Drifting ashore

 太平洋南方にある諸島の一角で奇妙な物が見つかり、騒ぎになったのは、クリスマスも近い十二月半ばの事だった。

 その奇妙な物というのは、少年だった。

 地元に住まう十代半ばの少年で、両親が他界している事を除けば、彼の素性や経歴、血統などには取り立てて奇妙な物はな

かった。

 問題は、発見されたその少年が、固形物に覆われていた事である。

 固形物は飴色の半透明で、高さ2メートル弱、幅1メートル強の楕円形で、鉱石に近い硬度を持っていた。

 まるで繭のような形状をしたその固形物に、少年はすっぽりと収まっていた。

 眠っているように目を閉じていたが、ズボンと片方のサンダルしか着用していないその少年の脇腹には、鋭利なナイフで突

いたような刺し傷が深々と残り、致死量の出血で半身が真っ赤に染まっていた。

 少年を覆う固形物は、元は流動体だったのか、まるで海中に漂うように、内部へ血が溶け出した状態で固形化していた。

 まるで虫入りの琥珀のように、少年は飴色の固形物に閉じ込められていた。

 少年が何故、どのようにしてこの状態となったのか。

 誰が、どうやって、何の為にこんな真似をしたのか。

 そもそも、少年を覆う琥珀のような物体は何なのか。

 警察関係者も首を捻る中、地元紙は「世界一美しい棺」「謎めいた死体」などとセンセーショナルに書き立てた。

 その、南の島を一時賑わせ、そしてクリスマスと年末年始の騒ぎに埋もれてひとの口から遠のいた怪事件の発端は、十一ヶ

月前まで遡る…。








アンバーストレイジ



これは、永遠を手にした男の物語。
とんでもなく無欲で、とても強欲で、羨ましいほど手ぶらで、呆れ返るほど満たされていた…。
そんな男のお話。













 射し込む朝焼けに漣立った海面が煌めき、水平線がうっすらとけぶる。

 ラグーンの内面にあたるその海は穏やかで、美しく澄んでいた。

 昨日まではかなりの時化だったのだが、高波も風も夜明け前に鎮まり、この朝は一転して数日ぶりに天候が安定している。

 この諸島では年中通して、月平均の気温が25℃を上回る。季節ごとに雨の量と風の強さに差があって、一月から三月にか

けては雨が少なく風が強い。そしていわゆる夏季には、雨が増えて風が穏やかになる。

 乾季と雨季、そして二度あるその狭間、それがこの島の四季と呼べた。

 例年、一月上旬にあたるこの時期は強風と高波で荒れる日が多いのだが、数日暴れて疲れたのか、今日はこの時期にしては

珍しいほど風が大人しかった。

 その、穏やかな風が細かな波を立てる様と、ポツポツ顔を出す岩礁群を一望できる岩場で、生まれたての太陽を、初々しい

光が照らす海原を、独りの少年が眺める。

 潮風を胸いっぱいに吸い込んで深呼吸したその少年は、ポリネシア系の人間だった。

 十代前半の育ちざかりだが、未成熟ながら骨太で、既にかなり体格がいい。

 身長はもう一息で160センチといったところ。しかし体重はぴったり百キロ。持ち前の色と日焼けも相まって濃い褐色の

肌は、逞しくも柔軟な筋繊維の上に蓄えた分厚い脂肪のせいで、針でつつけば弾けてしまいそうなほどパツンパツンに張って

いた。

 髪はストレートだが太くてこわい。邪魔になるほど伸びたら自らハサミを取り、ぞんざいに切っているので、髪型は整って

おらず、野暮ったくバサバサした蓬髪である。

 お世辞にも美男子とは言えない、頬が張った真ん丸い幼顔だが、生き生きと輝く焦げ茶色の瞳も、人懐っこそうな表情も、

生命力に満ち溢れて魅力的だった。

 いやにずんぐりしているその体を覆うのは、左右に白いラインが入ったマリンブルーのハーフパンツのみ。持ち物は、額に

上げた水中ゴーグルと、肩に紐をかけて脇腹に抱えた籠と、腰に帯びた樹脂製の鞘とグリップのダイビングナイフ。

 半裸の少年は、命の営みの残滓が漂う磯と潮の香りを全身に浴びながら、呟く。

「おっし、始めっか!」

 癖になっている独り言を漏らして、険しい足場を危なげなく軽快に下り、穏やかな波が洗う岩場へと入ってゆく。粗削りで

