ファルシャーネーベル(act11)
ガゴン…と重々しい音を立てて閉ざされたドアの内、安堵と興奮のどよめきが礼拝堂を満たした。
怪物を排除し、入堂した面々を、ひとの波が取り囲む。
事故車輌によって送電線が切れ、電力供給が途絶えた暗い部屋だが、そこには生命の熱があった。
住民達が立て篭もった砦…教会の礼拝堂を訪れた警官の制服が、配電の途絶えた礼拝堂を照らす蝋燭の光に浮かび上がる。
怪異としか呼びようの無い、怪物が徘徊する夜を避け、神の膝元に縋った住民達にとって、警官ふたりは悪夢の中に垂らさ
れた糸…、発狂から現実に、崩れそうな精神を繋ぎとめてくれる公的な守り手…。
さらに、訪れた警官達には同行者が四名居た。
ひとりはプクプク肥ったヒキガエルで、もうひとりは長身痩躯の黒兎。この二名は町の住民だが、残りの二名は余所者。
ただしただの余所者ではない。既にその力を示して受け入れられた、救い手たる余所者ふたり…。
ひとりは、白いロングコートを纏う、精悍な面構えと燃えるような赤毛が印象的な、逞しい人間の青年。
もうひとりは、黒いロングコートに身を包む、細身で華奢なアメリカンショートヘアー。吹き溜まりに残っていた雪を手に
取り、返り血を擦り落としているので、凄惨だったその姿はある程度マシになっている。
双方共に怪物を難なく倒す常人離れした力の持ち主であり、押し寄せる化け物に一度は礼拝堂まで踏み込まれた教会が、今
こうして安全地帯になっているのも、ふたりの働きによるものだった。
このふたり組みに命を掬われてここに匿われた者も多く、ミオとギュンターの姿を映す住民達の目には、崇敬の光まで見て
取れる。
「思い掛けない拾い物だったが、カセットコンロ4セットとガスカートリッジ、袋入りのコーンスープとパンを確保できた。
炊き出しの担当、冷えている者から順に温かい物を飲ませてやってくれ」
きびきびとした動作で、警察署から持ち出せた物品を配給にかかるギュンター。パトカーのトランクに入る量はたかが知れ
ていたが、一食にすら満たないまでも皆の口に何か入れられるのは大きい。
行き場も無い、電気も無い、何も無いでは、耐えられるはずの心まで簡単に参ってしまう。非常事態だからこそ、少しでも
日常の慣習に近い事をして落ち着ける部分もある。
任務で一般人の団体を救助する機会が幾度かあったギュンターは、その効果を知っていた。
そして実際に、ギュンターの配慮は効果を上げた。
先の事件で残らず砕かれた石膏像の残骸が壁際に寄せられている、心安らげるとは言い難い礼拝堂で、それでも有り難がっ
て感謝と祈りを口にし、食事を受ける住民達。中には警官達の顔見知りも居て、無事を喜ぶ者や、恐々と知り合いの安否を訊
ねる者もある。
そこには、非日常に染め上げられた町の中で、微かな灯火に浮き上がる、儚い安息地の景色があった。
ミオは、詰め掛けて感謝を口にする住民達や、自宅周辺はどうだったか、自分の家族はどうだったかと問う者達へ手早く、
しかしできる限り丁寧に受け答えし、やがて区切りをつけて、神父の下へ報告に行くからと、警官の片方…シェパードを案内
して礼拝堂を後にする。
面倒見が良く生真面目なギュンターは、スープを温めて配る炊き出し班に参加し、声を張り上げて列を整理して見せ、その
エネルギッシュさで同行してきた警官を驚かせる。
そんな中、ラドとフランツもこの町での学生時代を共に過ごした同級生などと顔を合わせて、無事を喜び合っていた。
「無事だったのかよコンラッド!」
「っていうかお前、帰って来てたのか!?」
