Evolution of White disaster (act4)

早朝。夜明けの近い、明るみ始めた空の下、マユミに案内されて行った狭い空間で、

「ふむ…。ここにかね?」

と、ユウヒは足下の白猫に視線を向けた。

(はい。この街で暮らしていた方のおじいさまが、何かの時の為にと、私に遺して下さった物が眠っています)

二人が居るのは、建物と建物の間の、通路ですらない細い隙間を抜けた先に存在する、一辺2メートル程の狭い空間である。

マユミは楽々と通り抜けられるが、成人男性の肩幅よりもやや狭いその通り道は、ユウヒの巨体には狭過ぎた。

体を横にして通過を試みたユウヒだったが、分厚い体躯がつっかえて通過は叶わず、マユミに困惑顔を向けられて少々決ま

り悪い思いをしている。

やむなく、人目につかないよう注意してビルを乗り越えるという非常識極まりない進路を選択したユウヒは、上から侵入し

てようやくここまで辿り着いていた。

二人が見つめるコンクリートの壁面には、茶色く錆び付いた鉄の扉がある。

とあるアパートの裏手側の一角であるが、ここは配管整備用通路の入り口にカモフラージュされた、秘密の部屋の入り口で

あった。

濃い茶色に錆びた扉を眺めながら、ユウヒは「ふむ」と頷き、ボソリと呟く。

「錆び付きし 扉はまるで ちょこれいと」

季語は元よりセンスのかけらもない一句を口にして満足げに頷いたユウヒは、しかし本人はかなり本気で満足していた。

感想を求めるように向けた視線の先で、白猫は小さく首を傾げる。

今耳にした物が、ユウヒが「これは会心の出来」と自己評価した一句である事など全く気付きもしないまま。

(お腹がすいたのですか?)

「…いささか…」

少しばかり切なそうな表情を浮かべたユウヒの顔を見上げたマユミは、可笑しそうに目を細めた。

(うふふ…!早めの朝ごはん、軽くとおっしゃいながらもあれだけお召し上がりになっておられたのに、つくづく健啖家でい

らっしゃいますね)

ダメ出しされるよりなお切ない、気付いてすら貰えなかったという反応。

ある意味最も厳しい評価に、ユウヒは目を伏せながら少し寂しそうに耳を横に倒した。

(それほど詳しいものではないと聞いていますが、二年ほど前までに黒武士が取引、あるいは携わった事のある危険生物の資

料もあるそうです。…もっとも、私も利用するのは初めてなので、どの程度のものかは判りませんが…)

自分的には上出来の一句が無かったものとして扱われ少々へこんでいたが、マユミに促されたユウヒは気を取り直して錆び

た鉄扉に歩み寄ると、土埃などが堆積したノブを払い、先に預かっていた鍵を差し込んだ。

軋んだ音を立て、埃と錆をパラパラと落としながら引き開けられた扉の向こうに、地下へ続く暗い通路が現れる。

(では、ゆきましょう)

「うむ」

マユミが先に立ち、二人は数年間踏み入る者の無かった地下へと、淀んだ空気を押し退けながら下って行った。



マユミの為に遺されていた隠し資料を手に入れたその数時間後、カルマトライブ調停事務所の資料室で、

「…実は…、ぱそこんなる品を弄った経験は無いのだが…」

ユウヒは起動画面を表示しているデスクトップタイプのパソコンのモニターを前に、顔を顰めていた。

先程入手したばかりの極秘データが詰め込まれたディスクをPCに挿入し、机の上にチョコンとお座りしたマユミは、難しい

顔で腕組みしているユウヒを振り返る。

(大丈夫です。この体でもキーを打つ程度の事は支障なくできますから)

両前足でマウスを挟んで器用にカーソルを移動させたり、キーボードをタコタコと操作したりしている白猫の姿は、実に一

生懸命で愛くるしい。

微かに顔を綻ばせながらその様子を見守っていたユウヒは、やがてモニターに表示されたリストを目にして困り顔になる。

「…恥の上塗りになるが、この際言ってしまおう…。実は…、英語の読み書きも全く…」

アルファベットが並ぶリストから視線を外し、マユミはユウヒの顔を見上げた。

(大丈夫です。国外の危険生物のリストなのでタイトルは英語ですが、中には日本語の解説も載っていますから)

にゃぁにゃぁ鳴いてそう告げたマユミは、ユウヒがほっとしたような顔をすると、少し可笑しくなって目を細めた。

(何でもそつなくこなしてしまわれるような印象を持っておりましたが…、ユウヒさんにも苦手な物がおありなのですね?)