ぬめりもある岩の表面も、少年の歩みを妨げるには至らない。

 そして少年は、岩場から緩く沈み込んでゆく海へ足を入れると、そのまま肩まで身を沈め、トンッと岩を蹴って離岸した。

 明けの海はまだ水温が上がり切っていないが、肉厚な体は体温の離散に強い。深く息を吸い込んで溜めた少年は、ゴーグル

を下ろして嵌め、海中に頭の先まで没し、力強く水を蹴って潜航する。

 青い海と空が広がる世界と、より色濃い青が横たわる世界を隔てる水面を抜けて、少年の目は、サンゴとカラフルな魚達が

暮らす、遠浅の岩礁地帯を映した。

 若い明るさと、上がり切らない温度の狭間。遠くは深い青に染まり、海面を貫く日差しが水色のグラデーションで淡いカー

テンを造る。

 少年は美しい海面下の世界を見渡すと、岩に張り付いたまま微睡む貝を見つけ、巧みな泳ぎで近付いてゆく。その様は肥り

肉な体型もあって、まるで脂肪を纏ってコロコロ丸い水棲哺乳類のようでもある。

 岩に取りついた少年は、手慣れた様子でダイビングナイフを扱い、器用に貝起こししてのけると、下げた籠に手早く入れ、

水を蹴って浮上する。

「っぷは!」

 素潜りで貝を獲った少年は、その場で立ち泳ぎしながら三十秒ほど息を整えると、再び海面下へ。

 時には今日のように素潜りで貝を獲り、時には銛を掴んで魚を獲り、時には糸を垂らして釣りもする。

 それが、少年の生業。海が荒れていなければ毎日のように繰り返される仕事。

 先日十四歳になったばかりの、この少年の名は、カムタ・パエニウ。

 この島で生まれ、この島で育ち、海の恵みをそのまま糧に、自分の手で掴める物を獲って、食って、売って、たった独りで

暮らしている。

 カムタには親が居ない。

 母親は赤子の頃に病で他界した。男手一つで育ててくれた父親は、時化の海に出てから二年経った今も帰らない。

 八年の義務教育は、七年生に上がる前に自主退学し、放棄した。養育者の収入がなくなり、学費を支払う目途が立たなくなっ

たので。

 親を喪っても親戚は頼らなかった。母方は移民系で国内に親類が居ない。父方の親類は所在がおおまかに判っているものの、

頼れる関係にない。父は母と駆け落ちして一緒になったので、実家から勘当されていた。生まれてこのかた、一度も会った事

がない。

 施設などに身を寄せるという選択もあったのだが、保護は求めなかった。持ち家もある上に、自分だけなら食うに困らない

だけの生活力、そして楽観性を備えていたので、安泰な生活と天秤にかけても「誰かの厄介になって不自由な身にはなりたく

ない」という気持ちが勝った。

 辛いとは思わない。自分の境遇を不幸とも感じない。他を知らないから、皆こういう物なのだろう、と感じている。少なく

とも、自分で選んだ現状には文句がない。

 母を恋しいとは思わない。物心つく前に死別したので、母の顔は写真でしか知らず、居ない生活が当たり前だった。

 自分を置いて時化の海に船を出し、そのまま帰ってこなかった父を恨んでもいない。むしろ、その「命の使い方」に尊敬の

念すら覚えている。

 ただ、時々だが羨ましいとは感じる。幸せそうな家族連れを見かけた時などには。

「こんなモンかな?」

 十数回の潜水を経て、籠がいっぱいになるだけ貝を獲ったカムタは、一旦磯に戻って岩場によじ登った。

 ムチムチ肥えた外見からは想像もつかない身軽さで、濡れた岩場をひょいひょいと移動するカムタは、まるで弾むボールの

よう。皮が分厚い足の裏は岩でもそうそう傷つかず、巧みな体重移動もあって滑ることも転ぶこともない。

 そうして、小魚を獲るために、小さな四角い立方体型の網を沈めておいた場所へ移動しようとしたカムタは、

「…んあ?」

 目を真ん丸にして、ポカンと口を開けた。

 盛り上がった岩の上に立ち、いつもは飛び越えるV字型に窪んだ岩間を見下ろし、カムタは首を傾げる。

 その丸い目に映るのは、波が寄せる岩場で潮水に半分浸かり、なだらかに傾斜した岩に背中を預けて、仰向けになっている

男の姿。

 濡れそぼった被毛は茶と白のツートーン。黒い鼻と目元。垂れた耳。頭頂部から鼻に抜けて、両側の茶と黒を隔てる白いラ