「うん、まぁ、えへへー…」
居心地悪そうにぎこちなく笑うラド。
嫌だ嫌だと思っていたのに、こんな状況で再会したら、友人の無事にほっと胸が緩んだ。
お漏らしして湿った股間が気になった。臭いに気付かれないかというのも心配だったが、既に股が冷え切ってジンジンして
いる。
だが、凍傷にはならずに済みそうだった。この礼拝堂に集まった人々の熱と、途絶えた電気に替わって光と温かさを供給し
ている蝋燭や、湯を満たして火に掛けられた金属製の大皿が、人心地付かせてくれている。
「良かったなぁ。…あ、お前、家族は?うちは何とか全員無事でさ。あの赤毛の兄ちゃんのおかげで…」
「え?」
問われたラドはきょとんとしてから、目を大きく見開いた。
必死過ぎて、忘れていた。
出てくる時は、フランツこそが危ない状況に居て、自分の家は安全な場所だという意識があった。
だが、ここに来るまでに町の惨状を目にして来た今となっては…。
カタカタと、膝が、腰が、肩が、顎が震えた。
「お、おい、ラド?」
訊いてはいけない事だったか、と、かつての級友が後悔するも、既に遅い。
「お、お父さん…、お母さん…」
ラドは知った。
この町が嫌だった。
友達が嫌だった。
親が嫌だった。
だが、本当は…。
「お父さん…!お母…さん…!」
声を震わせて繰り返しながら、腰が抜けたようにその場でへたり込んだラドに、
「ラド!?どうした!?」
気付いたフランツが振り向き、駆け寄った。
「ダメ…ですか…」
耳を倒してしょぼくれたミオの前で、長毛種の猫の中年…教会の神父が顎を引き、顔を伏せた。
「もしかしたら、と思ったんですが…」
「バッテリーの問題ではなかったようです。せっかく探してきてくれたというのに…」
「有線通信機能もあるんですよね?」
「はい。回線に繋げてありますし、衛星回線を介した通信もできるはずですが…」
教会に備え付けられた非常防災用の通信機器を囲んで、ミオと神父が力なく尻尾を垂らすと、シェパードの警官が「あー…、
報告なんだが…」と頭を掻き掻き口を開く。
「警察署の通信装置全般も似たような具合だ。起動はしてもノイズまみれで使えなかったり、有線電話はうんともすんとも言わなくなったりで…。公衆電話も確かめたが、ダメだった…。悪い報告しかできなくて、心苦しいんですがね神父様…」
良い情報の一つももたらせない事を恥じて、声を徐々に小さくしていったシェパードに、
「いいえ、それは悪いとばかりは言えない情報ですよ」
と、猫神父が顔を向けた。
これにはシェパードだけでなくミオも首を傾げ、ふたりは顔を見合わせ、目で問いあってから首を振り、神父に視線を戻す。
「違う施設の通信設備が使えない。しかも、それぞれ有線、無線、衛星、全て駄目…、という事ですね?」
「まぁ、そうですな。…それのドコが…」
悪いといえない情報なのか?そう訊ねようとしたシェパードに、神父はさらりと言った。
「通信設備が頼れない事が判りました。これで労力を他の手段に傾けられます。消去法ですね」
ミオとシェパードは再び顔を見合わせたが、「そうと考えれば、少しは元気が出ませんか?」と神父が続けると、思わず苦
笑いした。
なるほど、神父が完全に落ち着き払っていて普段どおり、これならば避難してきた皆が自暴自棄にならず、比較的落ち着い
ていられる訳だ、と、シェパードは感心すらしてしまう。信仰心か、それとも責任感か、神父はこの状況でも自分をしっかり
保ち、平常時の茶目っ気まで見せていた。
「聖職者様は言う事が違う。確かに、ちょっとばかり胸が楽になりますな、その考え方なら」
