ファルシャーネーベル(act18)
「さて…、どんな説明をしてくれるのかしら?」
灰色の髪を風になぶらせながら、ヘルは口の両端を笑みの形に吊り上げた。
その傍らには、両腰の得物…剣の柄に乗せる形で手を置いたヘイムダル。
霧が日差しにキラキラ輝き、眩しいほどの白が煙る日中。風雨で椅子もテーブルも傷んだカフェテラスの前、静かな風に看
板が揺れて、蝶番がキィキィと物寂しく軋む通りの一角。
ひとけの失せた町角は、無音無臭無色の緊張感に包まれていた。
香るのは、樹液と鉄錆の匂いが混じったような異臭…。霧の中に目を凝らせばそこかしこに、ヘイムダルが処理した、怪物
化した住民達の残骸が転がっている。
狐がいつでも剣を逆手で抜ける姿勢のまま、じっと視線を注いでいるのは、白い口髭を蓄え、ソンブレロを被り、丈の長い
外套をすっぽり羽織った人間の老人…。
フレスベルグ・アジテーター。
ヘルと同じく中枢の一角を占める、ラグナロク最高幹部のひとり。
しかしそんな相手を前にして、剣に手をかけているヘイムダルを、ヘルも、フレスベルグ自身も咎めない。
先ほどまで一緒に居たフランツの姿は、老人の傍には既に無く、この場に居るのは三名のみ。
ラグナロクの最高幹部同士が顔をあわせたこの状況は、共同で事に当たっている最中の出来事でもなければ、作戦行動の視
察の一環でもない。
これは、審問である。
今回ヘイムダルをここへ送り込んだヘルの目的は、フレスベルグの真意を確かめるためだった。
他メンバーへの表向きの説明とは異なる行動をとり、独断で事を進めていたその理由について、老人の返答如何によっては
一戦交える事も辞さない…。ヘルはその決断のもと、スルトの承諾を得たうえで内密に動いている。
ヘイムダルを単身で現地へ飛ばしたのは、本当にフレスベルグが予定と異なる行動を取り、ここに居た場合を想定しての事。
目立たないようにするためだけではなく、本当に悪い予想が当たっていたならば、並の兵士では対処できないからでもあった。
単純な肉弾戦においては、ヘイムダルの力は現ラグナロクエージェント中で三本指に入る。しかしそれでも、フレスベルグ
と交戦した場合勝ち目が無い。そんな相手なのだから、もしも本当に裏切っていたならば、いくら数を送り込んでも悪戯に犠
牲を増やすだけ…。
事前に狐へまともな説明ができなかったのは、取り越し苦労に終わる可能性も高かったため、変に事を荒立てずに済むなら
ば…、と内密に処理しようとしたせいである。
ヘル自身も、本来はヘイムダルから独断介入が認められたと報告を受けた時点で自ら赴くつもりだったが、念話途絶を受け
て即座に動いていた。予感が的中した場合、最悪、ヘイムダルを失う事になる。それを避けるための急行だった。
だが、ここに来てヘルは、少々想定と違う事になりそうだとも考えている。
フレスベルグは自らのエージェントである鯱に、ヘルとヘイムダルをここまで案内させただけで、そのまま現場へ戻した。
叛意があるならば手元に残し、対処しようとするのが自然である。
(叛意はない、という事かしらぁ?…ポーズだけとも考えられるけど…)
ヘルは感情の窺えない老人の顔を見つめながら口を開く。
「アルラウネ寄生体の兵器転用は、スルトの命で凍結された…。勿論知っているわよねぇ?」
「無論だ…」
枯れ木を乾いた風が撫でるような声が、フレスベルグの口から漏れる。
「お主らが寄生体の確保に失敗して以降、サンプルも入手できず、研究は遅々として進まなくなった…」
嫌味を含んだ物言いに、狐の眉がピクリと動く。
他でもない、首都でのマーナ・ガルム殺害命令実行中に、遭遇した貴重なサンプルを逃したのはヘイムダル自身だったのだ
から。
「そうねぇ、それは認めざるを得ないわぁ。入手できていれば貴重なデータが得られたでしょうから」
認めながら、しかしヘルは「でも…」と続ける。
「ガルムロストの件は、まさか失念していないわよねぇ?」
今度はフレスベルグの目尻がピクリと動く。
(ガルムロスト?何だそれは?)
