Doctor

 その日、ハリケーンが猛威を振るう沖を、大型船舶が航行していた。

 正気の沙汰ではない危険な航行だったが、そうまでして海を渡る理由が、その船にはあった。

 それもそのはず。船舶の所有者は、まっとうな企業ではない。人身売買を営む組織。そして船の積み荷は、金で売り買いさ

れる人々。

 ヤンは、その船に船医として乗船していた。

 酷い揺れに耐えかねて、すっかり船酔いしてしまったヤンは嘔吐し、船室の洗面台で口を漱いでいた。

(航行していい天候なのか?これは…)

 鏡に映った痩せ虎の顔は、船酔いのせいもあって暗く、病人のようだった。

 昔はもっと筋肉質だったのだが、仕事をするようになってからは痩せ細ってしまった。これでは兄と会っても自分とは判ら

ないだろうなと、ヤンは暗く笑う。

 小さな丸い窓は絶え間なく雨に叩かれ、時折稲光が雲の底を照らす。

 ヤンは背中を丸めてみぞおちをさすりながらベッドに歩み寄って腰掛け、ドアを見遣った。

 鍵は、外からかけられている。

 自由が無いのは一緒だが、個室が与えられているだけ積荷達よりは遥かにマシ。今頃、居住環境を考慮されていない船倉の

中がどんな事になっているか、想像もしたくなかった。

(…最低限の待遇は、たぶん…。船長だって人数が減ったら困るんだ。売られるまでは死なないように扱うはず…)

 船は今、南アメリカ大陸を目指している。人身売買のために。

 船の積荷は貧困層のアジア人。殆どは若い少年少女だった。やや遠回りのルートで太平洋を横断しているのは、勿論、非合

法の売買であるが故。

 売り物用の食料は必要最小限。衛生管理もずさんな物。そんな状況だからこそ船は急いでいたが、しかしクルーは判断を完

全に誤っていた。

 この近辺を縄張りとしている、諸島の熟練操舵者や船長でも航行は避ける規模。そんな大型ハリケーンだったのである。

 不気味な振動を感じたのは、灯りを消し、寝ようにも眠れない揺れとベッドの上で二時間ほど格闘した後の事だった。

 最初は機関の不調だろうかと思った。船自体が旧型の使い古しのためあちこちガタがきており、これまでも時折そういう事

があったので。

 ただ事ではないと感じたのは、身を起こしてベッドに座ったヤンの頭上で、メシメシと天井が軋んだ時だった。

(傾いている…?)

 ベッドの足の方が低い。そう感じて床に降りたヤンは、揺れの中でも明らかに、船尾側が低くなっている事を確信した。

 その直後の事だった。外から鍵をかけられたドアが解放されたのは。

「ドク!船が浸水してる、逃げる準備をしろ!」

「浸水だって!?」

 驚いて聞き返したヤンの目の前で、呼びに来た男は通路を走った海水の流れに足を掬われ、尻もちをついた。

「くそ!もうこっちまで入って来やがった!」

 男は壁に手をついて逃げてゆき、ヤンは部屋に侵入してきた海水を蹴立てて後を追った。

 だが、救命ボートがある甲板に上がるその直前に、船尾から通路を昇ってきた流れに捕まり、めちゃくちゃに揉まれながら

吐き出され、甲板から追い落とされ、海面に落下した。

 波に揺すられ、船尾から高波の浸水を許し、壁が破れた運搬船は、海水に貫通されてからは僅かも保たなかった。

 それから十数分の内に、運搬船は完全に沈んでしまった。多くの乗員を抱えたまま。

 救難信号など出していなかった。

 救助など期待できなかった。

 運よく船から流れ出た他の乗員や、商品の人々と共に、ヤンも高波に揉まれ、大量に飲まされた海水にゲェゲェえづき、打

ち付ける雨粒の下、海の藻屑と消える事を覚悟した。

 次第に、他の者は流されたり、力尽きて沈んだりして、ヤンの周囲には誰も居なくなった。

 どれほど経っただろうか。何度も浮き、繰り返し沈み、空も海も判らなくなるほど弄ばれ、海水の辛さに咳き込みながら、

ひとりだけになったヤンは泣いていた。

 夢の残骸と僅かな希望を胸に、こんな世界にしがみついてきた。なのに、自分は何も果たせず、何も為せず、誰にも知られ

ずここで死ぬのかと考えたら、何と空虚な人生だったのだろうかと哀しくなった。

(お父さん…、お母さん…、兄貴…)

