Betrayal

「どういう、事だろうな…」

 茂みの中に埋もれる形で隠されていたステルスホッパーの死骸を前に、リスキーは呟く。

 発見の報せを受けて急行したそこには、自分の目で見るまで半信半疑だったが、確かに、生物兵器の死骸があった。

 しかし解せない。その死に様が。

 頭部も両腕も引き千切られ、胸部は潰されている。まっとうな生物にできる事ではない。

「これで二体目…」

「運搬されていた新型は全部で三体…、だったよな?」

「ああ…」

「コイツを殺せる生き物となると…」

 口々に囁き交わしていた男達は、一様に黙り込んだ。この新型を殺す事が可能な存在など、そうそう居るものではない。今

この状況で、考えられる可能性は…。

「…三体目も、もう活動している…。コイツはソレに殺られた…。そう考えるべきか…。運命の女神は、味方してくれたのか

意地悪をしているのか…」

 リスキーの呟きに、全員が頷いた。

「もうじき日没だ。フェスターからも休むよう厳命されている。半数はフェスターに同行してホテルへ引き上げ、半数は私と

共に捜索だ。志願者は?」

 問いかけたリスキーは、細い目を心もち大きくし、それから苦笑いする。

 全員が挙手していた。

 責任感から手を挙げた者も居れば、同僚の仇討を願って挙手した者も、評価に繋がると考えて挙手した者も居る。しかし共

通して、疲労があってもなお、やる気を失っていない。

「困るぞ?それでは私がフェスターのお叱りを受ける」

 リスキーは男達の中から、夜目が利く者や夜戦慣れした者、長時間の不眠労働に強い者などを選び出し、メンバーを整え、

残りを死骸運搬にあてて引き上げさせた。

 最後の一体を探し、回収か処分を行う。皆が任務の内容をそう考えている。

 新型を殺せる「他の何か」がこの島に居るなどとは、神の身ならぬ彼らには想像もできなかった。



 そしてその頃、その「他の何か」は…。



 輸入物の乾麺を湯戻しして、一晩真水に浸けて砂を吐かせた貝類を加えて茹でながら、岩塩を削って振りかける。ヤシの実

に穴をあけて、味見しながら新鮮なココナッツミルクを適量加えると、シーフードミルクスープパスタとでも言うべき料理が

出来上がった。

 上半身裸になり、肌に玉の汗を浮かべてカムタが用意したのは、明らかに二人前どころではない量の夕食。

 主菜のパスタに添えられたのは、二日乾した魚を網焼きにし、軽く焦げ目をつけて菓子のようにパリパリにした干物と、グ

ミにも似た弾力がある、細かく刻んだヤシの実の果肉。

「お待たせアンチャン!食おう!」

「ん」

 夕暮れ色の空の下、台所脇のテーブルで、カムタとルディオは食事に取り掛かる。

 食べながら話す事は、今後ルディオがどうするか、だった。

「西のオマワリさんはワルモノじゃねぇといいんだけどな」

「そっちも疑った方が良いのかぁ?」

「あんま知らねぇんだ。西と東でパトロール別だから、そんなに喋った事ねぇし」

「生物兵器が居なくなったら、勘違いで牢に入れられる事はないんじゃないかぁ?」

「そうだといいな、ソレ。でも、ちゃんとあの死骸、見つけて持って帰ってくれるかな?」

「目立つところに置いておくわけにも行かないからなぁ」

「持ってって貰えるように、シバの女王様にお祈りだ」

「そういえば、それだ」

 ルディオは時折聞く言葉に反応して、口元に運ぶ途中のフォークを止めた。

「カムタも、テシーも、「シバの女王に感謝する」とか言う。誰なんだぁ?この国の女王様なのかぁ?」

