ファルシャーネーベル(act19)

(何が起きている?えぇい、もうじき掃討開始時間だというのに…)

 グリスミルは歯噛みしながら、新たな情報が入るのを待っていた。

 分隊が音信不通となった直後、近い位置にいた鯱が確認に出向くという報せを受けたが、その後は何も言って来ない。

 確認に行くには距離があり、予め告げられていた命令もあるので、今は持ち場を離れられない。

 もしやあの鯱がやられたのか、と、手柄を立てる好機の到来に期待する反面、もしそうでなかったなら、勝手に確認に出向

いて作戦を遅滞させた責任を問われる。

(死ぬならば判り易く死んでくれると助かるのだが…)

 仲間意識が皆無のハスキーは、そんな事を考えている。

(えぇい、作戦開始まであと五分…!しかし…!)

 迷うハスキー。

 手柄の好機に意識を奪われたグリスミルは、実はこの時点で詰んでいた。より正確に言うならば、ハスキーの指揮下となっ

た包囲部隊全てが詰んでいる。

 普段であれば、嫌々ながらも鯱から話が通り、ハスキーは適切な対処に従事できていた。しかし…。

(偵察部隊を出して確認する時間を省略すれば、余裕ができる…。引きこもっている連中に何ができる訳でもなし、こちらの

動きを察知できるはずもない…。確認せず突入しても問題ない…!)

 任せて良いだろうという鯱の判断が、信用が、誤っていた。

 これにより、包囲部隊に綻びが生じる。

「通達。部隊全ては突入準備、その後命令あるまで待機。監視を続行」

 ハスキーの命令を復唱し、速やかに伝達するクローン兵士。

「これより不確定因子の確認に向かう。来い」

「了解いたしました」

 アメリカンショートヘアーは命令に対して異を唱える事がない。持ち場を離れるハスキーに一言添える事もない。もっとも、

言った所で聞きはしないのがグリスミルなのだが。

 こうして、事態はイズンが現場指揮から離れながらも、彼女が望んだ方向へと転がり始めた。





「ミオ、大丈夫か…?」

 小声で囁きかけるギュンターに、ミオが顎を引く。

 しかし、その表情は硬い。

 先頭を歩むミオの後ろには十名の避難民。

 その全てがノンオブザーブの領域下にあり、能力範囲外からは姿が見えない。

 これは、ミオが制御できるギリギリの範囲だった。屈折させるのは光だけ。音まで誤魔化す余裕はないため、怪物化した住

民には察知されてしまう。

 陽光に煌く霧の中を、しずしずと、声も足音も立てないように進むその一団は、教会から森際の体育館へと移動している最

中だった。



「おら!来やがれクソが!ドンドン来い!」

 声を上げるアドルフの両手で、拳銃が交互に火を噴いた。

 警察署から出た大型バスには、立て篭もっていた全員が乗り込んで、教会へ向かっている。

 アドルフは運転席のすぐ後ろの窓から身を乗り出し、寄ってくる怪物化した住民達を打ち倒していた。

 その銃弾が命中する度に、怪物の体が後ろ側で大きく爆ぜ割れる。頭に当たれば後頭部に、胸に当たれば背中に、ぽっかり

と、抉られたような大穴があく。内容物を撒き散らして、内側から爆発したように…。

 狼が放った銃弾は、一瞬にも満たない極めて短い間ではあるが、その能力を帯びてコントロール下にある。しかし短時間と

は言っても問題はない。射出から着弾の刹那に満たない時間よりは長いので。

 能力でコーティングされた弾頭は、命中するなり前方へとエネルギーを放出し、瞬間的に熱を帯びた力場を形成、対象を内

部から爆砕する。

 これは、原理はともかくとして、あまりにも非人道的とされて製造禁止となった弾丸、ダムダム弾に極めて近い性質と言え

る。

 しかもアドルフは銃も弾丸も選ばない。ライフルでも、ショットガンでも、端的に言えば投げナイフやアーチェリーでも同

じ事が可能。
そしてこの攻撃は、エナジーコートでのガードにすら相殺効果があり、力量が近ければ力場を貫通して弾丸を中

に送り込める。

 他の警官達も発砲して怪物を撃ち倒し、その音でまた別の怪物を引き付けているが、誰よりも多く屠っているのはアドルフ

である。

「来いよ!オラ来い!きやがれクソったれ!」

 声を上げて挑発し、怪物達を屠るアドルフを、相手は元住民なのだぞ、と苦々しい顔で数名の警官が睨んだが…。

(…ん?)