イン。体重百キロのカムタと比べても倍はあろうかという巨体。ズボンはボロボロで上半身は裸。足には何も履いていない。

 首都までは海を跨いで200Km強、人口千人にも満たない、足の車も少なくてひとの動きが活発ではない島である。島民

でない事は一目で判った。

「デキシシャ…か?カンコーキャクか?」

 困惑顔のカムタの前で、目を閉じたまま動かないその男は、犬…セントバーナードの獣人だった。

 少年が何度か見た水死体とは違って、綺麗なものだった。

 魚や蟹などに食い荒らされた損傷も無く、水で膨れ上がってもいない。鼻の粘膜にねっとりこびりついて離れなくなり、目

の下で頬の表情筋が痙攣しそうになる苦しょっぱい腐臭も、セントバーナードからは全く漂ってこない。

「こういう時って、ダイイチハッケンシャはいろいろメンドーって聞いた事あるぞ?」

 カムタは眉根を寄せる。具体的にどう面倒なのかという事までは知らないが、殺人犯の容疑をかけられたり、詳しくしつこ

く状況を訊かれたりする…というような話を、学校に行っていた頃に友人から聞いた事がある。

「生きてりゃよかったのにな…。そしたらオラも困んねぇし、このヒトも助かったのにな」

 妙な言い回しになっている事に気付かないまま、ウンウン唸ってひとりごちたカムタは…。

「…生きてねぇかなこのヒト?」

 ややあって、ポツリと漏らした。

「そうだ。もしかして生きてねぇかなアンタ?なぁ、生きてたらいいな?」

 死体には下手に触るべきではない、という事までは知らなかったし、頭が回らなかったカムタは、岩を降りて腰まで磯溜ま

りに浸かり、セントバーナードの傍に寄ってみた。

「アンタずいぶん肥ってんな?オラも負けるな」

 そう言いながら、間近でセントバーナードの顔を見たカムタは、男が思いのほか若いらしい事に気付く。近所に犬獣人の家

族が居るので、その長男と同じか、少し上くらいの歳だとなんとなく判った。

 以前何度か見た水死体に比べれば別物と言えるほど綺麗な状態だったので、怖がる事もなく、むしろ同情しながら語りかけ

るカムタは、

「若ぇんだから死にたくねぇよな?生きてればよかったな?」

 身じろぎ一つしないセントバーナードの顔を覗きこむ体勢で、その肩に触れ…。

 

 …ルディオ…

 …と名付…

 

「…ん?」

 カムタは目を大きくする。

 体に触れた途端に、セントバーナードの瞼がピクリと動いた事に気が付いて。

「おいアンチャン!アンタ生きてんのか!?」

 驚き、そして喜び、声を大きくして呼びかけたカムタは、

「あ、こういうときジンコーコキューすんだった!息してねぇもんなアンチャン!このままだとホントに死んぢまうもんな!」

 ずっと前に学校で習った、溺れた相手の救命レクチャーを思い出しながら、セントバーナードの巨体を改めて眺める。

 この巨漢を少年ひとりで引っ張り上げるのは到底不可能だった。仕方なしに半分水没しているそのままで、マズルの先へ口

を重ねて、息を吹き込む…べき所で、勘違いしてジュウ~ッと吸う。

(…ん?何か違う気がすんぞ?)

 何となく救命手順が間違っているような気がしたカムタだったが、

(あ…!)

 セントバーナードは接触に反応したのか、瞼をピクピクと痙攣させ…。

 

 …ルディオ…

 …名付…

 

 薄く開いた目に、明けたばかりの空の青が飛びこんだ。

 焦点の定まらない、望洋とした眼差しは、しばし真っ直ぐ空を映した後で、自分と口を重ねている少年に向けられた。

(目、開いた…)

 カムタは一瞬、その瞳に見とれてしまった。

 深い色のトルマリンを思わせる、翠を帯びた黒瞳…。

 生まれて初めて見る色の、神秘的に輝く二つの瞳…。

(綺麗だ…。宝石みてぇだなぁ…)

 感嘆するカムタは、しかしすぐ我に返った。

 セントバーナードの、それまで動いていなかった肺が、自ら搾り上げるように蠕動して、入り込んでいた海水を排出しよう

と喉へ押し上げる。

 まるでポンプのような、その肺の働きは、標準的なひとの物とは違う。異様とも言える物だったが…、

(よし!違ってねぇ!吸い出すんで合ってた!)

