Toxin

「ふたり、戻らないな…!」

 骸骨のように痩せた男は、落ち窪んだ目を嬉々として輝かせながら呟いた。

「同じ方向から、ふたり戻らないな!」

 嬉しそうなショーンが上げる場違いに弾んだ声に、各々海岸まで走らされた男達は身震いする。

「一回目で引っかかったか!これはついているな!ついている!ついているぞ!」

 ヒュッヒュッと笑うショーンは、汗だくの男達に目を向け、「行け」と命じた。

「もう充分休んだな。ボクは優しいだろう?さぁ、行け」

 その命令に、逆らえる者は居ない。男達は嫌々ながらショーンが示した方向へ走らされた。

 そして、ショーンの傍らに立つ元船員、パーターは…。

「…何をしている?」

「え?」

 骸骨のような男に話しかけられ、間の抜けた声を漏らす。

「さっきは話があったから残しただけだ。今度はお前も行け。使える男だと、ボクに証明して見せろ」

 パーターは愕然とした。

 皆を欺き、裏切り、そうして手に入れたのは、安泰な地位などではなかった。それは、ショーンが気まぐれを起こしただけ

で捨てられる、特別でもなんでもない立場…。

(そ、そんな…!何のために俺は危ない橋を渡って…!)

 パーターは不満が気取られないよう、素直に走り出した。

(何とか、何とかして生き延びる手を…!)





 ほとんど音も立てず、木々の隙間に溜まった闇の中を、細身の若者が駆ける。夜風を纏い、闇に溶け込んで疾走するその姿

は、まるで猫科の肉食獣のよう。

 周囲に気を配っていないような速さの疾走だが、リスキーはしかし、襲撃者の気配を察知する為に神経を張り詰めていた。

 常人が遠目に見ても暗がりの中では満足に視認できず、人か獣か、はたまた一塊の夜風かも判別できない速度。闇の中で下

生えの草が揺れたようにしか思えない。それほど静かで素早いが、ステルスホッパーならば察知可能。

(さあ、食いついてこい…!)

 リスキーは、ショーンが部下達にやらせた釣り餌の役を自らおこなっている。ただし決定的に違うのは、その釣り餌が毒入

り…、リスキー自身が餌であると同時に迎撃手段でもあるという点。

(馬鹿殿が動く前に全て終わらせる。…手柄だけ部外者にかっさらわれては、犠牲に見合わない…!)

 フェスターとショーンの関係性や、犠牲になった同僚達への手向け、いくつもの事柄が「理由」となっているものの、全部

ひっくるめて端的に言えば「意地」となる。リスキーは意地により、自分の手で最後の一体を片付けるつもりだった。

(…?居たか!)

 行く手に、草木とは違う影が見えた。

 大きさ、高さ、輪郭、そして移動している事から、直立した何かと察せられる。

(先手を取って、すぐに終わらせる!)

 リスキーの左手がベルトの横に触れ、その指先が、細いスリットからテープのような物を引き出した。

 長さ70センチの、無色透明でラップのように薄いそれは、ビニールなどのようにも見える光沢があった。

 リスキーは右手の指を揃えて伸ばし、手刀を作ると、そのテープを素早く巻きつける。

 そして、さらに速度を上げ、襲いかかろうとして…。

(…いや、おかしい!)

 影の身長が、思いのほか高くない。自分よりも低く、160センチあるかどうかといったところ。おまけに…。

「か、カムタ君。少しペースを落としてくれ、躓いて転びそうだ…!」

 影の後ろから少し遅れて別の人影が現れ、声を発した。

(しまった!島の住民か!?)

 気付いた時にはもう遅かった。気付かれる事を前提で距離を詰めにかかっていたリスキーには身を翻す余裕もなく、下生え

の草が足を擦る音で、影に気付かれる。

「先生!何か居る!」

 先の影が発した声で、リスキーは相手がまだ少年だと気付き…、

(昼間の子供…!?)

 間を置かず、面識のある少年だと悟った。

「誰だ!?」

 すかさず後ろの影がマグライトを点け、目を焼く光がリスキーを照らし出した。

 投げかけられた誰何の声は、野太い大人の物。左手で目を庇いながら、逆光で姿が見えない相手の位置を確認したリスキー

の耳に、

「あれ?環境のアンチャン?」

 拍子抜けしたようなカムタの声が届いた。

「…知り合いか?カムタ君」

 訝って確認するヤンは、油断せずリスキーの顔にマグライトを照射している。何らかのアクションを起こされたとしても、

狙いが正確にならないように、体から少し横にずらした位置でライトを握りながら。

「うん。環境保護の団体のヒトだ」

 ヤンはカムタが頷くと、やっとライトを下げ、呆れたようにリスキーを見つめる。

 ふたりともマグライトを持っているが、下手に点けると目立ってしまうため、スイッチはオフにしていた。このせいでリス

キーに勘違いされ、接近されたのだが、彼を普通の民間人だと思っているカムタには知る由もない。

「…や、これはどうも…。びっくりしました」

 突然出くわして驚いている、という態度を装うリスキーは、ライトを手にした男が昼間のセントバーナードではないと確認

して…、

(虎…か…)

