Evolution of White disaster (act3)
「…もっと奥かな?地上との交信状況は?」
「まだ余裕がある、問題ない。が、ここまで広いとは思ってもみなかったな…」
「負傷者はどうだ?」
「かすり傷だけだ。まだまだ行けるさ」
グループを組んだ調停者達の纏め役を務めるトウヤは、集まった作戦参加者達からそれぞれの状況を聞き、ここからの侵攻
ルートを確認していた。
少し離れて壁に寄り掛かっていたアルは、先程アリに追い詰められていた狐の背に視線を向ける。
話し合っている調停者達から少し離れて話を聞いている、コロッと太った背の低い狐の肩は、先の戦闘の緊張が抜け切って
いないのか、まだ小刻みに震えているように見えた。
(…新人さんっスかね?あんまり場慣れしてないような感じがするんスけど…)
アルは狐の後ろ姿を眺めながら、その戦力を見積もり始めた。
身に付けているのは、革のコンバットブーツにカーキ色の厚手のズボン。
ボタンまでが黒いシャツの上には、調停者の装備としては標準的な防弾防刃ジャケットを着込んでいる。
チームの物なのだろうか、左腕の肩下には矢で射抜かれた蛇を意匠化したエンブレムが刺繍してあるが、見覚えがない事か
ら、恐らくはあまり大きくないチームのエンブレムであると察せられた。
腰の後ろには先程使用していたかなり大振りな鉈。刃渡り30センチ、全長40センチはあり、分厚くて重量感がある。
高速震動機能を持つと思われる、おそらくはレリックである鈍色の大鉈は、しかし他に機能がついているようにも思えず、
見る限りは接近戦専用の品である。
見たところさして体術に長けている訳でもなく、経験も浅いと思われる太った狐が使うには、本人の技術面からも、貴重な
レリックウェポンであるという点からも、この得物はどうにも不釣り合いに感じられた。
アルが胸の内で首を傾げている間に、トウヤ主導の元、グループの方針は決まった。
進むルートが決定され、このまま皆で深部を目指す事になったとトウヤから聞かされたアルは、力強く頷いて応じると、声
を潜めて尋ねてみる。
「あの狐君。新人さんっス?」
「ん?…ああ。昨年調停者資格を取ったばかりなんだ。十七歳、君と同い年だな」
トウヤが狐の背に視線を向けながら応じると、アルは「へぇ」と、少し驚いたように目を丸くする。
ブルーティッシュ内でも最年少のアルが同い年の同業者と会うのは、これが初めての事であった。
「山岸望(やまぎしのぞむ)。この街の調停者では最年少さ」
「高校行きながらやってるんスかね?」
「いや、確か行っていないはずだな。最初から高校進学は考えず、調停者を目指して勉強していたらしいが…」
トウヤは一度言葉を切ると、小さくため息をついた。
「…彼は、秋に認定を受けたばかりだったんだ…。その時に見習いで入ったチームが、年末の事件で壊滅してね…。彼がチー
ムでたった一人の生き残りになった…。不運というべきか、命が助かっただけでも幸運だったというべきか…」
「…そうだったんスか…」
耳を寝かせたアルは、同い年の調停者の後姿を見遣った。
(じゃあ、あのジャケットのマークは、壊滅したチームの物なんスね…)
やるせない気分になりながら胸の内で呟いたアルに、トウヤは静かに続ける。
「知ってのとおり、今この街の調停関連はズタボロだ。今は難局を乗り切るためにチームの垣根を廃して合同で事に当たって
いるが…。まだ経験が浅い彼の面倒を見てやれるだけの余裕が無い上に、戦力として駆り出さざるを得ない始末…。心苦しい
所だよ…」
東護の調停者の多くは、先の事件の際にラグナロク中枢の一人、ロキによって狩られ、バベルの贄とされてしまった。
アルには話していないものの、トウヤもまたその後の任務でフィアンセを喪っている。
調停者とは、いつ命を落としても不思議ではない程の危険と身近に付き合う職業なのである。
哀しげに顔を俯けたアルの横で、トウヤはその背をポンと叩いた。
「さぁ、気持ちを切り替えよう。目の前の事に全力で当たるぞ」
「うっス…!」
力強く頷いたアルだったが、しかしその意識は、自分と同い年の不運な新人調停者の事に向けられていた。
通路の角に屈み込んだトウヤは、無言で手を振り「来い」と、後続にジェスチャーで伝えた。
トウヤの後ろに静かに歩み寄ったアルは、壁にピタリと背をつけて立ち、屈んでいる彼の上から角の向こうを窺った。
角から通路の先を見遣れば、突き当たりに鉄製の大扉があるのが見える。
(あれが潜伏先っぽいっス?)