 本当は間違っている人工呼吸を正しかったと思い込むカムタは、その通り、お世辞にも博識とはいえない少年だったので、

異様な事を異様と判断できなかった。こういう事もあるのだなぁ、と感じる程度で、深くは考えない。

 セントバーナードの口内にゴポリとこみ上げてきた潮水をジュルジュル吸い出し、繰り返し吐き捨てるカムタ。熟れていな

い果実を噛んだ時のような青臭さと、雨に濡れた錆び釘のような鉄臭さ。そんな異様な臭気を感じはしたが、顔を顰めつつも

我慢する。

 そして、体内に入り込んでいる海水を吐き出すのを助けようと、セントバーナードのみぞおちの下に手を沿えた。

「吐け吐け!全部出せアンチャン!頑張れ!」

 ぽってりした手が埋没するほど強く腹に押し当てたカムタは、そのまま胸の方へ押し上げ、搾り上げ、扱き上げ、中に溜まっ

ている海水を懸命に吐かせる。

 カムタの助けもあって、セントバーナードは意識朦朧のままごぼり、ごぼり、と胃や肺に溜まっていた海水を順調に吐き出

し、やがてすぅっと息を吸い込んだ。

「ブゲボッ!ガフッ!ゴホッ!」

 セントバーナードは巨体を弾ませるようにして、激しく咳き込んだ。

 そうしてしばらくむせ返り、気管の中から水分を追い払うと、大きく息を吸い込み、酸素を体に取り入れ始める。

「おいアンチャン!頑張って息しろ!止めんなよ!」

 巨漢の頬をペチペチ叩いて、肩を揺すりながら呼びかけるカムタ。喘ぐように空気を取り込んでいたセントバーナードは、

眼差しを再び少年の顔に向ける。

 その神秘的な瞳が焦点を自分に合わせた事で、意識がはっきりしてきたらしいと察し、安堵したカムタは、「よかったなア

ンチャン!死ななくて!」と、満面の笑みを浮かべた。

「ふぅ…、ふぅ…」

 喘ぎながら、セントバーナードは少年の顔をぼんやり見つめた。ぼやけていたその輪郭は次第に鮮明さを増し、やがて陰影

の中に輝く焦げ茶色の瞳の色が認識できるようになる。

 ざん…、ざん…、と繰り返し寄せる、潮騒の音が、耳鳴りに重なって聞こえ始めた。

 しばし不明瞭だった聴覚が、鮮明に周囲の音を拾い始めると、鼻孔でも磯の香りを捉える。目の前でチカチカ星が瞬き、薄

暗かった視界は、徐々に明るさを取り戻し、眩いほどの陽光に反応して、瞼が半分落ちた。

 しかし、意識がはっきりしてきつつあるセントバーナードは、自分が置かれている状況が把握できていないようで、きょと

んと、見覚えのない少年の顔を見つめたまま…。

「アンチャン、シバ女王様に感謝しなきゃなんねぇぞ?お助けアンガトごぜぇましたって。アンタ何処のヒトだ?カンコーキャ

クか?」

 セントバーナードはカムタの問いに答えない。ゆっくりと上体を起こすと…。

「わっぷ!」

 ブルルルンッと派手に身震いした巨体から、水しぶきが派手に飛び散った。

 至近距離でまともに浴びてびしょ濡れになったカムタは、一瞬目を瞑って顔を顰め、それから気を悪くする事もなくカラカ

ラ笑う。

「あはははは!ダイジョブそうだなアンチャン!」

 セントバーナードは、安堵しながら笑っている少年の顔を眺め、不思議そうに少し首を傾け、それからきょろきょろと周囲

を見回す。

「まだボーっとしてんだな?えーと…、自分が誰だか判るか?ココがドコだか判るか?今がいつだか判るか?」

 尋ねるカムタを前に、セントバーナードは…。

「……………?」

 かなり長く間をあけて、訝しげに深く首を傾げた。

 わからない。

 見覚えのない少年に、見覚えのない景色。自分が今どんな状況にあるのか、さっぱり判らない。それどころか…。

「オラはカムタ、地元のモンだ。アンチャンここらのヒトじゃねぇよな?名前は?」

 名を訊くカムタに、しかしセントバーナードは答えられなかった。

「…???」

