雷神(中編)

「「オマワリサン」から要請だ」

 携帯端末をポケットに押し込みながらドアを開けた、整えた口髭と鋭い目が印象的な長身痩躯の男が、そこに居合わせた者

達に告げる。

 白い壁、床、天井に四方を囲まれる暖房がきいた部屋だった。壁面には様々な資料や地図が所狭しと貼られ、ホワイトボー

ドには雑多で細かい殴り書きと図がひしめいている。

 そこだけ見れば会議室のようでもあるが、普通でない事は一目瞭然。

 何故ならば、長方形の部屋の長い側の壁面には、刀剣や銃器の類、さすまたなどが立てかけられ、扉が開いたロッカーの中

には防弾ジャケットや拳銃などが見えているので。

 ここは調停者チームの事務所地下。一般人の目に誤って触れる事の無いように、一室に武装用ロッカーと秘匿案件対応の会

議室を纏めた部屋である。

「秘書の居所がだいたい判ったらしい。どうやら、無事に襲撃から逃れていたようだな」

「無事だったのすか?てっきりやらいだのがど思ってだ」

 総勢十名の中で年若い、赤ら顔の大男がカラカラ笑う。

 しかし不謹慎だと咎める者は居ない。議員が襲撃されて行方不明となり、ボディーガードは軽傷を負う…。そんな事件が膝

元で起こってピリピリしていた所へ、生存者発見の報がもたらされたのだから、ひとまず喜んでもバチは当たらない。

「だが、正確な位置は特定できていない。本人から連絡があった訳ではなく、カメラ映像で足取りがある程度掴めただけだ」

「どすべ?」

 壮年の域に差し掛かった、顔中古傷だらけのトドが問うと、長身の男は顎を引いて頷く。

「続報が入るまで待機。範囲が絞れ次第半数で向かい、捜索し、保護する」

『了解』

 応じた各々が手を伸ばして食しているのは、全国でお馴染となっている大手チェーン店のフライドチキン。衣の油で消化が

遅れ、腹もちが良くなる揚げ物は、長丁場前に腹に入れておくのに丁度いい。

 幹事長を務める議員は、あまりにも鮮やかで迅速な襲撃により拉致されていた。

 そのため情報が少なく、監査官も指示が出せずに待機要請するのがせいぜい。

 動くに動けない状態でいたのだが、これで少なくともある程度の方針は決まったと、メンバーは急いでチキンを胃に収める。

 その中で、リーダーである長身の男が、メンバー中唯一の女性に声をかけた。

「チエ」

 腿肉を豪快に、しかしいささか品無くガブリと噛み千切り、咀嚼した若い雌猪が、リーダーの中年へ目を向ける。

 大柄な雌猪だった。

 年齢は二十代半ば。身長は180ほど。毛色は焦茶。ずんぐりむっくり太り肉の堅肥りで、手足も相応以上に太い。

 身に纏う、古い時代の猟師が着るような毛皮のジャケットは、豊満過ぎるバストでボタンが飛びそうなほど引き伸ばされて

いる。

 この女性調停者は沼田場千恵子(ぬたばちえこ)という名だが、皆からは略してチエと呼ばれていた。

「君が遭遇した、白い「ニンゲン」の事だが…」

「お?何かわがったっすか?」

 身を乗り出したチエに「いや」と首を横に振ったリーダーは、

「もう一度詳しく聞きたい」

 と、説明を求める。

「んだば…」

 雌猪は頷き、五時間ほど前に遭遇した奇怪な生物の事を話し始めた。

 

