Onslaught

 爪を立てていたカムタの手が、首から、締め上げるロープから、離れる。

 力を失い、落ちた。

 …ように、警官は誤認した。

「おぼっ!?」

 突如やってきたのは、右胸脇への重い衝撃。

 太い腕による肘打ちであばらを痛打された警官の手が緩むと、足がきちんと床についたカムタは、涙が滲んだ目でキッと振

り向きつつ、床を思い切り蹴った。

 その丸みを帯びた体が、警官の胸を真芯で捉える。

「ごっ!?」

 少年とはいえ体重百キロ。おまけに骨太で肉付きの良い体で、足は日頃から水を蹴って鍛えられている。

 カムタが繰り出した体当たりは、助走がなくとも充分過ぎる威力。分厚い肩を押し付けるようにぶつかり、警官の体を骨ま

で軋ませ、易々と吹き飛ばす。

「うがぁっ!」

 悲鳴を上げた警官は、派手な音を立てて机に激突する。

 潜水に慣れた少年は無酸素運動が得意。脛骨を折られでもしたらひとたまりもないが、肺からの酸素供給が多少途絶えても、

思考もできるし動く事もできる。

 とはいえ、パニックにならず、苦痛を堪えて反撃に転じられたのは、波に揉まれ育ったが故の肝っ玉があればこそ。

「えぐぇっ!うえぇっ!」

 むせ返り、酸っぱい胃液を吐きながら、カムタは涙で潤んだ目を警官に向けた。

「このクソガキ…!」

 呻いて身を起こす警官の手には、抜かれた拳銃。

 今日二度目にして人生二度目、銃口を向けられたカムタは、しかし怯まない。

 知っていた訳ではない。理解している訳ではない。それでも判る。

 こいつはたぶん、ここでは撃てない。…と。

 段階を飛ばして直感的に悟っているカムタは、正しかった。

 冷静さが一片でも残っていれば、警官はここで発砲できない。外で死んだならいくらでも処理できる。射殺の痕跡は死体が

見つからないようにすればいいが、交番の中に痕跡が残れば足がつく。そんな真似はできれば避けたい。

 銃を手にしており、相手が子供という余裕もある。どうにでもできるというその余裕が欲を産む。この場で射殺しないで済

ませる…という、理想的な方向に持って行きたいという欲が。

 警官を睨みつけるカムタは、視線を動かさず、背後のドアの位置を思い出す。

 脱出できそうなのはそこだけ。ドアは閉めてあるが、体当たりの威力はあのとおり。一瞬でも隙ができれば、ドアノブを掴

んで開けるという停滞を警官に見せず、外へ飛び出す事は可能だった。

 同時に、奥の通路に繋がるドアの方も、直接視線を向ける事はせずにこっそり窺う。

 名を呼ぶ声は聞こえたので、少なくとも喋れる状態のようだが、ルディオは無事だろうか?今の騒がしい音は聞こえただろ

うか?どんな状態におかれているのだろうか?