 状況だけではない。自分の事も判らない。思い出せない。

 名前も、何者なのかも、何処から来たのかも、何処に居たのかも、何をしていたのかも。

 遡れる記憶は、たった今、ここで目覚めて空を目に映したところまで…。

「…わからない…」

 太い喉を震わせて発された低い声が、最初に紡いだのは、これから何度も、口癖のように繰り返される事になる言葉だった。



「思い出せねぇのか?」

「………」

「住所なんかも?」

「………」

 向き合って座る少年が問いかけるたびに、セントバーナードは首を傾げて考え、それから頷く。

 そよぐ潮風が心地よく、常夏の太陽もまだ優しい午前七時。

 向かい合わせになって岩場に座り、話し込んでいる丸っこい少年と巨大なセントバーナードは、事情を知らずに見れば微笑

ましいほど牧歌的だが、

「困ったなぁ」

「………」

 ふたりとも困っていた。

 とはいえ、困り顔なのは少年だけで、巨犬の方はぼんやりした顔である。目じりが下がった双眸は何とも穏やかそうで和む

が、焦りや不安、危機感などは全く見られない。

 カムタは改めてセントバーナードの姿を確認する。

 水から上がった巨体は、思っていた以上に大きく感じられた。

 上背は二メートルもあるだろうか、逞しい骨格をしている。首は太く、肩も幅があって、腰回りなど大人の手が回り切らな

いほど。

 腹も出ていてベルトに乗っかるほどの肥り肉だが、単なる脂肪太りではない。筋肉がかなり発達して隆々と盛り上がってお

り、重量感があって逞しい、固太りの巨漢である。

 客観的に見ればかなり困った状況のはずだが、顔つき自体にのんびりしている印象があるため、全く深刻そうに見えない。

 呆けているような表情に乏しい顔は、間抜け面と言えない事もない、少しばかり締まりのない顔ではあったが、生まれてこ

のかた一度も怒りの皺を刻んだ事がなさそうな、見ていると気が緩む風貌。トルマリンのような瞳は穏やかで、感情の爆発と

は無縁に思える。

 身に帯びているのは、ボロボロに破れたカーゴパンツと、ベルト、そしてアンダーウェアの黒いスパッツ。腰の後ろでベル

トに固定したシースと、そこに収められた大振りなナイフ。

 元々はディープグリーンのタイガーカモだったらしいカーゴパンツは、潮と陽にやられたのか、それとも元々穿き古しだっ

たのか、褪色が酷くて迷彩は薄まり、色ムラがある薄緑のズボンと化していた。脇にボタンがついており、膝の下まで裾を折

り返して止めてある。左足の太腿外側上部は何かに引っかけたように裂けて、スパッツタイプのアンダーウェアが覗いていた。

 黒いベルトは合成皮のようだが、こちらは腐食などにも強いようで、色褪せも見られない。表面に細かな傷が無数について

いるものの、金具も錆びない材質で出来ているようで、まだまだ使用に耐え得る。

 腰の後ろで横向きに固定したナイフは、それなりの長さと重さがあるカムタのダイビングナイフと比べてもかなり大きく、

ブレードの長さも幅も少年の太い二の腕ほどもあった。

「ダイビングナイフつけてるって事は、観光でダイビングに来たヒトか?でもズボン穿いてるもんな。潜る前に船から落っこっ

たのか?」

 カムタがアレコレと思いついた事を尋ねるも、セントバーナードはフルフルと首を振るばかり。時折首を傾げて考えたり、

思い出そうとしたりしているが、満足に答えられない。

 英語で会話しているが、話者が多過ぎる上に、セントバーナードの英語には訛りも地方色も全くないので、言語から母国を

特定するのは難しい。

 特徴的な緑がかった黒瞳から、この国の民ではないと察しはつくが、どんな国の民がこのような瞳の色をしているのか、カ

ムタの知識では判らない。

 思いつく限り質問し、何一つ回答が得られないまま、訊く事がなくなってしまったカムタは、

