ファルシャーネーベル(act14)
血溜りに伏す長毛の猫。
しかし状況は、ミオ達に神父の死を悼む余裕すら与えてくれなかった。
「神父様!?神父様が!」
血で膝が汚れる事にも構わず、フランツが神父の脇に屈み込む。
そして、背を少し丸めている猫の下に腕を入れ、仰向けに返した。
「!?」
息を呑むギュンター。
目を見開くミオ。
神父の胸には、根元まで突き刺さったナイフ。
(ヤツに斬り殺された訳じゃないのか!?)
ギュンターを襲う衝撃と疑問。ヘイムダルに殺害されたとばかり思っていた青年は、寒気すら覚えた。
(あの狐でも、怪物化した者でもない。敵は他に居る!しかも教会の中に入り込んでいるのか!?避難民に紛れ込んで…!?)
神父を囲み、息や脈を確かめ、涙する住民達。
その様子を見据えながら、ミオは愕然としていた。一点に目を留めて。
「何て酷い事を…!」
住民のひとりが、神父の胸に突き刺さっているナイフを睨む。
その、ナイフを抜こうとして伸ばされた手を目で追った黒兎は、「ちょっと…!」と、その手を掴んで制した。
「何だフランツ?」
ナイフを凝視したフランツは、ゆっくりと口を開いた。
「このナイフ…、軍用品だ…」
黒兎が巡らせた視線が、ミオの視線と交わった。
ミオは思い出していた。ヘイムダルとの戦闘中に、ナイフを一本失っていた事を…。
(まさか…、あのエージェントに嵌められた!?)
あの狐は、不信の種を蒔いて内部分裂を起こそうとしたのか?神父殺害はそのために?
混乱するミオを見ながら、フランツが口を開く。「まさか…」と。
「あんた達が…、神父様を…?」
ギュンターもハッとナイフを見つめた。柄だけしか確認できないが、言われてみれば血まみれのグリップには見覚えがある。
(軍用ナイフだと…!?)
弁解するのは、否定するのは、簡単な事だった。
だが、このショッキングな現場を目の当たりにした一般人が、疑心暗鬼に囚われずに話を聞いてくれるものかどうか…。
神父を殺したのはあの狐なのか?
あいつは自分達をハメたのか?
だとしたら目的はこの避難所の瓦解?
しかし自力で壊滅させられるだろう狐が、絡め手を用いる理由は?
(いや、奴は何と言った?さっき神父様と一緒に居たのは俺たちか?と言っていたか?…犯人は奴でもないというのか!?)
謎だらけの現状で、しかし効果はともかくとりあえず違うと否定しなければと、口を開きかけたギュンターは、
「違うよ…、神父様は、僕達が来た時には、もう…」
ドアの所から聞こえてきた弱々しい声で、視線を巡らせた。
もう立っているのも辛くなったのか、戸口にもたれかかっているラドが、神父の遺体を囲む皆へ説明する。
ドアを開けた時にはこの有様だった事。狐が居た事。そして去って行った事。疑わしいのは狐である事…。
ラドが説明しているそこへ、騒ぎを聞きつけた住民が集まり始めると、次いでシェパードの警官も息を切らせて駆けつけた。
そしてその証言が、ミオとギュンターから疑いを逸らす。
「神父様の部屋の窓に、さっき妙なヤツが入り込んだ…」
神父の遺体にシーツをかけるよう指示しながら、警官は言う。不審な影を認めてここへ来たのだが、怪我のせいで急行でき
ず、今までかかったと、悔やみながら。
「神父様に危害を加えたのはソイツだろう。このお兄ちゃん達じゃない」
警官の証言には説得力があった。
そもそも、わざわざ渦中で身を危険に晒して踏ん張っているのがこの余所者ふたりである。悪意があるならもっと効率の良
い手段で我々に害を及ぼすだろう。つまり、「助けずに放置する」という簡単な手段で。
こんな説明を聞かされれば、疑いの目を向けた住民達も納得せざるを得ない。
(良かった…。聞き入れて貰えた…)
ホッとしたミオは、最初に異を唱えて自分達をフォローしてくれたヒキガエルに目を向け…、
「コンラッドさん!?」
警官に注目している皆の後ろで、廊下の壁に背を預け、崩れ落ちるような格好で横倒しになっているラドの状態に、思わず
大声を上げていた。
「何だ?」
「怪我!?」
ざわめくひとの隙間を縫って駆けつけたミオは、周囲の数名と一緒にラドを助け起こそうとしたが…。
「…熱い…!」
脈を計ろうと触れたラドの手首に、異様な発熱を認めた。
はぁはぁと、荒く息を吐くヒキガエルが、薄く目を開ける。
その虹彩が、薄く、青く、仄かな光を放っていた。
(そ、そんな…!)
