エピローグ

 灯りの乏しい山を眺める、ビル上層フロア。

 ヘリなどの激突防止で点灯する鉄塔の灯りを横目に、ゆったりとした灰色のコートを纏う、灰色の髪の男の子は、華奢な手

でグラスを掲げた。

「では、乾杯」

 仕立ての良いスーツを纏った、口髭を綺麗に整えた壮年が、緊張気味にグラスを上げる。

「乾杯」

 唱和した男の子は、グラスを揺すって中のシャンパンを揺らした。

 部屋は、広い長方形。

 壮年の男が長いテーブルの一端につき、その左右にもそれなりの歳の男性が二名。身なりの良い壮年はともかく、他のふた

りはいずれも堅気の者に見えない。

 男の子の左右には灰馬と金熊がつき、会食の席には六名のみ。広過ぎる部屋には給仕が数名控えていた。

 フランス料理のフルコース。普通とは言い難い深夜の時間帯に設定された会食は、和やかに始まるどころか緊張に包まれて

いる。

 魔人、ロキ。

 男の子の姿をしたソレが本物である事は、パフォーマンスで理解させられた。

 先程、ロキが予言したとおり秘書が殺害された報も入手した。

 信じ難い事ではあったが、男の子自身もこのビルのヘリポートに、ヘリを使わずやってきている。

 宙を、歩いて。

 乾杯に続き、グラスをしばらく見つめていたトールは、口をつけずにテーブルへ戻す。

「スレイプニル。飲まない方が良い」

 出し抜けにそう言ったトールは、さらりと告げた。

「グラスのふちに毒が塗ってある」

 相手方の無言の動揺が伝わる。だが、ロキもスレイプニルも眉一つ動かさない。

 全ては想定済みの事。毒を盛られる程度は挨拶のような物と受け止めている。

「では、交渉を始めましょう」

 会食とはいっても、食事をするつもりなどないロキは、早々と用件を切り出した。

「皆様には、今日これより、我々の傘下に入って頂きます」

 静かな、しかし当たり前の事を言うような口調。

 毒を盛った事を看破されて腰を浮かせ、動揺も冷めやらないままの相手方は、一瞬、言われている事を理解し損ねた。

「もしも嫌だとおっしゃるなら…」

 委細構わずロキは続ける。無垢な少年のようなその顔には、事務的な微笑みが浮かべられていた。

「皆さんには今夜限りで組織を解散して頂き、使えそうなモノだけ頂いて帰ります」

 それはそもそも、交渉ではなかった。

 無条件で軍門に降れ、さもなくば滅ぼすという、脅迫を交えた通告だった。

 無論、それを大人しく受けるような組織であれば、毒など盛るはずもなく…。

 給仕が飲み物を乗せたワゴンを横転させ、その裏面にガムテープで貼り付けられていた拳銃を手に取る。

 スーツの壮年男性達も同じく、テーブル下に貼り付けておいた銃を構えた。

 改められたらすぐに判る稚拙な隠し方。銃を構えるまでの動きも、スレイプニル達からすれば遅過ぎる。その気になれば構

える前に殺害できた。

「やはり狙いは…、ロキ、貴方の首だったようです」

 囁くスレイプニルに頷いたロキは、

「交渉決裂、という事でよろしいですね?」

 確認を取りつつ、袖に仕込んだカフス型ボタンを押すロキ。

 直後、銃声が重なって会食場を満たす。

 しかし、銃弾は一発たりとも、誰にも届かなかった。

 言葉を失う男達。ロキを狙った銃弾は、トールの手かざし一つで出現し、テーブルを両断して円形に展開した光の力場に阻

まれ、弾かれている。

 ロキはゆうゆうと右袖を口元に寄せ、カフスに向かって話しかけた。

「始めてください」



「了解です」

 応じたのは、金髪に蒼い瞳の人間男性。

 二十代後半か三十路になったばかりかという年頃で、長身痩躯、整った顔立ちの優男。

 黒い戦闘服を纏い、腰には細身の剣…レイピアを革ベルトで吊るしていた。

 額にかかるサラリとした髪を芝居がかった動作で掻き上げた男は、

「チェックメイトです」

 ビルのセキュリティルームで、持参したパームトップパソコンのエンターキーを押下する。

 その直後、中枢システムに繋げたそれを介し、ビルの機能は完全に男の支配下に置かれた。

