ファルシャーネーベル(act12)
「ええいっ!済まなかった借り物の剣!きっと弁償するから許してくれ!」
柄が根元から抜け、鍔が割れ飛んで、ついに分解した模造刀に謝りながら、ギュンターは手に残った柄をしっかり握りこみ、
目前の怪物の眉間へ柄尻を叩き付けた。
頭蓋骨の中央を陥没させられ、突き込まれた柄で脳を破壊された成人男性が、薄ら寒い青光を宿す目を見開いたまま仰け反
り、ゆっくりと仰向けに倒れる。
素手になったギュンターは舌打ちをしながら身を屈め、斜め前方から両腕を広げて掴みかかった怪物の攻撃を回避する。そ
してその肥満女性の怪物が晒した顎へ強烈なアッパーカットを叩き込むと、足が地面から浮き気味になり、首が伸びて動きが
止まったそこへ、素早く反転して回し蹴りを叩き込み、こめかみから頭蓋を破砕した。
ラドがパトカーで突き破った庭園側のゲートを護り、奮戦しているギュンターは、ここを塞ぐ物を探しに行った警官達の帰
りを待っている。
悠長に補修などしている余裕はない。大型車輌で塞ぐ程度しか手立ては無いし、それも完全とは言えないが、やらなければ
怪物達が入りたい放題である。
「…来たか…?ふんっ!」
エンジンの音、そして霧の向こうに見えるヘッドライトに気付き、首を捻ってそちらを見ながら右腕を後ろに振るうギュン
ター。
その手には、いつ拾い上げたのか、花壇の掃除か植え替えの際に取り除かれたのだろう拳骨大の石が握られており、斜め後
方から飛び掛った怪物の顔面を強打していた。
勢い余って自分を飛び越す格好になった怪物が、陥没させられた顔面全体で地面に熱烈なキスをしたその向こうに、ギュン
ターはコンテナつきの大型トラックを確認する。
「グート…!」
申し分ないバリケードだ、と満足したギュンターの顔は、しかし直後に引き攣った。
「おい…。待てよ…。待て…!」
ギュンターの目は、トラックを運転する警官と、助手席についているシェパードから離れ、トラックの天井に向いていた。
そこに、おそらく九つか十程度の、怪物化した犬獣人の子供がしがみ付いている。
「上だ!居るぞ!」
声を張り上げ、上をさし示そうとしたギュンターだったが、横合いから怪物に襲いかかられ、回避に気を取られてそれも叶
わない。
「エアハルト君が!剣がダメになったのか!?」
シェパードが焦りの声を上げ、助手席の窓を開けて銃を構える。
運転席の警官も顔を引き締め、アクセルを踏み込む。
その横で、振り落とされないようにゆっくりと移動していた子供の手が、ベタンと運転席の窓に当たった。
「えっ!?」
驚きに跳ねた疑問の声。
目に映ったのは子供の手。
その手が一度引かれ、まるで農作業用フォークのように指を真っ直ぐ伸ばして、勢いをつけて窓を突き破った。
「がぺっ!」
断末魔の声は湿っていた。
首の横から侵入した子供の細指が、反対側まで突き抜けて皮膚を食い破ったその光景が、目を見開いたシェパードの瞳に映
り込む。
「まずい…!」
呻いたギュンターが見ている先で、コントロールを失ったトラックが脇の民家に激突し、跳ね返って横滑りする。
横から手を伸ばし、ハンドルを掴んだシェパードの必死の形相が、反射角度が変わって光で白く染まった窓の向こうに消え
た。
轟音と共に横転し、滑ってくるトラックとコンテナの先から、ギュンターは走って逃げる。
ゲートを塞ぐどころの騒ぎではなくなった。
無情にも、トラックに激突された教会の壁は、夜を震わせながら広範囲に渡って損壊した。
「はっ、はっ…!はふっ…、はっ…!」
曇るガラスを手のひらで拭い、ラドは車を走らせる。
「ひっ!」
慌てて切ったハンドルにタイヤが悲鳴を上げ、霧の中から飛び掛ってきた怪物が、運転席の脇を抜ける形ですれ違う。