 一瞬、複雑な表情になる。

 でっぷり肥えた虎は大柄で、顔つきは厳めしい。見覚えがない男だが、少年と一緒に居る事からも、おそらく島の住民だろ

うと素性を推測する。

「外のひとか…。不案内な旅先で、こんなに暗くなってから灯りもない場所に入るのは危ないですよ?」

「いやぁ…、返す言葉もありません。実際こうして迷ってしまったんですから…」

 窘められて頭を掻くリスキーは、迷ったと聞いた虎の顔が盛大に顰められると、首を縮めて「いやはやおはずかしい…」と

軽く頭を下げる。

「旅先での解放感はお察ししますがね…。おひとりで道から離れるような夜の散歩は控えた方がいいでしょう。猛獣や毒蛇が

居る島だってあるんですし、この島はかつてのサンゴ礁が隆起してできているんですから、そこらじゅうに石灰岩なんかがゴ

ロゴロしてるんですよ?足を取られて転んだだけでも怪我をする。手をつければいいですが、もし顔から行ったら大惨事だ」

「まったくもってその通りで…」

 素直に詫びるリスキーは、しかし内心では早く立ち去ってくれと願っている。そう遠くない場所にステルスホッパーが潜ん

でいるかもしれないのだから。

「先生、一回外の道まで送ってくか?」

「…そうだな…。そうするべきか」

 少年の提案に、虎は不承不承頷いた。ふたりともルディオの事が気になっているものの、この場に旅行者が居合わせるのも

まずい。そう遠くない所に生物兵器が居るかもしれないのだから。

「い、いえ!ひとりでも大丈夫ですよ!」

 遠慮するリスキーは、「そちらこそ、何か御用事があるのでは?」とはぐらかしにかかり、

「え?あ、あぁ、まぁそうだけど…」

 歯切れの悪いカムタの反応に眉根を寄せた。

「ちょっとアンチャン探してたんだ」

「ちょっと散歩中にはぐれましてね」

 ちょっと、ちょっと、と言う少年と虎の発言に、リスキーは嫌な予感を覚えた。

(探している?はぐれただと?この島の住民なら迷子という事もないだろうに…?…まさか、新型と出くわしたのか?)

 思案は一瞬だった。リスキーはしおらしく「そうでしたか…。それでは、済みませんがお言葉に甘えさせて頂きますかね」

と頭を下げる。

 問答している時間が惜しい。下手に断るよりも素直に従って移動させ、別れてから捜索を再開すべきだとリスキーは判断し

た。いかしその決断の裏に、自分と一緒ならばある程度安全だという気持ちがあった事には、リスキー自身も気付いていない。

(アンチャン探さなきゃいけねぇけど…)

(駐在も頼っていいか確信が持てない今、巻き込んで目撃され、騒ぎになってはまずい…)

 カムタとヤンもそう考えながら、しかしまずは、リスキーをこの場から遠ざける事を優先する。

 こうしてそれぞれは、別の思惑により不本意ながら一旦木立を抜ける事にした。

(何をしているんだ、私は…)

 リスキーは内心穏やかではない。本来ならば、このふたりを振り切ってでもステルスホッパーを探すべきだった。結果とし

て追って来られ、ステルスホッパーとの交戦を目撃されたとしても、口封じで対応すべきだった。それほどに差し迫った状況

なのである。それが…。

(「正義の味方」気取りか?リスキー・ウォン…!)

 環境保護団体という嘘を信じた少年の言葉に影響されたのか。

 それとも、故郷と過去の事を思い出させられたからなのか。

 あるいは…。

(虎だから、か…)

 夜目が利くカムタの後に続き、のたくたとしんどそうに歩く肥満の虎を見遣り、リスキーは思う。

 体を動かす事は得意でないのだろう、アロハシャツの背中にはじっとりと汗染みが浮き、踏み出す足はあまり上がっていな

いので、先ほどリスキーに注意した当人が時折木の根や石に躓いており、危なっかしい。

(似ても似つかない風貌なのに、後頭部の縞模様はそっくりだな…)

 そう考えると、心なしか声にも親しみを覚えた。

(あの頃は声変わりもまだだったが、親父似のアイツは、今頃こんな太い声になっているかもしれない…)

 しかし、そんな感傷にじっくり浸っている余裕などない事を、リスキーは直後に思い出させられた。

 兆しはあった。

 普段の彼なら即座に気付いたはずだった。

 葉擦れとも、幹の軋みとも異なる、掻き音に。

「!」

 接近に気が付いた時には、もう遅かった。

 風切り音に反応して弾かれたように頭上を仰いだリスキーは、上から接近する影を見た。

 ヤシの葉の手前、頂部付近の幹を蹴り、重力加速を得て迫るソレは、その体色を、夜闇に溶け込む濃紺に変色させたステル

スホッパー。

(「蟻」!?間に合わ…、くそっ!)