(恐らく。アントの配置を考えても、あそこへのルートを封鎖する形になっていた。カメラは見えないが…、まぁ、監視され
ていると見て良いだろうな…)
トウヤと手信号でやりとりしたアルは、ここぞとばかりに切り込み役に志願した。
(オレなら多少撃たれたってへっちゃらっス。慣れてるっスから先陣切るっスよ)
ブルーティッシュ特製の高性能防護ジャケットの性能と、切り込みに慣れている事を挙げたアルの申し出に、しかしトウヤ
は迷った。
アルの事はユウヒに頼まれている。あまり無茶はさせたくないのだが、この中で最も適任なのは、異様なまでに近接戦闘に
強いこの若者であった。
メンバーの半数は経験豊富なベテラン調停者である。
だが、中位認定を受けたばかりにもかかわらず、アルの近接戦闘能力及び制圧力は、この顔ぶれの中でも頭一つ抜けている。
しばし躊躇した後、自分が責任を持ってバックアップすると決め、結局トウヤは首を縦に振った。
トウヤが一同に指示を伝え、位置を最前列に移したアルは、すぐ後ろから自分の顔の横にさし出されたトウヤの手を、横目
でチラリと見遣る。
立てられた三本の指が一本ずつ折れ曲がり、
(3…、2…、1…!)
無言のカウントに合わせて、アルは角から飛び出した。
リミッターをカットした白熊の体が、撃ち出された砲弾の如き突進を開始すると、それを迎えるように扉が開く。
扉の内から現れたのはアントソルジャー、その数四体。
壁の陰から飛び出した時には肩の高さでライフルを構え、即座に狙撃体勢を整えていたトウヤが、嚆矢となる初弾を先頭の
アリめがけて放つ。
突進してゆくアルの被毛を衝撃波で叩きながら追い抜き、アントの眉間に命中した弾丸は、重く柔らかな金属でできた特殊
弾頭を衝撃で変形させ、頭部の中身をズタズタに破壊する。
仰け反りながら絶命し、後ろへ倒れ込むアントの左右で、他の調停者の援護射撃を受けた二体が苦鳴を上げる。
素早いアリの動きを捉えきれず、決定打にこそならなかったが、踏み込むアルにとっては、その僅かな時間稼ぎすらも十分
な援護となった。
駆け込んだ勢いそのままに、白熊は手槍を右から左へとフルスイングする。
絶妙な間合いから繰り出された一閃は、ブリューナクの鋭い穂先の軌道上に、アント二体の首を捉えていた。
アントの首二つが宙に舞ったその時には、左腕一本で槍を振り切った姿勢から、アルは右手を腰の後ろに回しつつ、床を蹴っ
て巨躯を宙に躍らせている。
薄赤い瞳が捉えているのは四体目。迎え撃つべく四本の腕を上げたアントはしかし、アルの後方から飛来した数発の45口
径弾の内一発が命中し、腕の二本を跳ね上げられる。
一ヶ月の休養を得て増量しているウェイトが乗った、白熊のブーツの分厚い靴底がアントの顔面を捕らえた。
アントの強靱な外骨格は、速度と体重をフルに乗せた白熊の跳び蹴りを受け、メキョッと、あっけなく陥没した。
アルはそのままアントの上半身を踏みにじるように着地し、床を滑走させる。
床に後頭部をガリガリ擦られながら、頭部が大きくひしゃげたアントはビクビクと体を突っ張らせていたが、滑走が止まる
頃には細かな痙攣を繰り返すだけになった。
愛用の得物である大戦斧と比較して、軽量で鋭い穂先を持つ手槍に合わせ、アルの戦闘スタイルも若干の変化を見せている。
叩き付けさえすれば問答無用で駆逐できる大戦斧と違い、間合いの調節と当て所を考えなければならないものの、格闘を取
り入れた手槍での戦闘スタイルは、従来のスタイルよりも数段スピーディーである。
優れている点はもう一つ。ブリューナクはレリックとしての機能を発動せずとも、単純に武器として優れていた。
過不足無くしなる柄に、カミソリのように鋭い刃を持つ両刃の穂先。さらには豪腕のアルが全力で振るっても折れない強靱
さに、絶妙な重量バランス。
使用しているアルのレリック適性が極端に低い事で、本来の機能を発揮できないという点は惜しまれるものの、アル当人は
さして意識していなかったが、この手槍との相性は決して悪くなかった。
アントの死骸を踏みつけたまま部屋の中に滑り込んだアルは、跳び蹴りの最中に引き抜いていたショットガンを構え、薄暗
い室内を素早く見回した。
