ファルシャーネーベル(act8)
周囲を見回しながらしばらく耳を立てていたミオは、やがて視線を足元へ戻した。
首を飛ばした、異形の何かと化した青年の死体が、霧の中に埋まっている。
(何なんだろう、この状況は…)
状況を把握するには情報が足りない。赤石泥棒に教会の事件、それらを調べている最中に放り込まれたこの異常。さらに黄
昏まで動いている。
だが、ゆっくり思索を巡らせる猶予は与えられなかった。
「ひ、ひとごろし!」
鋭い声に、ミオは顔を上げる。
腰が抜け、霧の中にへたり込んでいるヒキガエルが、恐怖と動揺に染まった瞳を潤ませて、ミオを凝視していた。
「ひとごろし!ひとごろしだー!助けてー!」
ショッキングな場面を間近で見せられ、取り乱しているラドが必死に手足をばたつかせ、後ろに尻を擦って逃げようとする。
だが、慌てる手は霧で湿った石畳の上を滑り、思うように動けない。
「ラド。落ち着け」
一方で、フランツは冷静だった。
幼馴染に歩み寄り、その肩に手を添えてしっかり掴みながら、霧に沈んでいる死体へ目を遣り、軽く顔を顰める。
「正当防衛だ。相手はまともじゃなかった」
そう。まともではなかった。精神状態のみならず、動きがひとのソレではない。
「これは、一体何なんですか?」
やがて黒兎は、ラドを引き起こしてしっかり肩を掴み、宥めながら、ミオに訊ねる。
「判りません」
少年の返事は短かった。が、フランツはこれに不満も唱えず、「口外できない事なら、詮索はしません」と配慮を示す。
「いえ、それが…、本当に判らないんです。この状況に混乱しています」
素直に応じたミオは、しかし失敗だったかな、と発言を省みた。ふたりを安心させるためにも、事態を把握しているふりを
すべきだったかもしれない、と。
「とにかく、ふたりはこの場を離れてください。それと、この事は誰にも言わないように…」
「一般人に口外はしません。…ラド、判ったな?喋るなよ?」
察しのいい返事をしたフランツは、ラドにも釘を刺す。しかしヒキガエルは聞いているのかいないのか、目に涙を溜めてガ
クガク震えるばかり。
「これはどうします?」
フランツは死体を一瞥してからミオの顔を見遣った。
「こちらで然るべき処置を取ります」
これ以上は巻き込めない。身元と連絡先を確認し、一旦離れるべきだろうと考えたミオだったが、
「手伝いましょう」
黒兎は任せてくれと言わんばかりに背筋を伸ばした。
「いえ、そこまでは大丈夫です。手を借りられる仲間を呼びますから。貴方は…」
気遣いに対する感謝の笑みを浮かべ、ミオはラドへ目を向けた。
「そっちの友人を…。ショックだったでしょうから、安全なところまで連れて行って、落ち着かせてあげて下さい」
この返答に、フランツは一瞬落胆したような顔を見せたが、しぶしぶ頷いた。
「連絡先を交換しましょう。警察等から変な容疑で誤解されないようにこちらで手配しますが、もしこの件で何かあったら連
絡を下さい。すぐに対処しますから」
ミオが告げたその内容は、この件からふたりを遠ざけるという意味を含んでいた。
それはミオからすれば出来得る限りの対処だったが、フランツは不満げだった。
そして、赤外線通信を利用し、黒兎と携帯間でデータを送受信した後、ミオはふたりを立ち去らせ、ギュンターの携帯端末
をコールする。