一瞬目を瞑っていたラドは、恐々瞼を上げて窓から横手を見た。
緑の蛙亭。
看板はすぐそこに見える。我が家は目の前にある。
だが、怪物が路上に何体か居るため、ラドは家に帰れない。
窓が何箇所か破れていた。正面のドアも開け放たれて、灯りが落ちても非常灯が照らしているフロントロビーには、倒れた
人影が見えた。
上の階の窓には弱々しい光が灯っていて、カーテン越しに人影が見え、隙間からこちらを窺う様子も確認できた。
生存者が居る。両親もきっと無事。それなのに行けない。辿り着いたは良いが中に入れない。助けに行けない…。
ラドはどうすれば良いか判らないまま、パトカーを走らせ続けている。降りたら襲われる。停めたら殺される。無力な青年
にはできる事が何も無い。
「どうしよう…。どうしたら…。どうしよう…。どうしたら…」
ブツブツ繰り返す自分の声にも、ラドは気付いていない。
脂汗で全身を湿らせ、湿気で車の窓を曇らせ、逃げる事も進む事もできないまま…。
「どうしよう…。どうしたら…。どうしよう…。どうしたらっ…!」
二進も三進も行かなくなったその状況に、しかし変化は訪れる。
車のヘッドライトが目をさして、ラドは瞼を半分下ろす。
そしてその細めた目に、走ってきた車の姿を映して驚愕した。
「車…!?生きてるひと!?」
走ってきたその車は、宿の前で停まった。
そして開いたその運転席ドアめがけて、周囲の怪物達が殺到したが…。
「あ…、あああ…!」
劇的な光景に、ヒキガエルは声を漏らした。
仰け反った怪物の額には、ナイフで突き穿たれた赤黒い穴…。
赤光が弾けたと思えば顔面をひしゃげさせて吹き飛ぶ別の一体…。
閃いた黒に続き、こめかみに刃を突きこまれて脳を破壊された怪物がくず折れる…。
一瞬で無力化され、崩れ落ちる怪物たちの中、霧の上に一つ残ったその黒い影に、ラドは見覚えがあった。
すらりと細い、華奢な体。
手にした黒いトンファーと鈍く輝く軍用ナイフ。
アメリカンショートヘアーは滑るように移動し、霧を振り払いながら回り、得物を握った腕を振るい、引き寄せられるよう
に集まり、襲い掛かってくる怪物達を排除してゆく。
気が付くと、ラドは停めたパトカーから降りて、ふらふらと我が家へ向かっていた。
他に動くものが居なくなったそこに、軽く息を切らせたミオが立っている。
「どうして…、とは責めません。今は…」
ラドを迎えて静かに言ったミオは、宿を振り仰ぐ。
弱々しい灯りに浮かんだ、僅かに揺れるカーテンの向こうに、複数人の人影が見えた。
「生き残りが居る…。良かった…!」
だが…。
「お…、おか…」
呻いたラドの体がカタカタと震え始めた。
非常灯に照らされたフロントロビー。
そこに仰向けに倒れている人影。
左目に深々と調理用ナイフを突き刺され、残った右目を虚ろに濁らせ、そこに灯りが消えた天井の電球を映しているのは…。
「お…母さ…、ああ…!あああああああああああああああっ!!!」
ロビーに駆け込み泣き叫ぶラドの声が、霧にまみれた我が家にこだました。
「なんてこった…!レディスノウ、祝福を…!」
ギュンターは祈りの言葉を口にして、横転し、かなりの距離を横滑りして壁を壊しながら止まったトラックに駆け寄る。
トラックは運転席側を下にして横倒しになり、鼻面を教会側に向けている。
フロントガラスは放射状に走った無数の細かなひびで曇り、中の様子は窺えない。
「おい!無事か!おい!」
拳を固めてフロントガラスを突き破り、穴を開けて中を覗いたギュンターは、頭から顔の左側を血で染めたシェパードと目
を合わせた。
「ちくしょう…!何てこった…!せっかくのトラックが壁を…!」
呻いたシェパードは、横転したトラックの中でハンドルに足をかけ、直立するような姿勢で脱出を試みていた。
