ファルシャーネーベル(Finale)

「申し訳ございません少佐。全てわたくしの判断ミスによる物です」

 試作品のチョーカー型通信機を首から外し、口元に寄せて報告するイズンに、

『君の判断を咎めるつもりはない。私も大佐も。…最善を尽くした事を疑う余地もない』

 低く、太く、しかしよく通る声が応じる。

 そこは、リッターが麓近辺まで寄越した救護車輌の助手席。運転席には誰も居ないので、部隊内での話もしやすい。

 麓まで出向かせた救護車輌は結局、活用の機会が無かった。

 オーバードライブの暴走により、体中あちこちで筋繊維がズタズタになっているミオを休ませる程度にしか、出番がない。

 民間人の生き残りは、コンラッド・グーテンベルクただひとり…。これをドイツ対ラグナロクと考えるならば惨敗と言える

結果だった。しかも、裏切りによる惨敗である。

 そしてその裏切りも、フランツ個人の物だけを指していない。もっと規模の大きな裏切りがあった。

 黒騎士を味方と目し、まさかそこまではしないだろうというイズンの判断は、普通の軍隊であれば間違ってはいない。むし

ろ、黒騎士が現地視察も行なわず、ヴァイスリッターを巻き添えにする事も厭わない攻撃を、勧告もなしに決行した事で、前

提となっている信頼が裏切られた格好だった。

『今回の件については、黒騎士に対して大佐が正式に抗議を行なうとの事だ』

「了解いたしました。…それと…」

 イズンはちらりと、救護車輌の後部を見遣る。

 そこには、簡易寝台に腰掛け、抜け殻のように虚脱しているミオの姿…。

「…あの蛙君の様子は?」

『ギュンター騎士少尉が付き添っている。黒騎士は生き残りを全て引き渡すよう要求しているが、「確認中」という事で回答

を遅らせているのが現状だ』

「強制連行される恐れは?」

 黒騎士が住民全てを殺処分するつもりでいる事ははっきりしている。イズンが懸念しているのは、正規の手続きを経ずにラ

ドが連行され、殺害される事…。

 事故でも何でも理由は後からつけられる。抗議したところで奪われた物は戻らない。黒騎士側からすれば、とにかく生き残

りを全て殺処分できれば良いのだから、連れ去られた時点でアウトだった。

『警護は騎士二名、兵士五名、それと私だ』

 回答になっていないようで、なにより確かな答えだった。彼が傍に居るのなら、一個大隊を送り込んでも目標の拉致は不可

能なのだから。

 なによりリッターが、民間人でただひとりの生き残りとなったラドに対し、それだけの護衛をつけているという事実から、

司令官であるヴェルナーの意思ははっきり窺えた。

 どうあっても、引き渡すつもりはない、と。

 しかし、黒騎士がいつ諦めるか判らない。ラドに今後一生涯、護衛をつけて過ごさせる訳にも行かない。今一時保護下にお

いても、強行手段をいつまで牽制していられるかは判らない。

「…今後、どうなりますか?彼は」

 イズンは問う。ミオの様子を窺いながら。

 たったひとり生き残ったラドが殺される事になったなら、打ちひしがれている少年に対してどれだけ痛烈な追い打ちになる

か判った物ではない。

『大佐は、なかなかユニークな言い訳を考えているようだ』

 太い声が、策があるらしい事を窺わせる言葉を紡いだ。

『「コンラッド・グーテンベルクは、リッターが新設する特殊調査隊の候補者として以前より交渉を持っていた人物であり、

所属も内定していた。今回の件で生き残った事を鑑みればその優れた判断力、対応力、行動力の高さなどについては説明の必

要がないと思われる。正式な軍属とはなっていないが、準軍属としてヴァイスリッター内で治療及び健康診断、被害保証を行

なうので心配には及ばない」…と』

 それは要約すると、「ラドはヴァイスリッター所属内定者なので干渉不要」という事である。

「そんな言い訳が通るでしょうか?それに軍属にするとはいっても、本人はどう考えているのか…」

『あくまでも方便で、実際に軍属にして任務に就かせる訳ではない。実質は、ヴァイスリッターが後見人となって生活を保障

し、当たり障りの無い仕事に就かせる…。大佐はそうするつもりでおられる。黒騎士に話が通る確率の方は…これは大丈夫だ

ろう』

「はい?」

 むしろ懸念が強い方をあっさり「大丈夫」と言われて、イズンは眉根を寄せる。

『認めはしないだろうが、黒騎士側も似たような事をやっていたかもしれないのでね』

「似たような事?黒騎士が何を?」

『これは根拠の無い想像に過ぎないが…。黒騎士は、報告にあるフランツという士官候補生がラグナロクと内通していた事実

を、掴んでいたのではないだろうか』

「…待ってください。今なんと?」

『彼らは現地の確認もなしに、爆撃による町一帯の破壊を決断した。それもただの爆弾ではなく、ナパームによる熱処理とい

う手段を用いている。その結果からの推測に過ぎないが、ノーブルロッソが感染兵器で汚染されたという事実を掴んでいたと

すれば、納得が行く』

「…と、おっしゃられますと…」

 声が低くなったイズンの手の中で、チョーカー型通信機が軽く軋んだ。

 質問ではなく、気付いた事への確認として先を促したイズンに、

『「泳がせていた」のかもしれない』

 少佐は、予想した通りの忌まわしい答えを寄越した。

『件の仕官候補生がラグナロクの高位幹部と接触していると予想した上で、所在を確認し、仕留める為に、あえて好きにさせ

ておいたと考えれば、後始末が嫌に迅速だった事にも、妙に的確だった事にも、説明がつく。先回りしての盗聴器の設置など、

彼らにとっては朝飯前だ』

 舌打ちしたくなるのを堪え、イズンは意識して指の力を抜く。試作品のデリケートな通信機を壊してしまわないように。

「それにしても不可解ですね。国土防衛国内治安維持を原則とする黒騎士にしては、随分と…」

『そう。逸脱した行動だ。ラグナロクの排除に積極的過ぎる。国土防衛をおろそかにしてまで、な…。あるいは、白騎士不要

と、成果で示そうとしているのかもしれない』

「きな臭い話です。…ところで…」

 ジャイアントパンダの目が細くなり、声が潜められた。

「それを、「わたくしに」話してもよろしかったのですか?」

 どこか含みのあるイズンの問いに、しかし太い声は…。

『君だから話すのだ。「ファンタジスタ」』

 ユニバーサルステージとしての呼称で呼びかけられ、イズンは沈黙する。

『こういった内部摩擦も含め、君に対して隠し事をするつもりはない。それは、それが「君の本来の職務」に必要な事だと考

えているからでもあるが、私個人が君を信用しているからでもある。こうしてナハトイェーガーに配属させて貰ったのも、同

じ理由による物だ』

「…そのお言葉を、肝に銘じておきます」

 応じながら、イズンは微苦笑していた。

(つくづく、たらしだな…、この御仁は…)

 そう、心底感じながら。

「…ところで、遭遇したエインフェリアの件で、直接ご報告したい事が…。大佐のお耳にも入れておかなければならない、由

々しき事態です」

 イズンは声音を戻しながらも、声を潜めたまま話題を変え、太い声は『判った。改めて』と応じる。

「それと、アイアンハート准尉の事でも、御指示を仰ぎたい件が…」

 この言葉に対して、太い声は初めて、はっきりと判る熟考の沈黙を取った。

 やがて返ってきたのは、『判った』という短い、平静な声ではあったが…。

 少佐はおそらく察している。そう感じながらジャイアントパンダは通信を終えた。

(オーバードライブ…)

 イズンは表情の無いミオを窺う。

(そもそも、至った事も想定外だが、早過ぎる…。准尉はまだリミッターカットすら完全には扱えないというのに…)

 不安定過ぎる大きな力に、ミオが耐え切れるのか…。イズンにはそれが心配だった。

(この件に関しては、少佐じきじきの指導をお願いしなければならないな…)

 軽くため息をついたイズンは、窓の外を見遣り、

(…ん?)

