Evolution of White disaster (act5)

「それほど親しかった訳でもないので、私もあまり詳しくは知りませんけど…、成績は凄く良かったはずです」

ホットココアを啜りながらそう言ったアケミに、アルは首を傾げた。

ノゾムが座っていた位置に入れ替わりに座る形になったアケミと、先程までと同じ位置に陣取ったアルは、テーブルを挟ん

で向き合っている。

「成績良くても、高校には進学しなかったんスか?」

「ええ、理由までは判りませんけど。…それにしてもヤマギシ君、調停者になっていたんですねぇ…。ビックリしちゃいました」

頷いたアルは、少し間をあけてから「ん?」と首を傾げた。

「何で判ったんスか?オレまだ何も言ってないのに…」

問われた少女は逆に不思議だと言わんばかりに目を大きくした。

「だって、首にアル達と同じ色のチェーンが…、鎖しか見えませんでしたが、あれって認識票なんでしょう?」

「良く見てるっスねぇ…」

感心しながらココアを啜ったアルに、アケミは微笑を返した。

「アルは慣れているかもしれませんけど、私からすると見慣れない不思議な光沢の金属なんですよ?結構特徴的です」

言われたアルは首にかけた鎖をつまみ、胸元吊るしていた認識票を引っ張り出すと、目の前に翳してみた。

中に特殊なチップが埋め込まれているこのプレートは、調停者の証である。

くすんだ銀色の金属でできた認識票のプレートには、アルのフルネームと、限定中位調停者という身分が掘り込まれている。

調停者の認識票とチェーンは、精霊銀と呼ばれるレリックと同源の技術で精製されていた希少金属で出来ており、タイガー

アイにも似たその独特の光沢は、アケミの言うとおり少々変わっている。光の当たり具合によっては内側に奥行きがあるよう

にも見えるのだ。

プレートは認定階位毎に微妙に色が異なり、通常の調停者はほぼ純度100パーセントの物をそのまま加工しており、銀色。

階位が上になれば強度と機能を高める為に多種の金属との合金製となり、黒味を増してゆく。

特解上位調停者であるダウドやネネのプレートは鋼のような色合いで、銀と言うよりも深い灰色である。

「確かに、言われて見ればちょっと変わってるっスかね…?でも、それだけで気付くもんなんスか?」

「ええ、バッチリ」

頷いたアケミは、心の中だけで付け加える。

(本当は…、アルが身につけているから、忘れないだけなんですけどね…)

遠く離れて暮らし、なかなか会えないからこそ、アケミはアルの事を良く見ておく。

愛しい恋人の姿をしっかりと記憶に焼付け、次に会えるその時まで我慢してゆけるように…。

アケミの少し寂しげな様子に気付いたのか、アルは認識票を元通りシャツの下に入れると、腰を上げてテーブルを回り込んだ。

自分の顔を見上げてきたアケミに笑みを見せると、アルはその隣にドスンと腰を下ろす。

アケミが正座してもなお、床に直接尻を下ろしているアルの顔はかなり高い位置にあるが、二人は不自由さを感じる事も無

く、互いの顔を至近距離で見上げ、そして見下ろし、笑みを交わした。

足をテーブルの下に投げ出し、背中側に手を付いて座ったアルに、アケミは正座を崩して少し寄る。

常には会えない二人は、抱き締めあうでもなく、言葉を交わすでもなく、ただ互いが傍に居るだけで幸福感を覚えた。

静かに寄り添ったまま、やがてアルはおずおずと腕を上げ、アケミの後ろへと伸ばす。

肩を抱こうとしたその大きな手は、しばし迷うように宙を彷徨ったが、気付いたアケミが首を巡らせると、パッと離れて床

に戻った。

アケミに視線を向けられたアルは、視線を避けるように天井を見上げて唇を引き結ぶ。

(…せっかく二人っきりになれたんだから、さらっとチューぐらいしちゃえば良いじゃないっスか!オレの意気地無しっ…!)