その下方には喉を真横に貫かれて事切れている同僚と、体が半分潰れた子供の怪物。
鳩尾をトラックの天井の端と地面に挟まれている子供の怪物は、それでもまだ動いており、シェパードに掴みかかろうと手
を伸ばしていた。
ギュンターはフロントガラスに繰り返し蹴りを加えて破ると、開いた穴からシェパードを引っ張り出し、その手から拳銃を
借りて、子供の怪物に銃口を向けた。
「済まない、坊主…!」
呟いてトリガーを絞ったギュンターは、乾いた銃声で怪物を沈黙させると、殉職した警官に短い黙祷を捧げ、拳銃と手錠、
警棒を借り受ける。
その間にも怪物達がトラックへ接近しており、手負いのシェパードとギュンターはほぼ囲まれた状態になっていた。
「こうなったら壁を塞ぐどころじゃない。バリケードでも作って教会の窓も出入り口も塞がないと…」
シェパードを庇うようにじりじりと移動し、怪物達に向き合いながら、ギュンターはふと、空を見た。
(明るくなってきたか…。夜が明けたら大人しくなる…なんて事になってくれると助かるんだが…)
母の遺体に縋りつき、慟哭するヒキガエルを見下ろしながら、ミオは半分瞼を下ろす。
思い出すのは、白く美しい、極寒の大地での出来事。
思い起こすのは、縋りついた体から失われてゆく温もり。
大きく逞しく頼もしい巨躯は、しかし呼んでも揺すっても動かず…、答えず…。
「………」
軽く頭を振ったミオは、丸まって震えるラドの背から、奥の階段へ視線を向けた。
そこに、足音を忍ばせながら、総勢七名の人影が現れる。
「ま、まともなヤツ…だな?」
先頭の若い男が恐々と、声を潜めて確認すると、ミオは黙って頷いた。
「きゅ、救助なの!?助けに来てくれたのね!?何なのこれ!?町は一体どうなったの!?」
女性が喜びに上ずった声を上げたが、傍に居た中年から、怪物が寄って来るぞと注意され、口を塞ぐ。
それでも皆安堵と喜びを隠し切れず。抱き合って肩を叩いたり、笑顔を見せたり、気が緩んでへたり込んだりする者も居た。
「生き残っているのは、皆さんで全員ですか?」
七人ならば、ミオとラド、ふたりがそれぞれ乗って来た車に収まる。もしそれ以上ならば往復で運ぶ事になるが…。
そこまで考えたところで、ミオは視線を階段の上から下へ動かした。
ゆらりと、ラドが立ち上がった。
そして、母の死体をじっと見つめ…。
「ああ、これで全員だ!他は…、狂った連中に殺されたか、仲間入りしちまっ…」
「誰?」
ミオに答える若い男の声を、ヒキガエルの声が遮った。
「お母さんを…殺したの…、誰…?」
あ。と、声が漏れたのは誰の口からだったのか。
ラドが、宿の親父が自慢していた息子だと理解するのは難しくはなかった。ヒキガエルを見慣れていなければ顔の区別が付
き難いほどで、体型までよく似ていたのだから。
「コンラッドさん。こういう言い方は良くないけれど、今は…」
怪物化したから仕方なく殺したのだ。責める訳には行かない。
そう続けようとしたミオの言葉を、
「簡単に、ナイフで目を突いたりできるの?」
ラドの静かな声が遮った。
その言葉の意味を、ミオは一瞬把握し損ねた。
そんな事が起こりえるなどと、若すぎる少年にはまだ、予想できなかった。
「君がやるみたいに、誰でもできる事なの?」
ラドの問いに、目を見開いたミオは答えられない。
答えは、否。
怪物化した者は、一般人では対処できない身体能力を持つ。銃で武装してなんとかといったところ。
ましてや、ナイフ一本を得物に肉弾戦でこれを屠るとなれば、ミオやギュンター、リッター達のように、ひとの域に留まる
事を辞めた者でもなければまず不可能…。
それでも可能性はゼロではない。偶然が重なれば…。
「こんな血だったっけ…?」