念話で問うヘイムダルは、
(ハティ・ガルム…。知っているわね?)
(二番目のガルムにして最強のガルム、だな?)
ヘルの応答に、頭の中で頷いた。
名は知っている。北原に赴いてグレイブ隊を始末する際に、最重要抹殺対象として念を押された中のひとりである。
ヘイムダルは直接交戦していないが、同じくガルムシリーズのエインフェリアであり、エージェントでもあるウル・ガルム
の追撃を受けながら、これを戦闘不能に追い込んだ男と聞いている。
この結果を受けて「最強のガルム」と認識されたその男の足取りは、しかし追撃の甲斐なく北原でぷっつりと途絶えた。追
撃部隊の狙撃班全員の死体と、エインフェリアでも致死量となるだけの血痕と、リッターと思しき集団の足跡が残った地で。
狙撃班と半ば相打ちとなり、弱った所でリッターと遭遇し、仕留められ、死体は持ち去られた…。
ラグナロクはハティ・ガルムの最期についてそう判断している。
(で、ソイツがどう関係して来るんだ?ロストってのはソイツを捕まえられなかった件か?)
(いいえ。…まだ最強と目される前の話になるけれど、彼ら成功例に近い身体能力を持つ個体を素体にすれば、同じく成功例
が生まれるかもしれない…、そんな淡い期待から立ち上がったプロジェクトがあったのよねぇ。ガルム十号…つまり十番目の
ガルムにして最後のガルムは、ハティガルムの素体になったブライアン・ハーディーに身体形質が近い者を素体にして産み出
されたのよ)
(それ、成功してねーんだな?名前がねーって事は)
(そう…。何の能力も持たず、身体能力もエインフェリアとして下の下。図体だけの失敗作が出来上がったわぁ)
そうヘイムダルに説明しながらも、ヘルはフレスベルグとの問答を続けている。
目尻をピクリと動かしながらも、感情を込めない声で「無論だ」と応じたフレスベルグは、
「驚くべき成果…、そう評価できる側面も、あの事故にはあった」
目の奥にねっとりした暗い光を湛えて述べる。
(で、その十番目がどうした?事故?成果って何だ?)
念話で訊ねるヘイムダルに、そして肉声で対話するフレスベルグに、ヘルは応じる。
「確かに、成果といえる部分も多少はあったわねぇ。エージェントを三名失った、ガルム十号の暴走は…」
なるほど、とヘイムダルは納得する。内部の事故でフレスベルグ配下のエージェント三名が失われたという話は聞いている。
しかし実験内容自体が部外秘だったため、狐が知っていたのは、実験の事故という結果の一部だけだった。それで興味を持て
なかったので、ヘルに問うことも無かったのだが…。
(つまり、この町の怪物化病みてーな感じにパワーアップしたのか、その十番目は。で、あんな具合で我を失ったって事か?)
(その通りよぉ。そして、脱走されて、行方不明になった…。フォローのしようがない、忌むべき失敗…。その事件の名が「
ガルムロスト」)
部下に応じたヘルは、「しかし」とフレスベルグの目を見つめる。僅かな反応も見逃さないよう窺って。
「それを踏まえても、制御不可能と結論づけられて、計画は永久凍結されたわぁ。それにあえて触れた理由…、スルトの意思、
ひいてはラグナロクの総意に背いたわけを、聞かせて貰えるかしらぁ?」
これに対して、フレスベルグは即答する。
「勘違いがあるようだが、総意に背いてなどいない」
「あらぁ?」
わざとらしく、ヘルが首を傾げる。さてどんな言い訳をするつもりだ?と。
「永久凍結されたのは、アルラウネ寄生体由来の強化兵計画…。寄生体を戦力として使用する事を禁じたに過ぎない。いまワ
シが行なっているのは、範囲攻撃用兵器の実験。ワシが直接来なければならなかったのは、菌の繁殖環境がワシでなければ作
り出せなかったために過ぎん」
淀みなく応じるフレスベルグに対し、
(あらあら、そう来るわけねぇ…)
ヘルは胸の内で呟いた。
「感染症を引き起こすガス兵器のような物と解釈して構わん。適度な感染力を付加し、同志で殺しあうよう仕向ける。クロー
ン兵士などは発症に至らないよう調整も済んでいる。ワクチンの試作も効果が認められた。実験段階ですら高い実用性が確認
できている」
そう説明するフレスベルグだが、ヘルは考える。
(果たしてそれを、スルトは認めるのかしら…?)