 狼の横顔を見て、戸惑ってしまった。

「おら来い!来い来い来い!クソクソクソクソクソ!」

 牙を向き出し、マズルの上に深い皺を無数に寄せ、耳を少し後ろ側に向けて立てたその顔は…、憤怒の表情だった。

「クソクソクソクソクソ!くそったれ!」

 狼は、激怒している。

 少年の頭部を粉々にする。

 老人の首を穿って頭部を跳ばす。

 身ごもった女性の胸に風穴をあける。

 銃を撃つ度、その音が胸に飛び込んでくる。

 

―コロシテ…、アドルフ…。オネガイ…―

 

 ギシリと牙を噛み締めた口は、しかしすぐさま開いて悪態を喚き散らす。

「クソクソクソッ!クソったれがぁあああああ!!!」

 いつもそうだった。

 いつでもそうだった。

 銃声に、金属音に、戦いの唄に、消えない囁きが混じる。

 

―…コロシテ…、オネガイ…。トモダチナラ…、コロシテ…―

 

「クソ…!クソ…!クソッ!チクショウ!!!」

 囁きに呼び起こされる悲哀を憤怒に変えて、アドルフは吼え続ける。

「あ!」

 バスの後方から声が上がったが、アドルフは見向きもしない。

 後ろから、窓を突き破らんと飛び掛った中年の怪物は、しかし、ガン、と音を立てて窓に弾かれた。

 驚く警官と避難民達は、窓がうっすらと山吹色の光を帯び、外側の怪物が接触した面にパチパチと火花のような物が散って

いるのを目にしたが、その現象は一瞬で収まった。

 バスは、車体を通じて送られたアドルフのフェンスターラーデンで護られている。

 さすがに車体全てを強い力場ですっぽりとガードするのは無理だが、接触があった箇所の力場を瞬間的に強化する事で、全

方向からの攻撃に対処できる。

 しかもその防御反応は、アドルフが頭で考えなくとも発生する代物だった。

 アドルフのフェンスターラーデンは、常に、例え眠っている時でさえ、被毛の下で微弱に展開され続けている。それがセン

サーのような役割も果たしており、衝撃などを受けた際にはほぼ自動反応でその部分の強度が高まる。まるで、炸薬を仕込ん

だ反応装甲のように。

 暗殺不能のガードマン。それが、アドルフ・ヴァイトリングである。

「おらぁ!どんどん来いクソがぁっ!」





 通信を受け持つクローン兵士を引き連れ、坂を駆け登っていたハスキーは、ドン、という重々しい地響きで足を止めた。

 行く手で吹き上がったのは、高さ20メートルにも達する水柱。

(あれは…!)

 水柱の上には押し上げられた大柄な鯱。それを追うように木の間を跳ね回り、大きく跳躍して肉薄したのは、これまた大柄

なジャイアントパンダ。

(戦闘続行中だったのか?…まずい!)

 鯱の行動が把握できなくなってから、もしかしたら何者かに倒されたかもしれない…、そしてその何者かを倒せば手柄にな

る…、そんな意識に囚われていたグリスミルは、予想外の展開で自分の失策に気付いた。

 鯱は交戦中。これは相手を引き付けていると言えなくもない。こうなると指揮権を預けられたグリスミルが滞りなく計画を

実行しなければならないのだが…。

 鯱が敗北していたならば持ち場を離れた言い訳もつくが、これでは状況を見誤っての命令違反である。

 水柱の上に陣取り、追って来たイズンの蹴りを氷の盾で受け止め、右手の五指を揃えて貫手の形にした鯱は、そこに氷の得

物を形成する。

 腕をすっぽり覆い、前方へ伸びるそれは、ドリル状に螺旋を刻んだランスである。が…。

(ん?)

 反撃に転じる前に、鯱は木立の隙間から見える人影…グリスミルに気がついた。

(アイツめ、こんなトコで何してやがんだァ?)

 これは作戦と大幅に異なる。

 不確定要素が生じた際に対処するのは、鯱をはじめとするエージェント三名。それだけで事が足りるとの判断でそのような

振り分けとなっていた。

 ところが、指揮を預けたハスキーがここに居るとなると…。

(まじィなァこりゃァ。本当ならもう偵察隊出してる時間だぜェ?)