事態は急変した。もはや悠長に調査などしていられない。ミオはこの時点で応援要請を決意していた。
シェパードがため息をつく。
湯気立つコーヒーがなみなみと注がれたカップを前に、休憩ブースのソファーにもたれて。
事故にあった女性が襲い掛かってきたのでやむなく射殺した。はずみでも、混乱の中での事故でもない。明確に襲われ、仕
方が無いと判断して撃った…。
そう報告したシェパードだったが、現場に居合わせた者以外は、説明を聞いても訳が判らなかった。だから最初は疑いの目
で見られた。怪我をして錯乱している女性を、勘違いで射殺したのではないか、と…。
だが、そんな疑いはすぐに吹き飛ばされた。
シェパードが射殺した女性の死体が、あまりにも異様だったので。
「体液が、樹液のような物に変わっている?菌糸のような物が体内に根を張っている?…何の冗談だ…」
力無く呟いた警官は、しかし笑えない。
何故なら、その簡単な検死の結果に、ああなるほど、と納得してしまった自分が居たので。
あきらかにまともではなかった。あきらかにひとの動きではなかった。納得だ。ひとではないのだから…。
「いや、ひとではなくなったから、か…」
詳しい事は専門の設備がなければ判らないがとにかくそれは、普通の人間女性の死体ではなかった。今は精密な検査が行な
えるよう、ひとと機材の手配をしている最中である。
あの後、女性のボーイフレンドである犬獣人も警察に保護され、事情聴取された。その断片的な情報をシェパードも同僚か
ら聞いている。
事故に至るまでの経緯はこうだった。
ガールフレンドはここ数日体調を崩し、咳が止まらなかった。
今日は特にひどく、起き上がるのも辛そうだったので、病院へ行く事を勧めた。
大袈裟だと嫌がったが、大事になっては堪らない、と車に乗せ、救急病院へ連れて行こうとした。
ところが、車に乗せて間もなく、激しく咳き込み始めたと思ったら…。
「「死んでいたんです」…か…」
シェパードの耳に、取調室内から響く若者の泣き声が蘇る。
恋人は喉を押さえて悶え苦しみ、犬獣人は車を停めた。
しかし、呼びかけにも答えられないほど苦しがった彼女は、急に静かになった。
気を失った…のではなかった。
呼びかけて、脈を取って、呼吸も鼓動も止まっている事に気付いた。
若者は取り乱した。それでもとにかく病院へ運ばなければと、泣きながら車を飛ばした。その途中で…。
「「起き上がって、噛み付いてきたんです」…か…」
コーヒーは冷めてゆくが、シェパードは口をつける気になれないまま、カップを取り、そして戻す。
脈拍も呼吸も止まっていた彼女は、それから数分後に上体を起こした。
喜んで、安心して、泣き笑いした犬獣人は、しかしいきなりその肩口に食い付かれた。
そして、ハンドルを操作し損ない、事故を起こした。
あとはシェパードや他の警官が、現場で見たとおりである。
だが、一つだけシェパードが報告していない事があった。
それは、現場で一瞬見た気がした、老人の事…。
動転していたので、何かを錯覚したのかもしれない。ただでさえ混乱している署内に、他愛の無い見間違えをわざわざ放り
込んでかき回す事は無いだろう。そう考えて誰にも言わなかったのだが…。
「あ、警部!」
通路を駆けて来る音に続いて、焦っているような声での呼び掛けが耳を打ち、シェパードは顔を上げる。
少し年下の警官が、慌てた様子でシェパードに告げる。