「あ、そっか。アンチャン外国のひとだし、記憶があっても判んねぇかもな」

 少年が巨漢に語ったのは、いわゆる民間伝承にまつわる話だった。

 この近辺の島々には「シバの女王」なる存在が、海底に建つ象牙色の宮殿で、不死の戦士達に守られて暮らしているという

伝承がある。

 天候を穏やかに保ち、天地と海の恵みをもたらし、加護と幸運を与えてくれている女神…。それが、カムタ達が日々の平穏

を感謝する存在だった。

 とはいえ、その伝承が知られている範囲は限定的で、同じ諸島内でも首都方向では知らない者が多い。

 その伝承は様々な種類がある。

 嵐に呑まれたふたりの漁師が白い宮殿に辿り着き、女王にいろいろ質問され、善人だと判断された方は宝を土産に島へ帰さ

れ、悪人だと判断された方は鮫の餌にされたというような、教訓めいたもの。

 親孝行な若者が、病の母を救おうと海へ漕ぎ出し、様々な危機と困難を乗り越えて女王に救いを求めにゆく、冒険譚のよう

なもの。

「オラの名前、その話の若い男の名前からつけたんだってさ!」

 カムタは少し得意げに、胸を張って太鼓腹を突き出した。

 それは、宗教や信仰と言うほど堅くはない物。いくつもの昔話に登場する馴染み深い存在への、親しみを込めた崇拝…とで

も言うべきスタンスだった。

 子供への教訓だったり、ひとが守るべき道徳だったり、そういった物が散りばめられた伝承群において、物語の中心にある

その女王は、悪人に厳しくも善人に優しく、人々が食い、飲み、歌い、踊り、賑やかに健やかに生きる事を望む、審判と友愛

を司る女神のような語られ方をしている。

「おれも、助かった感謝をしなきゃいけないんだったなぁ」

 ルディオがそう漏らすと、「そうだぞ」とカムタはしかつめらしい顔を作った。

「アンチャン溺れても生きてたんだから、ちゃんとお礼言わねぇと。シバの女王様はお優しいけどお厳しいひとだ。海に向かっ

てお礼だぞ?」

「シバの女王様、ありがとう」

 素直に従って海の方に顔を向け、お礼を言ったルディオは、

「…もっと大きな声で言わないと、ダメかなぁ?」

 カムタを振り返り、かなり本気で訊いた。

「あっはっはっ!ダイジョブだアンチャン!シバの女王様はひとの心が読めるから、気持ちがホントなら届いてるって!」

 少年はカラカラと気持ちよく笑うと、「で、西のオマワリさん頼っていいか判んねぇから、他の手だけど…」と話を戻す。

「キオクソーシツって、怪我とか病気と同じだよな?頭とか見るオイシャで治して貰えるはずだよな?」

「たぶん」

「ニジュージンカクみてぇなのも、頭のオイシャなのかな?」

「たぶん」

 少年が言う「頭」とは、精神なども含むのだろうと察して、ルディオは繰り返し頷いた。

「センモンじゃねぇとダメだよな?島にもオイシャは居んだけど、センセーは「ゲカイ」って言ってた。頭とは別なんだろ?

きっと」

「別だなぁ」

 頷いたルディオは、「でも」と続ける。

「専門でなくとも、素人じゃあない。もしかしたら詳しいかもしれないなぁ」

「そうなのか?」

 カムタは真ん丸くした目をパチパチしばたかせ、「そっか、オラ達よりは詳しいよな絶対…」と腕を組んで、ウンウン頷く。

「どうすっかなアンチャン?真っ暗になる前にセンセーのトコ行ってみっか?もしかすっとスパッと思い出せる方法とか教え

て貰えっかも?」

「う~ん…」

 ルディオは考える。警官を頼ってあんな目に遭った今だから慎重になるのだが、その医師は本当に信用できるのだろうか?