 それは走馬灯のような物だったのかもしれない。

 故郷の景色や、幼少の頃の出来事を思い出して、死への恐怖よりも懐かしさで涙するヤンは、しかし…。

「おーい!そこのアンチャン!まだ生きてっか!?」

 轟く雷鳴と激しい雨音、そして波の唸りを貫いて届く、力強い声によって、意識を現実に引き戻された。

 稲光が走った空を背に、高波を甲板に食らいながら激しく揺れている漁船が、そして…、

「おっし!生きてんな!コイツに掴まれ!」

 その上に立つ、仁王像のように逞しい褐色の大男の姿が、ヤンの目に飛び込んだ。

 後ろで雑に縛った蓬髪を嵐に乱し、薄いシャツがすっかり濡れそぼって、筋肉質な上体に貼りついている。

 その逞しい大男は、ロープを括りつけた救命浮き輪を放り、しがみついたヤンを引き寄せ、軽々と船の上に引っ張り上げた。

「運が良かったなアンチャン!シバの女王様に感謝しねぇとな!」

 その大男は、荒れ狂う海の上でカラカラ笑い、船べりの手すりにしがみついてゲェゲェ吐いている痩せ細った虎の背を叩き、

ごしごしとさする。

 見れば船の上には、ヤンの他にも何人か、救命ジャケットを着せられた男達が乗っていた。

「くそっ!オラの船だけじゃもう乗せらんねぇ!一旦戻るか…」

 逞しい男は舵輪を取り、船を回頭させる。

「揺れっから落ちねぇように気ぃつけな!裸で落ちたら命はねぇぞ!浮くモンはゼッテェ手放すなよ!」

 嵐を打ち破る銅鑼声で叫び、逞しい大男は島を目指そうとした。

 しかし、回頭し終えた直後に、衝撃が船体を揺すった。

「あん!?」

 振り返った大男は、船尾にぶつかった金属の塊を認めた。

 それは、沈んだ輸送船の一部。海中で折れた舳がそこだけ浮上し、漁船の尻を下から突き上げ、スクリューを破壊していた。

「…ったく…、運がねぇなぁ…」

 大男は困り顔になって、蓬髪をワシワシ掻いた。それからポンポンと舵輪を叩き、慈しむような笑みを浮かべる。長らく共

に海をかけてきた船だからこそ、見なくても異常は判る。船の底が破れ、海水が浸入し始めている事を、男は悟っていた。

「世話んなったな、相棒…」

 呟くや否や、大男は声を張り上げた。

「船が沈むぞ!全員海に飛び込んで、泳いで離れろ!モタモタしてっと巻き込まれて海の底だぞ!」

 その銅鑼声が響いた直後に、船は船尾から沈み始めた。

 大男は躊躇う皆を叱咤したり、恐怖で動けない者を海に放り込んだり、ライフジャケットが足りない者に浮き輪を抱かせた

りして、最後に…。

「…アンタは…」

 手すりにしがみついたままの、痩せた虎に目を向けた。

 ヤンも大男も、ライフジャケットを着ていない。

 大男はヤンがしがみついている手すりを見遣る。そこには、海から皆を引き上げるのに使っていた、ロープの先に括り付け

た浮き輪。

 普通ならば立ち上がる事もできないほど激しく揺れる、傾きも大きくなった甲板の上で、大男はしばし困り顔をしていた。

困り顔とは言っても、それはこの状況に似つかわしくない、出かけた先で忘れ物に気付いたような、どこか暢気に見える表情

である。

「…仕方ねぇな!うん!」

 やがて大男は大きく頷いて、ヤンがしがみついている手すりからロープを解いて、浮き輪をヤンに押し付けた。

「コイツ抱いてろ。ねぇよりマシだ」

 言うが早いか、大男はヤンの背にロープを回し、浮き輪を胸に括り付け始める。それが最後の一個だと悟ったヤンは、作業

している大男の顔をまじまじと見つめた。

「な、何を…!?」

「アンタ家族は?生まれは何処だ?」

 正気を疑うヤンに、大男はロープをしっかり結びながら、のんびりした口調で訊ねた。

「家族は…、居ない…。故郷は…中国だった…」

「そっか。オラにはなぁ、倅が居んだ」

 揺れる、しかも沈みゆく船の上での事。船上作業に慣れている大男でも、ロープを結ぶのに難儀する。

「お互い無事に生き残れたらそんでいいけどな。もしオラがダメで、そんでアンタが生き延びれたら、倅に会って伝えてくれ

ねぇか。「帰れなくてゴメンって言ってた」ってよ」

「何を言ってるんだ貴方は!?」

 ヤンは大声を上げたが、大男は「聞こえなかったか?」と眉間に皺を寄せて言った。

「「帰れなくてゴメンって、お前の父ちゃんが言ってた」。もしもの時は倅にそう伝えてくれって頼んでんだよ」

「そうじゃあない!そうじゃないだろう!?家族の無い僕より、息子が居る貴方が生き残れた方が良いだろう!?」

「そりゃあどうだろなぁ。決まった事でもねぇんじゃねぇか?」

 大男は太い笑みを浮かべた。

 ヤンは自分よりも若いし、未来がある。

 自分には息子もいるが、しかし独りでも生きて行ける逞しい子供だ。

 なにより、救命具無しで放り出されたらヤンは確実に死ぬ。

 しかし自分はこの虎よりも泳ぎが上手い。救命具無しでもある程度は波と闘える。

 上手く行けばふたりとも生き残れる。

