ファルシャーネーベル(act16)

 うつらうつらとまどろみと覚醒の間を行き来する頭に、「でも、セントジョージ像は…」と、声が入り込む。

 それは、あのアメリカンショートヘアーの声だった。

 ぼんやりした意識の中に、まるで微かなオルゴールの音色のように入り込むその声は、夢現の意識に甘美な反響を伴いなが

ら溶け入って来る。

 自分は眠っていたのだと感じる。思う。考える。

 意識が覚醒に向かっていく浮上感の中で、いつものように「もうちょっとだけ…」と眠気に縋り付いて…。

 講義は何時のが最初だっただろう?

 起きたら向かいの店で朝食を摂って…。

 いや、学校は休みだった。今は帰郷している。

 そう、自宅に居る。起きたらまた、両親に学校の事を色々聞かれるのだろう。

 話したってろくに判らないくせに、きっと面白くない話だろうに、それでも…。

(あれ…?)

 と、ラドは引っ掛かりを覚えた。

 引っ掛かった所にささくれができた。

 そのささくれから、ベリベリとめくれた。

 そうしてめくれた下から現実が顔を覗かせた。

(ああ、そうだった…)

 ラドは思い出した。

 もう、家族は居ない事を…。

 自分の日常は、思わぬ形で終わってしまった事を…。



(あ…)