シェパードが笑いを引っ込められないまま肩を竦め、ミオもクスクスと口元を押さえる。
「それで、アイアンハートさん。見て来たいところというのは確認できたんですか?」
「あ!そうでした!」
神父に問われて思い出したミオは、ひとが纏まって避難していそうな場所や、町から出る山道など、数箇所の様子をふたり
に教えた。
怪物たちがひしめく中、そこまで動き回っていたのか、と肝っ玉に呆れたシェパードだったが、
「西の林道には火が見えたので、念の為あまり近付かないで確認してきたんですが、燃えていたのはパトカーでした。横転し
て道を塞ぐ格好で…」
「何っ!?」
ミオの報告に含まれていたある情報に、顔色を変えた。
「位置は!?ナンバーは判らなかったか!?」
「済みません、ナンバーまでは…。位置はですね」
ミオが地図で位置を示すと、シェパードは顔に右手を当てて天を仰ぐ。
「…同僚さんの…?把握していなかった分、ですか…」
気遣って声を低めた神父の問いに、
「把握していなかった…、いや、無線がイカれて把握できなかったんだが…」
シェパードは半ば独り言のように応じた。
「だがまぁ、悪い事ばっかりじゃぁない、ってな…」
シェパードは声を少し掠れさせ、呻くような声を漏らす。
「ここまで来るとはっきりしてる。繋がらない通信に、町から出ようとすると死ぬ道…」
ミオは、神父は、その凄絶な顔を見た。
シェパードの、義憤に歪んだ凄まじい笑みを。
「無駄死にじゃあない。アイツらは、無駄死にしたわけじゃあない」
シェパードは震える。この事態を引き起こし、そして今も、怪物に襲われる町を取り囲んで見物している何者かへの憎悪に。
「そうですね…。この町は満たされ、そして囲まれている…」
静かに、ミオは呟いた。
「何者かの、悪意に…」
この惨劇は、間違いなく何者かの意思によって演出された結果…。それも、町一つを包囲する規模の集団によって…。
気付くのが遅かったのか、早かったのかは判らないが、気付かないまま終わるよりはずっとマシだったと、ミオは思う。
問題はここからだった。自分達が生き延びられるか…、何人を救えるか…。
(少佐…、皆…、間に合って下さい…!)
胸の内で呟いたミオは、耳を立てて素早く振り返った。
その直後、コンコンコン、とドアがノックされる。
(ギュンター君か…)
察知した足音と、それに続いた軽快なノックの強さとリズムから把握したミオは、神父の返事を待って開けられたドアの向
こうに予想通り友人の姿を認めた。
「神父様。報告はミオと警官殿から?」
「聞きました。お疲れ様でしたね」
やんわり微笑んで労い、加護を祈って十字を切った神父に、ギュンターは「武器を所望したいのですが」と切り出した。
「道中で剣の一本も手に入るだろうと思っていたんですが…」
「普通思わないよね、そういう事…」
思わず呟いたミオを無視し、ギュンターは続ける。
「遺憾ながら、得られたのは金属バットでした」
「普通それぐらいだと思う…」
再び思わず呟いたミオをまた無視し、ギュンターは続ける。
「警察署に模造の剣があったのでピンと来ましたが、この教会にも何か無いでしょうか?」
「あれ?さっき使ってた剣は?それ、腰のヤツ」
ミオが尻尾と首を捻りながら訊ねると、ギュンターは軽く顔を顰め、「ああ、…悪い事をしてしまったな…。少し困った」
と、腰のベルトに裸で挿した模造剣の柄を軽く叩く。
「本職ではないのに無理をさせすぎたようだ。未熟な腕のせいで柄をひん曲げてしまった。兄上ならもっと上手く働かせてや
