Wolf eyes

 …功だ…

          …やっと…

                    …これを…

                              …ルディオ…

                                         …と名付…



 ………………………………………………………………………………………………………………………………………………。

 …………………………………………………………ルディ……オ……………………………………………………………………?

 ……………それが……………………………………………………おれの……………………………………名前…………………?



 気を失うように眠りに落ちたセントバーナードが目を醒ました時には、太陽が天頂を大きく過ぎていた。

 身を起こし、一度空を見上げた巨漢は、視線を水平まで戻してきょろきょろと周囲を見回す。

 自分は何をしていたのか?と考え、それから何も思い出せない事を思い出した。

(思い出せない事しか、思い出せないなぁ…)

 困った状況にも関わらず困っているように見えない、ぬぼーっとしたセントバーナードは、見慣れない南国の家屋と、熱帯

の木々に草花、空気の青が埋める視界を、一通りぐるりと巡らせる。

 これだけは思い出せる、食事を与えてくれた少年の姿を探して。

 セントバーナードは見回してすぐに、テーブルの向こうの低い位置から聞こえる音に反応して、垂れ耳をピクつかせた。

 椅子から腰を浮かし、テーブルの向こうを覗き込むと、カムタはマットの上に座り込んでパンダナスの実をしごき、果肉を

削り取る作業をしていた。乾燥させたパンダナスの実は、この南国の気候でも変質し難い保存食になるので。

 立ち上がったセントバーナードの影が手元に射して、目覚めに気付いたカムタは、作業の手を止めて顔を上げ、人懐っこく

笑いかける。

「よっく寝てたなアンチャン!気分どうだ?」

 セントバーナードは周囲を見回し、自分の体を見下ろし、それからカムタに目を向け、「いい」と短く答えた。

 眠るまでは実感に乏しかったが、空腹に加えて疲労もたまっていたらしい。先程までとは体の軽さが段違いだった。窮屈な

姿勢で動かなかったせいか、筋肉には若干こわばりがあり、腰を浮かせたり首を回したりするだけで関節がポキポキ音をたて

たが、問題になるほどではない。

「溺れて疲れてたんだな?いいよ、オラがケーサツに電話してくる。オマワリさんにウチまで車で迎えに来て貰おう。アンチャ

ンは休んでな」

 カムタは「電話ねぇんだ、ウチ。近くで借りなきゃなんねぇからさ」と説明した。そして、台所の内側にかけてあった薄手

のシャツを取り、袖を通し、前を閉めずに羽織り、

「じゃ、少し待っててなアンチャン!」

 と片手を上げ、セントバーナードの返事も待たずに木々が途切れた一角…いわゆる裏門に相当する箇所から道へ出て行く。

 独り残されたセントバーナードは、光が強い空をぼんやり見上げた。

 南国である。それは判る。体に馴染んだ環境とは感じられないので、自分が元々居た場所はここではないのだろうという気

はする。

 しかし、以前は寒い場所に居たのかというと、それも確信が持てない。

 確かなのは、この肌に馴染みのない湿度、気温に…。

(体が、慣れてきた…?)

 自分の体が、次第に順応しつつあるという事。

 セントバーナードは視線を下ろし、自分の手をまじまじと見つめた。

 肉厚で大きな手。自分の意思で動く、間違いなく自分の物であるはずの手。それが…。

(おれの手…、なのかなぁ…?)