心の中でポカポカと頭を叩いているアルに、クスッと小さく笑ったアケミは、足をずらしてそっと寄り添った。

左脇にペタリと密着されたアルは、一瞬ピクっと体を硬くした後、ホニャ〜っと、表情を弛緩させる。

照れながらもそっと肩を抱き寄せてくれた白熊に、よりピタリとくっつき体重を預けたアケミは、丁度良い高さにあるアル

の左胸にそっと頭を預けた。

ムッチリと肉がついた、それでも分厚く頼もしい恋人の胸に頬を寄せ、少女は微笑みを浮かべる。

呼吸で上下する胸の温もりが、鼓動が、愛おしくて仕方ない。

先の事件で、胴を槍で貫かれ、深い傷を負ったアルが生死の境を彷徨っていた間、アケミはずっと傍についていた。

ダウドやネネが何を言っても、片時もアルから離れず、無事を祈って顔を拭い、手を拭き、語りかけ続けた。

父を喪った時には、もうこれ以上悲しい想いをする事は無いだろうと思っていたアケミだったが、昏睡状態のアルに付き添っ

ている間、ふとしたはずみにアルがこのまま逝ってしまったらと考え、気が狂いそうな喪失感を味わった。

出会ってからまだ半年と少し、共に過ごした時間は短い。

それなのに、何故自分はこうもアルに惹かれているのか、何故こんなにも愛おしくて仕方が無いのか、アケミは何度も考えた。

そして彼女は思う。

自分と同い年の若者が、命の危険を顧みず、己の身を盾として自分達を護ってくれた。その生き方に衝撃を受けたというの

も確かにある。

だがきっとそれ以上に、この白熊の危ういまでの一途さと、痛々しいまでの一生懸命さに、自分は心を奪われてしまったの

だろうと。

アルが長い眠りから目を覚ました時、アケミは調停者など辞めてくれと頼むつもりであった。

だが、街の防衛に成功し、民間人には被害者が殆ど出なかったと聞いた際にアルが見せた、安堵と誇らしさが混じり合った

笑みが、アケミから、その言葉を口にする機会を永遠に奪い去った。

アル自身が強く望み、選び取った生き方。

それを、恋人を喪いたくないという理由で自分が否定するのは、とんでもなくワガママな事に思えて。

アルが調停者を辞するのは、彼自身が武器を手放すと決めたその時。

だから、自分からは決して「辞めろ」とは口に出すまいと、まだ十七歳の少女は心に決めている。

少女に自覚は無かったが、それはアルの保護者…、戦いに身を捧げる恋人を制止せず、最後までその歩みを見守る事を決め

たブルーティッシュのサブリーダーの物と、非常に質の近い覚悟であった。

寄り添って互いの温もりを感じあい、幸せを噛み締めていた二人のひと時は、しかし長くは続かなかった。

ブルルルっと携帯が震動するのを感じ、アルは「あう!?」と背筋を伸ばす。

「ご、ごご、ごめんっス!たぶんコレ…」

アケミに謝りながらアルが受けた電話は、やはり呼び出しの連絡であった。

短いやり取りの後に通話を終えたアルは、済まなそうに耳を伏せて腰を上げる。

「ごめんっス…。オレ、行かないと…」

「良いんですよアル。それより、気をつけて…」

そう応じて力づけるように大きく頷いて見せ、準備を促すアケミに、アルは耳を伏せたまま頷き返す。

「そろそろユウヒさん帰って来ると思うっス。オレは晩飯要らないって、伝えといて貰えるっスか?あと…、できればで良い

んスけど、夕飯、一緒に食べてやって欲しいっス。ユウヒさん、明日には…」

「ええ。大丈夫です」

微笑んだアケミに軽く頭を下げ、アルは準備をするべくリビングから走り出る。

広いリビングにポツンと一人残ったアケミは、

(アルもユウヒさんも、もちろんタネジマさんも何も言わないけれど…、本当は、大変なんですよね、今…)