れるのだろうが…。あとで警察署に弁償だな…」
場にそぐわないセリフではあったが、ギュンターは大真面目に事件後の賠償を考えている。しかしこれを冗談と取った神父
とシェパードは、肝の太い心強い青年だと、肩を揺らして笑った。
「ミオ、これ、いくらぐらいすると思う?」
「わかんない…。こういうのギュンター君こそ詳しそうなのに」
「残念ながら、「仕事用」の品は配給されているからな、自分で払わないから値段を気にしていなかった。それに、立派な調
度品となると模造刀でも逆に真剣より高そうで、見当もつかない。見ろ、凄いぞこの柄。実用性無視の華麗さだぞ?家に欲し
いぐらいだ。兄上がお気に召しそうなデザインだと思わないか?」
「…あのさ、ギュンター君のところに配給品のリストとか回ったりしないの?ウチだと金額と数量入りの決済書類が回るんだ
けど…」
「回る。が、値段を気にした事はなかった。先にも言ったが自分で払わな…そんな目で見るな!今後はちゃんと確認してサイ
ンする!」
将校がそれで良いの…?とでも言いたげな、少し広がった距離を感じさせる妙に冷めたミオの視線を受け、声を大きくして
身振り手振り交えながら弁解するギュンター。
「…とにかく、武器だね…」
「ああ。金属バットはなかなかだったが…、支援物資として警察署に残して来たのは失敗だったな」
「この状況で金属バットを残されて「助かった!支援物資だ!」ってなるのは、ギュンター君ぐらいしか居ないと思うよ…」
「そうか?なかなか頼り甲斐があったんだが…そろそろその目をやめろ!反省している!」
「火掻き棒とか、どう?」
「使用経験は無いが、棒状なら何とかやりくりしよう。問題は強度だが…、ん?火掻き棒が無いぞ?」
ミオとギュンターが部屋の端にある暖炉を見つめると、神父は、
「いや、あれは今ではただのイミテーションですから。先代の頃に暖房設備が入ってからは棚になっているんですよ。火掻き
棒などもその頃に処分されていて…」
と、かぶりを振った。
「この際もう棒状だったら鉄パイプでも良いんですけど…」
「そうだな。流石に素手で締め殺したり蹴り砕いたりするのは骨が折れるし、排除効率もよろしくない」
「う~ん…」
考え込む神父の横で、それまで若人ふたりのやりとりをポカンとして眺めていたシェパードは、
「…ん?剣?」
と、何かを思い出したように声を漏らす。
「あー…、神父様?宝剣は…」
「え?」
長毛を揺らしてシェパードを振り返った神父は、ハッと何かに気付いた顔になり、ギュンターに目を戻す。
ミオとギュンターもまた、思い出して目を大きくしていた。
そもそもミオは、この爆発的に広がっている怪現象がなければ、今夜中に教会に忍び込んでその剣を確認するつもりだった。
朱石泥棒の伝説に関係する、その剣を…。
「…剣を必要とする闘士…。今の時代に、銃ではなく、よりによって剣を…」
怪異と霧に沈む町。孤立した教会。そこに今、剣さえあれば危機に立ち向かえる若者が居る…。
(これは、導きなのだろうか…)
神父は唾を飲み込むと、顎を引いて頷いた。
「神聖な品ですが、この状況とこの巡り合わせは、宝剣を活用せよとの天のご配慮かもしれません…。エアハルト殿の期待に
沿う物かどうか、宝剣を見て頂きましょう」
「有り難い!」
口の端を僅かに吊り上げ、胸に拳を当てて一礼するギュンター。その横でミオは期待に胸を高鳴らせる。
ただの剣かもしれない。儀礼用の物かもしれないし、既に老朽化して使い物にならないかもしれない。
だが、もしかしたら…。
(その宝剣は、レリックかもしれないんだ…!)
