Negotiation

(これでもう、命の心配はないな…)

 寝台へうつ伏せに寝かせたアジア系の男を傍らから見下ろして、肥えた虎はため息をつき、腕でぐいっと額の汗を拭った。

 リスキーが背に負った裂傷は縫合され、胴は包帯でグルグル巻きになっている。

 この諸島は気温が高いので雑菌の繁殖に気を付けなければならず、感染症なども含めて異常が出ないよう経過観察は怠れな

いが、ひとまず失血による死や重篤化は免れており、傷口自体も鋭利な爪による物なので比較的綺麗。予後良好と判断できた。

「貴方はシバの女王と、カムタ君にも感謝しなければいけないな」

 ひとりごちたヤンは、包帯で覆われたリスキーの背中…肩甲骨の辺りに目を止めた。

 包帯の清潔な白に覆われて見えないが、そこには銃創が二つある。肩甲骨に当たって弾が止まり、命拾いしたようだが、当

たり所が少しずれればどうなっていたか…。危険な人生を送っている事が容易に察せられる傷跡だった。

 手当て中に気付いた傷は、薄く線が見える裂傷の縫合痕や、火傷が癒えた後に残る微かな変色など、他にもある。自分が飼

われていた人身売買組織とは違う、武闘派組織の構成員なのだろう。そう考えながら、ヤンは傍のパイプ椅子に尻を乗せて軋

ませる。処置が終わった事をカムタとルディオに告げなければならないのだが、背中も足の裏も張っている。施術後の疲労が

一時の休息を促した。

(カムタ君は、チャイニーズだと聞いたんだったな…)

 ヤンはペットボトルを掴み、封を開けてミネラルウォーターをグビッと飲み下した。うつ伏せに寝せたリスキーは、目を閉

じた顔を医師に向けている。

 見覚えのない顔に名前。知らない男だと、ヤンは記憶を手繰りながら考える。少なくともこれまでに自分とは接点がなかっ

た人物…。

 そう思うのに、何度も過去を振り返って接点を探してしまう。それが何故なのか自分でも判らない。

(…案外、僕と同じで黒孩子だったりしてな…。行き場が無くて非合法組織に飼われる事になったのかも…)

 だとしたら、組織に飼われていた頃に、取引相手側の中に居たこの男とすれ違う程度の事はあったのかもしれない。不意に

湧いてきた共感と同情を、しかしヤンはかぶりを振って追い払った。

 実際にそうだと判った訳でもないのに、根拠に乏しい想像から妙な親近感を抱くのは危険である。ただでさえ根が優しいヤ

ンは、そうして気持ちを理性的に整理し、ストッパーをかける事で、客観性と冷静さを保ってきた。

 組織に飼われていた頃は、そうでもしなければ、患者に感情移入し過ぎて間違いを起こしかねなかった。商品として売られ

てゆく事が決まっている相手に同情し、逃がしてやろうと思った事は二度や三度ではない。そして、実行に移した一回は、逃

がした相手は悲劇的な結末を迎え、ヤン自身も手痛い制裁を受けた。

 その制裁の痕跡は、今も背中に残っている。丁度今のリスキーと同じように…。

(そう、油断なく接しないといけないぞ。失敗して害を被るのは僕だけじゃない。カムタ君の身にも危険が…)

 自分に言い聞かせるヤンは、しかし思索を中断せざるを得なかった。考え事をしながらじっと見つめていたリスキーの顔で、

両目が唐突にパチッと開いたので。

 驚いたヤンはカコンと顎を落とし、口を大きく開けた。

(起きるまでまだまだかかるはずが…、麻酔の量を見誤ったのか?ええい、落ち着いているつもりで、そうでもなかったか…)

