Act in secret

「ダメだアンチャン!」

 闇を抱える木立に響いたのは、少年の声。

 五指を広げ、リスキーの顔を鷲掴みにしていた獣は、動きを止めた。

 そのまま腕を捻ればリスキーは死ぬ。獣には、ステルスホッパーよりも脆い人間の首など、へし折るのは容易い。

 しかし、カムタの声に反応したのか、それとも別の要因があったのかは不明ながら、寸前で思い留まったように止まった獣

は、スンッと、鼻を鳴らす。

 とりあえずホッと安堵のため息を漏らしたカムタは、

「…アンチャン…?」

 リスキーの顔を掴んで捉えたまま、しきりにスンスン鼻を鳴らしている獣の仕草に、眉根を寄せて見入った。

 リスキーは、任務の前に薬品を使い、対象に感付かれ難いよう体臭を消す。その薬品の作用で希薄になった体臭を、獣は入

念に嗅いでいた。何かに気付き、確認するように。

 そして不意に、リスキーの顔を掴んでいた指を広げ、手を引っ込めてだらりと下ろす。

 視界を取り戻したリスキーの目に映るのは、狼の目をしたセントバーナード。しかしその琥珀に輝く双眸は、瞳孔から周囲

に向かって色を暗く、濃く変えてゆき、やがてトルマリンの色が瞳に戻る。

「………アンタは…」

 口を開いたセントバーナードは状況が判らず、きょとんと不思議そうにリスキーを見つめた。そして思い出したように目を

丸くし、

「カムタ…。カムタは?」

 首を捻って見回して、少年の姿を確認した。

「正気に戻ったか?アンチャン」

 少年は恐れる様子もなくルディオに歩み寄ると、「詳しい事は、後でまたちゃんと説明すっからな?」と告げ、前後の状況

がよく判っていないルディオは、素直に頷いて少年の判断に従う。

「怪我ねぇかアンチャン?痛ぇトコねぇか?」

「どっちもない」

「そっか!よかった!」

 巨漢の負傷の有無を確認したカムタは、次いで、ルディオと向き合ったまま立ち尽くしているリスキーに目を向けた。

「アンタは、ホントはセーブツヘーキを探してたんだな?」

 リスキーは返事をしなかった。大量出血で色が悪くなった顔に、ただ、疲れ切ったような笑みを薄く浮かべて…。

「あ!」

 声を上げたカムタの横で、ルディオがさっと手を伸ばした。

 力尽きて気を失い、膝から崩れ落ちたリスキーを抱き留めたセントバーナードは、その背中に深く刻まれた傷に気が付く。

 咽るような生臭い、新鮮な血の匂いに鼻をひくつかせ、ルディオはカムタに顔を向けた。

「カムタ。おれがやったのか?」

「アンチャンじゃねぇよ。やったのは…、アイツ!」

 カムタが顎をしゃくった先には、首を折られて事切れたステルスホッパーと、絶命しているかどうか確認した上で、それで

も監視するヤンの姿。

「あっちは、おれがやったのか?」

「そうだ。アンチャンがやっつけてくれた。来てくんなきゃオラ達ヤバかった」

「…何匹居るんだろうなぁ?」

「判んねぇ。いっぱい居たら困るけど…、このひとは知ってんじゃねぇかな?」

 カムタとルディオはリスキーの顔を覗きこむ。そして、出血により顔色が悪くなっているだけでなく、唇まで薄紫に変色し

ている事を確認し…。

「アンチャン!?もしかしてこのひとヤバくねぇか!?」

「ん。たぶん危ない。ちょっと体が冷たい気がする」

 のんびり状況確認している場合ではないと察し、顔を見合わせたふたりは、医師であるヤンに目を向ける。しかし、ふたり

に求められている事が何なのか察したヤンは、厳しい顔だった。

「…確認したい事が、いくつかある」

 肥えた虎は険しい表情のまま、リスキーの手当てを望むふたりを見返した。その瞳はこころもちルディオの方に中心線を寄

せており、一転して元の無害そうな様子に戻った巨漢の挙動を警戒している。

「その男は危険だぞ。確かに情報は持っているかもしれないが、カムタ君も見ただろう?彼は、この怪物とまともに戦える…。

目が醒めた時、僕達に襲い掛かって来たなら…」

