ファルシャーネーベル(act20)
血臭が、風に乗って顔に吹き付けた。
嗚咽を漏らすラドをしっかり抱きしめ、ギュンターはその背を撫でる。
不器用で無骨な青年の手は、ぎこちないながらも優しかったが、悔恨に満ちて震えていた。
その様子を見つめながら、ミオは考える。
どうして自分は、こうも上手くやれないのだろうか、と…。
「中に入ろう…。ミオ、後片付けは俺がする。グーテンベルク君を頼む。休ませてやってくれ…」
ギュンターの静かな声に、そっと頷いたミオは、
―まだよ、ナハトイェーガー。その黒い悪意の元は、まだ断たれていない―
「え?」
遠くから響くような、少しくぐもった印象がある声を頭の中に聞いた。
見開いた目に映ったのは、ギュンターとラドの向こうで、微かに動くもの…。
「ギュン…!」
警告は、少しだけ遅かった。
胸を上下させ、息を吹き返したフランツの顔が、血で真っ赤に染まったその顔が、起こされて、ギュンターとラドに向く。
ミオの様子で背後の異常に気付いたギュンターは、ラドを庇って後ろに押しやり、フランツに向き直って両腕を広げ…。
バヂッと、地面が震えて体育館の壁が軋んだ。
見開かれたミオの目が、宙にバッと舞った赤い飛沫の光を受けて、染まる。
キーンと耳鳴りがなる中で、ゴトッ…と、ギュンターとラドが折り重なって倒れる音が、鼓膜に届く。
「ハッ…ハッ…、くそ…、やりやがったな、このグズ…!」
よろよろと身を起こしたフランツは、最初に撃たれた腹を押さえていた。
まともに受けたのは不意を突かれた銃撃だけ。残りの銃弾は衝撃波の層を作って威力を減殺したため、肉にめり込んではい
ても、内臓にも骨にも達していない。
フランツの体は、ラグナロクの技術で人工的な強化を施されているため、常人を越える耐久力を備えている。
士官養成学校の検査でも引っかからない、目立たない程度に抑えられた物だったため、ミオもギュンターも今まで気付けな
かったが、銃創からのおびただしい出血は既に勢いを失っていた。
身じろぎすらしないギュンターとラド。その体の下からジワリと赤い液体が広がる。
若き騎士の腰から飛んだ宝剣は、鞘から半分抜けた状態で傍に転がっていた。
「ハウル・ダスティーワーカーを越える俺に…!最強の能力者の俺に…!グズがこんな真似を…!」
激昂するフランツの頭部に、力が集中する。
口と両耳、三点から発する微細な震動波こそがフランツの能力。その三点から放射する波の位相をコントロ-ルし、重ね合
わせる事で、震動波は衝撃波の域にまで達する。
これは、ラグナロクと接触を持ち、似た系統の力を持つハスキーから使い方を学んだもの。 フランツを高揚させ、ひとと
しての一線を越えさせたもの。
熟練度はまだ低いが、全力で放てば石壁を打ち砕くそれを、生身で浴びれば…。
「消し飛べゴミども!」
ヴァ、と空気が唸り、震える。
ガガガッと激しい音を立てて足元のアスファルトが抉れ、切り裂かれたように横手の崖が崩れ…。
「…は?」
フランツは、間の抜けた声を漏らしていた。
ギュンターとラドは横たわったまま。何の影響も受けず、そのまま…。衝撃波は当たっていない。
「何だ?外した?俺が?」
困惑するフランツ。
こんな事は初めてだった。
破壊の波が標的から逸れていた。
ブーメランのような角度で屈折して、ギュンターとラドを避けるように…。
「外したわけじゃない。外させたんです」
低い呟きに、フランツがハッと視線を巡らせる。
そこには、黒いコートを衝撃の余波になびかせて、肩幅に脚を開き、背筋を伸ばし、斜に構えて立ち、フランツの方へ真っ
直ぐに手をかざした、アメリカンショートヘアーの少年…。
気圧され、悪寒を覚えて、身震いするフランツ。
「衝撃波を、屈折させた」
呟いた少年が、目の前に居るその猫が、別の何かに変わってしまったような違和感があった。
ゾワリと背筋の毛が逆立ち、弾かれたように町を見遣るイズン。
尾根から見下ろす町には、今のところ変化は無い。
(何だ、この悪寒は…?)
