Beautiful island
「うひゃー!カンイッパツだな!間に合った!」
パラパラと小雨が降り始めた空を見上げながら、カムタは急ぎ足で敷地に入る。
その後ろには、のっそり大股に歩いて続くセントバーナードの巨漢。
少年は早歩きだが、歩幅に差があるので、巨漢はゆったりした歩調でも遅れない。
「急いで台所片付けねぇと…」
作業の後始末をしなければと、母屋から離れている台所へ顔を向けた少年へ、セントバーナードは「あ」と思い出したよう
に声を発し、告げる。
「何処に仕舞うか判らなかったから、全部母屋の玄関に入れた」
「ホントか!?わー!アンガト!助かるよアンチャン!」
台所回りが綺麗に片付けられている事を確認したカムタは、セントバーナードを連れて母屋の中へ。巨漢が言った通り、削
られた実も作業具も、さらには削り終えたゴミまでも、マットを敷いた土間口に移されていた。
「空は薄暗ぇだけだし、そんな強く降んねぇと思うけど…」
沖の空を一瞥し、敷地入口を見遣り、そっと玄関を閉めると、カムタは改めて考えた。
(追っかけて来るヤツは居ねぇな?あの男、どうしたんだろうな?あの男がアンチャンを見て逃げたなら、迎えに来た仲間と
かじゃねぇよな?捕まえに来たとか追っかけて来たとかそういうヤツでもねぇよな?だったら逃げるはずねぇもんな?じゃあ
アイツって…、アンチャンと関係ねぇワルモノなのか?)
「…どうしたんだぁ?」
セントバーナードは自分をしげしげと見つめながら考え事をしている少年に、不思議そうに眉を上げながら訊ねた。
その素朴な表情で、カムタは感じる。やはりどう見てもワルモノとは思えない、と。
「アンチャンは、どっちかって言うと巻き込まれる方だよな?映画とかで。ヒガイシャのヒトだ。助けられる方な」
「???」
カムタの言葉の意味が解らず、巨漢は首を傾げる。
「あ、そうだアンチャン。風呂…」
少年は出がけに言った事を思い出して、巨漢の肩や腕、胸などを見る。被毛はあちこちでツンツン尖り、塩の粒で白っぽく
なった部分もそのままだった。
「やっぱまだだよな。こっちだよ、オラも塩落とすから一緒に行こうな」
手を引かれるセントバーナードは、大人しくカムタに従って母屋の奥へと廊下を進んだ。
カムタの家は単純な作りで、真上から見れば縦長の長方形。玄関から入って奥まで伸びる廊下の左右に三つずつ部屋があり、
突き当りに水回りが集められた脱衣場と風呂場がある。
入ってすぐ右のドアは開いており、褪色した布張りのソファーとローテーブルが見えて、リビングらしいという事が巨漢に
も判った。
反対側のドアは閉まっていたが、そこは倉庫。魚を干して干物を作ったりもする場所である。
廊下右側中央…リビングと隣接している部屋は、カムタの父が使っていた寝室で、その隣、右手の一番奥がカムタの寝室で
ある。
残りの二間は、カムタの両親がここに家を建てる際に、家族が増えたら、と考えて用意していた予備の部屋。結局子供はカ
ムタしか生まれず、親戚が来る事もないので、物置として活用されているのが現状である。
「ここ!結構広いだろ?」
カムタに案内されたセントバーナードは、脱衣場に入るなりフスフスと鼻を鳴らした。
(野菜?…の匂い?)
