ファルシャーネーベル(act9)

 霧の中を、ふたりが駆ける。暗い路地に足音を反響させて。

 片方は細身の猫。

 片方は逞しい人間の青年。

 猫は怪我をしており、右手で押さえている左肩はコートの生地が裂けて、出血で染まったセーターが覗いている。

「大丈夫か!?」

 走りながら振り返る青年に、呼吸が荒い猫は無言で頷いた。

(…くそ!居る!)

 やがて辿りついた路地の出口から通りを覗き、青年は焦りの表情で歯噛みした。

 バス停を備えたそれなりに太い通りには、霧の中でゆらゆら揺れながら歩き回る無数の人影。

 パトカーが一台、街灯の柱に激突してこれをへし折る格好で止まっており、その周囲では、屈み込んだ数人がゴソゴソと蠢

いていた。

「うそ!警察も…!」

 猫が息を呑む。

 声を出すな。そう青年がたしなめようとした時には、もう遅かった。

 通りをゆらゆらと歩いていた人々が、グリンッと一斉に頭を振って、ふたりの方へ目を向けた。

 前傾姿勢で顔を上げ、真っ直ぐに見る者。

 上体を大きく反らし、弓なりの姿勢で水平になった顔を向ける者。

 横に振り向くのではなく、背中を丸めて腋の下からさかさまに覗く者。

「ひっ!」

 猫の声が、鋭くか細く夜気に染みる。

「逃げるぞ!」

 青年は猫の手を取り、駆け出した。

 目を青く光らせる人々は、そんなふたりを追う。先程までの鈍い動作とは打って変わり、獣のような低い姿勢で猛然と。

 路地を駆け戻り、見かけた飲食店の裏口ドアに飛びつく青年。鍵がかかっているそのドアを蹴破り、一瞥した時には、路地

に殺到した人々が距離を半分に縮めていた。

「入れ!」

 青年は猫を押し込む形で、自分も中に入ると、暗い中で目に入った鉄製のドアを目指す。

 幸いにも鍵がかかっていなかったそこは、飲食店のスタッフルーム。猫と共に中に入った青年は、内側から鍵をかけるなり

後ずさって離れた。

 その直後、ドガン、とドアが音を立てて震えた。

「う…、うう…!」

 呻く青年。見回すと、その部屋には窓が無く、四方が壁とロッカーに囲まれていた。

 ドアさえ破られなければ進入されないと気付き、ホッとした青年は猫を振り返る。

「大丈夫か?怪我…」

「う、うん…」

 頷いた猫は、怯えた顔でドアを見つめている。

 そうしている間にも、外から体当たりされているのだろうドアは、重い金属音を立て続けていた。

「塞いでしまえば、手出しできないだろ…!」

 青年は部屋の中央にあった重い長机を引き摺り、念の為にドアの前へ配置する。

 ガンガン鳴り続けるドアの向こうで何が起きているのかは想像に難くない。飛びのくように後ずさって離れた青年は、額に

滲み、そしてそこから伝って眉に溜まった汗を腕で拭った。

「これで一安心だ…」

 安心できた物ではないが、とりあえずすぐ破られはしないだろう。問題は、もしドアを抜けて来られたら、もう逃げ場が無

い事だった。

 青年は改めて部屋を見回し、天井の換気扇に目を止めたが、例え枠やフィンを外したとしても、小さな子供でもなければ潜

り込めそうにない。

 ロッカーを漁ってみたが、全てが衣類収納用で掃除用具も無く、武器になりそうな物は見つからない。もはや、頼みの綱で

あるドアの耐久力を信じるしかなかった。

「その内に諦めるさ。それまで待とう」

 青年はそう言って、ドアとは反対側の壁に寄っている連れの猫に顔を向ける。

「明るくなったら警察が助けに来てくれるさ」

 安心させようと希望的意見を口にしながら、青年は猫に歩み寄った。

「痛むか?」

 猫の腕には、目が光る連中に襲われた時に出来た咬傷がある。浅くはないようで、痛みが強く腕が動かせなかったが、太い

血管は無事だったようで出血はさほどでもない。

 痛みに耐えているのか、それとも疲れ切ったのか、壁に背を預けた猫は俯いて、返事をしない。

「そうだ。ロッカーの中の服を拝借して、腕の傷を巻こう。それでいくらかマシになるさ。いや、救急箱やキットは無いか?

