雷神(前編)
「ここで宜しいので…?」
スーツ姿の中年が尋ねるその言葉に、「ええ」と相槌を打ったのは歳若い女性。
黒塗りの高級車から降り立ったその女性は、深い曇天の下、塗装が剥げて錆が浮いた、鉄柵から成る格子と門を見つめる。
そこは、閉園して十年経つ遊園地。
高い塀と門の向こうに見えるのは、動きを止めて久しい観覧車や、錆が浮いて斑になったジェットコースターのレール、壁
に雨染みが広がったシンボルキャッスルや、色褪せたメリーゴーランドの屋根。
朽ちゆくままの遊園地には、当時の活況を偲ばせる物は何も見い出せない。
(栄枯盛衰。夢の国にも終わりはある、か…)
女性は胸の内でそっと呟いた。
暦は梅雨の盛りだが、ここ蒼森の、しかも標高が高い所は冷え込みがきつい。日が射さないこの日は、空気がやけに冷え込
んでいた。そこに横たわる遊園地の跡は、息絶えた動物が晒す屍のようにも見える。
同じ車から先に立って降りていた中年男性は、どこか落ち着かない様子で女性と、朽ちかけの門扉を交互に見遣った。
「その…、申し訳ございません。視察にいらっしゃると伺っていれば、もう少し綺麗にしてお待ちしていたのですが…」
「結構。そのままの状態を見たかったのだから。それと、課長さんが気にする事は何も無いわ。重点的に管理するようにと指
示が出ていない事は把握済みよ」
鈴の音のような声で応じるその女性の言葉は、凛として美しい。発音も、声に宿る力も。それはひとを委縮させるに充分な
威厳と…、
「予算面でも清掃に割く余裕は無かったようだし、月に一度ほどひとを出して見回りするのが関の山だったでしょうね。事実
上放置に等しいけれど、そうなっていたのは上の方の意識の持ち方による物であって、下請けを手配してくれていたあなた方
には何の落ち度もないわ」
魅力を、兼ね備えていた。
管理委託を手配していた中間管理職の中年は、ホッとして、この若い総帥を見つめる。
遊びが殆ど無い、体にピッタリとする薄手のロングコートを纏ったその女性は、二十代半ば程度に見えた。
顔立ちは整っており、泣きぼくろがある。光沢に青味がある不思議な色合いの黒髪が印象的だが、染めているようには思え
ない、不自然なまでの自然な色味だった。
「鍵を貸して貰えるかしら?」
「あ、ただいまお開け致します…」
いそいそと門に歩み寄ろうとした中年は、
「いいえ、鍵だけ貸してもらえれば結構よ」
そんな女性の言葉で「え?」と怪訝な顔をした。
「中の確認は私達だけで良いわ。軽く見回るだけだから。…入るわよ、ランゾウ」
女性が視線を動かして呼びかける。その目を追った中年は、門扉の前を見てギョッとした。
そこに、2メートル半はあろうかという、黒ずくめの大男が立っていたので。
男は、赤銅色の被毛と、漆黒のトレンチコートを纏う、熊の獣人だった。
中年は身震いする。黒い眼帯をした隻眼の巨漢について、女性に同行して来たボディガード…という程度の事しか知らない
が、中年はその男に恐怖に近い感情を抱いていた。
大きい。小山のように。大兵肥満…と表現するのも憚られるような、圧倒的な巨躯。
それなのに気配が薄く、いつ移動したのかも、どう動くのかも、全く判らない。
感情が読めない無表情の熊は、その隻眼を動かし、門の前に足を運ぶ女性を目で追う。
そこで、中年は気付いた。
ポケットから取り出したマスターキーが、いつの間にか、脇を通り過ぎた女性の指先にリングをかけ、クルクルと回されて
いる事に。