高さもある広い長方形の空間は、左右の壁にカプセルがズラッと並んでいたが、全て蓋が開いており、中は空になっていた。
「入って大丈夫っスよ!ってか、やられたっス!もぬけの殻っスよココ!」
アルが声を上げると、銃を構えながら素早く中に入り込んだ調停者達は、夥しい数の空のカプセルを目にして一様に顔を顰
めた。
「くそっ!勘が良いな…!」
「いや、インセクトを配置していたんだ、侵入にはとっくに気付いていたんだろう」
「それにしても、行き止まりじゃないか?主は何処に消えた?」
「こっちの侵攻ルートとは別の経路で逃げたのか?」
口々に呟く調停者達の中で、トウヤは目を細めて鋭い視線を部屋中に走らせると、
「…いや、それならアント達にここを護らせておいた意味が無い」
そう言ってカプセルを指さして見せた。
「ここまでに仕留めたインセクトの数とカプセルの数を比べるに、ほぼ片付いたと見ていいだろう。残り少ない貴重な戦力を、
この期に及んで無駄に裂くとは考えにくい」
「だが、何らかのフェイク…、囮って可能性はどうだ?」
中年の調停者がそう反論し、トウヤは答えるべく口を開きかけたが、
「たぶんっスけど、それは無いんじゃないっスかね?」
横合いからアルがそう口を挟んだ。
「何故そう思うんだ?」
中年の調停者に問われたアルは、困ったように顔を顰める。
「オレ、頭悪いから説明苦手なんスけど…、囮にしちゃ違和感があるんス。最初から囮にするつもりなら、ここまでの要所に
本気の防衛線なんかこしらえないんじゃないっスか?オレには必死の足止め…、時間稼ぎに思えたっス」
「時間稼ぎ?」
頷いて問いに応じたアルは、広い空間を見回した。
「きっと、この部屋の何処かに抜け道か何かがあるんス」
調停者達が顔を見合わせる中、トウヤはほくそ笑んだ。
(戦闘要員としてだけじゃない、彼はその性質も、調停者として優れている…)
状況を見極める目。微かな違和感をただの違和感では済まさないその性質。若いながらも大したものだと、トウヤは嬉しく
なった。
「私も同じ意見だよ。…ヤマギシ君?」
「あ…、は、はい…?」
トウヤに視線を向けられると、太った狐は半歩後退った。それを見た白熊は、訝しげに眉をピクッと上げる。
気弱な印象を受ける同い年のこの狐の事が、アルはどうにも気になって仕方がなかった。
「火をつけてくれないか?なるべく煙がでるように。紙は…、このメモ帳で。あぁ、誰かドア閉めてくれないか?」
トウヤは懐から取り出した厚紙の表紙を持つメモ帳を、部屋の中心付近の床に放り出す。
調停者達が訝しげにメモを見つめる中、狐は遠慮がちに頷くと、一度目を閉じ、一瞬後に開いた。
アルは息を飲み、思わずそのダークブラウンの瞳に見入る。
瞳孔が極端に収縮し、黒みがかった茶色の虹彩が、狐の瞳いっぱいに広がっていた。
綺麗だと感じて見入っていたアルは、突然視界の隅で光と熱が発生し、驚いて首を巡らせる。
トウヤが床に放ったメモ帳が、赤々と炎を上げていた。
「こ、これでどうでしょう?」
「ありがとう。良い燃え具合だ。さて…」
天井に向かって昇ってゆく煙を見上げ、トウヤは呟いた。
「幸いにも換気口は無い…、この空気が淀んだ状況で、煙は何処へ逃げようとするか…」
低温で燃える赤い炎がメモ帳をなぶり、黒煙を昇らせる。
煙たさに顔を顰めながら、なるべく身じろぎせずに目だけで煙を追いかけていたアルは、
「見つけたっス!」
突然声を上げ、奥の壁へと駆け寄った。
「目が良いんだなぁ…?まだそんなに広がっていないし、煙も薄いのに…」
感心して呟きながら後に続いたトウヤは、白熊が壁を押して出現させた隠し通路の入り口を目にし、ヒュウと口笛を吹いた。
「大したカモフラージュだ…、パッと見判らなかったな」
「全くだ…。が、この先に居ると見て間違いないだろう」
声を潜めて口々に言い、調停者達はポッカリと開いた入り口を見つめる。
「地上の封鎖に全て頼る訳にも行かない。慎重かつ迅速に追い詰め、捕縛する」
トウヤの言葉に頷いた調停者達は、我先にと暗がりへ駆け込んでいった。
そんな中、アルは一度部屋を振り返り、奥の壁近くに一つだけ離して置いてあったカプセルを眺める。
(…これ、一個だけやけに小さいっスけど…。アリ以外の何かが入ってたんスよね?…中身何だったんスかね…?)