この状況でレリックが手に入るのは有り難い。
剣に限らず武器型のレリックは戦闘向きの機能を備えている場合が多い。
もし機能が発動できない状態だったり、調整が必要だったとしても、レリックそのものが多くの場合極めて頑強で、そうそ
う壊れない。つまり、ギュンターが全力で酷使しても耐えられる得物となる。
「それではご案内します。こちらに…」
神父が先に立ち、部屋を出ようとしたその時だった。
ミオが耳を立てて一同の先頭に踊り出たのは。
「アイアンハートさん?どうしまし…」
「誰か来ます」
短く応じたミオは、感じる震動に眉を潜めた。
ギュンターの足音を感知した時とは違う、荒く、早い足音…。
怪物が侵入したケースも考えたミオだったが、すぐにそうではない事が判明した。
「神父さん!おまわりさん!」
聞こえてきたのはフランツの叫び。ただ事ではないと察して部屋から飛び出し、長い廊下に立ったミオは、階段を駆け上っ
てきた黒い兎を確認する。
「どうしました!?」
「あ!あのっ!ラドっ!」
息を切らせたフランツは、呼吸を整えてから一気にまくし立てる。
「ラドが外に!ちょっと目を放した隙に、パトカーに乗り込んで、アイツ…!」
「何だって!?」
声を上げたシェパードが、同僚がパトカーにキーを挿したままにしていた事に、この時気が付いた。
しかし悔やんでいる暇など無い。ミオが、ギュンターが、手近な窓に駆け寄って外を見れば、礼拝堂入り口脇につけていた
パトカーは無く…。
「何てこった…!」
呻くギュンターの瞳は、パトカーに内から突き破られた庭園ゲートから、ぞくぞくと侵入する怪物の姿を捉えていた。
「どうしてこんな事を…!」
困惑するミオに、フランツは告げた。ラドの家族の安否が不明である事を。
「それでアイツ、思い出して急に心配になったみたいで…」
「そんな状態で何故目を離した!」
すぐさまギュンターが怒鳴ったが、怒っても責めても無かった事にはならない。糾弾したい気持ちを堪え、続けようとした
言葉を飲み込み、ゴツンと壁に拳を当てて歯軋りする。
「ギュンター君」
ミオは低めた声で友人の名を呼ぶ。窓の鍵に、手をかけながら。
「ぼくが追う。連れ戻して来るから、なんとか侵入経路を断っておいて」
「おいミ…」
制止しようとして、しかしギュンターは言葉を飲み込む。
他に無事な車は無い。ミオが単身で追うのが、この状況では最も速い。
「彼の家は何処ですか?」
動いている車はもう無いので、方向と大まかな位置が解れば追っていける。そう考えたミオの問いかけに、フランツが寄越
した答えは…。
「INN、緑の蛙亭っていう飲み屋も兼ねた宿で、ここからだと北ブロック側へ…」
『あの宿!?』
ミオとギュンターの大声が重なった。そして次の瞬間には、軽く目を合わせるなり、ミオとギュンターは頷きあい…。
「あっ!」
シェパードが上げる声を背に、アメリカンショートヘアーが窓から宙へと飛び出していた。
袖から射出したワイヤーを電柱に引っ掛け、巻き取りながらそこへ移動し、遠ざかるミオが闇に紛れる最中、ギュンターは
さっさと窓を閉めて施錠した。
「神父様。宝剣は…」
「はい。宝剣はセントジョージ像…」
言いかけた神父の言葉を遮り、ギュンターは踵を返した。
「後で改めてお借りします。早急に排除しなければ、補強していない窓を破って侵入してくる!」
駆け出す青年と、「おい!その剣曲がってきてるんだろ!?」と声をかけながら、付き合うつもりでそれを追うシェパード。
神父はため息をつき、天を仰ぎ、十字を切った。
「我らが父よ、困難に立ち向かう戦士にご加護を…。皆を護る勇士にご加護を…」
「…よろしかったので?」
暗がりの中、ニ十名の騎士を先頭に、ニ十列に縦隊整列した兵士達が、作戦の最終確認を行なっている。それを見守る一隊
の先頭で、むっちり肥り肉で骨太な猪が、隊の頭である美丈夫に尋ねていた。
「何が、かな?」
応じて問い返したのは、柔らかなウェーブがかかった美しい赤髪を肩まで伸ばした、見目麗しいひとりの騎士。
身に纏うのは夜目にも明かるい純白の甲冑。金の縁取りで瀟洒な装飾が施された甲冑は、動きを阻害しないように関節部の