 いかに体が大きくても、丸腰で銃を持った警官を取り押さえられるとは思えない。来ないでくれと願いながら、カムタは口

を開いた。

「オマワリさん…!何でオラを殺そうとした…!?見ちゃなんねぇモンって何だ!?アンチャンをどうしたっ!?」

「黙れクソガキ!」

 怒鳴った警官は、これ見よがしにグッと銃を突き出して優位性をアピールしながら、蔑むような笑みをカムタに見せた。

「「アンチャン」…か…。お前、アレをひとだと思っているんだな?はっ!御目出度いヤツだ…!」

 本質が理解できている訳ではないが、多少は知らされている警官は、優位性に酔いながら、そして余裕のなさから、知って

いる事をひけらかして驚かそうと、カムタに告げた。

「アレはな…、ひとじゃあない、モノだ。ひとの腹から生まれたもんじゃあない。造られた商品なんだよ。…そう、生物兵器

だ。回収に来た連中に引き渡さなきゃあいけない品だ。お前、そんなモノに情が湧いたのか?」

 言われている事の意味をほとんど理解できないカムタが、驚く様子も見せないと、警官は鼻で嗤う。

「学のないお前には理解できないか?アレは、法的には人権を持たない。物品と一緒だ。…もっとも、非合法品だからな、壊

した所で器物破損にすらならないが…」

 自分で言った事が面白かったのか、クックッと笑った警官に、

「モノじゃねぇ!」

 カムタは怒鳴る。

 丸い目は感情の昂ぶりを受けて鮮やかに輝き、真ん丸い体は力みで肌を紅潮させ、張りのある嚇怒の一声は警官を一瞬怯ま

せた。

「ホーテキが何だ!ジンケンとか知るか!アンチャンは生きてる!アンチャンはいいヒトだ!アンタなんかよりずっと、「ひ

とらしいひと」だ!」

 それは、自分のためではなく誰かのための、真っ直ぐな、それ故に純粋な怒りだった。

 難しい事は判らない。法律も、経済も、世の中の仕組みも判らない。正解か間違いか、判る問題の方が少ないだろう。

 それでもなお、「本当に間違っている事」だけは判る。

 突きつけられた若い怒りに気圧されて、一度は言葉を飲み込んだ警官は…、

「こ、この…!この…!馬鹿が!」

 腹を立てても、まともに言い返せなかった。

 法や理屈ではない。他者の尊厳のために怒れるカムタは、どんな言葉でも屈服させられない。

 苛立ってこれ見よがしに銃を振る警官。カムタを怯ませて、いくらかでも溜飲を下げたかった。無様に怯える姿を嘲ってや

りたかった。しかし…。

「!?」

 カムタの表情が変化し、視線が動いた。

 それを怯えと一瞬誤認した警官は、口の端を吊り上げ…、次いで、少年が何かを見ていると察してハッと振り向いた。

 開け放たれたままの、奥へのドア。

 その先の暗がりで、のそりと、ツートーンの影が蠢いた。

 顔と思しき位置に光るのは、琥珀の色。

 踏み出す裸足が、灯りが届くそのラインを超える。

 室内から通路へ漏れる光の中に、大きな足が、太い脛が、成人男性の胴回りほどもある太腿が、巨木のような腰が、突き出

た腹が、分厚い胸が、逞しい腕が浮かび上がり…。

「アン…チャン…?」

 カムタの声は、疑問形だった。

 光の中へ浮上したのは、セントバーナードの顔。知っているはずの顔。

 なのに、カムタはその顔を知らなかった。

 無表情なその顔は、自分が知る巨漢の物とはまるで違う。

