Exterminate

 人手を集め、新型の痕跡を追うリスキー。

 今回は日中という事も手伝って視界は良好。昨夜から今朝未明にかけての捜索とは打って変わり、木立の中でも動き易く、

捜索の進行は段違いに早い。

 ヤシの葉が緩い風で穏やかに揺れる、一月でも暑い南国の木立である。しかし、長閑で心安らぐ鳥の声も、囁きのような葉

擦れも、男達の心を和ませるには至らない。

(血痕…、あった!)

 男の中のひとりが無言で手を上げ、目印を見つけた事を知らせる。

 頷いたリスキーは散った仲間を集め、進行方向を微修正し、捜索の手を伸ばす。

 殺されたジョルドという男は、大手柄を残していた。

 それはジョルド自身の血痕。あの場で事切れるまで逃げ続けた彼は、傷を負った地点まで逆にたどれるよう、そこかしこに、仲間に判るようマーキングしていた。

 草の葉を、自分の血をつけた指で摘まんで、裏にマーキングを残す。追跡されている最中でも気付かれ難く、雨が降っても

落とされ難い手法…。マニュアル通りの、もしも自分が駄目でも仲間に手掛かりを残す逃走方法…。つくづく生真面目な男だ

と、リスキーは鋭く目を細める。

 遭遇地点を割り出す…、これは重要な事だった。なにせ、ジョルドが残したマーキングの他に…。

(リスキー!ここにも!)

 点々と、血痕が残っているのだから。

 彼らが造り出す生物兵器は、命令下になく、かつ不確定要素が多い環境下では、姿を隠して落ち着ける…いわゆる「巣」の

ようなポイントを見つけてそこに留まる事がある。

 昨夜は張り込んでいても姿を見せなかったが、今回は違う。ジョルドが残したマーキングの他に点々と続く血痕は、返り血

を浴びた「ソレ」の足跡に他ならない。

 ジョルドは「ソレ」が潜む位置を突き止め、襲われたと考えられた。

(しかしまずい…。民家がある方向だぞ?)

 リスキーはふと、人間の少年とセントバーナードの事を思い出した。

(…大丈夫だ。あそこまでは流石に距離が…)

 そこまで考え、自分をなじる。集中しろ、と。

(やっと手が届くぞ…!)





「お、カムタ!…っと…」

 ドアを開けて店内に入った少年と、その後ろにのっそり続くセントバーナードを目にして、

「ルディオさん…、だったっけ?」

 テンターフィールドの若者は軽く会釈した。

「テシー、夕べのサイレンなんだったんだ?」

 知らないふりをして話しかけたカムタに、テシーは「ああ、火事」と顔を顰めた。

「交番燃えて、オマワリさんが中から見つかったってさ」

 息を飲むカムタ。その反応に潜む本当の理由など知る由もなく、当然の驚きと受け止めたテシーは「ショックだよなぁ」と

続けた。

「明け方にヤン先生が確かめた。ほとんど骨になってたみたいだけど、拳銃もあったし、燃え残った金具とか、金歯の場所と

か見ても、間違いないらしい。西のオマワリさんも来て確認してた」

「そ、そうか…。オマワリさんが…」

 掠れた声で、カムタは呟いた。

「いいひとだったのに…。カムタも気を遣って貰ってたろ」

「う、うん。だな」

 カムタはルディオを振り返る。巨漢もまた、テシーの話のおかしな点に気付いていた。

(カムタの話だと、オマワリさんはその場に残してきたはずだなぁ…。交番が火事になって?それで、その中に焼死体があっ

た?じゃあそれは…)

 何者かが、偽装工作をおこなった。そしてそれは…。

(きっとセーブツヘーキを連れに来た連中だ…!連中がショーコインメツするために、交番ごとオマワリさんの死体も燃やし

たんだ!)

