ファルシャーネーベル(act13)
怪物に襲われたのだろう、首を折られ、胸元から腹までを貪り喰われて廊下に転がる、宿泊客の無残な死体に、ミオは短く
黙祷を捧げ、脇を抜ける。
「どうか…したのー…?」
しゃっくりをしながら問うラドに、ミオは「いいえ、何でも…」と応じた。
自分達が宿泊した部屋を目指すミオは、ラドには目を瞑らせて、しっかり握った手を引いて移動している。
宿の中の惨状を見せたくなかったが、先ほど階段の踊り場で窓から怪物が侵入したばかりである。何処から襲われるか判ら
ない今、一時でも離れるのは危険と判断したのだが…。
(目を閉じでも、判るよね…)
無言になったラドは、目を閉じていても状況を察しているはずだと、ミオは確信していた。暖房が止まって冷えた空気の中
でも、充満する血臭や、掻き出された臓腑の匂いが鼻の奥から胸へ入る。加えて足元では、ひちゃ、ひちゃ、と床が吸い切れ
なかった血溜りを踏む度に音が鳴っているのだから。
「…うっ!」
急に呻いて立ち止まったラドが、引かれていない方の手で口元を押さえた。
目を閉じていても、吐き気を催す異臭はどうしようもない。ミオは慌てて周りを見回すと、惨状が目に入らないように壁に
向かってラドを立たせた。
その直後、ヒキガエルは前屈みになり、「オボェッ!エボォッ!オボォッ!」と、胃の内容物を吐き散らす。
びちゃびちゃと吐き出された、ツンと鼻を突く吐瀉物の臭気に顔を顰めながらも、ミオは安堵していた。まともな神経だ、
と。
(噛まれた時にはどうなる事かと思ったけど、幸い怪我もない…)
噛傷などから怪物化が感染する事は、原理はともかく事実として認識している。
父だったものに噛まれた時には、ラドも感染の危険に曝されてしまったかと思ったのだが…。
(トラウマにはなるだろうけれど、この件が片付いたら日常に戻してあげられる…。少佐も大佐も絶対に見捨てないから…)
秘匿案件に関わり、正体不明の感染症に晒されはしたが、きっと日常に戻してやれる。
そう、この時のミオは信じていた。
「ご、ごめん…。もう大丈夫ー…」
胃の中が空っぽになったラドが、辛そうに呻きながらも身を起こす。
休ませてやりたいがその余裕もない。とにかく死体がある廊下から離れる事が先決だと、ミオはラドを気遣いながらも、歩
調を早めて部屋に向かった。
鍵は、外出時にかけたままだった。
誰かが入った形跡もなく、荷物は一式そのままになっている。
「少し休んでいてください」
幸いにも水道はそのまま使える。部屋の洗面台で口を漱がせたラドを、ベッドに座らせて休ませながら、ミオは自分とギュ
ンターの荷物を手早くあらためて、使えそうな物を抜き出してゆく。
戦闘に備えた装備は無いが、レーションと応急処置用の薬、そしてリッター特製の錠剤があった。
苦痛を和らげる作用がある錠剤は、効果持続時間は短いものの、市販の鎮痛薬よりも効きが速い。最悪、体が壊れる寸前ま
でリミットをカットしなければいけない事態になっても、痛みで動きが鈍らないようにできる。飲み続けると体が慣れて効果
が薄くなってしまうため、乱用できない代物だが…。
(あのエージェントと遭遇した時の事を考えると…。これがあるだけでもいくらか違うし、ね…。あとは…)
布袋を取り出したミオは、中からタブレット型端末に似たボードと、ヘッドホンに似たヘッドセットとコード類を取り出す。
実際にネット接続環境であればタブレット端末として機能するそれを、試しに立ち上げてはみたものの、やはり接続はでき
なかった。妨害に対する措置も施された、接続が制限されている環境でもほぼハッキングレベルで強制接続できる支給品なの
だが…。
(やっぱりだめか…)
市販の品に偽装してあるとはいえ、頻繁に戻って来れなくなった今、部屋にリッターの支給品などは残して行けない。諦め
て仕舞いこんだミオは、かさばる着替えなどはそのまま残し、持ち出す物を絞ってリュック一つに纏めた。
「行きましょう。動けますか?」
「う、うんー…」
ラドを促したミオは、ヒキガエルの調子が悪そうなので少し気になった。
が、それで当然だとも思えたし、ここで休ませておく訳にも行かないので、とにかく教会までは頑張って貰う事にした。