と、気になった。

 しかし疑心暗鬼に囚われるのもよろしくない。身動きが取れなくなっては進められる物も進められなくなる。

「あ。オマワリさんか…」

 カムタは巨漢が考えている事に思い当たり、それでも「ダイジョブだ」と言い切った。

「センセーはいいひとだ。余所の方が儲かるのに、わざわざこの島に住みついたオイシャだしな。それに…」

 カムタは何か言いかけてから、慌てて口を手で塞いだ。

「とにかく!センセーはダイジョブだ!ヒミツは守ってくれるぞ」





「やあやあ、わざわざお出迎えとは恐れ入るよフェスター」

 痩せ細った眼鏡の男が、芝居がかった様子で枯れ枝のような両手を広げ、船のタラップを降りる。周囲を固める男達が屈強

な事も手伝い、その病的な細さは際立って見えた。

 油で光る細い髪は綺麗に切りそろえられたオカッパ。若いと言えない顔立ちに幼い髪型が乗っているその風貌は、奇妙を通

り越して不気味に思えるほどチグハグだった。

 痩躯で細面。頬はこけ、目は落ちくぼんでいるのに生気を湛えてギラギラ光る。

 異様な外見のその男を、不機嫌さを隠そうともしない鷲鼻の男は、船着き場の桟橋の上に仁王立ちして睨みつけていた。

 フェスターの左右に控える護衛の男達も、硬い表情の下に嫌悪を閉じ込める努力をしている。

「わざわざこんな島までご苦労な事だ。恐れ入るよショーン」

 嫌味を込めて応じたフェスターに、ショーンと呼ばれた男は唇が薄い口元を緩めて見せた。骸骨が笑った。そんな印象の笑

顔である。

「手助けを必要としている友人のためなら、何でもない事だとも」

「必要無い、と言ったはずだがな」

「まあまあ、そう言わず手伝わせておくれ」

 ショーンは、厚ぼったい鼈甲縁の眼鏡の奥で、悪意に光る目を細めた。

 手伝い。友人。そんな言葉はまやかしである。

 フェスター・ベルクソンとショーン・ディアスは、同じくONC開設当時のメンバーの血を引く家柄であり、同期で同い年

の幹部候補。幼少時からちょくちょく顔を合わせる機会があったが、その頃から既に仲が悪かった。

 ショーンがタラップを降り、距離が狭まると、フェスターは露骨に顔を顰め、ハンカチで鷲鼻と口元を押さえる。

 ショーンは香りが違う整髪料、ボディミスト、コロンを大量に使用しており、混沌とした臭気を撒き散らしている。それぞ

れが一流品であるだけに、それらが混然一体となって台無しになっているこの臭気は、安物の香水よりもなお性質が悪い。

「しかし、本当のド田舎だなここは。もはやひとが住むような場所じゃない。辺境中の辺境…」

 ショーンは波しぶきに濡れた桟橋の表面に足を取られ、言葉を切る。

 よろめいて傍らのボディガードに支えられた古馴染みを、フェスターが鼻で嗤った次の瞬間…。

「ボクに恥をかかせるな馬鹿者!」

 支えに入ったボディーガードの脛を、金切声をあげたショーンが蹴りつけた。

 さらに、呻いて屈んだ男の頬に、ショーンが履いた革靴の先が突き刺さる。

「何故濡れている場所を拭かない!?ボクが歩くと判っているのに、見えている危険を放置するのか!?怠慢だぞそれは!」

 革靴の爪先には鉄板が仕込まれており、非力なショーンが蹴っても、ひとの体を容易に痛めつける。ヒステリックに喚きな

がら部下を蹴りつけるショーンは、

「目立つ真似をするな、ショーン」

 フェスターの声で止まり、キッと振り向く。

 肩で息をするショーンに、「脱いだらどうだ?この島でその靴は暑くて堪らないだろう」とフェスターは肩を竦めて告げた。

「部下の教育に必要なんでね。ボクはこう見えて教育熱心なんだ」

 応じたショーンは、「さて、それじゃあ手伝おう」と振り返る。

 彼らに続いて降りて来るのは、フェスターが手配した増援と、沈没した船の乗組員達。しかし…。

(どういう事だ?)

 フェスターは顔には出さず、増援の顔ぶれを子細に確認する。上に立つ者として、構成員の顔はなるべく覚えるようにして

いる彼は、集まった顔ぶれに疑問を感じた。

 復帰した船員は問題ない。しかし、フェスターが手配した増援達の内訳がおかしい。

(ショーンの部下か、部署的に関わりがある面子ばかりだな…。私に貸しを作ろうと捻じ込んだのか?)

 フェスターが疑念を抱いている事には気付かず、ショーンは「増援と船員を半分借りるよフェスター。こういう時は物量だ」

と顎をしゃくった。

「…好きにしろ。ただし、目立つ真似は控えろ」

 フェスターは拒否しない。それは、此処まで来て素直に引き下がる相手ではないと理解しているからである。

 むしろ、説得は無駄な労力。ゴネればヒステリーを起こしたショーンが部下に当たり散らす。言葉を弄しても事態は良くな

らない。

 復帰した船員の半分は、ショーン直々に選出されると、恨めし気に残りの者達を見ながら、骸骨のような男に従って島の土

を踏んだ。

(まるで、疫病神に連れて行かれる者達のようだ…)