 リスキーが改造によって麻酔やアルコールに耐性を得ている事までは、流石に予備知識なしでは把握も予想もできない。ヤ

ンは自分の失敗と判断し、「気分はどうだ?」とリスキーに話しかけた。

「麻酔はかけていたんだが、効きが悪かったかもしれない。傷は痛むか?」

 まず気がかりだった鎮痛作用について尋ねたヤンは、意識がはっきりしていないかもしれないと思い直し、指を全部立てた

右手をリスキーの顔の前に翳して問いかけた。

「この手はどう見える?」

「バナナの房に見えますね…」

 リスキーは覚醒してゆく意識の中で、状況把握に努めながら応じた。痛みの信号に掻き消されそうな五体の感覚は頼りない

が、自分が生きている事は判る。

「結構。軽口が叩ければ上々だ」

 ムスッとして太い指を畳んだヤンは、リスキーの意識が割としっかりしているので「痛むなら鎮痛剤を使うが?」と訊ねる。

「要りません」

「そうか。金は取らないから、必要なら遠慮なく催促してくれ」

「そうさせて頂きます」

 応じるリスキーは傷の痛みを堪え、顔に出さないようにしている。麻酔が効かない事を隠しておけば、いざという時に隙を

ついて動ける。伏せ札は多い方がいい。

 とはいえ、今更口封じをする気にもなれない。そもそもあのセントバーナードには、万全の状態ですら勝てそうもないので、

実行不可能というのが実情。不意をつくのは殺すためではなく、自分が逃げるためである。

(彼らは、我々が把握していなかったこの近辺の組織の構成員なのか…?それとも、政府側の狩人にあたる存在なのか…?い

ずれにせよ、上手く逃げられたとして、知ってしまった彼らの事を、フェスターにどう報告すればいいか…)

 そんな事を考えているリスキーは、傷を負って疲弊しきった体が呼び込む、強い眠気に抗っていたが、

「僕はヤン・チータン」

 ヤンに名乗られたその瞬間に、雷にでも打たれたような衝撃を受けた。

 眠気が跡形もなく吹き飛び、意識は完全に覚醒し、五感が研ぎ澄まされる。臨戦態勢と同じ、危機に向き合う時と同じ、脳

内麻薬が一時的に、体に備えを強いる…。それほどのショックをリスキーは受けていた。

「母国の言葉で驚いたか?無理もない。こんな南の島の医者が、自分と同じチャイニーズだなどと、思いもしなかっただろう」

 リスキーが隠しきれず、表情に出てしまった驚きをそう解釈して、ヤンは先を続ける。

「まずは、貴方をどうこうしようという気はないので、安心して傷を癒してくれ。カムタ君…貴方を助けるように言ったあの

少年も、ルディオさんも、僕も、危害を加えたりはしない。なにぶん、こちらも状況が判らないので質問は山ほどあるが…、

それも、元気が出てからでいい」

 ヤンは誤解していた。リスキーは何も、母国語で話しかけられ、同じ国の出身者と知って驚いていた訳ではない。

 楊吉丹。

 それは、リスキーが親から貰った名。

 そして、自ら手放し、弟に譲った名。

 リスキーはヤンの顔を凝視する。信じられない、とその顔が語っていた。

「そんなに驚くなら、落ち着くまで伏せていた方が良かったか…。興奮すると傷にさわる。落ち着いて、まず眠る事だ」

 事務的に響くヤンの口調と太い声には、記憶にある変声期前の声との共通点は全く無かった。

(そんなはずはない…!)

 体型も全く違う。骨太で背が高かったが、無駄肉のない体つきで、この肥えた虎とは輪郭からして違っていた。

(こんな所に居るわけがない…!)

 いつも大人しげで優しげな表情を浮かべていた顔は、頬が膨れた肥満虎の、油断のない厳しい顔とは違っていた。

(アイツは故郷で医者をやると…!)

 だが…。

「痛むか?正直、傷は浅い物ではなかった。苦しかったら遠慮するな」

 自分に向ける警戒の眼差しの中に混じった、気遣うような光に、少し下ろした瞼が作る思慮深げな細い目に、リスキーは懐

かしさを覚える。

 それこそが、リスキーがはっきりとは捉えられなかった、それでもなおギリギリの局面で彼らを護るために体を動かした、

反射的な自己犠牲行動の動機…。

(喜和(シーホウ)…なのか…!?)

 リスキーは悟った。目の前の、記憶にある姿とは似ても似つかない肥えた虎は、自分の弟なのだと。

(恰幅がよくなったという意味では、立派になったと言えなくもないし、食事に不自由していないどころか、栄養が過剰に摂

れている様子…。不健康に見える体型でも、一応医者なのだろうから気は配っているはず…。それに、肥満体とはいえ見慣れ

れば貫録と言えなくもな………いや待て、落ち着け私…!)

 そしてその心は、驚愕の他にもうひとつ、別の物に埋められていた。

 それは、疑問。

 自分が譲り渡した戸籍を得て、学校に入り、故郷で医院を開くはずだった弟が、何故この遠く離れた島で医師をしているの

か?どうしてこんな危険な事に首を突っ込む羽目になっているのか?