「ケーサツ行くか?オマワリサンなら何とかしてくれっかも…」

 提案する途中で、ぐぅ…という妙な音を耳にして、口を閉じた。

 カムタの目が向いたのはセントバーナードの出っ腹。

 巨犬も自分の腹を不思議そうに見下ろしている。空腹である事にたった今気が付いて。

「あはははは!ケーサツ行く前に飯だなアンチャン!」

 カムタは丸い腹を弾ませて笑うと、「ウチ来いよ、何か食わせてやるからさ」と、セントバーナードを誘った。

 何も判らないから困るだろう。

 ほったらかしたら可哀相。

 そんな理由からの親切だったが、カムタ自身も自覚していない、もう一つの理由が別にある。

 家族のないカムタは、何も判らなくなっている見知らぬ巨漢に、親近感からの同情を覚えていた。



 この地方での台所は、他国の一般的な物とはかなり異なる。母屋から離れて独立しており、大きい。それは、燃料とする植

物の殻などを乾燥させたり、各種木の実などを保管したり、それらを加工したりする作業場としての側面も併せ持っているせ

いである。

 カムタの家でもそれは同じで、台所が母屋とは別になっている。風通しを良くするために壁の一部がない、簡素な倉庫のよ

うな外観は東屋にも通じる物があった。

 その脇の、丁度木陰になる位置には、天候が酷くない時にはそこで食事できるよう、材木から切り出した簡素なテーブルセッ

トがあった。

 テーブルは足が地面に埋め込まれた固定式。椅子は角材を組み合わせて釘止めした立方体で、大きなサイコロのよう。いず

れもハリケーンで飛ばないように造られている。

 何も思い出せず、何も判らず、何をすべきかも判らないセントバーナードは、案内されるままにカムタの家へ連れてこられ、

言われるままにテーブルにつき、素潜りをする格好のまま食事の支度をする少年の、肉付きの良い褐色の背中を眺めていた。

「アンチャン、嫌いなモンとか食えねぇモンとかあるか?」

「…わからない」

「そっかぁ。それも判んねぇかぁ」

 仕方ねぇ仕方ねぇ、とウンウン頷いているカムタの背中から視線を外し、セントバーナードは母屋の方を見遣った。

 木造建ての簡素な平屋である。庭にも生えているパンダナスの木が、敷地をぐるりと囲んで天然の壁になっており、そこか

ら所々、背の高いヤシの木が上に頭を出している。

 カムタの自宅は、漁場にしている磯から歩いて二分ほどの距離にあった。ゆるく吹き抜ける風には、失われず濃いままの潮

の香と、絶え間なく岩場に寄せては砕ける波の音が混じる。

 好天の穏やかな日差しを浴びながら、しかしセントバーナードは…。

「キオクソーシツってヤツかぁ」

「たぶん」

 カムタの独り言に、当事者である巨犬は他人事のように相槌を打った。

 よほどのんびりした気性なのか、それともストレスに強いのか、何も思い出せない状態でありながら、その態度に不安の色

などは見られない。落ち着き過ぎているとも言えるほどに。

 少年が持つフライパンを炙る火は、竈の中でヤシの葉と実の殻が焼けて産んでいた。時折パチパチと小気味よく、火が爆ぜ

る音が上がっている。

「待ったかアンチャン、どうぞ」

 やがてカムタが持ってきたのは、今朝網から上げたばかりの白身魚を切り身にして骨を取り、同じく今朝獲ったばかりの貝

類と一緒にフライパンに入れ、バターで炒めた簡単な料理。

 バターは空輸されてくる商品なので、この島では値段が張る。カムタに買えるのはあまり質が良くない品ばかりだが、懐事

情からすればそれでも贅沢品だった。

 次いで、開いて干物にしていた小魚が出され、追いかけてパンのような食感のブレッドフルーツがテーブルに乗る。

 空腹の客人をあまり待たせないように、今朝獲れた物とあり合わせの物で手早く拵えた食事は、手間をかけていない粗野な