それは、戦慄だった。
イズンほどの豪の者でも戦慄を禁じ得ない何かが、町の中で発生している。
やがてジャイアントパンダは、景色がやや薄暗くなった事に気付いて顔を上げた。
(…?日食?いや…、そんな予定はないはず…)
陽光が勢いを弱めた空を、イズンは厳しい顔で見つめる…。
「まさか…!」
同じ空を、シャチも見上げていた。
「グフフ…!黒いなァ…。黒い匂いがするぜェ…」
ひどく危険な、禍々しく、凶暴で、冷酷な何かの気配を、巨漢は掴んでいる。
逞しい筋肉で張った肌がチリチリする。背中の中央がゾクゾクする。両胸の少し下がウズウズする。
「面白ェ、どこのどいつだァ…?」
ニィッと剥いた牙が光る。
「手ェかけやがったんだろ?深淵によォ…!」
「…お?少佐がやったのか?ジャマー弱まりやがった」
射程から逃れてヘリを回すマヌル猫…ブルーノ曹長は、ノイズ混じりの通信音声が届いてパチンと指を鳴らした。が…。
『…測の…態…発生した…。繰り返す…。退避したまえ…曹…。退避…、距離を充分以上…って…避…』
久しぶりに拾った音声は、警告だった。
「あん?少佐?何だって!?…何だってんだ…、ん?」
訊ねながらも、聞き取れた内容だけで判断し、マヌル猫はヘリを山の峰の外へと遠ざける。
「空が…暗くなりやがった…?」
異常な事が起きているのは、はっきり判った。
パラパラと、砕けたアスファルトの残骸が地面を転がる中、手を下ろしながらミオが呟く。
「最強の能力…?」
ゆっくりと、その脚が踏み出される。
そこに体重を預けて、脱力して項垂れるように上体を前傾させたミオは、ゆっくり、ゆっくりと、緩慢に顔を上げる。その
目に…、
「笑わせないで下さい…。貴方の力なんて、ドレッドノートの足元にも及ばない」
フランツは、射竦められた。
暗い、暗い、光のない目…。見つめると奈落の底を覗き込んでいるような感覚に囚われ、軽い眩暈すら覚える、漆黒の淵の
ような目…。
驚くほど、無かった。
そこには一片の容赦も、一片の慈悲も、ほんの僅かな熱すらもない。
どこまでも冷たく、どこまでも暗い瞳にフランツを映すミオ。その頭上…町の上空では陽光が勢いを弱めており、灰色の被
毛が黒ずんでいる。
しかし太陽は輝いたままで、曇ったわけでもなければ日食が起こったわけでもない。
それは、能力が制御下を逃れて暴れているせい。気象兵器レベルまで範囲が拡大したノンオブザーブが、ミオの脳細胞に悲
鳴を上げさせる。
気取られない、悟られない、判られない事が持ち味である能力が、今は遠目に見ても判別できる大規模な異常現象を引き起
こしている…。
オーバードライブ。
激情に駆られ、精神の均衡が限界を超えた今、ミオは戦士としての究極形に指をかけた。
ただし、不完全で極めて危険な、自分自身を燃焼し尽くしてしまいかねない暴走状態で…。
その変質は、言動一つ取ってもはっきりしている。
ミオらしからぬ威圧的な物言いと、冷た過ぎる声音に、無慈悲な眼光と無感動な表情。
その棒立ちは、フランツを取るに足りない相手と見て、警戒の必要を感じていない表れ。
オーバードライブの暴走は、意識を蝕む。
ミオの精神は内なる獣の侵食を受け、造り変えられようとしていた。
その造り変えが終わったとき、ミオ・アイアンハートという存在は完全に消滅し、名も無き獣となる…。
「もう、いい…」
ミオが呟く。無表情のまま、無感情に。
「ぼくは寛容じゃない」
トッ、と音がしたかと思えば、跳躍したミオはフランツの目前まで移動していた。
「あのひとのようには寛容になれない」
その小さな手が、兎の細い肩にかかる。
「だからぼくは諦めるんだ」
肩に掛けた手を支点に、ミオがフランツを逆立ちするように乗り越える。