「シーデ、シークエンス3077を開始。とりあえずは警報装置遮断。13、16、17防火扉閉鎖。それから本隊突入用に

地下駐車場出入り口解放と行きましょうか。OK?」

 歌うように読み上げ、ウインクした男の声に、パソコンはモニターに「OK」と返事を表示する。

 このパームトップパソコンは、この優男が独自開発した、疑似人格を備えるサポートOSの本体。普段はスレイの左腕に装

着されて持ち運ばれ、メンバー同士の通信の暗号化や情報提供など、様々な活動に的確かつ迅速な補助を行う。

 茶目っ気のある性格をしている事から、ミョルニルでは準メンバーのような扱いをされ、架空の賢者の名を取り、シーデ・

ハメーテ・ペネンヘーリと名付けられている。

「グッドボーイ!」

 シーデを褒めた男は、「スレイ」と、背後から呼ぶ同僚の声に振り向いた。

「ご覧の通り、システムの制圧は問題なく完了しました」

 朝飯前だと言いたげに軽く肩を竦めた男に、声をかけた中年の白い熊が頷く。先刻トールを迎えに現れたドーマルである。

 熊が屈んでいるその傍には、縛り上げられたセキュリティ担当者と警備担当、計八名が転がされていた。

「さて、お次は…」

「離脱するぞ」

 スレイの言葉を遮るドーマル。

「え?いやいやいや何をおっしゃいますドーマル殿!」

 慌てた様子でスレイは首をブンブン振った。

「今、階上ではトール殿がロキを御守りして力を奮っておられるのでしょう!ここは私めが!加勢に!馳せ参じるべき!運命

の!舞台っ!」

 役者のような芝居がかった身振り手振りから、手で顔を半面覆い、うっとりと目を閉じるスレイ。

「トール殿!今参ります…!」

 ドーマルは太い首を縮める。

「参らんでいい。外に出るぞ。嫌だと駄々をこねよるならロキに言いつける」

「それは御無体な…。嗚呼、トール殿…!このスレイ、離れていても心は常にあなたの元に…!」

 立ち上がり、堅肥りの体を揺すってさっさとドアに向かうドーマルを、手早くシーデを拾い上げて腕のターミナルに装着し、

リモートコントロールに切り替えたスレイが追う。

 ふたりの行く手でプシュッとドアが開くと、そこに待機していた、同じ黒衣を纏うゴツい灰色熊の巨漢と真面目そうなビー

グルが敬礼した。

「縛り倒して中に転がしとるが、念には念だ。見張りは絶やさんよう頼むぞ?」

『はっ!』

 ドーマルに応じた二名の内ビーグルが、入れ替わりでセキュリティルームに入る。

 通路には、既に侵入を開始したミョルニルのアタックチームが駆けてゆく姿。

 新たに三名が、ドーマルとスレイに会釈しながら目の前を通り過ぎる。

 ミョルニルは総勢50名からなる戦闘部隊。向き不向きはあれどもその全員が戦闘員。そしてその九割がエインフェリアで

構成されている。地方の中小組織が刃向える相手ではない。

「さて、わしはわしで、お守りをこなさんと…」

 ドーマルが呟くと、その右足…ゴツいコンバットブーツとズボンの間からシュルリと、濃紺に濁った半透明のチューブが迫

り出し、黒い気体が音も無く噴霧され始めた。

 それは空気中に散らず、空調にも逆らい、まるで意思を持っているようにドーマルとスレイの体に纏わりつき、体表に付着

する傍から色を変える。

 程なく、ふたりの姿は光学迷彩により隠遁された。

 ドーマルの右足は兵装を兼ねる義足。

 疑似レリック、多目的兵装テスカトリポカ。それがその名称。

 ナノマシンの集合体であるこの装備は、様々な粒子を散布、誘導、制御する機能を持つ。

 その中でも汎用性の高い機能が、この擬態用粒子放出と制御による、簡易光学迷彩。

 本体に操作される迷彩用粒子は、付着物の表面近辺につかずはなれず漂い、光線を屈折させて周囲に溶け込むように調整す

る。陽炎のような揺らめきが視認できるので、完全に姿を隠す事はできないが、例えば夜道や暗がりなどであれば看破が難し

いレベルの迷彩効果が得られる。

「保って八分ちょっと…、でしょうね」