ちょっと漁ってみるかな…」

 励まし、気遣う青年を、顔を上げた猫が見つめた。

「え?」

 青年はきょとんとする。

 自分に向けられた、青く光っている目を見返して…。

「え?な、何だよそれ?どうしたんだ?」

 この目はまさか?

 いやしかし、そんな…。

 戸惑う青年の両腕を、すっと上がった猫の両手が捕らえた。

「!!!!!!」

 青年の口が限界まで開かれる。

 掴まれた二の腕に、猫の指が深く食い込んだ。

 皮膚が裂け、筋組織が圧迫され、もたらされた激痛に声にならない叫びを上げる青年。

 その、大きく開かれた口と競い合うように、猫の口が、大きく開いた。

 そして青年は、友人だった猫に喉笛を食い千切られた。



 それは、ノーブルロッソ中で起こっている惨劇の中の一つ。

 ひとが「何か」に変じる現象は拡大を辿り、既に町全体に怪物が溢れていた。





 銃声が響く。

 布団に潜り込み、うつ伏せで頭を抱えたラドにも、その音は聞こえた。

 乾いたその破裂音が銃声だと気付いたのは、四回ほど聞いた後の事だった。

 映画の銃声ほど迫力が無かったせいで、なかなか気付けなかったのである。

「何が起きてるの?テロ?クーデター?…何でも良いから、早く静かになってよー…!」

 震えるラドは、目を閉じることができなかった。

 閉じれば瞼の裏に、目を青く光らせた、ひととは思えない何かの姿が蘇ってくるので。

 あの発砲音は、警官達があの化け物に向けた銃撃なのだろう。

 宿の客…灰色のアメリカンショートヘアーはどうしているのだろうか?

 時計は午前二時五十分過ぎを表示している。夜が明けたら静かになるだろうか?

 そして、フランツは家で大人しくしているだろうか?