 元住民の遺骸を収容している兵士やリッターが行き交う中、おそらくは子供の遺骸が入っているのだろう袋を担いで、林道

を登ってきたマヌルネコに気付く。

 ブルーノ・ハイドフェルド曹長もイズンに気付き、片目を閉じて合図する。

 ジャイアントパンダはもう一度ミオの様子を窺うと、助手席から降り、ドアそしっかり閉めた。

 イズンが車外に出て、独り残されても、ミオは動かなかった。

 ただ、ただ、茫然と、何処でもない場所を眺めている。

 茫洋とした目は、泣き腫らして充血していた。



「ミオちゃんは?」

 救護車両から距離を取ったイズンに、搬送車へ遺体を入れたマヌル猫が歩み寄る。

 白い車両、そしてその中に居る若き士官を気にしているブルーノに、イズンは軽く首を振った。

「責任を感じている。そして、無力さも…。今はかけるべき言葉が無い」

「何ですかい?かける言葉がねぇってのは?」

 不満げに目を吊り上げたブルーノに、イズンは「かけられないのだ…」と繰り返した。

「「よくやった」「頑張った」「これでいい」…そう言う事ができる結末だったなら、わたくしもどんなに楽だったか…」

「褒めりゃあいい!嘘でもよ!」

 不満を隠そうともしないブルーノは、しかしイズンの沈痛な表情を見て口をつぐんだ。

 冷静で無表情。鋼鉄の処女とあだ名されるほど、冷徹で大胆な女性士官は、珍しく顔に感情が現れていた。

 叱るより、褒める方が気は楽である。

 しかし褒めるという事は存外難しい。

 今回の件は、ミオに落ち度はないと慰める事もできるのだが、それで納得できない生真面目さがあの少年にはある。それは

美点であると同時に、短所にも成り得る。

 しかもイズンにしてみれば、今回の事は完全敗北。

 自分の指示に従って避難した住民はナパームの餌食となった。

 どこにも、プラスに評価できる物が無い。

「何だよ少尉…。そんなツラ、らしくねぇじゃねぇか…」

 ゴモゴモと言いながら視線をそむけたブルーノは、

「…アドルフの小便タレみてぇに、ちっとは自信過剰でチャランポランだったらな、気持ちも楽になるだろうによ…」

 そう言ってため息をつく。

「「己の力を過信するのは愚か者。無力を言い訳に何もしないのは卑怯者。無力を知ってなおあがけ」…」

 イズンは呟く。自分がある男と交戦した、町を挟んで反対側の尾根を見遣って。

「何ですかいそりゃ?誰かの格言?」

「…以前、わたくしに徒手空拳の技術指導をしてくれた、ある海軍士官の言葉だ…。アイアンハート准尉はそのどちらでもな

い。バランスが取れた灰色だ。驕らず、卑下せず、今の自分と目の前の事を見つめ続ける。…哀しいほど真面目に、真っ直ぐ

に…」

 もう、あの男は居ない。そう改めて自分に言い聞かせ、イズンは天を仰いだ。

「「戦士はかくあるべし」と、彼ならば、今の准尉の落ちこみ様を良しとするのだろうが…。今の状況を見せながら叱咤する

のは、まだ若過ぎる少年には酷だ…」

「まあ、そりゃ、なぁ…」

 歯切れ悪く応じたブルーノは、

「…オイラん時も、そうだったっけな…。ミオちゃんは、ずっと眺めてたっけ…」

 イズンと同じく空を見上げる。陽が大きく傾き、黄昏迫る空を。

「何回、繰り返すんだろうな、こんなのをよぉ…」

 その呟きに、イズンは答える事ができなかった。





 山の稜線付近に陣取った騎士達の仮陣営、そこに停まるヴァイスリッター所有の救護用車輌の、個室に近い後部スペースで、

ラドは簡易寝台に座ってぼんやりしていた。

 救護車輌は他の車輌で囲まれている上に、周りは護衛の兵士や騎士が固めているが、付き添いはギュンターひとり。斜め向

かいに座り、ヒキガエルの様子を窺っている。

 暖房が効いた車内で、ラドはパンツ一枚の半裸になり、体のあちこちに吸盤でコードをくっつけられていた。無事とは思わ

れるが、体調の確認のために。

 バイタルサインは良好。脈拍にも血圧にも脳波にも異常はない。だが…。

「フランツは、どうなったんですかー?」

 車輌内の白い壁を眺めながら、ラドは唐突に口を開く。これにギュンターは一瞬口ごもったが、唾を飲み込み、平静を心掛

けて応じた。

「…判らない。調査中だが、まんまと逃げられたと見るべきか…」

 ミオ本人がよく覚えていないが、現場の血痕から見るに、深手を負わせた事は間違いない。血が急に止まる訳もなく、普通

ならば失血でショック死する可能性が高い傷だが、そうなるとも言い切れないというのがギュンターの見解。

 フランツが肉体に改造を施されている今、その慎重な予想は正しかった。