「もう片付いてるけど、皆が花あげてきてた。お前も手がすいたら行って来たらいいんじゃないか?」

 テシーはそう提案しながら、冷蔵庫のソフトドリンクを物色する。

 どうしようか、とカムタは迷ったが、行かないと言うのも不自然に感じて、「そうする」と頷いた。

「カムタはココナッツジュースでいいか?ルディオさんは…、何か好きなのある?」

 カウンターについたふたりを振り返って、テシーが問う。「サービスするよ」と。

「カムタと同じのを」

 応じたルディオは、「昨日の粥は美味かった」と付け加えて、テシーを喜ばせた。

「そりゃ良かった!」

「料理や色々な事の先生だと、カムタから聞いた」

「いやぁ、大したことしてないんですけどね…!」

 カムタは少し驚いたが、ホッとした。記憶がないルディオは、テシーと会話しても話が続かないのではないかと心配してい

たのである。

 下手な事は言わないように、あらかじめ打ち合わせをしていたので、ルディオの話は当たり障りのない物になった。

 身元についてはアメリカ在住の警備会社務めという事になっている。巨漢はその辺りをきちんと意識しているようで、やり

とりにおかしな所は出なかった。

「しばらく滞在するから、よろしくお願いします」

 ペコリとお辞儀したセントバーナードに、テンターフィールドは「こちらこそ!」とにこやかに手を差し出して、握手を交

わす。

「暑いでしょうこっちは!慣れてないと本当に辛いらしくて」

 上半身裸のセントバーナードは、いや、入る服が無くて、と答えかけてから、これは言わない方が良いなと思い直し、「まっ

たくだなぁ」と頷く。

「すげぇズボンですね?ダメージジーンズみたいなもんですか。都会ファッション!」

 この言葉にも、ルディオはとりあえず「そんな感じだなぁ」と応じる。

 ダメージジーンズなる物についての知識は考えても浮かんでこなかった。様々な物や現象に触れると、対応するように浮か

び上がる知識は、しかしどうにも実用的な方向に偏っているようで、ファッション的な物についてはあまりフォローしてくれ

ないらしい。

 また、ローカル色が強い物についても判らない場合が多い。空、シャワー、食器類など、何処にでもあるような現象や品に

ついては判るのだが、パンダナスの実やココナッツジュースの飲み方は判らなかったので、少なくとも以前はこの文化圏に馴

染みが無い場所に居たのではないかと、ルディオは自分の過去について推測している。

(アンチャンの服装、何とかしなきゃな。ボロボロのズボンしかねぇし、何か羽織る物ぐれぇは用意しねぇと…)

 やりとりを聞きながらココナッツジュースを啜ったカムタは、明日の仕入れの時には鳥の肉を分けて欲しいと頼んだり、何

気なく天気の話をしたりしてから、

「あ、環境ナントカの、チャイニーズのひとと会った」

 と、テシーに告げた。

「いいひとだった。レーギタダシーひと」

「…そっか」

 テシーは言葉短く応じる。気に入らないのは変わらないが、カムタの感想に水を差す気にはならなかった。

「そうだ。飯食ってくか?貝類のドリアにチャレンジしてみたんだ。…これも試作だからサービスするぞ?」

「飯はさっき食っ…」

 カムタは言葉を切って、横に座るセントバーナードの尻を見た。

 ふっさふっさと、豊かな被毛に覆われた尾が揺れている…。

「やっぱ食ってく」

「そうこなくちゃ」

 ルディオの尾が、はたたっと激しく振られた。





(ヤツは近い。が…)

 ますます民家が近い位置だと、痕跡を辿ったリスキーは顔を顰める。

 島民に目撃されたら消さなければならない。協力者はもう居ないので、もみ消す事もできない。見られたら、秘密裏に処理しなければいけない。

(ハードルの高い仕事になった…)

 額に落ちかかる髪を掻き上げたリスキーは、

「…?」

 捜索の陣形、その左右トップに当たっている一方…左の男の姿が見えない事に気付いた。

 注意力が足りないので見失った、と己に腹を立てたが…、

(…いや、違う!)

 サッと手を上げるリスキー。その場に立ち止まり、それを注視する男達。

(二秒?いや、三秒か?)

 茂った草に紛れて見失った…と思う。しかし、直前までは確かに後頭部を見ていた。

「…居るぞ」

 リスキーが低く声を発した途端、向きを変えた風が、ねっとりと苦い香りを運んできた。

 外気に晒された、臓腑の臭いである。

 ザッと、草が鳴った。

 全員が銃を抜く中、リスキーだけは武器も握らず走る。

 無防備なようで、しかし隙がない疾走だった。密林を駆ける豹のような低姿勢のダッシュは、茂った草に彼の姿が沈んで見

えた。

 左手を腰に当て、右手でザッと草を押し退けたリスキーは、その向こうで口をパクパクさせている同僚と目があった。

 喉を薙がれ、胸部と腹部を貫かれ、絶命寸前の男は、足を投げ出し座り込む格好で、ヤシの木に寄りかかっている。

 男の胴を易々と貫き、五臓を裂いた凶器は、後ろのヤシの木肌にも、抉ったような傷を深々と残していた。

 無残な傷を負った同僚は、リスキーの悔しげな表情を見止めた途端に、ゴボリと血塊を吐き出し、事切れる。

 直後、リスキーは足元の枝を右手で拾い、斜め後ろへ、視線も送らずに放り投げた。

 回転するそれが、緑の中で弾け、砕け散る。

 破壊したのは、緑の中に浮かんだ、赤い液体に染まっている腕…。

「居たぞ!」

 男達の中から声が上がった。

 ソレは、すぐ近くに居た。

 男達の視界の中に居た。

 にもかかわらず気付くのが遅れたのは…。

(新型の機能、ステルス迷彩…!)

