長に苦しがっている暇はない。
身を起こし、構え、天を見上げる。
(失態だ…!ぼくのせいで犠牲者を出す訳には…!)
民間人がここに居る。
ラグナロクの構成員、しかも中枢のエージェントが、目撃者を生かしておくとは思えない。連れてきてしまった責任を取ら
なければいけない。
「な、ななな何ーっ!?何がどーなって…」
驚きのあまり混乱しているラド。もう数歩前に居たなら、落下して来たミオの下で潰れていたところである。
その脇で、ラドの後ろ襟を掴んで危機から救ったフランツは、
(あのナイフ…?)
霧の中から立ち上がり、屋根の上を見上げるミオの手に、見覚えのある刃物…すなわち軍用ナイフを確認していた。次いで
アメリカンショートヘアーの視線を追い、上へ目を向けた黒兎だったが…。
(何だ?)
屋根の上で、何かが翻ったのをかろうじて目にしただけだった。
(民間人か。…くそっ、しくじっちまった…)
ヒュンッと手首で獅子王を回転させ、流れるような動作でスチャリと鞘に納めたヘイムダルは、投擲して屋根に刺さった剣
を引き抜き、身を翻した。
誰も居なくなった屋根の上を、その縁を、見上げたまま身構え、微動だにせず、呼吸を整えていたミオは、やがて小さく息
を吐く。
(見逃された…?どうして?)
ヘイムダルの追撃は、ついに無かった。
一度は刃を交える覚悟を固めたミオだったが、安堵と疑問を同時に覚える。そして、自分を見ている兎と蛙にちらりと目を
向け、ふと思った。
(見られたから消す…。それはきっとそうなんだろうけど、見られないために退いたの?)
任務遂行の為、自分を捕らえて尋問する為、ここまでやったならやり遂げた方が手っ取り早いだろうに、民間人に見られな
いように身を引いたのだろうか。そう考えたら判らなくなってきた。
そして、窮地を逃れながら、もう一つ問題が発生したミオは、考える。
(どう説明しよう…)
ラドが、フランツが、自分に視線を注いでいる…。
屋根から落ちて来た不審人物をどう思っているのか、想像するだけで頭痛がしてきた。
一方、ヘイムダルは足早に屋根の上を歩んでその場を離れながら、投擲したジルコンブレードの刃を仔細に眺めていた。
歯に付着した僅かな血。与えたのは皮膚を切ったに過ぎない傷だった。
(腕前だけ見りゃあ未熟もいいトコだが…、なかなかの反応だ)
ヘイムダルは薄い笑みを口の端に乗せ、目を輝かせた。
技術も身体能力も、狐から見れば未熟で物足りない。だが、咄嗟の機転に反応の良さ、力量差を把握してなお委縮しない胆
力、逃げの一手を決断する思い切りの良さなど、内面には見るべき物がある。
喧嘩相手としては不足でも、兵として見れば必要充分にプラスアルファといったところ。
一つ解せないのは、動きその物だった。
ラグナロクのクローン兵士にしては戦技が奇妙だった。一般兵に仕込まれる戦技の癖が全くない、明らかに別物の何かになっ
ている。ただの脱走兵ではないと確信したが…。
(狙いは何だ?何でこんな町に居る?田舎に引き籠ってコソドロで生計を立ててんのか?それとも「犯人は現場に戻る」か?
教会を騒がせた犯人はアイツなのか?…それにしたってコソドロレベルの動きじゃねーよな?どっかで訓練でも受けたのか?)