 閉じられた蛙の目の端から、透明な滴が落ちてゆくのを見つめ、ミオは手を止める。

 そして少し考えてから、額に置こうと思っていたタオルの端で涙をぬぐってやった。

「どうかしたか?」

 会話が途切れた事を訝って訊ねたギュンターに、ミオは「ううん、何でも…」と応じる。

 ミオは部屋に置きっぱなしにしていたコートを取りに来たついでに、ラドの様子を見ていた。同行しているギュンターは、

ありあわせの革ベルトをコートの外側にぐるりと廻し、殉職した警官の拳銃を腰に帯びている。

 タオルをラドの額に乗せ直しながら、ミオはギュンターに訊ねた。

「中に入っていたのかな?それとも像の剣その物が…いや、ないか…」

「ああ。粉々だった。像が握っていた剣まで、な」

 ミオもギュンターも難しい顔をしている。

 宝剣を借りる事に話が纏まった際に、神父は言った。「セントジョージ像」と。

 しかし先の器物破損事件の折に、セントジョージ像は他の像と同様に壊されていた。

 残った破片はまだ片付けられていなかったし、現場確認に来た警察の方で剣を回収したりもしていない。

「あの狐は、剣が像と関係している事を知っていたのかもな。だから像を全て壊した。だが剣は無かった。それで調べていた

のか…」

「本当に彼なのかな?像を壊した犯人は…」

「実行したのは本人ではないかもしれない。しかしラグナロクだろうとは思う」

「それは同感かも…」

「剣の形状や特徴も判らないのが不安材料でもあるが…」

「警官さんは石だけ無くなってたって言ってた。伝承でも消えたらしけど、ひょっとして剣そのものが消え去るようなレリッ

クだとか?実は見えなくなって像の残骸と一緒の所にあったりして…」

「透明な剣か。…置き忘れると大変だな」

「…変な感想…」

「本当に無くなってしまった…、つまり、像を破壊した犯人に持ち去られた線はないだろう?」

「うん。だったら神父様が貸す約束なんてしないだろうし…」

「つまり、教会のどこかにまだあるのは確か、という事だが」

「手がかりは神父様の、「セントジョージ像」って言葉だけだもんね…」

「セントジョージ像…?」

 ミオとギュンターがハッと振り向くと、目覚めたラドが身を起こそうとしている所だった。

「コンラッドさん!具合どうですか?」

 喜んだミオが額に手を当て、そういえば冷やしていたのだと、冷たい感触にペロっと舌を出す。

「セントジョージ像が、どうかしたんですかー…?」

 もそもそと身を起こしながらも、まだ頭がぼーっとしているラドが訊ねると、ミオは「ああ、その…」と顔を曇らせた。

「礼拝堂に置かれていた以外に、セントジョージ像って見たことありますか?」

 それは、答えを期待してない質問だった。

 もう、避難している住民達にも聞いてみて、誰も心当たりが無いと言っていたので。

 しかし…。

「ありますよー…」

 ラドは頭を押さえて軽く振りながら、あっさり応じた。

「そうで…はい!?」

「そうか…なに!?」

 ミオとギュンターは目を剥くと、

「礼拝堂に置いてあったセントジョージ像は、本物じゃないんですー…」

 ラドの言葉にギュンターが身を乗り出した。

「ちょっと待ってくれ!それはどういう事だ!?」

 この問いに、ラドは決まり悪そうに応じた。

「礼拝堂の、壊されたアレはー…、僕が作った複製なんですー…」

 顔を見合わせるミオとギュンター。ポンと投げ込まれた新たな手掛かりに、言葉が出てこなくなった。

 そうしてラドは、「ナイショにしてくれって、神父様達から言われてたんですけどー…」と、これまで秘密にしていた事を

ふたりに説明し始めた。

「教会のひと達も、全員は知らないはずですー…。二年前に、像が古くなって裏側からひびが入って、それが大きくなって来

て、右腕が肩から割れて落ちる寸前まで行っちゃったんです…。それで僕が教会から修理を頼まれたんですけどー、補修しよ

うにも像自体が80年物でー、古くなってるから接着しても鉄棒を通しても弄った所からボロボロ剥離しちゃってー、直せな

かったんですよー…。でも由緒正しい品だからってー、展示はやめられないからってー、複製を作って、それを飾る事になっ

てー…。それでー、僕が型取りして造り直した物をー、本物の代わりにあそこに飾る事になってー…。元の像は、地下一階の

倉庫にしまってありますー」

「なんてこった…!」

 ギュンターは額に手を当てた。

「となると、生き残った教会の面々は、たまたま知らなかったのか!?」

「たぶん…。手伝ってくれたから、守衛さんは知ってたはずですけどー…」