 呟いたスレイにドーマルが歩きながら問う。「シーデの計算か?」と。

「ええ」

 頷くスレイは左腕を見て、軽く顔を顰める。

 自分の腕が透明になっている異様な現象には、なかなか慣れる物ではない。

「落ち着きませんねぇ、自分の手元が見難いというのは…」

「じきに慣れる。わしと同じでな」

 架空の賢者が予言した通り、組織本部は八分と十五秒で完全制圧された。

 そして保有していたレリックや情報などの内、有用な物は全て、ミョルニルの物となる…。





 空がうっすらと白み、朝の訪れを知らせた頃、県立病院の緊急外来入口前にタクシーが停まった。

「釣りは要りません!」

「え?え、ちょっとお客さん多過ぎ…!」

 自動でドアが開くのも待ちきれず、面長な青年は押し開けて外来入口へ駆け込む。

 努めて平静を装い、受付に氏名と身分、符丁を告げた青年は、調停者や犯罪者等、秘匿案件に関係する患者を収容するフロ

アへ足を踏み入れた。

 監査官や関係者に会釈し、足早に廊下を抜けてゆくこの青年は、中位認定を受けている調停者。

 ただし近場チームの所属ではない。首都を守護する調停者チーム、ブルーティッシュのメンバーである。

 危急の報を受けて地元に飛んできたアンドウは、札の無い病室を番号で確認し、ノックも無しにドアを開ける。

「チエ!」

 面長な青年は、焦りが隠せていない声を上げたその直後、

「もう動げっから!アイヅはまだ遠ぐに行ってね…あ」

「駄目ったら駄目です!安静に…あ」

「………」

 口を半開きにして固まった。体格の良い婦長と揉み合いになっている、これまた体格の良いベッド上の雌猪を見て。

 そちらもまた病室に飛び込んできた青年を見て硬直している。

(…元気そうじゃんか…。ったく!焦らせんなっつーの!)

 妙な沈黙の後、青年はため息をついた。

「やんだぁタゴサグゥ!見舞いさ来てけだのすかや!?」

 両手で頬を押さえ、モジモジ身じろぎするチエ。仕草は恥じらう乙女その物だが、医療用ベッドがミシミシ言っている。

「こんなに元気なら、ヘリなんか使うんじゃなかった…」

 身だしなみを取り繕う間も惜しんで飛んできたアンドウの顎周りには、珍しく無精髭が見られた。



「心配してすっ飛んで来てけだんだなぁ!いっつもそっけねぇのに、最後に物言うのはやっぱ愛だべ愛!」

 恥じらう乙女ポーズのまま延々とモジモジしているチエに、冷たく「うるさい」と応じるアンドウ。

 婦長は退室し、今は丸椅子に座ったアンドウとベッド上のチエだけが病室内に残っている。

 チエは、とりあえず命に別状はない。それどころか怪我らしい怪我は、金熊の掌打をガードした腕の軽い皮下出血と、前腕

及び胸部の打撲傷程度。当て身によって内蔵、脊髄へ衝撃を送り込まれ、一時的な機能不全に陥っただけで、後遺症も無い。

 精密検査の結果待ちだが、結論から言えば無防備に転んだ程度のダメージである。

 スレイプニルと遭遇した同チームのメンバーも、気絶させられ軽傷を負ってはいるが、深刻なダメージは残っていない。

 それでも、事後処理に入ったこの件…つまり追撃や捜査からチームは外された。大事を取って安静にしているよう監査官か

ら申し渡されて。

 調停者を消耗品の下請けとして扱う監査官を何人か見て来たアンドウからすれば、ここの担当は相当できた人物と言えた。

 だが、それよりも気になるのは…。

(わざと殺さなかった…、って事だな)

 生かしたままの排除は、殺すよりも余計に労力がかかる。

 加減の難しさは勿論、動けないと判断した相手の反撃に遭う危険もある。

 調停者に生殺与奪の権限が認められているのは、この危険性を軽減するためでもあった。

 犯罪者よりも守護者の安全を優先する面においては、戦後、海外基準を参考に施行された調停法は良くできていると言える。

もし一般市民の知る所になれば、人権団体が黙っていないほど犯罪者に厳しい法ではあるが。

 とにもかくにも…。

(チエ相手に不殺排除…。シャレんなってねーっつーの…)