 リスキーは地を蹴り、前を行く虎の背に体当たりした。

「うわっ!?」

 裏返った声を発し、うつ伏せに倒れた虎の上に、リスキーが覆いかぶさる。

「な、何を…!」

 抗議の声を上げようとしたヤンは、息を飲んだ。

 首を捩じって見たそこに、ソレが居た。

(生物…兵器…!?)

 人間に似たシルエット。ことごとく異なる細部。虫のような、ひとのような、形容し難い異形…。それが、おそらくは一瞬

前まで自分が立っていた場所を通過し、四つん這いで地に降り立ち、アリのような顎を左右に大きく広げている。

 キシキシと音を発するその顎と、鋭い大きな鉤爪を見たヤンは、リスキーに押し倒されなかったら一体どうなっていたのか

想像し、脂汗をかいた。

(くそっ!何をしているんだ、私は…!?)

 ヤンを押し倒し、その脂肪過多な背に覆いかぶさった状態で、リスキーは歯噛みした。背中に衝撃を感じた直後に宿った痺

れが、徐々に薄れて痛みに変わってゆく。

 肥えた虎を庇ったせいで、リスキーは背中に深手を負った。

 歯を噛み締めて呻きを堪えるリスキーの怪我に気付き、ヤンの顔から血の気が引く。

 動けないリスキー、そしてヤン。ステルスホッパーはキシキシ鳴きながらずいっと進み寄り…、

「どりゃぁーっ!」

 響いたのは少年の声。

 異常を察して振り向くや否や、ステルスホッパーの姿を認めたカムタは、手にしていたマグライトのスイッチを入れ、投擲

していた。

 光を撒き散らしながら回転し、飛翔したライトは、ステルスホッパーから大きく逸れて木立の中を明滅させながら遠ざかり、

パンダナスの梢に衝突した。ガゴンと重い音を立てて木に当たったにも関わらず、頑丈なマグライトは壊れる事もなく、光を

放ったままキリキリ回転し、草むらの中にゴゾリと突っ込む。

 しかしステルスホッパーは、避けなくとも当たらなかったその投擲で一瞬動きを止め、光の行方を複眼で追っていた。

 その隙に、少年は負傷したリスキーの左腕を掴み、ヤンの上から退かしつつステルスホッパーから遠ざけようとし…、

「わっぷ!」

 ヒュン、と唸った前腕の鉤爪で、咄嗟に引っ込めた頭から髪の毛を数本千切り飛ばされた。

 それでも少年は手を離さない。自分がまともに喧嘩しても勝てる相手ではないと、そのスピードを一度見て理解しているの

に、臆する事はない。

 そしてその直後、ステルスホッパーの顔に眩い光が照射された。

 リスキーに押し倒されてうつ伏せになっているヤンが、突っ伏した拍子に太鼓腹の下敷きにしてしまっていた腕を抜き、窮

屈な姿勢で身を捩じって、マグライトで目くらましを仕掛けている。

 ステルスホッパーが強い光に反応し、注視したその隙に、

「しっかりしろアンチャン!」

 カムタは威嚇するようにステルスホッパーを睨みつけながら、リスキーを引っ張り起こして肩を貸す。リスキーがいかに細

身とはいえ、大人ひとりを軽々と引き起こすその腕力は、育った環境ならではの物。

 しかし、ステルスホッパーからリスキーを庇って逃げ切るなど不可能。足の遅いヤンも逃げ切れないだろう。もしかしたら

ふたりを見捨てて逃げれば、カムタひとりは助かるかもしれない。

 が、少年はそんな事など思いつきもしなかった。

 魂が死ぬような生き方はしたくない。

 信念と呼ぶほどあらたまってもいない、自然と、しかし常に胸にある理念によって、「仲間」を見捨てて自分だけ助かると

いう選択肢は、浮かびもしない。

「先生!立てっか!?」

「あ、ああ…!」

 身を起こすなりすぐさまポケットをまさぐって、念のために持ってきた止血帯のロールを掴みながら、しかしヤンはこの場

で手当する余裕はないと、リスキーの背を見た。

 暗いのでしっかり確認はできないが、袈裟がけに裂けた薄手のシャツはジワジワと黒く染まってゆく。出血量だけで判断し

ても、決して浅くはない傷だった。

(急いで手当てしなければ…。しかし…、コイツが…!)