「それは買いかぶりという物だ。苦手な物などごまんと在るでな…」

苦笑いしたユウヒは、操作に戻ったマユミの邪魔にならないよう、口を閉ざしてしばし作業を見守った。

(…あ、これです。アルの話を聞いて、引っかかるものを感じたのは…)

マユミがリストから選択し、解説が画面に表示されると、ユウヒは目を細めてモニターを凝視した。

「…高機動及び隠密性能、高い殺傷能力を追求した生物兵器とな…?…なになに、擬態能力を持ち…」

解説を読み終えたユウヒを、マユミは申し訳無さそうに振り返る。

(実際には、黒武士はコレに関する取引を行わなかったようです。ですので、性能の詳細は判りませんが…)

「ふむ…。いや十分だ。名と特徴が判っただけでも収穫と言える。アル君やナガセ殿の役に立つ事だろう」

マユミは画面に視線を戻すと、すぅっと目を細めた。

(取引先は、オブシダンクロウですね…。近頃は跡目相続のゴタゴタで力が削がれているはずですが、この当時は先代総帥が

健在だったはずです。この価格を見るに、相当強力な危険生物だと察せられますが、私もこの名を見聞きした事は一度だけ…。

国内では全くと言って良い程知られていないタイプでしょう)

「ふむ。まだ分類整理もされてはおらぬ…、という事かな?」

(おそらくそうです。政府が判定を終えているモノならば、私にも判りますので)

「…アル君も、復帰直後から難儀な事よ…」

(同感です)

いささかついていない若き調停者の事を案じ、二人は困ったように顔を見合わせた。



「ふむ…、学校では特に教えておらぬのかね?」

「いやぁ、習ったかもしれないんスけど…、オレ授業中は殆ど寝てるっスから。高校からは特に…。てへへ!」

笑いながら頭を掻いたアルをジト目で見つめ、ソファーに寝そべっていたマユミが尻尾をくねらせる。

(「てへへ」じゃありませんよアル…!ユウヒさんも、何を面白そうに笑っていらっしゃるんですか?そこは叱ってあげてく

ださい!)

午後三時。本日のトレーニングを終えたアルは、ユウヒ、マユミと共に午後のお茶を楽しんでいた。

ひょんな事から話題は獣人差別の事に及んだのだが、身をもって経験している側である白熊自身が、そもそも差別の歴史を

詳しく知らない。

「何で首都とか、でっかい街とかには結構あるのに、地方とか田舎の方には無いんスかね?」

「それは、文化の流入に依る部分が大きかろうなぁ…」

アルとはテーブルを挟んで向き合っているユウヒは、たっぷりした顎の下を撫でながらマユミを見遣る。

(獣人差別の起こりについては、通常の教育課程では教えられません。おそらく、今では何処の国でもそうかと…。差別意識

を刺激する可能性があり、教育上良く無いとかで…)

ユウヒの視線を受けたマユミは、目だけでの問い掛けにそう応じ、ユウヒは珍しく不快げに太い眉を顰める。

「ふむ…。臭いものには蓋、か…。こういった物は目を背けず、根本から正さねばなるまいに…」

「蓋?何の話っス?」

「いや済まぬ。こちらの事だ」

まさか白猫と巨熊が意思疎通しているなどとは思ってもいないアルが、呟きを耳にして不思議そうな顔をすると、ユウヒは

しれっと誤魔化した。

マユミは思案するように目を細めながら、アルの横顔を見遣る。

(…ですが、アルも知っておいた方が良いかもしれませんね。もう子供ではありませんし、今なら受け入れられるかと…)

小さく頷く事でマユミに応じたユウヒは、重要な部分をかいつまんで話して聞かせる事にした。

「なるべく簡潔に纏めるが…、重要な所から伝えると、獣人差別とは舶来の価値観なのだ。これは知っておったかな?」

アルが「どこかで聞いたような聞かないような…」と曖昧な顔をすると、ユウヒは付け加える。

「獣人を忌避する風潮は、元々はこの国に存在せなんだ。皆無であったと言っても良い」

「ん?どういう事っス?無かった?」

顔中を疑問符だらけにして問うアルに、ユウヒは続ける。

「事の起こりはとある宗教。その教えにはこうあった。「人は神に似せて作られた」と」

急に宗教の話が出されて困惑するアルに、巨熊は目を細めて問い掛ける。

「人が神に似せて作られたのであれば、獣人は何だと思うかね?」

「へ?」

首を傾げたアルに、ユウヒは静かに続けた。

「その宗教ではこう説いた。獣人とは、人が獣とまぐわった結果生まれた、不浄の民であると」

少なからず衝撃を受け、言葉が継げなくなったアルを見つめ、ユウヒは考える。

(ネネ嬢もダウド殿も、この事は話しておらなんだか…)