 見送るフェスターは同情を胸に、ポケットに手を入れ、振動していた携帯端末を取り出した。

「私だ。朗報だろうなリスキー?」

『はい。二体目を確保しました。死体ですが』

「…っ!そうか、でかした!」

 フェスターの声に、通話の内容を悟った護衛二名が、安堵した様子で顔を見合わせる。

『ただし、発見した時には既に死んでいました。つまり…』

「三体目と殺し合いになったのか?…まさか全部活動していたとは…」

 ステルスホッパーは少数運用前提で調整が行われた兵器だったため、群れた場合の協調性についてはあまり重要視されてい

ない。マスターの支配下に無い状態では縄張り争いをする習性があったとしても不思議ではない。

 自分達のボスは流石に察しがいい、とリスキーは先を続けた。

『そう推察されます。メンバーの半分にそちらへ搬送させました。残り半分と私は引き続き探索を…』

「悪いがそうしてくれ。今、ショーンが島に入った所だ」

 リスキーはたっぷり五秒は沈黙した後…、

『最善を尽くします…』

 硬い声で応じた。

「念のため、今夜は私も船で待機する。もう夕暮れだ。アイツも部下に無茶はさせないだろうが…」

『そう願いたいですね』

 通話の終わり際に、『喜べ。馬鹿様がいらっしゃったぞ』と同僚に告げているリスキーの声を聞き、フェスターは頭痛を堪

えるように眉間を揉んだ。

「…いっそ、名誉の事故死でもしてくれんものかな、アイツ…」

 残った増援…ショーンの部下や関係者が居る事を重々承知の上で発したフェスターのぼやきに、共感する者は居ても、咎め

ようとする者は居なかった。





 島の東端付近には、切り立った断崖絶壁の岬がある。

 細く切り分けたピザのように、海側に向かって尖り、出っ張った形で、海に面した側は岩肌剥き出しの、ほぼ垂直の崖。

 陸側からはキツい上がり勾配の坂になったその崖の突端付近には、海を見下ろす家があった。

 二階建てのそれは、海側にウッドデッキを備えた、一見すると別荘にも見える外観だが、古い建材を再利用して建てられて

おり、壁板や柱などは遠目に見ても傷みが激しい。

 その、西日が影を落とすウッドデッキに置かれた椅子に、ひとりの男が腰掛けている。

 傍らに置いた古い型のCDプレーヤーからロックを流し、パイプを咥え、ハードカバーの本を広げているその男は、丸かった。

 潮風になぶられる被毛は鮮やかな黄色。そこに黒いストライプが走っている。

 薄手の短パンから覗く脚は、内側のクリーム色の部位がやたら広く見えるほど太い。

 曲に合わせてゆらり、ゆらり、と揺れる長い尻尾は、体と同様に縞模様。

 その男は虎だった。それも、丸々肥えた大柄な雄の虎である。

 曲に反応して小刻みに震えていた、黒い縁取りがある耳が、

「センセー!」

 聞き覚えのある声にピクリと反応した。

 緩慢にゆったりと首を巡らせた虎は、坂を昇ってくる少年と、その斜め後ろを歩く、上半身裸のセントバーナードに視線を

向ける。

(カムタ君か。…一緒に居るのは…、誰だ?見ない顔だが)

 目を凝らしながら首を傾げている丸い虎を、セントバーナードを振り返ったカムタが指差す。

「あのひとがオイシャのセンセーだぞアンチャン」

「…医者…」

 ルディオはいつも通りのぼんやりした目で、椅子から腰を浮かせようとして、しかし幅広い尻に椅子が肘かけでしがみつい

て来て、バツが悪そうに引き剥がしている虎男を眺める。

 アロハシャツに短パン、サンダルというくつろいだ格好。健康的とはとても言えない、でっぷりした体。

「………医者?」

 言葉から参照されて脳裏に浮かんだのは、理知的に眼鏡を光らせる痩躯の男性が白衣を纏った、ステレオタイプのドクター

スタイル。そのイメージとかけ離れた虎の姿に、軽く首を傾げたルディオは…。

(…?歌…?)

 崖を越して届いた磯風に乗るロックに、垂れ耳を動かした。

(この…曲は…)