 首を捻るセントバーナード。

 奇妙な感覚だった。

 それが、記憶を失っているせいだからなのかどうかは判らないが、確かに自分の手であるはずなのに、自分の物ではないよ

うな、説明し難い違和感があった。

 自信が無い。

 確信が持てない。

 そんな、不確かで、あやふやで、頼りない違和感は、何故か無視できない。

 意識せずとも眩さを感じ続ける、視界の隅でちらつく夕陽の反射のように。



 カムタの家から歩いて五分ほどの距離にある、常にジャズが流れているバーは、主に観光客が利用する店。地元民は夜たま

に酒を飲みに来る程度で、日中はまず足を運ばない。

 バーの看板を出して酒を提供してはいるが、半分は食堂のような物で、正午から夜九時までが営業時間。とは言っても、観

光客の団体などが入らない限り、昼間はだいたいガラガラである。

「コンチワー」

 カランカランと鈴が鳴るドアを開けてカムタが入店すると、板張りの床は、ふくよか過ぎる少年のサンダルの下で、派手に

ギシギシ軋んだ。

「ハイらっしゃ…ってカムタか」

 客が居なくてガランとしている店内の、正面奥にあるカウンターの向こうで新聞から顔を上げたのは、白い体躯に黒いブチ

模様がある犬…テンターフィールドの若者。

「あれ?今日仕入れの予定あったっけ?」

「違うよ?」

「そうだよな」

 椅子から腰を上げた若者は新聞をカウンターに置くと、カムタが手ぶらである事を確認して頷く。

 176センチの背丈に、なで肩でスッと細い体。この辺りの住民としては風変わりな、逞しさと無縁の華奢でスマートな若

者である。

 若者の名はテシー・ロヤック。二十五歳。諸島有数の大船主、ロヤック家の長男。

 テシーの曽祖父の代から漁業で財を成してきたロヤック家は、今では、クルージングから遊覧船など、諸島を股にかけたレ

ジャー観光事業で活躍する会社を立ち上げて、かなり裕福になっていた。

 そのロヤック家で、本来は次期社長となるはずのテシーは、会社の経営に全く興味を示さず、酒好きの趣味が高じて、倉庫

を改築してバーを経営している。跡取りとして期待する父親は良い顔をしていないのだが、母や祖母などは理解を示し、非常

に協力的だった。

 テシーとカムタは十歳以上歳が離れているが、ロヤック家の末っ子と少年が同級生で、古くから顔なじみだった縁もあり、

仲が良い。カムタが小さかった頃からちょくちょく食事を作ってやり、料理も仕込んだので、少年にとっては兄貴分兼、友人

兼、生活面での先生のひとりである。

 もっとも彼が、とにかく栄養を…、美味い物を…、と心を砕いた結果、真ん丸くプクプク太った今のカムタがあるという事

実に鑑みれば、その料理レパートリーの平均カロリー量は想像に難くない。

 そしてふたりの関係は、カムタが独り暮らしを安定して送るようになった今でも、強固な物のまま。

 カムタは海で獲った食材をこの店に持ち込み、テシーはそれを買って客に供する料理を作っている。

 首都まで200キロの島である。他所から入る品は運賃の兼ね合いもあって、当然高くなる。

 カムタとテシーが直接売買する場合、本来は間に入る安くない運賃がカットされるので、売る側は相場以上の手取りとなり、

買う側は相場以下の値段で品を手に入れられる。

 加えて言うと、カムタは地元の水準で言っても「腕利き」と呼べる採取腕を持っている。

 数時間に渡って海と格闘してもヘバらないタフさ。頃合いの獲物を選別できる確かな目。何処で何が獲れるか判る知識と、

経験に裏打ちされた勘。そして何より、天候を甘く見ない慎重さと自然への敬意。

 幼い頃から潮に揉まれて生きて来たカムタは、血筋もあるのだろうが、天性の漁師と言える少年である。足りない物は漁具

や動力付きの船など、資産面の物だけ。だからこそテシーも、まだ歳若いこの少年に仕事をさせる事に不安がない。古馴染と

いう贔屓目を抜きに、商売に関する事では対等のパートナーだと認識している。

「ココナッツジュースで良いか?」

 カムタが単に遊びに来たのだと考えて、テシーは冷やしていたグラスを取り出した。バーではあるが、弟達やカムタがちょ

くちょく遊びに来るので、ソフトドリンクも潤沢に取り揃えてある。

 少年は「アンガト」と応じてカウンターにつきながら、「テシー、電話貸りれるか?」と訊ねた。幅はあるが背丈はまだ子

