Devil
夕闇迫る小雨時、再び強くなり始めた風の中、観光客を装った男達は散開してゆく。
鷲鼻の白人…フェスターは、二名の供を連れて引き返し、車に乗り込んだ。
舗装もされていない土の道を、型も古いレンタルジープが走る中、フロントガラスに当たる雨粒は、大きさと強さを増しつ
つあった。
荷台には、回収した部下の死体。
ハンドルを握る男も、助手席で鋭く目を光らせる男も、緊張が見られる。
素人ではない。堅気でもない。それなりに修羅場を潜った男達だが、この事態は歓迎できる物ではない。
「…ふん…。本部への招致が決まった、このタイミングで…!」
後部座席のフェスターは苦々しく唸る。跳ねる車も、煩いエンジン音も、堅い座席も、今は何もかもが忌々しく感じられて
ならない。
「おまけに、黄昏が動いているかもしれんというのに…!」
鷲鼻の男が発したキーワードに、前に座るふたりの肩が小さく、しかしはっきりと震えた。
フェスターが属する企業、ONC…オーシャンネッツコーポレーションは、表向きは海運業者である。
その興りは、いわゆる大航海時代の前まで遡る。当時は地中海で発足した、地方名を看板に掲げた小さな商船組合だったの
だが、開拓と輸出入、運搬により巨額の富を生み出し、順調に大きくなった。
アムステルダムからインドまで、幅広く広大な商業ルートを築いた頃に、今の会社名がつけられた。
しかしその成長は、世界大戦の最中に停止した。武器の輸送でいくらでも儲かる時代に、である。
南西アフリカ戦線までは、いわゆる死の商人として敵も味方も無く武器を売り、利益を上げていたONCは、それを最後に
武器の輸送、売買から手を引いた。
命あっての物種。そう、当時の代表は内外にコメントしていたが、真実は異なる。
その時に、手に入れてしまったのである。
各国政府が公にしない、後進国など認知もできていない、「失われた秘匿事項」の一端を…。
それがきっかけとなり、ONCは表でほどほどの利益を上げながら、裏でその研究に没頭した。そして、自分達と同じよう
に、秘匿事項の事を知る団体や組織と関係を持つようになった。
莫大な利益を上げる秘匿事項の裏取引と、古くから確保していた交易ルートは、ONCを、似たような団体の中でも特に大
きな力を持つ存在へと押し上げた。
自分達が直接売買するだけではない、他の組織の取引を仲介する事も多いため、業界内でも顔が効く大手となった。
しかし、特にその成長に影響したのは、ONCが得た秘匿事項の中身そのものだった。
あるいは、今の技術では造りようもない品。あるいは、生物史に見られない生物。あるいは、現代の水準を超えた技術その
物…。様々な物が存在し、ひとくくりに「秘匿事項」と伏せ名で称されるそれらの中で、ONCが手に入れたのは、「生物を
改造する技術」だった。
それは、「そういった生物」をデザインして生み出せる技術。
そして、「そういった生物」にリデザインする事も可能な技術。
ONCは前者の技術をもって生物兵器を生み出し、後者の技術をもって数割の構成員に施術し、海中で呼吸ができる者や、
常識ではあり得ないほど頑強な骨格を持つ者など、様々なブーステッドマンを生み出した。これらは、同じような組織間で多
々ある抗争においても、ONCを優位に立たせ、今日まで存続させた。
それが…。
「船舶事故による新型の流失…!よりによって今…!」
頭を抱えるフェスター。
今回事故を起こした船は、まさにその生物兵器を輸送中だった。それも、高コストの新型を。
できれば生きたまま捕らえたい。場合によっては死体でもいい。それを造るためにかかったコストを考えれば、今後の技術
発展のために死体でも有用である。
まずいのは、誰かの手に渡る事だった。
最大の武器である生物兵器が流出する…。同じ穴の狢…つまり他所の組織の手に渡るならまだ良いが、先進国連合にでも嗅