 敵わない。絶対に。ヤンはそう確信している。先ほどまでのルディオならば対抗できるだろうが、そもそも、「あの状態」

のルディオが自分達にとって危険か否か…、「味方」と考えてよい物かどうかという事も判断できていない。下手をすれば、

自ら危険を抱き込む事になりかねないのである。

「でも、先生を助けてくれた。それに、オラ達を置いて逃げる事だってできたのに、怪我したままアイツと喧嘩した。オラ達

が後ろに居たからだ」

 少年が言った事には、ヤンも気付いていた。咄嗟の判断で自分を救った事も、自分達の前に出て怪物に応戦した事も。

 それでもなお、あえて危険性を説いて判断を促したのは、彼にとってカムタは決して死なせられない子だから。状況を知る

より情報を得るより、カムタの安全を優先すべきと考えたから。

「こっちも助けて貰ったんだ。今度はこっちが助けなきゃいけねぇよ」

 きっぱりと応じた少年の目に、表情に、迷いが一片もない事を見て取ったヤンは、「…判った」と頷くと、ポケットから包

帯のロールを取り出す。

「今できる処置はその場しのぎにしかならない。すぐにも輸血と縫合が必要な傷だ。急いで戻って手当てをしよう。…しかし

その前に…」

 肥えた虎はステルスホッパーの死骸を見下ろした。

「コレはどうするか…」

「放っておけばいいんじゃねぇかな?持ってってくれるんじゃ…」

「誰が持って行く?」

「…あ!」

 ヤンが難色を示すと、少年は思い直した。

 危険生物を回収に来たのがリスキーなら、彼が怪我をした今、誰がこの死骸を持って行くのか?他に仲間は居るのか?島を

走っていた連中がそうなのか?その仲間が持って行ってくれるだろうか?確実と言える見通しは、一つも立たない。

「島の誰かが見つけて大騒ぎになったら困るし、回収してくれるかどうかも判らない。なるべくなら隠したいが、今は埋めて

いる時間も惜しい…」

「じゃあ持ってこう!」

 カムタが言うが早いか、ルディオは気絶しているリスキーを左肩に担ぎ上げ、のっしのっしとヤンの元に歩み寄ると、一度

リスキーを降ろしてステルスホッパーの腕を掴んで引き起こし、リスキーを担ぐ側とは反対の肩に担いだ。異臭を放つ体液が

ボタボタ垂れて被毛に染み込むが、お構いなしである。

 その間に、放り投げたマグライトを回収し、目につく範囲で飛び散っていた翅の残骸を可能なだけ拾い集め、駆け戻ってき

たカムタは、ルディオが一旦下ろしたリスキーの胴に包帯を巻き、応急処置の止血を施しているヤンに頷きかけた。

「ソレ終わったら急いで行こう先生!」

「…ああ…」

 頷くヤンは、やはりこの子はあのひとの息子なのだ、と強く感じた。

 これだけの異常に接しながら取り乱さない胆力。そして、命を生きるその理念。

 ヤン自身は、本当は恐ろしい。リスキーが目を醒まし、襲い掛かっては来ないかと、嫌な想像をしては身震いしてしまう。

 本当は、ヤンは気が弱い男である。強い口調を心がけているのも、パイプを咥えたりロックを聴いたりしているのも、そん

な自分を強く見せるため。ただしそれは自尊心のためではなく、自分を頼る患者に弱みを見せて不安がらせたりしないため。

 だからヤンは今も、カムタとルディオの手前、落ち着いているふりをしている。そしてこの後も、落ち着いているふりをし

ながら、危険な男の治療をしなければならない。

(ストレスで脱毛症にならなければいいが…)

 マグライトを消し、夜目が利くカムタに先導されて自宅兼診療所に急ぐヤンと、荷物を軽々担いでその後に続くルディオは、

気付いていなかった。

(あ、アイツは…!)

 暗がりに隠れて息を潜めるその男は、巨体で固太りのセントバーナードを凝視していた。

 沈没した輸送船の元乗組員。同時に、船を爆破するよう命を受けていた裏切り者。そして今はショーンの配下となっている、

パーターである。

 去ってゆくセントバーナードを見送るパーターの顔は、脂汗でじっとり濡れて、月光を反射していた。

(アイツはやっぱり、あの時の…!)