 計画の遅延は、リッターやドイツ軍特殊部隊などとの接触を招く。

 いかに通信網を遮断したとはいえ、連絡がつかない事を訝っている外部の住民は存在する。既にそれは電話局、そしてプロ

バイダーなどへの苦情となり、現地の係員への確認が試みられ、音信不通となっている事が判明していた。

 いくら交通の便が悪い田舎町とはいえ、そろそろ様々な機関から人員が派遣されて現地確認に及ぶ頃である。そうでなくと

も、リッターなどが独自に異常を掴んでいる可能性もある。

 鯱は、今の状況が非常に芳しくない事を悟った。

(こりゃァ切り上げるしかねェなァ…)

 ランスでの突きを繰り出した鯱は、それをイズンがいなすのを確認し、シールドを彼我の間に入れた。そのまま盾を爆砕し、

距離を取ろうとしたのだが…。

「お?」

 シールドの脇からニュッと出た物を見て、目を丸くする。

 イズンが右手に握っていたのは、水柱で上昇する鯱を追う前に、一瞬の隙をついて拾っておいた信号弾射出装置…。

 堅く目を瞑ったイズンと、薄い氷幕で鳩尾を狙った信号弾を防いだ鯱の間で、閃光が弾けた。

 その白い闇の中で、イズンは素早く手を伸ばす。鯱の股間めがけて。

「ふぐっ!?」

 殴っても蹴っても堪えない頑丈な鯱に対し、スリットに貫手を付き込み、内臓へ直に損傷を与えようとしたジャイアントパ

ンダだったが、その揃えた指先がズボンを突き破るか否かの際どいタイミングで、腕が上からガスンと叩かれて狙いが外れた。

 直後、鯱のシールドとランスが圧縮を解かれて水に変じ、拡散。飛び散る水の水圧により、鯱とジャイアントパンダが離さ

れる。

 ド、ドンッ、と続けて地に降り立った両者は、間合いを保持して向き合っていた。

「グフフフフ!やるなァ!相等な強者と見たぜェ、青年ッ!」

「わたくしは女です」

 即座に訂正を求めたイズンは、

「そうだろうそうだろう!相等な強者と見たぜェ淑女ォッ!」

 と言い直した鯱が、「…女だったのか…」とつくづく意外そうに小声で零したのを聞き逃さなかった。

 そして、コイツどうやって殺してやろうか?と考えた。割とまじめに。

「とにかくだ、相手が一流以上の獲物なら名乗らねェ訳にャあいかねェなァ!鼻かっぽじってよく聞きやがれェ!」

「かっぽじるのは耳です」

 冷静に訂正するイズン。「そうだろうそうだろう!グフフフフ!」と、やや決まり悪そうな含み笑いを漏らす鯱。

「耳かっぽじってよく聞きやがれェ!俺様は…「シャチ」!」

 胸を張った鯱の名乗りに、イズンは眉根を寄せる。

「種族名をわざわざ言わなくとも、見れば判りますが…」

「グフフフフ!種名じゃねェ!これが名前だ、れっきとした個人名ッ!すなわちッ!」

 シャチと名乗った鯱は、大きく息を吸い込み…。

「犬で言うラッシーだァ!」

 そろそろ返事をするのにも疲れてきたイズンは、少し落ちかけていた両拳を胸の前まで上げ、腰を沈める。

(これは少々困ったな…)

 構え直して、イズンは胸の中で呟いた。

(このエインフェリアは予想以上に強い。…頭の方はやや残念な事になっているようだが、それでも間抜けではない…)

 イズンは思索を巡らせる。シャチの言動は半分以上が素のようだが、決して馬鹿ではない。会話しながらも周囲を窺い、位

置関係を把握し、僅かに立ち位置を変えている。

 シャチに交戦続行の意思がない事を、イズンは見抜いた。

(切り上げようとしている…。もしや、時間稼ぎ兼陽動だと気付いたのか?)

 思惑を全て看破されたわけではなかったが、肉体操作に集中していたせいで、近くに別のエインフェリアが接近していた事

にも、シャチがそれを見て方針を変えた事にも気付けなかったイズンは、最悪を見越して考える。

「グフフフフ!今回は引き下がってやるぜェ!邪魔はしねェ、さっさと町から出て行けェ!」

 シャチが山の尾根を指差して促すが、イズンは「生憎と…」と肩を竦める。

「そちらの都合にお付き合いする理由はありませんので…。旗色が怪しくなってきた事には同情いたしますが」

 陽動がばれた訳ではないと、イズンは確信する。

 同時にシャチも、イズンが実験場にたまたま居合わせた脱出者ではないと確信する。

「グフフフフッ!切れモンだなァ、淑女ォッ!ますます気に入ったァ!」

 笑いながらも、シャチは足を軽く上げ、ズシンと踏み下ろした。

 腕を交差させて防御体勢を取ったイズンは、そこらじゅうに走った地割れから吹き出す大量の水で、シャチの姿を見失う。

 それだけで、充分だった。

 目くらましに加えて地形が変わり、追撃に一拍要するそのタイミングで、シャチは氷のサーフボードを形成し、それに飛び

乗る。

 下部で氷が分解蒸発する事で浮力を得るボードは、木々の隙間を縫って斜面を高速で下る。

(…やられた…!)