ラドが乗って来たパトカーの運転席についたミオは、エンジンをかけながら、助手席に乗り込んだラドをちらりと見遣る。
窓の向こうの、変わり果てた我が家を眺めるラドの顔は、ミオからは見えない。
父親だったものの死体は、始末をつけたミオが、見えないように壁の脇へ引き摺って隠した。だから、ラドは父の遺体を見
ていない。
今のラドに運転させるのが不安だという事もあり、ミオは二台で帰る事は諦め、借りて来た一般人の車はここに置いてゆく
事にした。
「ありがとう…」
「え?」
ラドが呟いた突然の礼に、ミオは面食らう。
「お父さんが…、もう誰も傷つけないで済むから…」
顔を向けずに言ったラドが、涙を流していることは、震える体から察せられた。
「………」
ミオは答えずにアクセルを踏み、車をスタートさせる。
夜明けが近い。空は、明るかった。
その夜明けが迫る空に…。
「鳥、か?」
町を囲む森の中から、小さな影が浮いているのを見上げて、男が呟く。
迷彩柄のアーミージャケット。腰の後ろにはサウンドサプレッサーが装着された拳銃。目の前にはバイポットで地面に固定
されたライフル。
そして両腰には、鞘に収まった直剣…。
町を包囲する集団の、ある一隊は、やがて飛来するそれがヘリコプターである事に気付いた。
「報告し、指示を仰げ」
通信担当のアメリカンショートヘアーに指示したシベリアンハスキーは、スコープを取り出して確認する。
「…民間のヘリがこんな早朝に飛ぶものか…?やはりあれは…」
男の目が鋭く細まる。
「ドイツ軍のヘリ…か?」
好戦的に口元を歪ませながら、その男は呟いた。
「「落とせ」との指示がありました」
アメリカンショートヘアーが、感情のこもっていない平坦な声で告げる。
「「確認はもうすぐ終わる。あと少し時間が稼げればそれでいい」と」
「判った。では…」
ハスキーは顎をしゃくり、滞空ロケット砲を担当する部下に声を掛けた。
「落とせ。速やかに」
「進化している、と言うべきか…?」
椅子を解体してその脚で作った簡易棍棒で、窓から顔を覗かせた怪物の頭を叩き割りながら、ギュンターが呻いた。
壁をよじ登り、入り込もうとする怪物が増えている。
獲物を察知できても動きが直線的で、障害物に阻まれていた怪物達は、迂回行動を取り始めていた。
そのため、バリケードで一階を封鎖するだけだった教会は、外壁が破れて守りを失い、怪物達の侵入に曝されている。どう
いう訳か、遠くからも教会の人々を察知して向かって来ているらしく、数は全く減らない。
しかし幸いな事に、壁を這い上るという動きにはまだ適応し切れていないのか、登っている最中は反応が鈍く、迎撃は容易
だった。
もっとも、それもいつまで続くか判らない。怪物達の動きは少しずつスムーズになって来ているように思えた。
二階廊下を駆け、窓から顔を出し、壁面にへばりついている怪物が居ないか見て回りながら、ギュンターは舌打ちした。
(夜が明ければ好転するかも…と期待してみれば、これだ。夜半は這い上がるなんて真似はしなかったのに、もう高低差に対
処するようになってきた…)
ギュンターの動きがはたと止まる。
トラックの天井にしがみ付いていた、子供の怪物…。
申し合わせたように壁をよじ登り始めた怪物…。
(いつからだ?)
ギュンターは目を見開く。想像した事に寒気を覚えて。
(いつから、連中の動きは柔軟になってきた?)
学習したとは思えない。連中の「狩り」は、そこから何かを学習するほど難航しなかった。生き残りの住民達は大半があっ
さり殺されたし、交戦し得る者…つまりギュンターやミオと刃を交えたならば機能停止に追い込まれているので、学んでも活
かせる訳ではない。そもそも何らかのコミュニケーションを取って情報を伝達し合っているとも思えない。それが、様々な所
で一様に、垂直な壁を苦もなく越えるようになってきた。
白み始めた空。樹液のような体液。動きが良くなり、続々と集う怪物。
数少ない手札に描かれた絵柄が結びついて、導き出される答えは…。
「光合成…するのか…!?」
今までの怪物達は、乏しい光の中で、寝惚けながらも傍に居る者を反射で襲っていたに過ぎないのではないか?