 ヤンはマグライトで牽制しながら、改めてステルスホッパーを見遣る。

(異形…としか言えない、まるで悪魔のような恐ろしい姿…。実際に見るのは初めてだが、これがたぶん、話に聞いたインセ

クトフォームという生物兵器か…)

 組織に飼われていた頃、噂レベルの話だったが聞いた覚えがある。虫の特色を持つインセクトフォームという生物兵器は、

最も安価なグレードでも、訓練を受けて銃で武装した成人男性に匹敵する戦力だと…。

 実戦経験が無いのはもちろん、戦闘訓練も受けた事がなく、喧嘩の経験もろくにない自分が、マグライト一本で勝てる相手

とは思えない。

 だが、一つ気付いた事がある。

(コイツ…、虫っぽい部分がいろいろ見られるが…、もしかして強い光に刺激を受ける習性があるのか?)

 実は、虫そのものとは違っても、ステルスホッパーにもその名残はある。

 マグライトを投げたカムタはこれを予想していた訳ではないが、彼らは一種の走光性を持っていた。流石に衝動的に追いか

けたりはしないが、強い光に無反応ではいられない。投げられたマグライトの光を顔を向けて追い、隙を作ったのは、この習

性のせいだった。

 微弱ながらも走光性か、あるいはそれに類する刺激反応が見られる。ヤンはいち早くそれを察し、手にしたマグライトをゆっ

くり動かすと、それを追ってステルスホッパーの視線が動く事を確認する。

 もしかしたら、光めがけて襲い掛かる生き物なのかもしれない。そう考えると怖いし、逃げ出したいが、怪我人と子供を放

り出して生き延びたとしても、魂が死ぬ。恩人の息子を見捨てたりしたら、自分は今度こそ本当に死んでしまう。

 だから、ヤンは恐怖に抗って踏み止まる。

(襲うなら僕から襲え、食いでは一番あるぞ!ただし脂身ばっかりだがな!)

 自分を奮い立たせながら、ヤンはマグライトを握った手をゆらゆら揺すり、ステルスホッパーの注意を引きつける。

「カムタ君、ゆっくり後退するぞ…」

「うん…!」

 光を目で追うステルスホッパーが宿すのは、警戒なのか、興味なのかは判らない。だが、これで追い払える訳ではない。い

ずれは安全と判断するか、あるいは飽きるか慣れるかして襲い掛かってくるのだろう。

(何とか打開策を…、何か、何か無いのか?)

 ヤンがしんがりで牽制し、カムタは後退する。少年の肩を借り、引き摺られるようにして下がらせられながら、リスキーは

苦い物でも口にしたように唇を歪めていた。

(馬鹿な連中だ…。私は、貴方達を始末しなければいけないというのに…)

 リスキーは透明なテープを巻きつけてある右手を見遣る。

 左肩を担いで支える少年は、リスキーを警戒していない。ステルスホッパーの挙動に注意を集中させている。

 ステルスホッパーと自分達の間に立ちはだかり、牽制している肥えた虎も同様。背中は隙だらけで容易く攻撃を加えられる。

(馬鹿な連中だ…)

 リスキーは手刀を作った右腕を少し上げた。背中に激痛が走り、その範囲から傷が広背筋に達している事を確認すると、

(委細、問題なし)

 左腕を担ぐ格好で支えている少年を、左膝を使って蹴り離した。

「わっ!な、何…」

 打撃を与えるための蹴りではない。押し退けるような脚の使い方で遠ざけられたカムタは、思わず腕を離してよろめきなが

らも、転倒せずに踏み止まれた。

 が、問いを最後まで発する事はできなかった。

(目撃者は全て始末する。…つくづく、嫌な仕事だ…)

 胸中で呟いたリスキーが地を蹴る。

 深手を負っているとは思えない俊敏さで、カムタの眼前から跳び、ヤンの肩に手をかけて引っ張り…。

(焼きが回ったか、私も…!)

 「わぁっ!?」と悲鳴を上げてよろめいた虎の脇を抜けて、リスキーは入れ替わりに最前列へ躍り出た。

(新型を上手く仕留められたとして、その後どうする気だリスキー・ウォン!?「黙っていてくださいね」とでもお願いして

みるか?はっ!)