何もできない自分の身を恨めしく思いながら、悲しげに目を伏せていた。



「全く…、次から次へときりがねぇな!」

調停者の一人が、動かなくなった二体のアントを見下ろして吐き捨てると、アルはジャケットの襟元を掴んで乱れを直しな

がら頷いた。

「どっから調達したんスかね?昨日ので大半は片付いたとばっかり思ってたっスけど…」

緊急招集に応じたアルが他の調停者達と共にやって来たのは、いまだ復旧の及んでいないオフィス街であった。

被害を受けたビルも多く、立入禁止区域がまだ多く残されているここに、昨夜の男が身を潜めたらしい事が判った。

ほぼ不眠不休で町中のカメラの画像を洗い流し、何とかその事を突き止めたカズキはというと、トウヤにその事を伝えて間

も無く、過労が祟って倒れてしまった。

「…大丈夫っスかね…、監査官…」

「医者の話では、オーバーワークによる疲労が出たらしい。睡眠もろくにとっていなかったようだからな…」

目の下に濃いくまが出ていたカズキの顔を思い出し、アルはいたたまれない気持ちになる。

職務の多忙さもさる事ながら、カズキは行方不明になっている調停者の捜索にまで力を割いている。

ラグナロクがこの街に残した傷は、目に見えている以上に深いものであった。

「他の隊にも連絡を取ってみる。こっちだけで四体だ、他のところもおそらく出くわしているだろう」

トウヤは携帯を取り出し、分散して捜索に当たっている他のグループに呼びかけた。

アルともう一人の中年調停者は、人気の無いビルに囲まれた細い路地を見回して警戒するが、何かが潜んでいる気配はない。

(そういえば、確かこの辺だったっスね?ジープに乗ってる時に、ヘリで爆撃されたの…)

アルは目を細めて周囲を窺いながら、年末の事件の事を思い出した。

昏睡状態に陥った上に、刺激に乏しい病院での生活が長かったせいか、一月以上が経った今でも、まるで昨日の事のように

あの日の事が思い出せる。

それなのに、あの時アルと共にラグナロクに立ち向かった二人の調停者は、今は傍に居ない。

その事が、アルは無性に寂しくてならなかった。

「移動しよう。他の皆もポツポツと出くわしているらしい。ここまでトータルで八体…、さすがにもう敵さんにも余裕は無い

はずだ」

通話を終えてそう言ったトウヤに、アルは首を傾げながら尋ねる。

「何で余裕無いって思うんスか?」

「昨日攻めた所は明らかに本宅だった。今出して来ているのは、別荘に残して置いた二軍だろうって事さ」

「なるなる…納得っス。オレもそんな気がして来たっス」

感心し、同意して頷いたアルを促し、トウヤは進むべき方向へと向き直った。

「散っている皆の位置や話からして、ことごとく、この方角への進行途中でアリと遭遇している。どうやら新しいお住まいは

あちらのようだ」

行く手に建つビルのいくつかは壁面が焦げ、あるいは数箇所が崩れていた。

「立ち入り禁止区域中央方面か…。なるほど、コソコソ隠れるにゃ持って来いだな。さぞや快適な住み心地だろうよ。崩落の

危険と常に隣り合わせで…」

同行している調停者が嫌そうに顔を顰めて呟くと、トウヤは「全くだな…」と表情を曇らせた。

「各グループに目標範囲を包囲するよう展開指示を出した。一斉に距離を縮める。行くぞ」

「おう!」

「うっス!」

爆撃の跡も生々しく残る立入禁止区域の中心に向かって、三人は用心しながら歩みを進めた。



「それはついていなかったな…」

キッチンに立ったユウヒが感想を漏らすと、傍らで食器出しを手伝っていたアケミは微苦笑を浮かべた。

「仕方が無いんですけれどね…。アルは調停者なんですから」

作務衣の上にエプロンを纏った赤銅色の巨熊は、アケミの横顔をちらりと見遣る。

本当はとても寂しがっている事は判ったが、それでもなお、自分を抑える事ができている。

少女から大人の女性へと移ろう最中にある少女から、ユウヒは口元に微かな笑みを浮かべて視線を外した。

礼儀正しく聡明で、他者への心配りも上々。品のある振る舞いと、穏やかで柔らかな言動。

清楚で可憐、しかし内には強靱な芯を備えた、ただ美しいだけではない花…。

それが、ユウヒがアケミに抱いている印象である。

キッチンの隅にチョコンと行儀良く座っている白猫を見遣り、巨熊は笑みを深くした。

今は白猫の姿になっている五大財閥の一角であった黒伏の元令嬢と、同じく五大財閥の一つである榊原の令嬢は、どうにも

少なからず似ているような気がして。

両手に持ったタマゴをコンっと当てて殻に亀裂を入れたユウヒは、それぞれの手の人差し指と中指で開くようにして、タマ

ゴを割り、二つ同時に熱したフライパンに落とし入れる。

手早く、そして器用に鮮やかに、次々とタマゴを割ってフライパンに入れてゆくその手際の良さに、アケミは感嘆の吐息を

漏らしながら見入る。

煉瓦すら指で挟んで粉々にする程の剛力を持ちながら、調理をする際のユウヒの手は、精密にして繊細、かつ素早い動きを

見せる。

(達人は、何をしても達人なんですねぇ…)