教会へ来る怪物が増えているのは、光が増して活発になり、獲物を探知できる距離が広がっているからではないのか?
そして、そう想定した場合、教会に怪物が集まるこの状況は、ある事を意味している。
だからこそ、豪胆なギュンターも戦慄していた。
(つまり、襲うべき者がもう居ないから、教会に…!?この分では警察署にも…!?)
早急に手を打たなければならない。だが今ここを離れる訳には行かない。
体が二つあればと嘆くギュンターの耳に、けたたましいタイヤのスリップ音が届いた。
「あれは…!」
猛スピードで迫るパトカーが、怪物を撥ねつつ破れた壁から敷地内へ侵入。さらに音に反応して向かった怪物を四体、アク
セルを踏み込んで跳ね飛ばす。
その運転席には、見慣れたアメリカンショートヘアーの姿。
「グート…!やるなミオ!今のはなかなかえげつなかったぞ!」
明らかに褒め方がおかしいギュンターだが、それも以前の気弱で小心なミオを知っているが故の事。ここまで乱暴な真似が
できるようになったのかと感動すらしていた。
「帰ったら兄上に報告しなければならないな!」
ニヤリと不敵に笑ったギュンターは、しかし…。
「!?」
大気を震わせる轟音と、視界の隅で爆ぜたオレンジで、弾かれたように首を巡らせた。
「今の…!?」
パトカー内のミオも、その空中で起きた爆発に気付いている。
炎が咲いたのは山の上。そこから煙を上げて鋭角に墜落してゆくのは、一機のヘリコプター。
「撃墜された!?何処のヘリ!?」
ミオが目で追う先で、ヘリは市街地へ墜落し、轟音に次いで黒煙を上げる。
「そんな…、援軍が…。黄昏めっ…!」
警察署の近くだと目星をつけたミオだったが、そのまま急行する事はできず、無念をかみしめるばかり。何故なら…。
「ふぅ…、ふぅ…」
視線を横へちらりと向け、ミオはラドを窺う。
脂汗を流すラドの呼吸は荒い。それは、ただの疲労とは思えない異常だった。
(ショックが今になって?)
そう考えようとするミオだったが、嫌な予感は、目を背けている予測は、頭の隅から追い出せない。
感染。
いや、とミオは首を横に振った。
(怪我は負わされなかった。感染するはずない…)
ラドの瞳が薄く、青く、光っているように見えるのも、きっと気のせいだと自分に言い聞かせる。
非情になれない、言い訳に縋る自分を責める声を、胸の中に聞きながら…。
「何処のヘリだ…!?」
警察署から墜落現場に向かったパトカー内で、確認に赴いた警官達は、
「あのドアは…!畜生っ!」
民家の屋根と壁をごっそり抉って、二車線を埋めて煙と炎を上げるヘリの残骸を前に、落胆を露わにした。落下の衝撃で吹
き飛んだドアにある文字列から、ドイツ軍所属のヘリである事が判って。
ギュンターの報告によって危機的状況にある事がやっと伝わり、まずは一機で現状確認に来たのだろうと警官達は考えた。
だが、そのヘリが撃墜された。つまり怪物以外の何者かが、武装し、明確な意思を持って、自分達を包囲している事がはっ
きりと判った。
助けが来るかもしれない。だがその前に、自分達を包囲している何かは…。
絶望に打ちひしがれ、ハンドルに額を押し付けた警官は、
「おい!あ、あれは!?」
同僚の注意を促す声で、ゆっくり顔を上げた。
そして目を見開く。
赤と黒、炎と煙の中に、揺れる影を認めて。
「なんともはや、熱烈な歓迎じゃあないか」
呟いたのは低い、落ち着き払った女性の声。
「まったくで。こいつはきっちりお礼をしなくっちゃいけねぇや…」
応じて響いたのは不機嫌そうな男性の声。
程なく、黒煙を押し分けるように中から姿を現したのは、恰幅の良い大柄な女性…ジャイアントパンダだった。
年の頃は二十代後半と言った所だろうか、目を覆う黒い斑紋の上に真っ黒なバイザーを着用している。