ともあれ、クローン兵士であるという仮説にほぼ間違いないだろうが、サンプルは取れた。
ミオの血液が付着した刃を、懐から取り出した白いガーゼで拭い、それを薬剤で満たされたポリ容器に封入する。
傾斜した屋根の上を平らな歩道歩くような足取りで行きながら、作業を終えたヘイムダルは、闇の中へ跳躍する。
はためく裾の音に、たまたま通りに居合わせた住民が見上げるが、視線が移った時にはもう狐の姿はなく、夜空に鳥が羽ば
たいたのだろうと思い込んだ。
(予定外の発見だったが、任務を優先しねーとな)
郵便局の、尖塔のように高くなったその天辺へ駆け上り、ヘイムダルは町を見回した。
「さっきの小僧は無関係だな。たまたま居合わせただけか、それとも…」
狐は夜風を身に受けて、尖塔から伸びたポールのように直立しながら、耳を後ろに倒す。
霧に覆われる、眼下の町を見下ろして。
「俺と同じで、「コイツ」について調べに来たのか…?」
だとすれば、どこかの組織の者なのか。それとも政府側に立つ調停を為す者か。後者だとすれば少々面倒な事になると、ヘ
イムダルは考える。
ラグナロクを抜けた者が、どこぞの小組織に属したところでどうという事は無いが、体制と設備が整った政府機関に属して
いるとなれば、情報の流出が懸念された。もっとも、一介のクローン兵士が持ち得る情報に、中枢に関わるような重要な物は
含まれていないはずだが…。
「とにかく、だ。今は目の前のコイツだな」
ヘイムダルは意識を正面へ戻し、霧を見据えて眉根を寄せる。
「出所は何処だ?この霧…。そして、出してる奴は…」
「えーと…。あの…」
ナイフを片手にぶら下げ、もう片手にトンファーを握ったまま、ミオはおずおずと口を開いた。
その困ったような目が映すのは、黒い兎と肥ったヒキガエル。
目を真ん丸にしているラドの視線は、屋根から落ちてきた猫が握っているナイフに釘付け。
足を適度に開いて半身になり、少し腰を落としているフランツの目も、一時はそこに注がれていたが、今はミオの顔に向い
ている。
(困ったなぁ。何て言い逃れすれば…)
説明抜きに脱兎の如く去ればよかったのかもしれないが、タイミングを外してしまったので、ミオは言い訳を考える。だが、
こんな異常な状況を丸くおさめる嘘など、咄嗟に思いつけるはずもなく…。
「ぼ、ぼぐはあゃしぃ者ぢゃありまっせん!」
ようやっと声を発したが…、噛んでいる。しかも声が裏返っている。
「あやしいでしょー!?どう考えてもあやしいでしょー!?」
ラドから即座に突っ込みが入った。突っ込める辺り、動揺はしていてもある程度の余裕があるらしい。
ごもっともな指摘に声を詰まらせるミオ。
(あのひとだったら、こんな時どうしたろう…!)
ハティならどんな切り抜け方をしたかと考えてみるが、彼ならばそもそもこんな状況に陥るヘマをしないような気がして、
一般人に言い訳している姿など全く思い浮かばず、参考にならなかった。
(タスケテギュンタークン!)
嫌な汗がふつふつと浮いて来る。ヘイムダルと交戦していた時とは別の意味で追い詰められているミオ。余裕が無いという
意味では同じだが…。
「…君は…」
やがて、静かに口を開き、ミオとラドの視線を引いたのはフランツ。
探るような目を少年に据えたまま、黒兎はその指を、ミオが手にしている軍用ナイフへ向けた。
「いや、貴方は、軍の関係者ですか?」
「へ?」
ミオはきょとんとして、それからナイフを収めていなかった事に気付き、あわてて鞘に押し込む。
「え、えぇと…、危なかったですね。ごめんなさい…、あ、あははは…!」」
トンファーも腰の後ろのホルスターに戻し、ごまかし笑いを浮かべながら口ごもるミオに、
「そのナイフ、陸軍の支給品と同じ型ですね?」
フランツは生真面目にそう尋ねた。
そしてミオは気付く。このひょろりとした黒兎が、緊張はしていてもやけに冷静な事に。
「済みません。申し遅れましたが俺…、あ、自分は士官学校に席を置く者でして…」
フランツが背筋を伸ばして自己紹介し、所属と名を告げ始めると、ミオは目を丸くし、それからホッとした。
(偶然に救われた…!軍関係者なら説明が楽だ…!)
とはいえ、ギュンターと違ってまだ表向きの所属や肩書き名を受け取っていないミオは、相手が軍関係者でも油断できない。
怪しいと感じられて紹介をかけられたなら、最終的にはギュンターの兄…大佐の耳に入り、然るべき処置を取って貰えるだろ
うが、その間は行動が制限されかねない。
「ぼくはミオ・アイアンハート。階級は少尉です。…あの、ぼくはその…陸軍のある部隊所属なんですが、訳があって所属は
言えなくて…」
「あやしー…」
ぼそりと呟くラド。ですよね…、と耳と尻尾をヘナリと倒すミオ。しかし…。
「公にできない任務、という事であれば詮索は致しません」
フランツはそう、ミオの言い分に肯定的な返事をした。