偶然にもアケミは、ユウヒが似ていると評する白猫と同じ感想を抱いた。

「時にアケミさん」

「はい?」

フライパンを持ち上げ、軽く揺すって黄身の位置を整えながら、ユウヒは少女を横目で見遣る。

「俺は明日、アル君ももうしばしすればこの街を離れる。…無論、それまでに二人が帰って来る事を願ってはおるが…」

一度言葉を切り、少し間を挟んだユウヒは、「もしもだが…」と言葉をついだ。

「もしもそれまでに二人が戻らぬ場合は…。時折で構わぬ、ここへ来て、茶でも飲んで行ってはくれぬかな?」

訝しげな表情で、問うような視線を向けたアケミに小さく頷き、ユウヒは申し出についての理由を話した。

「ひとの住まぬ家は傷むのが早い。時折訪れ、空気だけでも入れ換えて貰えると非常に助かる。それに…」

一度言葉を切った巨熊の視線は、アケミを離れて白猫に向けられた。

「ああ。判りました!」

ユウヒの視線を追ってマユミを見遣った少女は、顔を綻ばせて頷いた。

「調停に関する資料や物品は、後日タネジマ殿に預かって頂けるよう話をつけた」

無事に彼が退院してからの事になるが。と、夕刻に見舞いに行って来たユウヒは心の中だけで付け加え、先を続ける。

「手間をかける事になるが、引き受けては貰えぬかね?」

「はい!勿論です!」

大きく頷いたアケミは、立てた尻尾をゆらゆらと揺らしているマユミに視線を向け、微笑みかけた。

「学校の帰りなど、なるべくお邪魔させて貰うようにします。その時は、マユミちゃんと一緒に夕飯も…」

白猫が背中の毛を逆立てた事には、直前に視線を外したアケミは気付かず、笑みを浮かべて続ける。

「もっとも、私はお料理ができませんので、買ってきた物になりますが…」

白猫がほっとしたように目を細めて小さく息を漏らした事にはやはり気付かず、アケミはユウヒに頷いて見せた。

「やります。いえ、是非やらせて下さい!」

アケミがやけに乗り気である事は有り難いのだが、その態度を少し訝ったユウヒは、少し考えて納得した。

アケミもまた、この事務所を訪れる事を楽しみにしてくれていたのだと。

嬉しく、そして有り難く感じながら、

「何か困り事が出たならば、遠慮無く我が家に連絡を寄越して欲しい。俺が不在だったとしても、屋敷の誰かが対応できるよ

う話しておく」

「はい!」

快活に返事をしたアケミに微笑み返したユウヒは、マユミに視線を向ける。

(お心遣い、有り難う御座いますユウヒさん。…お任せ下さい。万が一にもアケミちゃんには危険が及ばぬよう、私も目を光

らせますので…)