 チエがソレと遭遇したのは、待機要請がかかる前の事。メンバー各々が独自に拉致された議員を捜索して動いていた、その

最中での遭遇だった。

 山越えして道路外を捜索するメンバーを降ろし、独りで下山ルート側へ車を回そうとしていたチエは、太陽がほぼ沈んで空

のみが残光で明るい山中で、白い人影を発見した。

 白ずくめかと、最初は思った。だが、それが裸体で、白い肌を晒している事に気付き、秘匿案件であるにしろないにしろ事

件性があると判断し、車を停めたのだが…、そこで、襲い掛かられた。

 まず容姿に驚き、次いで不意を突かれて肩口を噛まれたチエだったが、無傷で済んだ。

 見た目こそ前時代的な毛皮のジャケットだが、これは鼓谷製の防弾防刃繊維で裏打ちされた特別製。毛皮自体も危険生物由

来で防寒機能を有し、非常に高い防御性能を備えている。

 肩口に噛み付かれたまま、白いソレの手首を掴み、捻り上げて骨格を破壊。しかし怯まなかった。

 この時点で既に危険生物扱いすべき存在だと判断したチエは、噛み付かれたまま抱き込み、近場の木に突進し、後頭部を幹

に叩きつけて陥没せしめる。

 だが、これで肩から顎が外れたものの、殺す気でやったにも関わらず、白いモノは生きていた。

 間を置かず再び襲い掛かったそれを、巴投げの要領で投げ飛ばして反対側の木に叩きつけ、10メートルと離れていない下

の路肩に停めていた車に戻ったチエは、得物を取り、追いかけてきたそれを唐竹割りに両断した。

 ところが…。


「斬ったら溶げで、すっかりねぐなった」

 雌猪は難しい顔で腕組みし、首を傾げる。

 溶けて液状化した白いモノの死体は、すぐに腐葉土へ吸い込まれてしまったが、チエは落ち葉の上に残った物をスポイトで

集めたり、液体が染み込んだ土を掘り返して袋詰めにしたりして、サンプルとして持ち帰った。

 報告と共に監査官へサンプルを渡し、分析結果を待っている状況だったのだが…。

「んで、なして今そいなごど?」

 話を終えて訊ねるチエに、リーダーもまた難しい顔で応じる。「問題が、二つだ」と。

「一つ。分析の方は、まだ結果が出ていない」

「うん」

「…この、結果が出ていない理由だが…。再度、専門機関での分析に回ったせいだ」

「え?にしたって、何かわがったんだらチビっとぐれぇ教えでけだって…」

「全くと言っていいほど判らなかったそうだ。何せ…」

 リーダーは整えた口髭に手を当て、訝しむ。

「分析したら、ただの水としか思えなかったらしい…」

「…へ?」

 チエが、そして他のメンバーが、リーダーを見つめる。

「特別な成分は何も見つからなかったそうだ。ややミネラル分が多かったそうだが…」

「おいしい水すかや…」

「監査官も同じ事を呟いて頭を抱えていた。…とにかく、正体不明のままだ」

「そんで…」

 年配のトドがリーダーに問う。二つある問題の、もう一方は何なのかと。

「二つめは…、秘書が乗る車…、襲撃現場で乗り込んだ、たまたま路肩に駐車してあった軽トラックだが…、これを捉えた防

犯カメラの映像から…」

「まさが…?」

 チエが目を丸くし、リーダーが頷く。

「秘書は、チエがソレと遭遇した山道へ入って行った物と推測された」

「やっべ~でねがすか!」

 若い赤ら顔のメンバーが立ち上がって頭を抱えた。

「一匹見だら…」

 トドが唸る。経験上、危険生物は単体を捕縛、あるいは駆除しただけで終わるケースが少ない。多くの場合はそれを使役す

る者や、売買目的で運搬していた者が存在する。よほどの高性能種や特殊な物でない限り、複数纏めて運用、運搬されるのが

常である。

「チエの話では、遭遇した個体は獣人の調停者レベルの身体能力という事だったが…。そうなると、性能的には複数が同時運

用される可能性が高い。そして、これを議員襲撃犯が用いているとしたら…」

「三つ目だ」

 トドが訂正を求める。

「チエが出くわした時間にゃ、やっこさんは白いのば放して、秘書の足取りば追ってだって考えられねぇが?」

「遺憾だが、そうなるな…」

「なのに待機すかや!?動がねぇどやっべ~どリーダー!」

「やみくもに探すには範囲が広すぎる。シロいのが出た時の為に、各調停チームの投入どころを慎重に見極めなければならな

い。監査官側はそんな状況だ。…おいチエ?」

 ガタンと椅子を鳴らして立ち上がった猪を、リーダーが目で咎める。

「話はまだ途中だぞ」

「やんだぁ!れでーにそいなごど訊いだらダメだっぺはぁ!」

 頬を両手で押さえ、モジモジ身じろぎするチエ。身振りその物はうら若き恥じらう乙女だが、ごんぶとな体躯にボディビル

ダーのようなゴツい肩、四肢なので、いかんせん色気が無い。

「お、は、な、つ、み…だべ…!」

「ああ、それは悪かった…」

 苦笑いして、早く行け、と手をパタパタ振ったリーダーは、いそいそと雌猪が出て行ってから、ふと眉根を寄せる。

(アイツひょっとして…!?…いや、まさかな…。いくら猪突猛進とは言っても、武器も持たずに突っ込むはずもない)