 状況が飲み込めていないような、きょとんとしているような、ぼんやりしているような、そんな表情の乏しさとは違う。

 それは、「何もない無表情」だった。

 暖かさも、感情も、戸惑いも、そういったひとらしい様々な物が一切合財抜け落ちた、硬質で、冷たく、虚ろな無表情。

 その感情を排した琥珀色の瞳が、初めに警官を、次いでその手にある銃を映し、さらにその射線を辿るように動いてカムタ

へ向けられる。

 無言で、無表情で、少年を見つめた後、獣は警官に視線を戻した。

「ひっ!」

 それは、反射的な動きだった。

 ひとならざるモノへの恐怖が混じった、反射的な防衛行動だった。

 だが、警官が獣へ銃を向けたその行為自体が、トリガーとなった。

 巨躯が、突然ブレた。

 少年の目が慌てて動く。が、視界の中央に獣を捉えられない。

 一方で警官の目には、通路に立った獣の体が、瞬時に膨れ上がり、視界を覆うように映った。

 腰を沈めたと見えたか見えないか、そんな速さで姿勢を低くした獣は、火の中で弾けた木の実が飛ぶような速度で警官に接

近し…。

 ドン、という地鳴りのような音とほぼ同時に、プパギュッ…という嫌な音を、カムタは聞いた。

 それは、雨季に木立を歩いていて、半端に湿った枯枝を踏み折ってしまった時の音にも、少し似ていた。

 そんな感想を抱く少年の視界から、警官が消えた。

 机が壁まで吹き飛んで、激しく当たって天板を割りながらひっくり返り、その上で割れた窓が、ガラスの破片を煌びやかに、

派手に、騒々しく降らせる。

 窓を突き破り、ほぼ水平に15メートルほども飛んだ警官は、雨に湿った土の上に落ち、そのまま5メートルは転がり、止

まった。

 一瞬前まで警官が居て、彼が背を預けていた机があったそこには、腰を深く落とし、両足を踏ん張って静止した獣だけが残っ

ていた。

 高速で、前触れもなく動いた巨体に追われた風が、室内で逃げ惑い、割れたガラスが残る窓をカチャカチャと鳴らし、破片

を落とす。

 蓬髪を乱暴に乱されて、揺らされるカムタは、ポカンとした顔を、獣に向けていた。

 その一瞬に何が起こったのか判らなかったのは、少年だけではない。

 窓を突き破って飛んで行った警官自身も、自分に何が起きたのか把握できていなかった。

「う、うううう…!うあ…!腕…!俺の腕…!俺の手…!」

 緩慢に、勢いなく、死に掛けの芋虫が身悶えするように、濡れた地面を弱々しく転げる警官。その右肩から先が、まるで関

節を失ったようにプラプラと揺れている。

 肩は外れていた。肘は逆方向に折れていた。五指と手の甲はぐっしゃり歪に潰れ、それからみるみる腫れ始めた。

 拳銃はもう握られていない。関節の位置も判らなくなったぐにゃぐにゃの人差し指が、トリガーガードにかろうじて絡み付

いている。

 視界は急激な移動でレッドアウトを起こし、脳は激しく揺れて天地も判らない。

 接触の一瞬、低い跳躍で高速接近した獣は、床を踏む前に、拳銃を握る警官の右手を、その大きな左手で銃のグリップごと

包み込んで握り、瞬時に圧壊させていた。

 そして左腕を引きながら、警官の体を抱えるように引っ張り込み、体を反時計回りに旋回させた。

 床を踏んで制動をかけつつ、旋回を終える獣の背には、柔道で言う背負い投げの体勢に捕らえられた警官が居た。ただし、

遠慮も配慮もなく、関節へ逆向きの負荷がかかる形で。