フレスベルグは知らない。しかしヘルは知っている。
かつて自分達の盟主が、ラグナロクの前身となった組織に属して世界のために剣を握っていた頃、感染性の兵器に冒された
一般人達を、命令によって止む無く、その国土ごと灰燼に変えさせられた事を…。
「異議が無いわけではないけれど、有効性についての議論はここで話しても平行線でしょうねぇ…。中枢会議で是非を問う必
要があると感じるけれど、いかがかしらぁ?」
「無論だ。この実験が終了し次第、報告を上げて有効性について説明するつもりだった」
「信じましょう。けれど、偽りの報告を上げて中枢を欺き、独断で現地実験を行なった理由については…どうかしら?」
ヘルの声が僅かに低くなり、ヘイムダルは剣の握りを確かめる。
この返答次第では、ヘルはフレスベルグをこの場で排除するつもりだった。
確実に葬れるとは言えない。懐刀、ヘイムダルが脇に居てもなお。
それでも、中枢というポジションに居る者の反乱を見過ごすことはできない。最高幹部一角の謀反は、内部からの瓦解に繋
がってしまう。
「………」
短い沈黙の後、フレスベルグは白ひげに覆われた口元を蠢かせた。
「今の説明で察したと思ったが、説明が必要か…」
ピクリと、ヘルの眉が動いた。
「…なるほどねぇ。「有効性の議論」という事かしらぁ?」
「さよう。お主が述べた意見通り、アルラウネ由来というだけでアレルギー反応を示すのがラグナロクの現状だ。強化兵計画
とは違うと口で説明したところで、取りかかる前に反対されるのは目に見えている。金の果実がそこに実っているというのに、
手をこまねいているのは馬鹿馬鹿しい。これは独断ではあったが、背く意図によるものではない。全ては…」
フレスベルグの口元が、笑みを浮かべて髭の形状を変える。
「黄昏を、もたらすために…」
(それは、「禁の果実」にもなりえるのよねぇ…。ガルムロストはその教訓となったはずだけれど…)
胸の内で呟いたヘルは、しかし口では「わかったわぁ」と応じる。
「それも会議で是非を問いましょう。ただし…、何らかのペナルティは覚悟した方が良いわねぇ」
釘を刺すヘルに、
「無論。これは全体の利を求める行為。糾弾も覚悟の上だ」
フレスベルグは姿勢を崩さず、声音を変えず、静かに応じた。
(…良いのか?ヘル)
ヘイムダルは主に問う。
(コイツの言ってる事、信用できるのか?)
狐は感じている。この男の話は、静かに語るラグナロクの思想への恭順は、信用できないと…。
(さぁねぇ…)
ヘルは部下に応じる。
(とりあえず、「この場では収めておく」っていうだけの話よねぇ…)
自分もこの男の事はまるっきり信用していないと、ニュアンスにたっぷり含めながら。
運転席から見つめるデジタル表示が、中途半端に21分を示したその時。ジャイアントパンダは、
(時間だな…)
乗り込んでいた、紺色のマイバッハのエンジンに火を入れた。
馬のいななきを思わせるスリップ音に続いてタイヤが地を掴み、猛々しく排気音を轟かせ、教会裏手の民家から発進したマ
イバッハは、一見乱暴な、しかし巧みなハンドル捌きに従って路地を抜け、太い道路に入り、山道へのラインに乗る。
わざと吹かして騒々しいエンジン音を上げさせながら、イズンは独り、口を開く。
「済まないな。つき合わせて悪いが、主人の仇討ちをしてやる。勘弁してくれ…」
山道へ、町からの脱出路へと猛進するマイバッハは、当然すぐに、山林に潜んだラグナロク兵に察知された。
「この期に及んでまだ元気なヤツが居るな…。まぁ、楽に死ねるだけ、損とも言えないが」
双眼鏡を覗くグリスミルは、面倒臭そうな顔で呟いた。
傍らに立つ念話通信用のアメリカンショートヘアーから、車が山林に突っ込んでくるのを別働隊が確認したとの報告を受け
たハスキーは、自分達の持ち場からは位置が離れているので、麓側に展開した最前列の分隊二つに対し、適当に排除しろと命
