ファルシャーネーベル(act15)

「捨てる神あれば拾う神あり、と言ったところか」

 呟いたのは大柄な雌のジャイアントパンダ。

 その鋭い眼が注視しているのは、薄いゴム手袋に覆われた太い指で摘み、目の高さに上げた試験管…注射器で抜き取ったラ

ドの血液。

「この青年は、菌に対する抗体を持っている」

 ドアとカーテンが締め切られて直射日光が遮断され、持ち込まれたカンテラの明かりで煌々と青白く照らされる室内で、ミ

オはラドの背から汗をぬぐい、水気を取ってやりながらイズンの手元…試験管を見る。

 ミオには判らないが、イズンには感じ取れる。菌の増殖はラドの血液内では抑えられており、侵食がままならない。

「これなら一押しするだけで良いだろう…。アイアンハート准尉、解毒と同じ手順でやる。さっきのボウルを蛙君に」

「あ、はい。コンラッドさん、こっちに背中を向けて、これを脚の上に置いて…。手で支えて、中を覗き込んでて下さいね?」

 指示を受けたミオはラドの背中をベッドサイドに向けさせ、水洗いで綺麗にしておいたプラスチック製の洗面器を、胡坐を

かいているラドの脚に乗せて手を添えさせる。

 そこへ、ゴム手袋を外しながらイズンが歩み寄り、ラドの背中側に立った。

 固唾を飲んで見守るミオの前で、イズンはその大きな手を、分厚い胸の前でパンと合わせる。神仏を前に合掌するように。

 そして離される間際、その手の隙間では一瞬ヂヂヂッ…と白いスパークが生じた。

 ジャイアントパンダは意識を掌に集中しながら、ミオが水気を取り去ったラドの背にゆっくりと押し付ける。その直後…。

「う、うぶっ!?」

 ラドが目を剥き、口元を片手で押さえてえずいた。

 触れられた背中にパチッと静電気のような物を感じたかと思えば、それが背筋を痙攣させ、急に体が熱くなり、肌に激しい

痒みを覚え、内臓が蠕動し、動悸が激しくなる。

「おぼぇっ!えぶっ!うぶぶっ!」

 咳き込み、嘔吐するラドの口を覆った手から、指の隙間から滲み出るように、呻きと共に青く光る粘液が垂れる。

 涙を流すように目からも、鼻水を垂らすように鼻腔からも、さらには全身からも、不気味な粘液がジワジワと、一気に押し

出されるようにして排出された。

 たちまちラドの体は、サウナに長時間入っていたような発汗で濡れそぼり、一緒に排出されたベトつく液体にまみれ、ベッ

ドのシーツまで変色したが…。

「…これでもう大丈夫だ」

 一分ほどじっとしていたイズンは、そう呟いてラドから手を離した。

 ラドの体から絞り出された、青く発光する液体は、外気に触れている間に光を失う。やがてそれは、白い糸状の物が混じる

粘度の高い液体へと変わった。

 それが、死滅した菌の残骸である。

 胞子の状態では、水気さえあれば外気に触れても問題ないが、菌糸化した後は外気に触れると長時間もたない。発症者から

の感染が体液媒介に限られるのはこのため。

 この二次感染での性質変化は、イズンが想定した感染力制限…菌の開発者がパンデミック対策のために組み込んだ物だった。

 ひゅうひゅうと喉を鳴らす、少しやつれたように見えるラドと、イズンを見比べたミオは、

「ありがとうございました!」

 上官に深々と頭を下げ、感謝した。

「大した事はしていない」

 応じるイズンは手を拭い、ラドの血液を収めた試験管を見遣る。そこではまだ、抗体と菌の戦いが続いているが…。

「自浄作用を促進しただけだ。おそらくニ、三日は苦しんだだろうが、放っておいても抗体が競り勝ち、快復していただろう。

むしろ…」

 イズンは眉間に皺を寄せた。

「な、何か問題が!?」