「…あ…」

 ぴたりと、ラドの震えが止まった。

 そして数拍後、ブルッと大きな身震いに襲われる。

 チャンス。そう語っていたフランツの声が思い出された。

「まさか…。まさか…?やめてよフランツー…!?」

 身を起こしたヒキガエルは、背中を丸めて体を縮めた格好で恐々窓辺に寄り、外を見遣る。

 夜明けの欠片も見えない、まだ濃い闇が居座ったままの景色。

 サイレンは少し減ったような気がする。発砲音も同じく減っている。防災無線は、思い返せばしばらくアナウンスが無い。

相変わらずの非常事態ではあるが…。

 唾を飲み込んで一つ喉を鳴らしたラドは、クローゼットに歩み寄り、震える手で上着を取った。



「またか…!」

 シェパードはホワイトボードを睨み、吐き捨てた。

 そこには通報があった現場に向かったり、見回りに向かった警官達の名が、班分けされて並んでいる。

 十二の班は、しかしその内七つが赤い丸で囲まれており、今また一つ、第八班が丸で囲まれた。

 赤丸で囲まれているのは、音信不通になった班。三分の二が連絡の取れない状況となった。

 シェパードもまた第三班に属し、町の惨状を散々目の当たりにして、今しがた戻って来たばかりだった。

 銃弾を、補給しに…。

 警察署の正面口はバリケードで封鎖されている。警官のみならず、保護を受けてここへ連れて来られた一般市民にとっても、

警察署は命を預ける砦となっていた。

 散発的に銃声が響くのは、進入しようとする青目の怪物を迎撃しているせい。

 既に数度進入を許してしまったせいで、署内でも被害は出たが、今現在は全て駆逐し終え、低い位置の窓はロッカーや棚で

塞いである。

 状況は絶望的だった。

 夜半から電話が通じなくなり、通常回線だけでなく衛星電話も使えなくなった。

 車載無線はかろうじて使用可能だが、ノイズが激しく、距離が遠くなると使えなくなる。

 明らかに、何者かの妨害が働いていた。

 青い目の怪物はどんどん増え、被害も増すばかり。

 よりによって、この怪物化は伝染する。

 詳しい事は判らないが、噛まれたりして傷を負った者が数名、負傷してから数時間後に怪物化した事からも、接触感染の恐

れがある事は確かだった。

 噛まれた警官達は隔離される形で牢に入っている。今のところ誰も怪物化していないが、若者の例を見るに、変質は突然起

こる。

 一緒の牢に入っている誰かが怪物になるかもしれない…。

 そんな恐怖と重圧に耐え続けるのには当然ながら限界がある。今まで騒ぎが起きていないのは奇跡と言える。皆の精神は既

に危ういラインに達していた。

 しかも、この感染による怪物化には、さらに別の、忌まわしい恐怖が複数潜んでいた。

 一つは、何が原因なのか判らないという事。

 何らかの病原菌のような物が怪物化の原因で、狂犬病のように咬まれる事でそれがうつるのではないかと考えられてはいる

が、詳しい事はまだ判っておらず、怪物化した者の体内に見られる菌糸や樹液のような物も、依然として正体不明である。

 二つ目は、感染の具体的な条件が不明だという事。

 咬傷による感染だけでは説明がつかない怪物化が数件確認されている。シェパードが最初に出会った感染者…事故現場で遭

遇した女性は、数日前から体調が悪かったという話だったが、怪物に咬まれたという話は、恋人だった若者からは聞けなかっ

た。もう改めて確認する事はできないが…。

 また、町中でほぼ同時に複数出現した事を鑑みると、怪物がそれだけ居て、皆を咬んで回ったとは考え難い。

 咬まれる事による直接感染以外に、感染ルートがあると疑ってかかるべきだった。

 そして、三つ目は…。

「一斑は?何処まで行けたんだ?」

 年配の警官が苛立った様子で大きな声を上げた。

「町外れまでは連絡が取れましたが、そこからは…」

 中年の警官が不安げに応じる。

 そんな警官達のやり取りに、シェパードの耳がピクついた。

(無事に抜けてくれよ…!)

 だが、彼らは知らない。

 電話での連絡が取れないならと、直接応援要請するために町の外へ向かわされた彼らが、既に全滅している事を。

 シェパードは銃に弾が装填されている事を確認し、自嘲気味に口の端を吊り上げた。

(何回確認しているんだか…)

 不安の表れなのだろうと、シェパードはホルスターから手を遠ざける。

 不幸中の幸いと言えるのかどうか、外へ出て対策に当たる前に、警官達は「現物」を見る機会があった。

 事故を起こし、恋人が怪物化した犬獣人の若者が、自らも怪物化したせいで。

 署内に発生した怪物を銃殺するまでに、数名が負傷し、一名が死亡した。

 経験は重要である。特に初見の混乱がそのまま死に繋がるような場合は…。

 誰もが「何とかしなければ」と考えながら、どうにもできないこの現状。シェパードはため息をつく。

(こんな映画を、いつか見たな…)

 町中に怪物が溢れ、生き残った僅かな人々が逃げ惑い、家屋に立てこもったり、抗ったりするパニック映画。いつだったか、

深夜に酒を煽りながら、自室で眺めた事があった。

 法と秩序が失われ、生き残り達の間にも争いが起こり、終末の香りが漂う暗い映画だったが、集中して観た訳でもなく、酒

も回っていたので、断片的にしか思い出せない。

(あれは、良い終わり方をしたんだったかな…?)