「守衛…、か…。責任ある立場の者や、古参から、矢面に立って行ったせいだろうな…。生き残っている関係者は比較的若い、

女性ばかりだ…」

 嘆息したギュンターの横で、ミオが、

「その元の像、何か変わった所はありませんでしたか!?」

 勢い込んでそう訊ねると、これにラドはあっさりと頷いた。

「はいー。中に物が仕舞えるようになってましたー」

 カパンと、顎が落ちる格好でギュンターの口が開いた。

「本当ですよー?東洋なんかの「ブツゾー」にあるー、中に尊い物を収める造りが、真似されたそうですー」

 ギュンターの顔を見て、信じていないと誤解したラドが説明を始めた。

 東洋の仏像には、胎内仏といって、仏像の中に小仏を収める作りになっている物がある。似たような造りで、中に経典や遺

骨を納めるようになっている像もあり、そうして守られる品は胎内施入品と呼ばれている。

 件のセントジョージ像も内部に品を収める造りになっていて…。

「それで!?中にあったのは…」

 先を急かすミオに、ラドはこれまたあっさり…、

「この町にずっと伝わってる、古い剣があるんですけどー、それが収まってましたー」

 と、ふたりが求めていた、期待通りの答えをよこした。

「レディスノウ…、感謝します…!」

 素直に感謝して祈るギュンターと、手掛かりが得られたと思ったら一気に答えに辿り着き、若干現実感が薄れてしまってい

るミオ。

 答えはこんなにも近くにあった。しかし気付きようもなかった。ラドにしてみれば旅人があの剣を求めているなどと思うは

ずもなく、ミオ達にしてみれば教会関係者でもない一青年が事情を知っていると推測できるはずもない。

「その剣を、神父様からお借りする約束をしてたんです!非常事態だからって…」

 歴史的な品なのだから、借りるだの預かるだのという話は信じて貰えないのではないかと、少し心配になったミオだったが、

「あー…。なるほどー…」

 ラドは疑うことなく、ミオとギュンターの顔を見比べて納得したような顔になる。

 このヒキガエルは既に充分すぎるほど異様な経験をしている。加えてこの青少年達は怪物を屠る信じ難い力を持っている事

も知った。神聖な物であるらしい剣を欲しても、ああ、役立つのか、程度に思う。常識や当たり前が崩れ去った今、聖なる剣

や伝説の英雄が出現しても驚かない気構えができあがっていた。

 またもや拍子抜けするミオとギュンターだったが、今は変に追及されないのは有り難い。

「それで、その像がある地下倉庫って、行ってみたらすぐ判りますか?」

 とミオはとラドに確認するが、ヒキガエルはこれに対して首を横に振る。部外者にはそうそう判らないだろう、と。

「倉庫が四室あるから迷うかもー…、それと、中が結構ゴチャゴチャしてて判りづらいかもー?あと、いつもは鍵が…」

「鍵か…!非常時だから破ってもいいが、教会の一室だからな…」

 ギュンターが顔を顰めると、ラドは「大丈夫ですよー」と、壁にかけられたキーボックスを示した。

「神父様が使ってた、倉庫共通のマスターキーが、確かあの中に吊るしてあったはずだからー…、それさえあれば案内できま

すよー」

「運が向いてきたぞ!早速少尉に報告しなければ!」

 慌しくギュンターが出て行くと、ミオは立ち上がろうとするラドに肩を貸した。

「あのー…」

「はい?」

 少し恥ずかしそうな顔をしたラドは、「どうもー…」と礼を良い、ミオの顔が見られなくて視線を下に向けた。

「…あ」

 そして、ミオが追加で太腿の脇に帯びた、イズンから手渡された新たなナイフに気付く。

「軍用の、ナイフ…」

「え?ええ…」

 嫌な事を思い出させたかと、耳を倒すミオ。

 しかしラドは…、

(どうして…?)

 鞘に収まったナイフを、じっと注視している。

(どうしてー…)

「ラド!大丈夫なのか!?」

 大きな声に顔を上げるラド。巡らせた目に映ったのは、ドアから足早に踏み込んできた黒兎。

「フランツー…」

「もう平気なのか?うつらなかったんだな!?」

 フランツはラドの傍に寄ると、その手を掴み、目を覗くと、安堵の息を漏らして肩を落とし、脱力した。

「良かった…!心配させるなよ!どうなる事かと思っただろ?こいつめ!」

「あ痛っ!」

 軽く頭を小突かれるラドと、プリプリしている兎を眺めながら、ミオはクスクスと笑い、決意を新たにする。

(守らなくちゃ…)

 避けられない防衛戦の訪れを前に、ミオは心の底から思った。

(こんな営みを、守らなくちゃ…!)