 不安になったミオに、

「排出を無理矢理促進したせいで脱水症状に陥っている。速やかに水分を与えなければいけないな」

 イズンはそう言って、「水をたらふく飲ませてやれ。当面の問題はそれぐらいだ」と、水差しを手渡してやった。

 それからミオは、安堵しながらも大急ぎで部屋を出たり入ったりして、ラドに水を飲ませ始めた。

 その間にもイズンは「済んだら体を流してやると良い。菌は死滅しているが清潔にしておくに越したことはない」と声を掛

けながら、タオルを敷いたソファーに一旦ラドを移し、汚れたベッドの後始末を手早く済ませる。

 それから程なく…。

「も、もう飲めないよぉー…!お腹タポタポで、苦しいー…!」

 言い付け通りたらふく水を飲ませたミオが、ラドのギブアップで水汲み往復を止める。

「沐浴室を拝借して、体を綺麗にしてやれ。済んだらベッドで休ませるように。それと、吐き気が再発したら思い切り吐かせ

ていい。まだしぶとく居残っている菌があるかもしれない」

 イズンはシーツを剥がして清潔な毛布を敷いたベッドに目を遣りながら、手早くミオに指示しつつ、のしのしと部屋を横切っ

てドアを押し開けると、入り口脇に立っていたシェパードの警官に向き直った。

「済みました。次は貴官の手当てを」

「あ、ああ」

 頷いたシェパードは、「…コンラッド君は…?」と小声で訊ねた。忙しく出入りするミオの様子から、相当まずいのではな

いかと心配していたのだが…。

「もう心配要りません」

 大きく頷いたイズンの視線を追ったシェパードは、沐浴室に向かうために毛布を羽織らされているラドを見て、ほっと息を

吐いた。

 ぼんやりしているようだが、自分の脚で立っている。その光景は病状を言葉で伝えられるよりも説得力があった。

「治せるんだな、アレは…」

「感染初期であれば、何とか…。残念ながら怪物化してしまったなら治せませんが」

「…それでも、良い知らせだ…」

 やっと希望を一つ拾えた。小さな喜びを噛み締めて軽く目を閉じたシェパードは、

「失礼」

「むお!?」

 ギュッと、イズンの太い腕で抱きしめられ、困惑の声を上げた。

「な、ななな何を!?」

 慌てるシェパード。しかし、自分よりも大柄な肥満体のジャイアントパンダにしっかり抱擁され、身じろぎしても離れられ

ない。

 顔をカーッと熱くさせたシェパードは、やがてそれが、心理的な物だけの影響ではないと悟った。

 まるでキツい酒を飲んだ後のように、体が急激にカッカと火照る。特に打ち身、捻挫など、負傷した部分の発熱は顕著で、

そこだけ蒸しタオルを当てたようになった。

 程なくジャイアントパンダが身を離すと、シェパードは何度か瞬きし、それから軽く腕を上げてみた。信じられない、といっ

た驚きの顔で。

「嘘だろ…?」

 まともに動かせなかった肩に、今はもう僅かな鈍痛しか感じない。

 職業柄何度も経験している、完治手前の数日のような、違和感は微かに残っているものの動作には支障が無い、そんな状態

になっていた。

「これを飲んでおいて下さい。ブドウ糖とビタミンです」

 何が起きたか判らないまま、腕を上げ下ろしして感触を確かめている警官に、イズンは液体が入った小さなアンプルを渡す。

「飲めばすぐに寒気が収まります。気持ち程度ですが疲労も薄れるでしょう」

 そう言われてから、体が火照った反動と、血中糖分の消耗で少し寒気を覚えている事に気付いたシェパードに、ジャイアン

トパンダは「それと、お願いが…」と話を変えた。

「申し訳ありませんが、後でしばらく単独での警戒をお願いする事になります」