「病院でも出たみたいです!」
「出た?」
何がだ?と問いかける前に、シェパードの首筋で被毛が立った。
「患者が暴れてるって通報があって、現場に行った連中が…」
報告を聞きながら、額に手を当てるシェパード。
射殺されたというその患者の様子は、シェパードが撃った女性とまるっきり同じだったいう。
「それだけじゃないんですよ!車でひとを撥ねたって泣きながら電話して来た誰かが、その電話中に悲鳴を上げて、そのまま
話が出来なくなったって…」
「今か!?」
「いえ、一時間ぐらい前だそうで…」
「その話は聞いていないぞ!?」
「最初は悪戯だと思ったそうです」
くそっ、とシェパードは呻いた。現実にあんな事が起きた後でなければ、確かに悪戯だと考えてしまうだろう。
だが、今ならば想像できる。
恐らく、撥ねた相手は例の「何か」。慌ててその場で電話を寄越したドライバーは、霧の中で起き上がったソレに気付かず、
動転したまま襲われて…。
そこまで想像し、頭を振ってリアルに思い浮かんだ情景を追い払ったシェパードは、サイレンの響きに気付いた。
やけに多いこのサイレンは、まさかその全てが…。
「それで、病院に行った連中が、妙なのが何人も居るって…」
「何人も…」
「応援が欲しいって事で、今人数を纏めてました。それで、部長が警部からもう一度詳しく話を聞きたいと、警部を探してい
まして…」
「判った、すぐ行こう」
既にくたくたになった体を叱咤して立ち上がり、シェパードは歩き出す。
休みたいなどと言ってはいられない。この異常は大規模な物だと直感している。
「部長はどこに?」
「第三会議室で準備中です。警部には皆の前で話して欲しいと…」
同僚の警官の声が途切れた。
シェパードも尖った耳をピクリと動かし、通路横手のドアを見遣る。
取調室と札に記されたその部屋の中からは、悲鳴。そして怒号。さらには発砲音。
「なんっ!?」
驚きと疑問が半々の声を漏らす同僚の横で、シェパードは我知らず、ホルスターに収まった拳銃に手を添えている。
内側から勢いよく開けられたドアから、同僚の警官がひとり、腕を押さえて転げ出た。
「おい!何が…」
シェパードの声が途切れる。
警官の後を追うように、ゆらりと部屋から出てきたのは…。
「こ、こいつ…!?」
先程、ひとではない何かに変わった恋人に襲われ、事故を起こし、事情聴取を受けていた犬獣人だった。
その口元はべったりと血で汚れ、虚ろな目は青白い寒気のする光を放っている。
廊下に転げた同僚の腰には、抜かれていない拳銃。
では、先の発砲音は?発砲した者は?
疑問にはすぐ答えが出た。認めたくなくとも判ってしまう。もうひとり中に居ただろう同僚は、もう…。
「くそっ!」
銃を引き抜くシェパード。
衝撃と驚愕の中、彼は感じた。
(まさか…!「これ」は感染するのか!?)
霧の中、首と胴が離れた死体を引きずり、街灯から離れた路肩の暗い位置へ移動させたミオは、ギュンターを待ちながら考
えていた。
(「犯人は現場に戻る」か…。あのエインフェリア、どうしてあそこに戻ったんだろう?教会の中にまだやり残した事があっ
た…とか?)
この死体は、異常な何かは、黄昏のモノなのか?
(ひとではない何かに変えられた。そう、レディスノウは言っていた…)
ヘイムダルが自分を深追いしなかったのは、コレが襲い掛かって始末すると考えたからなのだろうか?