「…で、倉庫に用事ですか?」

 フランツに問われたミオは、「え?あ、ああ、そうです」と頷いた。

「神父様からお借りする事になっていた道具が、そこにあるらしくて…」

「協力しますよ。大丈夫かラド?肩を貸してやるから、案内してあげろ」

 フランツは姿勢を正して敬礼すると、ミオに替わってラドに肩を貸し、支える。

「う、うん~…」

 ラドが頷くと、「善は急げです」と、フランツはミオを急かした。





「あらあら、こんな所に…」

 ソバージュがかかった灰色の髪を揺らし、ヘルは町役場の屋上で屈みこんだ。

 脇に控えるのは忠実なる凶刃、ヘイムダル。

 狐は鼻をひくつかせ、何か気に入らない様子で風の匂いを嗅いでいる。

 血臭が薄い。怪物化した民間人の体液も、感染してももはや動けない犠牲者の遺体も、体液が変質してしまって血の匂いが

薄まっている。犠牲者の数に対して死の香りが極めて薄い。

 こんな物は、戦いではない。

 ヘイムダルはそう感じている。

 血を流さなければ戦いではない。痛みを知らなければ戦いではない。自分が望む戦いではない。

 そんな事を考えて不満げな狐の前で、ヘルは役場の屋上の隅、雨水を逃がす排水溝の蓋に触れる。

 その指が触れたか触れないかの内に、その金属の蓋の周囲で床がグニャリと歪み、伸び、周囲のコンクリートを吸い寄せる

ようにして削り取りながら、人の形になって伸びる。

 まるで泥の中から人が現れるように、コンクリートを歪めて変形させ、姿を為したのは、仕掛けられていたトラップ…ゴー

レムだった。

 身の丈2メートル半ほどの、コンクリートのゴーレムが掴みかかるその下で、ヘルは排水溝の蓋を撫で回しながら口を開く。

「ヘイムダル。やりなさい」

「イエッサー」

 短い返答。煌く銀閃。

 ゴーレムの動きがピタリと止まり、後ろに向かって崩れ、屋上の壁を破砕しながら落下して行った。

 二本の剣を腰の鞘に収める狐。

 トラップが障害にもならない。頭部、首、胴の中央、腰、そして垂直に頭頂から股下まで。瞬時に五回、後ろを狭く、前を

広く、崩壊後はヘルの方へ倒れないように、ヘイムダルは角度をつけて左右の剣で斬り付けていた。

 命脈を断たれたゴーレムの体は、分断された部位それぞれがボロボロと、ただのコンクリート粒へと分解してゆく。

「あったわぁ」

 排水溝の鉄蓋が、ヘルの手の先で真っ赤に熱されて溶け落ちた先には、握り拳大の水晶球のような物が収まっていた。

 その水晶は、ヘルの指先が近付き、青白く細い放電を浴びせられると、パキィンと澄んだ音を立てて粉々に砕け散り、たち

まち蒸散して消え去る。

「念話遮断用の物か?」

 訊ねたヘイムダルに「そうよぉ」と頷いたヘルは、

「これで、ここへ確かめに来るでしょうねぇ」

 高さがかなり上がった太陽を、眩しそうに目を細めて見上げた。





「地下には、替えの椅子とか、行事の時に使う物なんかが仕舞われてます」

 聖歌隊に所属していただけあって、教会にはそこそこ詳しいフランツは、下り階段を進みながらミオに説明した。

 相変わらず電気が通っていないので、地下へ下るところから石段に変わった階段を降りるには、懐中電灯の明かりが頼り。

先頭のフランツと最後尾のミオが灯りを手にして、周囲の闇を切り取っている。

 壁も石が積んである造りで、一階より上のフロアとは構造が少々異なっている。空気は上の階より低く、屋外よりは暖かい。

「ここだけ古いんですか?」

「そうですね。上は直したりしてますけど、土台なんかの地下部分は建てた当時から変わってないって、神父が言ってました」

 フランツの答えに納得しながら、ミオはいよいよそれらしくなってきたなと、気を引き締める。

 一般人が管理していて不都合が無かったのだから、のべつまくなしに力を振り撒くレリックではないだろうし、危険性は低

いだろうと考えている。トラップが仕掛けられているとも思えない。

 それでも、どういった物か判らないまま触れるのだから、暴発には細心の注意を払う必要があった。

 そうして気を張ったミオは、ふと、自分の前を歩くラドに視線を向けた。

「あの…」

 小声で話しかけるミオ。「はいー?」と階段を踏み外さないように壁に手を当てながら振り返るラド。

「大丈夫ですか?」

「うんー。ちょっとだるいけど、すっきりしたような感じー。もう平気だよー」

「いえ、そうじゃ…」

 そうじゃない。そう言いかけたミオは、しかしそれ以上口にする事を避けた。

 両親を失ったラドは、塞ぎこんでいてもおかしくない。

 それなのに、このヒキガエルは…。

(落ち着いてる…。普通に見える…。気を張ってるのか、それとも…)

 ラグナロク在籍時には、過酷な環境に耐え切れず、精神に異常をきたす者を見てきた。

 グレイブに左遷され、ハティの下についてからはそんな事も無かったが、その前の上官は部下を消耗品として扱っていた。

私物の消耗品のように。

 会議中に突然、タバコの灰皿から吸殻を鷲掴みにして口一杯に頬張った熊の下士官や、談笑しながら拳銃の手入れをしてい

たかと思えば、それをおもむろに目に当てて親指でトリガーを押し込んだオオトカゲの軍曹を見て、いつか自分もああなるの

だろうかと、恐怖と絶望と諦観を溜めていった物だったが…。

(ああいう事になった皆も、それまでは普通だった。…ううん、普通よりももっと、しっかりしてて、まともに見えて…、そ

れが…)