 びしょ濡れになったイズンは歯を噛み締めた。

 瞬間最高速度でシャチを上回れるとはいえ、高速滑走し続けるあのボードに追いつくことはできない。加えて言うならば、

逃走に見せかけて不利な環境へ誘い込まれる事も懸念していたので、追撃を断念せざるを得なかった。

(だが…、作戦通りに事が進んでいれば、そろそろ最終フェイズ…。准尉達がヤツと接触する事はないだろう)

 ミオ達では勝ち目がない。そんな相手ではあるが、交戦は避けられるはずだと判断し、イズンは歩き出す。

(さて、包囲網をかき回し続けるか。シャチと名乗ったあの鯱が、見かねて戻って来たくなるほどに…)

 そして、ジャイアントパンダは町を見下ろし、眉根を寄せた。

(霧が…部分的に晴れている…?まさか、あの胞子を含んだ霧は今の鯱の能力で…?)

 あれだけの力を持つシャチが、包囲網での迎撃に集中しない理由は一体何か?イズンは考える。

 胞子散布による広範囲攻撃は、恐らく霧などの環境と土壌の条件を満たさなければ、実現できないのではないか、と。鯱は

その能力で、生育環境コントロールを行なっていたのではないか、と。

(実用化に課題が多い事は、救いだな…)