「そうですかー」

 ラドはどれだけ深刻に捉えているのか、気の抜けた声を返す。

「彼の事が、心配か?」

 顔色を窺うギュンターに、ラドは相変わらず壁を見つめたまま、「ええー」と頷いた。

 ぼんやりしているようにも見える。壁を眺めたまま視線を動かさない。そんなラドの様子を、ギュンターは窺い続ける。

「ちゃんと死んだ事を確認しないと、心配ですねー」

「…!」

 赤毛の騎士は絶句する。

 驚くほど、無かった。

 さらりと応じたその声には、一切の迷いもなければ、淀みもない。

 ラドはもう、まともではなかった。

 とはいえ、一時的に正気を失っているような状態とは違う。

 変質してしまっていた。

 ラドの精神は、度重なる負荷に対応して自我を保つために、もはやまっとうな者のソレとは異質な物になっている。

 それはもう、日の光が絶えた道を歩む者達に近い。

「僕は、どうなるんですかねー」

「え?」

 そのあまりにも普通な、明日の天気のような他愛のない事について尋ねるような口調に、ギュンターは一瞬返事をし損ねる。

「ああいう、危ないウイルスか何かが一回感染してるんだからー、やっぱり、殺されるんですかねー」

 ラドのそれは、問いではなかった。

 淡々と現況を声に出して確認しているに過ぎない。

 そしてヒキガエルは、どうやったらそこから逃れ、目的を達するまで生き永らえる事ができるのか、考えている。

 殺されるかもしれない事に恐怖も無ければ、自分を殺そうとするだろう者への反発もない。

 恐ろしいほど冷静に考えていた。

 フランツの生死を確かめ、生きているならば殺す。その目的を実現させる手段と、取るべき行動について。

「死なせはしない」

 ギュンターはきっぱりと応じる。ラドがもう、日の当たる生活に戻れない事を感じながら、それでも…。

「君にまで死なれたら…」

「皆が犬死になる。ですかー?」

 言葉に詰まったギュンターに、ラドは力なく笑いながら「ごめんなさいー…」と詫びた。

「責める気も、なじる気も、からかう気もないんですよー。ただー…」

 ヒキガエルは、少しだけ声を詰まらせた。

「生き方も、死に方も、自分で決めたいなぁーって、思うだけなんですー…。せっかく助かったんだからとかー、そういうの

は抜きにしてー…。申し訳ないんですけどねー…」

「…それは…」

 どういう意味だ?とギュンターが問う前に、ラドは口を開いた。

「僕は、君達みたいになれますかー?」

「…何だって?」

 問いの意味が判らず、訊き返したギュンターに、

「僕も、「彼ら」と殺しあえますかー?」

 ラドは、そこで初めて青年騎士に顔を向けて、そう訊ねた。

 その目は輝いていた。悲壮なまでの覚悟と、狂気染みた決意で。

「お願いですよー。僕は、やらなきゃいけないんですー」

 自分のせいで、警官がふたり、死んだ。

 ひとりは、自分が勝手な真似をした結果、死んだ。

 もうひとりは、自分の身代わりになって、死んだ。

 家族も死んだ。

 親友だと思っていた古馴染が、その原因だった。

 もしかしたら友情だけでなく、肉欲だけでなく、秘密を共有する連帯感だけでなく、恋心に近い物を抱いていたのかもしれ

ない相手に、故郷を奪われた。

 そしてその相手は、まだ生きているのかもしれない…。

 生き延びられた事に感謝して、平和な人生を送るには、ラドに刻まれた物は深過ぎる。

「ねー?お願いしますよー。どこかに口利きとかしてくれませんかー?」

 立ち上がり、ギュンターに近付くラドの体から、コードの吸盤がパツパツと外れ、落ちる。

 まるで、平穏や日常という、ありふれていながらも尊い物に繋ぎ止めていた何かを、自ら振り解いて断ち切るように、残ら

ず、残らず、一つも残らず…。

 吸盤がついて軽く赤味がさした円形の変色を、裸体のあちこちに残したまま、ラドはギュンターの前に跪いた。

「お願いですよー。何でもしますからー。だからー…」

 お前がそんな真似をする必要はない。自分達に任せろ。

 そんな簡単な事が、ギュンターには言えなかった。

 自分達が頑張った結果が、今のノーブルロッソなのだから。

「だからー…!僕に…、仇…討ちを…!罪滅ぼし…を…!」

 ラドの目が潤み、大粒の涙が落ちる。

「お…願っ…!えっぐ!お願……じま…!」

 死に場所を、与えてくれ。

 楽には死ねない死に場所を、自分にくれ。

 ギュンターには、ラドがそう懇願しているように聞こえる。

(俺は…)

 赤髪の青年は、ギリリと歯を噛み締めた。

(俺は、無力だ…!)