風呂と脱衣場は、洗い物などをする作業場も兼ねている。
脱衣場には、壁から突き出て脱衣籠が置かれた板の棚の他に、長テーブルのような長方形の机も置かれていた。いくつか置
いてある盥は黄色、緑、桃色とカラフルなプラスチックで、販売促進用のオマケ品らしく、製薬会社名と商品の消毒薬の名が
記してある。だいぶ擦れて文字が判別し難くなっているが、その製薬会社が倒産してから十年も経っているので、当たり前と
言える風化度合い。
壁掛け鏡は古びて端から剥離し始め、黒い領域が縁の装飾のようになっている。その下の流し台は、タイル張りの長方形で
奥行40センチ、幅1メートルほど。排水溝から下に伸びる管はゴムホースで、風呂場に繋げられ、排水経路を纏めてある。
流しの脇には、外の台所にある物より一回り小さい竈があり、作業の名残か、流し台の端の方にも、洗った野菜の皮や削り
屑が少し残っていた。
悪天候で外の台所が使えない時などには、ここで食事を作ったりもするのかもしれないと、セントバーナードはぼんやり考
える。
「脱いだら籠に入れといてな」
指示されたセントバーナードは、植物の茎や皮、葉で作られた衣類籠を見つめた。
台所回りもそうだったが、カムタが使う籠もトレイも、ヤシの葉の筋を紐にして自ら手作りした物である。
造り方はテシーの祖母から教わった。彼女が造る美しい土産物の商品と違って、華やかな柄などは編み込まれていないが、
しっかりした造りは売り物にも負けない。
「ズボンも塩まみれだから、ちゃんと洗っとかねぇとな。…あ」
カムタは言葉を切ってセントバーナードのドッシリ太い腰回りを見つめる。
「…替えのズボンとかねぇんだよなアンチャン…。オラのもトーチャンのも穿けねぇな…」
骨格自体太いが、肉付きも良い腰回り。腹も出ていて、大人でも腕が回らない太さ。家にあるズボンを貸して対応するのは
不可能な大ボリュームである。穿いたら破れるという心配は無用だった。そもそも太腿からして成人男性のウエストほどもあ
るため、入らないのは明らかである。
少年は「う~ん…」と唸りながら少し考え…、
「ま、いいかタオルでも。回んなかったらフルチンでも」
本人の意思は確認せずにサバサバ決めた。
「そうだアンチャン、そのズボンのタグとかで何か判んねぇかな?」
水着のハーフパンツを脱ぎ、全裸になりながら、カムタはパンツ内側の白いタグに目を止めて言った。もしかしたら、ズボ
ンとアンダーウェアに何か情報が無いだろうか、と。
昔、学校に行っていた頃の友人は、他の誰かの物と間違えないようにと、親の手でタグに名前を書かれていた。カムタはそ
ういった事をしていなかったが、もしかしたら身元に繋がる情報があるかもしれない。
「タグのような物は、付いてないなぁ」
全裸になったセントバーナードは、ズボンと下着を裏返して隅々まで確認し、ここにも何の手掛かりもないと伝える。しか
しカムタは…、
「…アンチャンのチンポ、でっけぇな…」
巨漢の肉付きが良い股間にぶら下がった肉棒に感心しきり。「オトナだからかぁ」と。
巨漢の逸物は太くて、ぶら下がった陰嚢もたっぷり大きい。肥満故に根元が埋まって、押し出された包皮が先端まで覆って
いるが、皮越しにも亀頭の膨らみが薄く浮き出ている。
一方で少年のムッチリした股間には、同じく先端まで皮で覆われ、大部分が肉に埋もれた、未成熟の小さな陰茎。いつかは
自分のモノも、テシーのようにそれらしい大きさと形になるのだろうと考えてはいるのだが、一向に変化がなく、最近は若干
不安になっている。
「………どうした?」
大人のソレをじっと見ていたカムタは、セントバーナードに問われてハッと我に返る。
「な、何でもねぇ…。あ、そうだ。ダイビングナイフはどうだろな?何も書かれてねぇかな?」
気を取り直したカムタが言い、巨漢はナイフと鞘も調べてみたが、こちらにも何もなかった。しかし、ナイフにメーカー名
すらも刻まれていないという奇妙さに、カムタは気付けない。
「変わった刃だけど、これだけじゃ判んねぇなぁ…」
カムタはナイフを借りて、ためつすがめつグリップとブレードを検分する。
少年は名前を知らなかったが、大振りなそれはダイビングナイフではなかった。
サーベルを短くしたような、峰が直線で、刃が先端に向かって反る30センチ強の片刃ブレード。刃厚は8ミリ程もあり、
身幅もかなりある。血溝も彫られていないため、取り回し難いほどずっしりと重い。
特徴的なのは、切っ先から折り返した峰側。大部分は直線なのに、先端から返しがついて、内側が刃のフックになっており、