 普通以上に普通に見える異常。時に、狂った者はそうでない者以上にまともに見えてしまうという事を、あの頃のミオは知

らなかった。

 今ならば、疑わしく思う事もできる。

 ラドは、一見まともに見えていても、本当は…。

「あ。二番目の倉庫ー…」

 ヒキガエルが声を発して、ミオはハッと我に返る。

 階段は終わり、石が組まれた壁と床、天井からなる地下通路が、三名の前に伸びている。

 ミオは苦にならないが、イズンなど恰幅が良い者とはすれ違い難いだろう細い通路の左右には、開いたときにぶつからない

よう交互に配置されたドアが三つずつ並んでいた。

「二番目…そこのか?」

「うんー」

 ラドの指示通りの扉を開け、先導して踏み入るフランツ。その後にラドが続き、最後に入ったミオは埃っぽい空気に鼻をヒ

クつかせた。

 一辺8メートル程の倉庫には、雑多に詰まれた物で遮られ、灯りが行き渡らない。

 常用されていないのだろう、暗がりの中に浮かび上がる長椅子などには、薄く埃が積もっていた。

 埃を吸いつけた蜘蛛の巣だらけの燭台や、シートを被せられている何かが、フランツが持つ懐中電灯の明かりで照らされ、

壁に影を踊らせる。

「あ。アイアンハートくーん」

 倉庫内を一通り見回していたミオは、ラドに手招きされて「はい?」と歩み寄った。

「多いな…。像はどれだラド?」

 倉庫の奥へ入ったフランツの問いに、しかしラドは答えず、ミオに質問する。

「神父様を刺したナイフ、軍用のだったんですよねー?」

「おい。何の話だ?あれはアイアンハートさん達じゃなかったんだから、もう良いだろ?」

 奥のフランツが訝って声をかけるが、ラドは「どうなんですかー?」とミオに返答を促した。

「え?ええ…。悔やんでいます…」

 耳を倒したミオに、ラドは訊ねた。

「誰がやったんだと、思いますかー?」

「それは…、あの狐が、ぼくらをハメるために…」

 確証がある訳ではないし、疑わしい所ではあったが、まさかこの教会内の誰かと言えるはずもなく、可能性の一つを回答と

して挙げたミオは、

「それは、あの狐じゃないですよねー」

 ラドの言葉で口をつぐんだ。

「あれ、軍用ナイフって判り難いですよねー?刺さってて、見えてるの柄だけになってて。そもそも、普通のひとはあれを見

たって、軍用ナイフだなんて判らないですよねー?それなのに、アレで騙そうとするんでしょうかー?言われなければ、判ら

なかったと思いますよー。まさか教えてあげるために居残る訳にも行かないでしょうしー」

 ミオの目が大きくなる。

 ラドの言う事はもっともだった。しかし…。

「でも、ぼくは彼との戦闘でナイフを手放していて…」

「アイアンハート君はー、それをあの狐が使ったと思ってるんですねー?」

「ええ。だってナイフなんて他…」

「投げたのをキャッチされたんですかー?」

「いいえ、刃を交えて…」

 ナイフを失った時の事を思い返し、ハッとなって息を呑むミオ。

 あの時ミオの左手は、ジルコンブレードと斬り結んでいたナイフを、受け損ねて弾き飛ばされて失い、トンファーに持ち替

えた。だが…。

「…違う…。あの時、先が欠けたんだった…!」

 失う以前に、ナイフはジルコンブレードに強度負けし、先端が大きく欠け、刺突不可能になっていた。つまり神父を殺めた

あれは、刀身が完全だったあれは、ミオが握っていた物であるはずがない。

「神父様を刺したのは、あのナイフでアイアンハート君達に疑いが向くって知ってるひと…。そして、アレが軍用ナイフだっ

て知ってるひと…。つまり、教えられた僕や…、教えたひと…。そして、軍用ナイフを持ってる可能性があるのは、アイアン

ハート君達と…」

 ラドはミオの手から懐中電灯を引ったくり、倉庫の奥の影に向けた。

「君ぐらいだよねー…」

「えっ!?」

 驚きに目を見開き、灯りを追うミオ。

 その先で、向けられた電灯の眩しさから、腕を上げて目を庇うフランツが、倉庫の奥にくっきりと影を刻む。

「おいラド!眩しいぞ!何を言ってるんだお前!?」

 抗議する黒兎に、ラドは訊ねた。静かに。壁面に染み入るような声で。