 透明な壁の向こうで、銀色の腹を見せて魚の群れが向きを変える。

 一糸乱れぬ群れの動きを追った視界は、ゆっくりと左へ動き、テーブルセットに腰を据え、頬杖をついてガラスの向こうを

眺めている狼の後姿を中心に据えた。

 象牙のように白い床に灰色の影を落とす、ライトグレーの狼。顔をこちらに向けていないその顎が動いている。

 彼が小声で歌っているのはロックだった。ただし、高低差の激しくない、比較的緩やかな曲。

 立ち尽くしたまま耳を傾けたのは、ほんの短い時間。

「来たか。また早いな」

 待ち合わせの相手が来た事を察し、歌を中断した狼は、腰を上げて向き直る。

 背の高い、がっしりした逞しい体躯。鼻筋が通った、精悍な造りに物憂げな表情を乗せた顔立ち。足を肩幅に開き、すっと

背筋を伸ばした立ち姿は、ポーズを取らなくとも絵になった。

「真面目な事だ。…いや、真面目というのとも少し違うのか、君の場合は…」

 独り言なのだろう、狼は小声を口の中で転がす。

「…どうした?質問でもあるのか?…ああ、今の歌かね?」

 狼は軽く首を縮める。

「英国のバンドの歌だ。ひょっとして興味が?…無いか。君の場合はそうだろうな。しかし、グループ名程度は覚えておいて

損はないかもしれない」

 狼はコツコツと床を踏み、歩み寄る。

 その姿を中心に据えていた視界が少し動き、狼の後方…透明な壁に映り込んでいる狼の背と、向き合って立ち尽くす無表情

なセントバーナードにピントを合わせた。

「有名なバンドグループだ。名は…」

 思慮深げで表情に乏しい狼は、僅かに口の端を上げて微笑んだ。

 それはほんの少しだが、誇らしげな笑みにも見えた。



「プライマルアクター…」

 その呟きが自分の口から漏れた物だと、一瞬遅れて理解する。

 景色はいつの間にか、あの青と白の部屋から現実の物に戻っていた。

 二歩ほど先を行くカムタの肉付きの良い背中と、少年が向かう先の二階建ての家が見える。

 ほんの一瞬だったらしいと察したルディオは…。

(また、あの部屋…?)

 あの「狼が居る部屋」を垣間見たのは、二度目だった。

 ルディオという仮の名の元になった、中年から壮年と思しき男の「声」。あの部屋の狼の「声」は、それとは別物に思える。

 何より、何らかの景色を、誰かの顔を思い出せるのは、今のところあの部屋の物だけ…。

(あれは、誰なんだろうなぁ?あそこは、何処なんだろうなぁ?)