「…説得を…」
その細い指が衣服を貫き、肩に喰い込み、食らいつくように捕らえ、ミオがフランツの背後へと移動するのと入れ替わりに、
黒兎が背負い投げされて吹き飛んだ。接近のスピードをまるまる渡されたように。
ミオのそれは、異様な動きだった。
跳躍に伴う放物線が極めて小さく、フランツめがけて水平に落下していくような、極めて低い軌道の跳躍になっていた。ま
るで垂直に立った壁面を蹴って跳んだかのように。
イズンのそれを上回る、ひとの域を超えるどころではない動き…。地を蹴るという動作で必ず生じるはずの力の逃げが、地
球上での運動法則が、今のミオには充分に働かない。
これはイズンもヴェルナーも、予想すらしていない事だった。
その名は、ノンオブザーブ(観察不能)。
全貌を知る者が、未だ存在しない能力…。
「うおおおおおっ!?」
投げ飛ばされたフランツは叫びを上げ、かろうじて体勢を整え、駐車場の壁面に受身を取る。
そこへ悠然とした足取りで歩み寄るのは、まるでそこだけ一足早く夜が訪れたように、屈折させられて衰えた陽光の元、灰
色の体躯を黒い影に染めた少年。
漆黒の、ベルセルク。
「くっ、このぉっ!」
オーバードライブを初めて目にしたフランツには、何が起こっているのか判っていない。
本能的な怯えから、焦りから、工夫もせず、しかし迷いのない全力の衝撃波を放つが、それはミオの手かざし一つで屈折さ
せられ、右に曲がり、さらに曲がり、そこからさらに曲がり…。
「べおっ!?」
苦鳴すら、半端にかき消された。
自分の能力をそのまま屈折させられて返され、亀裂が無数に入った駐車場の壁を突き破り、意識を刈り取られて吹き飛ぶフ
ランツ。
その眼前に、影が迫った。衝撃波で弾き飛ばされたフランツ以上のスピードで。
「シアアアアアアアアアアアアアッ!」
獣染みた威嚇音が、牙を剥いたミオの口から迸る。
影が落ちた顔では、細く絞られて縦の線となった二つの瞳孔が、虹彩の鈍い輝きの中に黒々と、鋭い亀裂のように浮かんで
いた。
―止めなさい、ナハトイェーガー―
頭に響く、遠い声。
しかし今のミオはそれを声だと、言語だと、理解できていない。
最初は腹。既に意識が無いフランツに拳がめり込み、吹き飛ぶ角度が変わって地面にぶつかる。
次に胸。地面にバウンドし、擦り付けられて減速したフランツは、追い越して着地したミオに待ち受けられ、胸部中央を靴
底で踏み締められ、停止させられる。
次いで耳。フランツの胸を踏みつけたまま、ミオは屈み、長いその両耳を掴んで、左右へ勢い良く広げた。
バヅンと、寒気がする音と共に、フランツの両耳が根元から引き千切られる。
―今の貴方では、まだ内なる獣に抗えない。喰らい尽くされてしまう…―
「シャアアアアアアアアオッ!」
千切り取った耳…能力の発信源たるフランツの武器を捨て、ミオは擦れるような声を上げながら足を上げ、勢いをつけてフ
ランツの胸を踏みつけ、上体がバウンドしたところで襟を掴み、振り向きつつ背負い投げの要領で放り捨てる。
その背で、腕の外側で、ミヂブヂィッと異様な音を立てながら、負荷に耐えられなかったミオの筋肉が立て続けに断裂する
が、当人は顔色一つ変えない。
細腕からは信じられないような腕力で投げられ、フランツは大きな放物線を描いて駐車場の中央まで飛び、地面に激しく激
突した。
それは、ミオ本来の戦い方とはかけ離れていた。
道具に頼らず、利用せず、溢れる力と衝動にただただ身を任せた、本能的で執拗な攻撃…。
投げ飛ばしたフランツが横たわったまま動かないそこへ、確実な止めを刺すために戻ろうとしたミオは、
「………!」
足を止め、目を見開いた。
フランツの姿が見えない。
その間に、ひとりの男が立っているせいで。