 大男はそんな事を断片的に感じながら、熟考せずに思考の段階を飛ばし、直感的にその結論を導き出していた。それは、一

瞬での判断を迫られる事が多い、日々の生活で鍛えられた思考の瞬発力。しかし、ただの動物的な反射とは違う。大男の「か

くありたい」と望む生き方が、導き出される結論に影響する。
故にその結論は、自分を生き永らえさせる事を優先するとは限

らない。

「おし!いいぞアンチャン!簡単にゃ解けねぇと思うけど、しっかり抱いとけよ!」

「ま、待って!考え直せ!見ず知らずの僕なんかより、息子の方が大事だろう!?」

 腕を掴んで立たせる大男に、ヤンは懇願するように声を発した。が…、

「そりゃあ大事だ。でもな、アンチャンだって大事じゃねぇ訳じゃあねぇし、オラにも大事なモンがある」

 大男は言った。「命の生き方だ」と。

「体が死ぬのはしかたねぇ。でも、魂が死ぬような生き方はしたかねぇ」

 親から貰った物だから、自分の命を生きる。

 他の命を獲っているから、救える命は生かす。

 それがこの大男なりの、「命を生きる」という事。

「な、名前…!名前は!?」

 尋ねる虎に、

「倅は「カムタ」ってんだ!子豚みてぇに真ん丸くて元気なヤツだから、会ったらすぐ判るさ!」

 大男はニカッと笑ってそう応じた。

 違う、貴方の名前を…。

 そう言おうとヤンが口を開いた途端、船の傾きが一気に大きくなった。

「くそっ!もう保たねぇ!」

 最終的には舳を上に向け、垂直になって沈むのだろう。大男はヤンの胴に回して縛ったロープを掴み、渾身の力で海へ投げ

落とす。

 着水した虎は、しかし括り付けられた浮き輪に胸を引っ張られて、荒れる海の上でも海面に顔を出せた。

 見上げた船上に大男を認めたヤンは…。

「危ない!」

 船の傾きは45度近くにもなり、流石の大男も甲板に踏ん張れなくなった。

 大男は足を滑らせて傾斜を転げ、操舵室の前面に激突し、雷鳴に重ねて轟音を上げる。

「………!」

 名を呼ぼうとして、できなかった。

 名前は、教えて貰えなかった。

 踊り狂う波に揉まれながら遠ざかるヤンが見ている前で、漁船はまるで墓碑のように屹立し、静かに沈んでゆく。

 大男の姿は、高い波の向こうに消えて、それきり二度と目にする事はできなかった。



 ハリケーンが過ぎて、四日目の朝。

 褐色の肌がパツパツに張った、肉付きの良い男の子が、島の岬の一つに立って、海を見つめていた。

 捜索隊が、漁船が沈んでいた父の漁船を見つけてから三日。

 カムタは見晴らしがいい崖の上へ毎日通い、逞しい父が泳いで帰って来るのではないかと、姿を探していた。

 前日までは何も見つからなかった。しかしこの日の朝は…。

「…あ…」

 カムタは口を開け、次いで目を凝らす。

 水平線に重なって、小さく、しかし確かに、点が見えた。

「…ひと…?ひとだ!」

 跳び上がったカムタは斜面を駆け降り、テシーの父や島の大人達が捜索に出る準備をしているはずの船着き場へ急いだ。



「…島…」

 意識が朦朧としたまま、ヤンは朝日に照らされた美しい島に向かって腕を伸ばし、手を重ねる。胸に括り付けられた浮き輪

に支えられ、仰向けにプカプカ浮きながら。

 助かった、と思うより先に、あそこにはあの大男の息子が居るだろうかと、ぼんやり考えた。

「……い!」

 声が聞こえたような気がした。

「………ーい!」

 まだ若い、というよりも幼さが残る声だと感じた。

「おーい!」

 ヤンは意識をはっきりさせた。

 幻聴ではない。船のエンジン音も聞こえる。

「おーい!そこのアンチャン!まだ生きてっか!?」

 呼びかける声に引かれて首を回せば、そこには、波を蹴立てて走るクルーザーと、それを先頭にして救助に駆け付けた漁船

群の姿があった。

 先陣を切るクルーザーの舳には、褐色の肌の真ん丸い男の子…。

「親父さん!こっち見た!生きてっぞ!」

 少年が振り返った先の操舵室では、いかにも漁師らしいゴツい体格のテンターフィールドが舵輪を握っていた。

「おし!船の腹を寄せる!カムタ!近付いたら右に寄って浮き輪投げてやれ!」

 さっと手を挙げたテンターフィールドの号令で、船団は一斉に速度を緩め、散開した。

 ヤンを避けるように左右へ散ってゆく船が、他の漂流者の姿を探す中、痩せ虎は、自分の傍に右舷を寄せたクルーザーの腹

にある船名を一度見て、それからさらに上へ視線を動かし、

(…「カムタ」…?)

 縁から自分に向かってロープつきの浮き輪を投げる、褐色の肌の丸い男の子の姿を認める。

(確かさっき、「カムタ」と言って…?)

「ダイジョブかアンチャン!コイツに掴まれ!」

 元気な声が、耳を打った。

 

―倅は「カムタ」ってんだ!子豚みてぇに真ん丸くて元気なヤツだから、会ったらすぐ判るさ!―

 

 大男の言葉が蘇る。

(この子が、あのひとの…?)