可動を大きく取った、ライトアーマーとフルアーマーの中間程度の防御範囲。その上に、これまた純白に金糸で刺繍が施され
たサーコートを纏っている。
ヴェルナー・エアハルト騎士大佐。三十路を少し過ぎた若輩の身でありながら、独国特務機関ヴァイスリッターの総司令官
を務める男。
この眉目秀麗な騎士こそがギュンターの兄であり、エアハルト家の現当主。そしてミオの後見人でもある。
「いえ、この規模でよろしかったのかと…。坊ちゃんの窮地ですぞ?全軍を召集なさっても…」
「ミューラー特曹。少尉級二名の救援にそこまで割け、と?」
この言葉を受けて、ミューラーは押し黙った。
実の弟とはいえ、ギュンターのために総力をあげる事等できない。町の規模を鑑みて適切と思われるだけの兵力を動員した
のは、公私にしっかりと区切りをつけているヴェルナーの判断だった。
(例え全兵力を動かしても、誰も文句など言わないだろうに…)
実直さと堅さは兄弟でそっくりだと、ミューラーは心の中で嘆息する。
「それに、早急な対処も必要とされている。大規模な召集を掛けて全兵の集合を待ち、悪戯に時間を使う訳には行かない。…
ここは、国境からあまり遠くない」
ヴェルナーは西へちらりと視線を向ける。
「「コマンダトーレ」、「ファンタジスタ」、「ヴィルトゥオーサ」、「コンキスタドール」、そして「サー」…。ロートリッ
ター事変に際し、欧州連合からユニバーサルステージ級を五名も送り込まれたのは、そう昔の話ではない…。あのような恥は
二度とかきたくない物だ」
「………」
ミューラーにも判っている。ヴェルナーの言い分は正しいと。
それでもミューラーからすればギュンターは主家のお坊ちゃん。何歳になっても可愛い若君である。頭で判っても、その安
否を気遣って落ち着けない猪に、
「先行している隊がある。当面はなんとかなるだろう」
ヴェルナーはその肩を軽くポンと叩いてやり、弟への心配の礼としながら告げた。
「は?」
聞いておりませんが?と確認を求めかけたミューラーは、しかし問いを口にするのをやめた。
この聡明なる総司令官から説明が無いのは、説明できないか、説明すべきでない事だからなのだろう、と。
整列した兵と騎士、総勢110名が輸送車輌に乗り込む中、
(ここから57キロ…。既に直近のナハトイェーガー二名を急行させたとの事だったが…)
危なっかしさが抜けない弟と、熟しきっていないミオを想い、翼でもあれば飛んで行きたい気持ちを司令官の顔と鎧に隠し
ながら、ヴェルナーは胸中で呟く。
(頼みますよ、少佐…)
風が唸る。
襟を叩き肩を撫でるそれにも頓着せず、ミオは建物の屋根から降下し、霧を吹き飛ばして着地した。
音に反応して周囲の怪物が殺到するものの、応戦する事も無く、振られた腕を潜り、飛び掛った者から身をかわし、掴みか
かった相手の足を払って崩してすり抜けて、ミオは霧の中に浮かぶライト目指して走った。
車はそこら中にある。だが、鍵を探していては時間がかかる。鍵の所有者が怪物化している可能性も高いのだから。
だからミオは移動しながら探していた。路肩に停まったまま、エンジンもかかっている車を…。
「お邪魔します!そしてお借りします!」
霧が下半分を埋めている車内に、ミオはドアが開いたままの運転席側から乗り込んだ。
助手席には、顔を向こうに向けている、首の肉がごっそり抉れた若い人間の男性。ミオが入れた断りに、返事は無かった。
「良かった!オートマチックだ!ガソリンは…よし!ええと何だっけ?あとはえーと…パーキング!パーキングは…フットレ
バー式!?これ!?…こんな事なら、車の運転もっと練習しておくんだった…!」
足元のペダルを踏み込み、パーキングブレーキを解除したミオは、
「オオオオオッ…」
声を漏らしながら首をもたげ、こちらを向いた助手席の男性へ、スチャリとトンファーを突きつけて囁く。
「グーテナハト…」
ドンドン、と二度大きく揺れた車は、助手席のドアを開け、頭部をひしゃげさせた怪物をドチャリと吐き出すと、タイヤを
空転させてけたたましい音を立てながら急発進した。