 沐浴室にある、ガスボンベに繋がったボイラーは電池発火式で、送電が途絶えた教会でも使用できた。熱湯は作れないので

炊き出しなどには不向きだが、貴重な熱である。

 そこで、全裸で床に座るラドの脇に屈み、防水機能も持つ黒コートを羽織ったミオが、綺麗に洗い流している。

 菌糸の残骸が混じった汗は粘度が高く、ヌメヌメしていて、まるで糊のよう。湯をかけてもなかなか流れず、擦り洗いしな

いとぬめりが残ってしまう。イズンはもう心配ないと言ったが、菌糸という性質上カビを連想させ、取り除かないとどうにも

気持ち悪い。

 タプンと垂れた胸を持ち上げるようにしてその下も、ぐっと引き上げるようにして段差がついた腹の下も、隙間が狭い腋の

下に、背中側も尻から首まで拭い残さないよう丁寧に洗い流し、ぬめりを取るミオ。

 ラドは不思議がっていた。先もそうだったが、不格好なだらしない肥満である自分の体に、ミオは嫌な顔一つせず触れる。

真剣に。親身に。

 ラドがする事といえば、顔を洗うのと、ここは流石に恥かしいだろうからと自分で洗うように促された股間を綺麗にするぐ

らいの事。

 職業柄相手を選ばず、態度を変えず、接する事が必要なのだろうか?…とも考えるが、頭にもやがかかったような状態になっ

ているラドは、羞恥すら殆ど感じず、疑問についても深くは考えられず、されるがままになっている。

 それでも、申し訳ないと思う。有り難いとも思う。

 自分は貴重な快復例だから丁重に扱われているのだろう。そう感じながらも、献身的なミオを見ていると、そんな含みなど

無く、自分を大切に扱ってくれているように思えて来る。

「吐き気とか、ないですか?」

「え?う、うん~…。水で、お腹いっぱいだから…、それでちょっと苦しいぐらいー…」

「そうですか」

 交わした会話といえばこんな物だった。

 ミオは、ラドの身に降りかかった不幸を想い、軽はずみな発言ができない。

 ラドは、自分がしでかした事や、迷惑をかけた事を考え、明るく振る舞えない。

 気詰まりな沈黙を、水音がピチャピチャと埋める。

「…もう、良いですかね…」

 ひとしきり流し終えた後、ミオは立ち上がってラドを促した。

 手を差し伸べ、ラドが立ち上がるのを介助する。

 が、まだ衰弱しているラドはよろめき、「あわー?」と気の抜けた声を上げながら足を滑らせた。

 身長にはさほど差が無くとも、体重差はかなり大きい。ラドにもたれかかられ、支えようとして踏ん張ったミオは、しかし

濡れた床に残るぬめりで足を滑らせた。

「あっ、ぐ!」

 どしんと、床の上に転ぶふたり。ラドと胸を合わせて下敷きになったミオは、息を詰まらせて目を大きく真ん丸に開き、続

いて「うぇっふえふえふっ!けほほっ!」と派手に噎せ返る。

「あわわ、ご、ごめ…おふっ!」

 慌てて手をつき、上から退こうとしたラドは、ついた手を滑らせて横転し、ベシャリと床に突っ伏した。

「う~…!」

「いだだだだ!」

 圧迫された胸を抱えて呻くミオと、顔をしたたかに打って悶えるラド。

「だ、大丈夫ですか?」

「そ、そっちこそ~…」

 互いに気遣い、顔を見合わせ、それからふたりはフッと表情を緩ませる。

「…熱いお湯を張った、バスタブに浸かりたいですね…」

「うん…」

「食事も、美味しいのが欲しい…。香りが良い紅茶も…」

「うん~…」

「…今夜は、少しはまともな食事ができると思います…」

「………」

 励まそうとしているミオから目を反らし、ラドは、たった今重ねた体の感触を、アメリカンショートヘアーのか細い体の頼

りなさを、思い出す。