 のろのろと浮き輪に手を伸ばすヤンを、甲板の男の子は元気な声で励まし続けた。

 漂流者が父でなかった事に、がっかりした様子も見せず…。



「そっか」

 船着き場を目指す船の上で、痩せ虎と向き合って座ったカムタは、一連の話を聞き終えるなり大きく頷いた。

「良かったなアンチャン。助かった命は大事に生きなきゃなんねぇぞ?」

 ヤンは困惑した。

 少年は、ヤンを責めなかった。父の船が沈む光景を語られても、泣かなかった。

「何故、責めないんだ?君のお父さんは僕を助けたばかりに…」

「アンタ、船長か?」

 口を挟んだのは、舵輪をきつく握り込み、黙って話を聞いていたテンターフィールド。

「いや、僕は船医で…」

「なら、アンタに責任を問ったってしかたねぇだろ」

 態度も口調もぶっきらぼうなテンターフィールドの中年は、

「責任は、船を走らせる判断をしたヤツにある」

 と、不機嫌そうに吐き捨てると、一転して沈痛な表情になり、顔を左右に振った。

「あの野郎が命払ってアンタを救った。そいつに文句をつけるのは、アイツに文句を言うのと同じ事だ。できるかよ、そんな

真似なんぞ…」

 カムタは泣きそうな顔の虎に頭を下げ、

「教えてくれてアンガトな、アンチャン!」

 ニッカリ笑ってそう言うと、立ち上がって船尾に向かった。

 そして、父が嵐の中で船を出した、今は穏やかな海の方を向いて、背筋を伸ばした。

 沖で船が沈んだと報せが入り、夕飯の途中で飛んで行った父の背を、カムタは思い出していた。

 最後に見たのは、危険だと止める皆を振り切って駆けて行った後ろ姿…。

 それでもいいと、少年は思った。

 あの背中におぶられて育った。あの背中を見て歩いてきた。そしてこれからは、あの背中を思い出して生きていく。独りで

も、誇りと共に…。

 いつまでも、いつまでも、海を見つめるカムタは、時々グイッと、腕で目を拭っていた。

 ヤンは声をかけられず、テンターフィールドの中年もそっとしておいた。

 父にさよならをしている少年を…。



 結局、助かったのはヤンの他に八名だけ。その全員が、あの時一度救助され、浮き輪なりライフジャケットなりを受け取っ

ていた者達…、商品として運ばれていた者達だった。

 事が明るみに出て、人身売買組織は法の手で裁かれ、解体された。積荷として運ばれていた者達は、政府の保護を受けて施

設に入った。

 ヤンについても咎めはなかった。何故なら彼は、組織で働いてはいたものの正規の構成員ではなく、引き摺りこまれた被害

者のひとりだったから。何も知らず、大して悪事に加担してもいない。だから調停組織からも見逃されたのである。



 それからヤンは、この島で診療所を始めた。

 憎まれても構わない、そんな覚悟で尻を据えたこの島で、しかし彼は暖かく歓迎された。

 カムタの父に救われた。その恩義にこの島で応えるという彼の決意は、島の人々の道徳心に照らし合わせても、「まっとう

な男」のソレだったから。

 かくしてヤンは、故郷を遠く離れたこの島で、かつての夢を現実のものとした。

 医者になるという、夢を…。



「責めないんだ、カムタ君は。僕達を助けに来たりしなければ…、いや、僕に浮き輪を譲ったりしなければ、今もカムタ君は

お父さんと一緒に暮らせていたのに…。それでも、僕を恨まない」

 肥り過ぎてかつての面影が何処にもなくなった虎は、昔語りを終えてレモン水を口に含んだ。

「どうして、おれにそんな事まで?」

 話が終わるのを待って口を開いたルディオに、「フェアに行きたいからだ」とヤンが答える。