仕上げだが、量があり、味も悪くない。

 勧められるままにフォークとスプーンを取ったセントバーナードは、一言も無く、しかし手と口は休まず動かして、あてが

われた物をあっという間に平らげてしまった。

 ろくに噛まずに飲み込むように食べるその様子からは、相当飢えていた事が判る。

「足りねぇかアンチャン?そうだよなぁ、大人だし、体だってオラの倍はでっけぇもんなぁ」

 自分の朝食はまだ半分以上残っていたが、客を迎えたカムタは「よし待ってな」と張り切って腰を上げた。

 余熱がまだ残るフライパンを再び火にかけ、タレに漬け込んでいた鳥の肉を入れて、転がしながらジュウジュウと焼く。

 ココナッツオイルと米国製の醤油、果糖でできたタレは、焼かれる間にも食欲を誘ういい匂いを撒き、言われた通りに待っ

ているセントバーナードは、鼻をスンスン鳴らして香ばしい空気を吸い込んだ。

 焼き上がったそれがブレッドフルーツと共に供されると、セントバーナードはまた黙々とそれを口に運び始めた。

「美味ぇか?アンチャン」

 尋ねたカムタは、

「美味い」

 そう、初めて明確な返事をされて、目を丸くした。

「甘さとしょっぱさが丁度いい、複雑な味。匂いもいい。肉も柔らかい。美味いと思う」

 それは、専門的な知識など全くない、思いついた事と感じた事を率直に表現しただけの感想だったが…、

「そっか!まだまだあるから、遠慮しねぇで食えなアンチャン!」

 カムタはすっかり気を良くした。

 長らく独りで調理し、独りで食事してきた少年には、自分が作った物を誰かから好意的に評される事は新鮮で、嬉しかった。

 セントバーナードの口数は少なかったが、カムタに「さっきのは?」「これは?」「こっちは?」と訊かれると、一品ごと

に感想を語った。

 どれも評価は「美味い」と結論付けられていたが、食感、香り、味など、変に飾る事もなく、感じたままに述べられる言葉

は、カムタの耳に心地よく響いた。

 何より、セントバーナードがお世辞を言っている訳ではないらしいと、その幅広の尻でワッサワッサと大きく揺れている太

い尻尾からも判断できた。ぼんやりした顔は表情に乏しいが、体は正直といった所だろうか、食べる勢いや尻尾の様子で、本

当に美味しいと感じて欲している事が明確に判る。

 元々愛想が良いカムタは、機嫌がよくなって満面の笑み。食後にはまだ若い、ジュースとして飲めるココナッツを提供した。

 ココナッツの実を手にしたまま首を傾げているセントバーナードに、開けた穴にストローを入れて飲み方を実践してみせな

がら、カムタが感じたのは、

「アンチャン、スプーンもフォークも使い方知ってんだよな?いろいろ忘れてても判ってんだ。でも、ココナッツの啜り方は

判らねぇんだな?」

 やはりこのセントバーナードは諸島の住民ではないのだろう、という事だった。

 ココナッツの汁を啜りながら尻尾を振っている巨漢の方は、少年から問われた事が、考える材料になった。

(思い出せない。なのに、考えるとわかる事もある…)

 思い出そうとしても何も浮かんでこない。以前の事はさっぱり思い出せない。だが、受け答えや、食器の使い方など、その

時々で必要な知識は自然と引き出される。

 頭上の青を空と認識し、沖まで広がる青を海と認知する。まるで、頭の中に記憶とは別に辞書があって、それを参照してい

るかのように、状況に対応するための知識は、少し考えれば湧いてきた。

「…あ、そうだアンチャン。今食った中で、食った覚えがあるヤツとかねぇか?思い出せねぇか?」

「わからない」

「そっかー。他にも何も思い出せねぇか?」

 また同じような質問を受けたセントバーナードは、少し考えて…。

 

 …ルディオ…

 …名付け…

 