 そして獣は、警官を交番の外へと、窓から放り棄てていた。投げの勢いだけで腕を完全に破壊された警官は、獣の常軌を逸

した移動速度をそのまま譲り渡されたような飛翔を見せて、日照の残光も消え失せた宵闇の中へ落下している。

 机は移動する獣の脚に接触しただけだったが、結果として壁に叩き付けられ、激しく砕けて見る影もない有様。散乱した書

類ははらはらと舞い落ち、少年の頭にも不審者への注意喚起を訴えるチラシが乗った。

 破れた窓の向こうへ視線を向けていた獣は、すっと腰を伸ばして直立し、カムタの方へ顔を向ける。

「アンチャン…?」

 獣はのっそりと、少年に近付き、

「……え?」

 カムタに目も向けず、声をかける事もなく、脇を抜けてドアに平手を当て、ノブを使おうともせずに強引に押し、蝶番を弾

けさせ、外に向かって倒した。

 小雨が降る夜の中へ、倒れたドアを踏んで足を踏み出した獣は、そこで一旦立ち止まる。

 冷たく輝く琥珀の瞳が、這いずって逃げようとしている警官に固定され、その様子をじっと観察する。

 やがて、立ち上がった警官が木立の方へよろよろ向かうと、獣はスンッと鼻を鳴らして湿った風を嗅ぎ、後を追うようにのっ

そりと歩き出した。

「…………あ!」

 しばし混乱していたカムタは我に返り、慌ててその後を追おうとしたが、

「…っと!」

 忘れ物に気付いて振り返る。

 机の上に置いてあったルディオのガットフックナイフは、砕けた机の残骸と、舞い散った書類に埋もれ、何処に行ったか判

らなくなっている。

 警官は味方ではなかった。ここに何か痕跡を残して行くのはまずい。

 論理的な思考の手順を飛ばし、直感的に、一足飛びでそんな結論に至ったカムタは、大急ぎで書類や机の残骸をひっくり返

し、巨漢のナイフを探し始めた。



「う、ううう…、あああ腕ぇ…!俺の腕ぇ…!」

 痛みで涙をボロボロ零しながら、壮年の警官はよろよろと、木立へ逃げ込んだ。

 立ち上がれるまでは這いずって逃げたので、衣服は雨で湿った土まみれ。肩から抜けてブラブラ揺れる腕が、歩くたびに激

しく痛む。

 グニャグニャになった指に引っかかっていた銃は、立ち上がる時に落ちて、その場に残ったまま。

「いてぇ…!腕が…!チクショウ何で…!」

 嘆きながら、警官は逃げる。

 どこで間違ったのかと、頭の隅で考えながら。

(ああそうだ、カムタのせいだ…。あのガキが余計なものを連れてこなければ、俺はこんな目に遭わなかったのに…)

 警官は嗤う。泣き笑いの顔は、雨と涙でてかっていた。

(チクショウあのガキ…。ぶっ殺してやる…。俺は警察官だぞ?お前みたいな孤児は絶対にかなわないんだ…)

 ザチュッ、と、背後で濡れた地面を踏んだ音に、警官は気付かない。へらへらと、悪意に歪んだ虚ろな笑みを浮かべたまま、

ゆらゆら歩いてゆく。

(誰だって俺の味方だ…。島の馬鹿どもはみんな俺を信用しているんだ…。独りぼっちで味方の居ないお前なんか一捻りだ…)

 銃を突き付けて脅かし、散々追いまわし、命乞いをする無様な姿を嗤ってやって、それから殺そう。

 右腕は痛むが、左手だけでも大丈夫。指一本であの孤児は死ぬ。

 悪い酒でも飲んだように、毒のように甘い妄想に身を委ね、ゆらゆらと進む警官は…。

「…あ、銃…」

 カムタを撃つには銃がなければ。

 腰にはない。

 手にも持っていない。

 いったいどこに置いただろうか?