そんなラドの言葉で、ミオは反論を飲み込んだ。
ラドは、母の血に塗れた手を顔の前に上げ、じっと見つめていた。
「狂ってしまったひとの血って、何だかおかしいなって…、思ってたんだけど…」
スン、とラドが鼻を鳴らす。
そこには、樹液が混じったような独特の臭いが無い。
ラドはゆっくりと、階段の上を見た。
そこにあるのは、焦りと後ろめたさに追い詰められた、顔、顔、顔…。
「ねえ?お母さんは、「まともだった」んじゃないんですか?」
堪りかねたように声が弾けたのは、その問いかけの直後だった。
「し、仕方なかったんだ!宿の親父はおかしくなったし!なのにそのひとは、夫はまともだって、入れてやらなきゃって…!」
「無理に鍵を開けようとしたから!だからちょっと乱暴になったけど…!」
「鍵を開けさせないために、力ずくで止めるしかなかったんだ!そ、そう!ナイフも持ってたし…」
「そうだ!ナイフを取り上げようとして、それでもみ合ってる内に…!」
口々に上がる弁解。
外の様子を見に行った宿の親父は、戻って来た時にはおかしくなっていた。
それなのに、婦人は中に入れなければとドアを開けようとして…。
皆の命を危険に晒すような真似はしていけない。
皆の命を危険に晒すような者は排除せねばならない。
皆の命と安全の為にはひとり程度の犠牲はやむをえない。
だから、自分達は悪くない。
「嘘だ」
ラドが漏らした小さな声が、一同の弁明をぴたりと止めた。
「鍵が開いたから、今ここはこうなってる…。鍵を開けようとしたお母さんを止めようとして、もみ合いになって、事故で死
んでしまったなら…、どうしてドアは開いていたの?」
しんと、一帯が静かになった。
言葉を並び立てて弁解していた七名の中に、ラドの問いに答えられる者は無かった。
「だから言ったのよ!」
女性が泣きながら金切り声を上げる。
「そんなの止めてって!殺すのなんておかしいって!私は言ったのに!」
「うるさい!」
先頭に居た若者が振り向きざまに平手打ちして、張り倒された女性は手すりにぶつかり、縋りつきながらも崩れ落ちる。
「危ないだろ!?一緒になんか居られるか!」
「だいたい、夫がああなったんだぞ!?一緒に居たそいつだって、いつどうなるか…!」
言い争いが、階段の上で起こった。
先の弁解は嘘。
本当は、ラドの母は疑心暗鬼に駆られた宿泊客達によって、「念の為に」殺されていた。
だが、ミオはむしろ、ここで起こった凄惨なその出来事よりも、事実を看破したラドに寒気を覚えた。
その、異様とも言える洞察力と分析力、推理力に…。
取り乱して泣き喚きながら、ラドは母の遺体の細部から情報を拾い上げていた。冷静とは決して言えない心理状態にありな
がら、取りこぼし無く。
部屋でくつろぎながら推理小説を読むのとは訳が違う。血臭漂う地獄のようなこの環境で、目の前にある実の母の遺体から、
実際に起こった事を推測する…。感情のバイアスがかかっていてもなお、精密に、正確に…。
何の訓練も受けておらず、調査の知識も与えられていないカエルの、極めて高い分析能力は、感情とは完全に切り離されて
作動していた。
「…なぁ」
やがて、若い男が口を開いた。目を据わらせて。
「バレたらまずい…。こいつらも…」
ああ、と。ミオは目を細めた。
胸の中でドロリと、何かがうねった。
(タスケルニハ、アタイシナイ…)
ヒソヒソと囁く何かの声が、自分の中から聞こえたような気がした。
「やめてよ!これ以上罪を犯すの!?」
「うるせえ!お前も黙らせてやろうか!?」
若い男は女性の胸倉を掴む。だが、周囲の五人は止めない。男と同意見なのだろう。
(止めなくちゃ!)
反射的に動きかけたミオは、ハッと、階段突き当りの窓を注視する。
そこに、手があった。
(よじ登って…!?)