 その、まさかだった。

 リーダーは見落としていたが、チエの得物はこの部屋に無く、白いモノを斬った際の付着物を採取後、洗浄設備に放り込ん

であった。

 綺麗になった得物を回収したチエは、竹刀袋に似た長い布袋を助手席に放り込み、1メートル半程の太い金属製の棒を後部

座席に寝せて、手早く小型RV車に乗り込んだ。

「さーて、秘書さん無事だどいいんだげど…!」

 こっそりと出発した小型RVは、事務所から充分離れた所で加速を始め、やや乱暴な運転で現場へ向かった。

 この無鉄砲さと直情傾向から判断力に問題ありと判定されているため、なかなか資格範囲が広げられず、銃器携帯資格も取

得できていないチエだが、個人の単純な武力という一点のみにおいては、上位調停者に比肩し得る。

 逆に、その腕故に大概の事を単独で切り抜けられるので、スタンドプレーに走る癖が抜けないとも言えるのだが…。



「………」

 暗がりにポッと浮かんだ四角い光を、蒼い瞳が見つめる。

 アイドリングしたまま、カーラジオに耳を傾けている灰馬は、ちらりと助手席の金熊を見遣った。

 着信を知らせて振動する携帯端末を眺めながら、しかしトールは出ようとしない。

「何故出ない?」

「………」

 返事が無いので画面を覗いたスレイプニルは、モニターに表示された名前を確認し、

「何故出ない?」

 と繰り返す。しかしこれにもトールは沈黙。

 やがて、録音に切り替わっては切れ、掛かって来ては録音に切り替わり、三度コールが繰り返された後、スレイプニルの携

帯端末が着信を知らせた。

「…俺だが」

 トールのモニターに表示されたのと同じ名前を確認し、通話に出たスレイプニルは、

『スレイプニルさん。お窺いしますが、トール殿はお傍にいらっしゃいますかね?』

 通話相手の問いを聞きながらチラリと金熊を見遣る。既に端末をしまったトールは、窓の外を向いていた。

「隣に」

『お取り込み中でしたか?』

「いや、特に」

『どうして出てくれないんです!?』

「俺に訊くな」

『ちなみにトール殿にお怪我は?何処か汚れたりしていませんか?もしかして雨に濡れたのでは?そうだ!シャワーのご用意

をしておきましょう!疲れ切って帰って来た所で、部屋が冷えていては可哀想ですからね!』

「そこは問題なく無傷。綺麗な物だ」

『そうですか。お綺麗なままでいらっしゃる、と…!』

「…遺憾にも意思疎通にズレが感じられるが、まぁそのままな事は違いない」

『が!しかし!それでもお疲れはお疲れでしょう。部屋を暖かくしてお待ちするに越した事はありませんね。お夜食も必要で

しょう。ナイトキャップには貴腐ワインなどご用意して…』

 相手の返答から、大きくなる一方のズレを感じ取るスレイプニル。

「念の為に言うが、トールの寝室及びシャワールームへは勝手に侵入しないように。くれぐれも」

『何故ですか?』

「説明しなければ判らない、と?」

 ホテルの部屋だから鍵を壊されては困る。そういう目立ち方は困る。不審な侵入者と認識したトールに顔面を叩き割られる

のは勝手だが後々自分が困る。それ以前に必要に迫られてもいないというのに許可なく部屋に侵入するのは如何な物か。理由

はいろいろとあるのだが…。

『はい』

 まさかの即答にげんなりする灰馬。

「逆に質問だが、どうしてお前が部屋に入っておく必要がある?」

『あれ?お分かりになりませんか?出鼻に冷たい水を出す空気の読めないシャワーには、トール殿がお帰りになる前に話を通

しておくのが筋というものでしょう?』

(駄目だ。会話が成立する気配が微塵もない…)