 …と振り返り…。

 ザチュッ…。

「!!!」

 足音に、やっと気がついた。

 気付いた時には、相手は目の前だった。

 振り返った顔から毒の笑みが消え、驚きと恐怖に歪む。

 見上げるような体躯が、雨に濡れてツヤツヤと光っていた。

 冷たい眼からは、感情が全く読み取れなかった。

「ち、チクショウ!チクショウ!悪魔まで…!」

 後ずさる足が、地面に半分埋まった石に引っかかり、警官は尻もちをついた。

 その眼前に、ゆっくりと、覆いかぶさるように顔が近付き…。

「だ、誰か!誰か助け…!あ、あ、悪魔ぁっ!」



「声だ!こっちか!?」

 警官の叫び声が聞こえ、カムタはナイフを落とさないように抱え直し、木立の中へ駆け込んだ。

 ヤシの木がサウサウと、小雨に歌う。

 風も収まりつつある、静かな、穏やかな、夜の帳の向こうに…、

「アンチャン!」

 カムタは、立ち尽くしているセントバーナードの背中を見つけた。

 少年の足が緩み、駆け足が早歩きになり、やがて緩慢な歩みに変わる。

「アンチャン…?」

 先ほどの硬質な無表情が思い浮かび、セントバーナードの背に、おずおずと声をかけたカムタは、

「カムタ…」

 俯いたままの巨漢が発した、戸惑っているような声に、ホッとした。

「アンチャン、オマワリさんはどこ行ったんだ?逃げたのか?」

 警戒して周囲を窺いながら歩み寄るカムタに、

「カムタ…、おれは…」

 ルディオは、俯きながら訊ねる。

「おれは、何をしたんだ?」

 憶えていないのか?と、少年は眉根を寄せた。

 詳しい訳ではないが、ひとが変わったように見えた先ほどの巨漢は、怒りに我を忘れた状態だったのかもしれない。頭に血

が昇って意識が飛んだのかなぁと、首を捻りながら近付いたカムタは…、

「これは、おれがやったのか?」

「え?」

 再びの問いと同時に、足を止めた。

 巨漢が下を向いている理由が、何を見ているのかが、今、判った。

 立ち尽くす巨漢の足元には、警官が横たわっていた。

 無残に喉をさばかれた、死体となって。

 恐怖に見開いた目は、頭上で揺れるヤシの葉を凝視している。

 喉笛がごっそり無くなるほど深く抉られた首から噴き出した、明らかに致死量を上回っている大量の血で、首や胸元はおろ

か、腹まで染まっている。

 風向きが変わって頬を撫でられたカムタは、鳥をさばいて血抜きする時のような、それでいてその何倍も濃い、生臭く、錆

び臭く、鼻の奥から頭に抜けるような匂いを嗅いだ。

「おれは…」

 ルディオは両手を胸の前に上げ、まじまじと見つめた。自分の物ではないように感じる、違和感が消えない手を。

「おれは、何をしたんだ…?」

 留置所の鉄格子に手をかけたところまでは覚えている。

 そして、前後の状況が全く判らないまま、今は警官の死体を見下ろしている。

「アンチャンのせいじゃねぇ!アンチャンは悪くねぇ!」

 反射的にそう答えたカムタは、警官の死体を一瞥すると、巨漢の手を取った。

「行こうアンチャン!たぶんここに居たらまずい!」

 腕を引かれたルディオは、少年に促されて歩き出しながら、何度も、何度も、警官の死体を振り返った。

(おれは…)

 消えない疑問が鎌首をもたげ、絡み付く。思考を邪魔するように。

(おれは、「何」なんだ…?)





「探せ」

 交番を訪れたリスキーが硬直していたのは、一秒にも満たない短い時間だった。

 同行していた男達はすぐさま交番内を捜索し、リスキーは他の仲間に連絡し、招集をかけた。

(ドアも窓も、内側から破られている。片方は警官が脱出した…、いや…)

 調査に参加しながら考え込むリスキーは、同僚から「リスキー、廊下に気になる跡が」と報告を受ける。

 男が示した個所では、床がべこりとへこんでいた。表面を覆う木のタイルが割れ、隙間から下の建材が見える。

「…この大きさは…、崖で見つけた跳躍痕に似ているな…」

 リスキーは視線を巡らせ、割れた窓を見遣る。

「…線が通る…、いや違うな。ここから跳躍して、窓を破って逃げたとしたら、ドアを壊して出て行ったのは警官と言う事に

なる。違う事が起きたはずだ…」

「リスキー、こっちも…」

「何かあったか?」

 奥から呼びに来た男に案内され、留置所を覗いたリスキーは、飴細工のように曲げられた鉄格子を目にして、「これほどと

は…」と唸った。

(こじ開けて脱出…か。カタログスペック以上の力があるんじゃないのか?)