 振り向いて身構えたリスキーの、鋭い視線のその先で、丈の長い下生えの草…、否、そこに溶け込んでいた緑が、ゆっくり

と移動した。

 周囲に溶け込む色に変じるその体は、今は生き生きした草の葉の色彩を模している。

 ソレは、人間に似た姿をしていた。

 頭部と胴、四肢を備え、シルエットは人間そのものだった。

 だが、細部はことごとく、決定的なまでに違う。

 光沢のある、艶やかな肌。筋肉の膨らみのようにも見える、肩、腕、胸などの緩やかな隆起は、プロテクターのように配さ

れた甲殻。

 鋭い虫の鉤爪を備える三本の指は、両手とも、先に殺した相手の血に塗れていた。

 鼻は無い。ひとのような口もなく、仮面のようにのっぺりとした顔の下側には、バッタが顎を閉じたような、複雑な形状の

ラインが縦に走っていた。

 そしてその目は、大きさこそひとの物に近いが、瞼がない複眼である。

 ソレの肢体は、要所にプロテクターが仕込まれたウェットスーツを着込んだ人間に近いものの、その全てが自前の肌と外殻。

 インセクトフォーム。そう呼ばれている、虫の特色を持つ生物兵器こそが、ONCの主力商品である。そしてこの新型は、

アリとバッタの遺伝子を用いて産み出された物。

 一部のバッタが体表の色を変えて保護色を纏うように、本物よりも柔軟に、しかも数秒で全身の色を変える能力を持ち、密

林は勿論、コンクリートにも同化し、暗所では闇色に変じる。

 そのステルス性に加え、高い機動性と運動性能により、一足飛びで数十メートルの距離を詰め、対象を襲う。

 さらに、備える武器はアリの鉤爪。鋭く硬く強靭で、アスファルトを掘り返し、ひとの肉を易々と貫き、防弾ジャケットも

簡単に引き裂く。

 ONCがつけた名称は「ステルスホッパー」。半月前に本格的な生産が始まったばかりの、新型生物兵器である。

「やっと会えたな…、新型」

 囁くような声を発し、ゆらりと向き直ったリスキーは、身長2メートルにも及ぶ異形の虫を見据える。

 細身の男である。対してステルスホッパーは、陸上の短距離走で活躍するアスリートのような体躯。にもかかわらず、臆す

る様子は見られない。

 他の男達は銃を構えて慎重に距離をはかるが、リスキーだけが無手である。

 ヒュッ、と鳴ったのは、リスキーの口元。

 呼気を鋭く漏らした若者の体が、四足歩行の野獣のように、低く、疾く、ステルスホッパーに迫る。

 対する異形は、無感情な眼でリスキーを見つめながら、迎え撃つように軽く膝を曲げる。

 しかし、ここで予想外の事が起きた。

「下がれ!」

 リスキーの警告は、一瞬遅かった。

「え?」

 その男は、銃を構えた両手の先に、一瞬で迫った緑を見た。

 直後、顔面がメシャリと陥没する。

「ちっ!」

 舌打ちを残して素早く方向転換する、リスキーの視線の先で、同僚が棒のように後ろへ倒れた。ステルスホッパーの強靭な

膝に蹴り砕かれた頭部は、顔面を内側へ、椀の内側のように陥没させられている。

 筋力も脅威ならば、甲殻も脅威。カーボンプロテクター以上の強度を持つソレは、9ミリパラベラムを弾き返し、しかもひ

との皮膚同様に再生する。ニーガードのような円形の甲殻を顔に埋め込まれた男は、頭骨の抵抗を無視するように脳まで潰さ

れ、即死していた。

 跳び膝蹴りの勢いのまま死体を飛び越えたステルスホッパーは、屠った相手に見向きもせず…、

「あ!?に、逃げるぞ!?」

「囲め!行かせるな!」

 そのまま、包囲を破って逃走に移った。

 慌てて追う男達だったが…。

「不用意に動くな!」

 リスキーが叱責するや否や、茂みに飛び込んだステルスホッパーをほぼ真後ろから追った男が、ハガンッ、と奇妙な音を立

てながら仰け反り、顔を押さえて仰向けに倒れる。

 放物線を描き、リスキーの足元にボトリと落ちたソレは、下唇と頬肉、歯がついたままの、湾曲した骨…男の下顎。

 単純な逃走ではない。包囲の外に抜け、隊列を伸ばして追う者を個別に仕留めてゆく、迎撃的後退だった。

「迎撃を狙っているぞ!慎重に詰めろ!」

 指示を飛ばし、最前列へ駆け込みながら、渋面のリスキーは胸の中で呟く。

(フェスター。コイツはどうやら、相当、知恵が回るようですよ…!)