「アイアンハート君は神父様から道具を借りる事になってた…、って言ったのに、どうしてフランツは探してる物が、「像」

だって判ったの…?」

「…!」

 戸惑っていたミオが耳をピンと立て、瞳孔を広げる。

「セントジョージ像に何かあるっていう事は判ってたんだねー?だから、帰ってきてすぐに教会に向かって確認した…。でも、

礼拝堂のセントジョージ像の中には無かった。だから全部壊してみた…」

 フランツは、セントジョージ像を気にしていた。

 教会の像が壊されたのは、ラドとフランツが到着した夜だった。

 ラドはそれを覚えている。

「何言ってるんだよ!?あの事件のとき、お前と一緒に…」

「うん。一緒にお酒飲んだねー」

 ラドはあっさりと頷き、黒兎は「だろ?何言ってるんだよ」と顔を顰める。

「でも、それってアリバイにはならないよねー?」

「は!?」

 確かにその夜、ラドはフランツと一緒だった。酔い潰れて、それから起きた時も、目の前にフランツが居た。

 だから、アリバイは無い。

 勧められるままに速いペースでワインを飲んだラドは、眠っている間にフランツがどうしていたか判らない。意識が無かっ

た間もずっと一緒に居たかどうかは判らない。

 ただ、判っているのは…。

「寝てる間に君がどうしてたか、判らないんだよねー。はっきりしてるのは、起きてから触った君の鼻が冷たかった事。まる

で、直前まで外に居たみたいに…」

 ラドの言葉に、「そんなの、あの部屋なら当たり前に…!」と応じかけたフランツだったが、

「アイアンハート君と会った後も、不自然だったんだよねー」

 そんなヒキガエルの言葉で声を断たれる。

「協力する。チャンスだ。そう言ってた割に、君はアイアンハート君と会ってなかった。生き残ったひと達を探して、殆ど連

れ帰ってた中で、自分の方からもアイアンハート君を探してたのに、会ってなかった。合流したのは僕が見つけられた後…自

分からだった…。そう、あのお爺さんと会った後ー…。あのお爺さん、フランツの家の所にも来ていたよねー?あの、像が壊

された日の夜明け前に…」

 ラドは淡々と言って、首を傾げる。

「フランツは、あのお爺さんに協力してたんじゃないのー?そして、教会に避難する僕に同行する事にしたのは…、それまで

監視してた僕が、アイアンハート君と一緒になって、何処かに避難させられそうになったから…、だったんじゃないのー?」

「監視?あ…」

 ミオはラドとフランツを交互に何度も見る。

(コンラッドさんの抗体って、まさか…!?)

「フランツ…、君なんだよねー?僕に、怪物にならない薬を、抗体ができる物を飲ませたのはー…」

 ラドの言葉に、黒兎は…、

「ふぅ…」

 ため息をついて、両手を軽く上げた。

「昔から勘が良かったもんな、お前は…」

 フランツはライトの眩しさに目を細めながら、困り顔で肩を竦める。

「教会の騒ぎを眺めに行った時、お前は言ったよな…。「犯人は現場に戻る」…。あれにはビクっときたぜ…」

 ミオはラドをちらりと見てから、フランツに視線を向けた。

「貴方は…、ラグナロクと内通していたんですか?」

「仕方なかったんだ…」

 光の中で、フランツは顔を伏せて項垂れる。

 観念して気が緩み、一気に疲れが出たような、背中を丸めたフランツに、ミオはふと、思いつきで訊ねた。

「ラグナロクに、脅されてたんですか…?」

 か細い声で「…ええ…」と、ゆっくり頷く黒兎。

(軍人の内通者は、ラグナロクも欲しいところだろうね…)

 ミオは納得する。軍内部にスパイが欲しい黄昏。しかし軍人に接触するのは、そのまま接触自体が上へ筒抜けになり、警戒

される危険性も大きい。

 だが、士官候補生ならばデメリットは低くなる。精神的にまだ一般人から脱していない、教育途中の若者であれば、家族や

恋人などを人質に取る事で揺さぶれば、効果は精神的に成熟した正規軍人などよりも大きく現れる。

(でも、今はこれを逆手に取れる!フランツさんから聞き出せば、事態を打開するのに十分な情報が得られるかもしれない!)