 結末が思い出せない。だが、思い出せなくてもいいような気がした。

「警部!準備できました!」

 自らを奮い立たせようとしているのか、それとも自棄になっているのか、同僚がシェパードを呼んだ。

「ああ、行こう」

 応じた中年シェパードは、また外へ向かう。こんな時でも…否、こんな時だからこそ住民を護る。それが警官である自分の

使命だと感じていた。

 だが、その出動は少しばかり滞る事になった。何故ならば…。

「開門!かいもーんっ!」

 拡声器を使用していないにも関わらず、窓を貫通し、壁を突き抜けるほどの大声が、警察署内部に響いた。

「自分はドイツ陸軍所属のギュンター・エアハルト!勇敢なる警官達!中に入れて欲しい!」

 その声で、多数の警官が愕然とした。

 忘れようもない、バリケードで塞がれた正面口の向こうで張り上げられているのは、昼間の内に教会の器物損壊事件の重要

参考人として取調べを受けた、青年将校の声だった。

 誰もがまず驚いた。無事だったのか、と。

 次いで、開門などとバカを言うな、と皆が当たり前に考えた。

 助けを求められても正面口など開けられない。そんな事をしたら怪物が進入してしまう。

 口にこそ出来ないが、そのまま青年を見殺しにするのが一番安全だと、多くの者が考えた。

「ちっ!これも腐れ縁か…!」

 シェパードは舌打ちをすると、車庫に向かって駆け出した。

 正面口まで車で回りこみ、青年を救助する。上手く行くかどうかは判らないが、自力で辿り着いてくれた生存者を見殺しに

はしたくない。

 だが、シェパードの足は止まった。青年が張り上げた声で。

「連中に侵入される事なら心配要らない!見えている範囲の危険は排除した!」

 その言葉は、聞いた者の頭にしばらく浸透しなかった。

 だが、やがて上の階から報告がもたらされた。敷地内に、正面口前の青年以外には動くものが存在しない、と…。

 警察署に到着したギュンターは、それ以上侵入されないよう、電気仕掛けの正門を非常用のハンドルで閉じた上で、敷地内

に入った全ての怪物を沈黙させた。

 連中の運動性能を鑑みれば、入り口を塞いだところで門や壁をよじ登ってくる可能性は否定できないが、敷地内の掃討が終

わるまで流入の妨げになりさえすれば良かった。

 殴殺数42体。

 所要時間31分。

 どちらが怪物なのか判らない戦闘結果である。

 やがて、正面口はバリケードで封鎖してあるため、車用の裏側出入り口に回るよう指示を出されたギュンターは、警戒しな

がら迎えた警官達を驚かせた。

 どんな火器で連中を殺したのかと思えば…、銃器の類を一切持っておらず、武器はただの金属バット。

「ひとりで申し訳ないが、じきに応援が来るはずだ」

 あっけに取られている警官達に告げたギュンターは、凄い格好になっていた。

 あちこち返り血で赤く染まった、元は純白のロングコート。

 右手には体液がべっとり付着した金属バット。

 コートの袖から覗く両手には長いゴム手袋。

 目にバイク用のゴーグルと、口元には防塵マスク。

 道中で入手した品しか使えない急ごしらえ装備なので、強盗や暴徒を思わせる姿になってしまったが、これは理に叶った備

えだった。

 ウイルスや毒ガス、細菌などが侵入しやすいのは、経口や傷だけではない。実は眼球からも入り易いという事をギュンター

もミオもしっかり教え込まれている。ゴーグルもマスクも、屠る際に飛散する怪物の体液から目や口を護るための物。

 掴み掛かられた際や攻撃の際に前に出し、傷を付けられ易い両手には、金属バットを握っても滑らず、液体を遮断するゴム

長手。他の部位は頑丈なブーツとリッター特製の対衝撃コート。

 これはミオの意見を取り入れての備えだった。

 沈黙させた個体の多くが咬傷を負っていた事から洞察し、傷を負わされる事で感染する可能性について語ったミオは、ギュ

ンターに怪物の体液に気をつけるよう告げたのである。

 なお、ギュンターは品を拝借したそれぞれの店の看板で、店名と電話番号を確認し、借りた物品名とともにメモに控えてい