 それから、一年が経ち…。











 高いフェンスがぐるりと、山の峰に沿って巡らされ、盆地を取り囲んでいる。

 兵士の詰め所があり、見張りが耐えず、厳重な警備で封鎖されたその向こうには、焼け焦げた廃墟だけがあった。

 ノーブルロッソ。

 そう呼ばれていた町は、約一年前、地下から噴出した有毒ガスに覆われ、そこに引火して起きた大火災に見舞われ、居合わ

せた住民は全滅した。…という事になっている。

 今でも、安全確認のために防護服を纏った調査隊が入る以外は、フェンスの向こうへの立ち入りは許されていない。

 その調査隊が、有毒ガスの計測ではなく、危険な菌の自然繁殖が起きていないかどうか確かめるための物だという事は、国

家機密に携わる中でも極々一部の者にしか知られていない。

 今日は定期的に調査隊が送り込まれる日。

 フェンスを越えて町へ向かって行く一団の中には、一際大柄なジャイアントパンダの姿もあった。

 公正を期すために所属が異なる者で編成されている調査隊に、ヴァイスリッター側からはイズンが充てられている。

 いまのところ菌の自然繁殖は確認されていないが、採掘調査により菌糸の残骸が採取されている。

 加えて年を跨いだ同時期の再発確認…周期的な繁殖への警戒も必要となる。

 調査が完了し、上が納得し、町が開放されるまで、あと何年かかるのか、皆目見当もつかないのが現状だった。

 その、斜面を下って行く調査隊を見送る一団がある。

 それは、ノーブルロッソの生き残り。あの日たまたま町を離れて難を逃れた者達や、故郷を離れ他所で生計を立てていた出

身者など…。

 容易に触れられる内は、ひとはなかなか気付けない。

 それがどれだけ大切な物なのかという事に。

 元々は故郷に愛着が無かった出身者も、こうなってしまうと町が恋しくなる。

 そんな一団に、山道をぶらぶらと歩きながら登って来た狐が目を止め、足も止めた。

「…一年、か。諦めがつかねーモンなのかな」

 呟いたその狐は、ラグナロクのエージェント、ヘイムダル。

 特に目的があった訳ではないが、たまたま近場まで来る用事があったので、道中足を延ばして寄り道している。

 自分でも妙な気まぐれだとは思うが、あの事件が印象に残っている事は否定できない。

 脱走クローン兵と思しきアメリカンショートヘアーと、赤毛の若いリッター。何年かすれば歯ごたえがある相手になると確

信できた逸材との出会い。そして…。

「あ!」

 驚いているような声に、ヘイムダルは視線を動かした。

 一団の中から出てきて、自分の方に歩いてくる、肥えた中年の熊…。

 その顔には、見覚えがあった。

「あー…。酔っぱらってたおっちゃん?」

 ヘイムダルが記憶を手繰って眉根を寄せると、熊は「やっぱりあの時の!」と声を大きくした。

「確か、ハイメって言ったな兄ちゃん!良かった!無事だったのか!」

(ああ、そういえばそんな偽名言ったんだっけ…?)

 思い出しながらヘイムダルは頷き、

「あの晩、すぐ後に俺も町を発ったんだ。後でニュースで知って、驚いた」

 と、用意していた答えを口にして、「大変だったな」とそれらしい表情を作る。

 ヘイムダルにそうと知らないまま切りつけられて、出血だけはやけに派手な軽傷を負い、狐に促されて隣町の病院へ向かっ

た熊とその知人達は、その後に起きた惨劇から間一髪で逃れた形になっていた。

「心配してたんだ!被害者もまともに数えられねぇような事故だったし、翌日の事だったし…!」

 あの晩の恩人が無事だったと知ってホッとしたのか、大げさなほど感情を顔に出している中年の熊に、

 

―お前さんはいちいち無茶苦茶しよるけぇの。ほったらかしにするのは、ちと不安じゃ―

―生憎、無理無茶無謀が持ち味なんでね―

 

「………」

 ヘイムダルは、知らない男の顔を重ねていた。

 アルビノの特性が出た熊なのか、白い被毛と色の薄い瞳。

 腹が出た中年太りだが、腕も脚も筋肉で太く、コンバットブーツを履いた足も大きい、頑健な体つき。

 豪胆でありながら柔和で、面倒見が良く…。

(俺は、いつコイツと会った…?何処で会った…?)