「何分、科学が未発達の時期の事だ。さすがに今では教義からは外されておる。無論根も葉もない説ではあったが、当時この

宗教が爆発的に広まるにつれ、この教義もまた一般に広く浸透して行った」

「ちょ…、ちょ!?なんか…、なんか凄く酷くないっスかそれ!?」

身を乗り出したアルの顔には、憤りや不満よりも、戸惑いが強く浮かんでいる。

「皆信じたんスか?そのへんてこな話を?何で!?」

「当時は人間よりも、獣人の方が権勢を握っておった」

また唐突に話が変わり、アルはひとまず口を閉じる。

「現在重んじられている物とは異なる力…、つまりは武力が重視された時代…。鉄砲も爆弾も無い時代…。一歩兵が歴史に名

を刻んでおった時代…。身体的に恵まれていた獣人は、人間よりも優位に立っていた。国の重鎮に多くの武人が据えられてい

たその頃、腕っ節の強い者ほど歓迎されたのでな」

何の話になったのかと戸惑うアルの様子を見ながら、ユウヒは静かに、ゆっくりと言葉を紡いでゆく。

かつて、自分の妹と同い年の従者に、全く同じ話をした時のように。

「疎まれておったのだろうな。政者にとっては便利な戦力ではあっても、民衆にとっては、当時何かと優遇されておった獣人

は、疎ましい隣人だったのかもしれぬ。だからこそ、初めは施政者ではなく民の間にこそ大きく広まったこの宗派の教えは、

当時の人間達にとっては痛快な説であったのかもしれぬ。その事がその宗教の爆発的な広まりに拍車をかけた事もまた、疑い

ようのない事実よな」

妬み。それがそもそもの発端だったのかと、アルは愕然としながら考えた。

「宗教は、ひとに様々な物を与えた。生きる指針、文化、道徳、そして争い…。心の安寧を求めて縋る物が、気付けば争いの

火種にもなっておる。ひととは、何とも業深き生き物よ…」

ユウヒは一口茶を啜ると、「少々話が長くなったが…」と呟き、軽く顔を顰めた。

「もはや教義にも残っておらぬが、刷り込まれた思想は根深く、文化の中には風潮が残ってしまった。それが、現在の獣人差

別という訳だ。これらは戦後、欧米諸国からの文化の流入に伴ってもたらされた物でな。それ故に近代化が早く進んだ都市ほ

ど根深い物となっておるそうだ」

衝撃を受けながらもコクコクと頷いたアルは、おずおずとユウヒに尋ねる。

「あの…、この国には無かったって話なんスけど、元々宗教そのものはあったっスよね?何で日本じゃ差別が起こらなかった

んスか?」

「この国では自然崇拝が盛んであった事が要因だと、歴史研究家諸氏は見ておるそうだ」

首を捻った白熊に、ユウヒは「こんな話はつまらぬだろう?」と苦笑いしたが、アルは先を聞きたいとせがむ。

アル自身も意外であったが、勉強嫌いの白熊は、ユウヒが語る歴史の話に興味津々であった。自分達獣人が関わる話である

事も手伝い、退屈するどころか興味が尽きない。

「元より獣を神の使いと見ておった国柄だ。獣人差別思想は起こりようも無かったと言う学者もおる」

「そういえば、神将家って全部獣人なんスよね?」

「さよう。我等神将の始祖は、帝より直々に姓(かばね)を賜るという光栄に預かった。これもまた、当時の武家社会におい

ては獣人が蔑視されておらなんだ証拠と言えような」

ユウヒはアルにせがまれるまま、獣人差別について様々な事を語る。

戦後、敗戦国となったこの国に、差別のない国だと聞いて多くの獣人が移り住んだ際、皮肉にも同時期に流入してきた西洋

思想と共に獣人差別が広がり始め、彼らにとっても楽土とはならなかった事。

西洋のそれと比べ、東洋の神々には獣の姿で描かれる神も少なくない。この事もまた、東洋では獣人差別が起こらなかった

原因であると、研究家が主張する根拠となっている事。

山奥で暮らすユウヒが予想に反して実に博学であった事に驚きながらも、アルは好奇心から次々と質問をする。

ユウヒが披露した知識には、マユミも知らなかった事が多く含まれており、彼女もまた興味深そうに耳を傾けていた。

「宗教っていえば…、神将家って昔は神様扱いだったんス?帝みたいに」

「いや、神将とは「神に仕える将兵」故にそう呼ばれておる訳でな、神扱いなどはされておらぬよ」

若い白熊の発想を面白がっているように応じたユウヒに、アルはついでに尋ねてみた。

「神将家の信仰って、どうなってるんスか?やっぱり神道っス?」

「形式はほぼ同じであろうが、我等は神ではなく人としての帝を崇めるでな。信仰とは少々異なる」

「え〜と…、だと無信仰なんスかね?」

「微妙な所だな。神なるものを全く信じておらぬという訳でもない」