横から見れば片翼の矢印のようなシルエット。
そのナイフは、おおよそ海で使う物ではない、かなり大型のガットフックナイフ…、ハンターが仕留めた大型動物を解体す
るために使うような品である。
グリップはカーボンのような黒い素材。滑り止めに横向きの溝が何本も走り、表面はざらついている。ブレードから段差が
付く部分は銃のトリガーガードのようになっており、人差し指を通してしっかり握れるようになっていた。
グリップエンドには紐やリングを通す直径5ミリのソングホールが開いており、すっぽ抜け防止に、小指が引っかかる1セ
ンチほどの段差がある。
三十センチにもなる刃の方には独特な光沢があり、磨き上げたステンレスのような眩いシルバーで、傷一つ見当たらない。
反射する光の角度を変えると、水たまりに浮かぶ油膜のような虹色の紋が、刃の腹を薄く淡く走る。カムタは単に油がこびり
ついたものだと考えたが、油汚れにしてはどこか奇妙だったので、本当にそうなのか自信が持てなかった。
カーボンと思しき素材のシースと、合成革のベルト、樹脂製のベルト固定具には、とりたてて変わった箇所はない。強いて
言うなら、シースも固定具もナイフのグリップ同様に、艶消しの黒で統一されている点が特徴。
しかしメーカーなどが特定できそうなエンブレムや彫り込みの類は、ナイフ本体だけでなく、鞘やベルトにも見当たらず、
ここにも身元の手掛かりは一つもない。
「う~ん、ダメかぁ…。ま、いいや。塩落とそうなアンチャン!」
考えても判らない物は後回し。切り替えが早い少年は、先に立って風呂場へ入る。
セントバーナードはそれに続き、開け放たれた窓から風が入る浴室を見回した。
空っぽの浴槽は、古い船の貯水槽の底部分を利用し、切断して縁を溶接するなどして形を整えた物。錆びない材質なので金
属そのままの鈍い銀色だが、曇っていて光沢は無い。材料が材料なので大きく、巨漢と少年が一緒に入っても平気な広さであ
る。
年中気温が高いので水風呂でも用は足りるのだが、風呂を沸かす際の燃料は、竈と同様、中身を食べ終えたヤシの実の殻や、
その葉などを乾燥させたもの。
シャワーは二つあり、片方は水道水だが、もう一方は屋根の上のタンクから繋がっている。タンクに雨水を溜め、それを浄
化フィルターを詰めたパイプ越しに供給する仕組みだった。
貨幣経済と自給自足が半々と言えるこの地で、若いカムタは天地と海の恵みを受け取り、独りでもしっかり生きている。
「もうすっかり塩吹いてっから、毛の中までしっかり流さねぇとダメだぞアンチャン?」
コックを捻ってシャワーを出し、促したカムタは…。
「ん?どうしたアンチャン?」
少年の瞳に映っているのは、微動だにしなくなったセントバーナードの横顔。
シャワーにのっそりと歩み寄ったセントバーナードは、斜めに注がれる水が膝を濡らす距離で止まり、それきり動かなくなっ
て、じっと、水を吹いているシャワーヘッドを見つめている。
「シャワー…。水…。知ってるのに、どうしておれは、自分の名前を知らないんだろうなぁ…」
それは、素朴な疑問だった。
初めて来た家。初めて見る鍋。初めて見るシャワー。
覚えているのではない、見て、名が判る。どういう物か判る。使い方も判る。
目に入る物全てに名前がある。カムタが削っていた、自分が作業の後を継いだあの植物の実も、パンダナスという名前があ
った。
「石鹸。浴槽。窓。タイル。全部名前を持っているのに、それがわかるのに、どうしておれは、自分の名前だけわからないん
だろうなぁ…」
その声音に、表情に、悲壮感はない。ただぼんやりと不思議がっているだけだった。
だが…。
「…ん?」
セントバーナードは首を巡らせ、背中側を見下ろした。
そこにあるはずのふさふさの尻尾は、見えなかった。少年がぴったりと身を寄せて、腰に腕を回して抱きついていたので。
「何してるんだ?カムタ」
セントバーナードの問いに、少年は「辛い時とか、不安な時は、こうすっと良いんだ」と応じる。
「大丈夫だからな、アンチャン」
少年は逞しいセントバーナードの、乾いた磯の香りが残る背中に顔を埋め、しっかりと抱きついたまま囁いた。
口調も表情ものんびりぼんやりしているので逼迫して見えないが、困っていないはずがない。本当は不安なのかもしれない。
改めてそう感じて、安心させようと思って、カムタは巨漢にひしっと抱きついていた。
ずっと前、嵐が怖かった小さい頃、父に抱き締められたら安心できたことを、思い出しながら…。
「アンチャンは、ぼーっとしてるみてぇでも大変なんだよな。ホントは辛いんだよな。大人だから落ち着いてるだけで、自分