 声も、容姿も、細部まで思い出せるのに、見知らぬ男…。

「国の保証もあるし、何とか仕事もできて食えてるけどな…。家族も親戚もダチも、居なくなっちまったよ…」

 熊の言葉に相槌を打ちながら、ヘイムダルは白い熊について考える。

 それでも思い出せない。その男と何処で会ったのかも、その男が何者なのかも、その男の名前も…。

「災難だったなー」

 そんなヘイムダルの言葉に、

「生きてるだけで、儲けものって考えなきゃいけねぇんだろうけどもなぁ…」

 熊の中年はフェンスを見遣り、ため息をつく。

「ろくな町じゃねぇって思ってたのに、帰れねぇとなると、違うんだよ…。嫌いじゃなかったんだって、こうならねぇと判ら

ねぇもんなのかなぁ…」

 そう言われても熊の気持ちが判らず、共感できないまま頷いたヘイムダルは、

「やっぱ、帰りたくてここに来るのか」

「そりゃそうだよ。何もなくなっちまったけど、それでもな…」

 熊の返事を聞いて、「そーか」と顎を引いた。

「帰れるといいな。いつか」

「ああ…」

 頷いた熊に、ヘイムダルは背を向ける。

「じゃ、そろそろ行くぜ。移動の途中なんだ」

「お、そ、そうか?わざわざ寄ってくれたのか!」

 少し喜んだ熊は、肩越しに手を挙げたヘイムダルに別れの言葉をかけた。

「…兄ちゃんも、故郷は大切にしろよ?大事な友達とか、大切にしろよな…」

「あー。そうする」

 応じたヘイムダルは、胸の中で呟いた。

 自分にはそんな物は無い、と。

 何故か、あの白毛の熊の顔が、頭から離れなかった。

 誰なのか、判らない。

 気にはなりながらも邪魔くさくなり、何度も頭を振りながら道を下り、駐車場に停めていたジープにたどり着いたヘイムダ

ルは、

「…何でここに居る?」

 自分の車の脇で、助手席に寄りかかって立つ巨漢に視線を据えて、足を止めた。

「グフフフフ…!さァ何でだろうなァ…」

 フレスベルグのエージェント、シャチは、不敵な笑みを口元に浮かべていた。

「判った。「犯人は現場に戻る」か…」

 ヘイムダルが呟く。

「言えてるなァ。まァ、犯人だァ」

 シャチが頷く。

 あの胞子と霧は、フレスベルグとシャチ、両者の能力によって環境を整える事で育成環境ができあがる。風向や地形、湿度

や気温の影響により、その条件が自然に整うのは極めて稀だった。

 運用にそんな条件が付き纏う事に加えて、抗体を持った者がリッターに保護されている事実をヘルとロキに指摘された事に

より、開発計画も研究も再凍結され、アルラウネ由来の生物兵器研究は目的の如何によらず一切が禁止という扱いが再確認さ

れた。

 独断専行したフレスベルグは厳重注意の処分を受け、専用ラボへの立ち入り調査、研究データの検閲が行われ、手持ちの施

設数か所を封鎖されたが、それ以上の咎めは受けなかった。

 だから、ヘイムダルには不思議だった。シャチが今、もう用がないはずのノーブルロッソ近辺に居る事が。

「で、本当は何しに来たんだ?」

 剣は車の中。妙な考えを起こされると面白くないことになる。

 相手の実力を知っている事もあって、警戒しているヘイムダルに、

「大将の命令でなァ。お前がこっちの方に来てるから、探れってよォ」

 シャチはあっさりと暴露する。

「それ、俺にバラして良いのかよ?」

「おっとォ」

 芝居がかった動作で口をふさぐシャチ。

「…まぁ、良いか…。俺も任務地に移動中の気まぐれで、あんまり考えずに立ち寄っただけだ。別に用事らしい用事はねーよ」

 ヘイムダルは肩を竦め、正直に状況を伝えると、「何なら途中まで乗ってくか?」とジープに向かって顎をしゃくった。

「それとも、あのサーフボードがあるから要らねーか?便利だもんなアレ」

「グフフフフ…!そうとも便利だァ!だが!」

 シャチは胸を張る。

「ちょっと疲れる!」

「そうか。助手席な。後部座席は荷物で埋まってるから」

「グッフフフ!途中でアイス買ってやる」

「いらねーよ」

 ぶっきらぼうに応じて運転席に乗り込んだ狐は、図体を縮めて助手席に押し込む鯱に、「なぁ」と、顔を向けた。

「アンタ、自分の素体の事を知ってるか?」

「あァ。知ってるぜェ」

 狭い助手席で、意外にも生真面目にシートベルトを締めようと格闘しているシャチが、それがどうした?とでも言いたげな

口調で応じると、ヘイムダルは顔を前へ戻しながら言う。

「俺は知らねー。興味もなかった。知らなくたって困らねーからな」

「まァ、そうだなァ」

 頷くシャチの脇に手を伸ばし、レバーを引いて助手席を後ろへガコンと滑らせてやったヘイムダルは…。

「俺達に必要なのか?ルーツなんて」

 それは、問い掛けのようでもあり、独白のようでもあり…。

 結局、ヘイムダルはシャチが答える前に、ジープのエンジンをかけてアクセルを踏んだ。

 微かな土埃をタイヤに纏わせ、ノーブルロッソに背を向けて走り去るジープの中で…。

「ルーツ、なァ…」

 シャチは頭を掻きながら呟き、それから肩を竦める。

「今がありゃァ、それで良いじゃねェか。どうせ死んでる身だぜェ」

「…かもな…」

 何を思うのか、ヘイムダルは気の無い返事をするだけだった。





 同日、同時刻…。

「どーーーーーーーーでぇミオちゃん!新しい得物はよぉ!?」

 鞘から抜いた、黒い刀身を持つ刃物を目の高さに翳し、重みと形状を確かめるミオに、マヌルネコが得意満面で訊ねる。

「…ええ。良さそうです。ぼくに丁度良いサイズと重さ…、切れ味は試作品と同じレベルですか?」

「さらに良くなってるぜ!タコ親父ども、ミオちゃんの試し斬りを見たらすっかりほれ込んでよぉ!もっと!もっとだ!こん

なもんじゃねぇ!って張り切っちまってまぁ!」

 自分の故郷の工房で作成されたので、得意になっているマヌルネコは鼻息が荒い。

「それは…、後でお礼を言いに行きながら、具合をお見せしないといけませんね」

 微笑んだアメリカンショートヘアーは、新たな得物を鞘に収める。