ぎつけられてしまったなら、そして出所がONCの船だと結び付けられてしまったら、社の存続すら危うい。
フェスターはONCにおいて、創立時のメンバーの血を引くひとりであり、最年少で本部詰め幹部席を充てられた、エリー
ト中のエリートである。
しかし、シドニー支社に詰めていたフェスターが、いよいよ本部へ召されるというその段になって、事件は起こった。彼の
管轄となっているルートで。
事後処理を任せて発つ事も考えたが、それでは不安の種が残る。だからこうして現場にわざわざ出向き、陣頭指揮を執る事
にしたのだが、状況はよろしくない。
「…リスキーが見つけ出す事に期待するか…」
フェスターは空席となっている左側を見遣る。
普段傍に控えているアジア系の男は、同行していない。状況に対処するため現場に残っている。
基本的には有色人種を見下しているフェスターだが、リスキーは少しばかり違っていた。使える男だと評価している。
幹部候補とみなされた数年前に、片腕としてあてがわれたのが、当時まだ少年のリスキーだった。ボディーガードであり、
秘書でもある。そして、いざという時の懐刀でもある。
あてがわれた当初は、アジア系民族特有の、何を考えているか判らない微笑みが薄気味悪く感じられたものだが、今ではそ
れにも慣れた。
「貴方はこんな所で野良仕事をしているべき方ではありません」
リスキーのそんな言葉に背を押され、現場を後にしたフェスターは、
「期待しているぞ、リスキー」
頼みとする片腕の名を呟き、僅かながらも安堵感を噛み締めた。
「雨、上がんなくても仕方ねぇな…」
脱衣場の窓際から外を眺め、カムタは呟いた。
パラつく程度の小雨だが、なかなか上がらない。大雨にはならないだろうという予感はあるが、止むのを待っていたら日没
になりそうだった。
拳銃を持っていた男とその仲間の事もある。暗くなってはかえって不安なので、雨を我慢して予定した時刻で出発する事に
した。
気温が高いので、降れば蒸す。先ほど洗った巨漢の衣類が乾かず、そのままでは交番まで行けないので、カムタは竈に火を
焚いて、その前に衣類を干し直して乾かしにかかっていた。
パチパチと音を立てて爆ぜるのは、乾燥したココナッツの殻とヤシの葉。煙は竈から外へ抜けてゆくが、温度はそうは行か
ない。室温は上昇し、少年の肉付きが良い体は玉の汗を浮かべている。
その一方で、椅子に座ってパンダナスの実を削ぐ作業を再開したセントバーナードは涼しい顔…、というよりも常のぼんや
り顔。暑いと感じているのかいないのか、表情からは読み取れない。
「…もうそろそろ良いかな?」
カムタは額の汗を二の腕で横に拭い、火にあてていたカーゴパンツを掴み、具合を確かめてみる。
「アンチャン、いいぞ!」
「ん」
顔を上げたセントバーナードは、果汁まみれの手でズボンを受け取ろうとして、「手ぇ洗ってよアンチャン!」とカムタを
笑わせた。
「………ああ」
自分の手を見てやっと気が回ったのか、巨漢は立ち上がり、流し台でザブサブと手を洗う。
やはり、違和感があった。
流れる水に晒し、冷たさを感じる手…。パンダナスの実を削る作業を、滞りなく行なえる手…。
それなのに、どうもしっくり来ない。思い通り動くのに。
違和感が消えない手を拭い、下着とズボンを受け取り、着用したセントバーナードは、
「んじゃ、行くか!」
促すカムタに頷いて、のっそりと脱衣場を出る。
そして一度だけ振り向き、火が絶えた竈を一瞥した。
もしかしたら、このまま警察に行き、保護されて、二度とここへは戻らないのかもしれない。
そんな事を思って、セントバーナードは言った。
「カムタ」
「うん?」
「ありがとう」
「お礼はまだ早いってアンチャン!」
カラカラ笑うカムタは、
「ケーサツ行って、お別れする時でいいよ!」