の名前も判らねぇで、知らねぇ場所に居て、独りぼっちで大変なんだよな。オラ、手伝うからな。ちゃんと手助けすっからな」
本来ならば、すぐ警察に知らせて引き取って貰うべきなのだろう。しかし今は、磯をうろついていたあの男と出くわすのが
まずい。少し時間をおいて動く方が安全に思える。
「もうちょっとだけ我慢な。ケーサツに行ったら何処から来たのか調べて貰える。オイシャに見て貰ったらキオクソーシツも
治る。全部元通りになんだから、辛いのも、独りぼっちで寂しいのも、今だけ我慢してくれな」
「我慢…。独りぼっち…。寂しい…」
セントバーナードは呟いた。
「我慢は、してないと思う。独りぼっちは、違うと思う。寂しいとも、たぶん感じてないんだと思う」
「え?」
顔を上げたカムタは、自分の顔を映す穏やかなトルマリンの瞳を見つめた。
「辛く感じない。たぶん、おれは辛いかどうか、寂しいのかどうか、よくわかってない。それに、起きてからずっと、カムタ
が世話を焼いてくれた。独りぼっちじゃ、ない」
少年は、相変わらずぼんやりした顔の巨漢を見上げたまま、少しの間呆けたような顔をして、それから「たははっ!」と恥
ずかしげに笑った。
「アンチャンは、イイヤツだな!イイヤツで、「タフなヤツ」だ!」
映画で覚えた言葉を使って褒めたカムタは、少しばかり嬉しくなっていた。
少年はずっと独りだったから、カムタが居るから自分は独りぼっちではない、と述べた巨漢の言葉が、嬉しかった。
「じゃ、体洗おう!…ん?どうしたアンチャン?」
気を取り直そうとしたカムタは、いつの間にかセントバーナードが自分の顔から視線を外し、他所を向いている事に気付く。
巨漢の視線は壁に向いていた。より正確には、壁の向こうのさらに向こう、玄関の方を。
「…誰か来た」
垂れ耳をピクつかせながらセントバーナードが言うと、カムタは身を固くして表情を引き締めた。
カムタは楽天的な少年ではあるが、危機感が欠如している訳ではない。あの男が追って来たのかと緊張する。しかし…。
「カムタ!居るか!?」
玄関から聞こえてきたのは、馴染みのテンターフィールドが上げる声。
「…なんだ、テシーか…」
ホッとしたカムタは、次いでギョッとした。
「あ、アンチャン!何処行くんだ!?」
奥から聞こえてきた声に、テシーは「お、居たな」と顔を綻ばせ、次いで「ん?アンチャン?」と首を傾げた。
青年の手には消化がいいミルク粥が入った鍋。カムタがオヤツも食べずに行ってしまったので、腹具合が悪いのではないか
と心配したテシーは、病人食を用意して訪ねて来たのである。
しかし、奥から出てきたのは馴染みの少年ではなく…。
「!?」
テシーは目を剥いた。
のっそりと姿を現したセントバーナードの巨体…それも全裸を目の当たりにして。
一方、足元だけビチャビチャに濡らしたまま、声の主が何者なのか確認に出た巨漢は、スンッと鼻を鳴らし、
(…食べ物…)
テンターフィールドが持った鍋から漂って来る香りに反応し、尻尾を軽く振った。
「ちょっとアンチャン!あ…」
全裸で追ってきたカムタは、セントバーナードの後ろから玄関を覗き、テシーと顔を合わせて固まる。
「あ~…………、んんっ…」
テシーはしばし経って、何とも言い難い声を出してから一つ頷くと、「どちらさん?」とカムタに訊ねる。
「あ、え、えっと…」
一瞬口ごもったカムタは…。
「お、オラのいとこ!いとこのアンチャン!な、名前は………る?えぇと?…あ、そうだ。「ルディオ」アンチャン!」
少年を振り返った巨漢が、自分の顔を指差して小さく首を傾げた。それ、おれの名前?とでも問いたげに。
一方テシーは…。
「カムタ、いとこなんて居たんだな…」
全裸初対面の巨漢に注意力を根こそぎ持って行かれ、カムタが慌てている事にも、声が不自然に上ずっている事にも、気付
かなかった。
咄嗟の嘘を口にしたカムタは、少ししてから自分でも何故そうしたのか不思議に思ったが、やがて理由を察した。
少年は直感的に、正直に漂着者だと説明するのはまずいと感じたのである。
説明したら、テシーが磯を見に行くかもしれない。そうしたら、あの男と出くわすかもしれない。思考が順番を飛ばして、
危機を避ける結論に達していた。
そして実は、咄嗟の判断は正しかった。
「やあこれは、何て素敵な殺し方でしょうか」
アジア系の若い男の、感嘆すら滲んだ感想を耳にして、鷲鼻の男は「おい、リスキー」と不快げに顔を顰める。
波が寄せて飛沫が上がる岩場に集まった、数人の男が見下ろす先では、首と手首が折れた男の死体が、波に揺れながら洗わ