「それじゃあ、少し待っていて貰えるかしら?」
肩越しに振り向いて悪戯っぽくウインクした女性を、中年はただ、呆然と見送るしかなかった。
「さて…」
女性は鍵をゴツい門扉に差し込みながら、小さく呟く。
「鬼が出るか、蛇が出るか…」
女性の名は烏丸巴(からすまともえ)。
烏丸コンツェルンの総帥にして、非合法組織オブシダンクロウの頭。
熊の巨漢の名はランゾウ。巴のボディーガードにして、「葬り屋(はぶりや)」の通称で知られる、オブシダンクロウお抱
えの暗殺者。
ランゾウに左右へ押し開かれ、悲鳴のような、耳障りな軋み音と共に口を開けた門は、落ち葉や土埃が堆積した園内へと、
ふたりを迎え入れた。
植え込みの植物は手入れをされていないせいもあり、好き勝手に枝葉を伸ばしている。
のびのびとしたそこには蔦が這い、蜘蛛が網を張り、土の上では寒さを堪えて蟻が仕事に精を出す。
「ひとが手を加えない方が、自然は生き生きする、か…。こういうのを見ると、ギョウブおじさまの言う通りだなぁって思う
わね」
枯葉が積もる歩道を歩きながらトモエが呟く。その口調は先程までと違い、少し砕けて年頃の女性らしい柔らかな物になっ
ていた。
ランゾウは何を思うのか、前に向けた隻眼は何処を見るともなく、まるで遠くの何かを眺めるような眼差しをしている。
しかしその全身…耳から指先、被毛の一本に至るまでをセンサーとして働かせている事を、トモエは知っている。
長閑と言える朽ちた園。それなのに、こんな場所では付き物だろう、囀る小鳥の声は聞こえない。
「「何かあった」。それは間違いないわね」
トモエの呟きは口の中だけの小さな物。吹き過ぎる風も運べない微かな物。
「問題はそれが何なのか、ね。件の事と無関係ならそれで良いけれど、…そう都合良くは無いわよね。…そう言えば…」
トモエはふと思い出したように言葉を切ると、まるで太古の獣の亡骸のようにも見える、遺棄されて久しいジェットコース
ターのレールを見上げた。
「一緒に遊園地なんて来た事も無かったわね」
隻眼の巨漢は無言のまま、トモエの視線を追う。
「ジェットコースターなんて定番だけど…、ランゾウじゃバーが下りないから、ああいったのは無理ね…。体が大き過ぎるわ」
ちらりと隻眼を向けて来たランゾウに、トモエはくすりと笑って見せる。
「興味あるの?良いわよ、乗ってみたいなら特設してあげるわ。ただ…、私の運転に慣れちゃってると、絶叫マシーンじゃ物
足りないと思うけど」
それなら別に良い。と言ったわけではないが、ランゾウが前へ視線を戻すと、トモエは「でしょうねぇ」と軽く首を縮めた。
「トモエ」
巨漢が初めて口を開いたのは、園内の中央広場…開園中は小さな屋台が数多く並ぶフードコートだった場所に差し掛かった
頃の事だった。
「何かあったの?」
トモエの問いに、ランゾウは無言のまま西に見える平屋の管理棟を指さし、次いで東に見えるポプラの木立に目を向ける事
で応じる。
交互に二方向を見遣ったトモエは、少し考えてから「「バロール」が反応したの?」とランゾウに問う。
巨漢がゆっくり頷くと、トモエは頷き返し、何も言わずに管理棟へと歩き出す。
そしてランゾウは逆方向…ポプラの木立へと足を向ける。
トモエが向かう管理棟は、壁の白いペンキの上に雨染みと土埃が迷彩柄のような汚れを残し、屋根の端や雨どいからは雑草
がポショポショと顔を覗かせていた。
(さてと…)
管理棟に近付いたトモエは、まず外を一周して様子を窺う事にしたが、
(…ん?何か光ってる?)