令を下した。
双眼鏡の切り取られた視界の中、マイバッハが山道に入って木立に消える。
距離がある上に、排除用の部隊には優先的に使用するよう言い渡してある拳銃にもライフルにもサウンドサプレッサーを装
着させているため、発砲しても銃声は聞こえないが、車が木か何かに激突したのだろう凄まじい衝撃音を聞いて、グリスミル
は排除が終わったと判断する。
しかし…。
「…通信途絶。応答無し」
排除完了報告を述べるはずのクローン兵士が、無機質な声で告げるその内容を耳にして、グリスミルは一瞬反応し損ねた。
「…何だと?…どういう事だ?何が起きた!?」
「不明です。依然、交信不能」
感情を込めずに応じるアメリカンショートヘアーと、ほんの数秒前まで交信していた別働隊のクローン兵士は…。
光が失せた目が、開き切った瞳孔の上に木漏れ日を乗せる。
しかし、その兵士の体はうつ伏せになっている。天に向けられているのは、首から上だけだった。
(アイアンハート准尉と同タイプか…)
視界の端で、数秒前に首を捻り折った兵士を捉えながら、イズンはパンパンと肩や腰を叩き、コートに付着した土埃を落と
す。
少し離れたところには、太い木に正面衝突し、兵士をふたり轢き潰して停まったマイバッハ。運転席のドアだけが開いたそ
のボディには無数の弾痕が刻まれ、フロントガラスはひびに覆われて真っ白くなっている。
イズンは銃撃が始まる直前に車から飛び出し、そのままマイバッハを分隊に突っ込ませ、転がる勢いそのままに極端な前傾
でのダッシュに移り、猫の首をラリアット気味に捕らえつつ捩じり折り、次いでコートの裾を跳ね上げてレッグホルスターか
ら引き抜いた拳銃で二名を射殺。分隊一つを接触から5秒で殲滅していた。
ナハトイェーガー内でのコードネームは能力名に因んだ物となる事が多く、現在はミオと少佐を除く全員が、能力名そのま
まのコードネームを持つ。
イズンのコードネームは、能力名と同じくツァイトゲーバー。
「時を授ける者」を意味する二つ名を持ちながら、しかし今の彼女は相手に時を与えない。
(…生物ではないな、この一般兵は)
イズンは屠った兵士の死体を確かめ、そう判断した。
肌は黄土色。眼球は乾いている。精巧に人間男性の姿を模してはいるものの、それは生物ではない。
(内部構造…、骨格や神経まで完全に再現されているが、これは全て無機物で構成されている…)
直接触れて、その能力により内部構造まで把握したイズンの目の前で、兵士の体がその衣類ごと、ボロボロと崩れて土の山
になる。
(死体が消えるラグナロク兵の話は聞いた事があったが…、これがその正体。一種のゴーレム…土人形兵士というわけか…。
まさか銃器を扱わせられるほど精密で精巧な半自立型ゴーレムを作り出せるとは…)
何らかの現象で土の粒同士が引き合って、精密に人体を模しながらもフレキシブルな動作を可能としている。恐らく、動い
ている時に間近で耳を澄ませば、鳴り砂を踏んだような微かな軋みなどが聞こえるのだろうが、離れて見る分には生身の人間
と区別がつかない。
(何はともあれ、降伏勧告の類は一切無駄。交渉も不可能。何とも嫌な兵士だな…。どれ、ショットガンとライフルがあるな。
これは借りて行こう)
グリップがシルバー、本体がマットブラック、どこか持ち主にも似たツートーンになっている愛用のカスタムベレッタをホ
ルスターに落とし込み、イズンは兵士の死体から武器を調達する。
(もう少し派手に行きたいところだな。グレネードでも持っていれば助かったのだが…。准尉達はもう行動に移っている頃だ、
頑張って引っ掻き回さなければ)
現在のメンバー中、最も戦闘能力が高いのはイズン。
直接指揮を執れない、負傷者を癒せないなどのデメリットに目を瞑っても、彼女が自らを最も危険な場所へ配置したのは、
極々単純な理由からだった。
「…!」