れている。
パラパラと雨が落ちて来る、モノトーンの景色の中で、その死体は何処か現実味に欠けて見えた。
連絡が取れなくなったので、何かあったと確信して探しに来た男達は、そこで変わり果てた姿となった仲間と対面した。
事故ではない。拳銃を抜いている。何かと遭遇したのは間違いなかった。
にもかかわらず、拳銃は持ち去られていない。そもそも死体も放置されたままで、隠そうとしたようには思えない。普通に
考えれば不可解だが、男達にとっては納得が行く状況だった。
彼らがこの島へ捜しに来ているのは、そういうモノなのだから。
「失礼。…しかし、相当な物ですねこれは」
事切れて波に揺れる、岩場の水たまりにはまった男の顔には、苦痛も苦悶も見られない。驚いているような、ポカンとして
いるような、死体に相応しくない表情が浮かんでいた。
おそらく男は、自分が死ぬのだと判らなかっただろう。唐突に訪れた死は、命のみならず苦痛や恐怖も吹き消して行ったに
違いない。
そう確信したからこそ、リスキーと呼ばれたアジア系の男は「素敵」と表現していた。
血の気の多い男だった。乱暴でいささか配慮に欠けるきらいはあったが、肝が据わっていた。今回島に赴いたメンバーの中
でも武闘派の、腕も確かな男である。しかも、対危険生物のミッションに幾度も参加しており、経験は豊富だった。
それが、ろくな反撃もできずに殺された…。
(恐ろしいほど無駄がなく、同時に慈悲もない。電気椅子や薬剤の死刑以上に人道的じゃあないか)
幾度も看取ってきた、自分でも送ってきた、だからこそ判る。
この殺しの、薄ら寒いほどの手際の良さが。
「とりあえず、死体を隠しもせず、拳銃もそのままに去った。この点から、島民ではないでしょう」
リスキーが断言すると、鷲鼻の白人は「くそっ!最悪だ、活動を始めたのか!」と足元の岩を蹴った。
その間にもアジア系の若者は波に脛を浸して死体に近付き、拳銃を取り上げ、マガジンを抜いて検分し始めている。
「発砲はしていません。トキシンバレットは一発も減っていない。…ズボンの予備マガジンもそのままです。…しかしどうに
もはっきりしませんね?もう活動を始めていたのか、それとも不用意に接触して刺激を加え、目覚めさせてしまったのか…」
「何にせよ、急いで見つけ出さなければならん!アレは危険と判断した者を殺す!死者が増えて騒ぎになってはまずい!裏か
ら手を回しても、揉み消せる事には限度がある!」
声を荒らげ、苛立ちと焦りを露わにする鷲鼻の男を、リスキーは振り返る。
「フェスター。その「危険と判断する」のは、どの程度からなのでしょうか?アレの理論上のスペックについては資料を頂き
ましたが、調整や細かい仕様がどうなっているのかまでは、教えられていないもので」
「習性については特別な調整はしていないはずだ。敵対的な行動を取れば間違いなく「敵」と認識する。たとえ丸腰でも、威
嚇するような真似をすれば、自己保存の本能によって「敵」を排除する。そういった、他の仕様と変わらない対処をすると考
えて良い」
「…絶望的ですね。アレと出くわしたら、まずその見てくれに驚いて、あまり友好的ではないリアクションを取ってしまうで
しょう」
肩を竦めたリスキーは、額に脂汗を浮かべている鷲鼻の男に微笑みかけた。「ご安心を、フェスター」と。
「こういう時のための、私です」
「いいかアンチャン。まだオラもよく判んねぇけど、何かブッソーな事になってんだ。それですぐにはケーサツに行けねぇん
だ。考えながら理由説明すっから、落ち着いて聞いてくれよ?」
後で改めて連れて行くから、挨拶はその時に…、と言ってテシーを帰らせたカムタは、巨漢と共に行水を済ませてから、脱
衣場のテーブルに座った。
少年と巨漢の衣類は、脱衣場の壁から壁に渡した紐に通し、吊るして乾かしているので、ふたりとも全裸である。
パラつく雨が壁を叩く音に耳をぴくつかせながら、セントバーナードは、わかった、というように頷いて、スンッと鼻を鳴
らし、流し場に置かれたミルク粥入りの鍋を見遣る。
恐らく、あまりわかっていない。
「アンチャン腹減ったか?食いしん坊か?オラの仲間だな!」
今の話を聞いても目の前の粥か、とカラカラ笑ったカムタは、しかし自身もまた、警戒はしていても竦んでいない。
「せっかく温めたヤツ持ってきてくれたんだ。先に食うか?」
「ん」
カムタの提案に、セントバーナードはすぐさま頷く。
空腹で辛い訳ではない。しかし、漂着するまでどの程度の時間海上を漂っていたのか、どれだけ飲まず食わずだったのか判