 滑り止めに、ざらついたラバーコーティングを施された鉄板が、獣の牙のように尖って、めくれ上がっていた。

 ずたずたになった後部甲板は火の手が上がり、警報がけたたましく鳴っている。

 不燃材の特殊コーティングだが、火が燃え移らないだけで、熱を無効にする訳ではない。甲板上には溶けて焦げた樹脂の匂

いが立ち昇るものの、駆け抜ける強い沖風が、それらを連れ去ってゆく。

 冬の嵐に牙を剥かれ、炎を上げるONCの輸送船は木の葉のように弄ばれていた。

 その、突然の爆発と損壊に身を蝕まれた輸送船の上で、強風と、細く鋭い雨に全身を叩かれながら、パーターは階段の影に

隠れ、ガタガタ震えながら「ソレ」を見ていた。

 甲板には、倒れ伏す二つの人影と、立っている大きな影。

 倒れているのはいずれも船の乗組員で、ブーステッドマンである。

 立っているのはひとりだが、重なる影はもう一つ…。大柄な影が、別の影を吊し上げていた。

 茶色と白のツートーン。身長2メートルを超えているだろう巨体。感情を窺わせない無表情な顔。

 「ソレ」はセントバーナードの獣人だったが、「ヒト」と分類する事に躊躇いがあった。

 動物的という言葉があるが、ひとからかけ離れたその印象は、動物どころではない。インセクトフォームよりも本心が窺え

ない。もっと、さらに、それどころではなくかけ離れた何か…、そんな印象がある。

 その獣の逞しい右腕が、喉を掴んで吊し上げているのは、舌をベロリと吐き出して泡を吹いている、トカゲの獣人…、これ

また巨体のコモドドラゴン。

 獣は、首を折られて鼓動を止めつつあるコモドドラゴンをじっと見つめていた。まだ危険かどうか見極めているように。

(ブーステッドマンが…、さ、三人がかりで…!?)

 パーターが震えながら見守る中、やがて獣は興味を失ったようにコモドドラゴンを床へ落とすと、顔を少し上げてスンスン

と鼻を鳴らし、それからくるりと、首を巡らせた。

「!?!?!?」

 恐怖と寒気で、パーターは硬直した。

 獣は、隠れて様子を見ていた男を真っ直ぐに見据えていた。

 揺れる炎を映して金色に近くなった琥珀色の双眸が、冷たく輝きながらパーターの目と記憶に焼き付いた。

 逃げなければ。そう考えるのに体は動かない。足が竦んでいう事を聞かない。

 のっそりと、大股に歩み寄ってくる獣を前に、悲鳴を上げそうになった男の視界は、しかし、一瞬で赤く染まった。

 パーターがショーンの命令で、輸送を失敗させるために仕掛けておいた爆弾の残りが誘爆し、輸送船は爆炎に包まれて大破

した。

 パーターは、たまたま踏んでいた場所が一枚の鉄板だったため、それが盾になって爆発の衝撃と炎から守られた上で、吹き

上げられた鉄板に乗って海面に放り出された。

 一度海中に没し、混乱しながらも浮上したパーターは、海面から見上げた。自分が寸前まで乗っていた船の、炎を上げなが

ら沈んでゆく最後の姿を。

 獣は、パーターの眼前で炎にのまれたきり、姿が見えなくなっていた。



(生きていたのか!?)

 少年と、虎と、セントバーナードが闇の中に消えるまで、震えながら隠れていたパーターは、その後もかなり長いこと息を

潜めていたが、やがてそろり、そろり、と茂みから歩み出る。

(ほ、報告だ…!ショーンに報告を…!いや待て!行き先を確認しなければ…)

 パーターは迷った。逃げ出したいが、ここで退いては役立たずだと思われる。リスキーを連れてゆくあの三名の行先を突き

止めなければ、ショーンは成果と認めないだろう。

(くそっ!追うしかないのか!)