難しい顔をしたユウヒに、アルは首を傾げる。

「こう、何かをお願いしたりとか、しないんス?」

「俺が思うに、神とは、救いを求めたり、願いを叶えて貰う為に縋るべき存在などでは無いのでは、と…」

「ん?」

「例えばだが…、思いがけぬ幸運に見舞われ、誰に礼をすべきか分からぬとき、胸の内で拝むべき存在…。叶えたい願いがあ

る際に、それを実現する誓いを立てるべき存在…。神とはそういったものであるべきではないかと、俺は思うておる」

アルは目を丸くして「ほへぇ〜…」と漏らし、ソファーに伏せて黙っていたマユミは首を起こす。

「…やはりおかしいのかな?この考え方は…」

困ったように頬を掻いたユウヒに、白い二名はプルプルと首を横に振る。

「何となくっスけど、それが正しいような気がするっス!」

(ええ、私も同意見です)

アルが口元を綻ばせながらウンウン頷き、マユミも立てた尻尾をゆらゆら揺らしながらユウヒを見つめる。

二人から感心しているような視線を向けられた巨熊は、腹を揺すって可笑しそうに笑った。

「はっはっは!まぁ、今のはあくまでも俺個人の考え、鵜呑みにはせんで貰いたい」

重要な事から雑学まで、催促されながら語ったユウヒは、

「これだけ喋ったのは久方ぶりよな…」

苦笑いしながら呟き、空になっていた湯飲みに茶を淹れ、喉を潤しながらアルに尋ねた。

「勉強は嫌いと聞いておったが?」

「嫌いっスよ?でも、ユウヒさんの話は面白いっス!」

詳しい話を聞いたアルは、衝撃を受けたし、時に憤りも覚えた。

だが、ユウヒが興味深い雑学等も交えて語った事もあり、差別の発端を知ってもなお、アルは強い怒りや恨みを覚える事は

無かった。

「差別は西洋でも廃れて来ておる。無くなるのは時間の問題であろうな。それが証拠に、差別が最も激しいとされておった米

国の頭にも獣人が就いた。時代は変わる。ひとと同じように移ろう物だ」

微かな笑みを浮かべるユウヒに頷きながら、アルは米国の現大統領である黒豹の顔を思い浮かべた。

(オレの生まれ故郷なんスよね…。あの国…)

物心つく頃にはすでに首都で暮らしていたアルにとって、生まれ故郷に対する望郷の念のような物は無い。

だが、母と父が過ごしたはずのその国で獣人が大統領に選ばれ、差別が徐々に消えて行っている事は、アルにとっても喜ば

しかった。



午後四時。トレーニングの疲れが出たのか、事務所のリビングでひっくり返っているアルを、音もなく廊下を歩いて来た白

猫が見遣る。

ユウヒは食材の買出しと挨拶回りの為に外出しており、今現在、事務所内にはこの二人しか居ない。

神代家の当主は、明日の昼に東護を去り、河祖下へ戻る事になっている。

今日のトレーニングは、最後になる事と、アルの体調がすっかり戻っている事から、これまでより少しばかり厳しい物になっ

ていた。

昨夜の任務の疲れも残っていたのだろうアルは、ユウヒから長い話を聞いている最中には居眠りせずに過ごせたものの、今

は床の上に大の字になり、ぽかんと口を開けて眠っていた。

ポッコリした腹が規則正しく上下している様子を眺め、和んだ気分になりながら、マユミはアルを起こさないよう静かに歩

み寄り、そのあどけない寝顔を眺める。

(逞しくなりましたし、体も随分大きくなったと思いますが…、顔立ちは小さかった頃の名残りがまだありますね…)

まだ自分が人間の姿をしており、病も発症していなかった頃。

保護者の白虎に連れられていた、当時小学生だったアルと初めて顔をあわせた時の事を、マユミは昨日の事のように思い出す。

同い年の子と比べて飛び抜けて大きく、そして今同様にコロコロと太っていたアルは、しかし当時はまだマユミよりも頭一

つ分背が低かった。

恥かしがってダウドの後ろに隠れ、照れ笑いしながら自分を見ていた縫いぐるみのように愛くるしい白熊の子。

おずおず「はじめましてっス…」と、はにかんだ笑みを浮かべたあの時、その舌足らずな発音すら可愛らしく聞こえたマユ

ミは、顔が自然に綻んだものである。

(もう…、十年にもなるのですね…)

時の流れを感じつつ、マユミは甦った懐かしい想いを胸の内で暖める。

その少し後に体調が崩れ始めたマユミは、それから数年後にはほぼ寝たきりの生活を強いられるようになっていた。

そしてこの姿に変わり、首都を離れて東護に身を寄せている間に、アルは調停者となった。

不思議な巡り会わせだと感じながら、マユミは思う。

もしも自分が病におかされず、今も首都に残り、祖父の後を継いで黒武士会を率いていたなら、アルとは敵同士として再会

していたのだろうか?