ミオは凍りついたように動きを止めた。
熱に苦しむ患者のように表情が無い、茫洋としたその目の青い光は、先程よりも強くなっていて…。
(すっかり、怪物と同じ目に…!)
焦るミオの横で、
「ひぃーっ!?」
鋭い悲鳴が、アメリカンショートヘアーの頬を引っぱたくように浴びせられた。
光を放つようになったラドの目は、様子を窺って屈んだ複数の住民に目撃されていた。
弾かれたようにラドから離れる住民。しまった、と悔やんだミオだったが、既に遅い。
「か、怪物だ!怪物になった!」
青く光るその瞳は、怪物化した者のソレ。
わっとラドから離れようとして、住民達は狭い廊下で押しあいへしあい、先を争って逃げ出した。
パニックに陥りながらも、しかし比較的冷静な中年男性や年配層などは、女性など弱者を先に行かせて自分が後ろに回り、
悲壮な覚悟を胸に立ち向かい、壁となる覚悟を決める。
一方、フランツは…。
「そ、そんな…?ラドが怪物に…?」
呆然とした面持ちで呻くように呟き、ふらりとよろめいた。
「何てこった…!」
シェパードが銃を握った手を、ゆっくりと上げた。ひたりと狙いが据えられたのは、ラドの額…。
(せめて、一発で頭を…)
項垂れて、肩で息をしているラドへ、祈りながら銃口を向ける警官は、
「待ってください!」
ラドを守るように、両手を広げてその前に立ったミオに射線を塞がれた。
「どいてくれお兄ちゃん!グーテンベルグの倅は、もう…!」
シェパードはギリリと牙を噛み締める。
見知った宿屋の親父の子供…。自慢のひとり息子…。知らない顔ではない、知人が大事にしていた倅…。
を撃たなければいけない苦悩と悲哀が、その精悍な顔を歪ませる。
「仕方が無いんだ!もう!」
シェパードが銃を横へ軽く振り、退くように迫るが…、
「まだです!まだ怪物化はしていません!」
ミオはそう叫び返し、ハッと、気がついた。
(そう…。そうだ…。「まだ怪物化していない」?おかしいぞ!?)
微かな違和感は、勢い任せに口にした言葉に刺激され、表面化した。
「待ってください!おかしいんです!」
「ミオ…!?」
ギュンターもミオの言いたい事が判らず、撲殺の覚悟を固めて前へ出ていたが…。
「怪物化が遅過ぎるんです!」
全員が、ミオの言葉に凍りついた。
そして次第に、ざわつきが通路を埋める。
「今まで居ましたか?変化が起きる時に体調不良を起こしたひとは!?ゆっくり変化したひとは!?」
シェパードが目を大きく見開いた。
ここまで、怪物化する者は急激な変化を見せていた。予兆も無く、急に怪物になっていた。
それが、ラドは目を青く光らせながら、襲い掛かってくる様子が無い…。
「ま、まさか…!?」
ギュンターの震える声に、期待が宿る。
「そう、彼は今、戦っている…!」
確信を込めてミオは頷く。
「恐らくですけど、怪物化に対する耐性…、抗体か何かを持っているんです!」
ざわめきに、やがて啜り泣きが混じった。
それは歓喜の涙。光明の無い長い夜の終わりに救いがもたらされた、喜びの…。
しかし、
「…それで、治るのか?」
疑問の声は、初老の住民から上がった。
「変わるのが遅いだけじゃないのか?」
その言葉は、大声ではなかったが、喜びを打ち消すに充分な物だった。
「結局、怪物になるんじゃないのか?」
「今平気でも、数秒したら判らないんじゃ…」
シンと、場が静まり返る。
やがて、ゴツンと床を踏んだのは、前に出た数名の男の靴…。
「今のうちに、楽にしてやった方が…」
「そうだ…。今のうちに…」
「今のうち…」
「今なら…」
怯えに染まった住民達の前で、ミオは「ダメです!」と声を張り上げる。
「もしかしたら治す手立てが判るかもしれないんですよ!?」
「そうだ!今は様子を見る事が大切だ!」