らないものの、体内の栄養はまだ不足しているようで、吸い寄せられるように注意と視線と鼻がそちらに向いてしまう。
「じゃ、ちょっと待っててな」
カムタが皿を持ってきて、粥を取り分ける間、セントバーナードはゆったりと尻尾を振りながら、大人しく待っていた。
巨漢は着替えが無いので仕方がないが、カムタも裸のままである。もともと開放的な気質の少年は気にしておらず、セント
バーナードの方は裸である事に気付いているのかいないのか、というぼんやり具合。腰にタオルを巻こうという事も考えない。
ほどなく、カムタはスープ皿に盛った粥をテーブルに置いた。
ココナッツミルクを利用した粥は、塩で味を整えられ、クリームシチューを薄めたような香りがする。
しっかり火が通ったドロドロの粥の中には、煮込んで身が解れた鳥のササミと、トロトロになった皮が細かく刻まれて入っ
ていた。胃を刺激せず、消化に良く、栄養吸収も早い、勘違いで作ったとはいえ、病人食として最適なその料理からはテシー
がいかにカムタを気遣っているかが窺えた。
「テシーの料理、美味ぇだろ?オラの先生なんだぞ?」
「先生」
スプーンで粥を口へ運ぶ合間に、おうむ返しに呟いたセントバーナードは、
「それなら納得だなぁ。カムタの料理が美味かったのにも」
そんな事を素直に言って、カムタを喜ばせた。
三食分はあるだろう量だが、カムタとセントバーナードはペロリと平らげ、鍋はあっという間に空になった。
先ほどまでも実を削って作っていた保存食…、すでに数日間乾燥させていたパンダナスの実と、コップに水を用意したカム
タは、改めてセントバーナードと向き合う。
「今度は眠くなんねぇかアンチャン?」
「大丈夫」
「んじゃ話すな。えぇと…」
カムタは緊迫感のないセントバーナードの顔を見つめながら、記憶を手繰って話を始めた。
「アンチャンと関係あるかどうか判んねぇ…ってか、たぶん関係ねぇのかな?さっき磯に、男が居たんだ」
カムタは、磯で出くわした拳銃を持つ男の話を聞かせた。
ようやく、あの場で他に誰か居なかったかと訊かれた理由が判ったセントバーナードは、思い出しているように視線をやや
上に向け、それからふるふると首を横に振る。
「やっぱり、そんな男は見なかった。カムタも岩の向こうに居たから、見回してみても、誰も居ないように見えた。カムタが
溺れてしまったのかと、心配した」
「そ、そっか。アンガト…!」
少し頬を赤らめたカムタは、
「って事は…、やっぱあの男、アンチャンが来るのに気が付いて逃げたのかもな」
そう言いながら、あるいはただの悪戯だったのだろうか?と、ふと考える。
そうだったら良い。面白くはないが、観光客が田舎の子供をからかったというだけなら、何も問題はない。実際、都会や大
国からの旅行者は大なり小なり、この島に住むものを田舎者だと見下している。「良いところ」「綺麗な島」と景色を賞賛し
ても、ここに暮らす者の事は賞賛しない。
貨幣経済の面で見れば裕福とは言い難い。義務教育も徹底されているとは言えず、教育水準も他国と比べて低い。「彼ら」
の大半が人生をかけて追い求める物を持っていないから、「彼ら」は馬鹿にする。
どちらが真に豊かなのか、気付けないまま。
(いや、でもホントだったら困るしな。油断しねぇ方がいいよな)
そうだったらいいな、と思いつつも、悪い方だった時に困らないよう、用心するに越したことはない。カムタはそう結論付
ける。
「で、もしかしたらその「アブナイ連中」がうろついてんのかもしんねぇんだ。今出てってバッタリ遭っても困るから、ケー
サツには少ししてから行く。上手く説明できねぇけど、たぶん今は目立たねぇ方が良いんだ」
そこで一度言葉を切ったカムタは、巨漢に訊ねてみた。
「アンチャンどうする?オラがオマワリさん呼んでくるまで、ここで待ってた方がいいか?それとも一緒に行くか?」
セントバーナードは少し考えた後…。
「一緒に居る」
「そっか、一緒に行くか」
カムタは、返答を聞き間違えた。
話の区切りがついたところで、巨漢は乾燥したパンダナスの実を齧り、口をムゴムゴ動かしながら、脱衣場の窓を見遣った。
雨は一時小降りになって、沖の雲が切れ、陽光が斜めに走っている。その上に重なって、虹のアーチがうっすらと浮かんで
見えた。
島の上にかかった雨雲は腰を据えて動かず、まだ雨は上がらないのだろうが、風は少しだけおさまり、ヤシの葉がサワサワ
と穏やかに揺れている。
「綺麗な島だなぁ」
ポツリと漏らしたセントバーナードに、カムタは「そっか!気に入ったかアンチャン!?」と目を細めた。