 だが、問う事はできなかった。名乗る事はできなかった。

 自分はもう、弟に誇れるような男ではない。あの頃慕われていた兄では、もう居られない。

 仕事で殺した人数は、善人も悪人も区別なく両手両足の指より多い。ゲスな仕事に携わる、一生日陰を歩むのがお似合いの

クズに他ならない。しかも、もはや肉体的にもまっとうな人間ではなく、秘匿技術由来の改造を施されたブーステッドマン…。

 だから、真実を告げる事はできなかった。

 幸いにも、ONCでコードネームを与えられた際に顔を整形しており、声も故郷に居た少年時代から随分変わり、その辺り

から気付かれる恐れは少ない。それでもリスキーは念のために英語で語りかけた。

「薬は要りませんが、別のお願いが…。できれば英語で話してください。私は香港生まれでしてね…、育ちと仕事の関係で英

語と広東語はできますが、北京語は得意でないもので…」

 故郷の言葉を使えば、言い回しや癖などが出てバレる危険性がある。そう考えての嘘だった。

「判った、そうしよう。他に要望は?」

「休息は必要ありません。私を助けた理由と、そちらの組織の要望をお伺いしましょう」

 リスキーがしっかりした声と口調でそう言うと、ヤンは少なからず感心した。相当修羅場を経験して来たのか、肝がすわっ

ている、と。

「要望は…、そうだな。こっちも話し合って纏めなければならないが…。助けた理由については、本人に確認するまでもない

だろうし、代理で答えておこう」

 ヤンはコホンと咳払いすると…。

「「助かったんだから別にいいじゃねぇか」」

「…はい?」

 リスキーは、誰かの口調を真似たようなヤンの言葉で、目をしばたかせた。

「そんな所だ、ほぼ確実に。特別な理由なんかない。きっと「助かるなら助けてやった方がいい」ぐらいにしか思っていない

んだ。あの子の事だから…」

 肩を竦めた虎は、「それと」と付け加えた。

「僕らは、貴方が勘ぐっているような非合法組織の構成員じゃあない。カムタ君も僕も民間人だ。…まあ、僕の方は以前非合

法な組織に飼われていたから、純粋に一般人とも言えないんだが…。とにかく、早速ふたりを呼んで来よう」

 ヤンはそう言って腰を上げる。その、いかにも贅肉が過多で動き難そうに立ち上がった虎を見送り、リスキーはため息を漏

らした。

(一体、お前に何があったんだシーホウ…?そんなに丸々太ってしまって…。あの頃の面影が全くない…)

 しかし、現在のヤンの状況や、今に至るまでの過程は気にはなるものの、弟の事を詮索するのは後回しにする。

 リスキーは急いでいた。駆け引きも考慮せず、要求を言うよう率直に促したのはそのせいである。

(通信端末は…、あそこか…)

 リスキーの端末やベルトなど、手当の際に邪魔になる物は全て外され、部屋の隅にあるプラスチックの脱衣籠に放り込まれ

ている。通信端末は新型との遭遇に備えて電源を落としたきりになっていた。

(長時間連絡がつかなかった事で、異常を察しただろう。私と連絡が取れなくなっている事は、既にフェスターの耳に入って

いると見て間違いない。急いで彼らと取引し、穏便に済ませる落としどころを見つけなくては……)

 リスキーからはもう、任務に従い口封じをする気も、上へ正直に報告する気も、完全に失せていた。可能だったとしてもも

う心情的にできなくなった。自分の人生を丸ごと譲ってでも守りたかった弟を、今更犠牲にできるはずもない。

(運命の女神は、相当な性悪なのかもしれない…)