 逃げ場のないチキンレースにでも、強制参加させられている気分だった。



「見つからないだと…!?」

 部下から報告を受けたフェスターは、白い顔を真っ青にしていた。

 ショーンが動いている今、悠長にホテルに戻って休む気にはなれず、フェスターは係留してある船の船室内に陣取り、報告

を待っていた。

 そして、ようやく報告が来たと思えば…。

「リスキーが…、か…?」

 鷲鼻の男は愕然とした。

 手掛かりを得て追跡に出たきり、リスキーが戻らない。あまりにも遅いので、現場の独断で捜索しているが、いまだに見つ

からない。見つかったのはひとの血痕と、戦闘の跡と思われる地面が荒れたポイントと、インセクトフォームの体液、そして

細かく千切れた翅の一部だけ。衛星回線で連絡しようと試みたが、応答がない状況が続いている。

 連絡をよこした部下も少なからず動揺していたが、ショーンがおこなった人海戦術の経過も含め、要点を押さえた報告になっ

ている。

「…捜索を、続けろ。新型ではなくリスキーを、だ。新型と遭遇した場合は、無理な交戦はするな。何もなくとも一時間おき

に報告を寄こせ。人員の確認を徹底しろ」

 指示を出すフェスターの声は堅く、通話を終えた直後に発した悪態は低く響いた。

 新型が事前評価以上の性能を有していた事を確認した今、リスキーを欠いた面子で事態にあたるのは危険と認識できた。そ

れどころか、リスキーが敗北したとすれば、今の戦力では収拾がつかない可能性が高い。優先事項だからといって、効果がな

いと判っている無駄弾を撃つのは愚策。有効打の準備をしつつ仕切り直すべきだと、フェスターは判断を下した。

(数頼みは不本意だが、この際は仕方あるまい。増援をかけるか…。最悪の場合、新型に対抗できるタイプを送らせて、私が

マスター登録を…)

 商品を減らしたくはないので気が進まないものの、ステルスホッパーと戦えるインセクトフォームを呼び寄せ、ぶつけると

いう手段もある。

(納期の余裕次第だが、輸送中、あるいは準備中の商品で、すぐに呼び寄せられる範囲内に使えるタイプは居ないか…?)

 検討し始めたフェスターは、端末を操作しつつ額に手を当てた。

(リスキー…)

 使える男だった。片腕として評価していた。いつでも望むだけの成果を上げてくれた。それが…。

(馬鹿者め…。戻って来たらペナルティだ…!)

 苛立ちを押し殺し、データベースにアクセスしたフェスターは、

(確か、シドニーから発送するプレデターマンティスが居たな…?あれを運ぶ輸送船は、ポートモレスビー経由でハワイ行き

だったか…)

 ふと、事件対応の為に発つ直前に決裁した輸送計画の事を思い出した。

 新型と違い、隠密行動に向かないインセクトフォームだが、殺傷力は非常に高い。戦闘という一点においては新型に引けを

取らないどころか、一対一の白兵戦に限ればより高性能である。

(ただし高級品だがな…)

 背に腹は代えられない、と情報を呼び出したフェスターは、

「…ん?」

 ブラウザが浮かべた追跡不能の表示に眉根を寄せる。

「通信不調か?…むう…」

 数度リトライしてから、フェスターは眉間に深い皺を刻んだ。何度試しても同じ。他は閲覧できるが、このケースだけ見る

事ができない。アクセスが悪い訳ではなかった。

(どういう事だ?)

 フェスターの目が鋭くなる。彼の権限でも閲覧できない状態にされているのは、いったい何故なのか…。

(シドニーを二日前に出て、ポートモレスビー経由で…)

 輸送船の情報から、船自体は予定通りに運行している事を確認したフェスターは、

「まさか!?」

 突然声を上げて席を立った。

(執行には、私と同格かそれ以上の権限が必要になる閲覧制限…。シドニーから移動する輸送船…。今日到着したショーン…。

ポートモレスビーからこの島は……………。あの骸骨め!)

 憤りと疑念が濃くなった。

 もし自分が考えているとおり、ショーンが来る途中で接収したのだとすれば…。

(手際が良過ぎる、まるで事前にシナリオを組んでいたように…!アイツめ、何を企んでいる!?)