 静かに目を閉じ、努めて心を落ち着かせる灰馬は、「それで」と話を変える。

「何か用事があっての連絡では?」

『トール殿の御無事を確認したく…」

「それ以外で!」

 やや強い口調になるスレイプニル。

『ああ、そうでした』

 男が思い出したように付け加える。

『警察機構の、地元の出先機関に在籍するカンサカンという役職の職務用端末を覗き見していた所、この国のハンター組織に

所属する人物が、「人間に似た形と大きさをした正体不明の白いモノと遭遇、交戦、処理した」との情報がありまして…』

「そういう話を先にしろ…!それで?」

『絶命後に溶けて原形を留めていないらしく、現在分析中のようですね。そこだけ聞くと前時代頃のホムンクルスと似ていま

すが、ひとと交戦するサイズとなると…。その得体のしれない白いモノですが、閲覧したカンサカンの経過報告書によると、

秘書が逃げ去ったと思しきルート近辺で発見された、と』

 灰馬は軽く目を細め、思案する。

「さて、一体何処の物だ?「会食相手」の所有戦力なのか?あちらが動いているという情報は無かったが…」

『所持戦力は中南米製のインセクト中心のはずですが、トレンド変えでしょうか?』

「何とも言えないな…」

 邪魔になるか否かも含めて、判断するには情報が少な過ぎる。思索を巡らせるスレイプニルは、

「たぶんその組織の戦力じゃない」

 そんな言葉を受けて、助手席の金熊を見遣った。

「根拠があれば聞きたい」

 スレイプニルの問いに、トールはそっぽを向いたまま応じる。

「この国の組織は、小規模なほど保守的になる傾向が強い。勢力が強い組織は、新しい物を取り入れて体質を変える柔軟性を

持っている。…ただしこれはワタシ個人の意見だ」

「なるほど…」

『あ!今トール殿が話しておられましたね!?もしもーし!トール殿!ボクですよー!』

 携帯端末から漏れる男の声に対し、返事をしないどころかパタンと耳を倒し、聞こえないふりをするトール。

「ロキの指示を仰ぎたいが…」

 呼びかける声を遮って灰馬が口を開くと、『もう確認していますよ。指示は二点です。トール殿ー?』と返答が帰って来た。

「早いな。それで?」

『一点目は「任せます」。二点目は「会食に遅れないように」。…でした。スレイプニル殿に対しては例によって丸投げです

ね。ははは。トール殿ー!やっほーう!ボクですよー!』

「信頼の証、と言えばそうだが…」

 やれやれ、と微苦笑したスレイプニルは、数秒黙り、

「任務は予定通り続行する。秘書を探し出すのが最優先である事に変わりは無い。白いモノとやらについては無関係とも思え

ないが、わざわざ調べて回らずとも、用があれば向こうから顔を見せるだろう。逆に、出くわさないようならばそれで構わな

い。調停者達に嗅ぎ回らせて、後日その成果をお前がこっそりと頂く…、それで内容を精査し、対処が必要かどうか改めて考

えるとしよう」

『その通り、ロキにお伝えしますよ。それでトー…』

「では、こちらだけで作戦行動に移る。ハッキングで得た情報を基に、近辺の地図に秘書の予測逃走ルートと白いモノの出現

ポイントをマーキングしてこちらに送れ。本隊はロキの指示を逐次仰ぐように」

 しつこく呼びかける男の声を無視して、スレイプニルは通信を切った。

 ラグナロク結成前に誕生した、現行の物とは一線を画す旧術式で生産された最古のエインフェリアにして、最初のエージェ

ント。そして、中枢メンバーに抜擢されながら就任を拒んだ、唯一の男。

 形の上では枠組みに当て嵌められて来ながら、その実、ラグナロク内でも例外中の例外となっていたのが、このスレイプニ

ルだった。

 ロキもまた、この灰馬については独自の判断で行動する事を許し、現場に同行していない限りは独自の裁量で場を仕切らせ

ている。かつて手元に置いていたシノブやフェンリルにも与えなかった独自権限を持たせているのは、人格、戦力、判断力、

その全てに信を置いているからに他ならない。

「…という訳だ。地図が届き次第、我々は独立行動を取る」

「指示には従う」

 愛想なく返事をして、トールは端末を再び握る。

 依頼した地図は、息をつく間もなく転送されて来た。



「こごらだったっけ…?」

 呟いて車のスピードを落とし、チエは路肩まで迫る木々の領域に目を向けた。

 既に日が落ちて久しい今、暗い闇を抱え込んだ山と森は、ひとがむやみに立ち入って良い場所ではなくなっている。

(時間も経ったし、もうこごらにゃ居ねべげど…)

 再び車のスピードを上げたチエは、無線機にチラリと目を向ける。

『…うぉい!聞けでんだべこの鉄砲玉ぁっ!さっさどけってこって言ってんだごらぁ!おっちゃん怒っと!ゲンコで済まねど!