 この灰色の猫は、か細い体で、華奢な体格で、戦って、守って、殺して、傷ついて…。

「君は、強いねー…」

「え?」

 小さな声だったので、ラドの呟きをはっきり聞き取る事ができなかったミオは、耳をピンと立てる。

「…ん~ん、何でも…」

 自分が情けなく感じられた。

 軍人とはいえ、年下の小さな少年がああして働いているのに、何もできない自分を振り返ると恥ずかしかった。

「…体が冷えちゃいます。戻りましょう」

 ラドが何か思い悩んでいる事を察しながら、ミオは彼を促す。

 まずは休ませるために。



 その間も、イズンは避難民全員を診療していた。

 パッと顔を見て脈を取るだけの簡易な、しかしその能力特性故に取りこぼしの無い診察の結果、保菌者はゼロと確認された。

 そうして住民達に、予防薬と嘘をついてプラシーボ効果を狙ったビタミン剤を配り、動揺を鎮めた後で…。



「済んだなら、貴方は少し休みなさい」

 一通りの診療を終えて戻ったイズンは、ミオに連れられて部屋に帰っていたヒキガエルにそう告げて、錠剤を二粒処方した。

 睡眠導入効果などは無い、副交感神経をリラックスさせるだけの錠剤だったのだが、菌とのせめぎ合いで体力を消耗してい

たラドは、まるで一服盛られたようにコロッと眠ってしまった。

 ラドが横になってからわずか数十秒で規則正しい寝息を立て始めると、

「…アイアンハート准尉」

 イズンはヒキガエルが眠っている事、もし話を聞いても内容を理解できないだろう事を考慮した上で、ミオに向き直り、口

を開く。

「はい」

「霧が原因だという事、感染条件などについては、治療前に伝えた簡単な説明で理解できたと思うが…、この菌には耐性を持

つ者が存在する」

「コンラッドさんのようなひとが、他にも?」

「いや。抗体の保持者はどの程度居るか判らないが…、彼とは別種だ。全く異なる性質の耐性を持っている者が居る」

「別種?」

 訊ねるミオに、しかしイズンは答える前に質問をした。

「アイアンハート准尉は、これまでにあの霧を吸い込んだか?」

「はい。えーと…、正確な回数は覚えていません。少なくとも三回以上は深く吸い込みましたが…」

「普通ならばそれで感染し、発症する。しかしそうならなかった。それは、貴官はこの感染症に罹らないからだ。この蛙君は

発症し、それから快復した。だが貴官は違う。感染しても発症しない。貴官の体内に入った菌は侵食作用を全く見せないまま

死滅する。自発的にな」

 三秒ほど沈黙し、ミオは訊ねた。戸惑いながら。

「どうしてぼくが…?」

「この菌がそういう風に「造られている」からだ」

 ミオは言葉を失った。まさか、と目を見開いて。

 少し長い静寂を挟んで、イズンが口を開く。

「貴官「達」はこの感染症に罹らない。特定の遺伝子を持つ者には害を及ぼさないように菌の方がデザインされている。こん

な特性を備えた菌を造るのは、どこだと思う?」

 達。イズンが複数形で言った理由は、ミオにならばすぐに判る。

「ラグナロク…!」

 呻いたアメリカンショートヘアーは眩暈すら覚えた。

 黄昏。あの狐が居たのだから、介入は間違いないと思っていた。通信遮断も町の包囲も黄昏の手による物だと思っていた。

 しかし、霧はそれと別の現象だと思っていた。だからラグナロクと思しき包囲者達は、この町に何らかの目的がありながら、

霧のせいで迂闊に踏み込めず、遠巻きにしているのではないかと考えていたのだが…。

(この霧は、ラグナロクが散布した物なの!?しかも彼らは感染しない!?それなのに直接制圧には乗り出さないで、あの狐

しか入り込んでいない!?一体…)