「カムタ君は全部僕に話してくれた。そして、僕の事を知らないのはルディオさん、ここじゃ貴方だけだ。信用しろと言うな

らこっちも腹の中まで見せなきゃあならない」

 ヤンはちらりと、トイレがある方向のドアを見た。

 ルディオもそちらを見遣り、垂れ耳をピクピクさせた。

 鼻をすする音が、微かに聞こえた。

「…カムタ君に聞かれたらしい…」

「カムタ…」

 案じて立ち上がろうとしたセントバーナードを、ヤンは「気付かないふりをしてやってくれ」と小声で制した。

「カムタ君は泣き顔を見られるのが嫌いだ。そっとしておいてやろう」

「…そうか」

 ルディオは素直に頷いて、椅子に尻を戻す。気にはなるが、カムタが嫌なら顔を見に行くべきではないと感じた。

「話の続きだが…、そう、腹の中まで見せなきゃ、まで話したんだった」

 ヤンはそう言うと、自分の顔を指差した。

「こっちの弱みも知って貰おう。僕は、黒孩子だ」

「ヘイハイヅ?」

 聞き返したルディオに、ヤンは「戸籍を持っていないんだよ」と応じ、自分の祖国では二子目を持つことが許されなかった

事、二男の自分は生まれつき戸籍が無かった事などを、簡単に説明した。

「そこに、付け込まれたんだが…」

 肥満虎は苦々しく呻いた。

「僕には兄貴が居たんだが、僕が学校に行って医者になるためには戸籍が必要だと知って、組織に自分を売ったらしい。…そ

の時は、働き口が見つかった、戸籍を何とかしてくれるひとを見つけた、と言っていたんだが…」

 ヤンが全てを知ったのは、兄が見つけ、世話を頼んだという「支援者」が、学校卒業後に態度を一変させてからだった。

 兄がどうなったのか、組織とどんな取引をしたのか、全て聞かされて混乱したヤンは、本当は無戸籍者である事をばらされ

たくなければ組織の下で働けと、脅迫された。

 断れば医師への道は閉ざされる。頷けば非合法組織の一員となる。

 どちらにしても、幼い頃からの夢はもう叶わない…。

 そしてヤンは組織の子飼いとなった。もしかしたら身売りした兄を探し出し、助けられるのではないかと、密かに期待して。

 それからヤンは「商品」を維持するための技術者として、その方向に特化した医術を学ばされた。

 ヤンは優秀で、四年はかかると言われていた教育を一年でこなし、先達のお墨付きとなった。もっとも、優秀だからこそ目

を付けられ、引き摺りこまれたのだが…。

「そういう訳で、僕は脛に傷がある。万が一にも僕がルディオさんを裏切ったなら、これを公表してくれて構わない」

 ヤンが過去を語ったのは、自分も口外できない秘密を抱えていると、ルディオに知って貰うためだった。これに対して…。

「カムタは、アンタを信用できると言っていた」

 ルディオはそう言って、ヤンの瞳をじっと見つめた。そこには非難の色も、疑惑の光もない。トルマリンの瞳は静かで、穏

やかだった。

「おれも今は、アンタは信じられるヒトだと感じてる」

 飾らない、真っ直ぐで朴訥すぎる巨漢の言葉に、

「有り難う」

 ヤンは目を細めて、少し嬉しそうな笑みを見せた。

「そういう事で、僕はアングラドクターだったからな。組織に使われている間に、非合法な物や、肉体に人為的な強化を施さ

れた者にも少し触れてきた。カムタ君が話した生物兵器というような物も、実際に姿を見た事はないが、話だけ少し聞いてい

た。専門じゃあないから詳しくないんだが、多少は力になれると思う。…ただし、記憶喪失については…」

 ヤンは耳を倒し、膨れた頬をポリポリと掻いた。