 アンドウは暗鬱な表情になる。

 事件の経緯はおおまかにだが聞いている。チエがどんなものと遭遇し、交戦したかについても…。

 気性の面にやや問題があるので進級認定で落とされ続けているが、チエは危険生物の排除実績や白兵戦技能においては特解

中位調停者の基準を大きく越え、限定上位に肉薄するレベル。

 そんなチエを、単純な戦技比べにおいて圧倒する…。こんな真似ができる者はそう多くない。

 だからこそ、アンドウは気が重かった。

「…チエ、ちょっと確認したいんだが…」

 アンドウは携帯を開き、エイルから送って貰った画像を表示して手渡した。

「お前が遭った熊って、そんな感じか?」

 チエは受け取った携帯の画像をまじまじと見つめた。

 それは、何処かの遊園地らしき場所で撮られたと思しき写真。

 四角く切り取られた風景の中では、白殺しのベストと水色の半袖ティーシャツを着た大柄な金熊が、無表情なレッサーパン

ダと肩を組んでいる。

 身長差がかなりあるのでアンバランスなツーショットだが、金色の熊は意に介した様子も無く、笑顔でブイサインを見せて

いた。

「確かに毛色は似でっかな…?けんど…」

 しばしの間見つめて、記憶を手繰り、チエが唸った。

 暗がりだったのではっきり確認できなかった。毛色は確かに似た色合いにも思えるが、碧眼だったかどうか確信が持てない。

何より…。

(こったら顔でねがったべ)

 刃を交えたあの金熊とは、印象が違い過ぎる。

 画像の金熊が見せる柔和で明るい笑顔は、記憶に残っている冷たい双眸と表情の無い貌とは似ても似つかない。

「違うべ」

「…っ!…そうか…」

 一瞬アンドウは、ホッとしているような複雑な表情を見せたが、画像を注視しているチエは気付かなかった。

(どうやら人違いだったようです。リーダー…)

「エイルさんのお友達だべが?」

「ん、まぁな。似てるならモンタージュに使おうと…。ま、そうそう上手い事そっくりとは思ってなかったが」

 気が楽になったアンドウは、すっと手を伸ばして携帯を取り上げると、それをポケットにしまい込み、胸の内で呟く。

(五年ぐれー前の写真だが、神代のお譲は今と殆ど面相が変わらねーからな。見間違いはねーだろ。熊族だから良く判んねー

けど、そう言う意味じゃ童顔って言えるのかもな)

 行方知れずとなっている限定上位調停者、神代熊斗。

 何処から話が漏れたのか、本人が居ない事を利用してその名を騙る調停詐欺が、これまでに数件発生している。恐らくは東

護のバベル戦役における行方不明者…つまり十中八九死んだものと誤解してのなり済ましなのだろうが、実際には違う。

 神代熊斗は、意識不明の重体ではあったが、バベル戦役から生還していた。

 だが、意識が戻った直後に、入院中の病院から忽然と姿を消した。認識票を残して…。

 アンドウが直接出向いたのは、チエが心配だからというのも勿論あったが、仕事上の理由もあった。ダウド・グラハルト直

々の密使として、件の金熊が神代熊斗か否か、現地確認を行なう為に。

 事は一調停者の失踪という単純な物ではない。天地を揺るがす一大事に発展する事も有り得る、非常にデリケートな問題で

ある。

 神代熊斗は神将家の出。現当主の妹という身の上であり、正規の御役目を担う立場にはないが、慣例的に帝の臣下と見なさ

れる。

 加えて、バベルに侵入し、生還した。内部情報が古い文献の曖昧な記述などに限られていたあの遺物を、その目で直接内側

から見た稀有なケースでもある。

 調停機関は勿論、他国政府、非合法組織に至るまで、彼女が握るバベルの情報は、どんな些細な事であっても喉から手が出

るほど欲しい。

 ダウドも勿論、バベルの情報が欲しい。だがそれ以上に友人としての感情から、彼女の行方を追っている。表立って動けな

い神代の当主の胸中を思えば、一日も早く、どんな情報でも手に入れたいというのが本音だった。

(それにしても、またミョルニルか…。中小規模の組織に接触をはかって、結局潰して回ってる連中…。真新しい情報はねー

が、構成員の金熊が神代のお嬢じゃねーって判っただけでも上々か…)