 弟との再会は、喜ばしいと言っていられない状況下での事。大人になったと成長を喜んでもいられない。

 リスキーの口から、力なくため息が漏れた。



「…カムタ君?食事の支度までしてくれていたのか?」

 リビングに入ったヤンは、少年が茹でたパスタとカルボナーラソースの香りに鼻をひくつかせた。

 部屋にはロックが流れており、セントバーナードがCDプレーヤーに齧りついている。

「センセー!手当て終わったのか!?ダイジョブだったか!?」

 腕で額の汗を拭ったカムタは、振り返って顔を輝かせる。

「ああ。それで、だ。彼が交渉を求めているんだが…、皆で話す方が良いだろう」

「あ、じゃあ一回止めるな」

 電気コンロを止めたカムタは、茹で終わったパスタをザルに移し、手早く作業を中断させる。

 一方ヤンは、CDプレーヤーを止めるルディオに「ロックが好きなのか?」と少しばかり興味を持って訊ねた。

「知っているような気がして、借りていた」

「そう…」

 そうか。と普通の返事をしそうになってから、ヤンは気付く。それまでは特に気にしていなかったカムタも、同時にハッと

顔色を変えていた。

「「知っている気がする」!?」

「それ、アンチャンが前に聴いた事がある歌だったのか!?」

 記憶の手掛かりになる、と詰め寄ったふたりに、

「わからない。ただ…」

 セントバーナードはいつもの顔と口調で…。

「今は、怪我人が待ってるなぁ」

『あ…』

 カムタとヤンは声を揃え、ドアを見遣った。

「おれの事は、後でもいいからなぁ」

 重要な事ではあるものの、ルディオ本人がこう言うのだから、カムタもヤンも一旦これを後回しにした。

「で、コーショーって?」

 尋ねるカムタに、ヤンは「話の落とし所について、の話し合いだな」と顎を引く。

「僕達の方から見れば、彼を殺すなり監禁するなりして、事件を隠ぺいして解決するという選択肢はない。一方で彼は、生物

兵器の処分なり捕獲なりが仕事なんだろう。目撃者である僕らは、彼からすれば口封じすべき対象なんだろうが、こっちには

命を助けてやった貸しがある。そういった恩義に重きを置かない男かもしれないが…」

 ヤンはそう言いながらも、それはないな、と思った。

 リスキーは自分を庇って重傷を負った。日陰に生きる男ではあるだろうが、ひとの情を持たない者ではない気がする。非合

法組織に属する犯罪者ではあるだろうが、根っからの悪党とも、思慮分別のない悪漢とも思えない。

 咄嗟の行動にこそ、魂の色が出るものだから。

「とにかく、今現在、彼の身の安全はこちらの手の内だ。主導権は僕達にある。なんなら…」

 ヤンはニヤリと、意地悪い笑みを作って冗談めかす。

「「言う事をきかないと高額な治療費を請求するぞ?」と脅すのもアリかもしれないな」

 これに対してカムタは、

「「言う事きかねぇと注射すんぞ?」って言った方がおっかねぇぞ?」

 真顔で真面目に応じた。



「さて、手短にこちらの要望を伝えると…」

 四人集まった病室で、ヤンはそう交渉の口火を切った。

 ベッドへ俯せに寝ているリスキーの視界に入るよう、正面にヤンが、その右隣にカムタがそれぞれ椅子に座り、ルディオは

病室の出入口脇で壁に寄りかかって立つ。

 このポジションはヤンの発案で、リスキーが何らかの手段で助けを呼んでいた場合に、危機察知能力の高そうなルディオに

いち早く感知して貰うための物であり、用心棒然とした立ち位置にする事でリスキーを威嚇するための物でもある。同時に、

万が一リスキーが襲い掛かったとしても、ヤンはカムタを突き飛ばせるよう、自分の利き手側に座らせている。

 個人的にリスキーを信用できそうな気はしていても、根拠のない主観を盲信して警戒を怠るような真似はしない。知識や話

術の面だけでなく、カムタの安全への責任感と用心深さの点で、ヤンは交渉役にうってつけだった。

「まず一つ目。僕達とこの島には今後干渉しない事。口封じされてはかなわない」

 肥えた虎はバナナの房とリスキーに揶揄された手をこれ見よがしに突き出し、立てた五本の指から、親指をまず畳んだ。

「二つ目。生物兵器…、あの死骸を持って帰る事」