ギュンターもミオに賛同したが、住民達は…。
「そんな事言って、怪物になったらどうするんだ!?」
「そうだ!被害が出る前に…」
ラドを、怪物に変わりつつある者を排除する。その方向で意識が固まっている。
「もしも…、もしもそうなったら…!」
ミオはラドを一瞥すると、キッと顔を上げ、毅然と住民達を見据えた。
「ぼくが、責任を持って始末をつけます!」
「そこまでだ!」
ミオの言葉に被さったのは、シェパードの声。
「腹は決まった。…住民達を危険に晒すのは気が咎めるが…、今は希望一つの重みを無視できん…」
警官が声を張り上げるそこへ、最初に疑問を口にした初老の男が噛み付いた。
「そんな事を言って、被害が出たらどうする!?化け物はさっさと殺してしまうほうが…」
「「まだ」化け物じゃねえ!」
一喝したシェパードは、ラドをちらりと見た。
「アンタらこそ、そのまんまで化物に成り下がるか!?えぇっ!?」
そんな言葉で、目の色を変えていた住民達は勢いを失った。
「コイツはまだひとのまんまだ。必死になってひとのまんまで頑張ってる!化け物なんかじゃねえ!アンタらはどうだ!?子
供が聞くぞ!?子供が見るぞ!?子供が知るぞ!?アンタらは、安全のために、念の為に、同胞を殺して汚した手で、子供を
あやすのか!?余所者が体を張って、たった一つ、たったひとり、助けようって足掻いてる時に、アンタらは向き合う勇気も
持てないのか!?」
俺は、とシェパードは唸る。
「そんなのはゴメンだ…!こう見えて、子供たちに胸を張ってパトロールできるお巡りさんで居たいんでね…!どうしても汚
さなきゃならないなら、俺ひとりが手を汚せば済む事だ!アンタらがやらなきゃいけない理由は、一つもない…!」
今度こそ、反論は出なかった。
指摘されて恥じた住民達を前に、警官は頭を掻きながら顔を顰め、「ちょっと良い過ぎたな…」と呟く。
「心強い」
ギュンターがポツリと漏らし、ミオが安堵して頷く。
こんな時に皆の説得に向くのは、お伽噺の英雄の演説でも、偉い軍人の説明でもない。
その地に根差して体を張って来た男…。地味な職務を黙々とこなして、落し物を預かり、いさかいを鎮めて、酔っ払いを保
護する「おまわりさん」に敵う者は居ない。
「カッコイイね…」
ミオの言葉に、今度はギュンターが頷いた。
「かく在りたいものだな。騎士以前に、ひととして…」
ああ、そうだ。とミオは感じ入った。
「ひととして…」
怪物にはなるまい。どんなに穢れても、堕ちても、自分はひととして歩みたい…。
心に刻み込みながら、ミオはラドの腋の下へ手を入れ、ギュンターに手伝われながらヒキガエルを立たせる。
「ここからは、コイツ次第というわけか…」
期待を込めて呟いたギュンターに、ミオが深く頷く。
ラドが回復するか否かで、怪物化現象への対処は大きく変わる…。
「状況を整理するに…」
恰幅の良い体を窮屈そうに助手席へ押し込んだ雌のジャイアントパンダは、試験管の中で揺れる液体を注視しながら口を開
いた。
「エアハルト騎士少尉は、同行した警官二名と共に避難所になっている教会を防衛中。アイアンハート准尉も一緒と見て間違
いないだろう」
「ミオは単独捜査向きなのに、ですかい?」
応じたのは運転席の雄狼。しかしこの疑問に対して、ジャイアントパンダは予期していたように先を続けた。
「町全域に及ぶ惨状。この総面積。これらから鑑みれば、アイアンハート准尉ならば巡回をほぼ終えている。救出可能だった
住民は全て集められていると考えて良い。逆に言えば、避難所以外の生き残りは絶望的だ」
「へぇ…」
片眉を上げた狼はアクセルを踏み、進行方向に立ち塞がった怪物を容赦なく撥ねる。
ふたりが乗っているのは、警察署で借りたパトカーである。既にボコボコになっている事もあり、アドルフは車体に全く気