一瞬後には上体が引き上げられ、窓の向こうにグレーに縞模様の猫が現れる。
その猫が上半身を大きく逸らし、頭でガラスを叩き割った。
階段上の七名が、悲鳴を上げて振り返る。
そこに、ガラスが体を傷つける事にも頓着せず、窓枠を掴んで入り込んだ猫の目が据えられた。
「………!」
ミオは一瞬躊躇した。
ひとの善意を信じたかった。
身を焦がすほど憎悪する対象が存在するその反面、ミオはひとの温もりを信じたかった。
自分を救い、名前をくれて、導いてくれたハティ…。
恩義に報いて自分を拾ってくれたギュンター…。
正体を知ってなお利用しないヴェルナー…。
ひとの情は、義は、仁は、確かに存在するのだと信じたかった。
だから…。
「伏せて下さい!」
自分達を殺して口封じしようと考えた若者をも、ミオは守る事にした。
(臆病なだけ…!身を守るために、震える手でナイフを翳すだけ…!誰にだって、逃げたい時はある!)
踏み込む足が、禁圧を振り切って床を蹴る。
一足跳びに階段の上へ飛び上がり、握ったトンファーを突き出す形で、体重と跳躍の勢いを加えて怪物の顔面へ捻じ込む。
自分と似た猫の顔面を叩き割ったミオは、窓から侵入する後続の二体に目を留めた。
怪物は、女性の悲鳴や言い争う声に引かれて集まってきていた。
言葉にならない叫びを上げながら、我先に階段を駆け下り、あるいは転がり落ちる七名。
途中で転んだ中年は、階段の下まで滑り落ち、後続の体格が良い男に首筋を踏まれて「ゲギュ!」と声をあげ、事切れる。
「落ち着いて!離れないで下さ…くっ!」
一瞬意識が逸れた隙に、間合いを詰めた怪物に掴みかかられ、さらに跳躍して襲い掛かってきた別の一体に腕を振られ、か
ろうじて回避し、トンファーで受ける。
しかし受けたはいいが怪物の力は強く、ミオは軽い。バランスが崩れたアメリカンショートヘアーは、階段下に目を向け、
ゾクリと総毛立った。
宿の入り口に、二体の怪物が姿を見せている。
気付いた宿泊客達も止まろうとはしたのだが、遅かった。
立ち尽くすラドの両脇を抜け、そのまま駆け出る格好で入り口近辺まで到達していた女性と体格の良い男が、それぞれ肩と
首の間に食らい付かれ、悲鳴を上げながら赤い噴水で周囲を濡らす。
「くっ!」
呻いたミオはナイフを投擲し、目前の一体の眼球を潰しつつ脳へ傷をつけ、トンファーから光弾を射出し、もう一体を排除
する。
素早く身を捻ったその時には、なだれ込んだ怪物二体によってさらに二名が命を落としている。
「ひ、ひ、ひぃっ!」
立ち尽くす初老の男が、大きく口を開けた狐の怪物に、顔面へかぶりつかれた。
「おぎょっ!ご!ぼごっ!」
顔を横倒しにして噛み付いた狐の口内から漏れた、初老の男のくぐもった悲鳴は、メキャッという音に続いて止む。両側か
ら、頬骨諸共頭蓋骨を破壊されて。
「こっちだ!」
注意を引こうと声を張り上げ、階段の上から大きく跳躍したミオは、落下しながらトンファーを構え、その銃口を一体の顔
へ向けた。
赤い光弾が怪物の頭部を砕くが、ミオは一瞬眩暈を覚える。
(まずい…、思念波枯渇…!?こんな時にっ!)
火薬も弾も必要としないトンファーだが、そのエネルギー源は使用者の思念波。今夜は既に推奨使用回数を越えている上に、
ここに来て連続使用したせいで、ミオの精神は一気に疲弊した。
着地でバランスを崩すアメリカンショートヘアー。そこへ迫った狐の、掴みかかる腕を転がって避けたミオは、四つんばい
になりつつトンファーを握りこんだ腕に力を込め、相手めがけて爆ぜるように跳ぶ。
跳躍の勢いを乗せたトンファーの一打が、狐の胸の中央を捉えて陥没させた。さらにそこから、ミオは身を捻ってスピンし、
よろけた狐のこめかみに堅いブーツの踵を送り込む。
弾けるような勢いで頭を倒した狐は、脳を破壊されて沈黙したが、眩暈がぶり返したミオは片膝をついてしまう。
気分が悪い。鈍い頭痛と吐き気がある。超過使用の副作用に加え、疲労のせいで眠気まであった。
(ま…だ…!)