「…有り難い…」

ベーコンエッグを綺麗に焼き終え、火を止めてフライパンを置いたユウヒは、眼を細めながら少女と白猫に頭を垂れた。



一方その頃、立入禁止区域では…。

「ほら、立て」

「す、済みませんっ…!」

苦笑いしている髭面の調停者に手を差し伸べられると、コロッと太った狐は恥かしそうに耳を伏せながら、手を借りて立ち

上がる。

傍らには、片刃の直刀を頭頂部から複眼の間まで切り込まされたアリが、うつ伏せに倒れて絶命していた。

物陰からの奇襲を受けた二人組みは、ベテラン調停者の慣れた立ち回りによって難なく撃退に成功した。

しかし、戦闘に慣れていないノゾムはアリの奇襲に驚いて、無様に尻餅をついて無防備な姿をさらしてしまったのである。

アリに引導を渡した得物を引き抜き、「行くぞ」と促す同行者に頷きながらも、ノゾムはやりきれない気持ちになる。

役に立てないどころか、足を引っ張ってばかり居る。任務に赴く度に実力不足を思い知る。悔しくて情けなくて仕方が無い。

ノゾムは黙って足を進めながら、昨夜初めて会った、同い年の調停者の事を思い出した。

国内最大のチームで切り込み役を任される、最年少の中位調停者。

数の不利を物ともせず、肉弾戦でインセクトフォームを蹴散らす圧倒的な制圧力に、ノゾムは強い羨望を覚えた。

彼のような恵まれた体があれば…。敵を前にしても怯まない強い心があれば…。

自分の経験不足と無力さを痛感している狐は、そう思わずにはいられなかった。

自分とは何もかもが違う、快活で頼もしい若い白熊。彼ほどの心身の強さがあれば、自分はもっと違う状況にあるのではな

いかと…。

そんな事を考えていたノゾムは、突然変わった風向きにフサフサの頬をなぶられると、何かに気が付いたように鼻をヒクつ

かせた。

「ま、待って下さい!」

立ち止まって耳を立て、鼻をフンフンと鳴らしたノゾムの表情が急に強張る。

「…これ…昨日の匂い…!?」

「何だとっ!?どこ…」

尋ねようとした髭面の調停者は、コツッという足音を耳にし、素早く向き直って身構えた。

進路の先、先の事件以来遺棄されているビルの、自動ドアのガラスが砕けている入り口へと、二人の視線が向けられる。

進入禁止を示す黄色いテープが張られた、ポッカリと口を開けている暗がりの奥で、人影がゆらりと動く。

スパッと切断されたテープがはらりと垂れ下がり、開けた入り口に姿を現したのは、ノゾムが昨夜見た、首謀者と思われる

中年の男であった。

直刀を構える髭面の調停者と、慌てて腰の後ろの鉈を引き抜いたノゾムを一瞥すると、男は「フン…」と鼻を鳴らした。

「運が良い…。突破にはおあつらえ向きに手薄な所に当たったらしいな」

低く笑った男の背後の暗がりから、小柄な影が進み出る。

昨日とは違い、トレーナーにオーバーオール、バスケットシューズという格好の子供の姿を目にし、ノゾムは強い恐怖を感

じた。

(この格好で人混みに入ったら…、誰も気付けない…!)