 人差し指が折られ、リスキーは無言で頷く。これは任務なので言われなくともそうするつもりである。

「三つ目。僕達の事は他言無用。今夜の事も、その前の事も、この島で起きた一連の事件で、こちらが関わった可能性がある

全てについて、一切口外しない事」

 中指が畳まれ、つられた薬指が半分折れてプルプルする手を苦心して保ちながら、ヤンは言う。

「そして四つ目。治療中は僕の言う事をきく。薬が苦かろうか注射が痛かろうが拒否しない事。これは絶対だ」

 念を押す医師は、前に挙げられた三件同様の真顔だった。

「五つ目…。僕達の質問に可能な限り答える事」

 指を全て握り込んで拳にした虎に、リスキーは「可能な範囲でのみ」と頷いた。四つ目以外は想定していたのとほぼ同じ要

求である。無茶を言われなくて良かった、とホッとしたリスキーだったが…、

「そして、六つ目」

 ヤンがしれっと人差し指を立て、目を剥かされた。平手を翳されたからと言って、要求が五つだけとは限らない。

「カムタ君とルディオさんに礼を言う事。ふたりが要望しなければ、僕は君の治療をしなかっただろう」

「………」

 リスキーは少し黙ってから…。

「有り難うございます。坊ちゃん。旦那さん」

 口にされた礼に、カムタは照れ笑いして髪に指を突っ込み、ガシガシと掻いた。

「礼なんていいよ。助かってよかったな、アンタ!」

 笑顔の少年には、リスキーへの不信も敵意もない。

 たぶんそんなに悪いヤツではない。だから助かった方がいい。

 そんな、単純で透明で打算のない笑顔は、リスキーの目には眩しく映った。

「おれは、アンタを運んだだけだなぁ。先生にお願いしたのもカムタだったし、手当てをしたのは先生だ」

 ぼんやり顔のセントバーナードは、カムタに続く形でそう応じて、

「助かってよかった。アンタは先生とカムタを庇ってくれたんだろう?それなら、助からないと何だか残念だ」

 そんな事を言ってから、「元気が出たら、飯を食おうなぁ。カムタが作ってくれる」と付け加えた。こちらも敵意も悪意も

全く持っておらず、リスキーが助かった事を喜んでいるように、フサフサの尻尾をゆったり揺らしている。

 あの表情のない、琥珀色の瞳の時とは別人のような気安さ…。リスキーは疑問を心にとどめ置く。

 このやり取りを見ながら、満足げに顎を引いたヤンは…、

「…それに先生も。有り難うございます」

 リスキーに付け加えられて、ピクンと耳を立てた。

「実際に治療をしてくれたのは貴方ですから」

 意外そうな顔をした虎は、リスキーに笑いかけられると、居心地悪そうに縞々の尻尾をのたくらせた。

「とりあえず、今のが要求その六、ですね。遡って要求その一からお答えしますが…」

 リスキーは傷の痛みに耐えながら、一つ目の要求から順に答え始める。

「貴方達とこの島には今後干渉しない…、これは私としても望むところです。そして要求の二つ目…、これも同様です。私が

仕留めた事にして死骸を回収してゆきます」

「結構」

 頷いたヤンの横で、カムタが「やった!」と手を叩いた。

「じゃあ、喧嘩とかしなくていいんだな!もう誰も死なねぇな!」

 手放しに喜ぶ少年に、ヤンだけでなくリスキーも、そう願いたいと心底思った。

「三つ目も了解です。上に知られれば私の無能さを罵られますからね。上手く嘘をついて、評価に繋げますよ。そして四つ目、

これも当然従います。私だって命は惜しい」

 命が惜しいと言うのはどうだかな?と思いはしたが、ヤンはあえて口に出さないでおいた。リスキーが危険を冒して自分達

を護った事については、未だに納得のいく理由が思い浮かばない。

「五つ目…、質問に答えろ、という件ですが、可能な範囲内でお答えします。何せ下っ端なもので、知らない点も多いですか

らご了承ください」

「結構。下っ端を理由に知らないふりをする事もあるだろうと見越した上で、ほんの少しでも情報が欲しいと言うのがこっち

の本音だ」

 お前の本心は見抜いているぞ、と釘をさすヤンの返答で、リスキーは内心舌を出した。このタヌキめ、と。

(食えない男になったなシーホウ…)

 リスキーは、毀れそうになる笑みを何とか封じ込む。

(こんなにしたたかになって…。兄さん、ちょっと安心したぞ…!)