「わたくしが思うに」

 思考がグルグルと回るミオに、イズンは言う。静かに、低く。

「この町は、実験場に選ばれたのだろう」

「!!!」

 ミオの頭の中で、この町で目にした数々の惨状がフラッシュバックした。

 貪り食われた子供。

 この手で殺めた、痩せ細った雌兎。

 目にナイフを突き立てられて死んだ、蛙の婦人。

 変わり果てた父親に咬まれ、それでも抱擁を交わしたラド…。

「実…験…?」

 胸の内でざわめく、黒いドロリとした何かに押し出されるようにして、ミオの口から低く押し殺した声が漏れた。

「とりあえず…」

 イズンはミオの肩をポンと叩いた。

 その手が激しくざわついたミオの胸を落ち着かせる。そこに篭った力が、怒っているのはお前だけではないと伝えてきて…。

「避難民達の感染状況確認が先決だ。その後速やかに情報を共有する。エアハルト騎士少尉も加え、打ち合わせをする」

「…はい…!」

 返事をしたミオに頷きかけると、イズンはドアを見遣り、黒い斑紋の中の鋭い眼をなお厳しく光らせた。

「少佐の到着をお待ちしている猶予は、残念ながら今の我々には無い。ここからは、わたくしが臨時で指揮を執る」





「感染症についてここまでに判っている事を、まず伝える」

 来客用応接室の白い壁に、携帯端末から怪物化した感染者の死体映像を投射しながら、イズンは集まったメンバーとの打ち

合わせを始めた。

 顔ぶれはイズンの他、椅子に座るミオ、ドア脇の壁際に立つギュンター、そしてイズンから最も近い位置のソファーに膝を

揃えて座らされ、殴られて腫れた頬に氷袋を当てているアドルフの四名である。

 本当は警官も招いて概要を伝えたかったが、怪物の侵入を防ぐためにも、誰かは見張りに残さねばならなかった。

 なお、ミオとギュンター、アドルフそれぞれの手には、滅菌されたアルミ製カップ。ワイヤーハンドルがついた軍用品で、

こちらもイズンが持ち込んだ物。中身は紅茶で、それぞれビニールパックされたフルーツジャムをこれでもかと溶かし込んで

ある。それに加えて不眠不休だったミオとギュンターには、無水カフェイン200㎎と、ミネラルとビタミンの錠剤が手渡さ

れていた。

 労わりはしているが休ませる訳に行かない。機材も人手も足りない台所事情を弁えた上で、今のイズンにできる精一杯の配

慮がこれだった。

 ちなみに、疲弊していないアドルフにも紅茶を飲ませているのは、その能力の特性を考慮しての事。こちらについては遠慮

なくこき使うつもりで先に与えた飴である。

「この状態を末期症状と仮称する」

 死体の映像を指揮棒で示しながら、イズンは三名に説明した。

「この末期症状まで至った感染者の体内では組織、構造が変質している。アルラウネ寄生体同様に、脊椎動物の性質と植物的

性質を併せ持ち、運動中枢たる脳を体から切り離すか、破壊しなければ活動を止めない。…アルラウネ寄生体については…」

 「一通り資料で覚えました」とミオ。

 「二度、交戦経験が」とギュンター。

 「三度の飯より詳しいですぜ」とギュンターを横目で見やりながら鼻を鳴らすアドルフ。

「三度の飯より詳しいという表現が実に意味不明だが、本当に大丈夫かヴァイトリング准尉?」

 狼はイズンの疑わしげな視線を受けながら頷くと、ミオが自分を見ている事を確認し、軽く目を閉じ、腕を組んだ。

「ええ。奴らは群れでやって来る…。それと、空を飛ぶ。あと火とか吐く」

 カコーン、と軽くも弾けるような金属音が鳴り、飛来した空きカップが鼻先に命中したアドルフが「ぺうっ!?」と奇声を

発して仰け反った。

「知ったかぶりはしなくて結構。実物を知らないアイアンハート准尉に間違った知識を擦り込むな。アルラウネに群れる習性

はなく、飛ばないし火も吐かない」

「あああ姉御、鼻血がドプドプ出て来てるんですけど!何か変な血管切れたんじゃ…!?」

「貴官の存在のどこかに変でない箇所があるのか?」

「健全ですよ体は!」

「そうか。頭が残念なのか。それは残念だ」

「頭も良いです!っていうか鼻を…」

「削ぎ落とすなら手伝おう」

「黙ります」

「…話を戻すが、末期症状になるとアルラウネに近い特徴が現れる。体液は樹液にも似た粘度の高い物になり、外傷はこれに

よって速やかに保護される。また、組織の断裂や体表の切創などは菌糸が伸びてカバーする。筋組織や神経、血管…体液輸送