 思い立ったフェスターが、端末を操作してさらに様々な事を調べ始めたその頃、島に一つの診療所では…。

「大丈夫かな、あのひと」

 居間の椅子に腰かけ、テーブルに頬杖をついたカムタが呟くと、隣に座ったルディオは、タオルで頭をグシグシ拭って湿気

を取りながら、ドアを見遣った。

「先生に頑張って貰うしかないなぁ」

「だな」

 ヤンはリスキーを診療室に運び込ませ、傷の手当てをしている。ふたりは湯を沸かして最初の準備こそ手伝ったが、その後

はこちらで待機を命じられた。何かあったら呼ぶから、と。

 輸血が必要な傷だったが、幸いにも診療所には備えがあった。大きな病院がある島からは遠く、いざという時の輸血が間に

合わないと考えたヤンが島民に呼びかけて、輸血用の血液を定期的に提供して貰っているので。もしそれが無ければリスキー

は助からなかっただろう。

 実はヤンには、リスキーの手当て以外にもしなければいけない事が色々とあり、到着直後は非常に慌ただしかった。

 最初にしなければならなかったのは、ステルスホッパーの体液が有毒か否かという疑問に端を発した、消毒である。

 明るい所に来て初めて気付いたのだが、リスキーの手にテープが巻かれていたのがその原因で、ヤンはこれを、直接触れる

事を避けるための物ではないかと疑った。

 ただし、完全に覆うのであれば手袋を着用するはずだと考えたので、毒性があったとしても、付着した程度で命に別状があ

るような物ではないと、同時に推測している。

 テープのトキシンは既に分解されて無害になっていたが、ヤンは職業柄不用意に扱わず、直接触れずにピンセットで扱い、

特別おかしな事はないと判断し、念のために瓶に入れて検査を後回しにした。

 死骸を運んで来る間にたっぷり体液を浴びたルディオは、消毒液を大量に渡され、バスルームで身を清めた後、皮膚と体毛

に異常が生じていないか確認して貰い、とりあえず大丈夫だと診断された。十分おきに皮膚に異常が出ていないか確認するよ

う申し渡されて。

 死骸から採取した体液でおこなった簡易テストでは、特に有害性はなさそうだったので、結果的には取り越し苦労な訳だが、

ヤンの判断と用心深さは信用できると、カムタもルディオも改めて感じた。

 手当てが終わるまで時間もあるので、カムタはルディオに、目の色が琥珀になってから正気に戻るまでの経緯を語った。前

回までと変わらず、全く覚えがなく、話を聞いても思い出せないルディオだったが、カムタが無事だったのでよしとする。

(おれの意識が無い間、この体を動かしているヤツは…、本当にカムタには何もしないのかぁ…。そして、先生にも何もしな

かった…。なのに、あのリスキーっていう男には、手を出そうとしたんだなぁ…?)

 自分の手を広げ、違和感が消えない掌をじっと見つめ、ルディオは「違い」について考えた。

 カムタを襲わない。これは偶然などではなく、ほぼ確定事項に思えた。そして今回はヤンを襲わなかったが、怪我人のリス

キーには手を出そうとしていた。結果的には思いとどまったようだが、カムタの制止を聞き入れたのか、それとも他の何かが

原因だったのか、判断のしようがない。

(敵かどうかを、何かで判別してるのかもなぁ…)