を使っていない。常々そう、とも言えるが。
「で、その霧の事は何か判ったんですかい?」
「胞子だ」
イズンの短い答えに、「へ?ホウシシ?」と首を傾げるアドルフ。
「茸などの胞子だ」
イズンが小刻みに揺らす試験管の中で、合成タンパク質と撹拌された霧は、内部で糸状の物を生じさせていた。
警官の案内で警察署に寄ったイズンは、感染が疑わしいとされ、檻に隔離されていた住民達全員から血液サンプルを取り、
全員に陰性を言い渡した。
道中で採取した怪物の体液と、霧の成分に一致を認めたジャイアントパンダは、既に怪物化の感染経路を特定している。
これは、到着から一時間と経たない短時間での事。機材が満足になく、データベースを調べる事もできない状況である事を
考えれば、驚異的な仕事の早さである。
「仮説交じりだが、病原は霧の中に混じった胞子…、より正確には、水滴を纏って浮遊し、霧に擬態している胞子そのものだ。
これは気管などの粘膜を通って体内に侵入し、神経を伝って脳へ至り、これを乗っ取る。その過程で体液は樹液化し、体内に
は菌糸を用いた新たなネットワークが構築され、ひとの域を超えた動きが可能となる。また、二次感染もする。連中の体液は
体内に侵入すると、胞子の場合とは違ってステップを飛ばし、神経を冒して新たな被害者を生む…。発症後の変体はアルラウ
ネの寄生体にも似ている。幸いアレほどではないが」
ヒュウ、とアドルフが口笛を吹いた。が、ジャイアントパンダの話は終わっていなかった。
「欠陥品だ」
「え?」
アドルフの疑問の声に、イズンはしばらく間を空けてから答えた。
「怪物化し、ひとを襲わせる寄生植物。乱暴に分類すればこうなるが…、これは生態的に見れば欠陥品だ」
「はぁ?欠陥…ですか?」
「ひとの体を手に入れ、操る…、その先が無い。感染を広めるにも根こそぎ食い殺すにも中途半端だ。生態としての一貫性が
無い。そういう意味では欠陥品と言える」
「ほ~…」
イズンが何を言おうとしているのか、半分も理解していないアドルフは生返事。ジャイアントパンダは「たまには脳みそも
運動させておけ」と説明の間に一言挟む。
「だが、この欠陥が上手く働いた例がこの惨状だ」
「はい?」
「判らないか?」
イズンはすっと目を細める。
その瞳に映るのは、路肩に転がる食い荒らされた後の、見る影も無い無残な死体。
かろうじて原型が残っているのは、子供靴を履いた小さな足首…。
「襲われて怪物化するのは1割程度だろう。それ以外は食い殺される。効率的に増殖するならば、殺さずに感染させたほうが
良い。胞子にさらされて吸い込み、感染…。感染後は9割が死ぬ…。こんな偏りで何が上手く行くかと言えば…」
イズンの瞳が煌いた。
それは凄絶で、危険な美しさを伴う、激しい嚇怒の光…。
「胞子を散布した連中の、後片付けぐらいだ」
「…なるほど。判りましたよ」
アドルフが牙を剥き、笑った。
「つまり胞子は、勝手に湧いた危険生物の類じゃない。誰かさんが意図的にそう「造った」、デザイン物って訳だ」
「その通りだ。そして…「誰かさん」の目星もついた」
頷いたイズンは手の中の試験管を、豊満な胸に押し上げられているコートの内ポケットに仕込んだ、小ぶりながらも頑丈な
保護ケースに収める。
それから入れ替わりに別の試験管を取り出すと、その中身をじっと見つめた。
試験管の中の液体は薄い赤色。そこには先の試験管のような発達した菌糸は見られないが、採取した霧の雫は封入されてい
る。そして、タンパク質も封入されているのだが…。
「サンプルを試したが、特定の遺伝子に反応して、菌が自死するように調整されているようだ」
「それ、何のサンプルです?血?」
そう訊ねたアドルフは、