る。これは後に弁償するため…、持ち前のお堅さは、緊急時でも崩れていなかった。

「応援って…」

 若い警官が戸惑いと期待を胸に訊ねると、ゴーグルとマスクを外したギュンターは力強く頷いた。

「所属の隊へ非常連絡を入れた。早ければ午前中に到着するだろう」

 一瞬の沈黙の後、歓声が上がった。

 しかしそれも無理の無いこと。「アレら」と金属バットで闘う豪の者が現れた上に、原因不明の通信途絶以降、初めての朗

報がもたらされたのだから。

「ついては…」

 笑顔を見せるだけでなく、抱き合う者まで居るほどの喜び様を披露する警官達へ、ギュンターは言った。

「再度生存者を救助に向かいたいので、武器を所望したい。…頑張って貰ったが、バットもそろそろ限界だ」

 頭部めがけて強烈な殴打を繰り返してきた金属バットは、あちこち凹んで歪み、握りの少し上から僅かに角度がついて曲が

り始めていた。それだけでここに辿り着くまでの激戦が窺える。

「生存者の救出、か…」

 呟いたシェパードは、ギュンターに応援の事を詳しく訊いている署長の脇に進み出ると、青年と目を合わせた。

「アンタか」

 昼間、誤解が解けて署を出る際に一度顔をあわせただけだったが、ギュンターはシェパードの事を覚えていた。ミオが世話

になったと一言添えていたので、記憶にしっかりと刻み込んでいる。

「出るなら付き合おう。単独よりはずっといい。俺達も班で出動して、少しずつだが救助者を集めていたんだ」

「助かる。よろしく頼む」

 応じたギュンターに、シェパードは「ところで…」と声を潜めて訊ねる。

「一緒に居た少年は、どうしたんだ?」

 もしかして…。不幸な出来事を想像したシェパードに、

「心配無用だ」

 ギュンターがニコリともせず、真面目腐った顔のまま答えた事には…。

「アイツも、救助及び掃討に当たっている。ああ見えて腕も立つ、真面目で頼もしい相棒だ。今も奮闘しているだろう」



「はっ…!はっ…!ひっ!ふひっ…!」

 息を切らせて、肥ったヒキガエルが路地を走る。

 目尻から零れた涙が頬を伝い落ちて、襟から入り、顎と首元が冷たい。

 かいた汗で湿った体も、気温で冷えて、容赦なく熱が奪われる。

 暗い路地に人影は無く、時折遠くから悲鳴が聞こえる。

 窓が割れた民家。暗がりの奥で何かが動く、開け放たれたドア。エンジンがかかったまま運転手が消えた、無人の車もあち

こちで見られた。

 悪夢のような惨状となっている事にラドが気付いたのは、しっかり施錠された家を何とか抜け出してから、30分ほど歩い

た後の事だった。

 最初数度見かけた怪物に足が止まりそうになったが、フランツの事が気がかりで前に進んだ。

 だが、すぐに後悔した。

 怪物を見かける頻度は徐々に増た。たまたま居なかった道を選んで、気付かれないように進んでいたラドだったが、やがて

家へ戻る道も失ってしまった。

 密集地に近付いているという訳ではない。実際に、怪物の総数は時間と共に増えていたのだ。

 後悔しても、もう帰れない。

「ふーっ…!ふーっ…!ぐふっ!ふーっ…!」

 走り慣れていないのですぐ喉と肺が痛くなったラドは、建物の壁に身を寄せて、息を整えながら曲がり角の向こうを覗き見

た。が、すぐに顔を引っ込める。

 青い目の怪物が、そこにも居た。

 目を見開いたまま努めて正常な呼吸を取り戻し、ラドはそろりそろりと角から離れ、別の経路を探す。

「誤魔化して接触を避ける事が、直接戦闘よりも大きな効果を生む事も多いんだ」

 かつてフランツが言っていた事が思い出される。当時は実感なく聞いていたが、全くその通りだと、今なら感じる。

 臆病であるが故に近付かず、とにかく距離を取って迂回を繰り返していたラドは、無意識のうちに怪物に対する防御手段を

取っていた。

 怪物の、青い光を放つ両目は、視覚で対象を捕捉する能力が低い。主に周辺を探っているのは聴覚。音がした方へ顔を向け、