朽ち行く枯葉の上に落ちている、曇天を抜けた弱々しい日光を反射する物を捉え、目を向けた。
管理棟の角の地面で光っていたのは、近付いて見ると割れた擦りガラスだった。
トモエは息を殺し、慎重に角の向こうを覗き見る。すると、側面の窓ガラスが一枚だけ殆ど割れ落ちているのが確認できた。
割れたガラスの破片は殆どが室内側に落ちているが、外に落ちた分は腐葉土に変わりつつある落ち葉の上に散らばっている。
つまり…。
(割れたのは最近ね…)
割れた窓から覗けるそこは、以前スタッフルームとして使用されていた物。パイプ椅子や長机、ロッカーに簡易流し台など
が見えるが、ひとの姿は無い。ドアは三つ、一つはトイレで、もう一つは倉庫室である事が、ドアの上のプレート表示で判別
できる。残る一つはお馴染みの非常口表示があるため、出入り口だとすぐに判った。
管理棟をぐるりと一周したトモエは、正面口のドアノブに太いチェーンが巻き付き、南京錠が掛けられている事を確認する
と、マスターキーに付属している錠の鍵を摘んだ。
そして、わざとガチャつかせて音を立てながらチェーンを外し、それからドアのキーを使って開錠する。
ドアの隙間には土埃が溜まり、開いても痕跡が残る。この様子を見るに久しく訪問者が入っていない事が判る。ただし、正
規の手段では、という事に限るが。
表面がザラついたタイルが敷き詰められ、十年前のカレンダーが壁にかけられたままのエントランスには、向かって左手に
接客カウンター、右手にショーケースとトイレ入り口。
埃が付着したショーケースは空っぽ。カウンターの向こうには監視システムなどが纏められた制御室。正面には右にスタッ
フルームのドア、左に倉庫室。
ここは基本的に一般客用ではなく、関係者専用の設備だった。接客カウンターも業者用の物に過ぎない。
汚れているとはいえ天窓から明かりが入るので、暗くて苦労するという事はなかった。
密封状態で放置され、あまりにも時間が経ち過ぎたせいだろう、カビ臭さなどは無いが…。
(ちょっと埃っぽいわね。空気が攪拌された痕跡か…)
トモエはドアを閉め、まずは先程窓から覗いたスタッフルームのドアへ歩み寄る。
ドアノブには埃が薄く積もっていた。それを確認してから左手でコートの裾を払い、左腰に添え、右手でマスターキーを差
し込みドアを押し開けたトモエは、部屋の中を見回すのもそこそこに、すぐさま手元に視線を向ける。
「………」
内側のノブの埃は、無くなっていた。
首を捻って、傍にあるトイレのドアを見ると、そちらには埃が積もっている。割れた窓から入った風で飛んだ訳ではない。
トモエは目を凝らす。
やや暗い白色の床は、埃が見えにくいが…。
(足跡がある…)
目で追うと、割れ落ちた窓からこちらのドアへ、それから倉庫室のドアへ、何者かの足跡が続いているのが見えた。
コッ、コッ、と床を踏み鳴らし、倉庫室へ近付いたトモエは、そのドアノブを見て眉根を寄せる。
鍵の無いそのドアノブには、埃の上に、手形がくっきりと残っていた。
トモエは耳をそばだてて息を殺し、そのノブをそっと握り、押し開く。
キィ、と蝶番を軽く鳴らして開いたドアの向こうには、広い空間が広がっている。
倉庫室は、他の部屋より天井が高く、高さ4メートルほど。
高い位置に明かり取りの横長窓が設けられており、所々に換気のファンが見える。広々としたその部屋には、頑丈そうな鉄
製の棚が六列並んでいた。
棚は四段式で、高さは3メートル強、奥行き1メートル。どちら側からでも物を出し入れできる、背板も横板もなく支柱の
みのタイプなので、部屋の向こうまで見渡す事ができた。
25メートルプールがすっぽり収まりそうなその部屋に、ひとの姿は見えない。
「………」
トモエは音もしないそこを、棚を回り込む形で奥へ進む。
視界は良好。何も居ない。…ように見えた。
空振りか、と普通ならば気を弛めるタイミングで、
「!」
棚の天板上に潜んでいた何者かが、トモエを急襲した。真上から落下する形で、真っ白な何かが。
ひとの速さではない、物音も立てない、故に対処が難しい。そんな奇襲だったが…。
「ふっ!」
鋭く短い呼気。宙を走るのは赤紫の光。
腰に当てられていたトモエの左手が、瞬き一つの間に抜かれ、振り切られた。