「アイアンハート准尉の血液だ」
「なーるほど…、黄昏ですか…」
イズンの返答を聞くなり凶悪な笑みに顔を染めた。
「あそこだな?」
「そのようで」
ふたりが乗るパトカーの向こうで、教会の尖塔が、朝日に照らされて光った。
一方その頃…。
「お早いお着きで」
町工場の屋根の上で敬礼する狐の前に、ふわりと、女性が降り立つ。何も無い空中から降下して。
ソバージュがかけられた灰色の髪が、朝日を受けて光りながら風にそよいだ。
「手洗い歓迎を受けたわぁ」
薄く笑ったヘルに、ヘイムダルは肩を竦めた。
飛翔してくる女性に対し、森から対空ロケットが打ち上げられたのを確認したのは十秒ほど前の事。その軌道を逆に辿るよ
うに、炎が咲いた空の一角から、サッカー場を覆うほどの範囲で直径1メートルほどの雹が降り注いだのは九秒ほど前の事。
「相手が何なのか、確認しなくて良かったのか?」
「察しはついているわよ」
「大事にならねーのか?」
「なるとしたらあちらの方ねぇ」
ヘルは髪をかき上げて笑う。「中枢にロケットランチャーを打ち込んだんだから」と。
「なら話は早いな」
ヘイムダルはフンと鼻を鳴らす。いかにも気に入らない、といった顔付きで。
「で、報告だ」
「ええ、受け取るわ」
それからしばし、ふたりは黙り込んだ。
だがその間では、思念波媒介の念話の応用で、情報の共有が行なわれている。
とはいえ、ヘイムダルが見聞きした全てを受け取っては時間がかかるので、伝えたのは「本件」に関わる事のみだったが。
やがて、情報の受け渡しを終えたヘイムダルが口を開いた。
「コイツの裏で糸を引いてるのは、中枢だ」
「あらあら」とヘルが笑う。予期していたのか、驚いた様子も無く。
「会議は何人だったんだろうな?」
「私の他にもひとり、外していたわねぇ」
「表向きの欠席理由は?」
「遂行中の案件から手を離せない、という事だったらしいけれど。…なるほどねぇ、こんなからくりとは…。これは一杯食わ
されたわねぇ…」
ヘイムダルの目がギラリと輝く。剣呑な期待で。
「裏切りか?」
「さぁ?どうかしらねぇ」
「潰しても良いかな?」
「まぁ落ち着きなさい」
ヘイムダルをやんわり制するヘルの顔は笑っている。口は三日月のように薄く開いて。しかし、その目は全く笑っていない。
「ああ、それと…」
情報の共有に含めなかったが、ラグナロク製のクローンを発見した。そう伝えようとしたヘイムダルは、
「良いことヘイムダル?」
口調を改めたヘルの声に遮られ、口を閉じる。
「これはラグナロク盟主から正式に許可を取った事よ」
声を低めて、薄く笑う灰髪の魔女は、切れ味が良過ぎる懐刀に告げた。
「「中枢メンバー、「フレスベルグ・アジテーター」に叛意が認められた場合、これを排除するよう命ずる」…」
「へっ…!」
狐が笑う。凶悪な歓喜の笑みを浮かべて。
「サー…!イエッサー!」
「ところで…」
ヘルはふと、思い出したように訊ねた。
「ここのワインは美味しかったかしら?」
「調べ物してたから余裕なくてさ、飲んでねーよ」
「あらあら。仕事熱心ねぇ」
「ああそれと…」
ヘイムダルは「調べ物」で思い出し、腰に吊るした愛刀の柄をポンと叩いた。
「見つけられなかったが、獅子王が唸ってやがった。たぶん教会の辺りにレリックがあるぜ。本当はアンタが来る前に回収し
ておきたかったんだけどなー…」
「あらあら。仕事熱心ねぇ」
ヘルはクスクスと笑う。今度はきちんとした笑顔で、満足げに。
(朝日が…)
窓から射し込む陽光を、カーテンを引いて遮る。
振り向いたミオは、ベッドの上のラドを見遣り、陽が顔を照らさない事を確認した。
怪物が陽光で活性化するらしい事をギュンターから聞いている。感染途中の状況にあるラドも、陽光を浴びて病状が進行す
る恐れがあった。