「聞き齧り程度で、調べてみても判るかどうか…。僕に治せるという期待はしないでほしい」

「充分だ」

 ルディオは顎を引いた。

「カムタに味方してくれるなら、それだけで充分だ、先生」

 肥えた虎は目をパチパチさせ、それから「どうにも、参るな…」と頭を掻いた。

「自分も大変だろうに、カムタ君の方が大事らしい」

「カムタは恩人だ。思い出せない何かよりも、今、すぐそこに居るカムタの方が大事だなぁ」

 これを聞いたヤンは、喜んで尻尾を軽く揺らした。

「それで、先生の兄は見つかったのかぁ?」

「え?…いや、見つけられなかった。何処に売られたのかも教えて貰えなくて…。こうなったら従順な姿勢を見せて、正規の

構成員になって、兄貴の売買データを手に入れようかと考えていた矢先に、事故に遭ってな…。結局、組織は解体される際に

証拠隠滅を図って、売買記録などは殆どが抹消されてしまったらしくて、記録を辿る事もできなくなった…」

「探しに行かなくてもいいのかぁ?」

「探しに行きたいのはやまやまだが、カムタ君と彼のお父さんに借りを返せていない。だから、ここからいろいろ調べている」

「そうかぁ…」

 ルディオは少し考えてから、テーブルを挟んだ向こうのヤンの手を取った。

「…え?な、何をっ!?」

 ポッテリプヨプヨの手を引き、鼻を近づけてスンスン嗅ぐセントバーナード。手の甲にキスでもされるのではないかという

近さで、肥えた虎はドギマギした。

「え?あれっ!?な、何か臭ってるの僕の手!?」

 恥ずかしくなって焦るヤンの声と口調は、むしろこちらの方が地なのか、寸前までの物とは違う、上ずって若々しい物になっ

ていた。

「…先生の兄も、兄弟なら似た匂いかもしれないからなぁ。見つかるように、おれも探すの手伝おうなぁ」

 ルディオはそう言ってから、「…んん?」と不思議そうに眉根を寄せた。

「ど、どうしたの?やっぱり臭ってる!?」

「いやぁ…」

 セントバーナードは虎の手をじっと見つめた。

 パイプを握っていたせいだろう、タバコの匂いがあった。それから、染みついた薬品の匂い…おそらく消毒液などの物と思

われる匂いがあった。その奥に閉じ込められたヤン自身の体臭は…。

(…どこかで嗅いだ事があるような、ないような、んん~…?)

 似た匂いを嗅いだような気もするのだが、自信が無かったので断言を避けたルディオは、「憶えておく」とヤンの手を離す。

 引っ込めた手を揉みながら、肥えた虎は「匂いか…。しかしなぁ」と口調と声音を戻した。

 ルディオについては判らない事だらけなのだが、彼の主張から、おそらく嗅覚が優れているのだろうと察しはついた。どの

程度鼻が利くのかは不明だったが。

「匂いが嗅げるほど近付かないと判らないだろうが…、もし判ったら頼むよ」

「ん」

「さて、カムタ君がなかなか戻って来ないが…」

 聞こえていると確信しながら、ヤンが少し大きな声で言うと、ドアの向こうでグシュンと派手に鼻を啜る音が聞こえ…。

「待たした!じゃあ話の続きな!」

 勢いよくドアを開けたカムタは、真っ赤になった目をあらぬ方に向けながら、シャキシャキと手と足を一緒に出して歩き、

ぎこちなく席に戻った。

「カムタ」

 隣に座った少年を、ルディオは腕を回してギュッと抱きしめる。

「なな、泣いてねぇ!泣いてねぇぞっ!ギューしなくても平気だぞアンチャン!」

 何も問われていないのに全力で否定するカムタ。

 そんなふたりをポカンと見つめたヤンは、

(兄弟、のような…)