 そんなアンドウの思考を、

「んで、んで?タゴサグいづまでこっちゃ居られんだべ!?」

 手をぎゅっと掴んできたチエの、期待に輝く目と上ずった声が中断させる。

「無事が確認できたんだ、すぐ帰るっつーの」

「んあーっ!?このいけずー!」



 しかしアンドウは、結局すぐに帰る事はできなかった。

 発信元が一切特定できない匿名の告発により、ある非合法組織の本部位置情報、及び証拠資料がもたらされた事で、町は再

び慌ただしくなった。

 こうして、ミョルニルへの服従を拒み、壊滅させられた組織は、目ぼしい物を全て奪われた挙句、調停機関による立ち入り

で分解された。

 後に、非常事態により現場に協力したアンドウは語る。楽な物だった、と。

 何せ構成員は全員縛り倒されていた上に、これまでに行なった犯罪行為を裏付けるだけのデータや二束三文の粗悪なレリッ

クなどは見つかったが、取扱いに注意が必要な…つまり有用な物は何も残っていなかったのだから。





 バサリと、黒いジャケットがベッドの上に落とされた。

 アンダーウェアとして着用している、水色の薄いティーシャツとズボン姿になったトールは、大き過ぎる体が少ししか映せ

ない姿見と向き合う。

 顔が半分しか映らない鏡。その中から、表情の無い顔が、感情を窺わせない蒼い瞳が、自分をじっと見つめている。

 ここは騒ぎが起こった町から僅か十数キロ圏内にあるホテルの一室。情報誌やネットにも名前が載る、ごくごく普通の宿泊

施設のスタンダード客室である。

 とはいえ完全に白ではない。事情を察しながらも「その筋の客」の受け入れも行う、限りなく黒に近いグレーの施設だった。

 次いでトールは、沸騰した事を音で知らせた電気ポットに目を遣り、ティーシャツの裾に手を掛けた。

 その下から現れたのは、色が薄くなり、白味が強くなった腹側の被毛と、へその窪みが深くて広い、丸くせり出した太鼓腹。

そして、腋の下を通して胸部を覆い、きつく締め上げる、真っ白なサラシ…。

 シャツを脱いで半裸になったトールは、固い結び目を解き、サラシを弛めた。

 途端に、胸が内からぐぐっと膨れる。

 解かれたサラシの下から現れたのは、豊満な二つの乳房。

 圧迫感が消え、ふぅ、と息を漏らしたトールは、鏡が映し出す自分の上半身を眺める。

「…要らないのに…」

 ボソリと呟いた金熊の手が、たわわな乳房を軽く掴んだ。

 胸部だけをサラシで締め上げるのは防御の為ではない。乳房が邪魔になるからであり、女だと知られると侮られもするから。

 鏡を眺めていたトールは、程なく踵を返してポットに歩み寄った。そして、備品のカップを消毒済みである事を示す薄い袋

から出し、半分まで湯を注ぐ。

 次いでベルトポーチに手を入れ、錠剤の類を数種類取り出すと、それらをカップに落とし、掻き混ぜる。

 ビタミンとタンパク質の錠剤、砂糖の結晶と塩、それらを溶かし込んだ後、洗面所で水を足して薄め、一気に飲み干す。

 ビタミン類の酸っぱさが鼻につく上に、噎せ返りそうなほど酷い味だが、トールは顔色一つ変えない。

 空にしたカップをポットの脇に置いたトールは、そのまま後ずさり、ベッドに腰を下ろす。レギュラーサイズのベッドが金

熊の体重で派手に軋んだ。

「………」

 表情が無い、しかしぼんやりもしていない、無機質で冷たい目と顔を壁に向け、しばしそのまま動かなかったトールは、や

がて首の後ろにそっと手をかけた。

 そこには、豊かな被毛に隠れがちな細い金属の鎖。それを摘み、首後ろに来る部位のロックを外したトールは、首に下げて