トモエの手に握られているのは、リレーなどで使うバトンのような、凹凸が無い真っ直ぐな円柱形の棒。
長さ40センチ程度、濃い紫色で両端と中央に銀のラインが一周している、金属の光沢を帯びた無機質なソレは、先端から
赤紫の光刃を1メートル余り伸ばしていた。
刀剣に姿を変えたソレは、トモエが護身用として、そして、最も得意な武器として持ち歩いている品…。レリックウェポン、
フラガラッハ。
ヂュンッ…と微かな音が鳴ったかと思えば、襲いかかった白い影は、フラガラッハの光刃で両断されていた。
肩から脇腹にかけて、袈裟がけに。
上からの襲撃者を斬り捨てつつ、その下を、落下物を避けるように二歩だけ素早く踏み出して抜けるトモエ。
流麗な足運びに、典雅な身のこなし。
剣の心得がある者であれば感歎を禁じ得ない見事な体捌きだが、同時にそれは、腕の立つ者であれば違和感を覚える剣捌き
でもある。
実際それは、剣術の基礎を踏襲しながらも異質な戦技。
刀身に重さが無い、実体のない剣を繰る事に特化し、打ち交わす事よりも一太刀浴びせる事に主眼を置いた、彼女に剣を指
導した男の暗殺術が色濃く現れている剣術。
「オバケ屋敷は絶賛営業中だったわけ?気の利いたお出迎えだわ、まったく…」
呟いたトモエは背筋を伸ばして、斬り抜けた前傾姿勢から直立に戻ると、振り返って、斬り捨てたばかりのソレを見下ろす。
右肩から左脇腹まで、人体であれば心臓を両断しつつ袈裟に斬り落とす格好の一太刀で、白い何かは両断されている。
それでも、動いていた。
頭部と胸の一部、そして右腕だけになりながら、床を引っ掻いてトモエに向き直る。
その顔には、しかし苦痛の表情は浮かんでいない。それどころか、何の感情も表してはいない。そもそもひとの物とは少々
異質な顔だった。
それは、ひとの形をしてはいたが、ひとではなかった。
白磁の器のように真っ白な体には、衣服は勿論、装飾品の類も身に付けていない。
開かれた目は人間のものに近いが、そこに意思の光が見えない。異様なほど黒目がちで、白目の部分が極端に狭い。瞳は虹
彩と瞳孔の区別がつかないほどの黒で、硝子玉のような光沢がある。
鼻があるはずの位置には盛り上がりが無く、人間の鼻孔サイズの黒い穴がポッカリ二つ開いているだけ。
唇は無く、口は無機質な亀裂のようだった。
それなのに、耳だけは人間の物と変わりない形状をしている。
股間には生殖器のような物も見られず、乳首や臍に類する物も見当たらず、体毛も無い。
マネキンのような外観で、切断面にも臓器などが見られず、真っ白な肉に混じる骨の断面だけがかろうじて判別できる。
「何なのかしら、コレ…?同じ白でも、遊園地で見るならアイスクリームか綿菓子が良いわね」
這って逃げようとするソレを見つめながら、形の良い眉を顰めるトモエ。
「…もしかしたらランゾウは、綿菓子も食べた事無いんじゃないかしら?」
場違いにのんびりした事を呟きながら、トモエはその白いのっぺりとした何かを、取り出した携帯端末で撮影した。
短い動画として連続撮影されるその画像は、トモエの指紋認識なしでは開封できないメモリーへ記録される。万が一紛失、
あるいは奪取された際にも情報を外に漏らさないための処置である。
静止画で保存しても動画で保存してもシャッター音が鳴らないその撮影が、終わるか終らないかの内に、白いモノは片腕の
上に胸を乗せるようにして、バネ仕掛けの玩具のように跳ねた。トモエ目がけて。
唇の無い口が開く。その中には、同じ形状、サイズの、三角錐の棘のような歯がずらりと三列、規則正しく等間隔で並んで
いた。
寒気を覚えるような口腔を開き、襲いかかったソレは、しかしヂュンッ…と鳴った微かな音と同時に、壁にでも当たったよ
うに勢いを失い、どうっと落下する。
その眉間に、ぽっかりと穴が空いていた。胴体の切断面と同じく、頭部を貫通する血を流さない穿傷を白いモノに負わせた
のは、トモエが真っ直ぐに向けた筒…、刀身が消失したフラガラッハ。
フラガラッハは使用者の思念波を変換し、高エネルギーを生み出す事ができる。
まず驚くべきは、その出力。
フラガラッハが生じさせる光は、フィールドに閉じ込められて整形される格好で、重さがない刃を作る。これにはエナジー