 兄が居た頃を懐かしみ、表情を緩めた。が…。

「………?」

 ルディオが突如顔を上げ、訝しげに壁を見遣る。

「ダイジョブだから放…!って、どうしたアンチャン?」

「…足音が…」

 セントバーナードは、壁の向こうで移動する何かを目で追っているように、顔の向きをゆっくり変えながら耳をぴくつかせ

ている。

「患者か?」

 席を立った虎は、ユーモラスに肥満体を揺らしながら窓に近付き、外を覗いて…。

「何をしているんだ?あれは…。それにしても、よくこんな距離で足音に気付けるなルディオさん…」

 ばたばたと、診療所に至る坂道の下を、海岸方向に走る人影があった。

 しばしそれを見つめていたヤンは、そのずっと向こう、数百メートル離れた海岸線へ、木立から駆け出して行った別の影が

ある事に気付く。

「…カムタ君、ルディオさん、念のためしばらくここに居た方がいい」

 ふたりにそう告げるヤンは、ほぼ確信していた。

「あれはたぶん、カムタ君の話にあった、生物兵器を回収に来た連中だろう…」

 島の住民とは思えない。街灯もろくに無いこの島では、日が暮れてから好んで闇の中を走り回ろうとする者など居ない。

「連中か!?どこだ先生!?」

 カムタが窓際に駆け寄って確認し、ルディオものっそりと後ろから外を覗く。

「ふたり、か。ひとりはすぐそこの坂の下を走って行って、もうひとり、奥の木立側に…」

 ヤンは太い指で示し、そして黙り込む。カムタも同様に黙っていた。

 異常過ぎた。彼らはどう見ても…。

「何かを探してる…みたいには、見えないなぁ」

 ルディオの見解に、ふたりとも同意する。

 マラソンでもしているような走り方に加え、時折周囲を見回しているようだが、しっかり確認はしていない。危険な生物兵

器を探すなら、あんな目立つ行動は取らないような気がしてならない。

「ここに来ないとも限らない。戸締りしておこう」

 ヤンはそう言って、ふたりを招き入れたウッドデッキ側の出入口に向かう。

 そして、ドアを開けてすぐ傍にある、テーブルセットの上に出していたパイプや葉などの小道具類を回収し、さて閉めよう、

と振り向き…。

「っ!?」

 ハッと目を大きくした。

 そこに、無表情な獣が居た。

 琥珀色の瞳は月光を帯びて光り、ヤンを冷たく見下ろしている。

(狼の…目…)

 部屋の中で話していた時の、穏やかで静かなトルマリンの色は欠片も見えず、ぼんやりしたような表情は、ひとらしい感情

や思考を窺わせない硬質な無表情に変化している。

「あ…。アンチャン!?また!?」

 異常を察したカムタが声を上げると、獣は首だけ巡らせて室内の少年を一瞥し、それから顔を前に戻して再びヤンの顔を見

下ろし、それからのっそりと足を踏み出す。

 ヤンの脇を抜けてウッドデッキを降り、診療所を回り込む形で崖と逆方向…坂道の下を覗いて立ち止まると、獣は海岸線へ

駆けてゆく男と、その奥側を走っている男の姿をまず確認してから、鼻先を上げて風に入れ、スンスンと夜気を嗅ぐ。

「アンチャン!…あ」

 追いかけてきたカムタが呼びかけると同時に、獣はグッと前傾し、駆け出した。

 まるで、坂道を大岩が転げ落ちてゆくような勢いである。みるみる遠ざかる背に大声で呼びかけようとしたカムタは、思い

直して口を両手で塞いだ。

 変に大声を出して目立つのはまずい。走っている男達が味方でない事は確かなのだから。

(アンチャン、何処に行くつもりだ?あそこの男の所…ん?)

 あっという間に小さくなったその背を目で追ったカムタは、獣が手前側の、より近い方に居る男の方へ向かっている訳では

ない事に気付く。

(あれ?アンチャン!?)

 獣は坂道を駆け下り、そのまま木立の中へ姿を消した。

「カムタ君…!」

 背後から肩に手を置かれたカムタは、追いついたヤンを振り返り、目を見開いている彼の、滅多に見ない動揺の表情にまず

驚いた。

「「アレ」は…!?「アレ」が君達の見たモノなのか…!?」

「…え?「アレ」って、アンチャン?」

「違う!あの、奥の方を走っていた男の…、アレだ!」

 カムタは首を巡らせ、ヤンが指差す方向に視線を定める。そして、気が付いた。

「何だ…あれ…!?」

 ふたりの目は、奥を走っていた男の方へ向けられている。

 ただし、その男はもう走っていない。

 月が照る土の道に、派手なアロハシャツを広げて仰向けになり、「そのまま移動していた」。自力ではなく、引き摺られて。

「生物兵器…」

 ヤンが呻く。その闇に順応して細くなった瞳孔が、倒れた男の足首を掴み、引き擦って木立に向かう、別の影を捉えていた。

「カムタ君、生物兵器のサイズはあのぐらいの…?身長2メートルぐらいはあるか…?」

「オラが会ったヤツもあんな感じだ。ツルンとしてて、体型は人間に似てて、でも傍で見たらまるっきり別だ。虫人間みてぇ

な感じで…。まだ他にも居たのかアイツ…!」

 そこまで話してから、カムタは悟った。木立へ駆け込んだ獣が、何を標的に、何処を目指しているのかを…。

「アンチャン、たぶんまたアレと闘う気だ!」

 その間にもヤンは素早く記憶を手繰ってみたが、判らなくなった。

 先ほどルディオから目を離し、ウッドデッキに出て振り返るまで、おそらく二十秒もかかっていない。その間に、彼の瞳は

完全に別の色へと変じていた。カラーコンタクトでもつければ話は別だが、瞳があんな早さで変色する事例に心当たりはない。

(カムタ君が言ったとおり、銃を持った警官や、生物兵器までも、素手で屈服させられるとしたら、ルディオさんは…)