いや、とミオは思い直す。
(レディスノウは、彼がこれを調べに来た…というような話をしていた。この野獣みたいになった人間男性は、彼の側の物じゃ
ないって事だよね?…それにしても、レディスノウの話の途切れ方がおかしかった…)
本体が何処に居るのか、そもそも物理的な肉体があるのかどうかすら判然としない、もしかしたら霊体のような何かなのか
もしれないとすら思えているヴェルヅァンディだが、「居る」とすれば北原なのだろうと、ミオは考えている。そこから、ど
んな手段を用いてか、何かが映るような物…鏡や水面、ガラスや金属などを介して姿を見せ、声を飛ばしているのだろう、と。
つまり電波や音波のように、本体の居場所から何かを発信しているのだろうと想像しているのだが、さっきはそれが上手く
行かなくなったらしい。
(まさか…。ジャミングみたいな物が働いてるの?それも、レディスノウが阻害されるレベルの…)
予想以上に大きな力がこの町に働いているのかもしれない。身震いしたミオは、ふっと顔を上げて耳を立て、警戒した。し
かし…。
(足音。これは…)
判別し、緊張を解いたミオは、霧を蹴散らしずんずん進んでくる青年に、軽く手を上げて合図した。
「連絡を貰ってすぐ、兄上に連絡して救援を要請した。…で、コイツか?」
歩み寄りながら報告したギュンターは、ミオの後ろで霧に紛れさせてある死体を一瞥する。
「獣のように動く、ひととは思えない何か、か…。信じ難いが、事実だからな…」
「あれ?妙にすんなり…」
詳しい説明もしていないのにと、納得顔のギュンターを疑問の表情で見つめたミオは、友人の衣類が少し乱れている事に気
付いた。
「体感すれば、納得もする」
そう呟いたギュンターのコートの袖には、僅かにだが泥が付着している。
「遭遇したの!?」
「ここまで来る途中で、エンジンとヘッドライトをつけたまま、ハザードランプも上げずに道路の真ん中で停まっている車を
見かけてな。傍で霧の中に屈んで蠢いている何かが見えて、近付いたら掴みかかられた。話が通じなかったので、取っ組み合
いの末に投げて地面に叩き付け、頭部を蹴り潰した。剣が無くて困ったが…、ミューラー特曹のやたらしつこいレスリングト
レーニングは、妙な所で役立つな」
埃を払いながら応じたギュンターは、唖然としているミオへ、肩越しに背後を親指で指し示して見せた。
「心が痛んだが、その車を拝借して死体を積んできた。襲った方と、襲われた方も。それにしても…」
青年は険しい表情になり、「このサイレンだ」と視線を上に向ける。
「四方八方からこれだ。救急車に消防車、警察も動いている。…俺達が遭遇した物は、少数ではないのかもしれない…。リッ
ターが本格的に介入する事になるだろうが、運悪くここは…」
「国内…」
ミオは表情を引き締めた。
応援要請でまず動いてくれるのは、ギュンターが所属し彼の兄が率いるヴァイスリッターである。
しかし、白騎士達は本来対外的組織であり、国内での秘匿事項関連案件は黒騎士団…シュヴァルツリッターの領分。
問題は、この黒騎士団は、国内に安寧をもたらすためならば躊躇無く患部を切り捨てる、無慈悲な番人であるという事。秘
匿事項に直接接触した一般人を、混乱の元になるとして半永久的隔離に処す事も多く、時には口封じに処分することすらある。
「拡大前に何とかできないかな?」
「無論だ。兄上…いや大佐がご到着なさり次第、ヴァイスリッターのみでケリをつける。あくまでも「臨時の対応の結果、必
要に迫られて」という形で…」
シュバルツリッターは、同じリッターでも指揮系統が異なる上に対等の権限を持つため、ヴァイスリッターから強制力の無
い要請はできるが、命令はできない。
さらに、ヴァイスリッターが国内での対処に当たれるのは臨時に限った事であり、本来はシュバルツリッターに任せなけれ
ばいけないし、主導もそちらになる。
「幕引きを急がなければ、現場を見た黒騎士がどう動くか…」
歯噛みするギュンター。
基本的に生真面目で善良な青年なので、黒騎士の方針や対処、冷酷さや不寛容さを、時には必要な物だと理解しながらも、
もう少し酌量の余地があるのではないかと疑問も抱いている。
「ぼくらだけでも、やれる事をやっておかないと…」
実際に目にした事が無いミオにとっても、この友人などを経由して聞いた評判から、黒騎士に出張って貰うのは有り難い事
とは思えなかった。
「少しでも早く…」
「ああ、僅かでも犠牲を減らし…」
少年と青年は頷きあう。
『この事態を調停する』
自宅である緑のカエル亭まで、あと半分ほどまで来たところで、ラドはちらりと、横のフランツを見遣った。
ミオに言われた通りにラドを送って来た黒兎は不機嫌そうで、ここまで会話は殆ど無かった。
「ねー。あの猫の子、本当に軍人なのー?」
沈黙に耐えかねて、ラドは口を開いた。声が震えているのは、先ほどのショックが抜けていないせい。
衝撃を受けているし、泣き出したいほど怖かった。だから、フランツにはだんまりを決め込まず、慰めたりして欲しかった
のだが…。
「まだ疑ってるのか?本物だよ。正確な所属は判らないが、たぶん特殊部隊だろうな。身のこなしが普通じゃないし、あの軍
用ナイフは陸軍用で、一般に出回らない物だった」
「でも、あんなに若いのに?僕らより年下じゃない?」
「エリート将校なんだよ。…だから、チャンスだったんだ…」
フランツは悔しそうに顔を顰める。
「チャンス?」
理解できずに目を剥いたラドに、フランツは「判らないのか?」と首を縮めた。
「顔を売っておけば、正規軍人になった暁には有力なコネになるかもしれないだろう?」
ラドは疑問を覚えた。
ひとが死んで、何か事件が起きていて、それがコネを作れるチャンスになる…。
フランツが言っている内容は判るのだが、それでも…。
(そういう物?そういう物なの?軍人って、そうなのー?こんな状況でチャンスとか…、なんでそんなに落ち着いて、物を考
えられるのー…?)