 リスキーがブラコン気味に感動を噛み締めている事など知る由もなく、ヤンは続けた。

「早速だが、質問…というかまず念のために確認だ。この…ルディオさん」

 ヤンはセントバーナードに顔を向け、それから横目でリスキーを窺う。

「そっちの関係者や知り合い、…という事は無いな?」

「…?質問の意味が判りませんが…?」

 眉根を寄せるリスキー。失血で頭と耳が働いていないのかと、まず自分を疑った。

「違うならいいんだが…」

「アンチャン、キオクソーシツなんだ」

「はい?」

 ヤンの後を引き取ってカムタが言い、リスキーは、他人事のように「そうなんだ」と頷いているセントバーナードを見遣る。

「ルディオさんは、嵐が明けた一昨日の朝に、この島へ流れ着いていた。見て理解しただろうが、確実に一般人ではない。本

人も思い出せないし、身元の手がかりもないので、アンタ達の関係者か、知っているか、何処かで関わりがあったか、話でも

聞いていないか…、という事を確認したかった」

「なるほど…。むしろどこかの国家に属している秘匿事項関係者か、よその組織の構成員ではないかと考えていたんですが…」

 リスキーは呻く。はっきり言って、「わからない」というのが本音だった。

「こちらの構成員ではありません。私が知らない関係者という可能性はゼロではありませんが、低いでしょう。まず、こちら

の技術ではあれだけの力を持つブーステッドマンを産み出すのは不可能です。そんな事ができるなら虫人型兵器なんて主力商

品にしていません。ヒトの姿をしている方がよっぽど使い道がありますからね。それに…」

 リスキーから根拠として挙げられたいくつかの理由は、ヤンも納得できる物だった。それ以上に説得力がありそうな「リス

キーがルディオについて知らないふりをする」理由も思いつかない。この時点でルディオが彼らとは無関係だという事は確定

的となった。

「獣人の中には、いわゆるリミッターを意図的に外す事で運動能力を高められる者も居るそうですが、私が見た限りでは、そ

この旦那さんの動きや力はそれだけで説明がつく物ではありません。先生は、この手の事についてどの程度ご存じで?」

「聞き齧った程度で詳しくはないよ。インセクトフォーム…と言ったな、虫の危険生物をこの目で見たのも初めてだった」

「では細かい事は、必要であればまたお話しするとして…、端的に言えば「見当もつかない」…ですね。旦那さんが見せたよ

うな力…、あんな力を持つ者を人為的に産み出せる組織に心当たりがありません。…ただし、旦那さんは能力者ですから、人

為的な施術の効果ではなく「持ち前の何らかの能力」によって肉体が補助され、あの動きや力が発揮されている可能性も…」

「「能力者」?」

「ノーリョクシャ?」

 ヤンとカムタが同時に口を挟むと、リスキーは「え?」と眉根を寄せる。ルディオ本人も首を傾げていた。

「能力者…」

 発火、冷却などの何らかの現象を、機器などのサポートを受けずに引き起こす事が可能であるなど、常軌を逸した特殊な能

力を持つ者の総称。古くは聖人の奇跡などとして知られる物の大半も能力に分類されると考えられる。その原理については未

知の部分が大きい。

 と、知識が参照されたルディオだが、自分がその能力者だという実感がまるで無いので訝しげである。

「これもご存じなかった?しかし、旦那さんがインセクトフォームを追って跳躍し、翅をズタズタにするのは見たでしょう?

あれは何らかの能力の作用です」

 確認するリスキーに、ヤンとカムタは「いや、見たというか…」「ん~…」と言葉を濁す。

「ほとんど見えなかった」

「あんま見えなかった」

「物凄い速さで、手でむしったのだと思っていた」

「オラもだ」

「能力…というのはつまり超能力か?サイコキネシスのような…」

「エスパーのか!オラしってるぞ、スプーン曲がるヤツだな!?」

「………えぇと…」

 リスキーはルディオに目を向け…。

「わからない」

 相変わらずのセントバーナード。

「アンチャンは、意識飛んでる時の事は自分でもわかんねぇからな」

「瞳が琥珀色に変わる症状も含めて、ルディオさんはとにかく謎だらけだ」

「だな」

(ほ、本当に何も知らない…というか、価値に気付いていないのかこの三人は…!?)

 驚きと呆れ半々のリスキー。言うなれば、そうと知らずに最先端技術満載の超兵器を拾ったような物なのだが、カムタもヤ

ンもその意味と価値について全く理解していない。その超兵器であるルディオ本人も自身の過去を思い出せないので、宙ぶら

りんのフリーという状態。

(おそらくは大気か風圧のコントロールか…。いや、音波や衝撃波の能力という可能性も高い…)

 獣がステルスホッパーの翅を破砕した際、目では何も見えなかった事、耳に異音が届いていた事から、後者…音波を放射す

るか大気を震動させる能力ではないかと、リスキーは推測した。いずれも基本的に不可視で、痕跡と呼べる物は破壊跡その物

しか残らない、暗殺にうってつけの能力とされている。

(インセクトフォームを上回る身体性能に、肉眼で見えない能力…。どんな組織も抱き込むか研究するかしたい、垂涎の存在

だぞ…)

 フェスターに報告すれば、手強さを考慮したうえで穏便に懐柔を試みるだろう。リスキーも、弟を巻き添えにしたくないと

いう個人的事情がなければ、好待遇を約束して懐柔案を提示したかもしれない。

「と、とりあえず…、能力の事も含め、質問をどうぞ…」

 その後は、リスキーがヤンの質問に答えるのと並行し、情報交換が進行した。

 何せヤンの方には隠すべき事が何も無いどころか、現状を理解して貰った上で、カムタに不利益がなるべく出ない形で終わ

る事を望んでいるため、情報提供には積極的。事態を穏便に終息させる事を期待しているので、リスキーは知りたかった情報

をほぼ全て手に入れる事ができた。

 唯一はっきり判らなかったのは、目撃者が無かった最初の殺人だったが、これはカムタによる、男に銃を向けられた時の説

明と、自分達が確認したその後の状況から、意識が無い状態のルディオによって排除された物だとリスキーは断定する。ただ

し、あえて言うまでもないと感じたので、死体になっていた事は黙っておいた。ルディオ側も自分側も、このまま新型に殺さ

れたという事にしておいて問題ない。蒸し返しても誰も得をしないと思えたので。

 リスキーが最も気になったのは、ルディオが夢遊病か二重人格のような症状を見せ、目の色が琥珀色に変じると意識が飛び、

生物兵器を圧倒する戦いを見せるという点だった。

(本人の意思に関係なく、危険を察知して目の色が変わり、駆除をおこなう…?どういう事だ?戦闘用に人格を改造されたり、

任務に適したゲスの精神を根付かせるための教育を施したりといった事は珍しくないが…。二重人格じみた症状になる?訓練

やら教育やらで、精神に異常をきたした…とでもいうのか?何とも奇妙だな…)