判ってんだべなおめ…!』

 無線機から流れ出るのは、立腹のあまり立場上の社交用標準語モードが維持できなくなったリーダーの罵詈雑言。

 なお、携帯端末は絶え間ないコールでバッテリーが消耗してしまうので電源を落としている。

 単独で出た事は、十数分前にバレていた。GPSでの位置把握が行なわれているので、現在地も筒抜けである。それでも…。

「ごめんしてでも、急がねぇど…!」

 あの白いモノに襲われたなら、一般人はひとたまりもない。目と鼻の先で議員が拉致され、秘書が逃げている。これ以上事

態が悪くなっては恥の上塗りも良い所。チエは意地になっていた。

「…ん?」

 しばらく車を飛ばした先で、雌猪は山道を先行する車のテールランプに気付く。

(こいな山道で随分スピード出して…。って、他人様のごど言えねぇが。テヘッ!)



「後ろから来る車両、随分飛ばしているな?道に明るい地元の者か…」

 バックミラーに目を遣って呟いたスレイプニルは、後続車が接近した所を見計らい、路肩に寄りつつウインカーを上げた。

 追い越してからハザードランプを点灯させた小型RVを見送り、スイプニルは再び車の速度を上げる。

 が…。

「スレイプニル」

 むっつり黙り込んでいたトールが口を開いた。

「何だ?やはり腹が減ったか?」

 前に視線を向けたまま、軽いジョークを交えながら応じた灰馬は、

「何か居る。左手の稜線付近」

「!?」

 すかさず速度を落とし、トールが眺めている助手席側の窓の景色を窺った。

 木々の中、枝葉に遮られて月明かりも届かない闇の領域に、スレイプニルが目を凝らす。

(ズーム&サーモグラフィティ…)