そう答えて、胸にチクリと痛みを覚える。
それは、しばらく味わっていなかった「寂しい」だった。
「…見つけた…」
小雨が降る中、アジア系の若者は、屈みこんで地面を探りながら呟いた。
立ち上がり、見下ろせば、先ほど仲間のひとりが浮いていた岩場が一望できる。
リスキーはもう一度視線を地面に向け、土に残った窪みを見つめた。
抉れていた。幅15センチ程の範囲で掻き取ったように土が跳ね除けられ、底には数本の溝が見られる。
「ここから跳んだと考えれば、不意打ちを受けて反撃が間に合わずに殺された、という線で納得もできる…。しかし、評定以
上の性能だな…」
リスキーは言葉を切り、ポケットから携帯を掴み出す。
振動する携帯は衛星経由の情報端末。南の果ての島に居ようが、北原に居ようが、電波そのものが乱されない限りは繋がる
仕様になっている。
「どうした?」
別働しているひとりから入った通話に、発見の報告を期待して出たリスキーは…。
「でかした。私もすぐに行く…!」
口の端をキュウッと吊り上げて、満足げに微笑んだ。
雲が夕日を隠し、帳が落ちた島の道を、カムタはセントバーナードを連れて急いだ。
拳銃を持った男の事が気になって、急ぎ足かつ慎重な歩みである。
明るさが急速に薄れてゆく風景の中、カムタは時折立ち止まり、振り返ったり、先を窺ったりする。
パラパラと落ちてくる雨は、気温を下げるには至らず、蒸し暑かった。
この島は、緩いジグザグで東西に長い形をしている。真上から見れば水面に浮かんだ三日月が、波紋で波打ったような姿の
島だった。それ故に入り江と岬がいくつもあり、広く見渡せる砂浜は数ヶ所だけ。
交番は島の東西に一か所ずつあり、それぞれに一名ずつ警官が詰めている。他の島ほど会社や企業もなく、ひとの出入りも
激しくない上に、元々住んでいる者ばかりでトラブルもほとんどないので、それだけで足りていた。
カムタが向かっているのは東側、近い方の交番である。
「ケーサツまであと半分ぐれぇだよ」
そう声をかけながら歩むカムタの後ろで、セントバーナードは「ん」と頷き、
「ちょっと止まって」
何度目かの少年の指示に従って、前を窺っている間、黙って待つ。
だが、前に人影を見つけて立ち止まっているカムタの後ろで、今回はピクリと、セントバーナードの垂れ耳が動いた。
先を窺うカムタの背中からその視線は外れて、間に闇を抱えて茂る木々の中に向けられる。
「………」
巨漢は無言で、先も見通せない闇の中を見つめる。
その瞳からは、トルマリンの色が消えていた。
(…なんだ…、違ってた…)
遥か前を行く人影が、親子連れの三人だと判別できると、少年はホッとした。
「いいぞアンチャン、行こう」
振り返ったカムタは…、
「あれ?アンチャン?」
目を丸くした。数秒前まですぐ後ろに居たはずの巨漢の姿は、そこに無い。
「アンチャン!?どこ行った!?」
大声で呼ぶのもまずいと思って、カムタは慌てながら、来た道を小走りに引き返した。
通話を終えた携帯をポケットに押し込み、男は小さく息を吐いた。
(しっかり動いてやがる…!くそっ、ひとりじゃ心許ないな…)
木を背にして身を隠し、額の冷や汗を拭い、男は手にした拳銃を確かめる。
サウンドサプレッサーを装着した銃に装填されているのは、ONCが精製した、対生物兵器用の猛毒が仕込まれた弾丸。
とはいえ、男自身は生身の人間である。戦闘訓練も受け、鍛えられた体は一般人よりは頑健なものの、人外を独りで相手取
る自信はない。
(リスキーさん、頼むぜ…!早く来てく…)
ガザッ、と頭上でヤシの葉が鳴り、男はハッと上を見る。
何も居ない。…ように見えた。
風に揺れたのか、と一度は思ったが…。
(…いや!コレだけ、他と揺れ方が違う…!)
背にした木の向こうを素早く振り返った男は、
(居ない!?)