脱出路と思われる通路は、侵入に使用した経路とは大きく異なり、狭いうえに幾度も折れ曲がり、見通しが悪く、調停者達
の進行を妨げた。
しかし、進行速度が上げられないのは、それだけが理由ではなかった。
「くそったれ!また分岐かよ…!」
右手に片刃の直刀をぶら下げた髭面の調停者は、苛立たしげに舌打ちをしつつ、押し殺した声で悪態をつく。
入り組んだ通路はここまでに二ヵ所で枝分かれし、調停者達を分断していた。
アルが加わっている一団は、他にトウヤと髭面の調停者と若い狐のみ。彼を含めてもう四人だけである。
臭いで追う事も考えたが、この脱出路には獣人や警察犬対策の為か、甘ったるい香りが立ち込めており、アルの犬並みの嗅
覚も役に立たない。
おまけに壁に何かが埋め込まれているのか、電波が通らず、携帯を含めた通信装置が機能しなくなっていた。
「一方だけを選んで逃げられるのは癪だ…。仕方ない、ここでまた二手に分かれよう」
トウヤがそう提案すると、アルがパッと手を上げる。
「はいはい!じゃあ、片っぽはオレと、…えぇと…、ヤマギシ君で行くっス!」
ユウヒからアルの事を頼まれているトウヤは、年若い二人を組ませる事に一瞬躊躇する様子を見せたものの、
「そいつが良いかもな…、少々悔しいが、オールグッドは俺より腕が立つ」
髭面の調停者の方は、顎鬚を撫でながらアルの意見に賛同の意を示した。それでもなお躊躇っていたトウヤだったが、
「気ぃ抜くなよオールグッド?」
「うっス!任して欲しいっス!」
髭面の調停者が期待を込め、アルの胸をドンと叩いている姿を目にし、心を決めた。
(見通しの悪いここでは、近接戦闘がメインになる…。ヤマギシ君には少々不安が残るが、この中で最も肉弾戦が得意なアル
君は、タカマツさんよりも上手く立ち回れるかもしれない…。仕方がないな…)
戦力的に考えればアルの提案がベスト。グループのリーダーとしての判断で、トウヤは首を縦に振った。
先に立って通路を進みながら、アルは声を潜めて囁いた。
「この甘い臭いのせいで、曲がり角の向こうの様子まで判んないっス…。厄介っスねぇ…」
アルの少し後方を、足音を忍ばせて歩いていた狐は、顎を引いて小さく、無言で頷く。
「ナガセさんから聞いたっス。歳、オレと同じなんスね?」
無口な同行者を振り返り、小声で声をかけたアルに、狐はやはり無言で頷いた。
「オレ、同じ歳の調停者と会うの初めてなんスよ。あ、オレ、アルビオン・オールグッドっス。よろしく」
握手を求めて差し出したアルの手を、狐はおずおずと握った。
「あ…、僕、山岸望…、あ、えぇと、マイネームイズ、ノゾム・ヤマギシ」
「ああ。日本語で良いっス。オレ、名前こうだし確かに生まれは北米なんスけど、物心付いた時からずっと日本で暮らしてた
んスよ。なもんで、むしろ英語とかサッパリっスから。それに、敬語も要らないっス」
頷きながらアルの手を離したノゾムは、自分よりもかなり背の高いアルの顔を見上げながら口を開く。
「僕の方は、前から名前は聞いてた。ブルーティッシュの切り込み隊員で、年末の事件でも活躍したって。そして今は、現役
最年少の限定中位調停者…」
「たまたまっス。一歩間違ったら二、三回は殉職してたっスから」
苦笑いで応じたアルは、前に向き直って歩みを再開する。
「ヤマギシ君は…」
「ノゾムで良いよ」
「…んじゃあノゾム君、能力者なんスね?さっきナガセさんのメモ帳燃やしてたっスけど…」
「僕、イグニーターなんだ。あまり力は強くないけれど」
ノゾムの返答を聞いたアルは、通路の先を警戒して進みながら「なるほどっス…」と頷く。
イグニーターとは、高熱発生能力を持つ者達の総称である。
能力の強弱や発火プロセスは多々あるものの、機器に頼らず炎や高熱を発生させる者は一括りにそう呼ばれており、その能
力タイプによって細かな分類が為される。
「能力持ちっスかぁ…。良いっスねぇ、羨ましいっス」
アルは曲がり角から先を覗きつつそう呟いた。が、
「…本当に…そう思う…?」
少し震えた小さな声を背中に浴びせられて振り向く。
「…本当に…?」
繰り返したノゾムの、アルの顔を映すダークブラウンの目には、硬質の光が宿っていた。
「あ…、オレ、何か気に障る事言っちゃったっスかね…?」
「…ううん…、別に…」
「何か悪い事言ったんなら…」
「何でもないよ」
自分の言葉を遮って短く応じ、それきり黙り込んでしまった狐から視線を外し、再び前を向いたアルは、
(…オレ、今…、やっぱ何かマズい事言っちゃったんスよね…?)