 胸の内で自分に悪態をつきながら、リスキーは、少年と虎を守って応戦する事に決めた。

 できなかった。過去と故郷を思い出させる少年と虎を、始末したり見捨てたりする事は。それはきっと、リスキーにとって

の「魂が死ぬ」行ないだから。

「シッ!」

 鋭く息を吐きながら、ステルスホッパーの喉めがけて右の手刀を送り込む。

 これはインセクトフォーム全般に言える事だが、彼らの甲殻は9ミリ弾でも貫通できない。それ以外の外皮も犀の皮膚に匹

敵する強靭さだが、関節はいくらかマシ。狙うなら、関節部や複眼、口内などが効果的。

 それを熟知しているリスキーだが、

(腕が伸びないか…!)

 負傷のせいで万全とは言えなかった抜き手は、ステルスホッパーに上体を引いて回避され、指先がかろうじて触れただけ。

 しかしステルスホッパーは喉に異常を覚え、ギィッ!と鳴いた。指先が触れた箇所が麻痺し始め、目の前の男の手は「危険」

と認識させられる。

 毒手。それがリスキーの武器。右手に巻かれたテープは専用の武装であり、対生物兵器用にトキシンが塗布されている。ト

キシンは皮膚から吸収しても危険なのだが、リスキーは素手で触れても問題がない。

 リスキーの体には、ONCによる改造が施されている。

 施術により与えられた特性は「アンチ・トキシン」…つまり、トキシン耐性。リスキー・ウォンはトキシンを柔軟に活用で

きる仕様に調整されたブーステッドマンである。

 ONCが造り出した人工の赤色骨髄が移植されており、血中に抗トキシン成分を持つおかげで、トキシンでは死なない体と

なっているが、この移植を施術された者は、ONC内でもたった2名のみ。この骨髄の適合率は0.00025パーセントと

されており、体質的な問題で移植の成否が決まるため、誰にでも施せる改造ではない。

 しかも、筋力増強などの強化手術とは非常に相性が悪いため、施術してしまえば他の強化は不可能となる。その上、抗トキ

シン成分は麻酔や酒まで中和し、楽になる事も酔う事もできなくなるが、あらゆる毒に対応している訳ではないので、完全な

毒物耐性とも言えない。

 つまりリスキーは、体質以外は一般人と変わらず、肉体的ポテンシャルでは生物兵器に及ぶべくもない。

 その差を埋めるのが、訓練と知恵。

(浅い…!不十分だ…!)

 充分な効果を出すには、浅くでも傷をつけるか、広範囲に掌を密着させる必要がある。舌打ちをしたリスキーは、警戒心を

刺激されたステルスホッパーへ、さらに詰め寄り突きを放つ。背中を伝い落ちた血が膝裏と脹脛を撫で、靴の中に流れ込んで

不快な感触を産むが、構っている余裕はない。

 毒手の突きを避けて下がるステルスホッパーが、顎下から顔面を抉る軌道で振り上げた。不意を突く反撃だが、リスキーは

インセクトフォームとの戦闘経験からこれを読んでおり、詰め寄る途中でワンテンポ踏み出しを遅らせ、空振りさせる。

 すかさず右の毒手を打ち込む場所は、肘関節の内側、皮膚の露出面。しかしステルスホッパーはリスキーの右手を危険と判

断し、強い警戒心をもっており、挙動が察知できた瞬間に腕を引いている。

 攻め込むリスキーが放つのはローキック。ダメージ狙いではなく、重心を僅かにでも崩して防御のタイミングを遅らせるの

が目的である。だが、背中に走った激痛が蹴りから勢いを奪い、甲殻に覆われた脛は蹴ってもビクともしなかった。

 とはいえ、勝算が無いとは考えていない。

 喉に触れた際に僅かだがトキシンを付着させた。甲殻に覆われた部位には効かないが、皮膚部は体液が循環している。浸透

した量は僅かでも麻痺の効果は少しだけ現れ、ステルスホッパーの動きは万全の状態に比してやや鈍い。加えて…。

(コイツは、先の同士討ちのダメージがある…!)

 リスキーは気付いていた。ステルスホッパーの左腕で、ひとでいう手首から先が無くなっている事に。

(背の傷は浅くない。逃がしたら追えない…!)

 浅くない負傷により追跡は困難。なんとかこの場で仕留めたいリスキーだが、弱ったふりをしてステルスホッパーを引き留

める猶予はない。

 トキシンは酸素でも劣化する。テープに塗布してあるトキシンは、濃度を犠牲にして酸化防止の薬剤を加えてあるが、それ

でも外気に触れた状態で効果が期待できるのは五分未満。そして今は、ベルトから引き出して既に四分近く経っている。もう

一本抜いて巻き直す隙があれば御の字だが、今回は陽動する仲間も居ない。

(厳しい、が…!やるしかない!)