それとも、アルもあの白虎のように、彼女達の営みを黙認してくれただろうか?

本来はそうあるべきであった、今では閉ざされた自分の人生の本道。それが、今ではこのように奇妙な形で枝道に入り込ん

でしまっている。

(それも良いでしょう…。このような素敵な巡り会わせが、いくつも待っていたのですから…)

猫の体になっている事すら許容し、今の状況を歓迎してしまっている事を、自分の事ながら少し可笑しく思いながら、マユ

ミは目を細めて若い白熊の寝顔を眺めた。

むにゃにゃと口を動かしたアルはゴロンと寝返りをうち、体の右側を下にして横になる。

投げ出された腕にぶつからないよう位置を変えたマユミは、めくれた半袖ティーシャツの裾から覗く白い腹が、自重で床に

押し付けられて半分潰れた形になっているのを目に止め、小首を傾げた。

(…いくら何でも…、少々太り過ぎではないですかアル…?入院前はもう少しこう…。…ただでさえ食生活が不規則なのに、

ユウヒさんも夜中にもりもり食べさせるから…)

呆れ顔で右前脚を上げたマユミは、床面にたふっと乗ったような形になっている白熊の腹を軽く押してみる。

(あ…、でもこの手触りはありかも…)

白い豊かな被毛は、その下に蓄積された皮下脂肪と相まって、ふかふかぽよぽよと柔らかい。

予想外の好感触が気に召したらしく、アルの腹を両手でもにもにし、その感触を楽しむマユミ。

こそばゆいのか、軽く顔を顰めているものの、アルには起きる気配がない。

しばしの間アルの脂肪と被毛と戯れていたマユミは、ピンポ〜ン…と、軽やかに鳴ったチャイムの音を耳にし、手を引っ込

めつつ首を伸ばして耳を立てた。

同時にアルも「んむぅ…?」と呻いて薄く目を開ける。

大欠伸しながら身を起こしたアルは、目を擦りながら玄関に向かい、マユミもその後をついてゆく。

「どうぞ、開いてるっスよ〜」

上がり口から声をかけたアルは、躊躇いがちに開けられたドアの向こうから姿を現した来客の姿を目にし、意外そうに目を

大きくする。

「ノゾム君?」

この種にしては珍しい、コロっと太った体型の若い狐は、驚いているアルを上目遣いに見ながらペコッとお辞儀した。

「あ、あの…。突然お邪魔しちゃって、ごめん…」

「いや、良いんスけど…。あ!どうかしたんスか!?緊急招集!?」

表情を引き締めた白熊に、狐はふるふると首を横に振るた。

「えと、違うの…。僕…、昨日の事で…」

狐は耳を伏せて顔を俯けると、右手に下げていた紙袋を両手に持ち替え、アルに差し出した。

「昨日は…、何回も助けてくれて、有り難うございました。あと、怪我させちゃって、ごめんなさい…」

紙袋を差し出しながら深々と頭を下げたノゾムに、アルは慌てて声をかけた。

「そんな!改まってお礼言われるような事してないっスよ!それに、怪我もホラ、大した事無かったっスから。…って言うよ

り、傷は…」

大した事が無いどころか、出血したのは確かでありながら、外傷が見つからないという奇妙な状況。

どう説明すれば良いか判らず、口ごもったアルの顔を、おずおずと顔を上げたノゾムは心配しているように窺う。

「で、でも…、本当に?本当に大丈夫なの?」

「バッチリっスよぅ!ほらこの通り!」

アルは丸太のように太い左腕を上げると、笑みを浮かべながら力瘤を作って見せた。

ほっとしたように少し表情を緩めたノゾムは、手元の紙袋に視線を落とすと、改めてアルに差し出した。

「あの…、これ、お見舞いっていうか、お礼っていうか…」

礼を言いながら受け取ったアルは、紙袋の中の菓子箱を見て、「お」と声を漏らした。

ノゾムが用意してきた品は、この県の県庁所在地である市の銘菓。フワフワのスポンジの中にカスタードが詰められた、満

月を思わせる薄黄色の菓子であった。

「これ大好きなんスよ!悪いっスねぇ、騒いだ割に大した事無かったのに、心配かけた上に気を遣って貰っちゃって…」

「う、ううん!どんなのが喜ばれるか判らなかったから、無難なのを選んだつもりだったんだけど…、良かった…!」

ほんの少しだけ笑って見せたノゾムを、アルは笑顔で手招きした。

「上がって行かないっスか?…って言っても、オレも居候なんスけどね…、へへへ…!」



「オレがここに寝泊りしてるって、何で判ったんスか?」