 いろいろ考えるが推測の域を出ない。リスキーも構成員としての教育を受けたが、人格が分裂するようなケースは見た事も

聞いた事も無かった。ただし、完全に壊れるのは何度も見たが…。

「じゃあ、さっきの虫で最後なんだな?セーブツヘーキは」

「ええ。全部で三体…、これで全てが片付きました」

 カムタはリスキーが伝えた情報で、ホッと胸を撫で下ろした。

「で、次に確認したい事だが…」

 ヤンは続けようとして言葉を切った。リスキーの顔に脂汗が浮いている事に気付いて。

「今はこのぐらいにしておこう。少し休むべきだ」

 立ち上がった虎はリスキーの顔をタオルで拭うと、カムタとルディオをリビングへ戻した。

 そうしてふたりきりになると、「協力的で助かる」と言ったヤンに、

「私も、なるべく面倒は避けたいので…」

 リスキーは目を合わせないようにして応じた。

「先生のご家族は?お郷ですか?」

「休んだ方がいいと言うのに…。両親は他界した。兄がひとり居る」

 ああ…。とリスキーは胸の内で呻く。

 ヤンは「居た」とは言わず、「居る」と言った。過去形ではなかった。

 やめた方がいいと思いながら、それでもリスキーは問いを重ねる。

「お兄さんは、どんな方で?」

「…身内の贔屓目かもしれないが、強くて格好いいひとだ」

 話は終わりだと、踵を返す事で告げたヤンの背を見送りながら、リスキーは目を伏せた。

(ますます、名乗るわけにはいかないな…)



「ちょっと硬くなっちまった」

 パスタを皿に盛り分けたカムタから、ルディオが受け取ってテーブルに運ぶ。尻尾がふさふさ揺れている巨漢は相変わらず

で、緊迫も落胆もしていない。

 まっとうなヒトではない、と確定し、結局リスキー達とも無関係で、手掛かりは得られなかった訳だが、気にしている様子

は全くなかった。というのも…。

「探る糸が完全になくなった訳じゃない。記憶を失う前のルディオさんは、プライマルアクターが好きだった。…あるいはロッ

ク好きだった、という可能性が出てきた。貴重な手がかりだな」

 テーブルについたヤンが言うとおり、過去を探るとっかかりは見つかった。

「とはいえ、プライマルアクターのファンは世界中にゴマンと居る。そのまま母国は特定できない。曲をいろいろ聴いてみた

り、プライマルアクターに関係する情報を読み込んでみたり、気の長い作業が必要になるな」

「センセーもファンなのか?そのプレミアスター?」

「プライマルアクターだよ。まぁ…、好きだな。とにかくその…、格好いい」

 説明になっているようななっていないようなヤンの発言。カムタは「へぇ~」と返事をしながら、リスキー用の粥を盛って

いる。

「ああ、カムタ君。今は彼に食事させないでおく。点滴をしているから心配ないし、麻酔で本調子じゃあない。落ち着いてか

ら持って行こう」

「わかった。んじゃ冷ましてからレーゾーコ入れとくな」

 異常な事態に遭遇していたものの、ようやく人心地つける。ヤンもカムタも気が緩み、ようやくリラックスできてきた。

(アンチャンの事はわかんねぇまんまだけど、セーブツヘーキの方は終わりだ。これからは音楽手掛かりにして、キオクソー

シツの方なんとかしなきゃいけねぇな)