 ふと、目覚めの際で聞いたような気がする何かが、耳の奥に蘇った。

 それは、誰が言った事なのか判らない。声は中年から壮年の男の物だと思うが、その男の顔も、それが誰なのかも、皆目見

当がつかない。

 ただ、その声だけが、くぐもって響く音だけが、微かに、僅かに、耳の奥にこびりついている。

「…る…でぃ…?」

 ぽつりと、訝しげに漏らすセントバーナードの、きょとんとした顔。

 カムタは身を乗り出して「るじ?ん?何だ?何か思い出したかアンチャン?」と訊ねたが…。

「…「ルディオ」…?おれの事…?」

 当のセントバーナードはしばし黙考した後、首を傾げながら呟き…、

「うっ…?うう…」

 不意に両手で頭を押さえ、低く呻いた。

「どうしたアンチャン?頭?頭痛ぇのか!?」

 カムタは慌てる。しかし、頭を押さえているからそう訊いてみたものの、巨漢が感じているのが苦痛なのかどうか、その呆

然としているような表情からは窺えない。

 違う、というように首を振るセントバーナードは、

「頭が…、ふらふらして…、景色が…、回る…」

 そう呻くと、まるで糸が切れた操り人形のようにクタンと脱力し、音を立ててテーブルに突っ伏した。

「アンチャン!?おい、アンチャンしっかりしろ!」

 テーブルを回り込み、肩に触れて揺さぶったカムタは…。

「…んあ?」

 苦痛とは無縁の表情で目を閉じ、すぅすぅと規則正しい寝息を漏らしている巨漢の顔を覗きこむと、まず目を丸くして、次

いで安堵し、それから笑った。

「あはははは!な~んだ!腹いっぱいになったから眠くなったのか!」

 

 …ルディオ…

 …けよう…

 

(…「ルディオ」…?それが、おれの名前…?)

 頭と体を包み込む、優しく柔らかく魅力的な微睡の誘惑に抗いきれず、深い深い眠りの底へと沈むセントバーナードは、鼓

膜が確かに覚えている断片的な声を、繰り返し思い出していた。



 南の国の美しい海が、天頂に差し掛かった太陽に輝く。

 砂浜の際まで木が茂った海岸線では、数名の男達が双眼鏡などを手にし、景観を眺めていた。

 皆が皆ラフな格好をしており、一見すると景色を楽しむ観光客のようだが…。

「ここにも流れ着いていないようですね、フェスター」

 双眼鏡を沖に向けている鷲鼻が特徴的な白人に、にこやかに、楽しげに、笑顔を作ったアジア系の若い男が話しかける。声

さえ聞こえなければ、「良い眺めだね!」などと語りかけているように見えただろう。

「他の島、という事はないんだろうな?」

 鷲鼻の男も造った笑顔で応じる。大げさに何度も頷きながら。

 アジア系の男は肢体と目と眉が細く、髪をオールバックに撫でつけている。歳は二十代前半に見えた。

 細い目と体躯、しなやかな身のこなしが短毛種の猫を思わせる、そんな男である。

 フェスターと呼ばれていた鷲鼻の白人は金髪で、肩幅があり、アジア系の男よりも背が高く、幅もある。逞しいと言える体

つきだが、アスリートの無駄を省いた体とも、戦士の体躯とも異なる、何処かファッションめいた逞しさだった。

「潮流のシミュレーションデータから見て、まずそれは無いかと。あのバーの店主も、この島ではこの一帯に漂着する物が多

いと言っていましたが…、実際、ここは流木も他より多く上がっているようです」

「では何処へ…」

「もしかしたら、ですが…」

 アジア系の男は声を潜めた。

「…もう目覚めて、移動しているという可能性は…?」

「馬鹿な…。まだプログラミングも済んでいない、自己保存本能だけで動く状態だぞ?もし目覚めているなら、接触した島民

が何人か死んでいる。騒ぎになっていない以上、活動を始めているはずはない。…ケースの発信器が生きてさえいれば、こん

な手間などかからない物を…!」

 鷲鼻の男は笑顔のまま、忌々しげに吐き捨てる。

「とにかく、一刻も早く見つけ出し、回収しなければ…。散って捜索するべきだな。こうなったら虱潰しだ」

「承知いたしました。ではそのように指示を出します」

 アジア系の男は携帯を取り出し、鷲鼻の男は思いついたように口を開く。

「繰り返しだが、念を押しておけ。万が一、活動を開始して回収が困難となった場合は、殺処分も認める!必ず見つけ出せ!

トキシンバレットは惜しむな、何発使用しても構わん!」

「おおせの通り、伝達致します」

「ああ、ちょっと待てリスキー。それとだな…」

 鷲鼻の男の青い瞳が、冷たく光る。笑顔のまま。

「接触を持った者や目撃した者があれば、残らず始末しろ。老若男女問わずだ。話が広まってはかなわん」

「伝達致します」

 リスキーと呼ばれたアジア系の男は、表情を全く変えずに応じた。

 程なく、浜辺の男達はゆっくりと散開してゆく。

 砂浜の先へ先へと進む者、沖を観察し続ける者もあれば、切り立った岩塊が目につく遠方の岩場…カムタが漁場にしている

一帯の方へと歩いてゆく者もあった。