ライフルを拾い上げたそこで、イズンは素早く身を翻す。
土を蹴ってザッと半回転したその傍らを銃弾が駆け抜けたその時には、イズンは脇に抱えたボルトアクションライフルを腰
溜めで発砲している。
回避からの、ろくに狙いを定めていないフィーリングショットは、しかし木陰から身を乗り出して発砲した兵士の顔、右の
目の下にヒットし、絶命させる。
続く三発の銃撃は、しかし黒い残像を貫通して飛び去る。
地面に残されたのは、ゴツくて大きなブーツの靴裏が残した陥没痕。
イズンの姿が掻き消えたかと思えば、樹木が数本、ドッ、ドッ、ドッ、と重い音を響かせて震えた。
敵を見失った土人形兵士は、その重々しい音に反応して上を向く。
そこに、影があった。
樹上から急降下してきたイズンと人形兵士の視線がかちあい、そしてずれる。
高速で前方向回転しながら落下してきたイズンは土人形の背後へ落ちつつ、その後頭部へ、先ほど拾ったショットガン…ス
パス12を向ける。
逆さまのイズンが片手で保持したスパスが地面と水平になり、その銃口が兵士の頭部にひたりと据えられた次の瞬間、ゼロ
距離射撃が敢行された。
兵士が12ゲージシェルで頭部を粉々に砕かれた次の瞬間には、黒い衣装を纏う巨体はさらに半回転、ズシンと腰を深く沈
めて屈むような格好で着地している。
僅か四秒の、鮮やか過ぎる反撃だった。
イズンはリミッターをカットして跳躍、樹上に消えたかと思えば幹を蹴って方向転換し、兵士達の頭上から強襲していた。
その体格と体重を鑑みれば信じ難い、目で追うのも難しいその動きはリミッターカットの賜物だが、それだけではない。
脚部、腕部、太腿、時には指のみと、イズンは部分的かつ瞬間的なリミッターカットが精密にコントロールできる上に、出
力オーバーによる肉体への負荷損傷は能力による治癒促進でカバー、その気になれば長時間の連続運用も可能という特性を持
つ。
彼女のそれは、もはやリミッターカットの常識的な域を越え、擬似オーバードライブとでも言うべき領域に達していた。
イズンの手が翻り、左手で保持していたライフルが投擲される。
上体の捻りと腕力だけで投擲されたライフルは、着地して一瞬動きが止まったイズンに狙いを定めようとしていた兵士の胸
に銃口から突き刺さり、そのまま貫通して背中へ抜け、木の幹に刺さってビィンと震えた。
その一瞬後には、前傾姿勢で踏み込んだイズンは足を振り抜き、拳大の石ころを蹴り飛ばしている。
石は兵士の手に命中し、土くれでできた指を破砕して、そこからマシンガンを跳ね飛ばす。そうして発砲を許さず、瞬時に
散弾の適正距離まで間合いを詰めたジャイアントパンダは、オートローダーでシェルを咥え込んだショットガンのトリガーを
絞る。
発砲音と同時に蜂の巣になった兵士はたちまち土くれに変わり、崩れ落ちる。その分解が終わる前に、イズンは右手で引き
抜いた拳銃を左へ、左手に握ったショットガンを右へ向け、腕を体の前で交差させて同時に発砲した。
反動を相殺する器用な撃ち方で、左右から銃を向けた兵士二名を屠り、分隊の二つ目の殲滅が完了する。
邂逅から、愛用のカスタムベレッタをホルスターに戻すまで、要した時間は僅か九秒。
指揮ができず、負傷者を癒せない。そんなデメリットに目を瞑ってイズンが前線に出た理由は、「これ」だった。
四名の中で彼女が最も高い戦闘能力を有しているからである。それも、他の三名を併せた以上の…。
(…ん?面白いものがあるな…)
イズンは最後に倒した兵士二名の残骸を交互に見遣る。
同士討ちを避けるために使わなかったのだろうが、片方は肩掛けベルト付きのウージーサブマシンガンを携帯していた。そ
してもう片方は…。
(信号弾発射装置…。渡りに船とはこの事だな)
ウージーを回収し、信号弾も効果的なひきつけに使わせて貰おうと、もう一方の残骸に歩み寄ろうとしたイズンは、
(…何だ?水?小川でもあるのか?)