 鮮血に背を染めて、ステルスホッパーと単身で交戦するアジア系の若者を、ヤンは驚愕しながら見つめている。

 目が追いきれないステルスホッパーの卯木木と、それを読んでいるようにかわし、反撃するリスキー。速過ぎて何が何だか

判らない。乱打戦にもつれ込んだボクシングの試合に、手数とスピードだけは似ているが、双方共に当てられないし当たらな

い。まるで入念に打ち合わせし、練習した殺陣のように、刺激的で美しい。

 だが、だからこそ疑問と驚愕を覚える。

(聞いた話だと、生物兵器というのは一般人が束になっても敵わないらしいが…、だったら、この男は…!?)

 言っていた男が話を盛っていたか、リスキーが一般人ではないかの、どちらかという事になる。

(後者、か…!)

 ヤンはじりじりと後退し、カムタに手が届く範囲に移動した。

(カムタ君は、「最初は環境保護団体を疑って、結局無関係だった」と言っていたが…、実際の所、その環境保護団体を名乗

る連中が生物兵器を探していたんだろう。そして、非合法組織が、目撃者を放置するとは思えない…)

 口封じのために殺そうとするはずだと考えるヤンは、しかしそれではリスキーの行動に説明がつかない点がある事にも気付

いている。

(どうして僕を庇った?そのせいであんな傷まで負った…)

 虎の目は、怪物と渡り合うリスキーの、真っ赤な背を注視する。

 本当は共倒れになる事が望ましい。しかし…。

(どうして…)

 その視線に気付く事がないまま、目の前の敵に集中するリスキーは、しかし負傷のため、徐々に動きから精彩を欠き始めた。

 痛みを精神でねじ伏せても、筋肉が傷つけば物理的に力は落ちるし、出血も体力を奪っており、呼吸も乱れだしている。

 火薬や硝煙を敏感に察知する危険生物も居るため、銃での武装を好まないリスキーだが、今回ばかりは携帯しておいた方が

良かったかもしれないと、頭の隅を後悔が掠めた。

 離脱して再戦を狙うにも、逃走のタイミングは失した。もはや退く事はできない。

(刺し違えて討ち果たしても、目撃者は残る…。最後の最後で、フェスターを怒らせるような仕事になったな…)

 眉の上を爪に掠められ、浅く切り傷を負ったリスキーの顔が、苦笑に歪んだ。

 その顔が見えていた訳ではないが、ヤンは決断を下さなければならないと感じた。

「…カムタ君。ゆっくり下がって、充分に距離を取ったら走って逃げろ」

 肥えた医師に厚い掌を向けられた少年は、

「何で?」

 即座に訊き返した。自分だけ逃げるという選択を持っていないので。

「何でって…、ここに居たら危な…」

「危ねぇよ。でも、もう逃げなくていい」

 力ずくでも追い払う。そう決めたヤンは少年を振り返り…。

「来たぞ…!」

 カムタは確信を込めて、一点を見据え、呟いた。

 少年は待っていた。マグライトを投げた瞬間から。

 あれは、ステルスホッパーに当てようとは思っていなかった。強い光に反応する事も知らなかった。

 だが、一つだけ思いついた事があった。

 灯りも少ない島の木立…。

 宵闇の暗がりの中で目立つ強い光…。

 「何かを探しているもの」が近くに来ていれば、ほぼ確実にこれに気付く。

「アンチャン!ここだ!」

 少年の声に答えるように、ザサッ…と草が揺れた。

 マグライトが落ちた茂みの脇に、闇の中からぬぅっと現れたのは、茶と白のツートーンで彩られた巨体。

 気配を察知したステルスホッパーと、視界に捉えたリスキーが、反発する磁石のように飛び退いて、互いに距離を取る。

 リスキーから視線を剥がして素早く振り向いたステルスホッパーが、獣と正対してギシィッ、と鳴いた。気が抜けない相手

であるリスキーに、背を向ける事も厭わずに。

 それは、警戒の声か、威嚇の声か、それとも…。

(昼間のセントバーナード…?いや…、違う…?)

 リスキーは闇に佇む獣を確認し、奇妙な感覚に囚われた。

 印象が違う。昼間見た時は、大柄ではあっても威圧感がない、無害で大人しそうな巨漢…というイメージだったが、今は何

とも形容し難い印象を受ける。

(妙な雰囲気を纏う…、というか、何というか…、いや…、雰囲気が…「ない」…?)