 それから程なく、残っていた全員が集合し、総員がかりの二十人体制で捜索を始めると、交番からそう離れていない位置で、

落ちていた拳銃と、そこから木立の方へ向かって這いずった痕跡が見つかった。

 警戒しながらその方向へ捜索の手を伸ばすと、さほど木立の奥へ入らない位置に、警官の死体が転がっていた。

(…先ほどと同じ…。いや、今回は先に腕を潰したのか?最初もそうだったが…)

 リスキーは死体を検分し、しばし考えたが…。

「…交番を燃やせ。この警官も一緒に処分する。フェスターには私から説明し、事後承諾を貰う」

 失火による火災を装った証拠隠滅。それがリスキーの下した判断だった。

 いつ住民が気付くか判らない。警官には取引の痕跡を残さないよう、記録はつけるなと言ってあったが、それが遵守されて

いる保証は無い。万が一自分達に協力していた痕跡が残っていたとしても、探している間に誰かに見られてはまずい。

 だから、死体諸共全て焼き払う事にした。



 深夜、島は大騒ぎになった。

 交番から火が上がり、激しく燃え上がったのである。

 乾季の火事は飛び火し易いが、島の消防団員達の懸命な消火活動と、小雨を降らせる空の助けもあって、余所へ延焼する事

もなく、火は日付が変わる頃に消し止められた。

 パトカーからガソリンが漏れて引火し、保管してあった油にまで火が回ったのが、「留置所の鉄格子まで曲がる」ほどの激

しい火勢となった原因と見られた。

 崩落した天井の下から見つかった、「焼け残った骨まであちこち砕けた」焼死体は、傍にあった焼けた拳銃から、連絡がつ

かなくなっていた警官だとすぐに判った。



 そして、騒がしい夜が更け、白み、陽が水平線から顔を出し、島を照らす…。



「寝なかったのか?アンチャン」

 背中を丸めてソファーに座り、広げた両手をじっと見ていたセントバーナードは、リビングの入り口に立った少年に顔を向

けた。

「…カムタ。起きたのか」

 ぼんやりとしたルディオの顔を見て、カムタはホッとした。自分が知っているセントバーナードだ、と。

 ルディオは自分の手に目を戻す。

 誰かに見られないよう、急いで、しかし用心のために遠回りしてカムタの家に戻ってから、一晩中じっと見ていたが、勝手

に動いたりはしなかった。

 自分が警官を殺したのかと訊ねても、カムタは「アンチャンは悪くねぇ」としか言わなかった。だから、昨夜あそこで何が

起きたのか、ルディオには想像しかできない。鉄格子と壁の光景が、地面に倒れた警官の死体に切り替わった、その間の出来

事については…。

(おれが、知らない間に警官を殺したんだとしたら…)

 セントバーナードは、一晩中考えた事を、また頭に浮かべる。

(知らない間にカムタを…、そんな事もあるのか…?)

 眠らなかった理由は、これだった。

 殺人を犯したかもしれないと、慄いているのではない。はっきり言えば、そういった事で悔いるとしても、裁きを受けると

しても、それは自分の問題。覚えていようがいまいが仕方ない、と思う。

 巨漢が心配しているのは、そういった面倒がカムタの身には及ばないだろうか、という事と、警官を殺したかもしれないこ

の手が、同じようにカムタに害をなしたりしないだろうか、という事だった。

 眠って意識が無くなったら、その間にカムタに害を加えるのではないか?それが心配で、ルディオは一睡もせずに自分の手

を監視していた。

 カムタも、かける言葉が見つからないまま、ドアの脇に佇んでいる。

(セーブツヘーキ…)

 あの時、カムタは一瞬、セントバーナードを別人ではないかと感じた。それほど印象が違っていた。

 何をしたのか把握できたわけではないが、「物凄い素早さで警官をやっつけた」という事は判る。SF映画のヒーローのよ

うな、ひとの物とは思えないスピードとパワーで…。

 生物兵器。聞きなれないその言葉がぴったり来る、常人離れした力だった。

 警官はワルモノだった。自分を殺そうとした。法的にどうかは置いておくとして、悪事の報いを受けたのが、あの結末なの

だと感じる。

 そもそも、その悪い警官を殺した者は、はたしてワルモノなのだろうか?