「え?ちょっとフランツ…?」
懐疑的なラドを無視して、フランツは直立不動のまま手を上げ、額に添えた。
「協力は惜しみませんので、何なりと言いつけて下さい。学んでいる最中の未熟な身ですが、自分もいずれ軍人になる男です。
お力になります、少尉殿」
フランツにピシッと敬礼されて、ミオは曖昧に返礼する。
「有り難うございます、フランツ士官候補生。でも、今のところは人手が必要な事態にはなっていないので…」
上手く誤魔化せたと安堵し、気遣いへの感謝を込めて表情を緩めたミオは、
「…少尉殿?」
堅苦しい士官候補生が発した疑問の声に、一瞬答えられなかった。
白い霧の中、妙に前傾した姿勢で、こちらへ歩いてくる者がある。
路地をひたひたと進んでくるのは、ジャンバーにジーンズ、ブーツという、若者らしい格好をした人間の青年だった。
また見られた。…そんな事が気になって黙り込んでいる訳ではない。ミオはその青年を見つめたまま、得体の知れない悪寒
を覚えた。
―気付いているわね?ナハトイェーガー…―
出し抜けに頭に響く声。ハッと目を見開くミオ。
音ではない声の出所が何故か判り、反射的に目を向けた先は、ヒキガエルの顔だった。
「え?な、なにー?」
唐突に凝視されて戸惑うラドの、その右目だけに、本来映っているはずのミオが居ない。その代わり、色白の人間に見える
女性の顔が映り込んでいる。
ヒキガエルの右目に像を結んだ女性は、小さいながらもはっきり判る渋い顔をしていた。
―酷い事をする物ね…。これも、ひとのカルマなのかしら…―
「…どういう事です?」
ヴェルヅァンディの像と、歩み寄る青年の顔を交互に見ながら、ミオは呻くような声を発した。
違和感。悪寒。嫌悪感。負の感覚が訴える。迫る危険を…。
「え?え?どういうって…なにがー?」
自分の右目を介されて会話されているラドは、ミオが自分に話しかけているように思えて首を傾げるが…。
―気付いているんでしょう?―
雪女はその美しい顔を、憂いに染める。
―見ているソレが、もうひとではなくなっている事に…―
ミオの目が動く。素早く。
歩み寄っていた青年が極端に前傾する。獣のように。
荒々しく地を蹴る音。青年の跳躍は、まっとうなひとの範疇にない、大きな放物線を描いた。
口を大きく開け過ぎて、唇の両端と頬の肉が裂けた、その青年の目は、薄く、ぼんやりと、寒気のするような光を放ってい
る。
「伏せて!」
ミオの警告は、その視線に気付いて振り返ったフランツが漏らした、「う!?」という驚きの声に重なった。
ひとりだけ異常に気付いていないラドは、目をパチパチしばたかせながら首を捻っている。
飛びかかった青年の狙いは、この場で最も無力なヒキガエル。だが、ラドは自分が狙われていることにも、迫る危機にも、
気付いていない。
ミオはゾワリとうなじの毛を逆立たせながらも、宙にある異形の存在をキッと睨み、兵士の貌に戻る。
(いける!?いいや、いく!リミッターカット!)
酷使した脚が悲鳴の軋みを上げ、浅く切れた太腿からの出血が増した。しかし、小柄で軽量なその体躯が幸いし、限界ギリ
ギリのリミッターカットでも高速駆動を得る。
まるで、レスリングなどで見られる低いタックルを仕掛けるように、ミオはラドの腰へ突進した。
「え!?わぁー、おぶぅっ!?」
ラドが上げた驚きの声は、一瞬で苦鳴に変わった。
突っ込んできたと思うや否や、自分の半分も体重がなさそうなミオの目にも留まらぬタックルで、鮮やかに仰向けにひっく
り返されて。
濃密な白い霧の中へ、重なり合って倒れ込むふたり。その上を青年が通過し、ダンッと石畳へ、上体から突っ伏すように着
地した。
まるで獲物に飛び掛る獣のように、その両手が前足となって体を支えたが、しかし負荷に耐え切れず、折れた骨が前腕の皮
膚を内から破って、尖った先端を露出させる。
だが、痛みを感じていないように、青年はむくりと身を起こし、振り向いた。着地の際に石畳に食いついた口から、折れた
歯と血を零しながら…。
「くっ!」
身を起こそうとしたミオは、また霧を深く吸い込んでげふっと噎せる。
だが、悠長に咳き込んでいる余裕は無い。
自分と同じく霧を吸って噎せている…のではなく、腹部と腰部への強烈なタックルで噎せているラドの首後ろに手をかけ、
「ふんっ…ぎぃーっ!」
肥えたヒキガエルの重たい体を、強引に引き起こして座る格好にさせ、霧から顔を出させた。
そこへ、異形の何かと化した青年が、両手を広げ、覆いかぶさるように襲い掛かる。
片膝立ちで、しかもラドを支えている格好のミオは、迎撃体勢に無い。
助け起こすよりも迎撃を優先すべきだったと、失敗を悔やみながら腰の後ろへ手を伸ばす。
ナイフでの迎撃は無理があった。勢いを留められない。トンファーの光弾ならば弾き飛ばせるが…、
(ぼくは、どこまでも未熟だ…!)