「タネジマ監査官に訊いたの。そうしたらカルマトライブの事務所だって。ちょっとビックリした」

アルの問いに応じたノゾムは、リビングの中を見回した。

二人はリビングのテーブルを挟んで、フローリングの床に直接腰を降ろして向き合っている。

なお、気を利かせて席を外したマユミは、資料室でこっそりパソコンを弄っている。

テーブルの上にはアルが淹れた玉露茶と、茶請けの芋ようかん。

どちらもユウヒが選んできた品で、ようかんに至っては燃費の悪いアルのおやつにと、十本程纏め買いしておいてくれてい

た物である。

「上位調停者の事務所って言うから…、どんな所かなぁって思っていたんだけど…」

「ははは!全然普通に見えて、拍子抜けしたっスか?」

笑って応じたアルは、調停に関係する資料や品、設備等は別の階に集中している事を説明した。

この事務所はそのまま二人の住まいでもあり、今自分達が居るのは、居住に当てられている部分なのだと。

この事務所の本来の主達が行方不明になっている事は、ノゾムも知っている。未だに見つかっていない事も。

口まで出かかったものの、狐は思い直し、あえてその話題には触れないようにした。

「元はビジネスホテルだったらしいっスよ」

「うん。それは知ってた」

「あ、そういえばノゾム君の地元っスもんね…」

「僕が小さい頃に廃業したみたいなんだけど、ずっと買い手がつかなくて、処分もされなくて、幽霊ホテルって呼ばれてたん

だよ?この辺じゃ珍しい、外国のドラマに出てくる建物みたいな外観だったし」

「…幽霊ホテルって…、ホントに出たんス…?」

首を縮めながら薄気味悪そうに周囲を見回したアルの様子を見て、ノゾムはクスッと小さく笑う。

「子供が言い出したただの噂。買い手がつかないのは、幽霊が出るからだっていう話だったんだ」

ほっとしたようにため息を漏らしたアルに、ノゾムは微笑みながら尋ねる。

「この手の話、苦手なの?」

「苦手って訳でもないんスよ。怪談の特集なんかはテレビでもよく見る方っスから。でも、知らないでそういうトコに寝泊り

してたのかなぁって思ったらちょっと…」

苦笑いで応じたアルに、ノゾムは少し意外そうな視線を向ける。

「そういう番組も見るんだ?」

「え?おかしいっスかね?」

「いや…、おかしいって事じゃないんだけど…、思ってたより、普通なんだなぁって…」

首を傾げたアルの顔を上目遣いに窺いながら、ノゾムはおずおずと口を開いた。

「ブルーティッシュのメンバーだし、この年で中位調停者になるぐらいだから、もっとこう…、普通じゃないのかと思ってた…」

「う〜ん…、やってる事や考えてる事はたぶん普通っスよ?趣味はプラモ作りだし、アニメもドラマも見るっス。ファースト

フードは好きだし、勉強は嫌い。普通っスよね?」

薄赤い目に狐の姿を映すアルは、「そうなんだ…」と呟いた同年代の調停者から、少しだけ硬さが取れたような気がした。が、

「ところで…、昨日見たの、何だと思う?」

ノゾムはすぐにまた表情を真面目な物に戻し、アルに問いかけた。

その表情は幼さを残した丸顔に、しかし生死を賭して調停を為す者特有の鋭さを加えている。

(真面目っスねぇ…。さっきちょっとだけ見せてくれた柔らかさが、スイッチでも入ったみたいに急に消えたっス…)

少しばかり残念に思いながら、アルはとある人物の顔を頭に思い浮かべていた。

普段は適当でちゃらんぽらんだが、一度戦場に立てば無双の鬼神と化す、自分達を率いる白虎の顔を。

(…ま、調停者って、結構そういうひと多いかも知れないっスけど…)

アルがそんな事を考えていると、太った狐は顔を少し俯けながら続けた。

「最初は…、人間の男の子に…見えたよね?匂いだってそうだった…。抱き止めて、間近で嗅いだから、あの甘い臭いの中で

も間違うはず無い…」

ノゾムは両手を胸の前に上げ、手の平を見つめながら身震いした。自分があの時抱き止めたモノが見せた、急激な変貌を思

い出して。

「…判らないんだ…。あんなの見た事も無い…!直前まで、間違いなく普通の子供の匂いだったのに、アレが…、尻尾が生え

たら、中から別の臭いが…」

「中?」

引っかかる物を感じて眉を上げたアルに、ノゾムは小さく頷く。

「滲み出すように、別の臭いが漂った…。血の臭いとか…」

(あの甘ったるいお香か何かの臭いの中で嗅ぎ分けられたんス?)