 それは、ヘイムダルとの戦闘を経たミオの考案により、対ジルコンブレードを想定して造り出された諸刃のダガー。ドイツ

が世界に誇るゾーリンゲンの鍛冶工房が、ミオの要求に全力で応じ、望まれたスペックに仕上げた逸品である。

 腕で及ばない上に、得物が簡単に壊れるようでは話にならない。せめて数回切り結んでも破損しない武器が必要だった。

 しかし、この一振りが出来上がるまでが難航した。

 マヌルネコが腰に吊るす、無銘だが頑強で切れ味鋭い大振りなナイフに着想を得て、刃物の街ゾーリンゲンから、要求を満

たすだけの品を造り出せる工房を探し出すまでが半年。そこから試作品製作に半年。完成品が届いたのが今日だった。

 製造工程が確立されてしまえば、ダガーを失っても再生産可能。

 ミオが考えたのは絶対に壊れないワンオフの名剣ではなく、繰り返し複数生産可能で、消耗しても補給を受けられる武器。

これは他のメンバー用に製造する場合でも応用が利くようにと、汎用性を加味したオーダーであった。

 もっとも、製造にはかなりの手間がかかり、熟練鍛冶師の腕が必要なのだが…。

「んなもん、結局トンファーの補助武器じゃねーか。へっ!大袈裟なんだよ田舎自慢が」

 面白くなさそうに横槍を入れたのはアドルフ。招かれもしていないのに朝からずっとミオの執務室に入り浸っているのは、

ずばり、イズンが例の調査に赴いて出張中だからである。でなければ無事ではいられない。

 なお、アメリカンショートヘアーは半年前に昇進して少尉になっているのだが、先を越された形になったアドルフは相変わ

らずタメ口である。

「ええまぁ、強度の信頼性から、防御はこっち主体になりますけど…」

 ミオはテーブルの上に置いてある、専用ホルスターに収まったトンファーを見遣る。

 銃器も兼ねるそのトンファーは、この一年の間にバージョンアップされた品。正式名称を「ヴァルキリーウィングC」とい

う。

 ミオの亡命によってもたらされた、ラグナロク製の武器であるヴァルキリーウィングは、元々思念波連動兵装を生産してい

たヴァイスリッターの製作部門と相性が良かった。

 そのため、解析、実用化までは短期間で済んだ上に、この工程で得られた高効率の思念波変換技術がリッターの震動剣の性

能アップに貢献している。

 しかし、所詮はラグナロクの技術を後追いしているだけ。そこからの高性能化は目処が立っていなかったのだが、ノーブル

ロッソで得られた宝剣が、技術開発に追い風を与えた。

 思念波を吸収、蓄積する性質を持つ宝剣の構造を解析した結果、程度は落ちるが似た性質の合金が製造可能と判明。これを

応用し、いわゆる思念波電池が完成したのである。

 希少金属を用いるために大量生産はできないが、ヴァルキリーウィングCに搭載された僅か1立方センチに満たない金属片

でも効果は充分。平時から思念波を吸収させておく事で消耗を抑えた使用が可能となった上に、運用する上で気になっていた

過度の思念波吸収などの不安定さが解消された。

「トンファーが主でも、ミオちゃんはちゃんとどっちも使うもんなぁ。ま、良いんじゃね?拳銃以外ろくに使えねぇボンクラ

には関係ねぇ話だからよ」

「あん?やんのかデブ!」

「やってやんよチャラ男!」

 血の気が多い二名が向き合い、詰め寄り、そして始まる…、

「おらぁ!タプついた腹してんじゃねーぞ三下がぁー!ニンジン喰えニンジン!」

「野菜ばっか食ってっからヒョロヒョロじゃねぇかスジ男がぁ!肉も食えやクラァッ!」

 抓り合いと罵り合い。

 狼はマヌル猫の、若い割に中年のような肉付きのボヨンとした脇腹の肉を掴んでこれ見よがしに揺すり、マヌル猫は狼のあ

まり余裕がない頬肉を横にミニョーンと引っ張る。

「ひっはんは!ははひぇほんひふほー!」

「いで!いでで!いや痛かねぇぞこんナラぁっ!」

 なお、ミオが居ない場所ではここまで平和的な取っ組み合いにはならない。普通に全力の取っ組み合いとなる。

 このふたりはいつも愉快で仲が良いなぁ、などとニコニコしながら見守るミオは…、ある意味、誰よりも仲間の事が判って

いない。

 しかし、ミオがスキンシップの一環と解釈している、かなり本気の抓り合いは…。

「こら!何をしている!」

 怒声一発でピタリと中断。

「あれ?イズン少尉?」

 ミオが不思議そうな声を上げると、アドルフとブルーノは慌てて離れ、揃って背筋を伸ばし、ドアを開けて姿を見せたジャ

イアントパンダにビシッと敬礼した。

「全部コイツが悪ぃんです少尉!」

「コイツこそ悪いんです姉御!」

 固い表情で指差しあうマヌル猫と狼。

 しかしジャイアントパンダは、ふたりの目の前まで来て足を止めると、

「ぐっ…」

 叱責を続けず、喉の奥から妙な音を漏らす。

「ぐっぐっぐっぐっ…!」

 顔を見合わせる狼とマヌル猫。小首を傾げて「どうかしたんですか?少尉」と尋ねるミオ。

 その妙な声は、三人には判らなかったが、実は笑い声だった。

「どうだ?判らなかっただろう?」

 面白がっているような声は、開け放たれたままのドアから聞こえた。

 そこに立つのは、うるさくない程度に金糸で装飾が施された、純白の儀礼用コートを纏う、筋骨逞しい赤毛の青年…。

「ギュンター君!珍しいね、連絡もなしに来るなんて!」

 顔を綻ばせるミオ。

 青年騎士はノーブルロッソでの事件後、内定通りに中尉に昇進している。

 今では中隊一つ預かる指揮官なのだが、最前線に立って陣頭指揮を執るスタイルは良くも悪くもそのまま。相変わらず生傷

が絶えず、今も鼻の頭には絆創膏を貼っていた。おかげで冷や汗をかきっ放しの副隊長は、胃薬が手放せないと歎いている。

 左の腰に吊るされているのは、リッターの標準装備である高速震動剣ではなく、それらよりも刀身が短い、鍔元に赤い宝石

のような物がはめられた剣…。

 技術発展に貢献したノーブルロッソの宝剣は、ギュンターの希望により彼の愛剣となった。