 老人の側だとすれば、フランツが協力していたのは町を包囲している側、「実験」を実行している方という事になる。

 剣まで狙っていたとなると、いよいよヘイムダルの立ち位置が判らなくなって来るが、そこはひとまず、たまたま目的がか

ち合ったなど、ラグナロク側での情報共有に不具合があったのだろうと仮定して、ミオは口を開いた。

「今は、罪を責めている状況ではありません。貴方を保護すると約束しますから、投降してください」

「………」

 ミオが訴えると、フランツは両手を肩の高さに上げ、投降の意思表示をした。

「…フランツ…」

 友の裏切りを暴き立てたラドが、ゆっくりと足を踏み出す。

「どうして…。どうしてー…!」

 目を潤ませるラドは、手を上げながらゆっくりと歩み寄るフランツへ足早に近付く。

「どうしてこんな事したの!?フランツー!」

 ミオは堪らず目を伏せた。

 友人が加担した事が原因となって、両親を失ったラド。

 ふたりの関係がこれからどうなるのか、投降したフランツがどんな裁きを受けるのか、どう贔屓目に見ても明るい材料は見

当たらない。
これはもう、ミオにはどうしようもない事なのだ。

「ラド…」

「どうしてー!?」

 詰め寄ったラドと向き合い、涙で潤んだその目を見下ろし、フランツは…、

「どうしてもこうしてもない」

 嗤った。

 それは、付き合いが長いと、深いと、思っていたラドも始めてみる顔。

 一転して現れたそれは、悪意に塗り潰された、禍々しい笑顔…。

「コンラッ…」

 トンファーに手をかけ、警告を発しようとしたミオだったが、その反応は一手遅れていた。

 素早く回ったフランツの腕が、右でラドの首を捕らえて左で肩を掴み、反転させる。

「ゲクッ!?」

 右腕を顎の下に通す形で首を締められ、肩を極められ、左腕だけで万歳する格好で、ラドは盾にされる。

 抜いたトンファーを射撃体勢で構えながら、ミオは驚愕に目を見開いていた。

 右腕が自由になっているラドだが、それを喉元に入れなければ締め上げる腕で窒息させられてしまうので、反撃するどころ

の騒ぎではない。

 光弾で狙おうにも、肥っているラドは幅があり、身長で上回るフランツは耳を後ろに倒して背を丸めているので、正面から

狙えるのはラドを捕らえる両腕の一部のみ。

 歯噛みするミオ。

 ひとの善意を、信じたかった。

 身を焦がすほど憎悪する対象が存在するその反面、ミオはひとの温もりを信じたかった。

 ひとの情は、義は、仁は、確かに存在するのだと信じたかった。

 だから、フランツとラドの接触を止めようとしなかった。罪を犯したとはいえ観念したフランツと、詰め寄るラド。その心

情を思っての事だった。それが…。

(アマイ)

 ミオの胸の奥で、どろりと濃く、重く、暗いモノが蠢き、囁く。嘲るように…。

「ぐ…ぅ…!フラ…ンツ…!」

 ラドも、ミオと同様だった。

 フランツが怪しいと考えながらも、心の底では友人を信じたかった。

(だって…、だって…!フランツは皆を騙しても、僕を助けようとしてくれて…!怪物にならない薬も飲ませてくれたし、影

で僕を監視してた…!転びかけて、霧に突っ込みそうになった時だって、支えてくれて…)

 そこまで考えたラドの脳内で、ツッ、と静かに糸が結びつく。

 あの場で霧を吸わない事でメリットがあるのは、ラドだけではなかった。

(…万が一その場で怪物化したら、フランツも…困るから…?薬は…確実な物じゃないから…?)