 ルディオはしばし考え、それからある推測を口にした。

「警官は襲った。生物兵器も。それからリスキー…。全部、武器を持っていたり、ひとを殺せる力があったりした…」

「ん?何だアンチャン?」

 顔を向けてきたカムタに、ルディオは「たぶん、共通点があるんじゃあないのかなぁ」と、垂れ耳を後ろに寄せて説明した。

 意識が無い状態で自分が攻撃した、あるいは攻撃しようとした相手は、武装しているか、生身でもひとを殺せる力を持つ者

だった。警官やリスキー、生物兵器はこれに当たる。そして、琥珀色の目になった状態で手を出さなかったのは、カムタとヤ

ン…、丸腰で、殺傷力が民間人とそう変わらない存在。

「襲うかどうかの差は、そこなんじゃないのかなぁ?」

「あ~………」

 カムタは改めて振り返り、「そうかも」と頷いてから丸顔を紅潮させた。

「んがー!恥ずかしー!」

「どうしたんだぁ?」

 不思議そうな顔をしたルディオに、「だってさぁ」と頭を抱えたカムタが口を尖らせる。

「オラは自分の目で見てきた。アンチャンは覚えてなくて、オラから話きくだけだ。なのにオラより先にアンチャンが気付い

た。たはぁ~っ!やっぱ頭悪ぃなオラ…!」

「それは、おれの事だからなぁ。…おれの事、まだ全然わからないけどなぁ」

「ほら、判んねぇだろ?そういうの、オラがちゃんと見て、気付いて、アンチャンに教えてやれなくちゃいけねぇのになぁ…」

 机に顎をつけて突っ伏したカムタは、「でも、これでイッコ前に進んだな」と呟いた。

「ああなっちまってもアンチャンは普通のひとに手を出さねぇ。で、オマワリさん時も、閉じ込められるまでは何もしてねぇ。

アンチャンが「ああなる」のは、危なくなった時とか、危ねぇって判ってる何かが出た時なんじゃねぇかな?今夜はたぶん、

セーブツヘーキが近くに居るって判ってああなったんじゃねぇかな?」

「わからない。でも、そうかもしれない」

 答えながら、ルディオは少しホッとしている自分に気付く。

 確定ではない。だが、我を忘れたようなあの状態で、カムタに危害を加えないとしたら…。

(おれが傍に居れば、カムタは守られる。危ないヤツが排除されるから。生物兵器があとどれだけ居るかわからないからなぁ、

なるべくカムタから離れないようにしよう…)

 不思議な気分だった。何せルディオが自分で見て、聞いて、知っているのは、本当に危ない事が起きた前後の部分だけ。事

が起きている最中の話はカムタから教えられるしかない。そういう意味では、ルディオは当事者でありながら状況に最も疎い。

「さてと!」

 話が一区切りつくと、カムタは腰を上げて伸びをした。

「飯作ろう!手当て長くかかんだろうし、センセーも疲れるだろうし、ビョーニンは腹に優しいモン食わなきゃいけねぇから

な!…ケガニンもビョーニンも似た感じだよなアンチャン?ショーカにいいモンじゃねぇとダメだよな?」

「たぶん」

 頷いたルディオは、「家に戻るのかぁ?」と立ち上がったが、

「うんにゃ、ソコの台所使わして貰う」

 少年はリビングの端にあるキッチンブースを指し示した。そこはカウンターで区切られたホームバーのようなレイアウトで、

ガスと電気ヒーター、オーブンレンジ、調理器具類なども完備されている。

 ただし、ヤンがここで作るのはレトルト及びインスタント食品。料理ができない訳ではないが、得意でもないし自分独り分

だけ作るのも面倒。だから、器具だけは揃っているが、もっぱらレンジ以外は出番がない。たまに島民からおすそ分けの魚介

類を貰う事もあるが、そもそも魚が捌けないのでテシーの店に持って行って調理して貰い、ふたりで酒を飲みながら肴にする

か、カムタに譲るかのどちらかである。

「アンチャン眠くねぇか?夕べも寝てねぇんだから、休んだ方が良くねぇか?」

 カムタは気遣うようにルディオの顔を見上げる。昨夜は一睡もしていなかった上に、先ほどまでは、意識が無かったとはい

え生物兵器を探索し、そして仕留めるという労働をしていた。疲労が溜まっていないかと心配になってしまう。

「まだ平気だなぁ。たぶん」

「たぶんか…。眠くなったら無理すんなよアンチャン?寝てていいんだからな?」

「わかった」

「眠くはなくても、腹は減ってるか?憶えてなくたってアンチャンは働いてんだ、体力つくように美味ぇモン作るんねぇとな」

 ルディオは即答せず、尻尾をはたっと振った。この正直な反応に、カムタは腹を揺すって笑う。

「んじゃ、せっかくだから家じゃ作れねぇモン用意すんな!センセーんちは色々珍しいモンあんだ。島の外の食い物も!外国

の食い物も!もしかしたら、アンチャンが何か思い出せる食い物もあるかもな!」

「思い出せる…」

 ルディオは少し考えた。食べる事は好きだと思う。体が求める、空腹を満たす、そういった生理的な必要性を別にして、好

きな事だと考えられる。しかし、「何が好き」となると判らない。カムタが作ってくれた物はどれも美味しく感じられて、テ

シーが出してくれた料理も美味だと感じた。だが、「これが好き」という物が無い。肉も野菜も魚介類も穀物も全部ひっくる

めて美味と感じても「どこが特に好き」という、尖った部分が無い。

(おれは元々、何でも好きだったのかなぁ…?)