 最初は白昼夢かとも思ったのだが、二度目となるとそうも考え辛くなった。

 もしかしたら、鮮明なあの光景は過去への手掛かりになるかもしれない。

 ルディオはそう考えながら、カムタに従って医師の元へと登ってゆく。





「競走だ」

 島のほぼ中心に位置する場所で、ショーンは口を開いた。

 骸骨のような男の左右には、ボディーガードと、船員一名。さらにその周囲には、彼らを囲む形で円陣を組まされた男達の、

不安げにも見える戸惑いの顔。

「これから貴様らは、180度反転し、全力で海まで走り、ここへ戻って来る。その往復の競争だ。ビリだった者は処罰する

から必死に走れ」

 男達はざわついた。ここは円形の島ではない。波打った三日月のような形の、東西に長い島である。ここから放射状に走っ

ても距離は均等ではない。着順を争う平等な条件は整っていないのである。

「ああ、ズルは許さないぞ?到達点に自分の名前を書いてくるように。後で確認して不正があったら処罰する。ただ真っ直ぐ

に走れ。迂回は民家などを避ける場合以外は認めない。住民に見咎められたら、ボクに迷惑をかけないように、言いくるめる

なり黙らせるなりしろ。以上だ。不満がある者は名乗り出ろ。処罰する」

 当然全員に不満はあるが、名乗り出たりはしない。この骸骨のような男が本気で、躊躇いなく、罰を与える事を知っている。

 ショーンのズボンにコーヒーを零してしまったメイドは、耳と鼻を削ぎ落とされた。

 凍った道で転んだショーンの傍に居たボディーガードは、転倒しないよう支えられなかったという理由で、全裸でマイナス

40℃の冷凍庫に一晩閉じ込められた。

 他にも、部下がミスをする度に手足の指を一本ずつ切り落とすなど、その蛮行の数々は枚挙に暇がない。

 立場を利用した恐怖統治。それが、ショーンの遣り方だった。

「よーいドン!」

 甲高い声で前触れもなく号令が下され、男達は足元まで暗くなった夕暮れの下、慌てて走り出す。

 男達は判っていた。自分達が何をさせられているのか。ショーンが自分達をどんな物として扱っているのか。ショーンは「

走って行って戻って来い」とだけ命じ、目当ての物を探せとも、見つけて報告しろとも言っていないのだから。

 夜間に全力疾走。そんな真似をすれば、傍に危険生物が居ればほぼ反応する。

 放射状に走る男達は、いわばソナーで言う音波。ただし、結果を知るのはその真逆、という手法。

 跳ね返ってきた音波で対象物を把握するのがソナーだが、ショーンは「誰かが戻って来ない」事で、その方向に居ると察知

できる。

 これを、誰かが戻って来なくなるまで、戻って来なかったらその方向に絞り込んで、何度でも繰り返すつもりだった。

「マンティスはどうなっている?」

 ショーンの問いに、傍らのボディーガードが応じる。

「おおせの通り、船着き場とは逆方向の砂浜から、日没後に搬入できるよう待機しております」

「結構。くれぐれも、事が済むまでフェスターの方には見つからないように。アイツは五月蝿いからな」

「はっ。重ねて注意を促します」

「フェスターの馬鹿は適材適所という言葉を知らないらしい。男共は撒き餌に使うべきなのだ。そして、毒は毒をもって制す

るに限る…」

 ショーンの目が暗くギラついた。

「だいたいこんな田舎の島、ONCが本気になれば地図からも消せる。住民にコソコソしながら事を運ぶなんて馬鹿馬鹿しい。

貴様もそう思うだろう?」

「ショーン様の采配に、間違いはございません」

 姿勢を正して返事をするボディーガードは、いわばフェスターにとってのリスキー…、幹部候補に片腕として充てられる存

在である。しかし、その関係性はフェスターとリスキーの物とは大違いだった。

 ショーンに仕えるこの男は七人目。五年の間に六名が「処罰」されている。彼にとっては片腕ではなく、他の部下同様に使

い捨てだった。

「さて、報せが戻る…、いや「戻らない」のをゆったり待つとしよう。で…」

 ショーンはこの場に残したもうひとりの男に目を向けた。

 その男の名はパーター。ステルスホッパー運搬中に沈没した輸送船の、乗組員のひとりである。

「よくやってくれたな。報酬は上乗せしてやろう。これからもボクの為に働け」

「あ、有り難うございます…!」

 ボディーガードが怪訝そうな顔をしてパーターを見ると、ショーンはヒュッヒュッと隙間風のような音を立てて笑った。

「そういえば貴様にも教えていなかったな。あの輸送船が沈んでくれたのは、コイツの働きのおかげだ」

 すぐには意味が判らなかったボディーガードに、ショーンは「貴様は馬鹿だなぁ、察しが悪い」と笑いながら続ける。

「乗り込む事が決まったコイツを買収して、船を爆破させたんだ。ヒュッヒュッ!フェスターの慌てた顔は、さぞ見物だった

だろう!」

 上機嫌に声を上ずらせるショーンに、パーターはヘラヘラと卑屈な笑みを浮かべて何度も頷いていた。

 ショーンへの恐怖。そして、提示された金額と今後の待遇の魅力に負け、パーターは仲間を売った。

「アイツの管轄下で起きて、処理に手間取っていた事故を、ボクがあっさり処理する…。これで、幹部に相応しいのはどっち

か、上の耄碌爺共にも理解できるだろう…!」

 ボディーガードは絶句し、背筋を冷や汗で濡らした。

 ショーンがフェスターを嫌っている事は知っている。同じ幹部候補であり、ライバル視している事も。しかし、ショーンは

業績でフェスターと張り合っていたが、成果では及ばない。辣腕を恐れられながらも一定の信頼を得ているフェスターに対し、

ショーンは人望や仕事上のパイプの面でも及ばない。

 個人的な本音を正直に言えば、フェスターは幹部会の席につくだけの器だと感じている。同時に、自分の上司は幹部に相応

しくないとも思っている。

 しかしまさか、フェスター憎さに、幹部の席欲しさに、ここまでするとは思ってもいなかった。

 今回の事件での損失や、技術流出の危険性を考えれば、ショーンの行いは、ONCそのものを危険に晒す、重大な裏切り行

為と言える。

 そしてボディーガードはふと疑問に思った。

 ショーンは何故、今その話を自分にしたのか?

 直後、プシュンと音がした。

 ボディーガードはよろめき、一歩後退し、船員だった男の手を見る。

 そこに、握られた小型の拳銃を認め、それから自分の腹を見たボディーガードは、トプッ、トプッ、と血を吹く穴と、熱い

傷みの原因に気が付いた。

「ボクが滑るのを見越せないで桟橋を拭いておかなかった貴様は、顔も見飽きたし、もう飽きたからいらない。後釜は決まっ

ているから安心して死ね」

 ショーンはヒュッヒュッと笑い、パーターはヘラヘラと笑う。

「な、何だと…!?」

 傷を押さえたボディーガードは、激痛を堪えて仁王立ちになり、自分も銃を抜こうとして、気付いた。

(…手が…、震えて…?これは…!)