供。椅子に座ったカムタにはカウンターは少し高く、両腕は胸まで上げてテーブルに乗せる格好で、床から離れた足からは抜

けたサンダルが落っこちてしまった。

「うん。いいけど、珍しいな?お前が電話使うなんて」

 ココナッツジュースをグラスに注ぐテシーの手元から、カムタの目がカウンターに置かれた新聞に移った。普段は新聞など

読んだりしない少年なのだが、今日はあのセントバーナードの事が何か載っていないかと気になり、手に取ってみる。

「テシー、昨日までの風で船とかひっくり返んなかったか?」

 新聞を捲り、それらしい記事がないか探しながら訊ねるカムタに、テシーは首を縮めて「いや、幸い」と応じた。

「ウチの船は一隻も被害に遭わなかったな。他はまだ判らないけど、とりあえずはシバの女王様に感謝だよ」

「よその船の難破とかもなかったのかな?」

「流れ着いた物で磯が散らかったら困るもんな、お前の場合。…あ。もしかしてあの連中、お前のトコにも行ったのか?」

「………え?あの連中?」

 カムタは、少し遅れて新聞から顔を上げた。

「なんだ、違うのか?」

 グラスをカウンターに乗せたテシーは、チーズを乗せたお手製クラッカーを皿に盛りながら語った。「鷲鼻の白人のおっさ

んとか、チャイニーズかジャパニーズみたいな若い男とか、ガタイがいい野郎どもとか、海洋環境保全ナンタラって連中がさ、

さっきまで居たんだよ」と。

「船の事故とか、漂着物とかの調査してるって言って、夕べまでの風で被害無かったかとか、この辺で物が流れ着き易い浜は

何処なのかとか、そういう事を訊かれた」

 説明しながら、テンターフィールドの青年は盛大に顔を顰めていた。

 二年前のハリケーンの後、被害調査と称した外国の「自称」支援団体とひと悶着あってからというもの、テシーとその家族

だけでなく、島の住民達のほとんどは、その手の団体を毛嫌いしている。

 カメラマンがそれらしい写真欲しさに、住民達の目を盗んで、苦労して片付けた瓦礫などを蹴り崩して散らかして、でっち

あげの被害写真を撮った時は、ご近所総員で囲んだ上でカメラを取り上げ、目の前で踏み壊してやった。

 無論、まっとうな団体もある。個人で駆け付けた支援者が骨身を惜しまず働き、そのまま島に居ついた例もある。だが、悲

しい事にひとの品位も精神性も一定ではない。支援という大義が免罪符になると思っているのか、それとも施す側からの視点

が配慮の無さを産むのか、そういったトラブルを起こす自称支援団体は、その時は少なくなかった。

 しかしそんな各種トラブルはまだ可愛い方で、どちらかと言えば開放的で朗らかなテシーの堪忍袋の緒が切れたのは、その

手の団体のひとつが、ハリケーンの海から父が帰ってこないある少年を、無神経に取材したからだった。

「癪だからデタラメ教えたよ。磯や浜を荒らされちゃかなわないからな。…だいたい、あの連中、本当に堅気とは思えなかっ

たぜ?妙にガタイがいい、マフィアの親分のボディガードみたいな、人相が悪いヤツも居たし…」

 プンプン憤るテシーの顔を眺めながら、カムタは口を半開きにして考えていた。

 磯に漂着した記憶のないセントバーナード。

 漂流物が上がる場所を訊きに来た団体。

 堅気に見えないボディガード。

 筋道立てて論理的に考えた訳ではないが、それらの事柄が何処かで繋がっているのではないかと、疑問が頭をもたげた。

「悪ぃテシー!また来る!」

 カムタは椅子から飛び降り、脱げたサンダルを慌ただしくつっかけ、床を派手に鳴らしながら出口へ走った。

「あ!おい電話は?」

「いい!」

「ジュースは…」

「今度!」

 少年が飛び出し、バタンと閉じられたドアを、テシーはしばしポカンと見つめていたが、

「…カムタのヤツ、腹の調子でも悪いのか…?」

 食いしん坊の少年が手を付けなかった、ココナッツジュースとクラッカーに視線を向けて、ポツリと呟いた。



「船の方はどうなっていると?」

「沈んだ位置は確認できたそうです。損傷も激しく、早急な引き上げは難しいとの事で、サルベージは後回しに…。まるで爆

撃でもされたような有様だと話していましたよ」

 鷲鼻の白人と並んで歩きながら、衛星経由で通話が可能な携帯をポケットにしまったアジア人の若者が応じる。