ヒキガエルには判らなかった。自分が抱いている疑問が具体的にどんな物なのか、把握できなかった。
それでも、何かが違うのではないかと、強く感じていた。
そしてまた、会話が途切れる。
しばらく無言のままふたりは歩み、宿の看板が見えてきて、
「ラド。ちょっと」
フランツはまだ距離があるそこで、ラドの手を引いて、街灯の光の輪から遠ざかった。
「なにー?」
「目を閉じてろ」
首を傾げたラドは、言われるままに目を瞑る。
すると、そのたっぷり肉がついた柔らかい顎下に、兎の手が添えられて、顔を少し上へ向けられた。
何をされるのか判ったラドは、大人しくそれを待つ。
少し間が空いて、焦らしているのかな?と考えたその時、唇が押し付けられ、舌が入ってきた。
暗がりで抱き合い、交わす口付け。
ビールの味か、それとも焦げたジャガイモの味か、口の中をまさぐるフランツの舌にはほんのり苦味があった。
半ば麻痺したまま胸の中に保管されている怖さが、衝撃が、少し溶けて流れ去ったような気がして、ラドは体を弛緩させる。
タプタプの体を細い兎の体に押し付け、密着し、強く口を吸って、甘えるようにもぞもぞと体を擦り付けたラドは…。
「じゃあ、気をつけて帰れよ?さっきの事は誰にも言うなよ?」
プハッと口を離したフランツがそう念を押すと、「え?」と目を大きくした。
「泊まって行けばいいのにー」
「今日は無しって言ったろ?」
応じたフランツは、トンとラドの肩を押した。
「家で大人しくしてろよ?起きたら連絡入れるから」
「むー…」
しぶしぶ頷き、「じゃあ明日ー…」と踵を返したラドを見送り、フランツは…、
(さて、行くか…。まだあそこに居るかな?)
ヒキカエルの姿が宿の中に消えるのを見届けてから、踵を返す。
ミオと会った、あの事件現場へ向かうために。
(さて…、こいつは一体どういう事だろうな?)