「…ア…!」
ミオの口がゆっくりと開閉し、呻き声を漏らす。
数歩進めば触れられる位置に、その男の背があった。
「ウ…ア…!」
純白の被毛に、真っ白な雪中迷彩の防寒装備。
広く逞しい背中と肩に、丸太のような力強い四肢。
北原の冷たい風になぶられるように、豊かな長毛がたなびいて…。
「ア…ウ…ウウゥッ…!」
その男のように、誇り高く生きたかった。
その男のように、悠然と堂々と歩みたかった。
その男のような、恐れを知らない戦士になりたかった。
「…う、うぐ…!」
瞳孔が広がって元に戻り、瞳に知性の光が灯る。
激しいめまいにふらつきながら、ミオは両手で頭を押さえた。
白い巨漢の幻は既に消えている。
見えたのは、無意識のガイドラインなのか、飲まれそうな意識が救いを求めたせいだったのか…。
「うう、うっ、ううううううっ!」
済んでのところで踏み止まり、頭を抱えて跪き、内なる獣の侵食に抵抗するミオ。
オーバードライブを強制終了させようとする少年。続行させようとする内なる獣。
そのせめぎ合いは…。
「あらあら」
涼やかな、女性の声で均衡を崩された。
記憶にある、忘れられない声。
衝撃で意識がはっきりして、激しい頭痛を堪え、顔を上げたミオの目に…、
「!!!」
倒れ伏したフランツの傍に立つ、灰色の髪の魔女が映り込んだ。
「その姿…、顔…、まるでウチで造られたクローンみたいねぇ?」
不思議そうに首を傾げたヘルの横へ、ツカツカと横合いから近付いていった狐は、「あ。あれか獅子王?」と、腰の愛剣の
柄を手で叩いた。
「確かにレリックだな。けど気になるモンじゃあねーな。思念波サポートか?それとも…。どっちにしろ欲しくねー」
ヘイムダルは状況を確認しようともせず、ギュンターの傍に落ちている宝剣を眺めながらそう言ったが、やがて主を一瞥し
て、その視線を追い…、
「あ。アイツ…」
ミオの姿を目に留めて、思い出したように口を開く。
「やっぱりクローン兵っぽいだろ?何なんだろうな?」
「う~ん…。あ」
ヘルはポンと手を打った。
「思い出したわぁ…」
目を細め、魔女は笑う。
困ったような、驚いているような、そんな顔で。
「誰だ?」
「やっぱりクローン兵士ねぇ」
「へぇ」
ヘイムダルの手が、獅子王とジルコンブレードにかかった。
「潰しておくか?」
「そうねぇ、どうしようかしら…」
頭痛と闘い、歯を食い縛って睨むミオを見つめ、短い間思案していたヘルは、
「…放っておきましょう。ここはフレスベルグの領分だものぉ」
ヘルは、M10という生産ナンバーを与えられていた、何の変哲も無いクローン兵士の事を覚えていた。
自分が利用した者だから。
自分が使い捨てた者だから。
自分が未来を断った者だから。
灰髪の魔女は、その手に掛けた者の事を、可能な限り覚えている。
「イエッサー」
剣の柄にかけていた手を外し、ヘイムダルは返事をする。
まるで、この場で殺さなくて良いことが嬉しいように、口元を軽く緩めて。
「行きましょうかぁ。…あぁ、その兎、拾ってもって行きましょうねぇ。まだかろうじて生きているみたいだし、フレスベル
グに返して恩を売るとしましょうかぁ」
「え?これもう半分死んでねーか?肋骨内臓に刺さりまくってるし、頭蓋骨割れてるし、脳みそ無事かどうかも怪しいぜ?」
「死んだらエインフェリアにするから、問題ないわぁ」
「なるほど盲点だった。俺もエインフェリアなのに」
「自覚が足りないのはどうかと思うわねぇ」
場違いに軽妙なやり取りを交わしながら、ヘイムダルはフランツを肩に担ぎ上げた。
そして一行は、ヘルが作り出した、空気を固めた球体に包まれ、浮上する。
それを、ミオは一歩も動けずに見上げた。
「待て…」