コートを極めた者が行なう破壊の御業に匹敵する威力や熱量を付与させる事ができ、光刃として使用すれば人体程度なら簡単
に焼き斬る事が可能。
しかし、刃を構築するだけがこのレリックの機能ではない。
次に驚くべきは、その汎用性。
光刃を発信するように、高密度エネルギー弾を筒先から発射する事もできる。
さらに、出力を加減すれば、ほんのり暖かい硬質ゴムの塊のような、殺傷力を抑えた刀身や光壇を発信する事もできる。
しかしフラガラッハには重大な欠点もある。異様なほど思念波を消耗させるという欠点が。
普通に刀剣として扱い、切り結ぶ形で使用するだけで、普通ならば昏倒してしまうほどの思念波が要求される。瞬間的な使
用だけでも眩暈を誘発するこれを、トモエは常人離れした思念波量で飼いならしているが、ひとの手には余るこの品について、
彼女はある仮説を立てている。
この消費思念波量が多いという欠点は、本来欠点では無いのではないか、と。
本来の所有者…つまりこれを造り、扱っていた者達は、これだけの消耗を問題にしない存在だったのではないか、と。
(ともあれ、そんなフラガラッハでも…)
トモエは再び光刃を伸ばして備えながら、携帯端末を白いモノに向け直した。
(死なないなんて、ね…)
白いモノは、頭部を貫通する傷を負いながら、まだ動いていた。
敵わないと悟ったのか、一本になった腕で床を掻き、這いずって、トモエから逃げようとしている。
(一体何者かしら?間違いなくひとではないけれど、う~ん…)
とどめを刺すでもなく考え込みながら、しばし動向を見守っていたトモエは、
「…?」
目つきを鋭くし、改めて端末の撮影状況を確認する。
白い何かは、這いずりながら湯気のような物を上げ始めた。
その体が少しずつしぼんでゆく。無色透明な液体が、その下からじわじわと地面に広がっている。
「これは…」
這いずる白いモノは、溶けていた。
動いている側も、動かない半身側も、トロトロと。
そして、トモエが異常を確認してから一分足らずで、白いモノは液体だけを残して跡形も無くなった。
死んだ、とみていいだろうと判断したトモエが集中を解くと、光刃はその色を薄くし、やがて霧散するように得た消えた。
柄だけとなったフラガラッハを、コートに隠した腰のホルダーに戻したトモエは、
「こういう現象そのままの物を、何かの記述で読んだ事があったわね?あれは確か…」
トモエは少し考え、記憶を辿り、
「ホムンクルスの、研究書…」
古めかしく、傷みが激しい、革表紙の古書の事を思い出す。
「十六世紀の技術そのままのホムンクルス?それも大型?…いや、そもそもサイズは関係ないのかしら?フラスコに見合う大
きさになるっていうだけの事?」
ブツブツ呟きながら思案に暮れるトモエは、
「技術そのものも骨董品だわ。改良されているとも思えない。じゃあ何のために?」
振り向き、いつの間にか倉庫室の入口に来ていた隻眼の巨漢に頷きかける。
「そっちにも白いのが居た?死んだら溶けて水になるのが」
黙って頷いたランゾウは、懐からスポイトと容器からなる採取セットを取り出して見せた。
「一応分析にはかけるけれど、きっとそれはただの水って事になるでしょうね…」
肩を竦めたトモエは、
「私が思うに…」
ふぅ…、と軽くため息をつく。
まるで、徒労になる事が判っていながら、それでも働かなければならない者が見せるような、げんなりした表情で。
「これはもう、終わってるわね」
トモエが言った通り、それはもう「事件」ではなく「残滓」に過ぎなかった。
全ては四日前に始まり、そして二日前には終わっていたのである。
しとしとと、雨が降る。
絶え間なく、路面上に。
じっとり濡れるほどではない細かな雨粒だが、明け方からずっと、日が落ちて久しい今に至るまで降り続けている。
黒々と蹲る低い山を見上げれば、そこには木々が伐採されて歪に欠けた区画がある。
好景気を謳うバブル期に、後の展望も明確に描かないまま造成された、ゴルフ場、屋内プール、遊園地を包括して造られた
レジャースポット。それは今や、負の遺産としてその姿を晒している。
計三度、民間業者が取得したが、再開発にも失敗し、役立てられる目途は立っていない。