微かな水音を耳にして動きを止めた。
地形を把握し損ねたか、と訝しんだジャイアントパンダは、しかしすぐに気付く。
(違う。小川の音ではない。接近してくる…?)
高い所から低い所へ流れる水の特性から、一瞬反射的に斜面上側を見遣ったイズンは、すぐさま違和感を覚えて振り向く。
水音は、あろう事か麓側から接近していた。
(これは…)
目を凝らすイズンが、木々の隙間に水のきらめきを確認したすぐ後には、その異常を引き起こしている者は、隠れるでもな
く堂々と姿を現した。
斜面を遡る、幅5メートルほどの水流の先端は大蛇のように鎌首をもたげた波頭になっていた。その上には氷の板が浮かび、
そのさらに上には軽装の巨漢の姿。
「グフフフフ…!」
まるでサーフボードのように波に乗る氷板に、足を軽く開いて立ち、腕組みしている鯱は、その能力でコントロールした水
流を減速させ、イズンから15メートルほど離れたところで止める。
まるで自在に操られる大蛇のように、物理法則に逆らって蛇のような形を保って流れ続け、従順に意思に従う水の上で、鯱
はズラリと並ぶ鋭い牙を見せて笑った。
「こいつァ上等…!民間人じゃァねェ、相等な手練だァ!なァおい!」
轟くような大声を発しながら、鯱は足場にしていた氷板から大きく跳躍し、イズンの10メートルほど前でズシンと地面を
踏み締める。
それが合図になったかのように、形を保っていた水流は鯱の後ろでバシャッと崩れ、地面へ染み込み跡形も無く消え、氷板
はドライアイスが気化するように白い靄を残して形を失う。
水溜りも残さず消え去った大量の水に、しかしイズンの注意は向かない。
(この顔…、姿…、…まさか…?)
イズンは少し目を大きくし、目の前の鯱の姿に、元カナダ軍人の面影を重ねる。
記憶にある、十年前の軍人の姿と鯱の容姿は、ピッタリ一致した。
(…間違いない…、カナダ海軍のラルゴ中佐…!)
元カナダ海軍所属、ラルゴ・オルケリウス中佐。通称「アドミラル」。
十年前、英国の「サー」に続き行方不明となった、ユニバーサルステージクラスの能力者…。
(MIA認定される前と変わらない姿…。それに、このザラついた感覚は…)
黙して思索を巡らせるイズンに、鯱ははだけて羽織ったベストの中央、自らの胸を親指で示し、グッと首を引く。背筋が伸
びると、筋肉の鎧を纏った鯱の巨躯がさらに威圧感を増した。
「グフフフフ!俺様は「ジョン・ドウ」!」
名乗りを受けて、イズンは「…なるほど」と目を細める。
これから死ぬのに名を知る必要は無い。あからさまに偽名と判る鯱の名乗りには、そんな意図が込められている。
「例え正式な識別名称だったとしても、なかなかセンスがおありですね。エインフェリアと引っ掛けての名乗り…という事で
しょう?ミスター・ジョン・ドウ」
イズンの指摘で、鯱は肩を震わせて低い含み笑いを漏らした。
「グフフフフ!こいつァ参ったなァ、次からはアラン・スミシーとでも名乗るか!ところで…」
鯱の目が鋭く光る。口元の凶悪な笑みはそのままに。
エインフェリアを知っている。その事だけで、「まっとうな軍人」などではあり得ないと判断できた。
「何処まで知ってやがるんだ、えェおい…?こいつァきちんと口を割らせねェと、大将がヘソ曲げちまうよなァ…」
(残念だ…)
胸の内で、イズンは呟く。
思い浮かべたのは十年以上前の事。気さくに、豪快に、いつでも気持ちよく笑っていた巨漢の士官は、訛りが酷くて説明も
上手くはなかったが、ためになる話を後進に聞かせ、訓練をしてくれた。
その、目が細くなり過ぎて、何処にあるのか判らなくなってしまうような笑みが、今は…、
(…つくづく、残念だ…)
似ても似つかない、交戦的な笑みに…。
しかしイズンは、竦む事も怯む事も、躊躇う事もない。