いたペンダントを眼前にぶら下げる。

 蒼い瞳に映るのは、瀟洒な細いチェーンの先で揺れている貝殻を象ったヘッドと、薄く蒼の輝きを湛えた小さな真珠。

 何を思うのか、目を細めたトールは、しばらくじっとペンダントを見つめていた。



「何をしている?」

 唐突なその声で、ワイシャツにスラックス姿の金髪碧眼の優男はビクンと背を震わせた。

 ゆっくり首を巡らせると、そこにはカッターシャツにスラックスという姿になって腕組みをしている屈強な灰馬の姿。

 トールが居る客室ドアのノブに針金を入れようとしていたスレイは、手練れ特有の希薄な気配を察知できず、容易に背後を

取られて、

「い、いやですよスレイプニル殿。気配を消して近付いたりしては…」

 と、愛想笑いを浮かべてパタパタ手を振った。

「何をしている?と聞いているのだが」

 繰り返す灰馬のちっとも笑っていない目に、スレイは顔を引き攣らされる。

「いえ、トール殿には退屈な夜の話し相手が要りようだと思いましてね…」

「不要だ。休ませろ」

「いや労いを込めて夜の語らいを…」

「繰り返させるな」

 食い下がる優男と、取りつく島もない灰馬に、

「おう、何をもめとるおふたりさん?」

 横合いから、歩いて来た白い熊が声をかけた。

 ドーマルも既に着替えているが、こちらはかなりラフな格好。半袖の開襟シャツに太い脚が剥き出しになる膝上までのカー

ゴパンツ。その右足はナノマシン集合体が擬態した義足なのだが、被毛まで再現されているので一見しただけではそうと判ら

ない。

「ドーマル。こんな所で飲酒をするな」

 白い熊が右手に握るビール瓶を見咎めて、スレイプニルが窘める。そこへスレイが疑問の眼差しを向けた。

「え?でもエインフェリアはアルコールを体内浄化できるのでしょう?毒物にだってかなり耐性があると聞いたことが…。飲

んでも問題ないのでは?」

「その通りだが、問題はアルコール少量の接種などではない。瓶ビール片手に廊下を歩きながらの飲酒という、その行動だ。

非常に行儀が悪い」

「仕事明けにも関わらず、相変わらずの常識人じゃなぁお前さんは」

 苦言を意に介さずビールをラッパ飲みするドーマルに、スレイプニルは盛大に顔を顰めて見せる。

「加えて格好もだらしない。ズボンに手を入れるな、手を…!」

 ドーマルの左手は、腹肉の下へ潜るようにして、緩いカーゴパンツの中へ突っ込まれていた。

「ポケットに手ぇつっこむようなもんじゃ」

「位置が明らかに違う…!」

 しれっと応じるドーマルと、頭痛を覚えたように額に手を当てるスレイプニル。

「ともかく、他の宿泊客の目につく所で不穏な真似や行儀の悪い真似は慎め」

「スレイプニル殿の常識人」

「この常識人め」

 口を揃えて不満げな言葉を浴びせる優男と中年熊。しかし灰馬は態度を崩さず、

「他で逸脱しているのだ、守れるところでは常識を守るべきだろう」

 と己を貫く。

「相変わらず融通がきかん…」

「堅物過ぎますよね」

「何にせよ!…気を弛めるにはまだ早い」

 スレイプニルは少し語気を強めると、耳を小刻みに動かして周囲を探り、小声で告げた。

「先ほどロキが今後の方針をお決めになった。次のターゲットは…五十嵐将補だ」

 スレイの目が半眼になる。「将官ですか、やれやれ」と、何処か面白がっているように。

 ドーマルの目も細くなる。「特自の所属じゃったか」と、何やら考え込んでいるように。

 黙ったふたりから視線を外し、スレイプニルはドアを見遣る。そして…。

(…今日もまともな食事を摂らずに籠ったのか…。全く、どいつもこいつも…)