現在の管理者は、看板からすれば国内有数の財閥傘下に名を連ねる大手企業になっているが、下請け会社も管理とは名ばか
りの見回りを数ヶ月に一度行うだけで、放置したまま。
その麓では、かつて客を受け入れていたホテル街が、半ばゴーストタウンとなっていた。
観光の目玉も集客力がある施設も無く、不況のあおりで倒産が相次いだおかげで、無数に並ぶ四角いホテルの廃墟は、さな
がら墓石の群れのよう。
その、夢の跡地を濡らす雨に、倒れ伏すスーツ姿の初老の男と、突っ立っている大きな影が打たれていた。
営業中は盛んにテレビCMを行なっていた、大きなホテルの裏手側。あちこちに走るアスファルトの割れ目から雑草が逞し
く伸びた、かつての搬入口付近で。
立っている方は、黒色のジャケットにパンツ。靴を履いておらず、濡れたアスファルトを素足で踏んでいる。
右腰には一振りの大太刀が吊るしてあるが、所持者の体格が度を越して大きく、高く、厚いため、普通の打ち刀のように見
えてしまう。
大きな熊だった。
巨躯を覆う被毛は、まるで黄金を溶かし込んだような、鮮やかで美しい金色。
四肢は丸太のように太く、関節部すら頑強そうで、僅かにくびれているだけ。
腹が出ている肥満体だが、肩幅は広く、胸は分厚く、腰も首もどっしり太く、全体的に頑丈そうで力強い。
冷たい雨を吸って光沢を増した金色の被毛が、雨粒を弾いて散らす。
暗がりの中で、冷たく輝く蒼い瞳が映すのは、倒れ伏したまま動かない男の体。
その男は政治家だった。ある党の幹事長で、日々ニュースを見る習慣がない者でも顔を知っている、そんな男。
手が空いたタイミングで地元に帰って来たのは昨日の事。冷たい亡骸と成り果てたのはついさっきの事。
その腕が、足が、首が、奇妙な角度に折れ曲がっている。有り得ない方向に、ひどく捻くれて。
血の一滴も流さず、男は死んでいた。それだけに現実味が無く、亡骸は壊れた人形のようにも見える。
ただし笑えない。
笑うには、その苦悶の表情を浮かべる死に顔は、あまりにも無残過ぎた。
その死体を見下ろしている金色の熊は、
「トール」
背後からかけられたバリトンボイスと、湿ったアスファルトを踏む足音に、首だけ巡らせて振り返る。
歩み寄っていたのは、金熊と並んでも見劣りしない上背と、逞しい筋肉質な体躯が印象的な、灰色の雄馬。
金熊と同じデザインの黒色のジャケットとズボンを着用し、ゴツい編み上げブーツを履き、胸部と肩を覆う分厚く武骨な金
属製のアーマーを着用している。そのシルエットはアメフト選手のようでもあった。
灰馬は金熊と並んで幹事長の死体を見下ろしながら口を開く。
その右手が、持参した大きな雨傘をパンと広げて、自身と金熊を濡らす雨を遮った。
「スレイからの連絡によれば、秘書は包囲を脱したようだ。足取りは不明。どうやらそちらが本命か…」
「採魂(さいこん)を」
灰馬の言葉を遮って、金熊がボソリと呟く。
体躯の大きさに見合わず、キーが高めの澄んだ声だった。
その視線は終始、幹事長の骸に注がれている。
「そうだな。済ませよう。…ところで、姿は見られたか?」
「運転手とボディーガードに」
「結構」
灰馬は金熊の返答に深く頷きながら、ジャケットのポケットに右手を突っ込んだ。
「さりげない「宣伝」は重要だ。我等ミョルニルの…」
そして灰馬は遺体のすぐ脇に立つと、その上で真っ直ぐに、肩と水平になる高さで手を伸ばした。
グローブに覆われた分厚いその手に、ピンポン玉サイズの真っ赤な宝珠を乗せて…。
その様子を、金熊は無言のままじっと見つめていた。
神威徹(かむいとおる)。金色の熊はそう名乗っている。
スレイプニル。灰色の巨馬はそう名乗っている。
ふたりの所属は、ミョルニル。
彼らは、意匠化された雷をエンブレムとし、襟章として縫い止めていた。
その二時間後。
客の入りも絶えた午後九時半、閉店三十分前のラーメン屋に、シルバーの車が入った。
降り立ったのは灰色の馬と金色の熊、大柄なふたり組。
戦闘用の装備は車に置いたが、図体だけで目立つふたりである。ラーメン屋の若い店主は「いらっしゃ…」と言いかけて、
ギョッとしたように目を剥いた。
(でっけぇ…!プロレスラーか?)