直前までそこに居たはずの、監視対象を見失っていた。
「アンチャン!?どこ行った!?」
少年の声が聞こえた。と、思った次の瞬間…。
「!?」
ドザンッ、と音が聞こえ、男は顔を前に戻す。
前方2メートル強の位置、地べたに這うような姿勢で、青々しい下生えに降り立つ影。
男の頭上で木が揺れたのは、コレが、大柄な体躯からは予想もつかない機動性を発揮し、回り込んでいたせいだった。
ソレは、ゆっくりと体を起こし、直立した。
雨に濡れた体が乏しい光を反射し、男の目を射る。
見上げるような位置にある相手の、感情が全く窺えない眼を見つめながら、男は震える手を伸ばし、銃口を向ける。
「あ…、悪魔…!」
プシッ…、と、銃が猫のくしゃみのような音を漏らした。
そしてそれは、二度は続かなかった。
爛々と輝く、飴色の瞳が見下ろす。
暗がりの中、仰向けに倒れた男の顔は、恐怖に歪んでいた。
見開かれた目を無遠慮な雨粒が打っても、男はもう、瞬きをする事は無い。
その喉は、大きく抉れて中身をさらけ出している。
喉と脇の地面を染める赤の中、混じる小さな白は、首の骨…その破片。むしるように喉を持って行かれた男の周囲で、しか
し大量の血は乾季の土に吸い込まれ、さほど広がりはしない。
その獣は、夥しい量の血液から立ち昇る生臭い臭気を、スンッと、鼻を鳴らして嗅ぎ、倒れた男の手が握った銃を、そして
断末魔すら上げられずに事切れたその顔を、しばらくじっと窺っていた。
まるで、本当に死んでいるのか、慎重に確認するように…。
やがて、彼がもう動かない事を確信したのか、獣は軽く顔を上げる。
「アンチャン!?」
少年の声が聞こえ、獣の垂れ耳がピクリと動く。
再びスンッと鼻を鳴らした獣は、少年の声が聞こえた方向とは逆…、木々が抱えた闇が濃い方を一瞥すると、
「………」
無言のまま踵を返し、その場を後にした。
それと入れ替わりに、獣が一瞥した方向から、複数の足音が迫る。
「…ちっ…!」
駆け寄る五名の中で、舌打ちしたのはリスキー。オールバックに纏めた髪は、油が雨に落とされて乱れ、額にかかっている。
「周囲を警戒しろ」
小声で命じられた男達は、緊張の面持ちで銃を構え、四方に向けてお互いをカバーする。
リスキーは素早く樹上や木陰を窺い、何者かが潜んでいないか確認すると、骸と成り果てた男の傍に膝をつき、息がない事
を確認する。
喉仏ごとごっそり抉られた喉の傷は、頸椎にまで達していた。
(これでは即死だな。一転して何とも荒々しい殺し方…、むしろこっちの方が生物兵器らしいが…。今回は先に発見していな
がら、手が出せなかったのか?…いや)
男の傍に空薬莢が転がっている事に気付いたリスキーは、仰向けに倒れている男の体の向きから逆算し、発砲されたと思し
き方向を見遣り、程なく、木肌に穿たれた穴を見つける。
(外したか。コイツは確か、射撃でそれなりの評価点だったはず…)
想像以上に手強いようだと、思案を巡らせ目を細めるリスキーは…。
「リスキー、灯りです。誰か来ます」
男のひとりが発した低い声で顔を巡らせ、懐中電灯で足元を照らしながら近付いてくる何者かに視線を据えた。
「誰だ?そこで何かあったのか?」
壮年の男の声が問いかける。
リスキーは無言で立ち上がった。薄い笑みを口元に湛えて…。
「居ねぇ…。アンチャン、はぐれたら迷子になっちまうぞ?キオクソーシツなんだから…」
しばらく引き返しても巨漢が見つからず、また先ほどの場所まで戻ろうと、急ぎ足で道をゆくカムタは、
「あ」
行く手にヌボーッと佇む大きな影を見つけ、さらに足を早めた。
「アンチャン!どこ行ってたんだよもう!」
ホッとしながら駆け寄ったカムタに、セントバーナードは穏やかな目を向けて、「あ、居た」と口を開いた。
「ちょっと目を離したら、見失った」
「こっちのセリフだって…」
「困ってた」
「それもこっちのセリフだって…。でも迷子になんなくて良かった」
「迷子…」
巨漢は視線を少し上げ、何やら考え込む面持ちになって、それから「それは困るなぁ」と頷いた。
「だろ?もうはぐれちゃダメだぞ?」
少年は再び巨漢を先導し、交番に向かった。
「あれ?パトロール中か?」
交番の中を覗いたカムタは、灯りがついている空っぽの室内を見回した。
車庫の方を見ると、シャッターが開いており、パトカーも無い。
「出かけてんなら仕方ねぇ。アンチャン、少し待とう」
タイミングが悪かったなぁ、と首を縮め、カムタは交番内のベンチに座る。
巨漢もそれに倣って隣に腰を下ろすと、ベンチは重みに抗議して派手な軋みを上げた。
蛾や羽虫が、オレンジに光る入口の電球に集まって踊っていた。虫達が薄いガラスにぶつかって、時折キン、キン、と音を
立てる中、カムタが口を開く。
「オマワリさんが帰って来たら、アンチャンの事助けてくれる。すぐ家にも帰れるぞ」
「家…」
呟いた巨漢は、他人事のように思う。
自分の家は、どんな所なのだろうか?