 ふたりとも、いかにも観光を楽しんでいる、といった具合にニコニコしているが、心の底ではこの状況を歓迎していない。

海岸沿いのヤシが並んだ道を歩きながら、その四つの目は海と陸の境界を注意深く窺っていた。

「やはり積荷は無かったそうです。脱出できた者の目撃証言にあった通り、流出したのは確かですね」

「救助された乗員どもは?」

「メディカルチェックも済んで、聞き取りに応じている頃でしょう。済み次第こちらに向かわせるそうです。意識が戻った者

については、ですが…」

「乗員二十三名中、二名が意識不明、四名が死亡、一名が行方不明、か…」

 繕った表情とは異なり、鷲鼻の男の声には苛立ちが深くにじむ。

「爆発をモロに浴びたんでしょう。死体の損傷は酷い物だったようです。…もっとも、生き残った船員は見ていないそうで、

詳細は判りませんが。…いや、甲板に居合わせなかったから死なずに済んだと見るべきでしょうね」

「まったく…、とんだタイミングで事故を起こしてくれる…!この海域で黄昏らしい物が動いているという噂もあるというの

に…!腕利きを配備できなかったのか?」

「いいえ、乗組員は腕利きでした。外洋航行にも精通した面子揃いです。経験を積んだ者でも手に余る程のトラブルだったの

でしょう。それに…」

 アジア系の若者は声を潜めて囁く。

「死亡した乗員四名と、行方不明の一名は、全員が肉体に人工的な強化を施されていました。人員配置に手抜かりはなかった

ものと…」

「ブーステッドマンが居ながら事故を防げなかったと?」

「結果から言えばその通りですね。船体自体の致命的なトラブルだったとしたら、どうしようもない事もありますので」

「機器的なトラブルだったとしたら、整備士にはペナルティを与えるよう、担当者に言っておけ。人為的ミスだったなら、乗

員どもに責任を取らせる。…くそっ…!操舵室が吹き飛んだだと?船体が砕けただと?甲板が燃え上がっただと?何故今回の

輸送に限ってこんな…!」

 鷲鼻の男は頭痛でも覚えたように額を押さえ、呻く。造り笑いは歪になり、禍々しいシルエットに彩られた。

「散って探索している連中からも一向に報告が無い…!」

「こうなると…、損失はともかくとして、流れ着かずに海の藻屑となってくれていた方が有り難いですね」

 肩を竦めたアジア系の男の発言に、鷲鼻の男は「新型含め、か…。痛過ぎる損失だがな…」と渋面で頷いた。



「アンチャン!戻ったぞ!」

 息を切らせて家に戻ったカムタは、テーブルの脇に座り込んでいるセントバーナードの傍に寄った。

 そして気付く。巨漢が、先ほどまで自分がやっていた事…パンダナスの実を削り取る作業をしていた事に。

「んあ?これ、全部アンチャンがやってくれたのか?」

 セントバーナードは手を止めてカムタを見上げ、頷いた。

 カムタがやっていた作業の見よう見まね。相当力が要る作業なのだが、カムタが出て行って戻るまでの十五分にも満たない

間に、少年が一時間はかけるだけの作業量を、セントバーナードはさらりとこなしていた。残りの実は僅か。これならカムタ

だけでも三十分とかからずに終わる。

「すげぇなぁ!アンガトなぁ!アンチャンでっけぇだけあって力持ちだなぁ!」

 感心して喜んで、綺麗に削られて皿に積まれたパンダナスの果実を手に取って、カムタはしげしげと見つめた。流石にコツ

は判らなかったようで、果肉に少々無駄が出ているものの、初心者としては上々と言える仕事ぶりである。

 手早い上になかなか上手な削ぎ方だなぁ、と感心しているカムタは、

「あ!そうだった!」

 少ししてから我に返って、声を上げた。

「アンチャン、まだ何も思い出せねぇか?アンタの事を探しに来るヒトとか、心当たりねぇか?」

「………わからない」

 セントバーナードは少し考えてから首を振り、カムタは「やっぱそうかぁ」と呟いて、腕を組んだ。

 環境保護ナントカというその団体は、本当の事を言ったのかもしれない。セントバーナードとは無関係で、本当に何かの調

査をしに来たのかもしれない。

 だが、堅気に見えなかった、とテシーが語った感想が、どうにも引っかかっている。

 本当は環境保護団体でなかったとしたら?本当はセントバーナードを探しているのだとしたら?