主要道からも逸れ、奥に入った町道沿い、しかも閉店間際とあって店内に他の客は居ない。手近なテーブル席についたスレ
イプニルは、お冷を置いた店主に会釈すると、「味噌ラーメンが充実しているようだ」と、少し嬉しそうに呟いた。
「先に選べ」
メニューを差し出したスレイプニルに、トールは首を横に振る。
「ワタシはいい」
「要らないのか?」
「空腹じゃない。水だけで充分だ」
「無理にとは言わないが、後で辛くなったらどうする気だ?小休止も秘書が見つかるまでだ。まだしばらくは休めないぞ」
「錠剤なりドリンクなり、あるから」
金熊がそう答えると、灰馬はメニューを自分の方に向け直し、品の名前を指でなぞりながら選び始める。
「こってり味噌チャーシューメンと餃子、チャーハン、ゆで卵を」
オーダーを済ませたスレイプニルは、窓の外に顔を向けているトールに「ラーメンは嫌いか?」と訊ねた。
「嫌いなわけじゃない」
どっちつかずの気のない返事だったが、灰馬は気を悪くした様子も無く続ける。
「私は好きだ。大好き、と言える。大陸のラーメン…特に上品な薄味の鶏ガラ物も悪くないが、この国で独特な変化を遂げた
ラーメンの凄まじいインパクトも捨て難い。いかにも体に悪そうな味、濃さ、推奨摂取カロリーや塩分、コレステロール度外
視の、客を満足させる事に腐心した努力と工夫、研鑽の結晶と言える。これは…、評価すべきだ」
語る灰馬は、とても真面目な顔であった。
「…判らなくもない、かな」
窓を透かして駐車場を眺めながら、トールがボソリと応じると、
「………」
スレイプニルは少し意外そうに眉を上げる。
「…何?」
自分を見つめる視線に気付き、顔を前に向けたトールへ、
「無理をしているような苦笑いをせずに同意したのは、シャチを除けば君だけだ。共感し難い事なのだろうと思っていたが…」
灰馬はそう言って目を細めた。
「…そう…」
トールは再び顔を横に向ける。
それからしばらく会話は途切れたが、注文の品が届くと、スレイプニルは「そう言えば」と思い出したように口を開いた。
「馬肉のチャーシューが乗ったラーメンがあるらしい。チャーシューは焼き豚の事かと思っていたが、馬の肉もチャーシュー
と呼ぶのだな。いや、便宜上の呼び方なのか?」
トールは無言で肩を竦めると、コップを掴み、一口で空にした。
目立つ客だなぁ、などと感じながらも、店主には思いもよらなかった。
二山向こうの地元出身議員が何者かに襲撃を受けて行方不明になったと報道され、町はその話で持ちきりだったのだが、ま
さか今店内に居るこのふたりが、その事件に関わっていたなどとは…。
(そもそも、迎えた客の中に死人が混じっている事にも気付きはしないだろう)
スレイプニルはそんな事を考えながら、いかにも体に悪そうと評しながらも愛してやまない、味噌とラードたっぷりのラー
メンを、ゾルルルルッと勢い良く啜り込んだ。