獣人の多いブルーティッシュ内でも、嗅覚の鋭さはトップクラスのアルである。鼻には少々自信があったのだが、ノゾムが

言う変化には全く気付けなかった。

「すご…!良く気付いたっスね?あの臭いの中でそんな事まで…」

「いや…、後から思い返して気付いただけで、あの場じゃもう、怖くて固まってたから…」

情け無さそうに耳を伏せてしゅんとした狐に、アルは身を乗り出しながら尋ねた。

「鼻、良いんスね?オレも鼻には自信あったんスけど、ちっとも気付けなかったっス」

「数少ない取柄だけど、良い方みたい。目が悪い代わりかな…」

アルはしばらく考えた後、小さく頷いた。相手は同業者、話してしまっても問題無いだろうと判断して。

「アレの事、オレもあんまり詳しくは知らないんスけど、ちょっとだけなら聞いたっス」

今朝方ユウヒから聞かされた、自分が相対した存在の事を、アルはノゾムに話し始めた。

「ギルタブルル?」

首を傾げた狐に、アルは腕組みしながら頷いた。

「聞いた事無いっスよね?」

「うん…。マイナーなの?」

「らしいっス。国内外どっちでも事件に関わった資料が見つからないみたいっス。おかげで詳しい事は判らないんスけど、人

間に化けるとかなんとか…」

「…人に…化ける…?」

「うス。まぁ、どうやってるんだか良く判らないんスけど…、オレ達が見た通りっスね」

「それで男の子の格好をしていたんだ…。あれが人間に化けた姿…?」

怖気を感じたか、ノゾムは丸い体をまたブルルっと震わせる。

「見た目も匂いも人間そのものだった…。ちゃんと服を着て、人混みに紛れちゃったりしたら…」

「…うえ…!想像したくないっスね…」

アルはノゾムが口にした仮定を想像し、嫌そうに顔を顰めた。もしもあれが一般人に紛れ込んだなら、探し出すのは一苦労

である。

「一応、タネジマさんにはユウヒさ…、えぇと…、ここのメンバーのユウトさんのお兄さんから連絡が行ってるっス。もう資

料集めしてくれてるはずっスから、その内対策立ててくれるっスよ」

「…うん…」

明るく装われたアルの言葉にも、しかしノゾムは不安げな表情のまま頷いただけであった。

何となく頼りない同い年の同業者を見遣りながら、アルは湯飲みを取って茶を啜る。

(…何かこう…、放っとけない感じがするっス…)

初めて出会う同い年の調停者という事も興味を覚える一因ではあるのだろうが、どこか自信無さげで、おどおどとした様子

が見られるこの狐の事が、アルはひどく気になった。

「ところで、さっき言ってたっスけど、目良く無いんス?」

問われたノゾムは一つ頷くと、深みのあるダークブラウンの瞳を指さす。

「両方0.04…、近眼なんだ。コンタクト無しじゃあまり見えないくらい。おまけに、能力を使うと一時的に視力が無くなっ

ちゃう」

ノゾムの言葉を聞いたアルは、昨夜この狐が発火能力を披露した際に見せた瞳孔の変化を思い出す。

「副作用…っス?」

「うん。…致命的だよね?僕のは有視界内でしか発火できないのに、使った途端に視力が無くなる…。だから連続使用はでき

ないし、一度使ったら数秒間は物が見えない…」

昨夜、能力者である事が羨ましいと言った際にノゾムが見せた反応を思い出しながら、アルはおずおずと尋ねてみた。

「問題ないなら、能力についてちょっと教えて欲しいんスけど、良いっス?」

ノゾムは少し表情を硬くしたが、顎を引いて小さく頷いた。

「ノゾム君のそれは…、有視界内なら、好きなトコに発火させられるんスか?射程距離はどのぐらいなんス?」

「うん。力が影響するのは実際に見えている箇所にだけ、障害物越しとかは無理。ベストスコアは、75メートルからで誤差

コンマ5ミリ。…コンタクトか眼鏡は必須だけど…」

白熊は口をポカンと開け、狐の顔を見つめる。ノゾムが口にした数値は、アルが呆然とする程デタラメなレベルの物であった。

詳しく話を聞いてみると、ベストコンディションでおこなった所、75メートル離れた的の中心部である直径五センチの円

を、焦げ目を含め、誤差0.5ミリ内の範囲だけで燃焼させる事ができたらしい。

(とんでもない正確さっス…。視力の方は、その精密さの副作用っスかね…?)