頬をポリポリと指で掻きながら、耳を寝かせて顔を顰めた。
しばし会話も無く、気詰まりな雰囲気に居心地の悪さを感じながらも、アルは前に立って先を目指した。
だいぶ歩き、上に向かう傾斜が多くなり、地上が近付いてきている事を感じながら、もう追いつけないだろうとアルが考え
始めた頃、
(物音っス!)
アルは前方の曲がり角を見据えたまま振り返りもせず、止まるようにジェスチャーでノゾムに伝える。
同行者が小さく息を飲む音を背中で聞きながら、アルは耳をピクピクと動かしつつ、気配を殺してゆっくりと前進し、曲が
り角から顔を覗かせた。
薄赤い瞳が二体のアリと、その先に居る中年の男、その傍らに立つ小さな人影を捉える。
曲がり角の先の突き当たりには鉄製の扉がある。物音の正体は、中年の男が鍵穴にキーをさし込んだ音であった。
(追いついたっスよ!アント二体が一緒っス!)
昨夜逃した男の姿を確認したアルは、相手に追いついた事を手信号でノゾムに伝え、次いで指を三本立てる。
意図を察した狐はアルの真後ろに近付き、少し身を低くしながら腰の後ろにホールドされた鉈の柄を握り、飛び出す体勢に
移った。
白い指が折れてカウントダウンを始め、アルとノゾムは揃って角から飛び出した。
「調停者っス!武装解除して、投降するっス!」
腰の後ろから引き抜いたショットガンを構えるアル、その横では鉈を抜き放ったノゾムが腰を落として身構える。
中年の男は弾かれたように振り返ったが、慌てた様子は無く、口をすぼめてヒュッと口笛を鳴らす。
指示に従って男の前に立ちはだかったアリ二体は、飛びかかる事無く身を盾にして追っ手の進路を阻んだ。
ショットガンを右手で構え、トリガーに指をかけたまま、アルは口元をへの字にする。
立ち塞がるアリを排除する事には躊躇いはないものの、問題はその向こう側であった。
中年の男に連れられている小柄な影は、人間の男の子である。
毛布をマントのようにすっぽりと着込んだその子は、十歳前後に見える。
表情は無く、真っ黒な瞳でぼんやりとアル達の方を見つめていた。
(装填してるのは樹脂散弾っスけど…、目とかに当たったらまずいっス…!)