「オラ倉庫で食い物探してくる!何作っかなぁ!あ、アンチャン留守番頼むな?」

 カムタに頷いたルディオはリビングで待機する事に決めた。食材を見繕っている間にヤンから手伝いを求める声がかかって

も困るので。そして、少年が廊下に出て行って独りになると、室内を見回し、CDプレーヤーに目を止める。

「…プライマルアクター…」

 呟いたルディオは、その単語に奇妙な感覚を抱いた。

 懐かしい、とは感じない。ただ、間違いなく聞いた事があると思う。それはたぶん、あの「狼が居る部屋」で…。

 プレーヤーに歩み寄ったルディオは、傍のラックに並べられたCDのケースに手を伸ばし、試しに一枚だけ抜いてジャケッ

トの表面を見た。

「!?」

 きょとんと、真ん丸く、大きく開かれたトルマリンの瞳に、狼の顔が映り込んだ。

 切れ長の目は思慮深そうでありながら、何処か物憂げでもある。

 筋肉質な肢体はレザージャケットとパンツに覆われ、黒光りする衣装と薄い灰色の被毛が、鮮烈なコントラストを目に焼き

付ける。

 ギター、ドラム、ベース、それぞれの楽器を鳴らすバンドメンバーの中央で、マイクスタンドを掴んだ狼は、鉄のような瞳

を、じっとルディオに向けていた。

「プライマルアクター…」

 ジャケットに記されたバンドの名を読み上げたルディオは、それをそっと戻し、アーティスト名が同じ他のCDも取り出し

て確認してみた。

 中には被写体が車だったり、風景画になっているジャケットもあったが、それ以外の、バンドメンバーの写真が使用されて

いる物では、いずれも見覚えのある狼が中心に居る。

 ルディオはケースを開け、歌詞カードを取り出し、そこに表記されたメンバー紹介とコメントを見つめる。

「「ハウル・ダスティワーカー」…」

 ボーカルの狼の名を読み上げた途端に、詳細が頭に浮かんだ。

 ハウル・ダスティーワーカー、英国人。

 世界的に有名なロックバンド「プライマルアクター」でボーカルを務めた男。

 ライブの控室から忽然と姿を消し、以後現在に至るまで行方不明…。

「アンタは…」

 セントバーナードは、ジャケットの中の狼に話しかけた。

「アンタは…、「アンタ」なのか…?」

 名も判らない、あの白い部屋の狼と、ハウル・ダスティワーカーという名の男は、外見が酷似している。

 しばし写真に見入った後、ルディオはプレーヤーに目を向け、おずおずと再生ボタンに触れた。

 流れ出したのは重低音のロック。攻撃的なハイテンポのドラムに、地を這うようなベースが絡み付いて搾り上げ、それらを

引き裂くようにギターが叫ぶ。

 まるで、折り合いのつかない自己主張を声高にぶつけ合うような不協和音は、しかしズレを次第に狭め、やがて一塊のうね

りに変わった。

 そこへ、声が放り込まれた。

「あ…」

 ルディオはポカンと口を開けた。

 聞こえてきた声は、うねりに跨る声は、心揺さぶる声は…。

「あの…声だ…」





「民家に運び込まれた?リスキーも、ステルスホッパーもか?」

 パーターの報告を受けたショーンは、よく判らない状況になってきたぞと、うろうろ歩きながら思索を巡らせ始めた。

「フェスターが手配しておいた地元の協力者、か?子供まで混じっているのは不自然だが…。新型の死骸とリスキーを運んで

行ったという事は…」

 少しばかり計算が狂ってきたかもしれない。そう考えたショーンは足元の小石を苛立たしげに蹴飛ばす。

 報告を終えた後、余計な口を挟まない方が良いかもしれないと思ったパーターだったが、ショーンの一挙手一投足にヒヤヒ

ヤさせられながらも口を開いた。

「それが…、協力者という風でもありませんでした。リスキーの手当てをするかどうかで簡単に話し合っていましたし、セン