そこに家族は居るのだろうか?
そして、そこへ帰れば、自分の事を思い出せるのだろうか?
わからない。やはり。
「あのワルモノの事も話さねぇとな。何してんだか知らねぇけど、あんなのがウロウロしてたら堪んねぇもん。…そう言えば、
連中が探してたのは、あの筒みてぇなヤツなのかな?中に何が入ってんだろ?マヤクか?」
癖になっている独り言を、ウンウン唸りながら漏らすカムタの隣で、巨漢は考え続けていた。
目覚めて、それから今まで、一日と経っていない。
救命してくれて、食事をくれて、世話を焼いてくれた少年に、自分はどう恩を返せばいいのだろうか?
「カムタ」
「うん?」
巨漢は傍らの少年を見下ろし、語りかけた。
「家に帰れても、また来る。お礼をしに来る」
少年は目をくりくりさせて、カラカラ笑った。「いいよそんなの!」と。
「困ってたんだ、アタリマエだろ?オラが困ってたのを見つけたら、アンチャンだって助けてくれただろ?」
きっとこの少年にとって、親切は息をするように普通の事なのだろう。そんな事をぼんやり思った巨漢は、
「あ、戻ってきた!」
少年の声と同時に、車のエンジン音を耳にする。
自動車が少ないこの島では、エンジン音は海沿いで船外機の物を耳にする程度。海から離れたここでは機械の作動音は嫌で
も耳につく。
カムタと巨漢は、交番入口に立った警官を立ち上がって迎えた。
「カムタ、どうした?…そっちのひとは?」
壮年の警官は、見慣れない巨体のセントバーナードに少し驚いたようだった。
以前は首都に居たこの警官は、三年前にこの島へ来た。以前の勤務が比較的都会だったおかげで、イントネーションが綺麗
な英語を話す。父を喪って以降、パトロールがてらちょくちょく様子を見に来るようになったので、カムタもすっかり顔なじ
みになっていた。
「あのなオマワリさん、説明するから、ちょっと下手くそかもだけど、聞いてくれな」
カムタは壮年の警官に、今朝磯に出て巨漢を見つけてからの事を、なるべく子細に話し始めた。
少年の説明は、要領が良いとは言い難かった。
たどたどしくて、思い出すのに手間取ったりして、行ったり来たりもして、かなり時間がかかった。
警官はそれでも根気よく、メモも取らずに、真剣に目を光らせて、少年の話を聞いていた。
巨漢はずっとぼんやりしていたが、時々思い出したように鼻を鳴らし、警官が腰に吊るした拳銃を見たり、奥の部屋へ続く
ドアを見たりしていた。
そして、一時間ほどもかかって説明が終わると…。
「だいたい判った。有り難うカムタ、ご苦労さん」
壮年の警官は目を細めて目じりに皺を寄せ、少年をねぎらった。
「それで、えぇと…」
警官は巨漢に目を向け、名を呼ぼうとして、判らないので一瞬口ごもった。
「「ルディオ」」
セントバーナードが口を開く。
それは、乏しい記憶にある音。
カムタもテシーに言った仮の名前。
「名前かどうかわからないが、仮にそれで」
壮年の警官は「じゃあ仮に「ルディオ」さんとしとこう」と頷く。
「ルディオさん、アンタの身柄は一旦ここで預かろう。本部に連絡して、合致する個人情報を押さえていないかどうか照会す
る。なに、身元なんてすぐに判るさ、心配無用だ」
カムタはホッとして、「良かったなアンチャン!」と巨漢の腕を叩いた。
「ありがとう、カムタ」
礼を言う巨漢は、ふと何かに気付いたように、少年の瞳をじっと見つめた。
「ん?何だ?」
「…いや…。何でもない?かなぁ…」