ユニバーサルステージ。
それは、もはや一戦闘単位に分類できなくなった能力者達を示す軍事用語。
そこにカテゴライズされる者は、戦術兵器と同等の個人。
例えば、日本国の「神将」。
例えば、英国の「サー」。
イズンの目の前に居るエインフェリアの素体となった男もまた、ユニバーサルステージクラスの能力者だった。
そして…。
「とりあえず、手足を痛め付けて大人しくさせて、ゆっくり訊くか。…そら、行くぜェ!」
鯱が叫ぶと同時に、イズンは横に跳んだ。
その足元から噴出した水が、瞬時に凍って氷の樹に変わる。
(先の水を地面に潜ませたのか。…量を鑑みれば、ここら一帯があちらの縄張りと見て良いだろう)
横っ跳びから地面を転がり、足を踏ん張って制動を掛け、運動エネルギーを無駄にせず上体を起こしたイズンの手が、マシ
ンガンのトリガーを絞る。
しかし鯱は、その巨体に見合わないスピードで木陰に回って銃撃を避けた。
続いて幹の反対側から姿を見せた鯱へ、マシンガンの連射が注がれたが、その銃弾全てが甲高い音と共に弾かれる。
鯱の右腕には氷の盾。機動隊などが持つ盾を大型にしたような形状で、全体が透き通っているので視界を妨げない。
しかし、ただの氷でマシンガンの連射を防ぐのは難しい。次々砕けていずれは穴があいてしまう。それなのに、鯱が持つ盾
は銃弾を弾き返し続けていた。
この盾を、イズンは知っている。
(やはり、氷Ⅴ…!)
冷やして凍らせるのではなく、圧力で固形化させた氷を、氷Ⅴと呼ぶ。
セラミックに匹敵する硬度を持つこの氷を、欠けた傍から大気中の水分を取り込んで修復する事で成り立つ、驚異的な耐久
性を持つ盾。その名は…。
(イージス!わたくしを阻むか…!)
下手をすると、素体の能力をそっくりそのまま持っている可能性がある。そう判断するイズンの視線の先で、銃弾は虚しく
弾かれ続ける。
「…!」
やがてカインッと、イズンの手の中でウージーが止まる。
「グフフフフ!弾切れかァ!」
距離5メートルまで詰め寄っていた鯱は、左腕を大きく引き、右手で支えた盾を内側から殴りつけた。
叩かれた盾は主の意思に従い、放射状に八本のひびを生み、均等に分断。そのまま鯱の拳に弾かれて、一片15キロを越え
る尖った氷刃となりイズンを襲う。
しかしイズンは避けようとしない。マシンガンとショットガンを放り捨て、しっかりと足を踏ん張り、空になった両手を肩
の高さに上げて構えた。
上体はボクサーのそれにも似たファイティングポーズだが、下半身は腰を落として安定させ、しっかり踏ん張ったベタ足。
どの格闘技にも似ているようで似ていない、奇妙な構えである。
(パルス中継ポイント増設。接続確認…)
迫る氷片を凝視しながら、イズンは脳内、脊髄、そして四肢に、微弱な生体電流からなる「電気溜まり」を形成する。
(受容体キャンセラー、オン。痛覚緩和完了。自己修復促進開始…)
反応速度及び視力の物理的増強などをはじめとする肉体操作はさらに続き、攻撃到達までの刹那で全ての工程を終えたイズ
ンは、肩の高さに上げた手を握りこみ、グローブを軋ませて拳を作る。
「おおおおっ…!」
一時的に肉体を増強したイズンの拳が、上体を捻って大きく引かれ、打ち出された。
「ららららららららぁっ!」
右の拳に続いて左、そしてまた右、殴った反動を利用して拳を引く反復運動で、左右の鉄拳が飛来した氷を正確に捉え、叩
き返す。高速飛翔する15キロもの氷を、その質量すら物ともせず。
イズンが手にはめている黒い手袋は、ナハトイェーガーで正式採用となった装備の一つ。
このグローブには手の甲をはじめとして数か所に金属粉が充填されており、金属棒を受け止めても負傷せず、ぎしりと握り