 やっと本腰を入れてルディオの事に取り掛かれる。そう考えながら粥を盛った皿を、キッチンの端へ移動させたカムタは、

「………」

 キッチン端の小窓から外を見て、固まった。

 そこに、複眼があった。

 キンッ、と音がしたかと思えば、ガラスが割られて、中へ腕が入り込む。

 その腕は鎌のような形をしており、カムタが反応する前に少年の下腹部へ伸びた。

「なんだおま…うわぁっ!?」

「カムタ君!?」

 ガラスが割られる音に気付いたヤンが見たのは、少年の腰の所でズボンに引っかけられた鎌…その先の細かな爪を備える指

と、窓から外へ引っ張り出されるカムタの姿。

「カムタ!」

 吠えるような声を発したルディオが、椅子をひっくり返して立ち上がり、キッチンへ突進した。が、巨体が災いし、少年が

引っ張り出された窓を抜けられない。窓枠に残るガラスの破片で怪我をする事も考えず、窓に身を捻じ込んだルディオが見た

のは、

「放せ!はな…、そっち崖だぞオイ!うわぁっ!?」

 暴れる少年を捕らえたまま崖の下…遥か下の海面へ飛び込む異形の姿。はっきりとは確認できなかったが、両腕が長い異様

な風体だった。

「ルディオさん!こっちから出るぞ!」

 外へ出て後を追おうとドアに走るヤンは、一瞬見た異形の腕を思い返す。それは、サイズこそ異様だったが、カマキリの物

に似ていた。

「生物兵器は全部片付いたんじゃなかったのか!?」

 リスキーに騙されたのかと、疑問が頭の隅をよぎるヤン。その手がウッドデッキに繋がるドアのノブを握り…。

「…え?」

 ガコン、と音がすると同時に、腹に熱さを覚えたヤンは、ゆっくりと視線を下げた。

 伸ばしてノブを握る、自分の腕。それと行き違いになるように、ドアから生えた鋭い刃物が、肥満虎の出っ腹に突き刺さっ

ていた。

「あ…、ぐ…!?」

 一瞬遅れてやってきた激痛で、膝が折れそうになったヤンは、よろめいて後退した。パタタッと床に赤い滴が落ちて、ヘソ

の脇に添えた手が、じわりと指の隙間から赤く染まってゆく。

 直後、ドアを突き抜けた鎌は素早く引っ込み、間髪入れずドアが十文字に切り裂かれた。

 耳障りな音を立てて、破断された木製ドアが落下する。その向こうに立つのは、アスリートのような体躯に、ブレード状の

両腕と逆三角形の頭部を備える異形…。

 ONCの生物兵器、カマキリの因子を持つインセクトフォーム、プレデターマンティス。

 ステルスホッパーには機動性や隠密性で及ばず、使い勝手の良さでは劣るが、純粋な白兵戦での格闘能力ではこちらが上。

対生物兵器戦を前提として産み出されたが故に、「プレデター」と名付けられた生物兵器である。

 窓から顔を抜いたルディオは、尻もちをついたヤンと、その眼前に立つプレデターマンティスに気付くなり、「先生!」と

声を上げて駆け込んだ。

 恐れはない。ただ、助けなければという意識だけで走り寄ったルディオから、しかしマンティスは素早く後方へ跳んで間合

いを取る。

 セントバーナードとの交戦は避けろ。マスターからはそう命じられていた。

 鮮やかに、迷いなく、闇の中へ跳んで崖下へ消える生物兵器。船の物と思しきエンジン音を聞いたルディオは、ヤンの傍ら

に屈んで背を支えながら、それが遠ざかっている事に気付く。

 崖下で待機していた船は、マンティス二体とカムタを拾うなり離脱に移っている。実に乱暴で迅速な略奪であった。

「か、カムタ君を…!」

 追え、と命じるヤンは、案じるルディオに「私は大丈夫…!」とやせ我慢しながら告げた。

 巨漢はそれでも一瞬の躊躇を見せたが、「早く!」と急かされると、猛然と外へ駆けだした。

 しかし時遅く、夜明け前の海へとエンジン音が去ってゆく。

 崖の縁まで出て目を凝らしたルディオは、小ぶりなモーターボートの姿を何とか視認すると、迷う事無く飛び降りた。

 巨体を飲み込んだ海面が高く水柱を上げ、着水の衝撃がルディオの全身を叩く。

 しかし、それ以上の事はできない。浮上しつつ犬かきで波と格闘し、後を追おうとするセントバーナードから、ボートのエ

ンジン音はあっという間に遠ざかり、程なく何も聞こえなくなった。

(カムタ…!)

 ボートを見失って立ち泳ぎするルディオ。いつもぼんやりしているセントバーナードの顔は、焦りの色を浮かべている。

 妙な話だが、ルディオは初めて「生きているインセクトフォーム」を見た。自身が二体屠りながら、意識がある状態で目に

したのは今回が初めてだった。

(危険を察知して意識が飛ぶんじゃなかったのか?なんでさっきは、おれに何も起きなかったんだ?)

 琥珀の目への変化は、危険そのものと遭遇していながら、今回は起こらなかった。