トバーナードは一度リスキーを殺そうとして、子供に制止されていたので…」

「ふぅん…」

 ショーンはギロリと、落ち窪んだ目でパーターを見遣った。

「なるほど、そいつは面白い情報だな…」

 機嫌を損ねずに済んだとホッとしたパーターを余所に、ショーンはうろうろと歩き回りながら呟き続ける。

「問題は、そのセントバーナードだ。ステルスホッパーはかなり上等な商品だぞ?それを身体能力で圧倒し、素手で仕留めた。

ONCのブーステッドマンでもそんな芸当は不可能だ。あのリスキーでもトキシンが必須なんだぞ?それを…」

 やがてショーンは、「そうか。そうだったら面白い…」と、悪意が満面を染める笑みを浮かべた。

「そのセントバーナードの事は、フェスターも知らないんじゃあないか?いやきっとそうだ。生真面目なアイツがそんなヤツ

の事を上に報告しないはずがない。傍受した中ではそんな事に一切触れていなかった。さて?それでそのセントバーナードは

一体何者だ?島の住民?こんな秘匿事項後進国だ、どこの政府も押さえていない能力者が居たって不思議じゃあない。それと

も何処かの国の機関に属する者か?しかしさてさてこれはどうかな?何処も見向きもしない海域と踏んでこの諸島近辺をルー

トにしているんだ、何処かの政府が派遣した調査員とも思えない。あるいは他の組織の構成員か?なるほどそれはありそうだ。

脱走して潜伏するにはうってつけの田舎だからな。つまり…」

 ショーンはヒュッヒュッと楽しげに笑う。

「ソイツは非合法な存在だ。しかも我々の技術水準を上回るブーステッドマン…!もし同じような者が作れるようになれば、

見た目がグロいインセクトフォームなぞ作らなくていい!それよりも高性能なブーステッドマンを派遣する…、ONCの事業

に革新が訪れる!…いや。いやいや待て違うぞ?もしもそんなブーステッドマンを量産できるようになったら、そんな小さな

事で終わらない…」

 ショーンは言った。「世界だ」と。

「世界が獲れる!インセクトフォームを圧倒する戦闘力を備えた戦闘員!どんな国でもひとが入り込む事を完全に防ぐのは不

可能だ!暗殺!テロ!ゲリラ戦!取れる手はいくらでもある!どんな国の頭も叩き潰せるじゃあないか!」

 確かに、獣と同様の戦闘力を有する者を数千単位で用意できれば、ショーンが言う事も不可能ではない。

 しかし、その生産コストや、爆弾代わりに使用されるブーステッドマン自身がどんな考えを持つか、そしてそういった攻撃

を仕掛けられた側がどんな対応をするかという事まで、ショーンは考えていない。

 その点が自分とフェスターの差である事に、ショーンは気付いていない。

「よし!そのセントバーナードを捕らえよう!他に居るのは肥り過ぎの虎に田舎の子供、それに瀕死のリスキーだ。簡単な事

じゃあないか?」

「え!?」

 流石にこれには声を挟んだパーターへ、ショーンは笑いかける。自分の頭を指差して。

「ココを使え。セントバーナードは子供の言う事を聞いた訳だな?それでリスキーへの攻撃をやめたわけだ?どういう関係か

知らないが、他人じゃあない。居合わせた面子の中でひとりだけ子供というのも不思議だが、こう考えれば辻褄はあう。…そ

の子供は、セントバーナードの弟か、それに近い血縁者だ。人質には最適な存在じゃあないか?ええ?」

 ショーンは言葉を切り、丁度三度目の競争から戻ってきた、先頭の男達を見遣った。

「グズ共がやっと帰ってきたな。集まるのを待って、ビリになったヤツを処刑したら、行動に移る。…そうだな、そろそろマ

ンティスを送らせるか…」

 携帯を取り出したショーンは、早口で通話相手に告げた。

 こうして、島に新たな危険が持ち込まれる…。