捕縛を主眼に置いて鎮圧用の特殊弾をセットしておいたのは正解だったが、子供が一緒だとはさすがに考えていなかった。
関係者かどうかもこの状況では判らず、例え男の身内だったとしても、小さな男の子を射線に収めたまま引き金を引くこと
は、アルにはどうしてもできなかった。
「えぇいっ!」
苛立たしげに口元を歪ませたアルは、ショットガンを腰の後ろに戻しつつ、左手に槍を携えて床を蹴った。
やや遅れてノゾムが続いたその時には、アルは左手側のアントに詰め寄っている。
素早く伸ばされた、鋭いかぎ爪を備える右の二肢を、アルは脇に柄を挟む形で突き出しつつ素早く跳ね上げたブリューナク
で纏めて払う。
次いで時計回りに回転しつつ身を低くしたその頭上を、横薙ぎに払われたアントの左腕が空を切って通り過ぎる。
回転しながら屈んだアルが伸ばした足が、そのアントの両脚を綺麗に払った。
素早く強烈な水面蹴りで足を払われ、地面から離れたアントに向かい、アルはさらに身を捻りながら、脇に挟んでしっかり
固定した槍を叩き付けた。
駆け込んだノゾムを迎え撃とうと、そちらに注意を向けていたもう一方のアントは、吹き飛ばされた仲間に激突され、絡み
合って壁にぶつかってゆく。
一瞬驚きで動きを鈍らせた狐は、しかしそのまま駆け寄り、大きく振りかぶった分厚い鉈を、その自重と筋力を乗せて振り
下ろした。
高速震動する大振りな鉈が、アントソルジャーの強固な外骨格を容易く断ち割り、活動中枢を破壊する。
立ち上がる前に鉈を側頭部に打ち込まれたアリは、もがくように宙に手を伸ばし、一度ビクンと痙攣してから事切れた。
アリに引導を渡した狐はしかし、目を硬く閉じて歯を食い縛り、まるで詫びるような、苦しんでいるような、勝者に不似合
いな表情を浮かべている。
ノゾムがもう一方へとどめを刺すのを見届けもせず、アルは男に向き直った。
「今度は逃がさないっスよ!もう降参するっス!」
ジャケットを着込んだ中年の顔には、しかしこの期に及んでも焦りの色が浮かんではいない。
訝しく思いながらも、アルはじりっと間合いを詰め、二体目のアントにとどめを刺し終えたノゾムも、緊張からか肩でハァ
ハァと息をしながらその横に並んだ。
「大人しく投降するなら手荒な事はしないっス。さあ!その子を放すっスよ!」
アルの降伏勧告に、男は笑みを深くした。
「放せって…?くくっ…。ああ、お望み通りにしてやる…よっ!」
中年はそう言うと、男の子の背を乱暴にドンと押し、二人に向かって突き飛ばした。
咄嗟に前に踏み出したノゾムは、鉈を手放し、前によろけてきた男の子を抱き止め、二人を守るように前に素早く踏み出し
たアルが、腰を落として槍を構え、鋭い穂先を男に向ける。
「だ、大丈夫?」
気遣って声をかけながら、抱き止めた男の子を立たせてやったノゾムは、男の子が毛布を羽織っているだけで、下には何も
身に付けていない事に気付き、驚いて目を丸くする。
男の子の状態に気付いたアルは、中年に射るような鋭い視線を向けた。
「この子何なんスか?何で裸になんかしとくんスか!」
アルは牙を剥きだしにして男を睨み、声を荒げた。
商品。無論非合法だが、裏ではそうして流通させられている者も居る。
かつて何度か、任務でそういった取引現場に踏み込んだ事がある白熊は、この男の子もそんな被害者であると考え、憤りを
あらわにした。
「何…、と言われても困るな…。まぁ、大事な商品とだけ言っておこう」
ギリリと歯を噛み締めるアルと、男の子を背後に庇うノゾムをニヤつきながら見つめた男は、
「…やれ…」
と、短く呟いた。
メキョッという、少し湿った微かな音を耳にしたアルは、音源を探って目を動かす。
そして、ノゾムの背後で鎌首をもたげている、ぬめったような光沢をもつ、赤黒い色の、長い何かを薄赤い瞳に映した。
「危なっ…!」
アルが声を上げながら狐を突き飛ばしたのと、ソレが素早く動いたのは、ほぼ同時であった。
天井すれすれから急角度で突き込まれたソレを、ノゾムを突き飛ばしたアルはなんとか手槍で弾く。
間一髪、狐の頭頂部に命中するソレの軌道を遮ったアルは、ブリューナクの柄に当たって火花を散らし、舞い戻ってゆくソ
レを、目を大きくして見つめた。
ソレは、多くの節が連なってできた、虫の体の一部を思わせる、長い尾であった。
先端は膨れてねじれ、黒光りする針が備わっている。
「サソリ!?尻尾!?」
声を上げたアルに、尾は再び襲いかかった。
速く、鋭く、そして重い攻撃を、ブリューナクを振るって打ち払ったアルは、その衝撃で手を痺れさせる。
(何スかコレ!?一体…、何なんスか!?)