身長は180以上あるだろう。軍服の上に黒いロングコートを纏ったその格好でも、たわわな胸の大きさや肉付きの良い腹
周り、腰の太さがはっきり判る。
言ってしまえば肥満体なのだが、その巨体と引き結んだ口元には軍人然とした厳しさが覗える。
続いて煙の中から歩み出たのは、白と蒼灰色、くっきりツートーンに分かれた毛並みが美しい若い狼。
こちらは二十代半ばほどに見える男性で、身長はジャイアントパンダよりもやや低く、175センチほど。手足がすらりと
長いが、肩幅もあってひ弱そうな雰囲気はない。バスケットボール選手のような、しなやかに引き締まった体付きである。
墜落し、爆発炎上したヘリから出てきた二名…。
怪物の脅威にさらされ、異常な事柄に慣れて来た今、警官達はこの人知を超える存在に接して驚くどころか、危機感と警戒
心を露わにした。
拳銃を構え、窓越しに睨み、交戦にも逃走にもすぐ移れるよう身構えている警官達に、
「こう言っても説得力は無いと思うが、怪しい者ではありません」
ジャイアントパンダはバイザーに手を掛けて外し、双眸を見せながら両手を上げ、敵意が無い事を示しながら朗々と呼びか
ける。窓を閉めていても、エンジンをかけていても、はっきり聞こえる声量だった。
黒い円の中に輝く目はキリリと鋭く、引き結んだ口元と相まって、独特な顔の紋様の愛らしさがないどころか、勇ましく厳
しい顔立ちである。
「わたくしは陸軍東面駐屯部隊所属、イズン・ヴェカティーニ少尉。こちらは同所属のアドルフ・ヴァイトリング准尉。救助
先遣隊として、ただいま到着致しました」
言葉こそ丁寧だが、張りのある声には軍人らしい威厳が滲み、警官達は知らず知らず居住まいを正している。ジャイアント
パンダの肩書は下っ端士官だが、どうにも不釣り合いな迫力があった。
狼は間違いなくドイツ系だが、大女の方は姓がイタリア系。それなのにドイツ軍人だと述べたその言葉は、ジャイアントパ
ンダの堂々とした立ち振る舞いもあって疑わしくは思えなかった。
本当は、堂々と偽りの所属を述べているのだが。
「姉御…」
「少尉と呼べ」
傍らの狼が呟き、ぴしゃりと訂正したジャイアントパンダは、
「反応してやがる。何かありますぜ?」
狼の言葉を受け、その視線を追って地面すれすれの低い位置を見る。
そこには、墜落の爆風で一時押し遣られ、そして戻ってきた霧…。
それが、ふたりを囲む円柱状の範囲外周で火花のような小さな明滅を生んでいた。
まるで、スパークする誘蛾灯のように…。
「フェンスターラーデンに反応している…?この霧がか?」
ふたりを円柱状に覆い、霧の接近を阻んで薄く光るそれは、力場である。
エナジーコートと呼ばれる事が多いその能力が生み出す、光の力場…。
生命力を源に生み出されるその力場は、本人の認識如何に関わらず、酸素など必要な物は確保しながら、有害な物を排斥す
る。
爆炎から身を守るために展開した力場の、その自動選別にたまたま引っかかったという事は…。
「どうやら、ただの霧ではないようだな。…というよりも、そもそも「霧」などではないのかもしれない」
ジャイアントパンダ…イズンは、狼…アドルフに命じて壁を消させると、のしのしとパトカーに歩み寄る。
そして警官達がビクッと背筋を伸ばす前で、ポケットから綿棒と試験管がセットになったような採取器具を取り出し、運転
席ドア下部に付着した朝露を慎重に掬った。
「ファルシャーネーベル(偽りの霧)…ですか」
面白がっているように肩を竦めたアドルフに、イズンは顰めっ面で「偶然とはいえ、妙な符号だな」と応じた。
「だが、あながち間違った表現とも言えないようだ」
朝露を封入した試験管を目の高さで翳し、明けの陽光に透かしてみながら、イズンは呟く。
「この霧は、生きている」
「そいつは物騒だ」
肩を竦めたアドルフは、「そんな物騒なトコに、ミオをいつまでも置いとく訳にはいかないな…」と呟く。