 部下と共にステルスホッパーを追い、しかし見通しの悪い中からの奇襲を警戒し、茂みを掻き分け疾走するリスキー。

(敵わないと考えての逃走ではない…!ヤツは、より効率的な、より危険の少ない方法を選択した!我々の武器を、銃の力を

知っている!)

 考えたくはないが、そうとしか思えなかった。そしてそう考えれば、これまでの犠牲者は隙を窺うステルスホッパーによっ

て、各個撃破されたようにも感じられる。

(知恵が回る個体との戦闘は、慎重に行うのが鉄則だ。だが、のんびり進めるわけには…!)

「速い!どうするリスキー!?離される!」

「馬鹿野郎!下手に突っ込んだら死ぬぞ!」

 場数を踏んだ男ばかり集めていたのだが、新型の猛威は経験による慣れを凌駕し、冷静な判断を奪おうとしていた。

(これは本当に…、骨が折れる仕事だ…!)

 事が明るみに出ないよう、急いで処分しなければならない。しかし慎重に進めなければ犠牲が増える。

 新型を追うリスキーは、自分と同僚の命と、迅速な処分とを、天秤にかけた采配を求められた。





 焼け跡となった交番を訪れ、他の島民と同じように献花して、踵を返し立ち去る少年を、横に並んで歩くセントバーナード

が見遣る。

 ルディオは無言だったが、訊きたい事があるようだと何となく判ったカムタは、「全部じゃねぇって、思う事にしたんだ」

と口を開いた。

「オマワリさんは見回りに来てた。声掛けもしてくれた。そういうのが全部ウソだったって、思わねぇ事にした。そん中には、

オラの事を心配してくれたのが、いくらか混じってる。…オラの中ではそういう事にする」

 辺りに聞こえないよう、小声である。ただでさえ大きい上に見慣れないルディオは、すれ違う島民からもの珍しげな目を向

けられており、その都度カムタは挨拶がてらセントバーナードを紹介している。会話を聞かれ、変な事を言っていると思われ

たら、印象強く頭に残ってしまう可能性があった。

「そうか」

 ルディオは短く応じ、焼け跡となった交番を肩越しに振り返った。

 住民達によって手向けられた南国の色鮮やかな花々は、小さな女の子が悲しんで泣く声に唱和するように、さわり、さわり、

と暑い風に揺れる。

 警官が本当は悪党だったとしても、もう真実などどうでもいい。島の人々の中ではいつまでも「いいお巡りさん」、きっと、

それでいいのだろう。

 ルディオはカムタの考えについてそう解釈し、その件についてはもう何も訊かなかった。

「…確かこの奥の辺りだったよな…」

 自宅へ向かう道中で、カムタは木立の中を見遣った。昨夜、警官の死体があった場所の近辺である。

「こん中にも、もう何の跡も残ってねぇのかな…?」

「そうかもなぁ」

 交番から離れながらそれとなく確認したが、警官が這いずった痕などは判らなくなっていた。消防団が動き回って痕跡が消

えたのか、それともそれ以前に消されたのか、おそらく後者だろうという気はしている。

「よし、確かめてみるか」

 カムタは周囲を見回し、ちょうど人目が無い事を確認すると、木立の中に素早く入り込む。

 弾む毬のように軽快な丸い少年を追って、セントバーナードも周囲を窺ってから、その後に続いた。

 ふたりの姿は、道からはすぐに見えなくなる。それでも見られてはいないかと、後ろに注意しながら奥へ入ったカムタは、

「たぶんこの辺だ…」

 きょろきょろ見回し、それから肩を竦めた。

「何もねぇ…。血の跡も」

「掃除したんだなぁ、ここも」

 ルディオの表現は、和やかなようで、しかし掃除という言葉が物騒にも感じられる物だった。

「どう思うアンチャン?連中は、オマワリさん殺したセーブツヘーキ連れて、全部片付けて、もう帰ったのかな?」

「わからない」

「そうだよなぁ。う~ん…」

 全て済んだと思いたい。が、そういう期待は危険な気もする。何をもって「もう安全」とすればいいかが判らない。

 いつまで緊張状態で注意深くしていなければならないのかと、終息の判断はどこですればいいのかと、考え込むカムタは、

気付いていない。

 「ソレ」が、自分を見ている事に。

 「ソレ」は、少し離れた位置からふたりを見ていた。

 「ソレ」は、昨夜自分が、「弱っている危険」を排除した後に来たふたりだと思い出した。

 「ソレ」は、このふたりは自分の存在に気付いて戻ってきた、「排除すべき潜在的危険」かもしれないと思った。

 そして「ソレ」は…、

「そろそろ行こう、アンチャン」

 先に立って歩き出そうとした、丸っこい少年に狙いを定めた。

 もう片方は大きい。少年の方が弱そう。まず数を減らしたい。と…。

「………?」

 カムタに従って歩き出そうとしたルディオは、スンッと、鼻を鳴らす。

 何かが匂ったと思った訳ではない。鼻が勝手に匂いを嗅いだ…ように感じた。そして…、そこで意識が消えた。

「どうしたアンチャン?何か見っけたのか?」

 その場に留まる連れを振り返ったカムタは、ハッとした。

 巨漢の顔から、表情が完全に消えていた。そして、そのトルマリンの瞳が、明るい色に…、琥珀の輝きを宿す物へと変わっ

てゆく。

(そういえば、夕べも…、こんな…)