 肥満虎は太い顎を前から握り、ウゥムと唸った。

(やはり、体に何らかの、人為的な改造を施されていると見て間違いない…。瞳の変色は暗所への対応?いや、雰囲気の変化

もある、ひとが変わったようなアレは一体…?)

 高台から見守るふたりの視線の先で、人影を引き摺っていた異形の影が、木立の中に消えた。

 ヤンは腹を決める。状況が判らないままただ待っているのは、今だけは安全かもしれないが、後々不味い事になりかねない。

「カムタ君、僕が様子を見てくる。君は家の中で、鍵をかけて待っていてくれ」

「ダメだセンセー」

 カムタは即座にきっぱりと言った。

「さっきまで話してたのがあれなんだ、目の色が変わるヤツ。ああなっちまったらいつものアンチャンじゃねぇ。オラには何

もしてねぇけど、センセーにもそうなのかは判んねぇ」

「しかし、状況を確認しない事には…」

 カムタの話が真実なら、ルディオはあの状態の時に意識がない。何が起きたのか憶えていない。これでは、彼が戻ってきた

としても、状況がどうなったのか判らないままになってしまう。

「ふたりで行こうセンセー」

 カムタはそう提案した。

 自分は獣に襲われない。そして、あの状態で動いている様子を医師のヤンが見れば、何か判るかもしれない。そう考えての

事だった。

 少年の安全を優先させたいヤンは難色を示したが、結局は、カムタの提案に従う事にした。

(この島に、兵器なんて物が持ち込まれるとは…)

 肥えた虎は沈痛な面持ちで目を細め、闇の向こうに視線を飛ばした。

「では、せめて出来る限りの物は持って行こう。棍棒代わりにもなるマグライトがある、夜目が利くとはいっても、カムタ君

も持った方がいい。…どの程度の備えがあれば充分なのか判らないが、無いよりはずっとマシだ」





 アジア系の若者は細い目をなお細め、闇の向こうに視線を飛ばした。

「馬鹿な真似を…!」

 憤りを込めて吐き捨てたリスキーの視線の先には、ぜぇはぁ喘ぎながら、島の中央目指して駆け戻ってくる汗だくの男。

「使い捨ての撒き餌か探知機扱いとは…!おい、誰かアイツを止めてこい。私からフェスターに報告して、馬鹿殿に話をつけ

て貰う。いくらひとの目が減った夜とはいえ、これでは騒ぎになるだろうし、…自殺行為などさせる必要はない…」

「まったく…」

 呆れ半分同情半分で男がひとり迎えに行くと、木立の中を捜索していたリスキー達は小休止に入った。

 しばらくして、リスキーの同僚は汗だくの男を連れてきた。少し時間がかかったのは、ショーンに罰せられる事を恐れるあ

まり、男がなかなか話を聞いて貰えなかったせいである。

「安心していい、フェスターにかけあって、悪いようにはならないようにする」

 現場責任者であるリスキーが改めて請け負うと、男は脱力してその場にへたり込んだ。

「じゃあ…、俺の隣を走ってったヤツも、そろそろ来ると思うから、できればそっちも…」

「判った、引き留めよう。おい、散開してお客さんをキャッチだ」

「ポン引き任務了解」

「やれやれ…」

 軽口を叩きながらも、汗だくの男から聞いた方向に網を張った男達は…。

「…おかしいぞリスキー。全く来る様子が無い」

 訝る同僚のひとりからそう言われ、眉根を寄せて確認する。

「先に行った、という事はないか?」

「い、いや、間違いなく俺の方が早かった。途中でへばったんじゃ…」

「………」

「…………」

 リスキーと同僚の男が頷き交わすと、汗だくの男は蒼白になった。

「ま、まさか…。「居た」のか…?」

「方向だけ教えてくれ。…万が一という事もある。私が確認してくる」

 万が一、と言いながらも、リスキーは可能性が高そうだと考えていた。死骸が見つかった場所からそう離れていない。木立

に潜んでいても不思議ではない。

(馬鹿殿に手柄を立てさせて、フェスターの顔に泥を塗る訳にはいかない…。私が始末する)