 例えば「大人しそう」。例えば「荒々しい」。例えば「小賢しそう」など、ひとは概ね、他者に対してそういった何らかの

イメージを持ち、雰囲気として捉える。

 だが、その獣には何もない。硬質で、無機質で、何も読み取れなかった。

 獣は茂みの中のマグライトを一瞥し、それから視認範囲内に居合わせた四者に、その硬質に輝く琥珀色の瞳を、順番に向け

て行った。

 最初にもっとも遠い位置のカムタ。次いでもっとも近いステルスホッパー。次にカムタの手前のヤン。最後に視線を向けら

れたリスキーは、

「!?」

 ゾクリと、傷が走った背筋に寒気を覚える。

 これまでに自社のインセクトフォームは勿論、その他の危険生物、他社の製品とも相対してきたリスキーだったが、今回は

本能的な戦慄を禁じ得なかった。

 獣の視線の意味を、リスキーは直感的に悟っていた。

 それは、観察の目。

 害か否か。危険度はどの程度か。排除すべきか。放置すべきか。そういった確認をするための視線だと。

 そしてその獣が、確認の末にどう判定したのか、リスキーはすぐに知る事となった。

 グッと、太い腰が沈む。獣はステルスホッパーに視線を据えて、軽く両肘を曲げて重心を低くし、身構える。

 直後、その巨体が飛び出した。カタパルトから弾き出されたような勢いで。

 移動で巻き起こした豪風で下生えを揺すり、猛然とステルスホッパーに迫る獣の動きをかろうじて捉えたリスキーの目が、

大きく見開かれる。

(何だ?何だコイツは!?)

 自社のブーステッドマンと比較しても、その速度は異常だった。その体の大きさと重さを考慮すれば、なおさら。

(民間人ではない…!そんな事はありえない…!)

 他の組織の構成員だったのか?と一瞬考えたリスキーだったが、その推測にすらすぐに懐疑的になった。そもそも、他の組

織と比べて一歩進んでいるONCの基準で言っても、あそこまでの瞬発力を付加する改造は実現不可能。

 迫る獣に、ギシィッ、とステルスホッパーが鳴く。

 ステルスホッパーは、今夜一度獣と出会っていた。片手を失っていたのはそのためである。そして、傷を負わされて逃げ、

回復のための食料を得ようとしてカムタ達を襲っていた。

 失策だったのは、獣をまいたと判断した事。追跡者は、実際にはすぐ後ろまで追いついていた。

 鳴いたステルスホッパーの顎が大きく左右に開かれ、そこからバシャッと、液体が吐き出される。

 接近する獣めがけて吐き出されたそれは、強力な酸。蟻の因子も併せ持つステルスホッパーの奥の手だった。

 人間であれば皮膚から筋組織、骨までを数秒で腐食させられるその酸へ、しかし獣は避けようともせずに突っ込む。

 そして、リスキーは見た。

 顔面から浴びる軌道で接近する獣の、正にその眼前で、コップの水をかけるように帯となって伸びた酸が、パンッと弾け、

霧になる様を。

(能力!?この男、何らかの「能力者」なのか!?)

 見えない壁に阻まれ、弾かれ、粉々に砕けたように霧状になった酸は、獣の巨躯に触れる事を恐れるように、猛然と突き進

むその体を避けて、剛風に吹き流される。

 その、霧の残滓を押し分けて伸びる、獣の右手。掴みかかるように五指を広げた大きな手から、ステルスホッパーは大きく

後ろに跳ぶ格好で逃れる。

 しかし間合いは開かない。獣は跳ね飛んだステルスホッパーに一瞬離されたものの、着地点に近付き速度が減衰した跳躍へ、

走力で追いつこうとしている。

 ギシィ!と鳴いたステルスホッパーは、着地するなり今度は上へ跳躍した。触れる寸前で空を切った獣の右手は、軌道上の

空気を握り込んでバフっと圧壊させる。

 地面を抉り返しながら足を踏ん張り、四つん這いに近い格好で姿勢を低くし、急制動をかけた獣は、跳び上がったステルス

ホッパーを目で追った。

(逃げるのか!?)

 リスキーは瞠目した。跳躍したステルスホッパーの背で、肩甲骨と筋肉の盛り上がりのようにも見える甲殻が開き、その下

から薄い翅が広げられている。

 向こうが透けて見えるほど薄い、一見儚げなその翅は、しかし300キロの重しをつけられたままでも飛翔が可能。

 翅の羽ばたきに支えられてふわりと浮き上がったステルスホッパーは、宙でキシキシ鳴きながら獣を見下ろす。

 空を飛ぶ。そんな逃走手段に対し、流石に武器も帯びないひとの身では取れる手段もない。

 そう、カムタも、ヤンも、リスキーも考えた。が…。

 獣はヤシの木よりも高く飛翔し、逃走しようとするステルスホッパーをしばし見上げていたが、やがてぐっと身を屈めた。

(まさか…!?)