 驚きと共に硬直するカムタは、完全に瞳の色が変わった獣の顔を呆然と見つめ、その目が自分に向く様を眺め…。

 ゴウ、と風が啼いた。

 少年の蓬髪がザワッと激しく揺れ、拳を固めた獣の剛腕が、その真上を掠めるように通過していた。

 直後、ゴンッ、と腹に響く激突音を、風の唸りとほぼ同時に、カムタは聞いた。

 それからワンテンポ遅れて、ドッ、ザッ、と土が擦れて抉れる音が、少年の耳朶に後方から届く。

「あ、アンチャン…!?」

 驚いているカムタは、獣の瞳が、自分の頭上を越えて後ろを見ている事に気付いた。

 キシキシ…。キシキシ…。

 異音を耳にしながらゆっくりと首を巡らせた少年は、「ソレ」に初めて気が付いた。

 ひとに似たシルエット。なのに細部が大きく違っているが故に、自分達とはかけ離れた存在だと確信させられる、異形の生

物。

 地面に刻まれた四本の溝の先、四つん這いで身構えている「ソレ」を目にした瞬間、カムタは思わず、その言葉を漏らして

いた。

「悪魔…」

 呟いたカムタの頭上で、突き出されたままだった獣の右拳が引き戻される。

 獣は、ヤシの木にしがみつき、体色を変えて潜んでいたステルスホッパーの奇襲を、カムタの頭越しに素拳の一撃で迎撃し

ていた。

 その一撃が、ステルスホッパーの胸を覆う、鍛えた筋肉のように左右に割れた甲殻を陥没させている。

「………」

 無言無表情の獣とステルスホッパー。

 その目と眼が互いを映す間で、カムタは首を振りながら双方を交互に見た後、後ずさる格好で横に退く。

 次の瞬間、ステルスホッパーが跳ねた。輪ゴムを弾いて飛ばしたような、視認も難しい速度で。

 しかしその接近を、獣はしっかりと捉えている。

 腰を低く落とした体勢から、迫るステルスホッパーめがけて伸ばしたのは、左手。

 掴みかかるように前へ伸びたステルスホッパーの両手は、獣の眼窩を抉ろうと、爪を広げている。

 その中央を、獣の左手が通過した。…かと思いきや、翻った平手がステルスホッパーの右手首を、内から捕らえる。

 グンと引かれたステルスホッパーの左腕が、その鋭い爪で獣の右耳付け根から、数本の被毛を千切り飛ばす。

 獣は瞬き一つせず、顔色も変えず、右足を前に出してドズンと地を踏み、左足を後ろで力強く踏ん張り、半身に構えて前腕

を胸の前に引き、そこから外へ肘を突き出した。

 掴まれた腕を手掛かりに、引き込まれる形で加速させられたステルスホッパー。その胸部…、先の一撃で陥没した箇所へ、

正確に、精密に、肘が打ち込まれる。

 それは、拳法でいう外門頂肘という技にも似ていたが、動作は洗練されていると言い難く、力任せで荒々しい。

「ギシィッ!」

 耳障りな音が、カムタの耳を不快に撫でる。

 ステルスホッパーは、がっぱり左右に開いた顎の間から、淡い黄緑色の体液を吐き出した。

 彼は、判断を誤っていた。

 少年と一緒に居た存在は、「排除すべき潜在的危険」などではなく…。

「ギギギッ!」

 苦鳴を漏らすステルスホッパーが、宙に浮きあがる。獣は捕まえた片腕を無造作に振り上げ、その体を宙に浮かせながら振

り向き…。

 カムタが目をきつく瞑り、力む。その体を、地響きとしか形容できない震動が、足の裏から頭の先まで通り抜けた。

 ステルスホッパーの腕を掴んだまま、振り向きざまに地面へ叩き付けた獣は、その冷たく、硬質に光る琥珀の瞳を、二度の

打撃でひび割れた胸へ向ける。

 腐敗したミルクのような、灰色が加わって濁った乳白色の筋肉組織が覗くそこめがけて、獣は右足を上げ、踏み下ろした。

 ズン、と、目を開けたカムタの体を再度通り抜けた震動は、一度目の物よりさらに強い。

「ギジォッ!」

 ステルスホッパーの、左右に限界まで開かれた顎の間から、胸部を潰されて迸った体液が吹き上がった。

 苦痛にのたうつように腰を跳ねさせるステルスホッパーだったが、胸を踏みつけられており、逃げられない。自分を地面に

押し付けている獣の右脚を抉ろうと、左腕が唸りを上げたが、獣はこれも容易く捕らえ、ステルスホッパーは両腕を封じられ

る格好になった。

 その直後、獣はステルスホッパーの胸を踏みつけて固定したまま、捉えた両腕を力任せに引いた。

 抵抗は一瞬にも満たなかった。カタログスペックでは8トンの張力にも耐えられるはずのステルスホッパーの腕は、表面に

亀裂を生じさせ、ブチブチッと嫌な音を立てて伸び、腕の付け根から容易く引き千切られる。

「ギシオオオオッ!ギシッ!ギジギジギジッ!」

 苦鳴なのか、威嚇なのか、ひとには理解できない命の声を発してもがくステルスホッパー。

「うっ…!」

 あまりにも凄惨な光景に、正視を耐えかねたカムタは、状況も忘れて両手で顔を覆った。

(アンチャンじゃねぇ…。「コイツ」は、アンチャンじゃ…)