「トキシンバレットだよ。ボクはこう見えて優しいんだ。どうだ?もう痛みも感じなくなって来ただろう?」

 ショーンの声を聞きながら、ボディーガードは膝から崩れ落ち、前のめりに倒れ込んだ。

 その体が、臓腑が、神経が、脳が、動きを止めてゆく。

 トキシン。対生物兵器鎮圧用の毒素の事を、ONCはそう呼んでいる。

 その毒素は、造り出す器官を持つ生物兵器から抽出され、銃器で射出できるように精製されてトキシンバレットとなる。

 その効果としては、まず痺れで体の自由が奪われ、次いで臓器類が麻痺し、呼吸ができなくなり死に至る。端的に言えば神

経毒を主とする混合毒素であり、獣や虫の区別なく有効なこのトキシンバレットは、数こそそう造れないが、1ミリグラムで

標準的な成人男性の致死量となり、弾頭に封入する2ミリグラムでほぼ即死させられる。

 最大の利点は、封入容器から出た十数秒後には自然分解して生理食塩水となり、痕跡を残さない事。何も知らずに死体を診

た検死医が挙げる死因は、まず銃撃によるショック死となる。

 完全に動かなくなったボディーガードの頭を、ゴツンとつま先で蹴ったショーンは、パーターに向き直って言った。

「これで貴様がコイツの後任だ。役に立てよ?」

「はっ!」

 背筋を伸ばして応じたパーターは、しかし、ショーンに黙っている事があった。

(知られたらきっと、コイツみたいに殺される…!)

 輸送船は結果的に沈没し、ショーンの目論見通りに事件は起きた。しかしそれは…。

(俺が起爆したんじゃないって知られたら…!役立たずだと思われたら…!)