曖昧に濁すセントバーナード。よかったよかった、と喜ぶ少年の目に僅かに浮かんでいたのは、別れの寂しさなのかもしれ
ない。そう思えたが、それをわざわざ指摘する必要はないと感じた。
「じゃあカムタ、もう暗いから帰りなさい。どっちみち今日すぐに出発するわけじゃあない、お別れの挨拶は出発の時でもい
いだろう」
「うん。アンチャン頼むな、オマワリさん」
警官に促されて、カムタは席を立つ。
名残惜しそうに巨漢を振り返り、出口に向かう少年は、
「じゃ、明日!」
片手を上げて笑いかけた。
「ん。明日」
ルディオは、同じく片手を上げて応えた。
少年が出て行くと、警官は「さて」とルディオに顔を向ける。
「疲れてるだろう?聞き取りをしようにも思い出せないんじゃあ無理だしな、今日は奥の部屋で休んでくれ。…ああ、とりあ
えずそのナイフだけ置いて行って貰おうか。一応、型なんかが身元の手掛かりに繋がるかもしれないからな」
ルディオは素直に頷いて、腰の後ろに手を回し、ベルトごとナイフを外して机に置く。
「それじゃあ、ベッドに案内しよう」
警官は先に立って奥のドアを開け、ルディオを促した。
空調が悪いのか、ドアを潜る巨漢の顔を、熱された空気がむわりと撫でる。
「悪いな。ベッドもゲストルームもない交番なんでね…」
警官に案内されたのは、中央に部屋を二分する鉄格子が配置され、その向こうにベッドが置いてある場所…、つまり留置所
だった。
「戸は開けておくから安心してくれ。ああ、ベッドは清潔だとも、何せ犯罪が起きないからな、この島は」
肩を竦めた警官に頷き、背中を丸めて首を縮め、格子戸を潜ったルディオは…。
「?」
ガジャン、と背後で鳴った金属音に垂れ耳を震わせ、不思議そうな顔をしながら振り返った。
「オマワリさん?今、鍵を…?」
施錠された格子を見て、きょとんとした顔を向ける巨漢を、警官は無視する。
その手には携帯電話。
支給されている物でも、業務用無線でもない。衛星経由で通話できる携帯端末である。
借り物のそれを操作し、耳に当てた警官は、柔和な表情を消した顔をルディオに向け、その動作に注意を払う。
格子の間から手を伸ばしても触れられない距離まで下がった警官は、
「探し物を見つけてやったぞ。牢に閉じ込めた」
通話相手にそう告げた。
「オマワリさん?」
訝って声をかけるルディオを、薄気味悪そうに見据えながら、警官は続ける。
「聞いていたほど凶暴でもないし、それほど恐ろしい外見でもないぞ?大人しいものだ。漂着したのを島民が見つけたんだが、
危害も加えていない」
壮年の警官は「ああ、それとその島民だが…」と付け加えた。
「お前の仲間に銃を突き付けられたらしいぞ?ああ、磯でな。程度の悪い部下を持つと大変だな。取り逃がすようじゃあ使い
物にならない」
鼻で笑った警官は、「で、どうする?」と訊ねた。
「どうせ始末しないといけないんだろう?こっちで消しておいてやろうか?…もちろん、その分は報酬に色を付けて貰うがな。
…なに、家族も居ない独り者だ。いくらでも手はある。…例えば、波にさらわれた、とかな。どうせ検死は俺の仕事だ」
「………」
ルディオは悟る。理屈抜きに、背景抜きに、今聞いている話だけでわかる。
この警官は、自分の味方ではない、と。
そして、わかった事の中で最も重要なのは…。
「カムタに、何をする気だ…?」
少年を、始末しようとしている事。
何が起こっているのか判らない。どういう状況なのか判らない。だが、自分が原因かもしれないという事は察しがつく。
「あれ?オマワリさーん!」