 この宝剣は、現行人類が真似て作った擬似レリックではなく、完全なるオリジナルである。

 秘められた機能は解明され、その応用によって技術革新をもたらしたが、ギュンターが最も気に入ったのは極々単純な点。

 強度そのものが非常に高く、打ち交わせばセラミック材も簡単にへし折る宝剣は、僅かな刃こぼれが生じても時間さえあれ

ば自己修復する。頑丈な上にメンテナンス要らずの宝剣は、立ち回りがダイナミック過ぎて得物を壊し易かったギュンターに

とって、頼もしい相棒となっている。

 しかもこの宝剣には、扱いに習熟しなければ判らない、ある特殊な機能が搭載されていた。

 騎士中尉専用の武装として、申し分ない機能が…。

 そして文献や伝承と照らし合わせても名称が判別できなかったこの剣には、ギュンターが名をつけている。

 ノーブルロッソ、と…。

「驚かせようと思ってな。上手く行った」

 口の端を少し上げて笑った赤毛の騎士は、迎えて歩み寄るミオと軽く握手を交わす。

「うん、驚かされたよ。でも、言ってくれればお茶を沸かしておいたのに…、ん?」

 ミオはふと、先の言葉が気になってジャイアントパンダに視線を向ける。

「…「判らなかっただろう」…?どういう意味ですか少尉?ギュンター君?」

 そんなミオの問いに口では答えずに、ジャイアントパンダは顎の下…襟元に隠れる首の付け根に指を入れると、その被毛ご

と、皮も肉も上に引っ張り上げる。

「げ!?」

「う!?」

「え!?」

 同時に声を上げたアドルフ、ブルー、ミオの前で、ベリッと捲り上げられたジャイアントパンダの顔の下から現れたのは、

のっぺりとした蛙の顔…。

「お、お前…?あの時の蛙か?」

 アドルフが薄気味悪そうに、剥がされたパンダマスクとヒキガエルの顔を交互に見遣りながら尋ねると、

「そうですよー、あの時の僕でーす」

 コンラッド・グーテンベルクはスチャッと、パンダマスクを帽子のように頭へ乗せながら応じる。

「…はえ?」

 全身の毛を逆立ててびっくりしているミオと、目をパチクリさせている狼とマヌル猫に、ギュンターは目を細めて笑ってみ

せた。

「はっはっはっ!変装だ。判らなかっただろう?」

 ヒキガエルは、頭部を矯正具つきの被り物ですっぽり覆い、シークレットブーツで身長を上げ、肉襦袢で四肢を逞しく見せ、

タプタプに肥った体型をバンドで締め付けてシルエットを変え、イズンに化けていた。

 イズンそっくりで全く見分けがつかないそのマスクは、ラド専用に調整された、特殊な装置によって作成された物である。

 それはかねてから構想があったが、実用化できないまま試行錯誤を繰り返していた装置の発展型で、使用者の思念波を受信

し、合成樹脂と塗料により極々短時間で変装用のマスクを作り上げるという物。

 言うなれば、鼻先を子細に観察しながら後頭部を精密に描写するような、脳の器用さが求められる装置で、明確なイメージ

を細部まで同時に投影できない者が扱っても上手くは行かないため、いかんせん運用に難があるのだが、彫刻に触れ続けて研

ぎ澄まされたラドの特性が活かされ、専用チューンを施されてようやく実用レベルに達した逸品である。

 しかしこの装置は、変装に用いることが出来るマスクを生成するだけではない。

 ラドは一度見た者の顔を、この装置で精密に複製する事もできるのである。

 一度遠目に見ただけだったが、ラドの脳はフレスベルグ・アジテーターの顔を、正面固定ではあったがほぼ完璧に記憶して

いた。残念ながら、ヘイムダルについては発症中の朦朧とした状態で見ただけなので精密なマスクは作れなかったが、ラグナ

ロク中枢ひとりの顔が割れたのだから、ラドがもたらした物は大きい。

「あとで調整する事になるかもしれないが、階級は一応軍曹という事になっている。リッターのメニューで一通りの事は勉強

させたが、…いかんせん運動能力面では芽が出なかった…」

 ギュンターが困ったような顔で言うと、青年を振り返ったラドは「えーへーへー…」と微妙な半笑いになる。

「ただし、潜入、工作などの面では太鼓判を押せる成績をもぎ取った。そっちは兄上…いや大佐のお墨付きだ」

 びっくりしたまましばらく硬直していたミオは、

「ギュンター君…。でも、訓練は最低三年って…」

 と、ようやく声を絞り出した。ど素人のラドを使えるようにするには三年かかる。それが大佐やギュンターの目測だったの

だが…。

「それだけ必死にやったという事だ。努力を汲んでくれ」

 赤髪の騎士は微苦笑する。目測を大幅に誤って恥ずかしい反面、期待を超えて見せたヒキガエルの成長が誇らしくもあった。

「たまたまこちらへ足を向ける用事があったので、本人は一足早く届けたが、正式な辞令は、午後から本部へ参集される予定

の少佐へ渡される。今日からソイツもナハトイェーガーの一員だ。可愛がってやれ」

 事前に知らせられてもいない、あまりにも急な引き合わせに、マヌルネコは「いや、可愛がってってなぁ、坊ちゃん…」と

顔を顰める。

「そうそう。今日からとか急に言われても…」

 アドルフもどんな顔をすればいいのか決めかねて、歯切れが悪いが…。

「アッハトゥンク!」

 鋭く走ったギュンターの号令で、反射的に気を付けの姿勢をとる。

「グート…」

 騎士の顔になって頷いたギュンターは、一同に告げる。

「ソイツの名前はファルシャーネーベル。覚えておけ」

 ミオは、複雑そうな顔をしていた。

 あの日、たったひとりだけ救えた相手が、今こうして自分と同じ世界に足を踏み入れている…。

 それはもう、「救えた」と言えないのではないか、と…。

 しかしその選択にどうこう言う権利は、ミオにはない。

 ハティが望み、与えたかった未来に背を向けて、世界の敵の敵となる事を選んだミオには…。

 腹を決めて、ミオは大股に一歩踏み出した。

 新たな部下の前へ、真っ直ぐに、大股に、軍人らしく背筋を伸ばして。

「よろしくお願いします。コンラッド軍曹」

 手を差し出し、握手を求めたアメリカンショートヘアーに、