狐は直剣を一振りして飛沫を飛ばし、それでもその刃に付着したまま残った、赤い半透明の体液を見つめ、それから霧の中
に転がる物を見下ろす。
それは、右腕、左足、そして胴体と、猪獣人の頭部。
(今度は死んでるな?間違いなく)
狐もまた、ミオや警官のシェパードが出会ったものの同類を発見していた。
見つけたときは食事中だった。霧の中に倒れている、既に死体となっている人間女性の肉を食い漁っていた猪を屋根の上か
ら見つけ、確かめに赴いたのだが、会話は成り立たなかった。
しかし、ヘイムダルにはそれで充分だった。
会話ができない、野獣のように襲い掛かる何かは、目から青い光を薄く発していた。
筋肉質な分厚い胴をヘイムダルの刺突で五箇所貫通されたが、それでも死ななかった。
試しに腕を、脚を、一本ずつ切り落としてみたが、痛みなど感じていないようだった。
そして最終確認として首を跳ねたら、大人しくなった。
ヘイムダルはジルコンブレードの刃に目を戻すと、そこにへばりついた赤い半透明の液体を、慎重にチロリと、舌先で触れ
て舐め取った。
(一体どういう事だろうな?ヘル…)
ヘイムダルは顔を顰めた。舐め取った体液が、血液と樹液の性質を併せ持っている事を確かめて。
(部分的に植物の特性が加えられて、身体能力強化されたミックスビルドクリーチャー…。こいつは、ラグナロクで生産計画
が頓挫した、アルラウネ寄生体によく似てる…)
狐は改めてヘルと交信を試みたが、返答は無かった。
何者かの念話ジャマーが展開されている事は明らか。しかもこの状況は…。
突然、ヘイムダルの目がギラリと、剣呑に輝いた。
狐が素早く首を巡らせた先には、路地をスモークのように埋める霧と…、
(アレは…)
ソンブレロのような帽子を被った、老人の姿。
距離にして約90メートル。
狐は前傾し、スプリンターのようなダッシュで距離を詰めにかかる。
だが、老人とおぼしきソレは、ヘイムダルが接近する前に路地の角へと足を運んで姿を消した。
「ちっ!」
霧をばふっと跳ね散らしながら急停止したヘイムダルは、舌打ちをした。
覗いた細い路地裏には、既に何者の姿も認められない。
しかし、今確かに目にした老人の姿には、覚えがあった。
(そうか…。そういう事か…。ヘル。あんたが確かめたかった事ってのは…、つまりコイツかい?)
狐は目を細め、不快げに鼻を鳴らした。
(今回派遣されるのが俺でなきゃならなかった理由…、やっと判って来たぜ…。退屈はしねーだろうが、面白くねーな…)
狐は老人の姿を探しもせず、あっさりと向きを変え、歩き出した。
そうして路地から出たところで、どうやら酔っているらしい中年の一団と出くわした。
数名はかなり深酒しているらしく、ふらふらとよろめきながら歩く者や、肩を借りながら歩く者も居る。
「おっとぉ…!」
その中の、横を向く形で、大声で仲間と話しながら歩いていた白に近い灰色の熊が、車道と歩道の境目で霧に埋まった縁石
に脚を取られ、バランスを崩す。
あわや地面に突っ伏すか、と思われたその時、しかし熊は片足一本を後ろに伸ばし、片足でバランスを取るような格好で止
まった。
驚いているような中年の熊は、いつそこに現れたのかも判らなかった、自分を支える細身の狐に目を向ける。
飛込みを途中で停止したような格好の、相当重たい肥り肉で体格の良い熊の鳩尾の辺りに下から腕を入れ、事も無く支えた
ヘイムダルは、
「ヘーキかよ、おっさん」
中年の体を起こしてしっかり立たせてやりながら、自分より少し高い位置にあるその顔を見上げた。
何故か、見覚えの無い、苦笑いしている白い熊の顔が、一瞬思い浮かんだ。
「お、おお。済まねえな兄さん」
照れ混じりに苦笑いする熊。ヘイムダルは一瞬、目を大きくする。
似テイル…
誰ニ?