管も同様だ。そして、ここまで症状が進んだ場合は不可逆的なまでに変異してしまっているため、…おそらく治す手立てはな

い」

「おそらく?」

「治るかもしれない可能性があるんですか!?」

 ギュンターが身を乗り出し、ミオが腰を浮かせたが、イズンは「いや、「治る」という表現も正確さを欠いている」とこれ

を制する。

「体は半植物化し、組織レベルで見れば一種の共生状態となっている。だが脳はもはや元通りではない。…手は無いでもない

が、そうして出来あがるのは、おそらくもうひとの範疇に無い新種の共生生物…。変な期待はしない方が良いな…」

 言葉の後半はイズンの口の中で呟かれ、ミオ達には聞こえなかった。

「先を続ける。菌に侵入されただけならば、わたくしの能力で排出を促すなど、確実ではないが打てる手はあるが、発症寸前

まで兆候が見られない事から、感染後に手を打つのは難しい。予防が最も効果的だ」

 「少尉」とミオが手を上げ、イズンに問う。鼻を押さえて上を向いているアドルフは、もはや半ば打ち合わせから外されて

いた。

「コンラッドさんの抗体は使えないんですか?」

「まず抗体獲得経緯が不明で、ワクチンを造っている猶予は勿論、そもそも機材が無い。現状では感染自体を防ぐ以上に効果

的な手は無いと考えていい」

「…原因が特定できただけでも御の字だな…」

 ギュンターの呟きに、ミオも顎を引いて同意した。

「菌自体は、ラグナロク由来の生物…おそらくラグナロクのクローンなどと似通った遺伝子配列を持つ者には感染しない。し

かし感染後の生物はラグナロク構成員とその他を区別せず襲う。これについてはエージェントが怪物と交戦したというエアハ

ルト騎士少尉達の証言も裏付けになっている。町を包囲しているラグナロク兵が中に入ってこない理由の一つはこれに起因し

ているのだろう」

 片手で鼻を押さえてハンカチで鼻血を止め、もう片手で腫れた頬に氷嚢を当てているアドルフが手を上げると、イズンはビ

シッと刺々しく指揮棒を向けて発言を促した。

「何だヴァイトリング准尉?下らないたわごとなら…」

「落ち着いて下さい姉御!」

「少尉と呼べ」

「今度は真面目な話で…」

「ほう。つまり先ほどは不真面目だったという事か?…つくづく残念だ…」

「待って待って待って椅子は!椅子は勘弁!マジすんませんした!」

 手近な椅子の背もたれを掴み、かなりドッシリしている木製のそれを軽々と片手で持ち上げて振りかぶる、目が据わってい

るイズンと、慌てて赦しを乞うアドルフ。

「それで、何だ?速やかに述べろ」

「は、はぁ…。その、「理由の一つ」って事は…、連中が包囲してるだけで入ってこない理由は、他にもあるんで?」

「珍しく良い質問だ。貴官にしては」

 チクリと刺しながら、イズンは三名の顔を見回した。

「勿論、怪物化した住民を外へ出さないための包囲でもある。実験にこの町が選ばれたのは、何も外部から孤立させ易く、邪

魔が入らないからというだけではない。総人口が少ない上に包囲し易いこの狭さならパンデミックが起きても…、つまり感染

者が予想に反して爆発的に増えても対処し易い。もっとも、最終的には「後始末」のために乗り込んでくるだろうが…」

「済みません少尉殿、質問が…」

 すらすらと述べるイズンに、今度はギュンターが挙手する。

「しつこいようだが「殿」は不要だエアハルト騎士少尉。わたくしと貴官は今では同じ階級だ。敬語は辞めて貰えないにして

も、せめてそこは対等に願いたい」

 階級名は同じく少尉でも、ナハトイェーガーの少尉は物によっては佐官級の権限が与えられる。加えて年齢も上なのでギュ

ンターはイズンを目上として扱っているのだが、どうにも彼女はこれが嫌なようで、事ある毎に撤回を求める。

「失礼、少尉。その「後始末」の開始時期は、どの辺りだと予想されますか?」

「二、三時間後…、正午を過ぎればいつ取りかかっても不思議ではないと考えている。光合成で活発化するという特性を確認

もしたいだろう。わたくしが実験監視者の立場なら、よほどの事がなければピーク時の状態を確認したい。欲を言えば日差し

が弱まるタイミングでの変化も確かめたいだろうが、そこまで期待するのは危険極まりない」

「「良い事もあると思いながら、常に最悪に備えよ」…」

 ミオの自分に言い聞かせるような呟きに、「その通りだアイアンハート准尉」とイズンも同意する。

「連中も馬鹿ではないだろう。リッターが駆けつけるまでのんびり待つ訳が無い」