生まれ育った島が褒められるのは嬉しい。自分の事のように。
この巨漢にも、褒められたら嬉しい故郷があるのだろう。それはどんな所だろうか?とカムタは思いを巡らせる。
見渡す限り高いビルが建ち並び、ガラスがキラキラ輝く街なのかもしれない。
見渡す限り険しい山々が連なり、白くかぶった雪が静かに光る国なのかもしれない。
ここには無い、本や文字や映像記録でしか知らない物を思い浮かべながら、カムタは思う。どちらかと言うと、のんびりおっ
とりしたこの巨漢は田舎暮らしの方が似合っている、と。
「さっきの、犬の獣人は?先生の」
セントバーナードが訊ねると、カムタはぼんやり巨漢から質問が出た事自体に少し驚き、「あれ?」と声を漏らした。
「どうした?」
「うんにゃ、何でもねぇ。テシーの事か?」
「テシー。そういう名前だったなぁ…」
セントバーナードは少し考えたが、
「血縁者じゃあ、ないなぁ」
関係を訊くための上手い質問の仕方がわからなかったので、消去法染みた切り出し方をした。
「トモダチだ」
「友達」
笑ったカムタの言葉を、そのままおうむ返しに呟き、巨漢は理解する。
知識としては、友人という物が何なのか、どうやら持ち合わせていたようだった。だが、最初にそうと察せられない。想像
できない。キーワードを耳にしてから、対応する情報が浮かんでくる。
「それなら、大事なひとだなぁ」
巨漢が漏らした素朴過ぎる言葉に、カムタは小さく吹き出してから、「だな!」と頷いた。
「テシーは金持ちの跡取りなんだ。でもお酒が好きで、バーをやってる。四人兄弟で、一番下の弟はオラと学校で同級生だっ
たんだ。オラが小さい頃から一緒に遊んでたけど、アイツ頭がいいから、今は上の学校に行ってる。カイシャ手伝うためにカ
イケーシになんだってさ」
カムタはセントバーナードにテシーとその家族の事を話して聞かせた。
どれだけ仲が良いか、どれだけ世話になっているか、カムタのその口ぶりから、セントバーナードは何となく、その信頼の
深さを察した。
「テシーにはアンチャンの事、オラのいとこって事にして、キオクソーシツなのは黙っといたけど…、ホントは嘘なんかつき
たくねぇ。でも、正直に話をして、テシーが気になって磯にでも行ったら困る。そうでなくたって、店に連中が行ったみてぇ
なんだ」
「連中?」
「さっき言った、オラが遭った銃持った男の。もしかしたら仲間かもしれねぇヤツら。環境のナントカ団体だって言ってたみ
てぇだけど、テシーは堅気に見えなかったって言ってた。…テシーはそういう団体が嫌いだからそう見えただけかもしれねぇ
んだけどさ…」
少し自信が無さそうに言ったカムタに、セントバーナードは「どうして嫌いなんだぁ?」と訊いてみた。
「この島は綺麗だ。まだ全部見たわけじゃない、でも、たぶんどこも同じに綺麗なんだって思う。空も、海も、全部」
巨漢は言う。そんな島だから、守りたいと思う者も居るだろう、と。そして、島の住民もこの島が美しいままであって欲し
いのではないか、と。
その言葉は、純粋ではあったが無知だった。
美しいままの島。それは大事だろう。
だが、島の住民達も便利に暮らしたい。豊かに暮らしたい。しかし、電線を引けば、景観が悪くなったと旅行者が眉をひそ
める。水路を整備すれば、前に来た時はこんな不恰好な物は無かったと、知った顔で語られる。
そうして、「自分が住むところがこうだったら困るが、ここはこうあるべきだ」と他者が考える美しさを、住民は強いられ
る事になる。
そうして、自分がこうあって欲しいと願う物を、そこに生きる者に強いる連中は信用できない。というのがテシーの弁。
カムタはそういった事情を上手く説明できなくて、たどたどしく聞いた言葉を並べて説明した。巨漢はそれで理解できたの
かできなかったのか、表情を変えずに頷いた。
「テシーんトコは、家族みんないいひとだ。気持ちが良くて、気持ちが強くて、真っ直ぐで親切だ。オラもずっと世話んなっ
てんだ」
「カムタの家族は?」
巨漢は素朴な疑問として、その問いを口にした。
今テシーの家族の話題になるまで気にならなかったが、家族という物は知っている。この家に他の住人の気配が無く、カム
タの口からも何の説明もなかった事に、たった今気が付いた。
「オラ?居ねぇよ」
カムタは何という事もなく、実にさっぱりと言った。
母は物心つく前に亡くなった事。父はハリケーンの中で船を出し、今日まで帰ってきていない事。
涙もなく、辛そうな顔も見せず、カムタが語る話に、セントバーナードは繰り返し顎を引いて聞き入った。