皆の、仇。
「待て…!」
あの日々を終わらせた、元凶。
「待っ…!」
伸ばした手の先で、その姿は小さくなり、空に紛れて…。
「~~~~~~!!!」
声にならない、喉から漏れた吐息のような音に続き、ガンッ、と、ミオの両拳が地面を叩く。
「…見逃された…」
跪いて地に伏し、屈辱と、不甲斐ない自分への怒りで肩を震わせる少年。
「見逃されたっ!」
食い縛った歯が擦れてギリリと鳴った。
「ぼくは、無力だ…!何も、何も、何も結果を残せない…!」
打ちひしがれるミオの耳に、
「う…ぐ…!」
微かな呻き声が届いた。
「…!?」
目を丸くするミオ。
のろのろと顔を上げた少年は、きょとんと、その光景を見つめる。
身を起こしたギュンターが頭を振り、額を押さえた。
その横ではラドが転がったまま、自分の体を抱くようにして身じろぎする。
「っつぅ…!おい、無事か?」
「い、痛いですけど、何とか~…」
「え…?え…!?」
混乱するミオ。
予想外に元気そうなふたりの傍らには、鞘から半分抜けた宝剣。
その鍔元の窪みには、ついさっきまで存在していなかった、赤い宝石がはまっているように見える。
しかしそれは実体ではない。吸収した思念波を蓄積する宝剣が、残量の目安として表示する一種のゲージである。
朱石泥棒は居ない。最初から。
この不思議な剣が薄気味悪くなった所有者が教会に持ち込んだのが事の起こり。
泥棒の伝説は、実在した昔の領主の話に結び付けて、後から作られたおとぎ話に過ぎなかった。
ホッとして、のろのろと立ち上がったミオは、空を見上げる。
能力の暴走による陽光屈折は既に消えて、ヘルが去った空は青い。
剣を拾い、少年の傍に寄ったギュンターは、「兎はどうした?追い払ったのか?」と訊ねながら鞘に収め…。
「ミオ?どうした?何かあったのか?」
泣きそうな顔で宙を睨むミオの顔に驚いた。
「あの日から、忘れた事なんて一度もなかった…!あの灰色の髪…!あの笑み…!アレは…!」
がっくりと頭を垂れ、地面を睨み、肩を震わせるミオ。
悔しすぎて、やりきれなかった。
気遣うギュンターの腰に吊るされた剣の柄に、色白の女性の顔が映り込む。
―アレは貴方の手におえる相手ではないわ―
レディスノウの声に、ミオは答えない。
伏せたその目を、伏せたその顔を、反射の中からじっと見つめると、レディスノウは仕方がないと言いたげに軽く肩を竦め、
目を閉じる。
―それでも抗うというのなら…。覚悟を決めなさい、ナハトイェーガー
ミオは黙って頷く。
無言ながらも、決意を込めてはっきりと。
「…抗うよ…。命だって、惜しくない…!」
ギュンターはそんな友人の横顔を見遣って、それから呟いた。
「忘れるな。ディッケ・ハティとお前は命の恩人、俺の目の前で俺より先に死なせるものか」
それは、ミオに向けられているようで、自分自身にも向けられている言葉だった。
気を失った自分が情けなく、腹立たしかった。ミオひとりにフランツと戦わせる事になったのは、恥辱の極みだった。
(二度と…!もう二度と…!こんな失態は演じるものか…!)
「おい!何があった!?」
銃声や衝撃音に気付き、体育館内を駆け回って外に出てきたシェパードの警官がドアから飛び出し、傷だらけのギュンター
とラドに視線を据える。
「おい!どうした!?怪我してるじゃないか!」
「何ぃっ!?ミオ無事かぁっ!!!」
叫びながら飛び出してきて、シェパードを押し退けるアドルフ。
(そうだ。無力だけれど、結果は出せる…!)
ミオはふらつきながら、ラドやシェパード、アドルフの方へ歩き出す。ギュンターと並んで、一歩一歩。
(何も出来ないなんて事は無い。無意味だなんて事は無い。皆を守り抜ける!できる事はあるんだ!)