「殲滅を開始しろ!ただちにだ!」

 駆けながら、グリスミルはクローン兵士経由で指示を飛ばした。

 いたずらに時を費やした。偵察で現状を確認させ、報告を受けてから動く猶予などない。自分が持ち場に戻るまで待たせる

余裕もない。

「十分後には到着、攻撃開始できます」

「遅い!五分でやらせろ!」

「加えて、警察署を出たバスが、教会に到着しているとの事です」

 アメリカンショートヘアーの報告に、グリスミルは薄く笑う。

「望むところ、一網打尽だ…!警察署に配していた部隊は!?」

「依然、待機中」

「えぇい!独自の判断で動くように命じておくべきだったか…!まぁいい、集結させるほどでもない!」

 しかし…。



 教会の窓を割り、兵士が二階廊下に侵入する。

 庭園の物置からも地下へ侵入し、正面口のバリケードを爆破し、一斉に。

 その後方では、目に付く怪物化した住民達の掃討も行なわれている。

 動体、赤外線、様々なものに反応する高性能複合センサーは、壁の向こうに居る者も見つけ出す。

 ノーブルロッソに存在する全ての動くものを排除する事…。それが彼らの任務だった。

 だが、兵士達は教会内で、たったのひとりも殺められなかった。

 残されていたのは、綺麗に清められ、まるで眠っているように安置室に横たえられた、神父の遺体だけ…。

 その顔は微笑んでいるかのように穏やかだった。



「居ないだと!?ひとりも!?馬鹿な、よく探せ!」

 もぬけの殻だったと報告を受け、グリスミルは叫び返す。

 これが、イズンの計略…いわば空城の計である。

 イズンが攻めに回り、包囲陣をかく乱。

 アドルフはもう一箇所の避難場所…警察署に回り、大型車輌に乗り込んでフェンスターラーデンで防御しながら移動させる。

 ミオがその能力を活かし、警察署から集めた分も合わせ、住民達を不可視にして教会から順次脱出させる。

 その移動の守りにはギュンターがつき、怪物に襲われた場合はこれを排除する。

 これは、癒し手であるイズンを攻めの戦力として活用する、住民を銃火に晒さない事が前提となる作戦だったが、結果はこ

の通り。察知されず、見事に教会を空にしてのけている。

 空っぽにした教会に爆薬を仕掛け、部隊にダメージを与える事も考えないでもなかったが、空っぽのままにしておけば隅々

まで探して時間を食うだろうと考えたので、あえてそのままにしていたが、この思惑にもグリスミルはまんまと乗せられてし

まっていた。

 持ち場に戻っている間も惜しみ、自ら教会へ確認に向かうハスキーは、嫌な汗をかいている。

 欲を出した結果、とんでもない失態を演じていた。

 だが、事態の激変はそれだけに留まらない。

「境界封鎖部隊より緊急。外部より敵軍の進行あり、攻撃を受けています」

「何だと!?」

 無機質な声で、猫は続ける。

「リッターと思われる、との事です」



「アーレスミーヤナッハ!(総員、ワシに続け)」

『ダッハ!ダッハ!ダッハ!!!』

 先陣を切る中年猪、ミューラー特務曹長に続き、武装した兵士達が山稜を越えて雪崩れ込む。

 飛び交う銃弾を恐れもせずに、銃とクラブを得物に、怒涛の勢いで。

 それに続くのは、剣と軽甲冑で武装した騎士達。手綱を捌く御者のように、突き進む兵士達の指揮を執りながら追い、打ち

漏らした兵を仕留めてゆく。

「速やかに排除せよ!繰り返す!この戦闘が目的ではない!我らの目的は住民の救助!それを忘れるな!」

 壮年の騎士が張り上げ声を、山の峰で聞きながら、赤い髪の美丈夫は町を見回した。

 あちこちで煙が上がっているのに、サイレンも鳴らず悲鳴も聞こえない、静かなるその惨状を…。

「………」

 瞑目して胸に手を当て、既に逝ってしまった犠牲者達に短く祈りを捧げたヴェルナーは、

「…ん?」

 ヘリのローター音を耳にして目を開け、空を見上げた。

 反対側から尾根を越えて現れたヘリは、濃い緑色の軍用機だが…。

「本人も、間に合わせて来るとは…!」

 それは、リッターよりも現場から遠かったはずの…。





「あー、あー、こちら「ドッペルゲンガー」。聞こえますかイズン少尉?ミオちゃん?あとついでにアドルフの小便たれ」

 ヘリを操縦しながら、目つきの悪い猫が、ヘルメットから伸びるマイクに声を吹き込む。

 イズンの名までは普通に、ミオの名は猫撫で声で、アドルフの名は投げやりな感じにと、器用に発声を使い分け、ガラガラ

声で。

 名はブルーノ・ハイドフェルド。階級は曹長。むっくりずんぐりした、丸っこいマヌルネコである。歳は二十代半ば程度に

見えるが、右目を跨いで縦一文字に刀傷が走っており、かなり人相が悪い。

 漆黒のコートを纏った下には、脂肪を厚く蓄えながらも筋肉が丸々と膨れ上がったゴツい体。身の丈は並だが、猪類顔負け

の骨太さである。

「ダメですか少尉?聞こえてねぇかミオちゃん?くたばってやがんのか小便垂れアドルフ?まぁそれでも構わねぇが」

 繰り返し呼びかけていたマヌルネコは、

『どうかね?』

 コントロールパネルにある機内無線から聞こえた太い声に、「応答無しだぜ少佐」と応じる。

『手元の計器でもジャミングが計測されている。通信は無理か』

「そのようで。だがまぁ、こっち見て気付いてるはず…っとぉ!?回避するぜ少佐!しっかり捕まってろよ!」