 現実逃避…ではない。少年は本能的に察していた。

 その獣は、ルディオではない、と。自分が知る巨漢ではない、と。少なくともそこに、ルディオの意志は感じられない。

 両腕を失ったステルスホッパーは、この「危険」から逃れようともがいた。

 「排除すべき潜在的危険」などではなかった。その獣は、接触がそのまま絶対的な危機に繋がる「全力で回避すべき危険」

だった。

 その脇腹…人間でいう肋骨の下端にあたる位置で、甲殻が左右に開き、そこから収納されていた一対の腕が飛び出す。

 前肢と比べれば細いが、より虫に近く、外殻のそこかしこに棘を備え、アリの肢をそのまま大きくしたような形状とバラン

ス。関節以外全てが甲殻に覆われたその中肢は、先端に真っ直ぐな棘状の指を三本備えており、不意をついた刺殺に向く。

 それが、胸部を踏みつけている獣の脚へ、脹脛側から襲い掛かり…空を切った。

 寸前で足を上げた獣は、胸の前で交差する形になった中肢を踏みつける格好で、勢いと体重を乗せ、踏み下ろす。

 あっさりへし折れた中肢の下で、繰り返し集中的に力を加えられたステルスホッパーの胸部は、ついに大きく陥没し、獣の

足裏から地面までの距離は5センチ未満となる。

 獣は、引き千切ったステルスホッパーの両前肢を手放し、地面に落とすと、前屈みになって複眼を覗き込みながら、分厚く

大きな手で頭部を左右から挟み込む。

 ブヂッ…。

 どさりと何かが地面に落ちる音を聞き、それきり静かになると、カムタは恐る恐る、指の隙間から様子を窺った。

 獣は、なおもソレを踏みつけたまま、じっと見下ろしていた。

 ステルスホッパーは、胴と両足を小刻みに痙攣させていた。

 しかしそれはもはや、生きるための動きではなく、生命の残滓に過ぎない。

 力任せに引っこ抜かれたステルスホッパーの頭部は、地面に転がってカムタの方に複眼を向けている。

 獣はしばしそのまま、入念に確認しているようにステルスホッパーを見つめていたが、やがて体液塗れの足をヌチュッと上

げ、退かせた。

 それは、あまりにも圧倒的で、一方的だった。

 闘争と表現する事が憚られるほどのそれは、まさに「駆除」であった。

 そして、立ち尽くすカムタに獣の目が向けられた。

 冷たく、硬質に、琥珀色の輝きを放つ双眸は、ステルスホッパーを見ていた時と同じく、少年の様子を入念に窺っていたが、

やがて、その色に変化を生じさせた。

 瞳が、暗くなる。

 変化を逆再生したように、瞳孔側から周囲に向かって琥珀色が引き、トルマリンの色が瞳に広がる。

「………」

 巨漢はしばし無言で、無表情で、カムタを見つめていたが…。

「…カムタ?」

 きょとんとした表情と、不思議そうな声。

「あ、アンチャン…?正気になったか!?」

 確認するカムタに、ルディオは「ん?」と首を傾げ、それから妙な感触がある右足を見下ろし…。

「………?」

 足元に横たわるステルスホッパーの死骸に、目を止めた。

「インセクトフォーム…」

 自分の口が勝手に言葉を漏らした事に、ルディオはしばらく気付けなかった。





 夕暮れが迫る空を見上げ、リスキーは前髪を後ろに撫でつけた。

 その足元には、うつ伏せに倒れ伏したステルスホッパーの死骸。

 警戒を緩めず銃を構え、外傷が見られないステルスホッパーの死骸に照準を合わせている男達は、一様に脂汗を流していた。

(生物兵器を屠る人間…)

 男達はフェスターの片腕に、改めて畏怖を抱く。