動揺するアルの目は、尻尾の繋がっている先を映していた。毛布を纏った男の子の姿を。
その長さ3メートル程の尾は、羽織った毛布を突き破り、男の子の腰の後ろあたりから生えている。
アルもノゾムも、こんな存在の事は見たことも聞いたことも無かった。
男の子は微動だにしないまま、長く禍々しい尾だけが別の生き物のようにうねり、襲いかかる。
立て続けに三度、打ち込まれた尾の攻撃をなんとか凌いだアルは、男の子の虚ろな視線が横へ動いた事に気付く。
アルが弾いた尾は宙でピタリと静止すると、身が竦んで動けなくなっている狐めがけて宙を走った。
高速で行われている攻防に、まだ戦闘に慣れていないノゾムの認識は全く追いついていない。
咄嗟に槍を出したアルの手は、ノゾムを襲った尾を止める事には成功したものの、しかし痺れが抜けきっていなかった。
音高く弾かれたブリューナクが、アルの手を離れて宙に飛ぶ。
弾きが浅かった尾は、素早く目標を定め、再度ノゾムへと襲いかかる。
尾の先端の曲がった針が、ブヅッと音を立てて、毛皮を貫き深々と肉に潜り込んだ。
呆然としているノゾムの額を、真っ赤な血が伝う。
その眼前で、横合いから伸ばされた白くて太い左腕が、尾の先端を止めていた。
「…っぐぅ…!」
肘のすぐ下を刺され、顔を顰めるアル。サソリの尾は素早く引き戻され、刺されたアルの腕からの出血は激しさを増す。
「もう良い、来い」
注意が逸れている間にドアを開けた中年が声をかけると、サソリの尾を生やした男の子は、重力を無視するかのような軽や
かな跳躍で天井すれすれを舞い、二人の頭上を越えて中年の傍らに着地する。
刺された左腕を抱えながら唸るアルに背を向け、中年は男の子を伴ってドアの向こうへと駆け出てゆく。
吹き込む夜風に顔をなぶられ、苦しげに顔を歪めたアルは、床に転がったブリューナクに歩み寄る。
「ぐぅ…!急いで追うっスよ!」
「だ、大丈夫…?」
気遣うように声をかけたノゾムに、アルは苦しげな顔に無理矢理笑みを浮かべて見せた。
「へへっ。肉ぶ厚いから平気っス。それより、逃がさないようにナガセさんにも連絡を…」
言葉を切ったアルは、ビクンと肩を震わせた。
「いっ…ぎゃああああああああああああああああああああああああああっ!!!」
突然絶叫を上げたアルは、腕を抱え込むようにして前のめりにくずおれる。
「ど、どうしたの?」
慌てて傍に寄ったノゾムの前で、アルは左腕を抱えて床の上をのたうち回った。
「あがぁっ!ぐっ!ぎぃいいいいいっ!うがあああああああああああっ!!!」
硬く目を閉じ、苦鳴を上げて転げ回るアルを、オロオロしながら見下ろしたノゾムは、
(ど、毒…?さっきの尻尾、まさか毒が…!?)
慌てて携帯を掴むと、口から泡をふいているアルを一度見下ろし、ドアの外へと駆け出て行った。
屋外に出れば携帯がつながるはず。今は中年を追うよりも、アルの手当てを呼ぶのが先だと判断して。
体を痙攣させながら、激痛に身悶えするアル。傷の痛みは腕を這い上がり、肩を通り過ぎて、体の中心に響いて来る。
強烈な寒気。頭が割れそうな痛み。そして胃がひっくり返るような吐き気。
体の中心に冷たい物を突き込まれたような激痛と、全身の神経をすり潰され、骨が砕かれるような苦痛。
「ごふっ!あ、あぐぅううっ…!んがぁあああああっ…!」
全身をガタガタと震わせ、咳き込んで泡を吐き出し、漏らす声を次第に弱めてゆくアルは、瞳孔の広がった目を薄く開ける。
チカチカと星が舞う、薄暗くなった視界には、自分が転がる地下通路の景色。
激痛によって朦朧とした意識の中で、アルはソレに気付いた。
さっきまでと同じ、何も変わっていないはずの景色。
しかし、今アルの眼前には、これまで目にした事のない光景が広がっていた。
(…なんスか…、これ…?)