「ああ、そうだ。テシーがそういう団体とか嫌いなの、あの頃に強くなったかもしれねぇな…」
父が帰らなかったハリケーンの後に、訪れた支援団体とテシーのやりとりの事をカムタは思い出す。
それは、カムタの父が見つからず、乗っていた船が沈んでいた事だけがやっと判った、その次の日の事だった。
ハリケーンが行った後の、晴れ晴れとした、空が眩しい日だったと覚えている。
その日テシーは、カムタに食事を届けに来た。
父の不在もあってふさぎ込んではいないかと、ちゃんと食べる物を食べているかと、心配したのである。
しかし、テシーが腕によりをかけて作った、タレに漬け込んだ鳥肉の照り焼きを持って行ったそこには、先客が居た。
自称、支援団体の面々が。
戸口に立って、カムタはぼんやりしていた。それを、カメラとマイクを持った、小ざっぱりした身なりの人々が取り囲んで
いた。
少年は戸惑っていた。実感が湧かず、しかし父の帰還が望めないと薄々感じ、哀しいのか、辛いのか、自分でも判りかねて
いた。
そんな状態のカムタの家にドヤドヤと押しかけ、父とは仲が良かったのか、どんな人物だったのか、母は居ないのか、これ
から独りでどうするのか、と無神経に根掘り葉掘り質問する自称支援団体の面々を、テシーは怒鳴りつけた。カムタの気持ち
を考えろ、と。
一旦怯みはしたが、「被害の状況や、被害者の辛さを、広く伝えるのが自分達の使命なのだ」と言い返した団体代表に、テ
シーは凄まじい剣幕で叫んだ。
「アンタらの使命の為に、カムタに犠牲になれって言うのか!自分達の都合を押し付けるな!子供ひとり犠牲にしなきゃ果た
せない使命なんて、くそくらえだ!」
テシーが怒りを爆発させる姿をカムタが目にしたのは、後にも先にもあの一度きりだった。
ちっぽけな大義を振りかざしても、突き付けられた正論には勝てなかったのだろう。自称支援団体の面々はすごすごと引き
上げ、その背中に「おととい来やがれ!」と悪態を投げつけたテシーは、
「…カムタ…」
振り返って、立ち尽くしている少年の前に歩み寄り、その太い、肉付きの良い体を、細い腕でギュッと、包み込むように抱
き締めた。
「腹、減ってるだろ?美味いの作ってきたから、ちゃんと食え…。明日のためにもな…」
あの日、テシーが持ってきてくれた鳥肉の味は、今でも忘れられない。
少ししょっぱかったのは、哀しいと、嬉しいの、涙が効いていたせいだろう。
小さい頃からの付き合いに加えて、そんな事まであったから、カムタはテシーを慕って、信頼している。
二年前の出来事を子細に思い出し、黙り込んだカムタは、ふと、柔らかな感触を首に感じて我に返った。
「あ、アンチャン?」
セントバーナードはいつの間にか席を離れ、座ったままのカムタの後ろに屈んで、その逞しい腕を少年の肩に回し、ギュッ
と、抱き締めていた。
「辛い時はこうするといい。さっきカムタがそう、教えてくれた」
セントバーナードはカムタの耳元でそう言った。
寂しい、辛い、不安、そういう気持ちは、正直判らない。実感していないので、少年に慰められても、それがその状況に相
応しい行動なのかどうかは判らなかった。
だがそれでも、何か思い返していたらしい少年の顔から、常の明るさが弱まって見えた事で、セントバーナードは思った。
カムタは辛い事を思い出したのかもしれない。そして、カムタ達は不安な時に抱き締めるらしい。それなら、自分もそうし
よう、と。
「だ、大丈夫だよアンチャン!もう平気だ!オラも子供じゃねぇし、独りだって平気だし、だ、だから…!」
恥ずかしくなって顔を真っ赤にしながら言うカムタは、
「独りぼっちは大変。独りぼっちは寂しい。カムタはさっき、そう言ってた」
セントバーナードの発言で、「よ、よく覚えてんな…!」と言葉に詰まる。
「でも、独りぼっちじゃねぇんだ。テシーが居るし、友達も居る。寂しくねぇよ」
カムタは嘘を言った。本当は、時々どうしようもなく寂しくなる。テシーやその家族が羨ましくなる。
自分にも、家族が居たら…、と…。
「本当に大丈夫だから。な?アンチャン」
ようやく身を離したセントバーナードを振り返り、カムタは頭を掻きながら照れ笑いした。
「でも…、アンガトな!アンチャン!」
優しいひとなのだろうと思う。良い奴なのだろうと思う。だから…。
(オラにも、アンチャンみてぇな兄貴でも居ればいいのにな…。そうしたら…)
雨が上がるまでの、短い夢…。
セントバーナードはすぐに行ってしまうのだ。そんな事を少し考えてみるぐらいではバチは当たらないだろうと、カムタは
思った。