―…?これは…。どういう事?―
ゴッ、と音がした。
―そんな馬鹿な…。味方諸共?―
大気を震わせる、飛行機の音にも似ていた。
―ナハトイェーガー!鎧戸で防御させなさい!―
悲しげな顔にまだ期待を残したミオが、視線を上げる。
体育館の屋根に、円柱状の何かが落ちて、突き刺さった。
(できる事は…ある…)
ミオの微笑が、炎で赤々と照らされる。
咄嗟に飛び出したアドルフがシェパードとヒキガエルを押し倒し、ギュンターがミオを抱えて前へ身を投げ出し、フェンス
ターラーデンがドーム状に展開された外で、ナパーム弾の炎が、体育館を内から破裂させ、周囲を蹂躙した。
「できる…事は…」
ギュンターに押し倒されて地面に伏せたミオが、顔を上げ、紅を瞳に映した。
「できる…、事は…!」
震える手が伸びた先には、見る影も無く爆砕された体育館と、紅蓮の炎。
「でき…、あ…、ああ…!」
そこにあった命は、残らず吹き消されてしまった。
あまりの出来事。信じられない惨状。一同は呆然と、その光景に見入るばかり…。
「あああああああああああああああああっ!どうしてぇえええええええええっ!!!」
ごうごうと、無情に燃え盛る炎の唸りに、少年の叫びが重なった。
「シュバルツです!長距離砲でナパーム弾の爆撃を敢行!」
悲鳴のような通信兵の声に、ヴェルナー及びリッター達が歯軋りする。
七発着弾したナパームは、町の2割を炎で覆った。
「即刻止めさせろ!」
「それが、部隊展開中と通告しているのですが、応答が…!」
ジャマーが部分的に除去されたとはいえ、完全ではない。
(ノイズ混じりの通信で判らなかったと言い張るつもりか…!)
「おい!味方が展開しとるんだぞ!聞いとるのか!?」
前線で、火の手が上がった教会を前に、通信兵からひったくった機器にがなりたてる猪。
しかし応答は無い。ノイズが混じった、しかし充分に通信が可能なその呼びかけに、応えが返る気配はない。
「貴様ら…!貴様らはっ…!何度繰り返せば気が済むのだ!?」
厳しい顔を憤怒に染めて、ミューラーは叫んだ。
「貴様らそれでもドイツ軍人か!!!」
「何と…いう事だ…」
炎柱が立ち昇る町を見下ろし、イズンは愕然とした。
よりによって体育館…自分が選定した場所が爆撃された。それも、味方であるはずの者達によって。
「えぇい!」
ジャイアントパンダは斜面を駆け下りる。
爆撃されるかもしれない、などとは考えもしない。自らの指示に従った者達が危機に瀕している中、呆然と眺める贅沢など
していられるはずもない。
「無事でいなさいミオ!ギュンター!死んだら殺すぞアドルフ!」
牙を剥き出しにし、野獣のような顔付きになって、イズンは駆ける。
本当の地獄となった、町に向かって。
初弾七発は、町役場、警察署、病院、教会、学校二箇所、そして体育館に落ちた。
そして、ヴァイスリッターからの通告を無視し、行なわれた二射目は、十発。
そこは本国の上。本来ならば空は護られた領域。そこから飛来する味方であるはずの存在が放った爆撃を防ぐ手段は、今の
白騎士達の手に用意されていない。
黒騎士が直接攻撃を通り越した、現地視察抜きの殲滅に出るとは、さすがに想定していなかった。
白騎士達の存在すら、攻撃を躊躇わせるブレーキにならなかったのである。
しかし、その町には今…。
ドン、と音が響く。
それは、第二波となったナパームの雨が、宙で阻まれた音。
飛来するナパーム弾は、まるで透明な壁にぶつかったように前部をひしゃげさせ、次々と爆発する。
行く手を阻まれた大二波が、ノーブルロッソの空を赤々と炎で染めた。
「少佐か…」
ヴェルナーは炎が舞い、そして消えた空を見上げると、キッと町へ視線を戻した。
「総員!交戦しつつ捜索救援続行!爆撃は今後、地上には一切到達しない!」
ここから先、飛来するナパームが何十何百になろうと、全て打ち落とされる。