見えてさえいれば、75メートル内の何処でも、瞬間的に発火させる事ができる。

これはつまり、75メートル内に踏み入った敵の顔面をピンポイントに燃やす事ができるという事である。

「外したら次が無いから、あまり使えないんだけれどね…。発動までに短時間だけど集中が必要だし…。僕と同じで役立たず

な能力だよ…」

自嘲気味に笑ったノゾムの前で、しかしアルは考える。

(単体で見れば、確かに使い所が難しそうっスけど…。アンドウさんとかナガセさんとかなら、上手い立ち回り方思いつくん

じゃないっスかね?)

「あの…、オールグッド君?」

躊躇いがちに声をかけられ、アルは考え事を後回しにし、ノゾムの顔を見遣った。

「アルでいいっス。オレの名前、上も下も長ったらしくて呼びにくいっスから」

笑いながら言ったアルに、少し躊躇いながらも頷くと、ノゾムはおずおずと尋ねる。

「学校行きながら、調停者してるんでしょ?…大変じゃない?」

「そりゃもう!すぐにもやめたいぐらいっス!」

アルが身を乗り出して即答し、ノゾムは気圧されたように少し仰け反る。

「だいたい、大学やら高校行きながら調停者やれた人なんて、これまで五人しか居なかったらしいっス!頭悪いオレには荷が

重いんスよ!」

腰を浮かせてテーブルに手をついて身を乗り出し、一気にまくし立てたアルは、やがて「はぁ…」とため息をつき、どすん

と腰を下ろした。

「…でも、高校は絶対に出ろって、保護者にキツく言われてるんスよ…。逆らうと後がコワいんス…」

「保護者が…コワい?」

頭をガリガリと掻きながら困り顔で頷くアルを、ノゾムは少し意外に思いながら見つめた。

ブルーティッシュの前衛を任される、現役最年少の限定中位調停者。

自分とは住む世界が違う、優秀で完璧な調停者だと考えていた白熊が、妙に身近に感じられて。

「美人で、優しい事は優しいんスけど、とにかく怒るとコワ〜イ、厳しいヒトなんス…」

情けなさそうに眉を八の字にして呟くアルを眺めながら、ノゾムは不思議に思って僅かに首を傾げる。

保護者と称した人物に対するアルの口ぶりは、親というにはいささか微妙なものに感じられて。

「あ〜…、ウチのサブリーダーの事なんス。怒らせると無茶苦茶コワいから、逆らえないんスよぅ…」

ノゾムが疑問に思っている事を察し、そう付け加えたアルは、「そう言えば…」と狐の目を覗き込んだ。

「ノゾム君の家は、何やってるんス?ご両親とか」

アルにとっては、少し興味を持っただけの何気ない問い掛けだったのだが、訊かれたノゾムは表情を硬くした。

(あ、あれ…?オレ、また何かマズい事言ったっス?)

表情を消して黙り込んだノゾムは、「別に、普通だよ…」と、言葉少なくボソリと応じた。

やや気まずい空気がリビングに漂い、アルは居心地悪そうに身じろぎする。

ノゾムの事を良く知らないので仕方がないのだが、どうやら微妙なポイントに触れる質問であったらしい。

雰囲気を改善しようとあれこれアルが考えていると、ピンポーンと、軽やかなチャイムの音が響いた。

「あ…、お客さんだね…?僕、そろそろ…」

良い頃合いだと腰を浮かせた狐に、少しばかり決まり悪そうな顔をしながらアルが頷く。

ノゾムを送りながら玄関に出たアルは、そこに佇んでいた髪の長い少女に笑みを向けた。

「今日は遅かったっスね、アケミ」

大きなアルが道を譲ろうと少し体をずらすと、後ろから来たノゾムと、玄関に立ったままのアケミが、互いの顔を見て目を

丸くする。

「ヤマギシさん?」

「サカキバラさん?」

二人の間に立ったアルは、少女と狐の顔を交互に眺めて首を傾げる。

「あれ?知り合いなんスか?」

「ええ、中学の同級生です。アルこそ、ヤマギシさんと面識があったんですか?」

「うんまぁ…。って言っても、昨日会ったばっかりなんスけどね」

アケミの問いにアルが答えると、ノゾムはアケミに会釈し、アルの顔を見上げた。

「それじゃあ…、お邪魔しました…。サカキバラさんも、また…」

「あ…、うス。気をつけて…」

「ええ、その内に…」

再び硬くなった態度を崩さぬまま、ノゾムが足早に玄関を出て行った後も、アルは閉じられたドアをしばらく眺めていた。

かつての同級生と再会した太っちょの狐が、何故か居辛そうに出て行った事を疑問に思いながら。