誰カニ…
小さく被りを振って、狐は顎をしゃくった。
「霧、気をつけた方がいいぜ?ある意味猛毒より厄介だ」
見ない顔だとは思ったが、ヘイムダルが口にしているドイツ語が流暢で、僅かにも不自然さが無い事も手伝って、誰も狐を
怪しまない。
ただ、両腰に棒のようなものを吊るしている事は気になったが、理解し難い最近の若者のファッションのような物と考えた。
まさか本当に帯剣して歩いているとは考えられなくて。
「ははは!毒より危ねえか、違いねえな!」
「確かになぁ!鬱陶しいし、堪んねえ!」
ゲラゲラと気分良く笑う酔っ払い達。だが…、
「大変だ。おっさん、怪我してんじゃねーか?」
ヘイムダルの言葉で顔を見合わせ、狐の視線を追って、一斉に青ざめた。
熊の脇腹では、羽織っていたジャンバーがバッサリと大きく切れ、下の青いセーターが血を吸って真っ黒に変色している。
「え?あ?へ?」
熊本人はいつ怪我をしたのか判らなかった。痛みも無かったし、言われるまで全く気付かなかった。だが、当てた手がぐっ
しょりと濡れるほど出血している事に気付くと、眩暈を起こしたのかグラッと大きくふらつく。それをまた支えてやったヘイ
ムダルは、
「大怪我だ。大変だぞコレ。救急車とか呼ばねーとな」
青ざめている酔っ払いのひとりにそう言って、電話を促した。
だが、コールしたものの、救急車はすぐには来られないという。
事情を知らない酔っ払い達は憤慨し、怪我をした熊はますます青くなったが、
「なんなら、タクシーとかで隣町の病院行った方がはえーんじゃねーの?」
持ち合わせていた包帯で熊の腹を巻き、止血してやっていたヘイムダルは、まるで最初からそうなる事が判っていたように
言った。
実際、町の病院は受け入れられる状態に無いだろうと考えていたし、不自然にならないように提案するために、まず病院へ
電話するよう言ったのだが…。
「そうだな!そこらのタクシー捕まえた方がいい!」
酔っ払いのひとりが賛成して、見かけた手近なタクシーへ駆けてゆく。
怪我をした熊と酔っ払い達は、結局、山を越えた隣町まで行く事になった。
霧の町を離れて。
「お、お兄ちゃん、有り難うな…」
おずおずと礼を言った熊に、「ああ」と応じたヘイムダルは、
「あ、名前…」
思い出したように訊ねた熊に、ニッと笑って名乗った。
「ハイメだ。気をつけてな、おっさん」
自分も名乗ろうとしたのだろうか、口を開いた熊の声は、しかし閉じるドアに遮られ、聞こえなかった。
酔漢達が分乗して隣町へ向かうタクシーを、独り霧の中に佇んで見送るヘイムダル。
その顔には、疑問の表情が浮かんでいた。
(何であんな事したんだ?俺…)
狐は自分の行動を振り返る。
熊に怪我を負わせたのは彼自身だった。一般人には察知不可能な抜き打ちで、たっぷりした腹の側面に長い傷を刻んで…。
だがその傷は脂肪層止まりで、筋肉や重要な血管は避けており、傷の幅が広いので出血こそ一見派手だが、すぐに止まるよ
うに斬ってあった。
そうして隣町の病院へ行くようにと、町を出るようにと促したのは一体何故なのか?それが、ヘイムダル自身にも判らない。
(何だろうな、この気持ち…)
さっき熊を支えた時に感じた、ずっしりと重く、柔らかさと逞しさが同居した、中年肥りの図体の感触が、照れているよう
な苦笑いの表情が、何故か懐かしく感じられた。
(「ハイメ」…?どっから出たんだ?あんな偽名…)
任務上名乗る為に用意しているいくつか偽名の中には、そんな名前など無かった。
「ちっ…!この霧のせいだ、調子狂うぜ…!」
舌打ちした狂戦士は、足早に霧の中へ去る。
頭から何かを追い出そうとするように…。
その何かから逃れようとするように…。
程なく防災無線が町に響き渡った。
外を出歩かないようにというその連絡は、「不審者が出没しています」という内容で伝えられた。
誰も把握し切れていない異常事態なので仕方の無い事とはいえ、正確さを大きく欠いたこの放送は、あまり効果を発揮しな
かった。
そして、事態は好転しないまま、宵闇よりも深く、深夜よりも寒い、夜明け前へと時は移る…。