視覚内であればそのまま襲い掛かるが、視覚外であればまず移動し、確認できてから襲い掛かる。

 近付かず、姿を見せず、距離を取り続けるラド。「見つからない」という最高の防御手段で身を護り、ヒキガエルは親友の

家に近付いてゆく。

 そして、その奮闘は実を結んだ。

「は…、はぁ…!はー…っ」

 その通りには、怪物の姿は無かった。

 街灯の光が点々とつき、霧に覆われた夜道を照らす中、明かりのついている家も多い。

 叫び声や悲鳴も聞こえず、平穏その物の住宅街を、ラドは急ぎ足で進む。

 そして辿り着いたフランツの家を見上げ、ラドはその玄関へと向かった。

 太い指が呼び鈴のボタンに伸びたが、止まる。音を立てたくないと、本能的な忌避が働いて。

 迷ったラドはドアノブに手をかけた。施錠はしてあるだろうと思いながら。

 しかし、予想に反してドアノブは抵抗なく回った。

(あれー?)

 眉根を寄せたラドは、好都合だと思い直して「こんばんはー…」と小声で呟きながらドアを引き開けた。

「え?」

 出た声は、若干高くなっていた。

 ラドの瞳が映す、明かりの消えた玄関ホールには、青い光が四つ浮いている。

 痩せぎすの、兎の婦人がゆらりと長い耳を揺らし、両手を伸ばして一歩踏み出す。その肩と首の境目は、衣服ごとごっそり

肉を咬み取られていた。

 ぼんやりとしているように、横手の壁にかかった時計の針を眺めていた人間の中年女性も、顔をグリンッとラドに向ける。

寝間着なのだろう薄いすみれ色のネグリジェは、前面が血でべったり汚れていた。

「ひ…、ひっ…!ひぃーっ!」

 悲鳴を上げて身を翻し、逃げ出そうとしたラドは、背中に激しい衝撃を受け、前のめりに霧の中へ倒れて、ふくよかな胸と

腹を地面へしたたかに打ち付けた。

 うつ伏せに倒れたカエルの背には、痩せ細った兎の中年女性が飛び乗っている。

「げふっ!えっふ!おふぅえっ!」

 急き込み、噎せた拍子にえずいたラドは、自分が置かれた状況に一瞬混乱しかけたが、すぐに恐怖に囚われジワリと汗まみ

れになる。

 呼吸は無い。だがそれでも判る。

 今自分の背中の上で、中年の雌兎が口を開き、首元へ顔を寄せてきている事が。

 まるで、捕らえた獲物を悠々と見下ろし、今正に捕食せんとする獣のように…。

「ひ…、ひ…!」

 満足に悲鳴も出てこない、強烈な恐怖。

 ジョボジョボと、股間から液体がほとばしり、上がった湯気が霧に混じった。

 首筋に痛みを感じたラドが、いよいよ叫び声を上げそうになったその瞬間…。

 カトッ…。

 そんな、妙な音が聞こえた。

 次いで背中に感じていた重みがバランスを崩し、脇へ転がる形で消失する。

 ガタガタ震えるラドが、何とか横へ動かした目に、側頭部に棒を生やした兎の顔が映った。

 それが何なのか、ラドにはすぐ把握する事はできなかったが、それは柄だった。兎の側頭部、こめかみにある頭蓋骨の継ぎ

目へ正確に潜り込み、刃を完全に脳へ埋没させたナイフの柄…。

 続いてヒュンッと、断ち切られた夜風が鳴き、まるで闇の一部が形を変えたように、漆黒のコートを翻した細い影が、夜空

からラドの前へ降り立った。

 ザシャシャッと音を立てて制動し、しっかり地面を踏み締めるブーツ。

 吹き散らした霧の中、すっくと背筋を伸ばしたその肢体は、しなやかで細い。

「大丈夫ですか!?」

 ラドの前方で路地に舞い降りたのは、灰色の猫…アメリカンショートヘアーの少年だった。

 しかしその表情は硬い。

(間に合わない…!)

 血まみれのネグリジェを纏った婦人が、倒れたままのラドの背後に迫っていた。

 さらに、先の悲鳴を聞きつけたのだろう、隣の住宅の庭から、生垣を突き破って二体、怪物が突進している。

 ミオがその場に移動するよりも、怪物達がラドを襲う方が早い。

「そのまま伏せてて下さい!」

 腰の後ろからトンファーを引き抜いたミオは、倒れているラドに向けて大きく踏み出しながら、握った腕を大きく引いて身

を捻る。

(頼むよ、ヴァルキリーウイング…!)