そう判断して白騎士の長は命令を下した。
「お早いお帰りで」
山を一つ越えた、町から離れる山道の半ばで、シャチは主を迎える。
クローン兵士であるバーニーズマウンテンドッグが運転するワゴン車の後部で、窓を開けた老人はゆっくりと頷くと、短く
「撤収は?」と訊ねた。
「グリスミルの隊が移動中で、それ以外は完了。…ただ、どうやらデルロイとオクタビアがやられちまったみてェでねェ…。
状況、原因、どっちも不明だァ」
「構わん。お主以外は間に合わせの顔ぶれよ…。また補充すればいいだけの事…」
エージェントを失っても意に介さないフレスベルグ。
当人達には言っていないが、部下達が反目しあい、競い合ってエージェントの座を求めるように仕向けているのは、その主
のフレスベルグ・アジテーター本人である。
ただひとり、片腕として重用されているシャチは、
(報われねェなァ)
と、同僚達を哀れんで首を竦め、「ああ、そうそう」と思い出したように付け加えた。
「あの兎の若造、ズタボロになってるが、レディ・ヘルが届けてくれましたぜェ」
「そうか…」
本人から詳しく聞かねば確実な事は判らないが、フランツが内通者だったという事は、生き残った連中に知られていると見
て良いだろうと、フレスベルグは考える。
本来は軍内で出世し、それなりの立場になって情報を流してくれた方が良かった。
(炊きつけ過ぎて、勇み足に及んだか…)
母国に憎しみすら抱く将校候補生…。末永く利用できるはずだった内通者…。フレスベルグがフランツに見出していた価値
の大半は失われた。
(このうえ手負いとなっては、生かして面倒を見るのも無駄か…)
シャチに処分させ、捨てていこう。
そう判断したフレスベルグに、
「あ~…、大将」
シャチは頬をポリポリ掻きながら言う。
「鎮静剤、多めに打たせても構いませんかねェ?やっこさん、煩くて仕方がねェんだァ」
「煩い?」
「ああ。殺してやるだの、許さねェだの、意識ねェくせに血の気は多くてよォ」
「ほう…?」
フレスベルグの瞳が僅かに光った。
憎悪は、悔しさは、煽れば燃え上がる。もしかしたら利用する価値がまだ残っているかもしれない。
「…お主に任せる。好きにしろ」
「了解…!」
敬礼したシャチは、走り出した主の車を見送ると、ドスドスと救護ワゴンに歩み寄る。
「喜べよォ小僧。捨てられねェで済んだぜェ?んん?」
ずらりと並んだ鋭い牙を見せてニッと笑った。
その視線の先、簡易担架に固定され、クローン兵の猫に容態を確認されている、耳が無くなった黒兎は…。
「…ろ…してやる…。……絶対………殺し…て…やる…!」
うわ言のように、延々と繰り返していた。
「ま、生きてりゃァ良い事もある!グフフフフ!しがみ付けしがみ付け!」
面白がっているように言って、含み笑いを漏らしたシャチは…。
「…おっと!「生きてりゃァ良い事ある」なんて、エインフェリアの俺様が言っちまうのはどうなんだろうなァ?グフフ!」
リッターが拡声器や復旧させた放送設備で呼びかける声が、火の手が収まらないノーブルロッソに四方から響く。
その中を、疲れ切った足を引き摺って、一行はリッターが布陣する森を目指す。
先頭はアドルフ。次は暴走の副作用で満足に動けないミオと、彼に肩を貸すギュンター。その次はラド。最後尾をシェパー
ドの警官。
体育館に移った中で、生き残ったのはたったの五人。皆、言葉も無く黙々と歩む。
アドルフは、怒っていた。
ミオは、魂が抜けたような顔をしていた。
ギュンターは、沈痛な顔をしていた。
ラドは、顔を伏せていた。
シェパードは…。
「頑張った」
ぽつりと呟かれた警官の言葉に、誰も応えない。
「頑張ったよ…」
「頑張ったから何だよ?」
アドルフの返答は、苛立ちもあって挑発的だった。
「「精いっぱい頑張ったよね!」ってか!?「だから悪くないよね!」ってか!?逝った連中にもそれで納得しろってか!?