 ラドは悟る。この町全てが実験台であるように、自分もまた、フランツにとっての実験台だったのだと。

 薬の効果が確実かどうかは判らない。だからラドにも飲ませた。

 自分と一緒に居るときに怪物化されるのは面倒だったから、距離を取る必要もあった。

 見守っていたのではない。あくまでも、効果の程を確かめるために監視していた…。

 両親の安否が気になって、パトカーを盗んで教会を飛び出したあの時も、ずっと見ていたフランツならば止める事ができた。

 それでも行かせたのは、手薄になった隙に神父から宝剣の在り処を聞き出し、入手するため。ラドが引っ掻き回して現場が

混乱したほうが助かるから…。

「本当は、まぁ…、軍に食い込めれば良かったんだが…。こうなったら仕方ないよなぁ。お前のせいだぜ?ラド…」

 暗い笑みを浮かべるフランツの中では、全てが綿密に計画されていた訳ではなかった。

 実験の事を聞き、それならばと急遽帰郷する形で作戦に加わっただけで、レリックかもしれないと思った宝剣の奪取を進言

したのも、自分は有用な存在だと上に印象付けるため。

 ラドに薬を飲ませて効果を見定める実験台にしたのも、幼馴染がたまたま帰郷していたからだった。あんな関係だから、薬

を酒に溶かして口移しで飲ませるのは簡単だと…。

 宝剣にしても、本当にレリックかどうかなど判らない、とりあえずただの剣でも良いから持ち帰ってさえおけばいい。そん

な意識だったので執着も薄く、像を壊して探しても見つからなかった時点で一度は諦めた。

 それでも流れの中で教会に潜む事になったので、脱出前に持ち出せればと、神父とふたりきりになって恐喝した。殺害した

のは、脅しても吐かなかった事に腹を立てての凶行…。聞き出そうとした時点で犯人だと疑われる可能性が高かったので、ど

のみち殺すつもりでの接触だった。

 その行動は執着に欠け、手練から見れば杜撰だったが、逆にそのおかげで足が付きにくく、本心を看破し難くなっていた。

ラドが気付かなければ、外への対処で精一杯だったミオ達は完全に出し抜かれていただろう。

「フ、フランツ…!」

 不自由する呼吸の隙間から、ラドが呼びかける。

「君がやってる事は…、悪い事だよ…!やめて…、やめてよぉ…!ゲゥ!」

「煩い」

 冷たく応じるフランツが、ラドの首を締め上げて黙らせる。

「何が良いか、何が悪いか、そんな物は俺が決める…!」

 ああ。とラドは目の前が真っ暗になった気がした。

 その言葉を、こんな場所で、こんな状況で、聞きたくは無かった。

「お前には判らないだろうな!?平凡で平和なお前には!生まれた時からタグ付きで、監視されて、本当の自由なんか無かっ

た俺の気持ちは!」

 黒兎の腕に力が篭る。その瞳は憎悪と怒りに燃えていた。

「悪魔付きだってな!親まで俺をそんな目でみやがって…!教会に救われようって聖歌隊にまで入れて!それでも結局何一つ

変わりやしないんだよ!それで行き着く先は軍隊だ!そうなるようにレールが敷かれて…、俺の意思なんか関係なく!」

「フ、フランツ…!何を言って…るの…!?」

「言ったろ?お前には判らないってな。そう…、お前には…!「何も無い」お前には!」

「止めてください、フランツさん…!」

 ミオは決断できないまま説得を試みる。

「コンラッドさんを人質に取ったって、逃げ切れる物じゃありませんよ?いざとなったら…」

「できないんだろう?少尉さん」

 アメリカンショートヘアーの言葉を、黒兎が遮った。

「いざとなったらラドを切り捨てる…。本当にそんな事ができるなら、じっと見てないで警告一回、次いで発砲、とっくに動

いてるはずだろ?」

 否定できない、反論できない、言葉に詰まったミオの表情が、フランツに自信を持たせる。

 決定的なところで非情になり切れない。自分の甘さがつくづく嫌になるが、それでも…。

(それでもきっと、ここでコンラッドさんを見捨てるのは…、正しくない…!)

 ここで切り捨てる決断ができない事がまずいのではない。この状況に陥らせた自分の判断力と、有無を言わさず奪還できな

い無力さこそがまずいのだ。

 そう自分に言い聞かせて、ミオはトンファーを握り締める。だが…。

「その甘さが、命取りだ」

 せせら笑うフランツが、耳を立て、口を大きく開けた。

 

―避けなさい、ナハトイェーガー―

 

 心に直接送り込まれた声に、ミオがハッとした次の瞬間、フランツとラドの前で床板と天井がヴァッと細かな破片に変わり、

飛び散る。

 その前兆もなく生じた破壊は、一瞬の内に範囲をミオの方へと広げた。

 長椅子が、燭台が、床板が、フランツの側から押し寄せた不可視の破壊に蹂躙され、木っ端微塵に砕け散ってゆく。

 これが、フランツ・フォン・ミュンハウゼンが生まれつき宿していた力。

 能力名は、ヴィーゲンリート。

 

 その直後、地下からの衝撃にズン…と揺さぶられ、教会全体が、ビリビリと震えた。倉庫一室の崩壊による余波で…。