 引き合わせればあっさりと解決するのかもしれない。だが、もしもそうだとしたら…。

(環境ナントカだってウソ言って、聞き込みして、アンチャンを探すヒトってのは…)

 身元を偽っていたならば、後ろ暗い事がある連中だという事になる。そして、もしもその関係者だったとしたら、このセン

トバーナードも…。

(でも、アンチャンは悪ぃヒトに見えねぇんだよなぁ…)

 巨漢の顔を見つめながらカムタが首を捻ると、セントバーナードもまたつられたように首を傾げる。

 悪人には見えない。それどころか、極めて無害な、ぼんやり気味の男にしか見えない。悪事をたくらむのが得意そうには思

えない顔だった。

(そうだ。その連中は悪ぃヒトたちだったとして、アンチャンは追っかけられてるって事はあるかな?前にテシーの店で見た

映画で、そういう感じのがあったけど…)

 昏睡状態から目覚めた主役が、悪の追手と対決する映画のストーリーを思い出したら、途端に、セントバーナードとその連

中の接触は危険に思え始めた。下手に会わせたりしたら、何も思い出せないセントバーナードが酷い目に遭わされるのではな

いか?と…。

 それからカムタは、何かに気付いた様子で鼻を鳴らし、空を見上げる。

 いつの間にか、沖からの風が強くなり始め、潮の香が濃くなっていた。

「天気が崩れんなぁ、きっと…」

 セントバーナードもそれに倣って空を見上げ、フスフス鼻を鳴らした。

 その仕草がいかにも素朴かつ無害そうで、カムタはおかしそうに「あはは!」と笑う。

 そして、少年は決断した。

 今ならまだ間に合う。セントバーナードを見つけた場所に行って、他に流れ着いた物が無いか調べてみよう、と。

 もしもテシーの店に来た連中が「ワルモノ」で、巨漢に悪い事をしようとして探しているのだとしたら、身元の手掛かりが

残っていた場合、困った事になるかもしれない。

「アンチャン、オラちょっと海まで行って来る。雨が降っかもしんねぇから、家の中に入っててくれな」

 セントバーナードは少年が指差した母屋を見遣り、それからカムタの顔を見てコクリと頷いた。

 その聞き分けの良さを、素直というよりは、何も思い出せないし判らないので言われたことに従うしかないのだろうと、カ

ムタは解釈する。

「あ、そうだアンチャン」

 カムタはふと思いつき、セントバーナードの胸に触れた。

 暖かな白色のそこは、毛を摘まんでみないと判らなかったが、海水が乾いて塩粒まみれになっている。

「やっぱりかぁ。入って一番奥の突き当りが風呂場だ。水張ってねぇけどシャワーあるから、体洗っとけばいいよ」

 頷いた巨漢に「すぐ戻っから!」と手を上げて、カムタは海に向かって駆け出した。

 その背中が見えなくなるまで、ぼーっと突っ立って見送ったセントバーナードは、言われたとおりに母屋の方へ向かおうと

して、ふと思い直して振り返り、パンダナスの果実を山盛りにした皿を取り、空を見上げて風の中に鼻を突っ込み、潮の香を

嗅ぐ。

「降る…。雨が?」

 言われてみればその気配が感じられなくもない。作業していた所までは一応屋根が張り出しているものの、壁に囲まれてい

る訳ではない。せっかく処理した果実も、横風を受けた雨には濡れてしまうだろう。

 果実も道具も、雨が吹き込まない母屋の中へ移しておこうと考えて、巨漢は作業の後始末を始めた。

 やる事もないので、彼がしようとしていた作業などを手伝うのが建設的だと感じているのもあるが、受けた親切を何かの形

で返したいと、頭ではなく気持ちが体を動かす。