「任務に私情を挟むな。アイアンハート准尉も我々も、戦場では単なる兵力の単位に過ぎない事を忘れるな」
「へいへい…」
イズンにピシャリと言われて首を縮めたアドルフは…、
「…そんな事言って、準備もそこそこにヘリを強引に拝借したのはどなたでしたっけね…」
「何か言ったかヴァイトリング准尉?」
「いいえ!何も!」
ジャイアントパンダにじろりと睨まれ、狼はピンと背筋を伸ばす。
「ともかく、アイアンハート准尉とエアハルト騎士少尉との合流は、状況把握のためにも急務だ」
「…素直に心配だって言えばいいのに…」
「何か言ったか?」
「いいえ!何も!」
女傑の睨みで再度姿勢を正す狼。
イズン・ヴェカティーニ。能力名はツァイトゲーバー。
アドルフ・ヴァイトリング。能力名はフェンスターラーデン。
共に所属はナハトイェーガー。
司令官の命を受けて急行したふたりの狩人は、渦中のノーブルロッソに降り立った。
「状況は?」
「最悪一歩手前だ」
教会に戻ったミオは、ギュンターから手短にこれまでの事を聞かされ、耳を倒した。
パトカーは踏み台にされる恐れがあったので、礼拝堂から離して庭園の中に停めてある。
重いが力が無いラドを押し上げる重労働を経て、ようやく二階廊下に入り込んだミオは、横転したトラックと外壁を見てあ
る程度予想がついていたとはいえ、警官が一名殉職した事を知り、喪失感に襲われた。
「シェパードの警官は筋を違えて、あちこち打ち身を拵えているが、命に別状はない。念のために休めと言ったが、壁を見張
ると言って聞かなかった。今も高い位置の窓を回って、這い上がろうとしている怪物が居ないか確認してくれている。…そっ
ちは?」
「…生き残り七人を見つけた。…けど…」
目を伏せたミオの手がきつく握り込まれるのを見たギュンターは、その先の言葉に予想がついた。
「ひとりも連れて来れなかった…」
「そうか」
短く応じたギュンターは、ミオの肩にポンと手を乗せ、握った。
「悔やむなとも、自分を責めるなとも言わない。だが、悔やむのは後にしろ。責めるのも後にしろ」
後悔は糧になる。繰り返さないための糧に。己の無力に涙しないための糧に。
あえて慰めず、突き放すように言ったギュンターの、肩を強く握る手から不器用な励ましを感じ、ミオは「うん…!」と口
元を引き結んで頷いた。
「とにかく、今は墜ちたヘリコプターの事が気になるんだが…」
「そうだね。警察署の方だったけど…。でもここを手薄にはできない。ギュンター君も剣が無いし…」
言葉を切ったミオは、ここを出る直前の事を思い出す。
「神父様!」
「あ!」
ギュンターも気付いて声を上げた。
剣を借りる話がまとまった直後のアクシデントから、災難が続いて対処に追われ、余裕を失っていたが…。
「今度こそ剣を借りにゆこう!」
頭からすっぽり抜けていた気恥ずかしさを紛らわせてか、大声で宣言したギュンターは、ふとラドに目を向ける。
「…ミオ。そっちはだいぶ具合が悪そうだぞ?ベッドにでも寝せた方が良い」
壁に寄りかかり項垂れているラドは、明らかに顔色が悪い。息も乱れて苦しそうだったので、基本的に甘くないギュンター
も流石に気になった。
ラドが勝手な真似をした結果、壁は失われて警官が死んだとも言える。しかし、このヒキガエルの両親が連れて来られなかっ
た事から、咎を責めるにも責められなかった。
こうなると、ラドが暴走した事を知っている者が限られているのが救いとも言える。避難している住民達が事実を知ったら、
ラドが一体どんな目に遭わされるか…、想像するに難くない。
「そうだね…。神父様にお願いして、寝具を借りよう」
そう応じたミオの声に滲む、何かを隠しているような焦りの色に、今のギュンターは気付く余裕が無かった。