 銃も用いずにステルスホッパーを殺せる。そんな人間など、このリスキー以外には知らない。

「すぐに運び込みます」

『船の支度は済ませてある。迎えの車を向かわせる。ご苦労だった』

 携帯を取り出し、船着き場に待機していたフェスターへ報告を入れたリスキーは、

「残り、二体ですね」

『活動を始めていないよう願うばかりだ。…もし動いていたら、また頼む』

 ようやく任務が進展し、冗談を言う余裕が出たらしいフェスターの言葉に、苦笑いを浮かべた。

「特別手当を弾んで頂きたい、骨の折れる仕事です」

『経理に掛け合っておく。駄目だと言われたら、私のポケットマネーで支払おう』

「有り難うございま…」

『回収した犠牲者だが』

 言葉を遮られたリスキーは、同僚の死体については、ステルスホッパー運搬用とは別の船を用意し、今から出発させると聞

かされて、「そうですか」と短く応じる。

 殺した者と殺された者を同じ船では運ばない。無駄を嫌うフェスターだからこそ、この手配からは死者への配慮が窺えた。

『二隻も三隻も追加で手配するのは無駄になる。これ以上死んだら、船を動かす手数料を死亡一時金から差し引くからそのつ

もりで居ろと、他の者にも伝えろ』

「伝えます」

『それと、お前も含め、休息を取るように。いいな?』

 悪党の癖に気を遣ってくれるものだ、とリスキーは苦笑を深めた。

 クズの仕事だし、悪人の会社だとつくづく思う。だが、フェスターがトップについたら面白いかもしれない。リスキーに限

らず、フェスターの部下達は大なり小なりそう考えている。少なくとも…。

(ショーンだけは、間違ってもトップにしてはいけないが…)

 フェスターや自分達が嫌悪している幹部候補が社を牛耳るよりは、はるかにマシなはずだった。





「よし!飯にしようアンチャン!」

 カムタがそう提案したのは、自宅の脱衣場兼作業場での事だった。

 足にねっとり付着していたステルスホッパーの体液を洗い流した巨漢は、水気をタオルで拭っていた手を止め、ウンウン頷

いているカムタに目を向ける。

「カムタ…」

 何か言いたげなルディオに、カムタは小麦色の太鼓腹をベチンと叩いて見せる。

「いろいろ考えなきゃだけど、腹が減ったら頭が回んねぇ。頭使うためにもしっかり食っとこう。それに…、もしかしたら、

「これで終わった」って思っても良いんじゃねぇかな?」

 少年に答えず、セントバーナードは自分の手に目を向けた。

 また、意識が飛んだ。

 気が付いたら、今度は得体のしれない生物の死体があった。

 インセクトフォーム。

 アレがそういう名の存在なのだと、何となく判る。しかし他の知識とは違って、名称は頭に浮かんでも、虫に由来する物だ

という大雑把な概念以外は詳細が出て来ない。だが、少なくともまっとうな生物ではない。アレが生物兵器という物なのだろ

うと察しはついた。

 そして、ソレを素手で殺し、その名称がわかる自分もまた、まっとうな存在ではないのだろうという予感がある。

(でも、まぁ…、いいか…)

 巨漢は少しホッとしながら、そう考えた。

 危険な生き物はもう居ない。カムタはもう安全だ。それならもう、傍に居なくてもいい。

(どっちかと言えば、得体のしれないおれも、危険だもんなぁ)

 手を見ながら巨漢が思うのは、自分の意識が飛んでいる間に生物兵器を殺したのは、「この体の本当の主」なのではないか

という事だった。体の違和感が消えないのは、自分が本当の主ではないから…。そうも考えられた。

(ならおれは、いったい「何」なんだろうなぁ…?)