 そこまで考えたところで、カムタの頭はストップしてしまう。

 どうにも、その先に思考が踏み込めない。

 素潜り中にパンツが何かに引っかかった時に似ていた。うかつに動いたら破れてしまう、かといっていつまでも息を止めて

もいられない、そんな、切羽詰まっていながら慎重さが必要な状態に。

 その、引っかかっている物が何なのか?という事が判らないので、声のかけ方に迷っている。だから言う事が、「アンチャ

ンは悪くねぇ」という、説明を伴わない物になってしまう。

 沈黙がしばらく続いた後…、

「アンチャン、飯にしような」

 カムタが口を開いた。

「飯食って、それから考えような。昨日の事も、これからどうしたらいいかって事も」

 ルディオは顔を上げ、少年を見る。

 そこには、快活な笑みを浮かべる丸顔があった。

「栄養ってな?足りねぇと頭も上手く回んねぇんだってさ。だから飯食って考えよう!」

 巨漢はしばらく少年の顔を見つめていたが、ややあって、顎を引いた。

 賛成する理由も反対する理由も無かったから、カムタに従おうと思って。





「最悪のモーニングコールだ…」

 鏡の中の鷲鼻の男が、苦虫を噛み潰したような渋い顔で唸るのを睨みながら、フェスターは部下の報告を聞いていた。

『申し訳ありません』

 ひととおり説明し終えたリスキーに、「侘びはいい」とフェスターは鼻を鳴らした。

「お前が居てどうこう、という話ではない。…あの警官め、頼まれもしない事を…!」

 カムタ達が暮らすラグーンの、二つばかり隣にある島。リゾート地化が進んだそこのホテルに、フェスターは滞在している。

 部下達も同様なのだが、今は身辺警護要員二名のみが戻っており、残りは探索を続けている。

「自社製品の性能については信用している。こんな形で再確認したくはない…!あの警官にちらつかせた礼金が、少しばかり

多過ぎたかもしれん。上手く立ち回ればさらに吊り上ると、欲が出て逸ったか…」

 フェスターは通話しながらも、空いた手でブラシを取り、すぐにも出られるよう身なりを整えている。

「しかし…、思ったより肝の太い男だったようだな。姿を見ても怯まなかったのか?いくら大人しかったとしても、普通は見

てくれでパニックを起こすだろう」

『私も最初に見た時は面食らいましたからね。我が社の商品には』

「開発施設を視察した折に訊いてみたが、残念ながらああいうデザインにしかならんらしい」

『人気俳優にでも似せられればいいんですがね』

 部下の軽口にフェスターは少しばかり安堵し、そして同じくらい呆れた。色々と想定外の出来事が続いているが、リスキー

の士気は衰えておらず、普段通りの様子。肝が太いのはむしろこの優男の方だった。

「…それでは別の意味で目立って仕方がないだろう…?探索の長期化を見越して、昨夜の内に増員を手配した。今日の夕刻に

は国内に入るそうだ。到着次第向かわせる。メディカルチェックが済んだ船員達も一緒に来る」

『不甲斐なさに恥じ入るばかりです』

「それもいい。顔を合わせておきながら取り逃がしたなら思い切り罵倒してやるところだが、あの警官の不手際で接触すらで

きなかったのでは、責めようにも言葉が思いつかん」

『必ずや挽回致します』

「期待している。…細かな点に疑問が二、三ある。そちらで改めて詳しい話を聞こう」

『お待ちしております』

「…それと、少しは休んだか?」

『ご心配なく、必要な分は』

「嘘だな」

『………』

「ふん、まあいい…」

 フェスターは利己的で、利潤を追い求める事に余念がない。儲けと保身の為に誰かを殺す事もどうとも思わない。善悪の基

準ではかれば、間違いなく悪人である。

 だが、必要以上に冷酷ではない。損得の絡まない所で余計な犠牲や負担を産む事は無駄と断じている。疲労とモチベーショ