衣類を身につけると、危険生物であるはずのソレは、何処から見ても一般人…、極々普通な人間の男の子に見えた。

「あれが…、ギルタブルルってヤツか…」

誰にとも無く呟いた髭面の調停者の顔には、戸惑いの表情が浮かんでいた。

マユミが調べ、ユウヒが伝える形でカズキにもたらされた情報は、調停者達にも伝わっている。

人間の子供に擬態している事は聞いていたが、いざ目の前にすると全く普通の子供に見えてしまい、ベテランである彼です

らも躊躇した。

その躊躇いが、つけ込まれる隙となった。

「やれ」

男の短い命令と同時に、男の子の体が前傾し、素早く前に出る。

前に倒れこむような極端な前傾姿勢で、人間としてはありえない速度で疾走を開始したギルタブルルを前に、躊躇いを覚え

ていたベテラン調停者は反応が遅れてしまった。

ギッと、硬いものが接触する音に続き、髭面の調停者は背中から地面へ倒れこむ。

ギルタブルルが距離を詰めながら身を捻り、オーバーオールの尻を突き破って出現させた尻尾は、男の即頭部を狙っていた。

正眼に構えていた剣を咄嗟に叩き付けたものの、自分の半分程度も無い子供の姿をした生物に力負けしてしまう。

髭面の調停者は素早く立ち上がりながらも、愛用の得物をちらりと見遣るなり「うお?」と唸る。

アントソルジャーの外殻を断ち割った剣が、一撃受け止めただけで刃こぼれていた。

「特殊セラミックがたった一発でだとぉ…?なんつぅでたらめな硬度の外骨格だ…」

吐き捨てて構え直した男の前で、ぐっと身を縮めたギルタブルルは、高く跳躍しつつ勢い良く前転する。

上から振り下ろされた尾がかろうじて避けた男の脇で地面を抉り、砕けたアスファルトが礫となって舞う。

その礫に横っ面を叩かれ、反射的に目を閉じた男めがけ、未だ宙に居るギルタブルルが身を半分ねじった。

ぬらりとした光沢を持つ長い尾が、しなりながら大きく横にスイングされる。

「わぁああああああああああああああああああああっ!」

突如上がった声に、傍観を決め込んでいた中年は、何事かと目を丸くした。

恐怖を振り払うように大声を上げたノゾムは、飛び込むようにして髭面の男の背に飛びつき、地面に押し倒していた。

間一髪、狐の後頭部をギルタブルルの尾の中ほどが掠め、薙ぎ散らされたフサフサの毛が宙に舞う。

「おう!助かったぞ!」

短く礼を言いながら、ノゾムが背に覆いかぶさった状態のまま少し身を起こした調停者は、倒れると同時に懐から取り出し

ておいた小さな箱をギルタブルルめがけて放り捨てた。

市販の清涼菓子のパッケージそっくりに偽装されたそれは、ギルタブルルの足元に転がると、シューっと音を立てて白い煙

を吐き出す。

ギルタブルルは全く表情を変えなかったが、その煙を嫌がるように素早く後ずさった。

小箱から噴霧されているのは、対インセクトフォーム用の特殊薬剤である。

未だ研究段階の試作品であり、致命的なダメージを与えるには程遠いものの、この薬剤にはインセクトフォームの感覚を狂

わせる作用がある。

少し吸っただけで危険を感じたギルタブルルは、二人から間合いを離していた。

何とか隙を作り、身を起こした二人だったが、次に打つべき手がなく、攻めあぐねる。

ギルタブルルの戦闘能力はベテランの調停者でも圧倒される程の物、真っ向から挑んでは返り討ちにされてしまう。

髭面の調停者は頭をフル回転させるが、しかし名案は浮かばない。

身を起こす際にそっと携帯に触れ、仲間に危急を知らせるコールを送ったものの、救援が間に合うとは思えなかった。

「ヤマギシ…、男の方、やれるか?」

中腰の姿勢のまま小声で囁いた髭面の男に、地面にへたり込んでいるノゾムは怯えた目を向ける。

緊張から大量に汗をかき、喘ぐように呼吸している新人に、男は低く抑えた声で続けた。

「コントローラーをやれば、やっこさん、自己防衛モードに移るかもしれん…。上手く行けば援護が来るまでの時間は稼げる…」

激しい動悸を耳元で聞きながら、ノゾムはプルプルと首を横に振った。

無理だと思った。訓練でいかに正確な数字を出そうと、実戦の空気で怖気づいてしまっている今の自分では、能力を上手く

使う事はできない。

自信の無さと臆病さが、ノゾムの首を横に振らせていた。

泣き出しそうな顔で自分を見るノゾムを前に、

(無理も無いな…、この子の場合は…)

そう、髭面の調停者は思った。

本来ならば、サポートできる者が付き添って現場に慣れさせる事で、それまで一般人だった新人は、徐々に調停者へと変わっ

てゆく。

しかしノゾムの場合は年末の事件で、現場に慣れる前に、導き教育してくれるはずの先輩達を目の前で喪ってしまった。

自分の無力さを痛感し、絶望に打ちひしがれ、使命感を恐怖が凌駕したその一件は、ノゾムのトラウマとなっている。

心のケアもさる事ながら、本来ならばゆっくりと現場に馴染ませ、色々と教えてやらなければいけない新人を、こうして寄

せ集めのチームで即戦力として扱わなければならない。

その事が、このベテランを初めとした調停者達には心苦しい。

ノゾムの境遇を不憫に思いながらも、面倒を見てやる余裕の無い自分達が歯痒い。

髭面の調停者は、迷いを断ち切るように固く目を閉じ、そしてクワッと見開いた。

「良いかヤマギシ?逃げるのは無理だ。ここで終わりたくなかったら、どんな事でもやるしかない…!」

じっと目を覗き込み、噛んで含めるように言った髭面の調停者は、刃こぼれした剣をしっかりと握り締めた。

「バケモンの方は足止めする。高みの見物決め込んでやがるあの野郎に、アツい一発叩っ込んでやれ!」

無理だ。と目で訴えるノゾムから視線を外し、髭面の調停者は剣を握り締めた。

「行くぞバケモン…!調停者ってモンの底力、見せてやる…!」

中腰から立ち上がりざまに、髭面の調停者は地を蹴った。

小箱が薬剤を吐き出し終え、漂う煙が薄くなった路地を、雄叫びを上げて夜気を切り裂き、ギルタブルルに挑みかかる調停者。

ガタガタと震えながらその背を見つめ、ノゾムは理解した。

賽は投げられた。目を瞑り、耳を塞いだところで、この状況は流れ去ってくれはしない。

恐怖を押し殺し、ノゾムは中年の男に視線を向ける。

荒い呼吸と乱れた心音を耳元で聞きながら、見据えた標的に意識を集中させる。

一撃で行動不能にする。感覚器官の集合体、すなわち男の顔面を目標に定めたノゾムは、発火能力を発動させるその直前に

身を強張らせた。

果敢にギルタブルルに挑みかかり、かろうじて猛攻を凌いでいる髭面の調停者を眺めていた中年は、不意に首を巡らせると

同時に、ノゾムに向かって右手を上げた。

その手には、一本の片刃のナイフ。

闇に溶け込む黒塗りの刃を向けられたノゾムは、十数メートルの距離があるにも関わらず、身動きが取れなくなった。

(不意打ちを狙ってたの…、バレてた…!?)