全ての窓にカーテンを引き、ラドが直接陽を浴びないようにしてやると、ミオはベッドサイドへ移動した。
はぁはぁと喘ぐラドの額をタオルで拭ってやりながら、ミオは注意深くその容態を見守る。熱は下がらない。発汗は酷くな
るばかり。瞳の青い光も弱まる気配が無い。
神父の寝室にあるベッドは、ヒキガエルの汗でグッショリ濡れていた。
ドアの外にはシェパードが待機し、万が一に備えている。その万が一が起こらないように、ミオは祈る。
(ギュンター君が勧めるように、ぼくも信仰もってみようかな…)
レディスノウの顔を思い出しながら、ミオはタオルを絞る。
ラドの発汗は危険な域に達しようとしていた。しかし水分を与えて良いものかどうかが判らないため、水差しで少しずつし
か飲ませられない。
(ぼくにも医学の知識があれば…)
無力を悔やむのは、なにも戦いで後れを取った時ばかりではない。痛感するミオは、その耳をピンと立てた。
「お…と………さん…」
熱にうなされるラドが、肩口を掻きむしる。
「お父さ…ん…。ゴメ………なさ……!」
ミオは苦痛に耐えるように顔を顰めて、歯を食いしばった。
そして、むずがるようにラドが掻きむしる肩へ視線を注ぎ…。
(ここ、噛まれた場所…?)
ハッとしてラドの襟に手を掛け、トレーナーを引き延ばして隙間を作った。
(ノンオブザーブ!)
能力による視界屈折と光線湾曲を用いれば、少し隙間が空いただけでも、普通ならば光が届かなくても、中の様子を確認で
きる。
そしてミオが見たのは、肥って弛んだ蛙の肌に、無数に刻まれた細かな傷と、そこからジワジワと湧いている、
(何、これ?まさかこれが…!?)
青く、薄く、仄かに光る、半透明の液体…。
(異物を排出している!)
やはりラドには耐性があるのだと確信したミオは、重たいカエルの体を何とか引き起こし、その衣類に手をかけた。
「服を脱いで下さい!」
直感が働いたミオは、朦朧としているラドに声をかけ、上着を脱がせ、ベルトを弛め、ズボンは勿論下着も脱がす。
思った通り、ラドの体表には汗と共に排出された液体がべったりと付着している。今しがたまでは見られなかったのに、顔
にも青く光る液体が滲んできていた。
「さ、さむい…」
上がり過ぎた体温と室温の差で、カタカタと震え始めたラドをベッドに座らせ、毛布を掛けると、ミオはその弛んだ体に押
し付けるようにして、毛布で汗を拭い取り始めた。
ミオの直感は正しかった。我慢比べに負けて追い出された液体は、ラドの体から拭い取ると次第に発光を失ってゆく。拭い
取らなければ肌から再侵入してしまうが、拭き取ってしまえば何もできない。
「頑張って下さいね!もうすぐですから!もうすぐ治りますから!絶対!」
カタカタ震えながら、ラドはぼんやりとした目でミオを窺う。
懸命に尽くしてくれる少年。裸を見られる恥ずかしさも、拭かれるこそばゆさも、今は遠く感じられる。
たっぷり肉が付いた顎の下から胸元。
不恰好に垂れた胸の下。
二の腕の肉と胸の肉の間の、狭い腋。
丸い背中に出っ張った腹、その下部の段差。
脹脛やくるぶしは勿論、内股までも…。
嫌がる素振りも見せず、手を休めずに隅々まで拭う、感染への恐怖をおくびにも出さない、恐れ知らずの少年…。
自分を介抱してくれる少年の姿を見ていたら、涙が零れた。
「ごめ…んね…」
「え?」
一時手を止めたミオに、ラドは掠れ声で続ける。
「こんな事まで、させてー…、ごめん、ねー…」
ミオはきょとんとラドの顔を見て、それから…。
「あり…がとー…ね…」
蛙の礼で、顔を綻ばせた。
救われた気持ちだった。
感染者を屠るばかりで、逃げ惑う人々を集めるばかりで、助けられたと思えた仕事はこの町で一つも無かった。
それが、今…。
(ああ、ぼくは…!)