 どういう素性なのかは判らないが、親切な少年なのだろうと思う。その行動に損得勘定のような物は感じられない。根っか

らの善人なのだろうという気がする。

「………雨」

 そして巨漢は、仕舞い込み作業が終わるころにふと考えた。

 あの少年は、傘などの雨具を持たずに出て行った。雨が降るかもしれないのに、海へ行く、と。

 雨具に頼らない風土、文化なのかもしれない。しかし、向かった先はただ雨が降って濡れるだけの場所ではない。風が出れ

ば波も高くなる、下手をすればさらわれる事もあるだろう海である。

「………」

 セントバーナードは少しの間、物思いに耽っていたが、やがてカムタが飛び出して行った方へと、のっそり歩き出した。

 自分の事は思い出せないが、ここへ来た道は、景色まで子細に思い出せた。



 磯の岩を飛び跳ねるように踏み、越し、跨ぎ、カムタは波打ち際に何か無いかと探し回る。

 海に育まれた野生児は、見た目から想像できる以上に機敏で、起伏が激しい岩場をすばしっこく駆け巡っていた。

 岩場へ下る前に、崖の上からも見渡してみたのだが、目につく珍しい物は無かった。そうなると岩陰や水の中を覗き込んで

確認してゆくしかない。

「アンチャンが居たのはこの辺だ。けど何もねぇ。引き波にさらわれたか?それとも、最初からアンチャンしか流れてこなかっ

たのか?」

 雲が太陽を隠し、空模様はどんどん悪くなっている。波も次第に高さを増していた。

 岩の隙間やら水たまりの中やらを一つ一つ覗いて探すには時間が足りないし、海中をざっと見られるのも今だけである。

 岩壁上部に並んで生えたヤシの木が、注意を呼びかけるようにザウザウと風に唸る中、カムタは空と海を見比べ、意を決し

てゴーグルをかけると、海面へ飛び込んで水柱を上げた。

 波が荒れ始めたせいで、巻き上げられた砂が海中を漂い、海の透明度は下がっている。美しいサンゴと魚の楽園は、光量が

減って少し水温が下がり、曇天の空を映したように色褪せて薄暗い。

 普段の半分以下の距離しか見えない海中で、カムタは水を蹴り、潜航しながら進む。手掛かりを探して。

(荒れの後で引き波に持ってかれちまったら見つけらんなくなる。今しかねぇんだ、何か手掛かり…、海底で引っかかってる

物とかねぇかな…?パスポートとか、名前とかそういうのが判るモンがあったらいいんだけど…)

 しかし、息継ぎを繰り返して水面と水中を行き来するカムタの前に、望むような物は姿を見せない。探している最中にも波

は高まり、視認可能距離はどんどん短くなってゆく。

「っぷは!ふぅ!ふぅ!…もうちょっとしたら、探せなくなっちまうな…」

 水面に顔を出し、立ち泳ぎで息継ぎをしながら、カムタは次をラストダイブにする事に決めた。海に慣れているからこそ海

を舐めていない。馴染んだ磯に甘えるような危機感の無さとも、自分を過信する傲慢さとも、カムタは無縁だった。

 そうして、真剣に、謙虚に、自然体で海と向き合って生きている少年は…。

(ねぇかなぁ…、ん?)

 沖の方向、サンゴが住まう大きめの岩の脇から、金属的な光で目を刺激された。

(何だ?ひっくり返った船?筒?煙突?)

 海流が気まぐれに分けた、踊る砂粒の割れ目に、少年は見た。

 一瞬だけ捉えたそれは、鉄色に鈍く光っていた。形状をはっきりと確認できた訳ではないが、砂地に下側が少し埋まってい

る、円筒形の何かと思えた。

 距離もあるので正確ではないが、感覚的にその大きさを、長さ2メートル強と判断したカムタは、息も苦しくなったので、

ひとまず浮上し、息継ぎする。

(いつも泳いでる辺りだけど、あんなの見た事ねぇぞ!?)