 操縦桿を大きく傾けるマヌルネコ。その制御を受けて旋回行動に移ったヘリの横を、ラグナロクの包囲部隊が放ったロケッ

トが通り過ぎる。

 間髪居れずに迫った二発目も、「なんとぉっ!」と声を上げながら操縦桿を倒し、片手でレバーを操作してローターの速度

を落として姿勢を変え、かなり斜めに傾いてやり過ごす。

 このヘリは、本来ならば働く安全装置や姿勢制御のオート機能まで、全て切れるようにしてある。この操縦者が機体を意の

ままに操る、その妨げにならないように…。

 三発目、四発目と、落下するかのような不安定な姿勢から、盛り返しては崩し、傾かせては立て直し、見事に回避したマヌ

ルネコに、

『お見事』

 通信機越しに太い声が賛辞を送った。

「どうって事ねぇよ!…よいしょっとぉ!」

 五発目を避けたところで、マヌルネコは気付く。持ち込んだジャマー計測器のシグナルが微弱に点滅している事に。

「少佐ぁ!ゴキブリの巣、見つけたぜ!」

『上出来だ』

 マヌルネコの敬語ではない、がさつな物言いを咎めもせず、太い声は応じる。

『とりあえず、数秒だけ機体を安定させてくれたまえ。護りは受け持つ』

「あん?」

『ここで良い。降りるとしよう』

 これは、地上三百メートルでの会話である。しかしその会話をおかしな物だとは全く考えず、マヌルネコは「気ぃつけて行

くんだぜ!」と、ハッチオープンのスイッチに触れた。

 このヘリはコックピットと後部が壁で区切られた軍用機で、広い後部格納庫には装甲車や小型戦車も積み込める。

「ま、積んでる品は戦車どころじゃねぇが…」

 楽しげに言ったマヌルネコは、機内モニターを見遣る。

 そこに映るのは、開いてゆくハッチと、その前に立って豊かな被毛と、漆黒のロングコートの裾をはためかせる、逆光の中

の黒い大きな影。

 そこへ、六発目のロケットが飛来した。

 直撃コースだったが、しかしそれはヘリに到達することなく、空中で透明な壁に激突したように、突然爆発した。

 爆炎すらも、ヘリと反対側にだけ撒き散らされ、滞空にはまったく干渉しない。

 ぴゅう、と口笛を吹く猫。

「お見事っ!」

『有り難う。君の操縦技術ほどではないがね』

 素直に漏らした感嘆の声に、太い声がしれっと応じる。

『では、行って来る。ブルーノ曹長は速やかに離脱し、回収に備えてくれたまえ』

「了解!」

 マヌルネコが応じるや否や、モニターの中の影はパラシュートも付けずに地上三百メートルの空中へとその巨躯を躍らせた。

「イズン少尉!ミオちゃん!ついでにアドルフのくそったれ!あとリッターの連中!「少佐を投下した」ぜ!」



 パン。

 そんな音が空中に響き、怪物達が一斉に空を見上げる。

 音は一度で終わらず、続けてパン、パン、と鳴り、さらに連続する。

 パン。パン。パン。パ、パ、パ、パ、パパパパパ…。

 大気の壁をノックする、衝撃波の音。

 幾重にも重なるその音を、喝采のように身に纏い、黒いロングコートを纏う巨漢が減速してゆく。

 そんな拍手をドン、という衝撃音が断ち切った。

 後に静けさをもたらしたその音は、重い何かが、山稜の一角へ降り立った音…。

 シャチを除くフレスベルグ配下のエージェントが二名、相次いで所在不明となったのは、この十分後の事だった。





(これで最後…。これで…!もう少しだけ、頑張れ…!)

 思念波を使い過ぎた副作用の、偏頭痛と眠気に抗いながら、ミオは歩く。

 その後ろには、最後まで教会に残っていたシェパードの警官や、ラドの姿もあった。

(遠くてよく見えなかったけど、ミサイルをかわしてたさっきの特殊ヘリ、応援だ!たぶんブルーノ曹長が来てくれたんだ!

山の方の複数の銃撃音は、きっと味方の部隊が…!)

 警察署から到着した住民達は、警官を分けて同行させる形で送り終えている。移った先での護りを確保するために、アドル

フは先に移動させてあった。

 親友の疲労が目に見えて濃いので、護りを固めるギュンターは気が気でないが、青年自身も疲弊している。

 ノンオブザーブでミオ近辺では姿が見えなくなるといっても、切り殺した怪物の死体を目立たせる訳にはいかない。霧や物

陰を利用して、残る死体を隠さなければいけないし、壁などに血痕を飛び散らせてもいけないのだから、神経も使うし隠蔽工

作も忙しい。

 おまけに、得た宝剣は武器として申し分ないものの、握っている者の思念波を吸い取るという、どんな意図で付加されたの

か不明な機能を有しているので、剣を振るっているだけで頭まで疲れてくる。

 しかし彼らの奮闘も、これでひとまず終わるはずだった。

 これが、イズンの立てた作戦。

 立て篭もっている場所は既に絞られている。突入されては護りきれないので、ミオの能力を活かして悟られないように移動

させ、これを回避する。

 警察署の方は交戦能力が多少はあるため、単身で向かったアドルフが、警官達と共にバスを利用し、怪物化した住民と交戦

しながら、監視の目を引いて教会へ移動。さらにここからミオによって姿を消し、先に避難させた住民達と同じようにつれて

行く。

 こうして看視者達からは、全てが教会に移ったと誤認させながら、その実教会を空っぽにする…。いわゆる空城の計である。

 まんまと空の教会に突入した部隊も、グリスミルも、住民達の行方を完全に見失っていた。

(見えた…!)