一般人の前でレリックウェポンを使用する失態。悔やむミオが、背に腹はかえられず射撃体勢に入ったそこで…、
「このっ!」
横合いから、黒い兎がその長い脚を伸ばした。
ステップインからのサイドキック。腰が定まり、体重も申し分なく乗ったその蹴りが、光る目の異形を横転させた。
相手へダメージを与えるための物ではなく、腰骨を狙って横から体勢を崩すための蹴り。さらには脚をすぐさま引き戻し、
反撃に備えながら追撃も狙える構えになっている。
良い判断だと心の中で賞賛しながら、ミオはトンファーとナイフ、両の得物を携えて、疾風のように前へ出た。
(これは、もう…)
跳ね起きて四つんばいになり、霧の上に首を出す異形。その瞳が薄ら寒い光を放っている様を確認し、ミオは決心する。
(「ひと」じゃない…!)
霧を乱し、素早く飛び掛る青年。
霧を裂き、真正面から挑むミオ。
両者とも極端な前傾姿勢で接近し、刹那の内に交錯する。
じゃりりっと歩道を踏み締めて急停止したミオの背後で、喉をナイフで薙ぎ払われた異形の青年は、大量の赤を白い霧に注
ぎ落とした。が…。
(まだ!?)
致命傷となるほどの傷を負いながら、急制動をかけ、ぐるりと振り向き、グバァっと大顎を開ける青年。
左で逆手に握ったナイフを振り抜いたミオは、上体をそのまま捻って向き直る最中、相手が倒れない事を確認している。
油断したところを真後ろから襲われては事だったが、油断無く構え直そうとする、体に染み付いた訓練の成果がミオを救っ
ていた。そこへ…。
―傷を負わせるだけでは駄目よ―
ナイフの刃に移り込んだヴェルヅァンディが警告する。
―アレはもはや、生物として重要な器官を傷つけたとしても、機能停止に至らないわ。脳を潰すか、首を切り離しなさい―
体を開き、掴みかかるように伸ばされた腕を避けたミオは、相手の胴へ切りつけて後ろへ抜けながら、妙な手ごたえに眉根
を寄せる。
ひとの肉ではない、別のある物に近い感触だった。
(これ…、ゴム!?)
ミオは今日に至るまでの多彩で厳しい訓練の中で、様々なものへ刃を突きたて、その抵抗と引き抜き難さ、手の痺れを学ば
された。その折に体験した、大型車のタイヤに刃を突き立てた際の感触が手に蘇る。
見れば、相手の脇腹を薙いだ刃に、べったりと何かが付着している。
それは樹液のような、甘く粘り気のある異臭を放っていた。
―貴方という脅威に対応するため、変質が加速されているわ。そのナイフでも肉が切れる内に仕留めなさい―
「くっ!」
三度目の交錯。相手の旋回性能を越え、最後のリミッターカットを行なったミオが、振り向きつつある青年に肉薄し、通り
過ぎる。
その喉にナイフが刃を潜り込ませ、首に倒して水平に浅くめり込み、ミオの手が離れる。
「あ!」
速すぎて何が起きているか把握できていないが、ラドはミオが素手になった事を察して声を上げた。
だが、深々と首に食い込み、絡め取られて手放したように見えたそのナイフへ、駆け抜けざまに旋回したミオの右腕が、後
ろ向きに叩きつけられる。
握っている得物はトンファー。硬質な黒い光沢を持つそれは、バックナックルで、相手の首に食い込んだままのナイフの峰
へと送り込まれていた。
ボン。と音が鳴り、噴水のように血が吹き上がる。
首から上が飛んだ青年の体は、しばしそのまま揺れていたが、落下した頭部がゴンッと石畳に当たると同時に、まるで白い
海へ沈むようにして、霧の中へ崩れ落ちた。
漂う鮮血の匂い。その中に樹液のような甘味が感じられる。
霧の中に倒れ、よく見えない相手の体が動かなくなっている事を確認しながら、ミオは愕然としていた。
(レディスノウ、これは…!?)
ひとに擬態する危険生物の話は聞いた事があったが、それとは違うと確信している。
ひとが、違う何かに変質していた。
―元は人間の青年…。それが…、ひとでは無…何かに変質させられ…―
応じる「声」は聞こえた。だが、その像がどこにも見られず、声自体も遠く、ミオは首を巡らせる。
―先に貴方が接触し…黄昏の狂戦士…、これを、調べに来…―
(レディスノウ?よく聞こえませんよ?)
―霧は…危険…。まさか…実用化…ている…は…―
ミオは急に焦りを覚えた。
ひとならざる者。オールドミス。伝説の魔女…。二つ名の数々が人類の範疇にない事を示しているヴェルヅァンディの力が、
何らかの要因によって遮られているのではないかと。
―貴方はまだ、「夜」に殺され…恐れが…る…、未熟…狩人に過ぎな…―
(レディスノウ!何が起きているんです!?)
―貴方の中の「夜」に…、飲まれないよう…気をつ…なさい…。くれぐれも…。くれぐれも…―
そして、「声」は途切れた。