「「ラド」でお願いしますー、ミオ少尉」

 笑みを浮かべて、ラドは応じる。

 かくして、コンラッド・グーテンベルクは十三人目のナハトイェーガーとなった。

 コードネームは専用装備と同名の、ファルシャーネーベル(偽りの霧)。


















































「…随分かかるな、少尉…。アドルフ少尉も休憩ぐらい」

 中年猪が苛立たしげに時計を見遣り、フゴッと鼻を鳴らすと、

「…ですねー…」

 回想を打ち切ったラドも、顔を上げて時計を見遣る。

 訓練を終えてナハトイェーガーに加えられてから、二年が過ぎた。任務も随分数をこなして、今ではいっぱしの兵隊になれ

たと自負している。

 もっとも、直接戦闘が苦手なのは相変わらず。訓練を受けたとはいえ能力も持たず、肉体は一般人と変わらないのだから。

 ただし、主任務となる裏方の仕事については、出来栄えも取り組み方も少佐から信頼されている。実質的な立ち位置として

は、少佐とイズンしか知らないような、ミオ、アドルフなどには触れさせないような、極秘情報も取り扱う間者となる。

 その立場上、二年前に知りたかった情報も、今は手に入れている。

 ノーブルロッソへのナパーム投下を命じた、シュバルツリッターの将官の名と、身辺情報を…。

 それをどう扱うかはまだ決めていない。

 ラドがその気になれば復讐を企てる事もできると、少佐もイズンも知っている。これは間違いないとラドは確信している。

 それでもふたりは、妙な真似をするな、などと釘を刺そうともしない。好きにしろと言っているようにも、信用していると

態度で示しているようにも思える。

 だから、なのかもしれない。ヴァイスリッターに対して、ナハトイェーガーに対して、状況が不利になるような行動を慎ん

でいるのは。

 ラドはふと思いつき、時計を眺める猪の横顔をじっと見つめた。

 ラドが知らされてない、数少ない情報がそこにある。

 ミューラーの事は、まだ判らない。

 生まれも育ちも経歴もバラバラ…。

 そんなナハトイェーガーのメンバーに共通する点とは、ラグナロクと深い因縁があるという事。

 決して裏切らないだけの動機を持っている…、それが全員の共通点だった。

 ラドは考える。

 この猪は、ラグナロクとどんな因縁があるのだろうか、と…。

 やがて、紅茶用のポットに移した湯がぬるくなった頃、ミオはようやく姿を見せた。

「お疲れ様でした少尉!さ、どうぞこちらへ!」

 自分の隣に座らせようとするミューラーと、

「アドルフ少尉に、どんなお話されたんですかー?」

 質問によって優先的に反応を貰える状況を巧みに生み出しつつ、自分の隣にクッションを置き直すラド。

 しかしミオはポジション争いに燃えるふたりの内心には気付かないまま、何も考えず、テーブルの横…ふたりから見て横手

に当たる真ん中へ、椅子を引いて座る。

「きちんと体を休めているかと、気遣われちゃいました」

 ちょっとがっかりしたふたりの様子に気付く事なく、接近する狼の下心にもまた気付いていないミオが、素直な微苦笑を浮

かべる。

 その笑みが、ラドは好きだった。

 三年前とは比べ物にならないほど強くなり、今や部隊でナンバーツーの腕前となりながら、ミオの照れ笑いや苦笑い、気持

ちが素直に現れる柔らかな笑みは、新米准尉だったあの頃と変わっていない。

 変わらない事といえば、フランツについても変わりがない。あの日以降、彼の行方は判らない。手掛かりも全くない。

 そしてラドの気持ちも変わっていない。

 生きているなら、自分の手でフランツを殺す。

 その決意に、変わりはない…。

「む?少尉、どうなさったんですかな?ソレは…」

 猪が指摘し、ラドは遅れて気付く。

 ミオがその左手に掴んだ、ワインのボトルに。

「ああ、アドルフ少尉とお話をしているときに、たまたま少佐が帰って来て…」

 青年はワインボトルを胸の高さに持ち上げる。

「あ…」

 それを見たラドは、思わず声を漏らしていた。

 それは、ラベルが傷んだワインボトル。

 結露と乾燥が繰り返された結果、ラベルはごわごわになって色が褪せ、文字も滲んでしまっている。

 初めはカラフルだったが、元々派手というよりはけばけばしいと表現すべきデザインだったラベルは、色褪せた今は雨に塗

れたカラーチラシのよう。ボトルそのものも擦り傷だらけで光沢がない。

「少佐からのプレゼントです」

 ミオはそのボトルを、大切な宝石を扱うような手つきで、丁寧にラドへ差し出した。

 ヒキガエルはボトルを見て、それから年下の上官に目を向けて、それからまたボトルに視線を戻して、のろのろと手を伸ば

して受け取る。

 保存状況が良くなかった事がありありと見て取れるボトルを、ラドは望郷の想いを抱きながら見つめた。

 ラベルの滲んだ文字は、かろうじてヘルシャーノーブル(君主の上品さ)と読める。

 それは片田舎の地酒。

 今はもう造られていない酒。

 大層な名前とは裏腹に、ありきたりな安っぽさが鼻を突く、不味い酒。

(まだ、残ってたんだー…)

 嫌だ嫌だと感じていた、けれど本当は嫌いではなかった故郷は、実家は、家族は、もうない。

 この酒も好きではなかったはずだが、今味わったらどう感じるだろうか?

「聞いた事のない銘柄ですが…、美味い酒なのですかな?貴重な酒で?」

 ラベルの傷みは年代物であるが故の物かと考え、興味津々でミオに訊ねたミューラーに、

「不味いですよー」

 答えたのはラド。

「低俗な安物ワインですー」

 言葉とは裏腹に、ラドは目を細くして微笑み、大事な物を愛でるようにボトルをペタペタと撫でていた。

 今は無い故郷で生まれ、当時の住民達に期待され、そして期待に応えられなかった。

 まるで自分と親の関係のようだと親近感すら覚えながら…。



 容易に触れられる内は、ひとはなかなか気付けない。

 それがどれだけ大切な物なのかという事に。