 ゆるくうねった登りの舗装路の先に体育館を目にし、ミオは安堵する。

 なんとか保った。これである程度の安全が確保される。

 最後まで気を抜かず、一歩一歩踏み締めて登る避難者達は、ついに全員が体育館へと到着した。

 崖と裏側の壁の間にある目立たない裏口を、念の為にドアが開いていないように見せかけて光を屈折させながら開け、人々

を中へ入れる。

(やったな…)

(うん…!)

 目で頷きあうミオとギュンター。

「んぐっ!」

 妙にくぐもった蛙の声が聞こえたのは、その瞬間だった。

「コンラッドさん?」

 どうかしましたか?と、振り向きながら訊ねようとしたミオは、その場で硬直した。

 少年と、遅れて振り向いた青年の目に映ったのは、口を塞がれているラドと、それを羽交い絞めにして、気付かれた事に舌

打ちをしている黒兎…。

「貴様…!」

 剣の柄に手を掛けるギュンター。ラドを後ろ向きに引き摺って距離を取るフランツ。ミオは…、

「ギュンター君待って!」

 黒兎の手が軍用ナイフをラドの首に当てている事に気がついた。

「…どうして、ここが判ったんですか…?」

 間合いと隙を慎重に窺うミオの問いに、

「発信機がな、あるんだよ」

 フランツは鼻を鳴らしてニタリと笑う。苛立ちを解消できる、暗い歓喜に彩られた顔で。

「コイツの腹の中に…」

 その言葉だけで、ラドは悟った。

 ワクチンだけではなかった。あの晩の情事の際に、あるいは酔わされて眠った後に、フランツが何か仕込んだのだろうと…。

 つかず離れず監視するのにはさぞ便利だっただろう。そんな事を考えながら、不快感を覚えて下っ腹を押さえるラド。

「さぁ、交換だ。コイツの命と宝剣を…な」

「…くっ…!」

 選択の余地はなかった。悔しげに顔を歪めながらも、ギュンターは剣の鞘に指をかけ、止め具を外す。

「もう、やめようよフランツ…!」

 それを見たラドが、止めさせようと口を開いた。

「この町をこんなにした連中に協力するの…!?おばさんも…!おばさんも犠牲になったんだよ!?それなのに…!」

「知ってるよ」

 フランツは口元に笑みを浮かべる。「せいせいしたぜ」と。

 ラドは目を見開いた。

 そうだった。フランツはワクチンを与えたラドを泳がせて監視していたのだ。

 だから、自宅を訪れたラドが、そこで自分の母だった者に襲われたところも見ていた。

「そこの軍人さんがな、殺したんだ。お前もそれに一枚噛んでたわけだよな?お前が行かなきゃ良かったんだから。なら、こ

れは正当な仕返しだろ?」

 もとより、説得など無理だった。

 吐き気を覚えるほどの怒りに震えながら、ギュンターは必死に自分を抑える。

「おっと、また偽物を掴まされたんじゃ堪らないからな…。赤毛、そこの猫の腕一本、その剣で切り落とせ」

「何だと!?」

 目を剥いたギュンターに、フランツはニタリと笑いかけた。

「イヤだって言うなら…」

「ひっ!」

 喉にチクリと痛みを感じ、思わず悲鳴を上げたラドの首…押し付けられたナイフの刃先に、赤い玉が浮く。

「ギュンター君…」

 目配せするミオ。綺麗に切り落とせばイズンに繋いで貰える。君ならそんな切り方ができる。と…。

 目で訴える親友に、意図を察しながらもギュンターは…。

「俺に…!そんな事をしろと…!?ディッケ・ハティに顔向けできない、そんな真似を…!?」

「お願い…」

 ギュンターの義理堅さは知っている。だからこそ申し訳ないと心底思う。

 見つめていてはやり辛いだろうと、ミオは顔を背けた。フランツは薄ら笑いを浮かべて、まだ迷っているギュンターの苦悩

に歪む顔を見つめている。

 そして、ラドは…。

「ねぇ、フランツ…」

「あ?」

「どうして、子供の頃…、僕をいろいろ助けてくれたのー…?」

「何だ急に?」

 良いところなのだから邪魔をするなと、面倒臭そうに応じるフランツに、ラドは懇願した。

「教えて、お願いだから…」

「…簡単な事だよ」

 黒兎は鼻を鳴らす。

「お前みたいなグズに優しくしてやっていれば、周りの評価も上がるだろ?」

 ああ。と、ラドは悟った。

 自分の親友のフランツは、もう居ないのだと。

(僕は…、本当に独りになっちゃったんだー…)