 既にヒトの域に無いその視覚は、木々の間、山の斜面を登る人影を、熱反応で捉えた。

「正確さに欠けるが、身長、体格からターゲットと思われる」

「出る。山を突っ切るルートで確認する。向こうへ車を回して」

 スレイプニルの返事を待たず、トールは助手席のドアを開け、車外にのっそりと身を躍らせた。

 速度を落としたとはいえ時速60キロ。路面に叩きつけられれば重傷は免れない速度差。

 だが金熊は一切躊躇しなかった。まるで、停まっている車から降りるように。

 左手には鞘に収まった大太刀。宙に置き去りにされながらも、離れ際に右手はドアをそっと押さえて閉める。

 そしてその足は、ブーツを車内に残して素足になっている。

 その両足が路面に接触する前に、パッと、懐中電灯を一瞬だけ点灯させたように、闇の中に光が灯った。

 やや前へ向けた足裏に薄い燐光を宿らせて減速したトールは、足裏をアスファルトに接触させると、火花よりもなお細かい

光の粒子を接触面からまき散らしながら滑走し、やがて静止する。

 身を起こして背筋を伸ばした金熊は、走り去る車のテールランプを見送ると、蒼い瞳を手元に向けた。

 そして、左手で握った大太刀を、豊満な腹の前に腕を被せる格好で右の腰に挿す。

 か細い月明かりに鈍く光るその鍔には、「絆」の一字が彫り込まれていた。

「神威徹、状況を開始する」

 金熊は襟に仕込んだ記録装置に触れて声を吹き込むと、纏うジャケットの黒と共に、森が抱えた闇に紛れて姿を消した。



 チエが車を止めたのは、山道を抜けるまで残り三分の一となった位置での事だった。

 目標地点に到達したわけではない。元々位置など特定できていない。

 目星をつけた場所に着いた訳でもない。視認便りの行き当たりばったりな捜査である。

『チエ。もういい、戻って来なくても良い』

 止めた理由は…。

『捜索隊が、木立の中に突っ込む形で停まっている事故車両を発見した。ナンバーから、秘書が乗っていた車だと確認できた。

本人の姿は無い。山中へ入ったと思われる』

 アイドリングの音に混じるリーダーの言葉を、チエは指をポキポキ鳴らしながら聞き…、

『こちらも急行する!山狩り開始だ!先行して捜索しろ!』

「了解だぁ!」

 出発してから最初の返事。エンジンを切った雌猪は、得物を手に山中へ躍り込んだ。



「くそっ…!どうしてこんな事に…!」

 暗がりの中で呻いたのは、スーツ姿の男。

 見る者が見れば、顔に見覚えがあると気付く男である。テレビなどで、議員の傍に居る姿が見られる秘書なので。、

 黒光りしていた革靴は土にまみれ、顔には深い疲労と焦燥が陰を落としている。

 見通しの悪い山の中、枝葉が風にかさつく音にも過敏に反応していた男は、やがてチョロチョロと小さな水音を耳にして、

ハッと顔を上げた。

「み…、水…!」

 歓喜の色が瞳に浮かぶ。

 大急ぎで、木の枝に歩みを阻まれるおぼつかない足取りで、音の出所を探った男は、ほどなく、小さく抉れて落ちくぼんだ

水の流れを見つけ出した。

「こ、これなら…!」

 男は懐をまさぐると、透明な液体が入ったアンプル容器を取り出し、先端を噛み割って中身を水流に注いだ。

 闇の中なのでほとんど見えないが、無色透明無味無臭の液体は、沢水に混じると白い糸状の物に変わり、四方に筋を伸ばす。

 それは、液体の動きではなかった。流されている訳でも、混じって散っている訳でもない。何かを形成すべく定められた形

状に展開している。

 無数に伸びた白い筋は、流水を捕らえる様に網目状になりながら、その体積を増して行き…。

「で、できた!」

 男が歓喜する。

 ザパっと、水を滴らせて身を起こしたのは、人間に似た姿の、白い異形。

 チエ達調停者は勘違いしていた。白いモノは、議員襲撃犯が放ったものではなく、この秘書が護身用に生成しようとした物。

ある筋から与えられた品に過ぎないので詳細は知らず、議員はこれを使う間もなく殺害されてしまったが、秘書は半信半疑な

がら、この液体を持ち歩いていた。

 そして、この状況になって初めて役立てる事になったのだが、しかし…。

「ま、また一体だけ!?側溝よりは多いが…、それでも水が足りないのか!?」

 期待したほどではなかったと、落胆と焦りに声を上ずらせる男。

 その、追い詰められているが故に発していた独り言が…。

「見つけた」

 呼び寄せた。漆黒を纏う金色を。

「っ!?」

 驚きのあまり絶句し、首を巡らせた男の目に映ったのは、身の丈2メートルほどの大きな熊。

 枝葉を突き抜けて微かに落ちる月光に、黄金を溶かし込んだような被毛が輝く。

 肥満体と言える体つきだが、その太い四肢が、サイズが、同じ人類でありながら、既に別種の生物なのだと視覚情報に訴え

て来る。

 取っ組み合いになったら勝てるわけがない。その腕は容易く自分の骨を折り、砕き、潰せるのだとはっきり判る。

 蒼く冷たい双眸は、秘書の傍らに控える白いモノに向けられていた。

「そのアンプルを水に混ぜるだけで作れるのか…。労力要らずで何処にでも持ち込めて、聞いた所によれば痕跡は残らない。

驚くほど便利で効率的で、まさに…」

 トールは一度言葉を切り、声を低めてボソリと呟く。

「悪魔の道具だ」