ミオの尻尾が、毛を立てて太くなった。
(ぼくは、誰かを助けられるのかもしれない…!)
脳裏を過るのは、白い巨漢の頼もしい後ろ姿…。不寛容な北の大地で、ちっぽけな自分を守り抜いた戦士の背中…。
(あのひとのように、ぼくも…!)
きっと助けて見せる。
そうしたらお礼を言おう。
助けられてくれて、ありがとう、と…。
自分にもできるのだと教えてくれて、ありがとう、と…。
そんな、歓びに高ぶるミオの耳に、
「おい!ここは立ち入り禁止だ!」
「んだと?邪魔すんなおっさん!」
ドアの外で言い争う声が飛び込んだ。
アメリカンショートヘアーはビクンと背筋を伸ばし、弾かれたようにドアを見やる。
片方は警官のシェパードの声。もう片方は、聞き馴染んだ声だった。
「まさか…!」
ベッドから離れ、急いでドアに駆け寄り、押し開けたミオは…。
「お!?よう!元気かミオ!怪我は!?飯食ってたか!?」
警官と睨み合っていた狼が、こちらを向くなり顔を輝かせるのを見て、声を上げた。
「アドルフ准尉!」
「はいよぅ!すっ飛んで来たぜミオ!」
耳を倒して尻尾を振りながら、精悍な顔をデレっと緩ませ、アドルフはフフンと鼻を鳴らす。
「一番近かったんだ。運命だろうなぁ、これも!こっち方面に出向いてたのはオレと姉御だけだったが、なぁに、ミオの身が
一番大事だからな!渋る姉御を説き伏せて急行、って訳よ!他の面子が到着するのはまだまだ先だろうなぁ。まったく、肝心
な時に役に立たねぇ連中ばかりだぜ!働けってんだただ飯喰らい共が!はっはっはっはっ!」
ベラベラと状況を語りつつ自分を持ち上げ、他のメンバーをこき下ろす。
その狼の豹変ぶりにポカンとするシェパードと、素直に加勢の到着を喜び、尻尾をくねらせるミオ。
だが…。
「ん?」
アドルフの口が止まった。視線が、部屋の中に固定されて。
そこには、全裸でベッドにペタンと座り込み、放心しているような表情をしているヒキガエルの姿…。
「な…!?」
アドルフの目がミオに移る。首を傾げたアメリカンショートヘアーは、視線の意味を「紹介しろ」という意味だと解釈し、
「あ、彼は…」と首を後ろへ向けた。
ミオの視線が外れた直後、一転して悪鬼のような顔になるアドルフ。噛み締めた歯の隙間からはバリバリバリバリ…と擦れ
音が漏れていた。
(や、野郎…!ミオにナニしやがった!?裸でナニしてやがった!?オレはまだ…、まだ…!二回しか一緒にシャワー浴びた
事ねぇ二回しか裸を拝んでねぇ二回しかナニ見せてねぇのにぃっ!このデブ!カエル!カエル!カエル!ガマ!パッと出のお
まっ!おまぁっ!このっ、このっ…!お前このっ!このカエル野郎がぁっ!!!)