中年の顔がニヤリと笑みの形に歪み、口元が微かに動く。

「おやすみ。おデブちゃん」

ナイフの柄を握っていた男の指が動き、黒塗りの刃がノゾムの顔面めがけて射出された。

黒い刃は、しかしノゾムに到達する前にその視界から消える。

大きく見開いたノゾムの目に、髭面の調停者の背中が映り込んだ。

両手を大きく広げ、仁王立ちになった調停者は、ゆっくりと首を巡らせてノゾムを振り返った。

髭面を歪ませて笑うと、男はノゾムの前で仰向けにどうと倒れる。

遥かに格上であるギルタブルルと交戦しながらも、髭面の調停者は中年の動きに注意を払っていた。

奇襲を見抜かれていると察したベテランは、咄嗟に射線に割って入り、ノゾムの盾となった。我が身を投げ打って。

恐怖に顔を歪ませ、地面を四つん這いでのろのろと進んだノゾムは、

「あ…、あ…、あぁあああ…!」

髭面の男の胸に深々と潜り込んだナイフを見つめ、震えた声を漏らした。

防弾防刃ベストの胸元、正確に継ぎ目を貫いた刃の周囲から、滾々と鮮血が溢れ出ている。

オロオロと取り乱し、男の胸元を押さえて血を止めようとしているノゾムを一瞥すると、もはや脅威ではないと判断した中

年は、口元に指を当てて口笛を鳴らした。

身を屈めて飛び掛る寸前の体勢になり、二人へ攻撃を仕掛けようとしていたギルタブルルは、制止の合図を受けて追撃を中

止する。

中年はゆっくりと歩を進め、追って来るかどうか確認するように二人を一瞥すると、もはや追撃はないだろうと判断した。

そして顎をしゃくり、「ついてこい」とギルタブルルに合図を送る。

二人から少し離れた位置を悠々と通過し、中年はギルタブルルを伴って路地の向こうへと歩き去った。

「ヤマギシ…、無事か…?」

声を絞り出した髭面の男は、ゴポリと血を吐き出し、噎せ返った。

「しゃ、喋っちゃダメです!じっとしてて…」

どうして良いか判らず、泣きながら傷を押さえているノゾムは、ある事に気付いて愕然とした。

身を投げ打って自分を救ってくれたこの調停者の名を、ノゾムは知らなかった。

壊滅状態になった各チームから臨時に寄せ集められた間柄とはいえ、これまで数度作戦を共にし、一度は名乗りあったはず

なのに、ノゾムは彼の名を覚えていなかった。

「運が…、良かったなぁ…。見逃された…」

噎せ返りながら髭面を歪めて苦笑いした男は、ノゾムの顔を見つめて苦しげに続ける。

「荷が重い…、後は…、他の連中に任せろ…。良いな?」

返事をする事もなく、ただただしゃくりあげながら自分の胸を押さえているノゾムの頭に、男は震える手を伸ばして、ポン

と置いた。

自分はもう助からない。男は急激に失われて行く力と、全身を絞られるような感覚を味わいながら、それを悟っていた。

「焦るな…、慌てるな…、気ばかりはやっても、一人前の調停者にはなれんぞぉ…?意思を持て…、護る為でも、自分が生き

残る為でも良い…、自分なりの、足を踏み締められるだけの、確固たる意思を、理由を持て…」

髭面の男は泣き続けるノゾムの目を、焦点が合わなくなり始めた目で見つめながら、息を整えて続ける。

「覚悟が…、お前を、調停者にする…。足掻く理由を、見つけろ…」

いい終えるなり、男の厳つい髭面が、優しげな笑みを浮かべた。

「最後に…、少しは…、為になる事、してやれた…、か…なぁ…?」

ボロボロと涙を零し、縋るような目で必死に自分を見つめている若い狐に、男は笑いかけ、目を閉じた。

「あ〜…、あったけぇ…」

くしゃっと、弱々しくノゾムの頭を撫でた男の手が、ずるりと落ちてアスファルトに投げ出される。

「あ…、あぁ…!あ、あぅっ!あ…!」

息を長く吐き出し、そのまま動かなくなった男の胸を、ノゾムはぐぐっと押した。