口の端から泡を零し、苦鳴を漏らしながら、アルは初めて目にする光景に見入る。
半開きにした口から泡と唾液を滴らせたアルは、小刻みに震える手をゆっくりと伸ばした。
強い赤光を灯して爛々と輝く瞳に、アントの死骸を映しながら。
「…はいっ!はいっ!とにかく急いでください!お願いです!すごく苦しそうで…!」
ドアから飛び出し携帯を耳にあてたノゾムは、廃ビルに囲まれた狭い路地裏で声を張り上げていた。
自分を庇った白熊の血を額から右頬にかけて浴びた顔に、今にも泣き出しそうな表情を浮かべて。
早口でまくし立てていた狐は、視界の隅に捉えていたドアの辺りで白い物が動いた事に気付き、弾かれたように振り返った。
「お…、オールグッド君っ!?」
ドアからのそっと姿を現した白熊は、ノゾムから驚きの視線を向けられ、キョトンとした顔をする。
「う、動いても、だ、だだ大丈夫なの!?」
「うん。良く判んないっスけど、何か急に楽になったっス」
自分でも何が起きたのか判らないアルは、不思議そうに首を捻る。
「で、でも…、さっきは凄く苦しそうだったのに…」
「刺され所が悪かったんスかねぇ?何か体が火照っててちょっと熱いっスけど…、もう痛くも苦しくも無いっス」
しきりに首を捻っているアルの様子を見て、大丈夫そうだと感じたノゾムは、ほっとため息を吐き出した。
アルは刺された腕にむず痒さを覚えて無意識に触れ、それから慌てて手を引っ込めた。が、予想したような痛みは無い。
血で赤く染まった長い被毛に恐る恐る指を突っ込み、まさぐってみたアルは、「ん?」と眉根を寄せた。
何処にも傷らしきものが無く、こびり付いていた渇いた血がパラパラと地面に落ち、被毛が白さを取り戻す。
(あれ?刺されたのは間違い無いんスけど…)
薄気味の悪い物を感じているアルに、ノゾムはおずおずと声をかけた。
「救護班呼んだから、念のために手当てと検査を…」
「いや、まだ行けるっス!急いで追っかければ…」
「でも、臭いも含めて痕跡が全然…」
ノゾムが耳を伏せてそう言うと、アルは口をあんぐりと開けた。
「に、二回も…、逃げられたっス…!」
結局、手当てを受けるどころか、検査を受けても何の異常も見つからなかったアルは、肩を落として病院を出た。
アルが抜けた後の追跡でも、結局中年と男の子は見つからず、今日のところは解散になっていた。
検査結果待ちの間に監査官のカズキからそう状況を聞かされたアルは、
「…復帰してから良いトコ無いっス…」
たいそう落ち込んだ様子で肩を落とし、トボトボと帰路を歩んだ。
「子供の姿にサソリの尾とな?」
帰ってきたアルに夜食をふるまい、テーブルを挟んで晩酌を始めたユウヒは、一連の状況説明に続いて出た質問で眉根を寄
せた。
アルから事情を聞いたユウヒではあったが、ノゾムを庇って負傷し、結果対象に逃げられてしまった事までは伝えられては
いない。
アルからはただ、自分のミスで取り逃がしたと説明を受けただけである。
何やら隠しているとは感じたユウヒではあったが、誰かを庇いだてしているらしいアルの気持ちを汲み取ってか、深く尋ね
はしなかった。
「うス。何か心当たり無いっスかね?」
鱈と白菜、長ネギと豆腐の味噌鍋をおかずに麦飯をかき込んでいたアルは、何か知っていればと、期待を込めて巨熊の顔を
見つめる。
「いや、俺もそのような面妖な者を目にした事はないが…。舶来物であろうか?」
「ハクライモノ?って何スか?」
「海外製品とでも言えば良いかな?つまり、国外の物かと思うたのだが…」
「どうなんスかねぇ?首都でも聞いたこと無いっス」
揃って首を捻る二頭の熊を、ソファーの上に伏せて眺めながら、マユミは立てた尻尾をくねくねと揺らしている。
(いつだったか、何処かで聞いた事があるような…)
眼を細めて記憶を手繰るマユミをちらりと見遣り、心当たりがありそうな様子を見て取ったユウヒは、しかしこの場で問う
のは止めておく事にする。
この白猫の正体が、現在は存在しない国内屈指の巨大組織の令嬢であった事は、勿論今でも極秘事項。
信用の置けるアルの前ですらも、マユミと「会話」する訳にはいかないのである。
「幸い、その手の事に詳しい友人がおる。尋ねておく事にしよう」
「お、ホントっスか?助かるっス!」
顔を綻ばせたアルに頷き返し、ユウヒはまだ考え込んでいる様子の白猫に視線を向けた。