 岩や魚、サンゴなどを、光の反射で見誤った訳ではない。荒天に入る前まではあの場所に存在していなかった、明らかに人

工物と見える何かが、そこにあった。

 とにもかくにも見つけた異様な物だったが、パスポートなどならいざ知らず、ソレは回収できるようなサイズではない。

「今は諦めっか…。オラだけじゃ引き上げらんねぇし、そろそろ波がもたねぇ…」

 セントバーナードと関係があるかどうかは判らない物だが、あそこならば潜らなければそうそう見つからない。それに、ワ

ルモノかもしれない連中に見つかっても、すぐに持って行かれる可能性は低いように思えた。

 調べるのは後でいいと判断したカムタは、ソレが沈んでいた辺りを気にして振り返りながら、岸まで泳ぎ帰る。

 あのサイズの金属塊なら、多少海が荒れてもどこかへ行ったりしないだろう。波も風もまだ危険な域ではないが、急転しな

いとは限らない。潮時は、まだ余裕がある今この時だった。

 波がビチャビチャと激しく跳ねる岩に手をかけ、水中から這い上がった少年は、海を振り返って「う~ん…」と唸る。

「何だアレ?筒か?鉄か何かっぽい光り方だったけど、船の煙突か何かの部分か?見た事ねぇぞあんなの?後でもっかい確か

めてみねぇと…」

 いつもの癖で独り言を漏らしたカムタは、

「何を見た?小僧」

 すぐ後ろから響いた声で、ハッと振り向いた。

 岩場に身を隠していたのか、一瞬前まで誰もいなかったはずの岩の上に、見覚えのない欧米人が立っていた。

 サングラス。アロハシャツ。丈の短いジーンズ。バカンスに来た観光客のようなラフなスタイルだったが、その男は体格が

よく、冷酷に響く低い声を発していた。

 確認できない、しかし冷たさだけは嫌と言うほど感じる視線を浴びながら、カムタは思い出した。「ボディーガード」、「

堅気に見えなかった」、そんなキーワードを。

 そして今、堅気でないその証拠が、少年に向けられている。

 カムタが映画でしか見た事がなかった物…、筒状のサウンドサプレッサーが先端に取り付けられた、拳銃が。

 ワルモノだった。

 カムタは黒いプラスチックの拳銃を見つめながら、そう確信した。

「ここの近くに沈んでいたのか?…運が悪かったな小僧。先に見つけなければ死なずに済んだものを…」

 男はグロック30の銃口をひたりとカムタの眉間に向けたまま、冷酷に呟く。

 装填されている弾は45ACP。貫通力よりも衝撃に重きを置いてある、サウンドサプレッサーと相性が良く、破壊力も十

分な弾丸。2メートルと離れていないこの状況ではまず外れず、頭に当たれば確実に死ぬ。

 しかしこの時、運はカムタに味方した。

 撃鉄は、まだ起きていない。少年はそれを確認した訳でも、知っていた訳でもないが、男の左手が拳銃の上部をスライドさ

せるか否かというタイミングで身を翻し、海中へ潜った。

「ふん…。所詮は子供か。それで逃げたつもりか?」

 射撃可能となった銃を構えたまま、男は鼻で笑った。

 息を止めて潜っていられる時間などたかが知れている。水中を泳いで逃げようにも、目の届く範囲から出られるはずもない。

 さてどこから顔を出すか、と、視線で海面を撫でる男は…。

「?」

 ズン…と、足に震動を感じて視線を上げた。

 何か重たい物が落下して、地面に接触した…、そんな震動だった。

 そして、震動の源が自分の後ろ…それもすぐ傍だと感じ、素早く振り向いた。

「…!?」

 その目が、サングラスの下で見開かれる。

 白と茶の鮮やかな毛並み。

 大人の腕も回り切らないほど太い胴。

 感情を窺わせない双眸は、男より20センチは高い位置から見下ろしている。

 犬。それも大型種の獣人。

 そう認識したか否かの内には、男は反射的にその拳銃を相手に向けていて…。


(む、むぐぐ…!)

 カムタは顔を真っ赤にして、海面に浮き上がらないように岩を掴んで、磯伝いに移動していた。

 日常的な素潜りで心肺機能は鍛えられており、水中での活動時間は常人とは比較にならないほど長いのだが、それでも限度

という物がある。

(もう無理…!限界だ!)

 記憶を頼りに、男が立っていた場所から死角になるはずの岩塊の影で、少年は水面に顔を出した。

 胸いっぱいに吸い込んだ空気で生き返る心地だが、危機を脱した訳ではないと、気を引き締める。

 そして、おそるおそる、岩塊の影から岩場を覗き見て…。

「んあ?」

 思わず声が漏れた。

 岩場にはもう、男の姿は無かった。

 その代わりに、大きくて固太りのセントバーナードが、目の上に手でひさしを作り、キョロキョロと辺りを見回している。

「アイツは居ねぇ?…何でアンチャンが居んだ?」

 カムタが岩に登ると、気が付いたセントバーナードは「あ。居た」と、カムタが挨拶の時にそうするように、右手を上げる。

「アンチャン?独りだけか?」

「ん?」

 問われたセントバーナードは、質問の意味が分からない様子だった。

「そこに誰か居なかったか?」

 膝丈まで浸かる程度の浅瀬を歩いて近づくカムタに、巨漢はまたキョロキョロしてから、「居ないようだなぁ」と答える。

「誰か一緒だったのか?」

 逆に訊いてくるセントバーナードが嘘をついているようには、カムタには見えなかった。深い色のトルマリンのような瞳は

穏やかで、純粋で、むしろカムタが何を気にしているのか見当もつかない様子である。

(アイツ、アンチャンが来たから逃げたのか?モクゲキされるとまずいからか?それとも…)