 自他共に認める現場指揮官であり、屈強な戦士である彼にしては意外な事だが、苛立たしげにも見えながら何処か物憂げで

もあり、そして不安に顔を曇らせているようでもある、何とも言い難い表情を浮かべた。



 シャラシャラと、蛇口から注がれる水が排水口へ流れて行く。淀みなく。絶え間なく。

「う…」

 前屈みになって洗面台を掴み、頭を下げた金熊は、

「うえっ…!」

 目をきつく瞑り、嘔吐した。

「えふっ…!えうっぷ!えっ…!」

 力んで背を震わせながら吐き出された胃の内容物は、先程飲んだ湯に溶かした錠剤だけ。大半が水分と胃液だった。

「えう…!けふっ…!」

 咳き込み、息を整えるトールの目に、水で流されてゆく胃液が映り込む。

 吐瀉物に混じり、僅かに赤い筋が流れてゆくのが見えた。

「………」

 数秒息を整えていたトールは、両手を椀にして水を掬い、口に含んで漱ぐ。

「…まだ…」

 呟きは、一度途切れた。込み上げる嘔吐感と、内蔵の鈍痛に妨げられて。

「…まだだ…。まだ止まれない…」

 小さくか細い、しかし堅い決意が滲むその声は、誰の耳にも届かずに、水の音と共に流れ去った。












 そして、二日後…。

 ランゾウを伴い、遊園地跡を闊歩するトモエは、小一時間余り敷地内を見て回った後、調査の終了を告げた。

「先日の事件で調停者が遭遇したっていう「白い何か」…」

 歩きながら呟くトモエの掌には、巨熊が仕留めて採取した、残骸と呼べるのかどうかも判らない透明な液体を収めた容器。

「どうせ、調査結果は「ただの水」…。これで何かできる訳でもないでしょうね。私が思うに、反応を起こして現象が保たれ

ている間だけ水ではなくなっている…。そんな術式なんじゃないかしら?」

 ポンと容器を放り上げ、クルクル回るそれを宙で横殴りにキャッチし、トモエは眉を顰めて考える。

「どっちかって言うと術師が作るゴーレムに近いのかも?アレも破壊した後に残るのは素材そのもので、痕跡はほぼ無いもの。

…いやでも、海外の技術に絡めて決めつけるのは危険かな…。見たり聞いたり読んだりした記憶はないけど、国内で似たよう

な事象はなかったのかしら?そういった伝承を当たって確認しておいた方が…」

「ヒコザ殿」

 おもむろにランゾウが口を開くと、ちょうど心当たりとして同一人物の顔を思い浮かべていたトモエは即座に頷く。

「失伝している物についてなら、おじさまを当たった方が良いわね…。とりあえず、こっちで考えるべき事は、「この白いの

を使役したのが誰か?」という点だけれど…。調停者が遭遇したのは白いモノ、ミョルニルという連中…灰色の馬に、白い熊

に、金色の熊、そして…」

 言葉を切ったトモエは、瞼を下ろして目を薄くする。

「解体された地元組織の証言によれば、灰色の髪の男の子…」

 足を止めるトモエ。同じく止まるランゾウ。

 しばしの沈黙の後、トモエは軽くかぶりを振り、青い髪を揺らした。

「魔人、ロキ…。黄昏は、まだこの国で何かするつもりなのね…」

 思案するトモエと、傍らに佇むランゾウを、一陣の風が撫でて行く。遊園地の廃墟があちらこちらで軋み、風は寂しげな声

を上げ、チェーンが揺れて鉄柱にぶつかり、カンカンと遠く響かせる。

「モチャが入手した、白いモノと金色の熊に遭遇した調停者の証言では…、議員秘書が白いモノに包囲されていた。逃げる彼

を助けるために白いモノと交戦した。その最中に金色の熊と遭遇した。金色の熊は白いモノにも攻撃を加え、議員秘書を殺害

した…」

 ランゾウは頷きもしなければ口も挟まない。思案に暮れるトモエの横で、棒立ちのまま動かない。

「でもこれには調停者の主観が入ってる。私みたいな方の外の者の見方で言うなら、そもそも議員や議員秘書が「白」と前提

する事が間違ってる。白いモノに包囲されていた…この状況報告が既に誤りなのよ、きっと。金色の熊が始末していた事から

も、議員秘書殺害犯側が放ったものではない。むしろ白いモノはあっちにとっても邪魔だった」

 一度言葉を切り、トモエは深く頷く。眼差しに確信を込めて。

「…そう、邪魔だった。議員秘書を殺害するのに邪魔だったから片付けた…。つまり、白いモノは議員秘書を包囲していたん

じゃなく、彼に使役されて傍に控えていたのよ。調停者に対しても口封じをしようとしたんでしょうね。入手ルートの黒さが

知れるわ」

 ランゾウは無言のままで驚きもしない。現場に居合わせずとも、トモエは誰よりも真実に近付ける。

 この頭脳故に、トモエは烏丸の頭という重役を、年若い、それも女の身でありながらつつがなく務めおおせている。