 冷えたレモン水が透明なグラスに注がれ、水差しがトポトポと、氷がカラカラと、涼しく歌う。

 でっぷり肥った虎はグラスを乗せたトレイを手に、キッチン兼リビングの中央にあるテーブルに向き直った。

 そこには、褐色の肌の真ん丸い少年と、その倍はあるだろう巨大なセントバーナードの姿。

「お代わりだ。…さて、続きを聞かせてくれ」

 肥った虎は顔つきが厳めしく、目尻が吊り上った双眸の形こそ大型肉食獣のソレだが、眼差しは理知的で顔は丸く、危険と

いうよりは頼もしいといった印象。

 ルディオはその外見と顔立ちから、最初は三十代後半から四十代半ばと考えたのだが、実際は二十代前半で、声は野太いが

まだ若々しい。

 虎の名は楊吉丹(ヤン・チータン)。二年前にこの島の住民となった医師である。

 有床診療所兼自宅である建物は、外観はボロでも内部は違う。熱でだめになる薬などを保管する必要もあるので、この島で

は珍しくエアコンや空気清浄機が完備されており、引かれた電気の他に太陽光発電でも電力を賄っている。

 カムタとルディオがついている楕円形のテーブルの上には、銀の包装紙に覆われたスティック状のチョコ菓子が、深い皿の

上でくるりと放射状に並んでいた。

 ヤンは個人的に好む他、診療所を訪れた子供などをあやす為に、様々な菓子を取り寄せて常備している。余所の国の菓子は

滅多に口にできないので、子供を泣き止ませるには最適の小道具だった。

「んっとな、それでオマワリさんが死んでたはずのトコで…」

 遠慮なくチョコスティックをバクバク口にしながら、カムタは中断していた話を再開した。

 ルディオは相槌を打つだけでほとんど黙っているが、、時折、部屋に持ち込まれたCDプレーヤーへ視線を向けていた。

 カムタは、漂着していたルディオを見つけ、介抱した所から、今こうして診療所に来るまでの出来事を、包み隠さず、肥え

た虎に語った。

 警官にはめられてから、一日しか経っていない。にもかかわらず正直に打ち明けるカムタを、ルディオは止めない。

 カムタは医師を信じている。カムタ以外に信じる物がないルディオは、その判断に従うと決めた。もしも医師まで自分達を

騙そうとしたなら、その時は自分がカムタを守ればいい。そう考えている。待っていても事態は好転しない、動く必要がある

以上、ある程度の危険は覚悟しなければいけない。

 長い長い話の間に陽は完全に落ちて、レモン水は五回お代わりされて、チョコスティックは無くなって…。

「で、センセーならもしかしたらアンチャンのキオクソーシツ治せっかなーって思ったんだ」

 カムタの話がやっと終わると、ヤンは太い腕を組み…、

「悪いが、たぶん僕には治せない」

 率直に結論を告げた。

「詳しく説明するか?僕は専門ではない、という事を念頭に置いて聞いて貰う、言い訳めいた少し難しい話になるが…」

「じゃあいいよ。ダメなら仕方ねぇもん」

 カムタは不満も言わずにあっさりそう応じ、ルディオも異議を唱えない。

「それと。残念だが、他の医者を紹介する事もできない」

 ヤンはそう言って、ルディオに目を向けた。

「僕も詳しい訳ではないが…。ルディオさん、貴方はたぶん、まっとうなヒトじゃあなかったんだと思う。二つの意味でね」

 肥えた虎が鋭く細めた目には、警戒と思案の光が宿っていた。

「ブーステッドマン…、という者達が居る。体に人工的な強化が施された者達の事だ。カムタ君の説明から推測すると、貴方

も彼らと同じように、改造に類する何らかの処置を受けていると見てほぼ間違いない」

「……………え?」

 カムタが目を真ん丸にして声を漏らしたが、ヤンはさらに話を続ける。

「加えて、そういった施術を受ける環境に居た、という事になる。何処かの国家の特殊な機関に居たのか、非合法組織に居た

のかはともかくとして、少なくとも一般人ではないだろう。繰り返すが、僕はその手の事には詳しくない。だからどういった

施術なのか、どんな団体がおこなったのか、といった事は皆目見当もつかないが…」

「待ってセンセー!」

 患者に病状の説明をするように、淡々とルディオへの話を続けようとする医師の言葉を遮ったのは、カムタだった。

「センセー、もしかして詳しいのか?」

 少年は、医師が述べた中身を少しだけしか理解できなかった。

 しかし、内容そのものよりも重要な事については、しっかり気付いた。

 すなわち、ヤンがこの「普通ではない」事について多少なりとも知識を持っているという、最も大事な点について…。

「何度も言うが詳しくはない。聞き齧った程度の知識だ。が、僕も同じ穴の貉だったからな。そういった話をいろいろと聞い

た。怪談染みた物から眉唾物まで千差万別…、耳にした物がどの程度の割合で真実なのか、まるで判らないがね」

 ヤンは顔を顰めて頭を掻く。

「ま、待ってな?ちょっと待ってなセンセー?センセーが居たおっかねー船で聞いた話なのか!?アンチャンのキオクソーシ

ツとかも大事だけど、そっちの話も大事だ!知ってんならアンチャンに説明…」

 立ち上がった少年は、いてもたってもいられない様子で、しばしその場で小刻みに足踏みした後、「おおっふ!」と変な声

を漏らして身震いし、

「ちょっと便所!」

 レモン水が効いたのか、ドタドタと慌ただしくトイレに向かった。それを見送ったルディオは、

「何者だ?とは訊かないのか、ルディオさん?」

 ヤンにそう問われ、虎の丸顔に目を向ける。

「警戒しているか?僕が貴方達に何か悪さをしたりはしないか、と…。例えば、駐在のように」

 ルディオはこれに対して、眉一つ動かさずに応じる。

「カムタがアンタを信じると言った。アンタは医者で、カムタに信用されてる。それだけ判ってれば、とりあえずいいかなぁ、

と思った」

 これを聞いたヤンは軽く肩を竦める。その顔に浮かんだ、降参した、恐れ入った、とでも言いたげな苦笑いは、何故だか、

この男は信じられるのではないかと、ルディオに思わせた。

「…カムタ君は、僕を信用した。そして貴方を連れてきた。…正直、それが少し嬉しかった…」

 ヤンはそう前置きして、「僕はカムタ君を裏切れない。絶対にだ」と、少し悲しげに目を細める。

 その声音と眼差し、表情には、深い後悔が滲んでいた。

「カムタ君のお父さんの事は、聞いているか?」

「海で行方不明になった、と聞いたなぁ」

 それぐらいしか聞いていないので、詳しくは知らない、応じたルディオは、

「…彼のお父さんは、僕のせいで死んだような物だ…」

 視線を伏せたヤンにそう告げられ、意外そうに少し目を大きくした。

「僕はここへ来る前まで、大きな声で言えないような、犯罪行為を生業としている組織に居た。…非合法組織の、子飼いの医

師だったのさ…」