 脱力して腕が下がるラド。

 観念したのだと判断し、注意をミオとギュンターに戻すフランツ。

「俺が、俺の腕を切り落とす…。それでも剣が本物という証明にはなるな?」

 赤毛の騎士がフランツを睨み、「それじゃあ面白くないだろう?」と黒兎がせせら笑ったその瞬間…。

 タンッ…。

「…え…?」

 すぐ近くで響いた、乾いた破裂音に、フランツが目を丸くした。

 ドンと黒兎を突き飛ばしたヒキガエルは、よろめいた、「怪物になってしまった親友」へ、左手を添えた右手を向けていた。

 ギュンターに預けられた拳銃を握った、右手を…。

「ラド…」

 フランツは腹部に手を当て、それを顔の前に上げる。

「お前…」

 手の平は、べったりと血に塗れていた。

「う…、ううううっ…!い、痛ぇ…!痛…!」

 呻きながら腹を押さえ、体をくの字に折るフランツへ狙いを定め、ヒキガエルは両手でしっかり握った拳銃を体の正面…正

中線で保持し、少し腰を落として膝の力を適度に抜き、射撃の反動が背中と両肩へ均等に抜けるよう、手首から肩が水平にな

るようにする。

「ら、ラド…。お前、どうして、こんな…!」

 一発撃っただけで、反動を堪えるために有効な構えが感覚で判った。

「優しく、してやったのに…!してやっただろ…?なのに、お前…」

 それはいつか映画で観た銃撃の姿勢。フランツと一緒に、俳優の地味なアクションに不平を漏らしながら観た、リアルさを

追求し過ぎて、詳しくない者が観ても退屈な物になってしまった、スパイ映画の…。

「何で、こんな…、こんな酷い事…」

 血まみれの手を自分に向かって伸ばすフランツへ…、

「うわぁああああああああああああああーっ!!!」

 絶叫しながら、ラドは立て続けに発砲した。

 ガンッ、と右肩を押されたように半回転するフランツ。

 ドンッ、と腰を蹴られたように体を折るフランツ。

 バンッ、と膝が折れても反動で跳ねるフランツ。

 黒兎は銃声が鳴る度に激しく身を震わせ、回る。ぎこちないダンスを踊るように。

 赤い血飛沫が、真っ赤な霧のように周囲に舞い、地を染めた。



 カシ…、カシ…、と、金属が擦れ合う音が耳に触れる。

 弾切れになり、スライドが後退したままの銃を握ったラドは、まだ、トリガーを引き続けていた。

 その目から伝った滂沱の涙が、頬を濡らしている。

 横からスッと手が伸びて、ラドの手首にかかった。

「もう、いい…」

 赤髪の青年は、ラドの手を下ろさせる。

 ヒキガエルは歩み寄っていたギュンターを見て、それから下ろした銃を見て、それから…。

「…フラン…ツ…」

 血溜まりの中、仰向けに倒れてぴくりとも動かない黒兎に目を向け、小さく呟いた。

「う、うう…、ううううううううううう…」

 カタカタと、ラドの体が震え始める。

 見開いた目の中で瞳がブレて、今にも崩れそうなほど膝が笑っていて…、そんなヒキガエルを、

「…良いんだ。君は、不甲斐ない俺に代わって、やるべき事をやってくれた。それだけだ…」

 ギュンターは耳元にそう囁きながら、ギュッと、きつく抱きしめた。

「あうあ!うっ、ううあっ!う、うううお、おふっ…!うぁ!」

 ひとを撃った恐怖。喪失感と絶望。深い深い心の傷に震え、声を出すことすらままならないラドを、ギュンターはしっかり

抱きしめて、その背を撫でてやる。

 銃を持たせたのは自分。ひとを殺めた咎は、このヒキガエルにはない。

「済まない…!全ての責任は俺にある…」

 そんなギュンターとラドを、ミオは呆然と見つめていた。

(違う…)

 少年は、胸の中で呟く。

(ギュンター君のせいじゃない。コンラッドさんに人殺しをさせてしまったのは、ぼくの責任だ…)

 護り抜けたと思った。

 助けられたと思った。

(ぼくは…)

 それが、こんな幕引きをさせる結果となった…。

(ぼくは…、無力だ…!)

 ミオはその両手を、知らず知らず、きつくきつく、握りこんでいた。