コンコンコン…と、神父の部屋のドアをノックし、少し待って、それでも返事が無くて、ギュンターは眉根を寄せた。
「下に行ってる?」
「いや、だとしたら階段か廊下ですれ違っている。お疲れだろうし、お休みになられているかもしれないな…」
ミオにそう答えながら、力尽きて机に突っ伏している長毛の猫の姿を想像したギュンターは、「しかし急を要する。失礼し
て…」とノブに手を掛けると、
「…すみませぇん…」
信心深さ故か、珍しく恐縮した小声で断りを入れながら、ややへっぴり腰でドアを開け…。
「うっ…!」
ラドが口元を押さえて喉を鳴らす。
「………!」
溢れ出た血臭の中、ミオが目を見開く。
「神父…様…!?」
想像通り突っ伏している神父の姿を目に映しながら、ギュンターが呻く。
想像と違っていたのは、神父が突っ伏していたのが床である事と、その下に、血の池が広がっていた事…。
「ちっ…」
聞こえた舌打ちに視線を動かした三名は、そこで初めて気がついた。開け放たれた窓の、風に揺れるカーテンの前に、すら
りとした狐が立っている事に。
「何者だ!?」
声を張り上げたギュンターは、しかしこの時、普段とは違って即座につっかかたりはしなかった。
本能的に察していた。
その男が、自分やミオとは違う場所に立っている事を。
椅子の足をしっかり握って腰を落とすギュンター。その後ろで身構えるミオは、ラドを後ろに庇っているが、脂汗が背中を
伝った。
今なら、勝てないと判る。自分とギュンターのふたりがかりでも勝てないと…。
この男ならば、容易く自分達を殺し、ここに居る住民達を皆殺しにできる。
対処方法としては逃げる事ぐらいだが、ここで逃げれば…。
(みんな、殺されちゃう…!)
空気がピリピリと張りつめる中、ヘイムダルは神父の死体を一瞥し、それからギュンターに、そしてミオに目を向け…。
「…しっ!」
その踏み込みに、ギュンターはかろうじて反応していた。
床を蹴って後ろに倒れ込む青年の鼻先を、横薙ぎの一閃が掠め、飛沫感染防止用のマスクが斬り飛ばされる。
その、リンボーダンスでもするように反った、後ろに倒れる姿勢から、ギュンターは蹴りを放っていた。
しかしその蹴り足が、ヘイムダルの靴底で止められる。だがもう一方が続いて跳ね上げられ、ヘイムダルは上体を急激に反
らせて、顎先を狙うこれを避けた。
倒れ込むと見せかけて蹴り上げ二連発、そしてこれを避けて止まったヘイムダルへ、
「ふっ!」
ギュンターの上を飛び越すように前へ出たミオの、逆手に握ったナイフが迫る。
「ほ?」
感心したような声を漏らしたヘイムダルの眼前で、目にも止まらぬ速さで引き抜かれた獅子王が、ナイフを受け止め、そし
て半ばから切断した。
「へっ!今回は少し動きが良くなって…おっと!」
狐の言葉を遮ったのは、ナイフを手放しながら身を捻ったミオが、遠心力をこめてぶつけに行ったナップザックだった。
顔面を狙ったこれはジルコンブレードで両断され、中身がぶわっとまき散らされる。
そこに、跳ね起きたギュンターが飛び込んだ。ミオと手を握り合い、お互いに引っ張って入れ替わりながら。
後方に引っ張られたミオと、その反動を利用して前へ出たギュンターは、お互いに散乱する荷物の中から一つずつ品を手に
取っていた。
ギュンターが握ったのは鞘を被ったままのナイフ。これを手首のスナップで振り、鞘をヘイムダルの顔に向けて飛ばしつつ、
腹部を狙う。同時に椅子の足はヘイムダルの左鎖骨を突き折る格好。
ミオが取ったのは、旅先の水が体に合わなかった場合を考慮して携帯していた、ミネラルウォーターが入ったボトル。これ
をトンファーで殴り、破砕して水しぶきを飛ばす。
背中から水を浴びるギュンターに対し、ヘイムダルは真正面から水滴を浴びる。それで目を瞑れば…。
「狙いは良い!」
咆えた狐のジルコンブレードがS字を描いた。