名を呼びたくとも叶わず、ただただ震える声を漏らして胸を押し、息を吹き返させようとしているノゾムの手が、鮮血を吸っ

て真っ赤に染まる。

やがて、ノゾムは手を放し、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、男の髭面を見下ろした。

目の前で喪われた命。そして、自分だけが生きながらえた状況。ノゾムの頭の中で、年末の事件での事が甦る。

大きくしゃくり上げながら、ノゾムは男の首にそっと手を伸ばし、鎖を摘んだ。

そろそろと手を動かして認識票を外し、血塗れの手でそれを眼前に掲げる。

男の情報が刻まれたプレートをじっと見つめた後、ノゾムはその鎖を、震える手で自分の首にかけた。

そして、男の腕を胸の前で組ませると、傍らに投げ出されていた、主を失い刃零れた剣を掴んで立ち上がる。

他の連中に任せろ。そう言われたノゾムだったが、このまま引き下がるつもりは無かった。

「…い…、行ってきます…、タカマツさん…!」

胸元に当てた手で二枚の認識票を握り締め、ノゾムは髭面の男の顔を見下ろし、深々と頭を下げた。

足を踏み締める意思も、足掻く理由も、ノゾムにはまだ見つけられなかった。

だがそれでも、ここで引き下がってしまったなら、もう何処へ向かっても進む事はできない。そんな確信があった。

顔を上げたノゾムは、泣き顔のまま走り出した。中年とギルタブルルが姿を消した路地を、彼らの後を追って。



ざざざっと靴底をアスファルトに擦りつけ、急制動をかけて角を曲がったアルは、

「…あ…!」

再加速すべく踏み出した一歩目の後、急激に速度を落とした。

トットットッと数歩だけ慣性で駆けた白熊は、すぐ前の地面で仰向けに倒れている調停者の傍で足を止める。

夥しい量の出血により、赤黒く染まったアスファルトの上で、その調停者は事切れていた。

跪き、呆然とした表情で男の髭面を覗き込んだアルは、ギッと目を瞑り、歯を噛み締めた。

昨夜も任務に同行したベテラン調停者が、今は物言わぬ骸となって自分の目の前に横たわっている。

苦痛に耐えているかのような表情で黙祷を捧げたアルは、次いで固めた拳を地面に叩きつけた。

自分が二度も逃がした。そのせいで犠牲者が出た。

アルはそう考え、激しく自分を責め、何度も何度も拳を地面に叩きつけた。黒いグローブが破れ、白い毛に血が滲む程激しく。

フゥフゥと荒い息を吐きながら、無理矢理気を鎮め、幾分落ち着きを取り戻したアルは、

「…一人…っス…?」

この調停者と一緒に行動する事になっていたはずのノゾムの姿が無い事に気付き、全身の毛を逆立てた。

慌てて周囲を見回したアルの瞳が、アスファルトに零れた僅かな血痕を捉える。

倒れた調停者の亡骸から路地の暗がりへと、点々と続いているその血痕は、ノゾムの手から滴った物であった。

現場を見てもいないのでその事までは推測できなかったが、アルは素早く身を起こすなり、血痕を辿って走り始めた。

痕跡が残っている以上、その先に必ず居る。ノゾムか、あるいは敵が。

機動力を活かして単騎突出、皆に先んじて救援に駆けつけたアルは、しかし後続をだいぶ離してきている。

到着まで待つ余裕は無いと判断したアルは、単独で追跡を開始しながら、手槍を右の脇の下に挟み、携帯を取り出してトウ

ヤに連絡を入れた。

仲間の殉職と、ノゾムの姿が無い事、自分は彼の番号を知らないので、トウヤから呼びかけて欲しいという事。

応答したトウヤの声には動揺と驚き、ショックが滲んでいたが、対応はしっかりしていた。

連絡はトウヤに任せ、アルは血痕を見失わないように集中しながら、全速力で追跡を続けた。

今ノゾムと敵に最も近いのは自分である事を自覚しながら。