 媒体となる液体はアンプル容器サイズで持ち運べる。栄養ドリンクや目薬に偽装もできる。もしこれが出回れば、痕跡を残

さず表の世界をズタズタにできる。

 それだけではない。こんな便利なモノを得たなら、一体何人の一般人が自分を見失ってしまうか見当もつかない。

「簡単で便利で安上がり…。人類が手にするにはまだ早い、過ぎたオモチャだ」

 言葉を切ったトールは、秘書に目を向ける。

「ワタシが知らない技術だ。スレイプニルでさえ知らない以上、ラグナロクの正規採用技術じゃない。ラタトスクが撒いた種、

か?その後ろで糸を引いたのは、アジテーターか、それともノートリアスか」

 言葉の途中で秘書が目を見張る。その反応のタイミングで、トールは知りたかった情報を得た。

「た、黄昏!?まさか…、用済みになったと!?尻尾切りなのか!?」

「どうとでも、好きなように取ればいい」

 感情の抑揚がない声で、トールは告げる。

「死ぬと判っていて無駄な抵抗をするか、それとも、今から全てを話して調停者に保護を求めるか…。どう転んでも終身刑は

免れないものの、楽には死ねる」

 好きな末路を選べ、と。

 しかし秘書は…。

「ふ、ふふふ…!はははっ!」

 唐突に笑い出し、体を折った。

「そいつを殺せ!ホムンクルス!」

 追い詰められ、恐怖と絶望に裏返った声が、山中に響く。

 間髪入れず、白いモノは金熊に躍りかかった。

 自身の活動力維持などの基本行動方針は織り込み済みで、その極めて簡単な具現化に反し、ある程度高いと言える自立活動

が保証されているが、与えられる命令は極々単純な物に限られる。

 「そいつ」という曖昧な表現が用いられた秘書の命令は、もしもトール以外がこの場に居た場合、殺害命令の対象が絞れず、

無差別攻撃命令となる。

 あまりにも手軽に使えて、あまりにも簡単に使い方を誤れる。白いモノは、安全性度外視の兵器と呼べる代物だった。

 だが…。

 踵を返し、脇目も振らず駆けだした秘書は、後方からメギョリ…という音を聞いた。

 振り返らなかったので詳細は判らなかった。振り返る気にもなれなかった。

(寄越した武器に負けるような者を送り込むわけがない!一体じゃダメだ、水があるところへ!もっと水があるところへ!)

 その、何度も転びかけながら逃げ去る秘書をチラリと一瞥した金熊は、左手に掴んだ白い塊を放り捨てた。

 ドサリと落ちたのは、真っ白な右腕。続いてドガンと木の幹に激突したのは、白い本体。

 跳びかかった白いモノとすれ違いざまに、トールはその腕を掴み、脇腹に蹴りを入れていた。

 その威力のあまり、蹴り飛ばされた白いモノの右腕は、掴まれて固定されていたせいで付け根からもげている。

 ズルズルと木の幹に沿って落下した白いモノは、しかし痛みなど感じていないように跳ね起きる。

 ばね仕掛けのように跳びかかる、速いが単調な突進。伸ばされる左手は五指を広げ、眼球を潰し脳をほじくろうとしていた

が、金熊はその肥った体躯からは想像もつかない素早さで、右脚を出して半身になって上体を傾け、胸を反らし首を傾ける格

好で回避し、前に出したその右拳を、白いモノの腹に叩き込む。

 九十度に腰を折り、跳ねあがる白い体。

 大人ひとりの体躯が軽々と浮き上がる強烈なボディブローに次いで、捻り直す体躯から繰り出されたのは左の撃ち下ろし。

 重力に捕まり、地面に向かう白いモノの顔面を、左拳が撃ち貫き、頭蓋を陥没させて押し潰し、脊髄を九十九折りにし、胴

長を三分の一ほど縮める形に破壊せしめる。

 圧倒的かつ常軌を逸した剛力と身のこなし、反応速度による、理に叶った、無駄も容赦も無い破壊だった。元が水とはいえ、

人体と変わらない強度を持つホムンクルスが、紙切れ同然に壊されている。

 絶命と呼ぶべきか、完全破壊と称するべきか、とにかく頭部を見る影もなく潰され、胴を破壊され、活動停止に追い込まれ

たホムンクルスは、ドロリと溶けて水になった。

 それを確認したトールは、秘書が去った方向へと、蒼く冷たく光る瞳を向け直す。

 追いつこうと思えばすぐに追いつけた。ホムンクルスを避けて捕まえる事もできた。

 そうしなかったのは、相手を泳がせて希望を持たせるためだった。

 希望が絶たれた後の絶望は、ただの失望よりもなお色濃い。

(収穫には、その方が良い…)

 秘書が駆けて行った方向へ、トールはゆっくりと素足で歩み出す。



『…という事のようです』

「判った。山に入り、捜索する」

 迅速なハッキングで盗み出された監査官、調停者側の情報を伝達され、スレイプニルは適当な場所で待避所に車を入れ、停

めた。

 ジャケットの上から鈍く光るブレストアーマーを着用し、肩口に軽く触れると、その意思を受けて、アーマーは迷彩のため

に表面を黒鉄色に変化させる。

『時にスレイプニル殿?トール殿はお傍におられますかね?…ああ!寒空の下長時間任務に勤しまれて、そのふくよかなお体

もさぞ冷えている事でしょう!お可哀想に!お戻りになられましたらすぐに温まれるようこのスレイめが…』

「切るぞ」

 一応断りを入れ、しかし返事は待たずにプツンと通信を切って端末を仕舞い、襟元の装置に触れた灰馬は、

「状況を開始する…」

 短く呟き、トールが降りた場所とは山を挟んで反対側の位置から、進行を開始した。