えぇオマワリさんよぉっ!」
八つ当たりだ。そう判っていたからこそ、思わず叫んでしまったアドルフは、すぐさま口をつぐんだ。
「…くそっ!くそがっ!クソクソクソクソッ!」
石ころを蹴飛ばす狼の背を見て、シェパードは言う。
「例えば狼のお兄ちゃん。あんたはそこの猫のお兄ちゃんに、「お前は頑張らなかった。だから皆死んだ」と、そう言えるの
かい?」
「言えるわけねぇだろうが!」
「だから、だよ」
アドルフの怒号を遮って、シェパードは言う。
行く手に迫った森の木々は、まるで何も無かったかのように、サワサワと風に揺れている。
「隣のヤツに、「お前は頑張った」って言ってやれ…。そして自分には、「次はもっと頑張れ」って言ってやれ…。取り返し
のつかない事ってのは、あるもんだよ…。取り返せない事なら、次に同じ失い方をしないようにするしかない…」
「…へっ…!」
鼻を鳴らしたアドルフだったが、悪態は出なかった。
「…そりゃあ、年寄りの説教…ってヤツなのかい?おっさん…」
「…いや…」
振り向いた狼に、シェパードは微笑みながら軽く首を振ると、
「こう見えて、まだ若いから年寄りの説教では断じてないっ!」
キリッと、急に真顔になって、強い口調でそう言った。
「…はっ…!」
口の端を上げて肩を竦めるアドルフ。
微妙な顔になるギュンター。
ほんの少し、空気が和らいだそこで、右手の茂みがガサリと動いた。
「…敵!?」
オーバードライブの反動でズタズタになり、まともに動けないミオを庇って抱えながら振り返るギュンター。
「ちっ!お盛んなこった!」と悪態をつきながら銃を抜くアドルフ。
緊張の面持ちでラドの傍の茂みに銃口を定めるシェパード。
草葉を押し分けてそこから現れたのは、怪物化した住民…。
「襲う相手なんか居なかったろうに、こんな所にまで!?」
宝剣に手をかけたギュンターは、「あ」というミオの、動揺した声に反応する。
驚いて固まっているラドに、その怪物は両手を広げて歩み寄る。
シェパードは、銃を向けていながらトリガーを引けなかった。
「と…っつぁん…!?」
それは、酔っ払い常習犯の…。顔見知りの…。
「おい!邪魔だ騎士さん!どけぇ!」
運悪く射線が塞がれていたアドルフが移動を終える前に、怪物は、ラドに掴みかかった。
ドザッと、倒れこむ音。
しぶく血が、風に舞う。
突き飛ばされ、尻餅をついたラドの眼前で、割って入ったシェパードは、怪物に首筋を噛み裂かれていた。
「お、おまわりさん!!!」
ミオが悲鳴を上げる。
動脈から断続的に吹き出す血で、相手の顔を染めながら、シェパードは笑おうとした。
笑おうとして、痛みに歪んで、寂しそうな哀しそうな、失敗した笑顔になった。
「だから…、そこらで酔いつぶれて寝ちゃ…ダメだって、何回も言ったろ…?とっつぁん…」
もう、アルコールの匂いはしない。
樹木臭が漂う初老の男を片腕でそっと抱き締めて、もう片手で拳銃を上げて、
「こいつが、最後のお勤めだ…」
シェパードは、気の良い酔っ払いだった男の後頭部に銃口を当てる。
どうせ助からない。
この一生懸命頑張っている連中に、致命傷を負った自分を殺すという、汚れ仕事を残したくない。
「長い休暇になるからな…、飲み歩き、付き合うよ…とっつぁん…」
ごぽごぽと血の音が混じる声で呟き、シェパードは、最後の最後に自分が救った相手…、知り合いの親父の、自慢の倅を見
遣る。
そして警官は、ウィンクした。
精一杯格好つけて、イカしたおまわりさんを演じて。
せめてそう振舞うのが、恐れを知らない頼もしい警察官を演じるのが、最期の仕事だと思えたから。
ガウン…。
重々しい銃声に続き、一発の銃弾で倒れたふたりの亡骸が、へたり込んで硬直しているラドの前に折り重なった。
「まだ…」
茫然とした顔でミオが呟く。その両頬にスッと、透明な筋が伝って顎まで伸びた。
「ぼくはまだ…!あなたの名前も…教えて貰ってないんですよ…!?」
銃を構えたまま、食い縛った牙をギリギリ鳴らすアドルフ。目を伏せて、剣を握った指が震えるほど力むギュンター。
顔をあわせてから、たった一日…。指の隙間からまた一つ、命は、すり抜けて行ってしまった。