唇を噛み、鋭い痛みで無理矢理意識を鮮明にしようとしたミオは、しかし…。
(まずい…!)
揺れる視界に、戸口に立った新たな影を捉えた。
それは、不恰好な肥満体だった。
衣類の上から着けたエプロンは血に染まっている。
ぎょろっと大きな目には、薄ら寒い青の燐光が湛えられていた。
「お、お父さん…」
ポツリと呟いたラドは、「あっ」と、場違いに聞こえる、軽い驚きの声を漏らす。
前へよろめく肥満体。
その後ろには、背を押した手。
顔を引き攣らせている若い男の目には、突き飛ばしたラドの後姿と、その向こうから歩み寄る肥満体の中年蛙の姿が映って
いた。
「お父…」
驚いているような顔のラドの、バランスを取るように広げた手。
進み出る中年蛙の、迎え入れるように広げた手。
それらが宙ですれ違い、親子は抱擁を交わし…。
「え?」
ラドの口から、素っ頓狂な疑問の声が上がった。
父親に、右肩へかぶりつかれて。
ヒキガエルには本来歯が無い。だからラド達は食べ物を口内で磨り潰すようにほぐし、堅い肉などは丸呑みしてしまう。
だが、肉体を変えた何かが適した形に変形させたのか、ラドの父親だったものの口内には、乱杭歯のように不規則に、骨が
尖って内側から肉を突き破った、棘のような物が生えていた。
鋭いが、耐えられないほどではない痛みが、肩を襲う。
棘は長くないが、その先端で無数の浅い傷をラドの肩に刻んだ。
悲鳴すら上げられないラドの目から、涙が零れた。
実感した。自分にはもう、家族は居ないのだと…。
やっと気付いた。本当は家族の事を嫌ってはいなかったのだと…。
「お父…さん…」
ラドの震える手が、父の頭に回る。
「ごめん…なさい…。ごめんな…さいぃ…!」
こんな事なら、もっと仲良くしておけば良かった。
帰ってきてから一度ぐらい一緒に食事すれば良かった。
話しをせびられた時、嫌な顔をせず近況を話せば良かった。
くすぐったくて恥ずかしい息子自慢も我慢しておけば良かった。
鬱陶しく思ったりもしたが、きちんと受け答えしておけば良かった。
「お父…さん…!お母さ…ん…!ごべ…なざぃ…!」
きつく、きつく、ラドは父だったものを抱きしめる。
蛙なのに小さい頃は水が怖くて、泳ぎは父が教えてくれた。
嫌な顔せず、むしろ楽しそうに延々と付き合ってくれた。
成績が少しでも上がると、母は大袈裟に褒めてくれた。
成績そのものではなく、頑張った事を褒めてくれた。
大学進学に必要なお金は安くなかったが、両親は快く、先生が進めた通りの、本人が望んだ通りの進路を開いてくれた。
例え大学を卒業しても、社会に出ても、独り立ちしても、そうしていつか自分が受け取ってきた物の大きさに気付いても、
養ってきてくれて有り難うと、見守ってきてくれて有り難うと、愛していると、伝える相手はもう居ない…。
「ごべんなざいぃ…!おど…さ…!おがぁ、ざ…!ごべ…!」
母のポテトパイは嫌いではなかった。飽きたなんて言わなければ良かった。
父に誘われたのを断らなければ良かった。一緒に酒を飲みに行けば良かった。
親孝行をしたいと思った時には、親はもう居ないものだ。
興味がある東洋の、そんな意味の諺が思い出された。
後悔は後を絶たず。流れ落ちる涙は途切れず。
(動け…!動いて、足…!お願いだから…!)