 記憶を失った反動で生まれた、かりそめの人格。そういった物なのだろうかとも思う。

 記憶障害を起こした者が性格まで変わるケースもあるという事は、知識として参照できた。記憶とはただの記録ではなく、

その時に感じた事、考えた事も含めた塊であり、同時に他の無数の記憶と結びついた物であり、人格や思考の方向性、主義主

張などを形成する要素でもあるのだから。

 そして、記憶が戻ったら、記憶がなかった間の事をすっぱり忘れてしまう事もある、という情報も参照できた。

 記憶とは、人格とは、一体なんなのだろうか?過去という土台を失っている今の自分は、何できているのだろうか?そんな

事を考え始め、そしてやめた。考えても仕方がない、と。

(いつか、記憶が戻るのかなぁ?そうしたら、「おれ」は消えるのかなぁ?)

 記憶が戻ったら今の事は忘れ、今のままではなくなるのだろうかと考えても、恐怖は無かった。

 ただ、カムタの事を忘れてしまうのは嫌だなぁ、と思った。

「カムタ」

「うん?」

 何を作ろうか、と考え始めた少年に、巨漢は告げた。

「もう生物兵器は居ない。だからおれは、何処かに行こうと思う」

「…え?」

 突然の申し出に、カムタは目をパチパチさせた。

「もう危険はない。むしろ、おれが危険人物だと思う。意識が飛んで、その間何をするかわからない。だから傍に居たらカム

タが危ない」

「なんだ、そんな事か」

「そうだ。だから…ん?」

 ルディオは首を傾げた。

 聞き間違えたかと思ったが…。

「気にすんなアンチャン」

 少年はパタパタと手を振っていた。

「オラ思ったんだけど、あん時のアンチャンも、オラには「危険」じゃねぇ」

 カムタはあの時の事…、時間にしてほんの十数秒だった巨漢の変貌の事を、子細に思い出しながら言う。

 正直に言えば、少し引いた。

 人外の存在を相手に、己の身一つであそこまでやれる。単に「殺せる」のではない、「容易く殺せる」。容赦なく、眉一つ

動かさず、物を解体するように…。

 それはもはや、ヒトの域にある力ではない。

 しかし、力そのものは確かに脅威でも…。

「アンチャンな、夕べもだったけど、オラには何もしようとしなかった。ただ見ただけで、やっつけるのは襲ってくる相手だ

けだった」

 少年は巨漢に仮説を語った。

 警官もあの生物兵器もそうだったが、「あの状態」の巨漢は、危害を加えた、あるいは危害を加えて来そうな、「敵対者」

か「そうなり得る可能性がある相手」に攻撃を仕掛けるのではないか?と。

 つまり、害を与えない自分の事は「敵」と認識していないので、目を向けるだけで何もしないのではないか?と。

 確かに凄惨な光景ではあった。それ故にあの場では落ち着いて考える事ができなかった。しかし、時間が経って思い返せば、

襲ってきたのはあちらの方。身を守るために殺すのは、正当な権利の行使に思える。

 生きていく上で何も傷つけずに過ごして行けるとは、少年自身も思っていない。生きるために獲って食う。身を守るために

排除する。それはひとが生きて行く上で仕方がない事。

 命を貰い、命を生きる。

 カムタはその意味を知っている。頭ではなく、魂で、本能で、その意味が判っている。

 その行動基準に照らし合わせれば、警官への攻撃も、生物兵器の駆除も、間違っている事とは思えなかった。

「それにな、アンチャン。それだけじゃねぇ」

 カムタは思い出す。

 はじめ、少年は生物兵器の存在に気付いていなかった。最初に姿を見たのは、獣が殴り飛ばした後の事だった。あの時もし

も獣の迎撃が無かったなら、おそらくは気付く前に…。

「アンチャンはあの時、オラを守ってくれたんじゃねぇかな?」

 巨漢は少年の顔を、呆けたように見つめた。

 その見方は楽観的過ぎはしないか?と思わないでもなかったが、自分の意識がない間の事はカムタにしか判らない。それに、

二度とも傍に居ながら少年がピンピンしているのも事実。

「…そうだったら、いいなぁ…」

 ルディオは、少年の説を信じてみようかと考えた。

 自分自身すら信用ならないルディオに、一つだけ信じられるもの…。それが、カムタだったから。

「じゃ、飯だ!飯食ったら考えような!アンチャンのキオクソーシツと、家に帰る事!あと、「ニジュージンカク」の事も考

えなきゃいけねぇな!」

 張り切るカムタは、まったく、ちっとも、ルディオの事を怖がっていない。

 その態度に、ルディオは救われる気分だった。