セントバーナードはハッと視線を巡らせ、少年の声が聞こえた通路側を見遣った。
警官は舌打ちし、「とにかく引き取りに来い」と告げて通話を切りながら、留置所と通路を隔てるドアを閉じる。
「カムタ!逃げろ!」
ルディオの吠えるような声は、しかし防音のドアに遮られ、真ん中で断たれた。
机の上に置かれた大型ナイフを見ていたカムタは、セントバーナードの声に反応して顔を上げた。
「奥に行ってたんだな」
納得した少年は、巨漢の声が聞こえた奥の通路から出てきた警官に目を向けた。
「どうしたカムタ?忘れ物でもしたのか?」
笑みを浮かべて話しかける警官に、少年は「忘れ物じゃねぇけど」と応じる。
「アンチャン食いしん坊だから、飯足りなくなるかなって。明日の朝なんか持って来てやるから、何が良いか訊こうと思った
んだ」
「そうか。優しいなカムタは」
「普通だって。えへへ…!」
照れる少年に、「しかし、今休ませたところなんだ」と警官は言う。
「体も疲れているだろうし、今夜はもうそっとしておいてやろう」
「う~ん、そっか…。それもそうだな。…とにかく何か作って持ってくるか!じゃ、明日また来るな!」
片手を上げたカムタが振り返り、ドアに手をかける。
その背後に、警官は音もなく歩み寄った。
左右に広げた手が握るのは、捕縛用ロープの両端。
カムタの頭上で円を作り、そのままスポッと、少年の肩まで落とされたロープは、瞬時にその円を絞り、首に密着した。
「げくっ!?」
不意に締められた首。喉仏が圧迫され、吐き気を覚えて噎せそうになったカムタの指は、反射的に首へ伸びた。
が、肉付きの良い首に深く食い込んだロープに、爪はかからない。ナイロン製なので触れた指先も滑ってしまう。
締めながら吊るすように引き上げる警官の手は、ロープが滑り難いよう輪にして、それぞれの手を一周させている。
「運がなかったなカムタ…!お前は、見ちゃいけない物を見た…!」
力を込めている警官の声は興奮しているかのように乱れ、震えている。その息が耳元を不快に撫でるが、少年はそんな事を
気にしていられる状況ではなかった。
何が起きているのか理解できないままもがくカムタだったが、締め上げる力に容赦はなく、脱出できない。
「がひゅっ!かはっ!」
空気を求めようと、苦痛から逃れようと、舌を突き出して嗚咽を漏らす口から、胃液と唾液が混じって滴る。
少年は知らなかった。島の誰もが知らなかった。
この警官の、真面目な勤務態度も、孤児を気遣い様子を見に行っていたのも、全てが、芝居だった。
壮年の警官が、この歳で首都勤務からこの島へ配置換えになったのは、左遷である。原因は、賄賂を受け取っていた事が上
にバレた事。
そして今や彼は、ONCに買収されていた。
程度の知れた退職金よりも、彼らに協力して貰う見返りの方が魅力的な額だった。
「あの世で親父と仲良くしろよカムタ…!…まぁ、嵐に船を出すあの馬鹿な親父との再会だ…!まずは親子喧嘩で再会か…!」
背後から締め上げる警官は背を反らし、ただでさえ身長で劣るカムタはつま先立ちになっている。その顔はみるみる充血し、
真っ赤になった。
「げぅ!げっ!えっ…!」
喉を掻き毟るカムタの手は、やがて動きを鈍らせ…。
「運命の女神が、今回は味方してくれたようだ。急ぐぞ」
リスキーに促され、交番に急ぐ途中、男のなかのひとりが尋ねる。
「さっきの警官ですか?」
「ああ。積荷を確保したらしい。…モノがモノだ。子細は伏せて説明し、住民に被害が出ても揉み消してもらう方向で協力を