膝が震えて言う事をきかない。助けに入る事もできないミオは、膝を擦りながら移動する。
一方で、ラドを突き飛ばした若い男は、そろりそろりと大回りにふたりを迂回し…、
「ひ、ひぃっ!」
宿の入り口で、外に向って駆け出した。
次の瞬間、動きを察知していたヒキガエルはラドを放し、身を翻して男の背へ飛び掛かった。
ラドを解放し、男を襲ったのは、抵抗せず、逃げようともしないラドよりも、逃げようとした男を優先的に黙らせようとし
たせいなのか、それとも…。
肥った体に見合わない俊敏さで、後ろから男を押し倒したヒキガエルは、その後頭部にかぶりつく。
「ぎゃああああ!ああっ!あがぁあああ!」
上がった悲鳴は、やがて途絶えた。
うるさかったのか、ヒキガエルが男の頭を掴み、そのまま顔を地面へグジャリとたたき付けて、鳴き止ませた。
そして、グジュリグジュリと、湿った音と、何かを啜るような音が、霧の中に響く中…。
コツリと、ミオは床を踏む。
右手にはもう撃てないトンファー。左手には、ラドの母親の遺体から抜いた調理用ナイフ。
呆けたまま立ち尽くしているラドの横を抜け、ミオはゆったりとした足取りで外へ出ると、正面のドアを閉めた。
それは、せめてもの優しさ。
ラドの前で父親の姿を傷つけるのは、あまりにも酷だったから…。
十秒か、二十秒か、三十秒か。
少なくとも二分まで行かない時間を挟んで、静かに開いたドアから、ミオだけがロビーに戻った。
無言で見つめるラドと、頷くように、詫びるように、軽く顎を引くミオ。
しばしの沈黙の後に、ラドは口を開いた。
「戻らなくちゃ…」
ヒキガエルの顔は、歪んでいた。
大丈夫だと笑いかけようとして、気にしないでくれと微笑みかけようとして、それも叶わず悲しみに涙が零れて、酷い顔に
なっていた。
「教会に…、戻らなくちゃ…」
自分にはもう、家族は居ない。理解しているつもりだが、実感はこれから増してくるのだろう。
教会にはフランツが居る。友人も居る。せめて、自分を知っている誰かのところに、行きたかった。
喉を震わせ、繰り返ししゃっくりするラドに歩み寄ったミオは、その目の前で立ち止まると、
「失礼します…」
一言詫びて、その両手をラドの両脇に差し入れて、弛んで柔らかいその胴をキュッと抱きしめた。
ゲキュッ…と、ラドの喉が大きく鳴った。
嗚咽を堪え兼ねて、行き場を求めて息が漏れた。
「げう…!う…、ふぎゅ…!ぎふぅっ!うえっふ!えおふっ!えおっ!」
噎せるように息を漏らし、喉を痙攣させ、滂沱の涙を落としながら、ラドは自分を抱きしめてくれるか細い少年の背に腕を
回した。
「あふあっ!あううううっ!はふっ!はふふぅっ!!あうあっ!ああああああああああっ!」
叫ぶように声を振り絞り、ミオの体をきつくきつく抱きしめて、ラドは泣いた。
喪失感に咽び、泣いた。二度と戻れない昨日を偲び、泣いた。
ガクガク震えながら泣き叫ぶラドを、できる限りしっかり抱いてやりながら…。
(ユルセナイ…)
ミオの胸の中で、ドロリと、タールのように濃く、氷のように冷たい何かが蠢く。
この悲劇は、たった一粒でしかない。
この町には、ラドの身に起こったような悲劇が無数に生まれた。
否。何者かによって産み出されたのだ。
(ユルセナイ…)
じわりと、周囲の闇が濃くなった。
非常灯が投げかける光が弱くなり、窓から入る月光が減る。
ミオを中心に光が弱まっていた。制御から漏れたノンオブザーブが、光を叩き落しているせいで。
(ユルセナイ…)
光が消えたその瞳は、深く、暗く、冷たい。
許容も無く…、慈悲も無く…、まるで、北原の大地のように…。
冷たい怒りが身を満たす。
目の前で生き残りをむざむざ死なせた己の無力に、失望すら感じる。
だが、それ以上に強いのは…。
(ユルサナイ…!)
この惨劇を引き起こした、何者かへの憎悪…。
暗い殺意と深い哀しみを抱え、無理やり抑え込みながら、ミオは腕が回りきらないラドの胴の脇腹寄りで、肉付きの良い背
中を繰り返し、軽く、優しく叩いてやった。
今はただ、泣かせてやりたかった。
逝った者に対して、自分は何も出来ない。
だが、咽び泣くラドの声は、鎮魂の歌になるような気がしていた。