アドルフ・ヴァイトリング准尉、二十六歳、独身。
少々マイノリティな趣味をしている彼は、同僚のミオに惚れている。そして、恋路を邪魔するような輩には自前で天誅を下
して良いと思っている。
だが、目の焦点が合っていないラドには、狼の表情など判らない。敵意丸出しの狼が心の中で悪態になっていない悪態を述
べ続けている事も勿論判らない。
「コンラッドさんは、感染…えぇと、どこから説明したら…、とにかく!今病状が良くなって…」
「そうか。あとはオレに任せろ。ちゃんと片付ける…」
ろくに話も聞かないまま、拳を固めて燐光を纏う狼。しかし、感情最優先で凶行に及ぼうとした次の瞬間。
「あ。ヴェカティーニ少尉!」
顔を輝かせたミオの発言と、床をドゴンと軋ませる跳躍音と、メゴシッ…という顔を顰めたくなるような重々しい音が、立
て続けに響いた。
「ぶぱしっ!?」
纏った燐光を貫通する、真っ黒いグローブに覆われたハンマーのような塊に頬を強打され、まるでフィギュアスケーターの
ように高速できりもみ回転するアドルフの口から、唾液と血と苦鳴が、振り回されながら飛んだ。
そのまま椅子を巻き添えにゴシャッと壁につっこんだアドルフは、回転が死なずに部屋の隅でガンガン跳ねてから、やっと
落ち着く。
白目を剥いている狼のその頬は、めっこりと陥没していたが、見る間に膨れて大きく腫れ上がった。
「何をしようとしていた?ヴァイトリング准尉。それと、誰を説き伏せたと?」
アドルフの背後から、飛び込みざまに体重が乗ったフックで横っ面を殴り飛ばしたのは、巨体のジャイアントパンダ。
何が起こっているのか判らないシェパードは、巨体に見合わない敏捷性と、巨体に見合った剛力を見せつけたジャイアント
パンダの顔を、あんぐり口を開けて眺めている。
イズンは顔色一つ変えずに「失礼」とシェパードへ会釈すると、若く小さな同僚の顔を見下ろした。
「無事だったようだな、アイアンハート准尉」
「はい!何とか…う!?」
ミオの返事が途切れる。黒い太腕に、ギュッと抱き締められて。
その、コート越しにも判る、重々しくも柔らかな体の感触に包まれて、ミオは軽く目を閉じた。
体の中が、サワサワとくすぐられるような感覚がある。
体温が少し上がって体が中から火照り、血の流れが良くなり、全身から関節の炎症や打ち身の痛みが、疲労もろともすぅっ
と抜けて行くように消え去った。
時間にして十秒ほど、抱擁を解いたジャイアントパンダは、ミオを見下ろして顔を顰めた。
しかしその表情はアドルフを叱責する時の物とは違い、弟を叱る姉のような慈愛に満ちた怒り顔になっている。
「手間がかからない損傷は修復した。が、無理をするなと常々言っているな?貴官の体は特別頑丈にできている訳ではない。
わたくしは、リミッターカットを乱用する雑な戦い方など教えた覚えはないぞ?」
「はい…、済みません…。未熟さを痛感しています…」
耳を倒し、恐縮しながら詫びるミオ。
一方、意識を取り戻しながらも目があちこち旅しているアドルフは…。
「あ、ああ姉御…?オレちょっと脳みそシェイクシェイクイエー♪されて重傷になってたりするかも…?三半規管とかに重大
なダメージ負ってねぇ?立てねぇんすけど…。治して…」
「貴様を治してやる義務などない」
にべもなく言い放つイズン。
「ってかあの…、フェンスターラーデン素手でブチ抜くとか、自信を根底から粉々にするようなマネしねぇで貰えます…?」
「それだけ喋れるなら脳は無事だな」
冷たく突き放したイズンは、耳を伏せて尻尾をへなりと下ろしているミオの後ろに目を向け…、
「…これは…」
少し目を大きくし、ラドを見つめた。
「まさか、抗体持ち…なのか?」
ミオの顔が明るくなる。
イズン・ヴェカティーニ。ミオに徒手空拳での戦闘からリミッターカットまで叩き込んだ教官にして上官。そして、現時点
のナハトイェーガーで少佐に次ぐ第二位の戦闘能力を持つ女性士官。
しかし彼女の真価は、秘匿事項対応医としての知識と手腕にある。
その二つ名は、能力名と同じくツァイトゲーバー。
死に魅入られた者にすらロスタイムを与える、狩人達の守りの要。
(もう大丈夫…!ヴェカティーニ少尉なら、必ず治してくれる!)