「なるほど。確かに「猶予は無い」」

 先のイズンの言葉を繰り返し、歯噛みするギュンター。

「そこで、だ。逃げ場が無い以上防衛戦は避けられない訳だが、先に首謀者の事を再確認しておく」

「黄昏でしょ?目的のためなら何だってやるテロリストの鑑だ。ハッ!」

 吐き捨てたアドルフに、しかし…。

「ちょっと良いですか?」

 ミオは挙手して話の流れを意図的に止め、立ち上がって発言許可を求めた。

「何だ?アイアンハート准尉」

 イズンが促すと、ミオは記憶を手繰って考えながら口を開く。

「敵は黄昏。それは間違いないです。あの狐はエージェントだし…。でも…、違和感があるんです」

 アドルフは「違和感?」と眉根を寄せたが、ギュンターはミオの発言で気付き、目を大きくした。ヘイムダルと交戦した時

の事を思い出して。

「ギュンター君はどう思った?」

「…そう…だな…。あの狐の行動に、納得が行かないような気もする…」

 ミオに促されたギュンターは、ヘイムダルの雰囲気を思い出す。色濃い狂気を纏う、歪みの歓喜を。しかし…。

「…今回の件、あの狐に似合わない」

「は?似合わないぃ?おいおいおいおいお坊ちゃま?テロリストどもに、こういうのは似合う、似合わない、なんて物があり

ますかねぇ?」

 ギュンターの感想を小ばかにして、鼻で笑うアドルフ・ヴァイトリング准尉、二十六歳、独身。

 実は、ミオと仲が良いギュンターの事がかなり嫌いで、事ある毎に絡んでいる。大概相手にされないのが悲しいところだが。

「そう…。ぼくも似たような感じ。何だか「合わない」って思えて…」

「そうか!?ミオは鋭いな!」

 ミオの意見を聞くなり見事な手の平返しを披露するアドルフ・ヴァイトリング准尉、二十六歳、独身。

 もはや清々しいほどのダブルスタンダードである。

 ともあれ、ギュンターはアドルフを無視し、感覚以外の根拠になる情報を交え、イズンに説明を始める。

「あれだけの力がありながら俺達を見逃すのも不自然でした。後始末を始めるまで間が無いとすれば、あのタイミングで見逃

すのはおかしい。怪物化した後の戦闘能力を調べたかったにしても、障害を排除して襲われ易くするでもなかった。そもそも、

一般人では歯が立たない事はもう充分に判ったはずだ。怪物にデータ取りを兼ねた始末を任せるために、あえて手を引いたと

も考え難い…」

「グート…」

 ミオが同意して呟く。ギュンターが口にした事は、ミオが引っかかりを覚えていた部分そのままだった。

「少尉、ぼくからも…。これは彼の態度に嘘が無ければの話ですが、彼は、住民の全滅が目的じゃあなかったんじゃないかな、

って…。菌の霧を撒いた側と、狐の側は、無関係か、狙いが違うかしているんじゃ…」

 そう伝えるミオは、できれば死ぬなよ?と言い残したヘイムダルの声を思い出している。任務は任務、目的は目的として行

動しながらも、あの男は戦闘そのものを、自分達との再戦を望んでいるように思えた。確かに、グレイブの皆の仇、その中の

ひとりではある。しかし…。

「つまりアイアンハート准尉、エアハルト騎士少尉は、「狐はラグナロク」「包囲している連中もラグナロク」そして「両者

の行動は目的が異なる」と考えている訳だな?この、同じ町を対象とした介入について」

 イズンが整理すると、アドルフは「あ~…?え?」と顔を顰めた。改めて考えたらおかしな事になって、頭がこんがらがり

そうだったので。

「ありえない、ですかね…」

 自信なさげにミオが耳を倒すと、

「いいや、素晴らしい洞察だとも…!」

 イズンは柔らかく目を細め、口元を緩めて笑顔を見せた。

 この女傑が滅多に見せない、女性らしい柔和な笑みに、ミオもギュンターもアドルフも目を大きくして見入ったが、

「…オホン…!」

 三名の視線で気付いたイズンは、拳を口元に当ててわざとらしく咳払いし、笑みを消す。

「おかげで不確定要素が一つ消えた」

「不確定要素?」

 おうむ返しに訊ねたミオに、イズンは深く頷く。

「この教会で起きた、アイアンハート准尉と狐の最初の交戦には意味があったのだ」

『え?』

 ミオとギュンターの声が重なった。アドルフの方は「なるほどな…!」と漏らしたが、話が込み入って判らなくなってきた

ので、実はもう思考を放棄している。

「教会の屋根が町を見回すのに丁度良い高所だから、陣取った際にたまたま出くわした線。向こうがアイアンハート准尉を察