ンの低下で効率が悪くなる事も理解しているので、休まず働けとは言わない。そういう意味では、ひとの使い方をわきまえた、

理性的な男である。

 通話を終え、手早く髭を剃り、髪型を整えたフェスターは、

「…ん?」

 すぐさま着信を知らせた携帯を見遣り、顔を顰めた。

 知っている、ただし登録していない番号だった。

「…何の用だ?」

 不機嫌さを隠そうともせずに電話に出たフェスターは…。



「…最悪だ…!」

 五分後、部下が運転するジープに乗り込んだフェスターは、白い顔を真っ赤にしていた。

 機嫌が悪いどころの騒ぎではない。上司の剣幕に戸惑う部下達は、しかしどう宥めても落ち着けるはずもないと悟っている

ので、沈黙を守る。

「田舎の島での探し物は大変だろう?手伝いに行ってあげるよ、フェスター幹部候補殿」

 フェスターはこの世で最も嫌いな男の声を思い出しながら、

「…最悪のモーニングコールだった…!」

 携帯がミシミシ軋むほど握り締めていた。





「鳥肉、もう少ねぇな。干物もあんまり残ってねぇし、後で磯まで出るか」

 タレに漬け込んである肉の量を確かめ、残り全部を焼く事にして、フライパンに投入したカムタは、ジュウジュウと音を立

てて焼き上げにかかった。

 リズミカルにフライパンを揺すると、カムタの肉付きが良過ぎる尻や、丸い腹も揺れる。

 母屋から離れた台所脇、食事用のテーブルについて、ユーモラスで、コミカルで、愛嬌がある少年の調理姿を眺めながら、

ルディオは考えた。

 自分は、この少年から離れるべきなのかもしれない、と。

 他に頼れる相手は居ない。警官すら味方ではなかったのだから、何を信じて頼ればいいのか見当もつかない。

 だがそれでも、恩があるこの少年に害が及ぶくらいなら、どことも知れず彷徨い出た方がマシに思える。

 警官殺しにしても、どんな状況からそんな結末になったのか、自分独りでは説明のしようもないのだが、カムタは無関係と

いう事にしたかった。

(世話になった。親切にして貰った。迷惑はかけられないし、危ない目にも遭わせられない。おれは、カムタから離れた方が

いい)

 そう結論を出そうとしたセントバーナードの垂れ耳が、ピクリと動いた。

 立ち上がって振り返るルディオが見遣った先は、いわば裏門とでもいうべき母屋裏手側の、パンダナスの木立の切れ目。

 細い通り道になっているそこに、細い男がひとり、姿を見せた。

 黒髪をオールバックに撫でつけた、目と眉、そして体も細いアジア系の男性で、しなやかな細身の、短毛種の猫を思わせる、

そんな若者だった。

「アンチャン、どうし…」

 ルディオが立ち上がっている事に気付いたカムタは、その顔が向けられている方へ視線を動かし、息を止めた。

 見慣れない男だった。

(テシーが…、環境保護ナントカは、白人と、ボディガードと、それから…)

 ジャパニーズか、チャイニーズかは判断できない。だが、アジア系という事は判った。

 警戒するカムタは、フライパンを持ったままルディオの脇に寄り、アジア系の若者を見つめる。

「や、これは失礼」

 アジア系の男は細い目をさらに細めて、苦笑いを浮かべながら頭を下げた。

「突然入ってこられてビックリしたでしょう?済みませんねどうも…」

「誰だアンタ?何か用か?」

 カムタは視線を固定したまま、アジア系の男に問う。

 答えは期待していない。頭を巡らせる時間稼ぎだった。

(環境ナントカ…。オマワリさん…。セーブツヘーキ…)

 環境保護団体と身元を偽っている連中は、生物兵器を探していた。

 島の警官は、それにこっそり協力する立場だった。

 そして、両者が探していた生物兵器というのは…。

(アンチャンを、連れ戻しに来たんだな…!?)

 カムタのポッテリした手が、フライパンの柄をきつく握り込んだ。