「だとすれば、この件が原因でホムンクルスのようなコレが拡散する事は無いわね。どんな手法で生み出していたかは判らな

いけれど、秘書の遺体から手がかりは何も見つかっていないようだし…。技術の大本が何処かなのかは判らないけれど」

 トモエは言葉を切ると、携帯端末を取り出して通話機能をオンにする。

「サキ。一匹見たら…と言うけれど、二匹見たわ。予定通り捜索、居たら駆除。各員に準備をさせてくれる?ターゲットの写

真を送るから、作戦従事者に配布。詳細は後から」

『承知致しました』

 指示を飛ばしたトモエは、ふと、ランゾウの横顔を見上げる。

「どうかしたの?ランゾウ」

 隻眼の巨漢はじっと、トモエとは逆方向を見つめていた。

 しかしそちらには何もない。ジェットコースターの残骸と、その向こうの木々が生い茂る山の斜面だけが、トモエの目には

見えている。

 ランゾウは、やがて小さく頭を振った。気のせいだった、というように。



「…ラグナロクじゃない」

 ゴツい双眼鏡を手に、廃墟となった遊園地を観察しながら呟いたのは、年若い女だった。

 光沢を消したラバー素材のように見える、黒いジャケットとパンツを身に付けており、漆黒の髪もあって、木々の影の中に

姿が溶け込んでいる。

 そこからトモエとランゾウの様子を窺っていた女は、背格好だけならばどこにでも居そうで特徴はないが、顔立ちは整って

おり、目が鋭い。

 そして、一見して気質の者ではないと判る。

 右眼が白濁し、失明している。右の額から眉と瞼を通り、頬にかけて、縦一文字の細い切り傷が走っていた。

 ジャケットはあちこちが裂けたり切れたりしており、指出しグローブから覗く指には数本にテーピングが巻かれている。

 その周囲には、大小様々な日本刀が、地面に切っ先を刺して立っているが、半数は刃毀れが酷く、元は野太刀だったと思わ

れる大振りな一刀に至っては半分から折れていた。

 その傍らで…。

「察知されたかと思ったが…、どうやら杞憂だったようだ」

 2メートルはあるだろうか、大柄な狼の獣人が口を開いた。

 こちらも黒い上下だが、上着は両腕とも肘の所で焼けたようになって無くなっている。

 特筆すべきは銀色の被毛。毛並みは整えられておらず、汚れも目立つが、土埃を帯びていぶしたような色合いになっていた。

 こちらは道具に頼らず、腕組みをして肉眼で遊園地跡を見据えている。

「相当出来る。何者だ?それにあの姿格好…ユウヒに酷似している」

「ユウヒ…。確か、神代の当主?」

 双眼鏡を外して問う女に、狼が顎を引いて頷いた。

「しかしどちらも知らぬ相手だ。神将関係者ではあるまい…」

「ラグナロクでもない、神将でもない、何処の誰かは知らないけれど、進んで関わり合う事もないな…」

 女が腕を水平に一振りすると、一瞬で周囲の刀が消え去った。土の刺し跡以外に何も残さず、まるで元から無かったかのよ

うに。

 その一時だけ、女の双眸は失明した右も含め、紫紺に輝いていた。

「収穫はあった。引き上げる」

 女は傍の木に引っ掛けていた大きなボストンバッグに歩み寄りながら、鋭い双眸を厳しく細める。

「ロキ…。騒ぎに関与していたのは間違いない」

 女は双眼鏡でトモエを窺い、読唇術で言葉を読み取っていた。

「くどいようだけれど、バベルが狙いという線は?」

「おそらくはない。この地に封じられているという話は聞いたことが無い。もっとも、東護の例もある。帝と神将家が把握し

ていない物が存在している可能性はゼロではないが…」

「気は抜けない、か…。あ」

 取ろうとしたバッグを掴み上げ、自分の分と合わせて担いだ狼の顔を見上げ、女はかるく口の端を上げた。好意に甘えてお

く、と首を縮める事で表して。

「近くに沢があった。ロキがまだこの近くに居るのか探るにしても、まずは体力ありき。不休がたたって闘えないようでは話

にならない。少し休んで行こう」

 気配りを見せる銀狼に「従うよ」と肩を竦めた女は、先に立って歩く偉丈夫の後に続く。疲れた体に鞭打って、毅然と背筋

を伸ばして。

 女の名は不流忍。

 狼の名はフェンリル。

 両者ともに元ラグナロク。しかし今は…。

(バベルは、どんな事があっても渡せない…。ラグナロクにも、他のどこの組織にも、どこの国の政府にも。今のひとの世に、

どんな形であってもアレがもたらされてはいけない。…それが…)

 シノブは言葉を切り、ミョルニルとの戦闘で失った右眼を手で覆いながら、胸の内で呟く。

(それが…、タケシの遺志…!)

 継ぐ者達はロキを追い続ける。

 人知れず、味方も無く、傷の上に傷を重ねて。