 リスキーは獣が取ったその姿勢の意味を悟りながら、にわかには信じられなかった。

 突進前に身構える姿勢とも、制動のために重心を落とすのとも違うその姿勢は、跳躍のためのもの。

 そして不意に、居合わせた三者は耳の奥にこそばゆいような痒みを覚えた。気付けば肌にも同じような感覚があり、微かに、

小虫の羽音のようなブゥゥゥン…という震動音が聞こえている。

 それは、時間にして一瞬の事。三者が謎の現象に気付いた次の瞬間には、ドン、と重々しい衝撃音が響き渡り、何かが炸裂

したように土くれが四方へ飛び散り、獣が蹴った箇所を中心にして下生えの草が波打った。まるで、波紋のように。

 そしてリスキーは、見開いた目を上へ向けた。鈍重そうなその巨体が、垂直に跳ね上がるのを追って。

(な、何という跳躍力…!)

 次の音は、また、羽虫の飛翔音に似た物だった。

 見上げるリスキーは目撃した。苦鳴か、驚愕か、鳴き声を上げるステルスホッパーと、その背中側に浮かぶ巨体を。

 獣はステルスホッパーのバックをやや上方で取っており、両腕の肘を外に張り、胸の前で掌を向け合い、それをググッと、

力を込めて寄せてゆく。

 まるで、胸の前で目に見えないボールか何かを押し潰しているように、何もない空間を圧縮して…。

(いや、「何もない」わけではない!何か…、見えない何かがあそこに!?)

 リスキーはまたしても、肌と鼓膜にムズ痒さを覚えた。自分達よりも獣とステルスホッパーに近いヤシの頂上で、その葉が

ビリビリと鳴っている。明らかに風による震えではない。その現象の中心が、獣が向けあった左右の掌の間にあるとリスキー

は感じる。

 時間にして一秒かそこらで、獣は両腕を広げた。反発する何かに弾かれたように、勢いよく左右に開いた腕は、相当な負荷

がかかっているのか、静止した際に筋肉がボコリと盛り上がった。

 そして、不可視の破壊が撒き散らされた。

 ステルスホッパーの薄くも強靱な翅が、一瞬でズタズタになり、千切れ飛んだ。

 翅だけでなく、その背中までが細かなひび割れを生じさせ、深い断裂をいくつも、幾重にも刻まれ、淡い黄緑色の体液を噴

出させる。

 上空15メートル。月をバックにシルエットだけとなった両者の姿は影絵のようで、現実味が薄い。細かく千切れて舞う半

透明の翅を透かして注ぐ月光は、惨憺たる駆除に似つかわしくないほど美しかった。

 そしてステルスホッパーは、見えないハンマーででも殴られたかのように高速落下。ヤシの幹に激突してから地面に叩き付

けられる。
ギィギィ鳴いて身悶えするステルスホッパーの全身は、背部を中心に無数のひび割れと、ジクジク溢れる体液に覆

われていた。

 その正面に、落下して来た獣の巨体がズシンと、四つん這いで着地する。

 そしてコマ落としのように、その巨躯は間合いをゼロまで詰めた。

 ステルスホッパーは、なおも逃げようと両腕を地面につき、上体と顔を起こして…。

 ボギュッ…。

「う…!」

 ヤンが目を逸らす。リスキーが驚愕に顔を歪ませる。カムタは真っ直ぐに見つめている。

 獣は、ステルスホッパーの顔面を鷲掴みにし、鋭く捻って首をへし折った。あまりの勢いに、首を覆う皮膚が破れ、筋組織

が露出している。

 しばし両腕を地面に突っ張ったまま、ビクンビクンと痙攣していたステルスホッパーは、間近からじっと琥珀色の目を向け

られながら、やがてべしゃりと、潰れるように倒れ伏した。

 痙攣は続いているが、もう危険はない。そう判断したのか、獣はのっそりと直立すると、顔を巡らせてカムタを、次にヤン

を、最後にリスキーを見遣った。

 そして、視線を固定し、足を踏み出す。リスキーに向かって。

(参ったな…)

 リスキーはかろうじて立ったまま、迫る獣を前に、乾いた笑いを浮かべた。

 それは、諦め混じりの笑い。絶望と、そして「これはもう仕方がない」という観念の笑み。

 冷たい琥珀の瞳が自分をどう捉えたのか、嫌でも判った。

(万全でも、勝てるとは思えない…。流石にここまでか…)

 獣はリスキーの右手…効力をほぼ失ったトキシンテープを見遣り、それから顔に目を向け、右手を上げ、眼前に到達すると

同時に無造作に、無遠慮に、その顔面を鷲掴みにした。

(この殺し方…。腕と首を引き千切られたステルスホッパー…。そうか…。最初の殺しと、分解されたステルスホッパーは、

この手で…)

 どうりで殺し方が一定しない訳だと、すっきりした気分で理解したリスキーは、抵抗もせずに肩の力を抜いた。そして…。