知して接触した線。それから偶然の線…。この辺りしか考えていなかったが、今はこう推測できる」

 イズンは爪先を上げ、トンと床を打った。

「狐は用事があって「ここ」に来ていたのではないか?つまり、アイアンハート准尉達が最初の報告で寄越した話は、俄然信

憑性を帯びてくる」

 アメリカンショートヘアーと赤毛の青年は、ハッと顔を見合わせた。

「そう。レリック存在の可能性は極めて高い…。しかし、まず今は対処についての話を続けよう」

 イズンはそう述べて次の検討課題を提示した。

「アイアンハート准尉が遭遇した老人だが」

「はい」

「そちらも、ラグナロクだ」

「え!?」

 ミオが声を上げると、イズンは肩を竦めた。

「気付けないのか?霧を使役するような素振りを見せたのだろう?」

「いやでも、石泥棒の可能性は…?」

「ない」

 きっぱりとイズンが否定する。

「アイアンハート准尉は伝承を信じたかったのだろう?レリックもあった方が良い。できれば真実であって欲しい…。そんな

願望や期待が思考にフィルターをかける。そしてひとは、偶然の中にすら見たい物を見るようになる。翻弄されてはいけない

ぞ?もしも貴官が、ここと無関係な市街地の薬局でその老人と出会ったなら、伝承の中の存在だと感じただろうか?」

「い、いえ、それは…」

「霧は伝承と無関係。伝承と関係がありそうな老人は、実際には伝承と無関係で、霧の方に関与している。つまり、狐とは違

う行動を取っているラグナロクと見る事ができる」

 ポカンと、口を開けるミオ。

 異様な雰囲気に呑まれ、さらにはラドが呟いた事もあって、あれは人外の存在だと思い込み、伝承と結びつけていたが…。

「それじゃあ、あの老人は…!?」

 ヘイムダルとは質が違う恐怖。ミオが竦むほどの圧力。そんな物を纏っている人物ならば…。

(ラグナロクの、中枢クラス…!?)

 自分が何と出くわしたのか悟ったミオの体が、今になって震えた。

「ここから先その老人と遭遇する可能性は高いが、出会った場合は交戦を考えず、速やかに離脱を試みるように」

「けど姉御。たかだか爺さんひとりでしょう?物の数でも…」

 アドルフが異議を唱え、ギュンターもまた不服そうな顔をしたが、

「わたくしより強い者がこの場にふたり以上居たなら、やむを得ない場合に限り交戦を考えないでもなかった。だが今は…。

その老人は、おそらくそういう存在だ」

 イズンの言葉で反論を飲み込む。

「繰り返す。少佐抜きでの交戦は確実に避けたい相手だ。判ったな?」

『了解』

 三名が声を揃えると、「最後に、懸案事項をもう一つ」と、ジャイアントパンダは太い指を立てる。

「神父殺害犯については目星がつかない。ラグナロクの工作員が入り込んでいる可能性もあるが…。アイアンハート准尉、警

官の証言によれば、避難者全員が知った顔だそうだな?」

「はい。神父様も確認済みなので、間違いないと思います」

「それでもなお工作員が潜入している線はあるものの、それがシェイプチェンジャーなどの変身能力者だったならば、看破は

極めて難しい。加えて、下手をすると元々神父と不仲だった住民が、避難のストレスで凶行に及んだ可能性すらある。そういっ

た私情のもつれまで考慮して調べるのは難しい。犯人探しで住民同士が疑心暗鬼になる事を考えれば、今に限れば荒立てずう

やむやにさせておくのも悪くはない」

 できる事とできない事を、篩にかけるように選別してゆくイズンに、「それで良いんですかい?」とアドルフが顔を顰めた。

「ほったらかしにして、不意を突いて悪さでもされちゃあたまりませんぜ?」

「勿論、後ろから刺されるのは面白くないので、住民の護衛と監視を兼ねて一名割く」

「黄昏との殴り合いと、住民共の監視ですかい…。なんともはや、ごっつい仕事で…」

 アドルフが「やっぱそうなりますか」と肩を竦めるなり、イズンは「忘れてはいないだろうが、危険はそれだけではない」

と、パシンと指揮棒で分厚い掌を打った。

「シュヴァルツリッターの動き次第では、この町は住民ごと地図から消える。一切合財無かった事にしようとするだろう。我

々の存在がある程度の抑止になると思うが、事は急がねばならない。「どさくさ紛れ」ほど、荒っぽい片付けに向いた状況は

無いのだから」

 ミオとギュンターは視線を交わし、頷いた。

 必死になって護った住民達を、むざむざ殺処分させる訳にはいかない。

(大丈夫。きっと少佐が…)

(兄上が、何とかしてくれる)