 巨漢の傍に寄り、そのきょとんとしている無害そうな顔を見上げ、カムタはホッとして笑う。

(アンチャンがでっけぇから、ビビって逃げたのかもな)

「ん?」

 少年が何故笑ったのか判らずに、巨漢はまた首を傾げた。

 相変わらず、悪巧みとは無縁そうな、いかにも騙され易そうな、そんな表情と仕草だった。

「そうだアンチャン。何でここに来たんだ?」

「…そうだった。天気が…」

 問われたセントバーナードは沖を指差して、「悪くなるなら、危ないかもしれないと思った」と述べた。

「心配してくれたのか?」

「心配?」

 少し考えて、巨漢は顎を引いた。「そうだなぁ。心配になったんだ」と。

「そっか!」

 カムタは満面の笑みを浮かべる。

「アンガトなアンチャン!アンタ恩人だ!」

「?」

 迎えに来ただけで、何故そこまで感謝されるのだろうか?と、巨漢は不思議そうに首を傾げていた。

「帰ろう!そろそろ天気がもたねぇよ!急いだ急いだ!」

「………」

 急かす少年の態度を不思議そうに眺めながらも、セントバーナードは頷く。

 そうしてふたりは歩き出す。危なげなく、濡れた岩の上を伝って。

 しかしカムタは気付いていなかった。

 セントバーナードと自分が立って話をしていた岩場、そこから3メートルと離れていない、岩がくぼんだ水たまりに、あの

男が仰向けに倒れ、波に揺られて浮いていた事に。

(あれは…)

 首が直角に折れ曲がり、波にふらふら揺れるに任せ、指一本動かせない男は、一瞬の出来事を思い返していた。


 その半裸の獣が何処から現れたのか。どうやって自分の背後を取ったのか。それらは、男には判らなかった。

 岩礁を一望する崖上の高台から、20メートルもの高低差を物ともせず、直線距離にして40メートルある自分の真後ろへ

跳んで来たなどと、想像できるはずもなかった。

 だが、疑問に関係なく訓練された体は動く。少なくとも男の右手はそうだった。

 反射的に突きつけようとした拳銃…。それは正確で、申し分なく素早い動作だった。

 問題は、その後の事。

 直立する獣の、外しようもない広い胸に向けた銃は、しかし、あらぬ方向へ逸れた。

 一瞬遅れて衝撃と灼熱感があった。それを認識した後に、自分の右腕が、手首の少し上で、ポッキリと折れ曲がっている事

に気付いた。

 だが、それがどうしてそうなったのか?という事は理解の外。

 無造作に、しかし素早く、払うように動いた相手の手…、拳を握った手の甲に跳ねられた結果、あっさり折れてしまった事

など、判るはずもなかった。ろくに視認さえできていなかったのだから。

 それから、脳が痛みや驚きを感じる前に、実感が湧かないまま折れた腕を見ていた目が、暗さを感じた。

 何も見えなくなった。そう感じたと同時に、今度は首に灼熱感を覚えた。

 腕との違いは、首から頭の中に、メリパキッ…と、硬い何かが折り千切られるような音が這い上がってきて、不意に浮遊感

に捕らわれた事。

 直後に明るくなり、取り戻した視界には、何故か、側転しているように回りながら遠ざかる、大型犬の無表情な顔があった。

 敵意も、悪意も、憎悪も、嫌悪も、憐みもない。それどころか何の感慨も抱いていない。

 ひとが、足元の邪魔な石ころを蹴り除ける時、いちいち何も感じたりはしないように。

 そんな空虚で硬質な、鉱物のような冷たい無表情だった。

 薄曇りの空の下、いやに冷たい飴色に光っていたその瞳は…。


(狼の…目…)

 折れた腕にジンジンと痺れを感じ始めた男の思考は、そこで完全に止まった。

 顔面を鷲掴みにされた自分が、体が浮き上がるほど鋭く、力任せに捻られ、首を折られてしまった事には、結局最期まで気

付かなかった。