 念じて意識を集中させるミオ。手にしたトンファーは、一見すると継ぎ目が見えないほど精巧に合わされた打撃用外装を、

シャフトの外側で僅かに開く。

 そして生じた細い隙間の下には、赤い燐光が満ちていた。

「ふっ!」

 短い吐息を吐きながら体の捻りを戻し、トンファーを握った腕を大きく振るったミオの前で、扇状に赤い閃光が投射された。

 刹那の間、像を結んだ赤い扇は、半径12メートルにも及ぶ。

 それは、思念波を純エネルギーに変換するこのレリックウェポンの機能の一つ。

 高密度に圧縮、放射されたエネルギーは、ラドの後ろに迫っていた怪物を、鋭い包丁で野菜を切ったようにあっさりと、腹

部で上下に分断した。

 目を青く染めた人間の中年男性も、その息子と思しき若者も、それぞれ大きく跳躍して飛び掛かったその姿勢のまま、まる

でおろされた魚のように体を薄く二分割されている。

 この切断領域に入っていた玄関と両脇の壁にも、近付いて見なければ判らないほど細い、鋭利な切断跡が生じていた。

(上手く行った…!)

 軽い疲労を覚えつつ、ミオは安堵した。

 頭部を砕かないと止まらない怪物三体相手に、連射性能が低い通常の光弾では対応しきれない。そう判断しての対処だった。

高威力と制御の難しさ、そして消耗の度合いの大きさから使用を控えている機能ではあったが、背に腹は換えられない。

「大丈夫ですか?」

 軽い眩暈を覚えながら、ヒキガエルの傍に寄って屈み、手を差し出したミオは、

「ひとごろし…」

 ポツリと漏れたラドの声に、動きを止める。

 ヒキガエルの目は、横手に転がっている兎の婦人を見ていた。

 霧の中に倒れ付す婦人の見開かれた目からは、既に青い燐光が消えかかっており、ジョークグッズを着けているように側頭

部に生やしたナイフの柄は、出血が異様に少ない事もあってどこか現実味が薄い。

「おばさんを…殺した…」

 カタカタ震えながら言葉を紡ぐラドの瞳が、揺れ動きながらミオに向けられる。

「ひとごろし…!」

 この怪物化現象の忌まわしい点は、ここにもあった。

 怪物は、降って湧いた見知らぬ何かではない。昨日まで普通に暮らしていた誰かなのだ。

 向き合った怪物が、知り合いが、友人が、家族が変じたモノだったというケースは、町中で発生している。訳もわからぬま

ま隣人に襲われ、ひとではなくなってしまった者も多い。

 そう、フランツの母のように…。

 涙で揺れるヒキガエルの目から、ミオは何も言い返せずに視線を外した。

 かつては、自分もそうだった。かつての自分が今の自分を見たならば、きっとこのヒキガエルと同じ目をするのだろう。

 殺す事が怖かった。殺すのが嫌だった。兵士として産み出されながら、異端の心を宿していた、以前の自分…。

 だが今は、生きるために、目的のために、奪い、退け、殺す。

 技量と心の余裕が問題で、手心を加えるにも限界がある。

 だから、諦める。仕方がないと、諦める。

(ぼくは寛容じゃない。あのひとのようには寛容になれない…)

 ひとが変じる怪物。元に戻す方法を模索している余裕など無い。殺さずに事を収める力も無い。

 だから排除という手段を選択した。命一つを救うために、四人殺めた。

 失せてゆく命の中でもがいている当事者に、それが正しいかどうかなど、判ろうはずもない。

 だが…。

「行きましょう。ここは危ないですから…」

 ミオは改めてラドの目を見つめ、手を差し伸べた。

 見つめ合うふたり。差し出されたミオの手に、しかし地についたままのラドの手は伸びない。

 絶えない霧が、向き合うふたりを覆ってゆく。

 死体を隠し去るように、静々と冷たく…。