依頼していた。見つけても手は出すなと言ってあったはずなんだが…、予想外に優秀だったようだ。しかし…」
額に張り付く髪を、鬱陶しそうに後ろへ撫でつけ、リスキーは眉根を寄せた。
「…不思議だ…」
「何がです?」
男の問いに、リスキーは「奇妙、とも言える…」と応じる。
「島民が遭遇していたそうだが、危害を加えるどころか、大人しいらしい。まさかとは思うが…、マスター登録されたのか?」
「機器も無しに、ですか?」
別の男が、そんな馬鹿な、と言いたげな顔をする。
「ありえない、と言いたいのは私も同じだ。…別の線で言うなら、故に変な警戒も動揺も見せず、「敵」と認識されなかった
ために無事だった…」
「それでしょう」
すかさず相槌を打った男は、
「しかしそれでは、警官を前にしても大人しい理由が判らない。管理下にない状態で衝動抑止など、聞いた事もない」
リスキーの指摘で押し黙る。
彼らが扱う生物兵器は、待機モード…つまり休眠状態にある時に、専用の機器を用いて主人を登録できる。ある程度の細か
な行動指針も同じ手順で擦り込めるのだが…。
(兵器とはいえ生き物だ。何が起こるか判らない部分もある。…しかし、フェスターも含め、上役達はそれを正しく認識して
いない)
商品として、道具として扱う事に慣れたからなのだろうと、リスキーは考える。
「生きている以上、イレギュラーはある。宇宙にとっては生命そのものがイレギュラーなのだろうから…」
―困ってたんだ、アタリマエだろ?オラが困ってたのを見つけたら、アンチャンだって助けてくれただろ?―
先ほど耳にした少年の声が、頭の中で何度も繰り返される。
(カムタを助けないと…!)
壁にある換気用の穴に手をかけたセントバーナードは、カバーを外しても到底通り抜けられる大きさではないと悟り、他の
脱出口を探して振り返った。
鉄格子のこちら側に窓は無い。板張りの壁なら剥がすなり割るなり手はあるが、ここは拘留を目的とした部屋、壁は分厚い
コンクリートで、その内部もどうなっているか判った物ではない。強固な鉄筋などが入っていると見た方が自然である。
(他に出られそうな場所は…)
しばし視線を巡らせた後、
「………」
セントバーナードは鉄格子に目を止めた。そして、
「………?」
不思議そうな顔で格子を見つめながら、歩み寄り、手をかける。
(そんな事が…?)
疑問だった。
格子の太さは直径4センチ。ひとの力で簡単に曲げられる物ではない。それが、解る。
(どうして…?)
だから、疑問だった。
シャワーヘッドを見て、水や湯が出る物だと解ったように。海の青が、空の青が、光の色だと解ったように。ルディオには
解った。
自分は、この格子を抜けられると。
鉄格子に手を伸ばすルディオの瞳が、じわりと、外周から変化し始めた。
虹彩からトルマリンの色が失せる。薄まったように、あるいは上に塗り重ねられたように、明るく、薄い、全く違う色へと
変わってゆく。
両手でしっかり格子を掴んだ巨犬の背中で、ボゴンと、筋肉が盛り上がる。
肩が、両腕が、怒張した筋肉で膨れ上がり、太い鉄の棒を掴んだ手は、ゆっくりと左右に開いてゆく。
その虹彩は、もはや完全に変色を終えて、瞳孔に色濃いトルマリンを残すのみとなっている。
程なく、まるで飴細工のように歪められ、大きくこじ開けられた格子の間を、のそりと、一頭の獣が抜けた。
留置所のドアへ、通路へ、その先へ向かう為に、足を踏み出すその獣は、
「………」
琥珀色に輝く瞳に、ドアノブを映した。