込めば圧迫された金属粉が密度を高めて硬化、鉄を仕込んだ打撃用グローブと化す。
禁圧解除で砲弾のような速度を見せるイズンが、このグローブをはめた拳で殴ればどうなるかは、実に判り易い。なまくら
とはいえ、金属の塊である模造剣でフランツに切り付けられても弾いて見せる、アドルフのフェンスターラーデン…。それを
容易く突き破るのがイズンの拳骨である。
ほぼ同時に襲い掛かった全ての氷を、目にも留まらぬ速度で正確に、一つ残らず殴り返すジャイアントパンダ。しかし、そ
れはただの防御ではなかった。
「む!?」
イズンが殴り返した氷片は、正確に鯱を襲っている。
「グフフッ!やるなァッ!」
鯱が地面をずしんと踏むなり、水柱が吹き上がる。
打ち返された氷片は鯱に到達する事なく、水流によって軌道を上方へ逸らされて飛び去った。
が、その水柱に黒い影が映る。
見る間に濃くなったその影は、ゾバッと水柱を突き破ってジャイアントパンダに姿を変え、鯱に肉薄した。
「らぁっ!」
氷片を打ち返したイズンは、水柱による防御を逆手に取って一気に間合いを詰めていた。
水滴を弾き散らし、宙に1メートルほど浮いているイズンが、その左拳を鯱の脳天へ振り下ろす。
「ふん!」
これを鯱は分厚い右の手の平で受け止める。が、そこへイズンの右足が、横から蹴り込まれた。
「おっとォ!」
鯱はこれを、左腕を上げてガードしたが、しかし…。
「あん?」
鼻面に突きつけられたカスタムベレッタの銃口を、寄り目になって見つめる鯱。
「ボン・ヴィアッジョ…(良き旅を)」
呟きと共に、蹴りを止められた右脚のホルスターから銃を引き抜いていたイズンが、両手を塞がれている相手の顔面を狙い、
引き金を絞る。
銃声。そして甲高い破砕音。
チュインとキィンが交じり合ったその音に次いで、イズンが双眸を鋭くする。
対象の眼前には、親指の爪ほどの氷粒。それが砕けながらも銃弾の軌道を変えており、鯱は無傷。
「面白ェ!」
叫んだ鯱が左腕をグリッと回し、イズンの脚を掴んだ。その背が、肩が、腕が、ボゴッと筋肉で膨れ上がる。
成人男性ふたり分以上もあるイズンの体が、軽々と持ち上げられ、そして地面へ振り下ろされる。
まるでオモチャを振り回すように、鯱の剛腕によって首の後ろから地面へ叩き付けられる格好になったイズンは、しかし咄
嗟に頭部を両腕で覆い、ガードしていた。
砕けた地面が吹き上げる土くれの合間、覗くそのその目はまだ光を失っていない。
「らぁっ!」
掴まれていないイズンの左足が、そのブーツの爪先を鯱の手…手首と繋がる親指の延長線にある大菱形骨に叩き込んだ。
親指側へ、そして前腕外側を肘の方へと走る衝撃に、他の四指も引っ張られる格好で鯱の手が開く。
その隙を逃さず、イズンはその肥った体付きからは意外な柔軟性を見せ、頭をガードしたまま枯葉と土にめり込んでいる腕
を支点に体を丸め、後転する格好で体を入れ替えた。そのまま左手を突っ張って素早く起き上がり、再びファイティングポー
ズを取る。
ミートポイントを巧みに選別した一発で痺れが抜けきらない手をプラプラさせた鯱は、きょとんとした顔でイズンを見つめ
ていた。が…。
「グフ…!」
その顔が、見る間に凶悪な笑みに染まる。
「グフフフフッ!やるなァ!またちょ~っと楽しくなって来たぜェ!」
短い距離を置いて向き合う、黒と白、ツートーンの二頭。
ユニバーサルステージ。
それは、もはや一戦闘単位に分類できなくなった能力者達を示す軍事用語。
そこにカテゴライズされる者は、戦術兵器と同等の個人。
例えば、日本国の「神将」。
例えば、英国の「サー」。
そして…。
(どちらかと言えば少佐向きの相手だが、この状況では仕方がない…)
イズンもまた、そこにカテゴライズされる存在である。