飛ばしたナイフの鞘は両断され、ギュンターが引っ込めた手の先で椅子の足が真っ二つになる。
それと同時に獅子王はギュンターのナイフを腹で受け止め、カシャンと返されて切り上げに入り、首を傾けつつ仰け反った
ギュンターの胸元を掠め、コートをザックリと切り裂いた。
尻餅をつく格好で倒れ込んだギュンターは、そのまま後転して四つん這いで起き、身構える。
その脇を固めたミオは、ヘイムダルの追撃に備えたが、狐は場違いにも棒立ちになって水に濡れた顔をグシグシ拭い始めた。
「何者だ、こいつは…!?」
警戒を強めるギュンターに、
「先に話した、ここの上で遭遇した黄昏…、エインフェリアだよ…!」
ミオは呻くような声で応じた。
「エインフェリア…?なるほど、ディッケ・ハティの同類か。どうりで手強いっ…!」
「彼はエージェントだ。一般兵や普通の士官級とは別次元と考えてかからないと…!」
「犯人は現場に戻る、というヤツか?こんな時に…!」
「包囲してるだけじゃなく、始末をつけに来た…っていう事かもね…」
並んで立ち、構えたふたりの前で、ヘイムダルは手を見下ろす。獅子王でナイフの突きを受け、軽い痺れが残る手を…。
「別々なら論外だが、ふたり一緒なら合格だ」
呟いたヘイムダルは一転して高角を吊り上げ、牙を剥き出しにして笑みを浮かべる。
「…さあ、潰し合おうぜぇええええっ!」
それは、戦慄を強いられる強烈な笑顔だった。
闘志。期待。興味。快楽。愉悦。
そんな幾多の感情が分厚く塗り重ねられたその笑みは、まさに凶笑と形容するに相応しい。
濾過し続けた海水が真水になるのとは逆。ひたすら煮詰め、最後には塩を残して蒸散し切るような…。
ミオも、豪胆なギュンターですらも、強烈な寒気に身震いした。突き詰められた歪みの果てに存在する極みに…。
しかし…。
「と、言いてーのは山々なんだが…」
ヘイムダルは殺気を霧散させると、耳を倒して顔を顰めた。
「こうなっちまったら遊んでる余裕もねー。もう近くまで来てるだろーしー…、あー、どーすっかなー…」
何やら困っているような顔と口調でそう言うと、これはどんなフェイントだ?と緊張を解いていないミオとギュンターに、
「確認だ。さっき神父と一緒にこの部屋に居たのは、お前らじゃねーな?」
出し抜けに、そんな問いをぶつけた。
「…何の質問だ?どういう意味だ?」
ギュンターの言葉と眉根を寄せたミオの反応を確認し、「あー、やっぱそーか」と呟いたヘイムダルは、すっと踵を返した。
無防備に背を向けた狐が窓に向かって歩いて行くその様子を、ミオとギュンターは信じられない物を見る気分で見送る。
「到着前に贈り物でも用意しておきたかったが、もう余裕ねーし、良いか。あー、そうそう…」
窓枠に足を掛け、外に身を乗り出しながら、ヘイムダルはふたりを振り返る。
「できれば死ぬなよ?またどっかで会えたら、次はちゃんと潰し合おうぜ」
笑みを残し、トン、と窓枠を蹴って宙へ身を躍らせるヘイムダル。
一瞬遅れて窓へ駆け寄ったミオとギュンターが下を見た時には、既に地面へ降り立ったヘイムダルは、悠然と敷地外へ歩い
てゆく所だった。
散歩でもするような足取りで、今まさに怪物達が侵入して来ようとしている、壁が破れた場所へと。
「お前らはつまんねーんだよな」
ため息交じりに呟いたヘイムダルの前と左右で、掴みかかった怪物がそれぞれ五、六個の肉片に変えられる。
その、桁はずれの力を目の当たりにしながら、「何が目的で、教会に…、神父様に危害を…!」と、無力感と、見逃された
屈辱に歯噛みしたギュンターは、
「神父様!?」
悲鳴のような声を聞き、ヘイムダルの行方を目で追うのも忘れ、ミオと共に振り返った。
廊下でへたり込んでいるラドの手前…、若い黒兎を先頭にして、住民四名が戸口に立っている。
その視線は、血溜りの中に倒れ伏す、物言わぬ神父に向いていた…。